yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第3部第1話

 奈緒は怜菜にそっくりだ。

 友人のいない学生時代を、唯一といっていい親友の怜菜と過ごした麻季にはそう思えた。 

 別に外見だけじゃない。まだ幼いのに他人に対する態度がすごくソフトなところや、人の気持を優先して自分を抑えるところは、まるで人のいい玲菜そのものだった。

 そして一見、遠慮がちで儚げな様子に隠れてはいるけど、実は奈緒の芯は非常に強く、自分の考えを曲げない強い意志の力を持っている。

 幼稚園の先生からの連絡ノートを読んで、麻季は自分の考えを確信するようになった。

 鈴木先輩の実子ではあるけれど、彼の調子のいい優しさや、その場限りの人当たりの良さなんて奈緒には全く感じられない。

 奈緒は完全に怜菜似だったのだ。

 最初の頃は、麻季にとってそのことが嬉しかった。自分に裏切られてもなお、黙って身を引く道を選び、そして突然の死を遂げた親友の怜菜が、再び自分の前に姿を現してくれたように感じたのだ。

 心配する博人を説き伏せて奈緒を引き取った決心は正しかった。そう思うと麻季の生活には自然とやりがいと張りが戻ってきた。

 博人も多忙な仕事を無理にやりくりして、週末はなるべく家で過ごすように心がけていたようで、自然に夫婦の仲も改善されだした。

 自分の浮気から始まった家庭の危機が、ようやく収束しようとしていた。

 これも怜菜のおかげかもしれない。

 怜菜の遺児を引き取ることによって、麻季と博人は失っていた共通の目標を再び共有することができたのだ。

 奈緒の遠慮がちな態度は、父親の博人や麻季自身に対してさえ向けられていた。

 奈緒は物心がつく前から結城家に養子に入っていたし、奈緒が実子でないことは、まだ幼い本人には伝えていなかったので、両親にくらいは無邪気に自己主張してもいいはずだった。

 でも奈緒はそうしなかった。

 養子であることを知らないことを考慮すると、きっと奈緒は家族も含めて誰に対しても一歩引いて、相手の意向に従う態度を示すような性質を持っていたのだろう。

 その頃から、奈緒奈緒人によく懐いていたし、奈緒人も奈緒の面倒をよく見ていた。

 そのこと自体には不満がないどころか、麻季にとっても喜ばしいことですらあった。

 二人はいつも一緒に過ごしていた。

 その様子は微笑ましかったし、仕事から帰った博人もそんな様子を暖かく満足して見守っていた。それでも少しだけ困るようなこともあった。

 たとえば休日に家族で外出するとき、家族四人で一緒に遊んだり食事をしたりする場合は別に問題はないのだけど、博人と麻季が手分けして生活に必要なものを購入しようと、二手に分かれたりすると問題が発生した。

 博人に手を引かれた奈緒人と、麻季と手を繋いだ奈緒

 奈緒奈緒人の姿が視界にないことに気がつくと、火のついたように泣き出してしまう。

 奈緒人も泣きはしないまでも、博人の手を振り払い、奈緒の姿を求めて駆け出して行こうとした。

 そういう子どもたちに手を焼いた博人と麻季は、外出中に奈緒人と奈緒を引き離すことを諦めた。

 何か漠然とした不安を感じないでもなかったけど、それがどういうことなのか当時の麻季にはわからなかった。

 そして、奈緒人と奈緒の親密な関係は親にとっては、嬉しい悩みなのだと考えようとした。

 一見、理想的に育児や家事をこなしているように見えた麻季には、当時もっと気になることがあった。

 それは引き取った娘の名前だった。

 奈緒自身には何の罪もない。

 奈緒人と奈緒

 実の両親がそう名付けたのだとしたら、あまり趣味がいいとは言えないけど、まあ世間にないことでもないだろう。

 でも、その命名が博人に淡い想いを抱いていた怜菜が、黙って自分の娘に名付けたことが他人に知れたとしたら、世間体が悪いなんてものじゃない。

 仮に怜菜の子どもが男の子だとしたら、いったい彼女はその子に何と名付けたのだろう。まさか奈緒人だろうか。

 鈴木先輩と別れて一人で出産、育児をする道を選んだ怜菜は、離婚に際して自分の旦那に何も要求しなかったらしい。

 もちろん、麻季自身に対して慰謝料を請求することもなかった。

 怜菜は黙って自分の夫が自分の元に帰ってくるのを待ち続け、それが敵わないと判断すると、何一つ要求するでもなく一人で身を引いたのだ。

 当時、既に身重の身になっていたことすら夫に告げずに。

 そういう怜菜の身の処し方は一見鮮やかなように見える。

 事実、麻季が博人を問い詰めたとき、博人も怜菜のそういう様子に惹かれていたと正直に白状したものだった。

『怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわかった。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら先輩のことすら恨んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな』

 博人は怜菜のことを聖女とか天使とかという表現で褒め称えた。

 麻季だって理解はしていたのだ。

 怜菜と博人の間の恋情は淡く、そしてプラトニックなものだ。自分が鈴木先輩と犯してしまったような肉体的な関係ではないのだと。

 でも、それだからといって相手を想う気持ちが、肉体関係を伴った不倫より小さいとは言えないだろう。

 ましてその相手の怜菜が亡くなってしまえば、自分の夫が怜菜に対して抱いた想いは、彼女への恋情を残したまま永遠に氷結されてしまったままになるのだ。

 疑おうと思えばどんなことだって怪しく思える。

 怜菜が自分の夫に何も要求せずに離婚したのだって、ひょっとしたら博人と麻季自身が離婚したときに、自分と博人がすぐにでも結ばれると期待したためかもしれない。

 もっと邪推すれば、荒唐無稽な考えかもしれないけど、怜菜は自分への博人の想いを永遠のものにすべく、自分の娘に博人の一人息子の名前をもじって奈緒という名前を命名し、その後自ら命を絶ってということだって・・・・・・。

 それはいくら何でも妄想が過ぎるというものだと麻季は思った。

 彼女は卒業してから全く連絡を取らなくなっていた怜菜のことを思い出してみた。

 当時、同性の友人がほとんどいなかった麻季にとって怜菜はほとんど唯一の友人であり、親友でもあったのだけど、あの頃の怜菜には男女問わず友人が多かった。

 講義に出てもサークルに行っても、彼女に話しかける学生はたくさんいた。

「怜菜、元気?」

「よう怜菜。最近付き合い悪いじゃん」

「怜菜さ、鹿児島フェスのマスタークラス申し込む?」

「今日、芸大の人たちから合コン誘われてるんだけど怜菜も行かない?」

 怜菜は話しかけてくる友人たちに、愛想よく受け答えしていたけど、気の進まない誘いは頑として断っていた。

「わたしなんかに気を遣わなくていいからもっと友だちと遊べばいいじゃん」

 麻季は怜菜のそういう態度に不審を覚えて、そう言ったことがあった。

「いいよ。本当に気が進まないし、あたしは麻季と一緒にいた方がいいや」

 そういうとき、怜菜は決まって笑ってそう言うのだ。

 麻季だって怜菜がいなくても一人で寂しいということはない。怜菜と一緒に過ごす方が気は休まるのだけど、一人で過ごしたくなければ自分に言い寄って来た男を呼び出せばいい。

 もっとも、ほとんどがつまらない男ばかりだったので、麻季が一緒にいてもいいと思えるような男は、サークルの鈴木先輩くらいだったのだけど。

 彼になら多少のことは許してもいいかもと麻季は当時考えていた。

 本音を言えば相手が鈴木先輩だとしても、一緒にいることに、本心から充足感を感じたことはなかったのだけれど、自分の相手をしてくれる人の中では彼はだいぶましな方だった。

 それに彼と一緒にいると学内で優越感を感じることができる。

 それでも麻季にとっては、怜菜が一緒にいてくれたほうが気が休まった。

 唯一の親友、というか唯一の同性の友人である彼女といると、麻季は気を遣わずに楽しく過ごすことができるような気がしていたからだ。

 怜菜には友人たちの誘いが多かったけど、それでもほとんどの誘いを断って、麻季と一緒に過ごしてくれていた。

 彼女も麻季と一緒にいる方が、気を遣わなくていいやと笑っていた。

 そんな二人の関係が変化したのは、麻季が生まれて初めて自分から手に入れたいと思った男性と出合ってからのことだった。

 結城先輩のことはサークルの新勧コンパのときから気にはなっていた。

 あの夜、麻季は先輩たちから途切れなく誘いの言葉をかけられたのだった。

 あのときは怜菜ともまだ仲良くなる前だったから、麻季は話しかけてくる先輩たちの相手をしながらぼんやりと店内を見回していたそのとき、一人の男の先輩と目があった。

 その人は麻季と目が合って狼狽したようだった。男のこういう反応には慣れていたから、麻季はとりあえずその先輩に会釈した。

 ・・・・・・今度こそ先輩はさりげなく彼女から視線を外してしまい、隣にいる同回生らしい女の子と喋り始めた。

 こちらから挨拶したにも関わらず無視されたことにも腹が立ったけど、自分の会釈を完璧に無視して、他の女と親しげに話し始めたことに、麻季は何だか少しだけむしゃくしゃした気持になった。

 そんな彼女の様子に周囲に群がっていた先輩たちも不審に思ったようだ。

「あの・・・・・・。あそこでお話している先輩は何という人ですか」

「ああ、あいつは二年の結城だよ」

「結城先輩ですか」

「夏目さん、あんなやつに興味あるの? あいつ変わり者だぜ。音大に入ったのにろくに器楽もしないで、音楽史とか音楽理論とかだけ勉強してるんだ」

 その先輩は結城先輩の人となりをけなしながら解説してくれたけど、そのときの麻季の耳にはそんな言葉はろくに届いていなかった。

 あまり格好いいとかスマートとかという印象はない。でも、何だかそのときは結城先輩のことが気になったのだ。

 どうせあの先輩もわたしのことが気になってるんだろうな。そう麻季は思った。

 でも冴えなさそうな結城先輩は、わたしに話しかける勇気がないのだろう。

 その後、結城先輩はあまりサークルに顔を出さなかったこともあって、彼と話をする機会はなかった。その間に麻季は怜菜と知り合い、仲良くなった。

 それは麻季が怜菜と一緒に、階段教室で一般教養の東洋美術史の講義に出席していたときだった。

 講義が始まってしばらくすると、隣に座ってた男の人が麻季に出席票を回してくれた。その人はそのまま席を立とうとしているようだった。

 そのとき、麻季はその人が結城先輩であることに気がついて、少し彼をからかってみようと考えたのだった。自分にからかわれて嬉しくない男も少ないだろうし。

「こんにちは結城先輩」

 驚いたように結城先輩は席に座りなおした。出席票に目を落すと、最後の欄に雑な字で結城博人と書かれていた。

 博人さんというのか。

「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一年の夏目といいます」

「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」

「先輩に教えてもらいました」

 麻季はそう答えた。

「じゃあね」

 その場の雰囲気を持て余したように、先輩が中途半端に立ち上がりながら言った。

「講義聞かないんですか?」

「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」

「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」

「・・・・・・そんなことないよ」

「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じました」

「じゃあ、失礼します」

 麻季はそう言って話を終らせたのだけど、その後に隣に座っていた怜菜が珍しく結城先輩のことを聞き始めた。

「今の人ってサークルの結城先輩だよね」

「そうみたい」

「麻季、いつのまに先輩と知り合いになったの?」

「話したのは今が初めてだよ」

「嘘? 何で初対面の人にあんなに親しく話せるの」

「・・・・・・何でって別に」

「麻季って結城先輩のこと気になる?」

 怜菜が麻季にそういう質問をするのは珍しかった。

「何で? そういうこと聞くの怜菜にしちゃ珍しいじゃん」

「そうかな? 別にそうでもないでしょ」

 怜菜が少し赤くなった。

「ひょっとして怜菜って結城先輩が好きなの?」

 ぶんぶんと音が出そうなほど、怜菜は首を横に何度も振った。

「違うよ。そんなんじゃないって。それにあたしは麻季の恋の邪魔なんてしないよ」

「別にわたしだって好きとかそういうんじゃ」

「ふふ」

 珍しく言葉を濁した麻季を見て、怜菜は微笑んだ。講義が始まったこともあり、このときの話はそれで終った。

 その後キャンパス内で何度か結城先輩を見つけた。

 先輩は、男と二人で歩いている麻季の方を、何気なく見つめていたみたいだった。

 それでも麻季にとって腹立たしいことに、結城先輩は彼女には一言も声をかけようとはしなかった。

 この頃、麻季は三回生の鈴木先輩に言い寄られていた。彼への気持ははっきりしなかったけど、それでも他の男に向ける気持とは少し違う気持を抱き始めていた。

 何より彼といると周囲の女の子の視線が彼女の優越感をくすぐる。

 それでも麻季は、鈴木先輩と一緒にいるよりは怜菜と一緒にいることを選ぶことが多かった。

 男は鈴木先輩に限らずいっぱいいたけど、女友だちは怜菜くらいしかいなかったから。

 そんなある日、麻季は結城先輩が女の子と親し気に話をしているところを目撃した。

 何か心の芯がじわじわと痛んでくるような感覚が訪れて、彼女はそのことに狼狽した。

 結城先輩と一緒にいる子は陽気な可愛らしい感じの人だった。単なる知り合いという感じじゃないなと麻季は思った。

「結城先輩だ」

 一緒にいた怜菜がそう言った。そして少し残念そうに話を続けた。

「やっぱり神山先輩かあ。何かいい雰囲気だね、あの二人」

 麻季は少しだけ心が重くなるのを感じた。別に彼のことをはっきりと好きというわけではないのに。

「神山って誰?」

「二年の先輩。何かさ、結城先輩と幼馴染なんだって」

「そう」

「やっぱり結城先輩と神山先輩と付き合ってるのかなあ。まあお似合いだよね」

 自分の心の動きはそのときにはさっぱりわからなかった。それでも麻季は冷たく言った。

「全然似合ってないじゃん。結城先輩はあの人のことを全然好きじゃないと思うよ」

「よしなよ」

 怜菜が麻季の言葉を聞いて、真面目な表情になった。

「・・・・・・よしなよって何が」

「あんたは今はもう鈴木先輩と付き合ってるんでしょ。他の人にちょっかいを出して不幸にするのはやめな」

「付き合ってないよ」

「嘘。こないだ麻季と鈴木先輩が抱き合ってキスしてるとこ見たよ」

「あんなの。一方的にキスされただけだよ。わたしは誰とも付き合っていません」

「嘘言え。あんたの方だって鈴木先輩の首に両手を回して抱きついてたじゃん」

「怜菜には関係ないでしょ。何? あんたやっぱり結城先輩のこと好きなんでしょ? それでわたしに彼に手を出すなって言ってるんじゃないの」

「違うって」

 そう答えた怜菜の顔は真っ赤ですごくわかりやすかった。

 何だ。親友とか言ったって、結局怜菜も自分の恋が大切なだけか。なまじ客観的なアドバイスの形を取っているだけ、玲菜の言葉は麻季を苛立たせた。

 このとき結城先輩のことがどこまで好きなのか、自分でもわからなかった。

 鈴木先輩を振って、平凡そうに見える結城先輩を選んだら後悔するかもしれないよ。心の中でそんな声が聞こえた。

 でも目の前の怜菜の偽善に腹が立った彼女には、もはや冷静に考える余地は残っていなかった。

 お互いに恋愛なんて超越した親友同士だと思っていたのに。怜菜に裏切られた気がした麻季は、もう自分を抑えるすべを知らなかった。

 それでも、しばらくは結城先輩とは会えなかったから、彼女は具体的な行動には出られなかった。ただ、頭の中に結城先輩の姿がしょっちゅう浮かぶようになって、鈴木先輩はそんな彼女の様子がいつもと違うことに気がついたらしい。

 麻季と二人でキャンパスを歩いていた鈴木先輩は彼女を責め始めた。

「麻季さあ、おまえ浮気してるだろ」

「浮気? わたしは別に先輩と付き合っていないし、浮気とか言われてもわかんない」

「ふざけんなよ。キスまでしておいて付き合ってないってどういうこと?」

「先輩が勝手にしたんでしょ。わたしは知らないよ、そんなこと」

「・・・・・・まあ、いいや。今日のところは許してやるよ。それよかさ、これから遊びにいかね? 今日はもう実習はないんだろ」

 先輩としては譲歩したつもりだったのだろう。

 麻季がその誘いを断った瞬間、鈴木先輩の手が頬に飛んできて彼女は地面に倒れたのだ。

 下から眺め上げると、鈴木先輩に詰め寄る結城先輩の姿が見えた。

 結城先輩が何か話すと、鈴木先輩はみっともなく言い訳しながら去って行ってしまった。

 このときが、麻季が初めて結城先輩への愛情を実感した瞬間だったかもしれない。

「君、大丈夫?」

 結城先輩が倒れている麻季に手を差し伸べた。

「怪我とかしてない?」

「……先輩、神山先輩と別れたの?」

 麻季はこのとき一番気になっていたことを聞けなかった。その代わりに二番目に気にしていたことを口に出した。

「何言ってるんだよ。そんなこと今は関係ないだろ・・・・・・。君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」

「彼氏って誰のことですか?」

 結城先輩はとりあえず麻季を学内のラウンジに連れて行ってくれた。

「ほら、コーヒー」

「ありがとう。結城先輩」

 麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっきの先輩のことを話し始めた。

「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義があるからって断ったら突然怒り出して。付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。わたしは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」

 結城先輩は何か考え込んでいる様子だった。

「神山先輩と別れたの?」

 麻季が聞いた。何でそんなことを突然口にしたのか自分でもわからなかったけど。

「別れるも何も付き合ってさえいないよ」

「・・・・・・先輩?」

 そのとき、結城先輩はいきなり麻季の髪を愛撫するように触った。

 先輩は急に声を出して笑った。髪を撫でられながら麻季は微笑んで言った。

「結城先輩、やっぱりわたしのこと好きでしょ」

「結城先輩とお付き合いを始めたの」

 そう怜菜に対して話したとき、麻季は少し緊張していた。

 怜菜が結城先輩のことを好きなのだとしたら、ショックを受けるかもしれない。もともと怜菜への意地から始めた自分の行動について、この頃には麻季は結城先輩のことが好きで始めたことだと思い込むようになっていた。

 だから、今の麻季は友情よりも自分の恋愛を優先した怜菜のことを、もはや恨んではいなかった。お互い様だと考えたから。

 自分と結城先輩の付き合いに、彼女がショックを受けないかだけを心配していたのだ。

「そっか」

 怜菜はあっさりと言った。

「ごめんね」

「何で麻季が謝るのよ。あんたの誤解だって」

「・・・・・・それならいいんだけど」

「あたしは別にどうでもいいんだけどさ。ちょっとだけ鈴木先輩と神山先輩のことが気になるな。きっと傷付いてると思うよ」

「博人君は神山先輩とは付き合ってないって」

「もう博人君って呼んでるんだ」

「うん。ごめん」

「だから、謝らなくてもいいって。でも付き合ってなかったにしても、神山先輩はショックだろうなあ。結城先輩に失恋したんだしさ」

「よくわかんない」

「それに鈴木先輩は絶対落ち込むよね。付き合ってた彼女を後輩に取られちゃったんだもんね」

「わたし鈴木先輩の彼女だったことなんかないもん」

「・・・・・・抱き合ってキスしてたくせに」

「先輩からされただけだよ」

「あっちはそう思ってないって」

「まあ、でも」

 ここで初めて怜菜が麻季に優しく微笑んでくれた。

「鈴木先輩には悪いけど、付き合うなら結城先輩の方がいいよね。安心できそうだし」

 怜菜の言葉を聞いて麻季は、ああよかった、これからも怜菜と友だちでいられると思ってほっとした。

 友だちでいられると思ってほっとしたのはよかったけど、結局その後は怜菜とはあまり一緒に過ごさなくなっていった。

 一つには博人と付き合っているうちに、思っていたより麻季の方が博人に夢中になってしまったからだった。

 男性に対してここまで依存に近いくらい一緒にいたいと考えるようになったのは、彼女にとっては初めての経験だった。

 麻季はなるべく博人と過ごすようにしていた。お互いに違う講義に出席している時間を除けば、キャンパス内でも大学への行き帰りもいつも二人きりで過ごしていた。

 それは全部彼女の希望だったけど、博人も笑ってそれでいいよと言ってくれた。

 そういうこともあり、博人といつもべったりと一緒だった麻季には、怜菜と一緒に過ごせる時間がなくなってしまったのだった。

 もう一つは麻季自身の怜菜に対する感情の問題だった。

 怜菜に祝福されてほっとした彼女はこれまでどおり彼女と付き合えると思っていた。

 ところが博人に惹かれ夢中になっていくうちに、自分でもよくわからない嫉妬めいた感情によって心が支配されてしまうようになった。

 怜菜は博人のことが好きだったのだろうか。つい先日までの彼女の悩みは自分が親友の好きな人を奪ってしまったことによって、怜菜が自分から離れていってしまうのではないかというものだった。

 ところが博人に対する独占欲が強くなっていくうちに、怜菜に対する感情が変化していった。

 怜菜が本当に博人のことを好きで、しかもその感情をまだ諦めていないとしたらどうだろう。

 麻季は男性に関して他の女の子のことなんか気にしたことはなかった。神山先輩に対してだって負けると思ったことはなかった。

 それなのに怜菜に対しては、なぜか不安を覚えるのだ。

 そういうわけで、麻季は怜菜も含めて学内ではあまり博人以外の人と会ったり喋ったりしなくなった。

 博人と二人きりでいるだけで十分だったし、そうしている間は怜菜への漠然とした不安もあまり感じないですむ。

 麻季が自分の方からこれほどまでの愛情と不安と嫉妬心を抱いた男性は博人が初めてだった。

 最初、怜菜はそんな麻季の様子に戸惑い、そして少し寂しそうだった。

「麻季って最近、結城先輩とべったりだね」

 二人が出席していた同じ講義が少し早く終ったあと、一緒に中庭を歩きながら彼女はそう言った。

「うん。彼と一緒にいないと寂しくて。ごめんね」

「謝ることはないよ。あたしは別にいいけどさ。麻季って本当に結城先輩が好きなんだね」

「うん」

「でも気をつけた方がいいかも。たまに鈴木先輩が二人のこと凄い目で睨んでるし」

「・・・・・・あの人、まだそんなことしてるんだ。博人君に追い払われて逃げたくせに」

「まあ、先輩にしてみれば、自分のことを麻季に浮気されて捨てられた被害者だって思っているろうし」

「冗談じゃないよ。わたしあの人に殴られたんだよ。女に手を出すなんて最低でしょ。あのとき博人君が助けてくれなかったら、もっとひどいことされてたかも」

「それはそうかもしれないけどさ、まあでもちょっとは注意しなよ。あ、お迎えが来たみたいだよ」

「うん。ごめんね」

 麻季は博人が怜菜に気づく前に、彼の腕を取って出て行ってしまった。

 怜菜が普通に接してくれるのはいいけど、彼には怜菜を紹介したくなかったのだ。

 だから博人は、怜菜も含めて麻季の友人に紹介されたことは一度もなかった。

 麻季の心配をよそに二人の交際は順調に続いた。

 麻季は自分のアパートを解約して、博人の部屋に引っ越した。最初のうちは、博人の自分への態度が凄く淡白なことに不安を感じていたけど、一緒に暮らすようになると段々とそんな不安も解消されていった。

 博人なりに麻季に愛情を感じていてくれていることも、彼の不器用な愛情表現から理解できるようになったのだ。

 鈴木先輩や他の男たちのように、四六時中彼女を誉めたり愛していると言ったりはしないし、彼の方から手を繋いだり身体に触ったりすることもあまりないけど、それでも穏かで静かな愛情というものがこの世にはあるのだということを麻季は初めて理解した。

 これまでの男たちは、自分が喋ることが好きで麻季の言うことをあまり理解しようとしなかった。

 もちろんそれは自分の感情表現の下手さから来るものでもあった。

 ところが博人はほとんど口を挟まずに不器用な彼女の言葉を聞き、自分の中で繋ぎ合わせ、最後には彼女の考えていることを理解してくれたのだ。

 両親と怜菜を除けば、そんな人は博人だけだった。

 もう博人君から一生離れられないと麻季は思った。

 だから博人が音楽の出版社に内定が決まった日の夜、彼からプロポーズされた麻季は本当に嬉しかった。

「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」

 このときの麻季の涙はこれまでと違って中々止まらなかった。

 結婚後、麻季は大学時代のピアノ科の恩師、佐々木先生の個人教室のレッスンを手伝っていた。

 音大時代のほとんどの時間を博人にかまけて過ごしてしまった彼女だけど、佐々木教授だけは、どういうわけか彼女に目をかけてくれていた。

 演奏家としてやっていくほどの実力もないし、中学や高校の音楽教師になれるほどのコミュ力もない麻季に、先生は自分の個人レッスンを手伝わないかと言ってくれた。

 卒業したときは、既に博人との結婚が決まっていた彼女は、何となくそれもいいかと考えたのだ。

 音大志望の中高生を教えるくらいなら何とかできそうだ。既に音楽系の出版社で働き出していた博人もそれを勧めてくれた。

 始めてみると、意外と自分にあっている仕事だった。

 拘束時間はきつくないし、実生活での麻季とは異なり、レッスンのときは中高生たちに自分の伝えたいことがよく伝わった。

 半分はピアノに語らせているせいもあったのだろう。今思えば無茶をしていたと思う。

 博人と一緒に暮らしている小さな部屋にはもちろんピアノなんかない。

 佐々木先生の教室で空き時間に、教えるところを一夜漬けでおさらいするのが精一杯。

 それでも仕事自体は楽しかった。

 それで彼女は博人と結婚した後もその仕事を続けていた。

 博人といつでも一緒にいられた大学時代とは異なり、彼の会社までついて行くわけにもいかない。

 博人不在の時間を潰すのには彼女にとって格好の仕事場だった。

 その日は初めて教室を訪れた親子の相手をするところから麻季の仕事は始まった。

 きちんとした紹介で入ってくる人だったから、あまり問題はないはずだった。

 約束の時間に、まだ幼い女の子を連れて教室に来た母親を見たとき、麻季はどこかで見覚えのある人だなと思っただけだった。

 でも相手は興奮したようにいきなり彼女に話しかけてきた。

「夏目ちゃんじゃない。久し振り」

 そう言われてよく見ると、彼女は同じサークルにいた一年上の先輩だった。

 あまり女性の知り合いがいなかった麻季だけど、ようやく彼女のことを思い出した。彼女は大学時代の新歓コンパのときに博人と二人でずっと話をしていた先輩だったのだ。

「多田先輩ですよね? ご無沙汰してます」

「やだ、夏目ちゃんって佐々木先生のとこで働いてたんだ。知っていればもっと早く連絡できなのに。あたしは今は結婚して川田っていう姓なんだけどね」

 だから今まで気がつかなかったのか。麻季は記憶を探ってみた。たしかこの先輩はどっかの私立中学の音楽の教師になったはずだ。

「そうそう。まだちゃんと働いているんだけどさ。中学生って面倒でね。音大じゃなくて教育大の音楽科行っとけばよかったよ。あたしって教育とかって全然苦手だしさ」

「こちらはお嬢さんですか」

「そうなの。保育園なんだけど早い方がいいと思ってさ。麻季が指導してくれるの?」

 そういえばこの先輩自身も佐々木先生の愛弟子だったはずだ。

「ちょっと待ってくださいね」

 ロビーの椅子を勧めてから麻季は佐々木先生の私室に赴いた。

 ノックして部屋に入ると、先生はデスクの上に広げた書き込みだらけの譜面から顔を上げた。

「どうしたの?」

「先生、あたしより一期上の多田さんって覚えています?」

「ああ真紀子さんでしょ。どっかで学校の先生してるんじゃなかったっけ」

「そうなんですけど、今日申込みにいらした川田さんって、旧姓多田さん、多田真紀子さんでした」

「あら、じゃあ川田美希ちゃんって多田さんのお子さんなんだ」

「はい。どうされます? わたしがレッスンしましょうか」

「あの多田さんのお嬢さんなら最初くらいはあたしがみるわ。三番のレッスン室に連れて来て」

 多田さん、いや川田さんにそれを告げると彼女は喜んだ。

「佐々木先生が直接レッスンしてくれるの?」

「はい。とりあえずは最初は多田先輩のお嬢さんなら自分がみるとおっしゃってましたよ。その後は全部佐々木先生というわけにはいかないと思いますけど」

「光栄だわ。美希、落ちついて頑張るのよ」

 麻季は美希を連れて佐々木先生の待つ部屋に赴いた。

「美希落ちついてた?」

 麻季が川田先輩の待つロビーに戻ると、先輩は心配そうに聞いた。

「ちょっと緊張してましたけど、みんなそうですから」

 麻季は笑った。

 佐々木先生の美希への初レッスンが終るまで、川田さんは大学時代の思い出をいろいろと語り出した。

「そういえば夏目ちゃん、結城君と結婚したんだってね。おめでとう」

「ご存知だったんですね」

「うん。あんたと仲良しだった怜菜から聞いたよ。ああ、もう夏目ちゃんじゃないのか」

 怜菜は麻季と博人の披露宴に来てくれていた。その場では一言くらいしか会話できなかったけど。そしてそれ以来、麻季は怜菜と話をしていない。

「そういや怜菜も結婚したんだってね」

「・・・・・・そうなんですか? わたし聞いてないです」

「え? 怜菜も水臭いなあ。あんたと怜菜って親友だと思ってたのに」

「怜菜、いつ結婚したんですか」

「先月だよ」

「そうですか」

 麻季は少しだけショックを受けた。

 冷静に考えれば無理はないのかもしれない。何しろ博人に夢中だった麻季は、在学中も卒業後も怜菜とはほとんど一緒に過ごしていなかったのだから。

 それでも卒業後に、麻季は自分の披露宴に怜菜を招待したし、久し振りに会った彼女は、式の前に目を輝かせて、麻季のウェディングドレス姿を見て「麻季きれい」と言ってくれたのだ。

 その怜菜は自分の披露宴には麻季を呼んでくれなかったのだ。

「怜菜ってどういう人と結婚したんですか」

 怜菜への失望を押し隠して麻季は先輩に聞いた。

「怜菜の結婚のことを知らないんじゃ相手のことも知らないか。えーとね。あたしより一年上の鈴木雄二って先輩・・・・・・というか、あんたの元彼じゃなかったっけ」

「・・・・・・鈴木先輩はわたしの元彼じゃありません。わたしが大学時代に付き合ったのは今の旦那だけですから」

「ああ、そうだよね。あんたと結城君っていつも一緒だったもんね」

 少しだけ慌てた表情で先輩は取り繕うように言った。

「何かさ。怜菜と鈴木先輩って卒業後に鈴木先輩のオケの定演でばったり出会ったんだって。怜菜って首都フィルで事務やってるでしょ? 鈴木先輩の横フィルと首都フィルってよく合同でイベントとかしてるみたいで、その縁でそうなったみたい」

 先輩の話は麻季の耳に入っていたけど、彼女は半ばそれを聞きながらも心の中ではいろいろな疑問が浮かんできていた。

 怜菜は博人君を慕っていたはずだった。それは多分麻季の思い違いではないだろう。そしてそんな怜菜が鈴木先輩に惹かれていたたなんていう話は怜菜から一言だって聞いたことがない。

 もちろん卒業後のことだし、鈴木先輩はイケメンだったから、怜菜が改めて彼に惹かれて結婚したということもあり得るかもしれない。

 でも麻季が怜菜の気持を気にしながら博人と付き合い出したことを彼女に告げたとき、怜菜はこう言った。

『まあ、でも鈴木先輩には悪いけど、付き合うなら結城先輩の方がいいよね。安心できそうだし』

 怜菜は本当は博人ではなく鈴木先輩のことが好きだったのだろうか。それなら麻季が博人と付き合ったときも、うろたえずに受け止めてくれた理由としては理解できる。そして結果的に麻季に振られることになる鈴木先輩のことを気にしていたのも理解できる。

 でも麻季が博人と付き合いだす前に、彼と自分が話をしていたところを聞いていた怜菜の様子を思い出すと、やはり彼女は博人のことを好きだったのではないかと思える。

 怜菜は麻季への友情から、自分の気持を抑圧してまで麻季と博人との付き合いや結婚を祝福してくれたのだ。それは間違いないはずだった。

 それならなぜ彼女は鈴木先輩と結婚したのだろう。それも親友であった自分には一言も知らせずに、披露宴に招待すらすることもなく。

『怜菜は敵だからね』

 凄く久し振りに麻季の心の中で誰かの声がした。

『怜菜が鈴木先輩と結婚した理由はわからない。それでも彼女は麻季と博人との付き合いを邪魔しようと企んでいるんだよ』

 その声を聞くのは久し振りだった。そしてできればもう二度と聞きたくない声だった。

 濁ったような男とも女ともつかないような低い声。

 麻季が博人と付き合い出してからも、彼女の人生の節目でしょっちゅう心の中で勝手にアドバイスし出す声。

 博人と同棲したのもその声の勧めだった。

 佐々木先生の教室を手伝うことに決めたのもその声に従ったまでだ。

 でも博人のプロポーズに答えたのは、その声とは関わりなく純粋に自分の意思だった。そしてその声は、博人との結婚後は彼女の頭の中で響きだすことはなくなっていたのだった。

『怜菜は敵だ。これは罠だよ。怜菜は君のことを恨んでいるんだから』

「あ、佐々木先生。ご無沙汰しています」

 多田先輩が立ち上がって、レッスン室から美希を伴って出てきた先生に声をかけた。

「多田さんお久し振り。元気だった?」

「おかげさまで元気です。それで美希はどうでしょうか」

「うん。まだわかんないけど、弾き方の癖とかあんたにそっくりだわ。しばらく結城さんにレッスンさせるけどいい?」

「はい。ありがとうございます」

 先輩が感激したように声を出した。

「麻季ちゃん、娘をよろしくね」

「結城さん?」

 黙っている彼女を不審に思った先生が麻季に声をかけた。