奈緒人と奈緒 第3部第4話
そういうわけで、感情が充足したため安定した家庭生活を送ることができた麻季だけど、奈緒の名前について悩むことはいまだにあった。
博人が奈緒と呼ぶ声。奈緒人が奈緒と呼びかける声。そして何よりも、自分が奈緒に呼びかける際に感じる逡巡に彼女はしばしば考え込んだ。
今が幸せなのでそんなことを考える必要はない。麻季はしきりに自分に言い聞かせた。
博人が家にいるときはそんな考えは少しも脳裏をよぎることはなかったけど、奈緒人と奈緒を幼稚園の送迎バスに送り出して一人になったとき、やはり奈緒の名前についての疑問は、次第に彼女の心を蝕み出した。
そんなある日、再び声が聞こえた。
『思っていたよりうまく行ってるよね。よかったね』
『うん・・・・・・』
『何か不安そうだね。博人君も頑張って家にいるようにしてくれてるし。まだ何か気になるの?』
『言葉に出しては言いづらいし、自分でもよくわからない漠然とした不安なんだけどね』
『博人君がまだ怜菜のこと引き摺っているんじゃないか不安なの?』
『ううん。それはもうないと思う。確かに亡くなった人には勝てないし、博人君が怜菜を嫌いになることは永遠にないんだけどね。でも亡くなった人相手に嫉妬してもしようがないよ。むしろ怜菜の娘をわたしが一生懸命に育てることが、博人君を繋ぎとめる唯一の方法だと思っているよ』
『・・・・・・なんだ。わかってるんじゃない。それなのにまだ不安を感じてるんだ』
『博人君がいないときだけなんだけどね』
『もう考えても仕方のないことで悩むのはやめにしたら?』
『わかってるよ。でも考えちゃうんだもん。しかたないじゃん』
『・・・・・・』
声は沈黙してしまった。
『あんたはわたしなんでしょ? 今まで散々ああしろこうしろって指示してきたくせに。こんなときに黙ってないで何か言いなさいよ』
『聞くと後悔するかもよ。知らないでいたほうが幸せなこともあるしさ』
『わたし自身のくせに何を思わせぶりなこと言ってるのよ』
『まあ、結局君の意思しだいなんだけどね。わたしは君には逆らえないし、君が知りたいと言うなら話すしかないんだけど』
『じゃあ、話してよ。何でうまくいっているはずなのにわたしが不安を感じるのか』
『本当に話していいの? 後悔するかもよ』
『それでも知りたい。自分のこの不安の正体を』
『わかったよ』
その声はため息混じりに言った。脳内の声の分際ですいぶん細かい芸をするものだ。
『あんたにその覚悟があるならこの際徹底的に考えてみようか』
覚悟なんてあるわけがない。でも不安がいつまでたっても亡くならない以上、このまま目をつぶるわけにはいかないと麻季は思った。
『その前に聞くけどさ。奈緒のこと引き取ってよかったと思う?』
『よかったって思う。奈緒は可愛いし、わたしたちに懐いているし。このまま幸せに暮らせると思うな』
『そうだね。それはそのとおりだと思うよ。でもさ、怜菜が死んだとき君と博人君の仲ってどうだったか思い出してみな』
そんなことは思い出すまでもない。
博人は怜菜の死に、怜菜を救えなかった絶望に打ちひしがれていて、結婚して初めて麻季の涙にも無関心な状態だった。
少なくともあのときの破綻寸前の家庭は麻季の浮気ではなく、怜菜の博人への想いとその後の彼女の突然の死が原因だったのだ。
『君と博人君の関係の危うい状態は、奈緒を引き取ったことによって解消されたんだよね』
『まあ、そうだけど。何よ、あんたの助言にお礼でも言えって言いたいわけ?』
麻季の嫌味な言葉には反応せず声は続けた。
『奈緒が我が家に来て博人君は再び君に優しくなった。やり直そうと言ってくれた。何よりもこれまで抱けなかった君のことを抱くようにもなった』
『そうだよ。奈緒を引き取ってからだって彼と言い争いをしなかったわけじゃないけど、結局彼は二人でやり直そうって言ってくれたの』
『博人君はあれだけ落ち込んでいたのにね。何で君に優しくなったのかな』
『それは・・・・・・』
『もうわかってるんじゃないの。彼の心が何で安定してまた君に優しくなったのか』
『それは・・・・・・。彼はわたしのことが好きだし、奈緒人のことだって愛してるし。奈緒のことをきっかけにわたしを許してくれたんだと・・・・・・』
『覚悟を決めてちゃんと考えることにしたんでしょ? それならもう自分を誤魔化さない方がいいよ』
『・・・・・・どういう意味?』
声は少しだけ優しくなったようだった。そしてとても静かに麻季に言った。
『これは前にも言ったよ。君は忘れているかもしれないけど』
『何だっけ』
『あのときあたしはこう言ったの』
『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃってるみたい』
『それが今では君と博人君はすごく仲がいい夫婦に戻れた。そのきっかけはわかるでしょ?』
『・・・・・・奈緒?』
『正解。奈緒が引き取られて博人君には生き甲斐ができたんだと思う。自分が何もしてやれなかった怜菜に対して、ようやく自分がしてあげられることができたんだって。それは幸せな家庭で奈緒をきちんと育ててあげること。彼にとってはそのためなら浮気した君のことを許すくらい何でもなかったんでしょうね』
麻季はその言葉に衝撃を受けた。でも彼女の心にはどこかで覚めた部分があった。
多分そのことを麻季は前から感じ取っていたのだろう。幸せなはずなのに、得体の知れない不安を感じていたのはそのせいだったのかもしれない。
『じゃあ、博人君は本当はわたしのことを許してないの? わたしのことを嫌いになったままなの』
『そこまではわからない。本当のところはあたしや君にはもう永久にわからないと思うよ』
『ふざけんな! 先輩と浮気して博人君の気持を試せってけしかけたのはあんたでしょう。今になってそんなこと言うなんて』
『あたしのせいじゃないよ。あのときと今とは事情が違うもん。こんなことになるなんてわからなかったし』
『何、言い訳してるのよ』
『神様じゃないんだからさ。まさか怜菜が鈴木先輩といきなり離婚するなんて思わなかったし、まして離婚してから産んだ自分の娘にあんな命名をするなんて』
『・・・・・・』
『それに一番誤算だったのが怜菜の死だよ』
『・・・・・・うん』
本当はもう、麻季にも声の言いたいことは理解できていたのだ。
『君の不安の原因はわかったでしょ。それは前から自分でもわかってたと思うけど、結局単純な話だったね。博人君は怜菜に気持を持って行かれてしまってたんだよ。今、君の家庭が安定しているのは、博人君が怜菜の代わりに娘の奈緒のことを幸せにできるチャンスを得て、彼自身が落ちついたからでしょうね』
『わたしの不安の原因は結局それだったのね。博人君が本当にわたしのところに戻って来たわけじゃないって、わたし自身がどこかで感じていたからなのか』
『そうだね。それでも割り切ればいいんじゃない? 博人君は君と一生添い遂げてくれるよ。仲のいい模範的な夫婦として』
『・・・・・・奈緒のために? わたしのことなんて好きじゃないけど、奈緒のために一生わたしを好きな振りをしてくれるっていうこと?』
『うん。亡くなった怜菜の一人娘のためにね。だから聞かない方がいいって言ったじゃない。君はそれに気がついてしまったのだけど、これからどうするつもり?』
『頑張るしかないよ・・・・・・博人君は、結城先輩は絶対にわたしのことが好きなはず。どんなに時間がかかっても取り戻して見せるよ。怜菜と奈緒から博人君を』
大学の頃、黙って麻季の髪を撫でて微笑んでいた博人の姿が、一瞬だけ麻季の脳裏に浮かんだ。
『そうか。そうだよね』
『辛いけど、気がつけてよかった。今夜も博人君が帰ってきたら笑顔で迎える』
『うん・・・・・・』
『何よ。まだ何かあるの』
『もう少しだけ気がついたことがある・・・・・・。ここから先は推理というか邪推というか、まあ今となっては証明しようのない話なんだけど。どうする? 聞く?』
『・・・・・・そんな言い方されたら聞くしかなくなっちゃうじゃん。まあ、もうこれ以上ひどい話はないとは思うけど』
『どうかな』
『さっさと言いなさいよ』
『怜菜について客観的にわかっていることは、突然の鈴木先輩との離婚、娘への奈緒という命名、そして突然の死、ということでいいよね』
『うん・・・・・・』
『最初の二つには、博人君に近づきたいという、怜菜の明確な意図が込められていると思う』
『そうかもね。怜菜は博人君のことがすごく好きだったんだね。鈴木先輩の言っていたこともあながち嘘じゃないのかもね』
『そして怜菜の死だけは悲劇的な偶然だと、君も博人君も鈴木先輩も疑っていないでしょ?』
『・・・・・・どういうこと?』
『それが偶然じゃなくて、三つ全てに怜菜の意図が働いていたとしたら?』
『それって』
『そう。怜菜は離婚して、意図的に鈴木先輩から自由になった。彼の浮気を責めることすらなく。そして意図的に自分の娘に奈緒人と一字違いの名前をつけた』
『そして、みんなが悲劇だって思っているけど、実はそれが彼女の意図的な死だったとしたら?』
それは、想像力に溢れすぎていると自分でも認めていた麻季ですら考えついたことなかった考えだった。
『自殺ってこと?』
心の声の非常識な推理に麻季の声が震えた。
「怜菜って自殺したんだと思う」
これまで考えもしなかった言葉に僕は一瞬動揺したけど、すぐにそんなはずはないと思い直した。
そんなわけはない。怜菜はか弱そうな外見とは裏腹に芯の強い女性だった。それはただ彼女の言葉だけからそう判断したわけではない。僕は彼女の一貫した行動からそう確信していた。
怜菜は、離婚後に配偶者のいない状態で出産した。同じ病院に出産のために入院している母親たちと比べたって、つらいことは多々あったはずだった。
でもそんなことは、怜菜から僕にあてた最初で最後のメールにだって何も言及されていなかった。
僕は今では一語一句記憶している彼女のメールの文面を思い出した。
それは何度思い起こしてもつらい記憶だった。生前の怜菜に最後に会ったとき、僕が彼女の思いに応えていれば、また違った現在があったのだろうか。
そうしていれば、怜菜は死ぬことなく奈緒を抱いて、僕の隣で微笑んでいてくれる現在があり得たのだろうか。
「君が何を考えているのかよくわからないけど、怜菜さんの死は自殺じゃなかった。暴走してきた車から奈緒を守って亡くなったんだ」
「わたしだってそう思っていたんだけど、そうとも言えないんじゃないかって考えるようになったの」
「・・・・・・もうよせ。これ以上僕に君のことを嫌いにさせないでくれ」
「それは・・・・・・わたしは信じてるから」
「信じてるって何を」
「わたしが何をしても博人君は、結城先輩はわたしのことが好きだって」
「本当に何言ってるんだよ。もうよそうよ。昔のことは昔のことに過ぎないだろうが。君は鈴木先輩と再婚することにしたんだろ?」
「うん。ごめんね」
「謝るな。僕もこの先の人生は理恵とやり直すことに決めた。だからもうこれ以上怜菜さんのことは蒸し返さないでくれ」
「神山先輩なんてどうだっていい」
「・・・・・・それなら」
「神山先輩さんだけじゃない。雄二さんのことだってどうでもいいよ。怜菜は死んだし、雄二さんにだって、わたしたちの愛情の邪魔なんかできないんだよ。わたしたちはお互いに愛しあっている。でも問題は奈緒人と奈緒のことでしょ」
「何を言っているのかわからなよ・・・・・・もういい加減にしてくれ」
「それはわたしのセリフだよ。博人君もいい加減に目を覚ましてよ」
「子どもたちを放置した挙句、家庭を捨てたのは君の方だろうが。今さらお互いに愛しあっているも糞もあるか」
「博人君、まだ話の途中でしょ。そんなにあなたが興奮したらこの後の話がしづらいじゃない」
麻季が微笑んだ。
「それに約束が違うよ。食べながら聞くって言ったのに全然食べてないじゃない。そんなんだと博人君、体壊しちゃうよ」
「・・・・・・食べるよ。だから続きを聞かせてくれ。何で子ども二人を家に放置した? そのとき君は何をしてたんだ」
「これ以上、怜菜に勝手なことをさせないためだよ」
「どういう意味だ」
「奈緒は怜菜そのものじゃない。そして奈緒人はあなたそのもの。博人君は気がついていなかったかもしれないけど、奈緒人と奈緒はお互いに愛しあっているのよ。そんなことわたしは絶対に許さない」
「君が何を言っているのか全然わからない」
「・・・・・・食べないと」
「子どもたちが愛しあってるって、そしてそれを許さないっていったい何の冗談だ」
「博人君、食べないと身体に悪いよ」
「食事なんてどうでもいいだろ! そんなことを君に心配してもらう必要はないよ。僕には今ではもう理恵がいる。君はいったい何の権利があって・・・・・・いや、そうじゃない。奈緒人と奈緒が仲がいいことに何の問題があるんだ」
「怜菜は恐い子だったのよ。あなたを愛して、雄二さんの不倫のことを内心は喜びながら冷静に彼を振って、そしてあなたに告白したの。お腹の中に雄二さんの子がいたのにね」
「本当にもういい。これ以上そんな話は聞きたくない。それより僕が海外にいたときに、何で子どもたちを放置したか話せよ」
「怜菜が自分の大切な娘を放って死んでいいと思うほどあなたを愛したのだとしたら、あなたはそんな怜菜のことを愛せる? 怜菜が自分の娘を捨てて自殺したのだとしたら」
「そんな非常識なことがあるか。誤魔化さずに何で子どもたちを一週間近く放置したか答えてくれ。真実をだ。それを言わないなら僕は今すぐ帰る」
「そうね。わかった」
麻季はそう答えた。
「わかったから、あなたの身体に悪いから少しでも食べて」
もうとうに食欲なんてなくなっている。
僕は形だけ目の前の皿からなにやらフライのようなものを取り上げて口に入れた。味なんて全く感じない。
「博人君、串揚げ好きだったよね」
「どうでもいいよ、そんなこと」
「わかってる。あのときね、わたしは」
麻季は散々悩んだ挙句、その声を信じることにしたのだった。その圧倒的な説得力を前にして信じざるを得なかった。
麻季がこれまで漠然と感じ続けてきた不安に、正確な解答が与えられた瞬間だった。
このとき麻季は全てを理解した。これまで博人に対する自分の愛情の深さを、彼女自身疑ったことはなかった。
でも、怜菜が自分の死をも厭わず、博人の心の中で一番の女性として生き続けていく道を選んでそれを実行したとしたら、その愛情は麻季のそれを凌ぐほど深いものであると考えざるを得ない。
つまり愛情の深さにおいて、麻季は怜菜に負けたことになる。
怜菜の自殺によって博人の心の中では、最後に会った怜菜の記憶が永遠に凍結されたまま古びることなく残るだろう。
それは怜菜が博人への愛情を遠慮がちに表わしたときの切ない記憶だ。
表面上は麻季に優しく接している博人の中では、怜菜の愛に応えなかった自分への後悔と、そんな彼を責めずに寂しげに微笑んで身を引いた彼女の最後の表情や容姿がいつも浮かんでいるのだ。
麻季は最終的に怜菜に負けたのだ。
『負けちゃったね・・・・・・怜菜を甘く見すぎていた』
声が重苦しく囁いた。
『・・・・・・うん』
『このことに気がつかなければ、この先博人君との仲を頑張って修復することを勧めたと思うけど、怜菜の意図を理解した以上、このまま博人君と一緒に生活しても君がつらいだけだと思う』
『どうしろって言うの』
『わからない』
『博人君の心を取り戻す方法が何かあるでしょう。今まで散々役に立たないアドバイスしておいて、こんなときには何も言わないつもり?』
『・・・・・・』
『確かに怜菜の思い切った行動で一時的に彼の心は奪われているかもしれないけど、博人君は、結城先輩はわたしのことが好きなの。先輩に殴られたわたしを助けて、わたしの髪を撫でてくれたときから』
『死んだ人相手には勝てないよ』
『そんなのってひどいよ』
『ただ』
『え?』
『たださ、死んだ怜菜相手には勝てないかもしれないけど負けないこと、いや少しでも負けを減らすことはできるかもしれないね』
声は少し考え込んでいるように間をあけた。
『どういうこと?』
『今にして思えば君は、いや、君と私は完全に怜菜の仕掛けた罠に嵌ったんだよ。完膚なきまでにやられたね。そもそも怜菜は何で鈴木先輩なんかと結婚したんだと思う?』
『それは・・・・・・わたしだって不思議だったけど』
『先輩が電話で言っていたことを覚えてる? 怜菜は麻季の情報を先輩に伝えて、まるで先輩に対して麻季と接触させようとけしかけていたみたいだったって』
『うん。彼はそう言ってたね』
『そして先輩と君は出合って、怜菜の計画どおり不倫の関係になった。その後、彼女は博人に接触して、君と先輩がまだ連絡をとりあっていることを博人に告げ口したよね』
『・・・・・・やっぱり、怜菜の計画どおりだったってこと?』
『うん・・・・・・そしてさりげなく怜菜は博人に自分の思いを告白した。怜菜に誤算があったとすれば、博人君がその場で怜菜の気持に応えなかったことでしょうね』
『そのときはわたしは怜菜に負けていなかったってこと?』
『うん、そう思う。でも怜菜は賢い子だし、思い切って自分の考えを貫く強さを持っていた。大学の頃からそうだったじゃん』
それは声の言うとおりだった。一見大人しそうな怜菜は、自分が決めたことは貫きとおす強さをその儚げな外見の下に秘めていた。
麻季なんかと一緒に過ごさなかったら、怜菜は学内の人気者だったろう。それなのに彼女は麻季と二人でいる方が楽しいと言ってくれ、実際に友人たちの誘いを断ってまで麻季と一緒にいてくれたのだ。彼女には、周りに流されず自我を貫く強さがあった。
『怜菜は離婚して奈緒を出産するまで待った。そして、そのときが来ると迷わず車に身を投げたんじゃないかな』
『博人君の心の中で永遠に彼に愛されるためだけに?』
『うん。でも怜菜はもっと先まで考えていたんじゃないかな』
『わからないよ。これ以上何が起こるの』
『確かに死者には勝てないかもしれないけど、博人君は君には優しいし、君がこのまま良い妻でよい母でい続ければ、怜菜の記憶だっていつかは薄れていって、君への本当の愛情が戻るかもしれない』
麻季はその言葉に一筋の希望を見出した気分だった。
たとえ、今がどんなにつらくても何年かかっても何十年かかろうとも博人の愛情が戻ってくるなら・・・・・・・。
『でも、そのことも怜菜はちゃんと考えていたんだろうね』
『どういうことよ』
『奈緒を見てればわかるでしょ。あの子は怜菜にそっくりじゃない。先輩の面影なんか全然ないよね。この先可愛らしく成長する奈緒を眺めるたびに、博人君は怜菜のことを思い出させられるんだよ』
『それにさ。奈緒は奈緒人が大好きだし、奈緒人だって君より奈緒の方が好きみたいじゃない? 怜菜は自分と博人君が果たせなかったことを、奈緒と奈緒人に託したんだと思う』
『そんなわけないでしょ!』
『じゃあ何で怜菜は自分の娘に奈緒なんて名前を付けたのかしらね』
『・・・・・・嫌だ。そんなの絶対にいや』
『もうできることだけしようよ。君は博人君を失う。でも怜菜や奈緒にはこれ以上勝手なことをさせるのをよそう。それで怜菜に完全には負けたことにはならないし』
『博人君とは別れられない。絶対に無理』
『想像してごらん。怜菜にそっくりに成長した奈緒を愛おしげに見つめる博人君の視線を。そしてある日、突然に奈緒と結婚したいって言い出す奈緒人の姿を。本当にそれに耐えられる? そしてそうなったら、何年も博人君とやり直そうとつらい思いをして頑張ってきた君は、完全に怜菜に負けたことになるんだよ』
『・・・・・・』
『もう決めないと。つらいことはわかるしあたしも甘かった。正直怜菜を見損なっていたし。でも今となってはそれくらいしか打てる手はないのよ』
『どうすればいい?』
『博人君と離婚しなさい。そして奈緒を引き取って、彼女を奈緒人と博人君から引き離しなさい』
『・・・・・・でも、それじゃあ奈緒人は』
『うん。君は奈緒人とはお別れすることになるね』
『そんな』
『つらい選択だよ。でも今迷って決断しないでいても、いずれ奈緒人は君を捨てて奈緒を一緒になるって言いだすよ』
『そんなこと決まったわけじゃない。奈緒人と奈緒はお互いに兄妹だって思っているのよ。普通に考えたら付き合うなんて言いだすわけないじゃん』
『義理の兄妹の恋愛なんて意外に世間じゃよくあるんじゃないの? 君だって、義理でもない博人の妹の唯ちゃんに嫉妬してたじゃない。実の妹なのに博人にベタべタするやな女だって』
『奈緒人はそんな子じゃない。妹と付き合うなんてわたしが言わせない』
声が少しだけ沈黙した。それからその声は再び囁いた。どういうわけかその声音は悲しみを感じさせるが、同時に麻季に同情しているような複雑な優しさにあふれていた。
『じゃあ、試してみようか。奈緒人が君と奈緒のどっちを選ぶか』
『・・・・・・何言ってるの』
『その結果をみて決めればいいじゃない。とりあえず子どもたちには可哀そうなことをする必要はあるけど、君をそこまで追い込んだのは怜菜の責任だしね』
『だって』
それから声はその残酷な計画を静かに語り始めた。
麻季は奈緒人と奈緒を試すためだけのために、子どもたちの世話を放棄して彼らを二人きりで自宅に放置した。
精神的に虐待しただけではなく、食事の支度も入浴も何もかも放棄して、六日間の間、自宅を空けて子どもたちだけを取り残したのだ。
「あなたのお父様とか唯さんには子どもたちを放って男と遊び歩いたみたいに言われた。きっとあなたもそう思ってると思うけど、そんなことをしてたんじゃないの。これは大切な『実験』だったし、観察もしないでそんなことをするわけないでしょ」
麻季は博人の反応を気にしているかのように、彼の様子を覗いながらそう言った。
「・・・・・・児童相談所の人が、マンションの管理会社に頼んで鍵を開けて家に入ったときのこと聞いてないのか。奈緒人も奈緒も衰弱してリビングの横にじっと横たわっていたんだぞ。すぐに救急車で病院に連れて行かれたくらいに。何でそのとき君が警察に逮捕されなかったか不思議なくらいだよ」
博人は麻季に対して憤るというより泣きそうな表情だった。そんな彼の様子に麻季の心が痛んだ。
そして奈緒人と奈緒を二人きりで放置している間も、麻季の心もずっと鈍い刃で繰り返し切りつけられているような痛みにさらされていたのだった。
奈緒人はもちろん、奈緒のことだって麻季にとっては大切な我が子だった。それでも麻季は怜菜の意図を探って、それが彼女の死後もまだ策動しているようなら、たとえ全てを失ったとしてもその意図だけは阻止しなければいけなかった。
それは奈緒のためでもある。その点ではもう彼女は声の言うことを疑っていなかったのだ。
その六日間は麻季にとって、肉体的にも精神的にも追い詰められたつらい時間だった。
子どもたちだけを自宅に残していた間、彼女はほとんどの時間をマンションの地下ガレージの車の中で、シートに蹲るようにしながら過ごした。
一応、自宅近くのビジネスホテルの部屋を押さえてはいたものの、彼女がその部屋を利用したのはトイレに行くときくらいだった。
ろくに食事もせずシャワーすら浴びず、彼女はマンション地下のガレージで過ごしたのだ。
でもそんなことを博人に話す気はなかった。彼の同情を引くつもりはなかったし、たとえそれを説明したところで、博人が麻季に共感してくれるはずもなかったから。
「時々、奈緒人たちに気がつかれないようにそっと部屋に入って観察していたの。最初のうちは二人とも全然切羽詰っている様子はなかった。むしろわたしがいなくて奈緒は喜んでいたようだったよ。奈緒人にベタベタくっ付いて甘えてたし」
「切羽詰っていない子どもが衰弱して動けなくなるわけないだろ」
「そうね。最後の日に奈緒は疲れ果てたのか眠っていたの。それでわたしは奈緒人に話しかけに行ったたのね。もともとそれが目的だったし」
「疲れ果ててじゃねえよ。それは衰弱してたんだよ。おまえ、それでも母親かよ」
それでも麻季は博人の言葉に動じている様子はなく、淡々と話を続けた。
「奈緒人は眠っていなかった。ただ奈緒の傍らに横になって奈緒を横から抱きしめていたの。それでわたしは奈緒を起こさないようにそっと奈緒人に囁いたの。奈緒はいたずらをしたからお仕置きしなきゃいけない。でも奈緒人は悪くないからママと二人でよければお食事しに行こうって」
「君は・・・・・・なんてことを」
「ほら。やっぱり博人君は奈緒を庇うんだ」
「庇うとかそういう問題じゃないだろ」
「まあいいわ。そのときね・・・・・・奈緒人が言ったの。ママなんか嫌いだって。奈緒が一緒じゃなきゃどこにも行かないって」
「それを聞いたとき、わたしは決めた。たとえどんな犠牲を払ったってもうこれ以上怜菜の好きにはさせないって。そうしてわたしが奈緒人と奈緒を残して部屋を出ようとしたとき、奈緒人は何をしたと思う?」
「・・・・・・どういうことだ」
「奈緒人はね。部屋から出て行くわたしのことなんか振り返りもしなかった。そして眠っている奈緒の口にキスしたの。まるで生きていれば怜菜に対してあなたがそうしていたかもしれないようなキスを」
「ばかなことを。怜菜と奈緒を重ねるな。それに奈緒人は僕じゃない・・・・・・僕の息子なんだ」
「そのときがちょうど六日目だった。児童相談所へ近所の人から通報があったでしょ?」
「・・・・・・ああ」
「あれ、わたしなの。もう奈緒人の前に姿を現す勇気はなかったけど、子どもたちが限界なのもわかっていた。だから近所の人のふりをして児童相談所に電話したの」
「わたしはこれ以上怜菜に自分の人生を狂わされたくない。これ以上怜菜にわたしの大事な子どもたちの人生も狂わされたくない」
麻季は疲れたような表情で少しだけ笑った。
大学時代から今に至るまで、麻季のそういう複雑な表情をまじまじと見たのは初めてだった。
麻季を非難しようとした博人の言葉が口を出す前に途切れた。
「・・・・・・奈緒だって怜菜の自己満足な恋愛の犠牲者なのよ。わたしはこの先はずっと奈緒を可愛がって育てて行くわ。怜菜なんかに奈緒の人生を狂わせたりさせるつもりはない。あの子には、わたしの大切な娘として幸せでまっとうな人生を歩ませるつもり」
ようやく博人は言うべき言葉を探し当てた。
「何を言っているのかわからないけど、それはもう君の役目じゃない。奈緒人と奈緒は僕が引き取って育てる」
「博人君じゃ駄目なんだってば。それに奈緒人と奈緒は一緒にいさせるわけにはいかないの」
「奈緒人が奈緒を庇って君を拒否したから、君は奈緒人を捨てて奈緒だけを引き取ろうと言うのか」
「そんなわけないでしょ。お願いだから理解して。奈緒人は博人君と同じくらいあたしにとって大切なの。でも奈緒人と奈緒が一緒に暮らすのはだめ。それにわたしが奈緒人を引き取ってあなたと奈緒が一緒に暮らすのもだめなの。もうわたしが奈緒を引き取ってあなたが奈緒人を育てるしか道はないのよ。だから調停の申し立て内容を変更したの」
「なんでそうなるんだ。理由を言えよ。君は確かに正直に言ったのかもしれないけど、どういう理由でそんなことをしでかしたのか、その明確な説明がないじゃないか」
「本当にこれだけ聞いてもわからないの? 何でわたしが太田先生に嘘を言って、あんなひどい内容の受任通知書を書いてもらったか。何でわたしが博人君を愛しているのに、雄二さんに言い寄って再婚しようとしたか」
「・・・・・・ああ、わからない。ちゃんと説明しろよ。もっとも何を聞いたとしても二人の親権と監護権は渡すつもりはないけど」
「そのとおりだよ。君は奈緒人と奈緒が一生忘れられないくらいの心の傷を与えた。僕がマンションに残したメモを見たか」
「うん」
「あれが全てだ。怜菜さんとか鈴木のことなんかもうどうでもいい。どんな理由や言い訳を聞いたって僕が君を決して許さないのは、君が子どもたちを虐待したからだって何で気がつかないんだ。それともわかっていてわざと知らない振りでもしているのか」
「博人君の方こそ逃げないで考えて。怜菜が何で雄二さんと結婚したか。怜菜が何で雄二さんにわたしと接触するよう唆したのか。何で怜菜は、わたしと雄二さんの浮気を責めずに黙って離婚した挙句、あたなに会って愛の告白みたいなことをしたのか」
「僕は逃げてなんかいないし、自分の考えに言い訳もしていないよ。怜菜さんは僕を愛していたかもしれない。僕は確かに怜菜さんに惹かれていた。でも彼女は亡くなったんだ」
「怜菜の死が不幸な偶然だと信じ込んでいるのね」
「その根拠のない思い込みはもうよせ・・・・・・なあ、本当にそう思っているのだとしたら君は病院できちっと治療を受けたほうがいいよ」
それは付き合い出して以来、初めて博人がした失言かもしれなかった。
麻季はそれを聞いて顔を上げた。
もう麻季は何も隠さなかった。これまでの彼女には博人に嫌われたくないという自己規制がかかっていたし、進めるべきだと思っている筋書きも、それが博人との永遠の別れに繋がる分、決定的な言葉を告げることを先延ばしにしたい感情もあった。
それを言ってしまえばもう、今みたいに居酒屋で博人の食事の心配をするというささやかな幸せすら永久に失われてしまうのだ。
『勇気を出して言ってしまいなさい』
その声につられて麻季はついに言った。
「相手が神山先輩なら恐くない。でも死んだ怜菜にはわたしはどうしたって勝てないもの。自業自得なことはわかってるけど、博人君とやり直せない以上、奈緒人と奈緒は一緒には過ごさせない。でも、あんなでっちあげた内容ではあなたに勝てないことはわかってた」
博人は黙ったままだった。
「だからわたしは雄二さんに再び近づいたの。博人君の心は怜菜から奪えないかもしれないけど、雄二さんをわたしに振り向かせるのは簡単だったわ。そして奈緒の実の父親である雄二さんなら、奈緒の親権は勝ち取れるかもしれない」
「本当に心配しないで。今でも怜菜のことを愛していて、彼女のことを忘れられないあなたに約束します。奈緒のことは愛情を持って育てるし不自由だってさせない」
「今でもこの先も、わたしはずっと博人君だけを愛してる。でももう他に方法がないの。だからもうこれでいいことにしようよ」
「わたしは自分のしたことの罪は受けます。凄くつらいけど、あなたがわたしを許してくれるまではもう二度と奈緒人には会いません。だから奈緒のことだけはわたしに任せてください」
「いい加減にしろよ・・・・・・」
博人はその乱れた感情を反映しているかのように、口ごもったまま辛うじて言葉を出した。
「奈緒人のことよろしくお願いします」
麻季は最後に涙を流したまま頭を下げた。
奈緒人と奈緒 第3部第3話
確かに博人は麻季のことを大切に考えているようで、それから彼は麻季を抱けないことをずっと耐えているようだった。
彼はその夜から全く麻季に手を出そうとしなくなった。
博人には思いも寄らないことだろうけど、耐えていたのは麻季も同じだった。麻季の場合、セックスがないだけならまだ耐えられたかもしれない。
でもあの夜以来、博人は自分から麻季の身体に触れないようになった。多分、抱きしめたり、キスしたりした後の自分の衝動に自信が持てなかったのだろう。
今では、ハグやキスといった夫婦間のコミュニケーションは、全て麻季の方からするだけになり、彼はそんな麻季に軽く応えるだけだった。
全部自業自得だ。博人君は自分を抑えてくれている。
そう理解はしていたけど、彼女の方もそろそろ限界に来ていた。
ある夜、寂しさに耐えられなくなった麻季は、博人に甘えるように彼に寄り添った。いつもの軽いキスとかでは済まない予感がする。
その夜の麻季は、まるで恋人同士だった頃に時間が戻ったみたいに博人に甘えた。麻季はもう我慢ができなかったのだ。
それは決してセックスだけのことではない。麻季にとっては、博人との肉体的な接触が激減したことが不安で仕方がなかった。
そういう麻季の気持を正確に理解したように、博人はいつもと違って真剣な表情で麻季を強く抱き寄せようとした。
『拒否しなさい』
またあの声だ。
『もうやだよ。一度は拒否したんだからもういいでしょ。拒否しても博人君はわたしのことを嫌わなかった。博人君の気持はもうこれで十分にわかったんだし』
『やり始めたことは中途半端にしちゃいけないね。一度拒否するくらいで彼の気持が理解できるくらいなら、何も鈴木先輩と寝ることなんかなかったじゃん』
『だって・・・・・・』
『だってじゃない。君だってわかってるんでしょ。彼の愛情は、単に一回セックスを拒否した程度じゃ試せないって』
『わたし、博人君に抱かれたい。彼に好きなようにさせてあげたいの』
『博人君の気持を知るためだけじゃない。ここで流されたら、怜菜に博人君を取られるかもしれないんだよ』
『そんなこと』
『さあ勇気を出して』
「やだ・・・・・・。駄目だよ」
結局、このときも麻季は心の中の声に従ったのだ。
このときの麻季は可愛らしく博人の腕の中でもがいたので、夫はそれを了承の合図と履き違えたようだった。
しつこく体を愛撫しようとする博人の手に、麻季は微笑みながら抵抗していたから。このままでは埒が明かない。
『博人君を押しのけないと』
麻季の服を脱がそうとした博人は、突然麻季によって突き飛ばすように手で押しのけられた。
一瞬、博人は呆然としたようにその場に凍りついた。
そのときの博人には、ひどく傷つけられた自分の感情を隠す余裕はなかったようだった。
麻季は再び博人の愛撫を拒絶したのだ。
「ごめん」
それでも博人は麻季に対して謝罪した。
何でもないことのように見せようとしているらしいけど、震えている声が博人の彼女を思いやろうとする意図を裏切っていた。
「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよね。悪かった」
「わたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」
「いや」
「・・・・・・口でしてあげようか」
麻季が言った。それは心の声とは関係なく、思わず彼女の口から出た言葉だった。
その言葉に博人は黙ってしまった。
「もう寝ようか」
ようやく博人が口にした言葉は、結婚してから初めて麻季が聞くような冷たいものだった。
博人の冷たい口調に麻季は混乱して泣き始めた。
「悪かったよ」
麻季の涙を見て後悔したように、博人は冷たい口調を改めて言った。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあんなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」
麻季は俯いたままだった。
『先輩との浮気を告白するなら今がチャンスだね』
『わたし、これ以上博人君に嫌われたくないよ』
『博人君を信じようよ。博人君は君を愛している。きっと君の浮気を許すだろう。そうしたら君の悩みの一つはそれで解決でしょ。これでもう二度と君は彼の愛情を疑うことはないだろう』
『・・・・・・・わたし恐い』
『勇気を出しなよ』
『だって』
『まず博人君の愛情を確認しようよ。それから親友だった怜菜の感情を探らないとね。知りたいんでしょ? そして安心したいんでしょ』
『あんなことを告白しちゃったら、わたし博人君に捨てられるかも』
『大丈夫だよ。むしろ、このまま何も手を打たないと怜菜に博人君を取られちゃうよ』
麻季はまたその声に従ったのだ。
「ごめんなさい。謝るから許して。わたしのこと嫌いにならないで」
「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れてるっ
てわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」
「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」
「わかってるよ。落ち着けよ」
混乱している彼女をなだめるように博人は言った。
「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」
「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理ならもう二度と迫ったりしないから」
「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」
混乱した声で麻季は鈴木先輩と寝てしまったことを話し始めた。
「・・・・・・え」
博人は予想すらしてなかった麻季の告白に凍りついた。
「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから許して」
このときは、いろいろとつらい思いをしたのだけど、結局のところ麻季は博人の愛情を確信することができた。
鈴木先輩との浮気を告白した彼女に対して、博人は最後には許してやり直そうと言ってくれたのだ。
博人の愛情を確認するという意味だけを取り上げれば、あの声のアドバイスは正しかったのかもしれない。
ただ、その愛情の対象のどこまでが彼女に対するものなのかはわからない。奈緒人があのとき初めて立って歩き出さなければどうなっていたのだろう。
また、博人の愛情を再確認したその代償も大きかった。
博人の愛情を確信した以上、もう麻季は博人に抱かれてもいいはずだった。
でも麻季の浮気を許して彼女の自分への愛情を信じてくれたはずの博人も、一度鈴木先輩に抱かれた麻季の身体を抱くことができなくなってしまった。
もうあの声も反対しなかったので、麻季は積極的に博人を誘惑した。
そういうときは博人もそれに応えてくれようとしするのだけど、やはり博人は最中に萎えてしまい、彼女を抱けなくなってしまう。
麻季は夫が自分を抱けなくなったという事実に狼狽したけれど、もちろんそれは自業自得というものだった。
それでも肉体的な問題を除けば、麻季は幸せで多忙な日々を送ることができた。
彼女には奈緒人がいる。
博人が彼女を許した理由の大半は奈緒人絡みなのかもしれないけど、そのことはあまり彼女を傷つけはしなかった。
奈緒人は二人の分身だった。そして二人を繋ぎとめる絆でもある。
奈緒人の成長ぶりを博人と話しているとき、彼女は博人に抱かれて喘いでいるときと同じくらいの充足感を感じた。
『麻季?』
鈴木先輩から電話がかかってきたのは、博人が不在の夕暮れのことだった。
着信表示には「鈴木先輩」という文字が浮かび上がっていた。
あれから結局、麻季は先輩とメールのやりとりを再開してしまっていた。
再び鈴木先輩と関係を持つ気は全くなかったが、怜菜の件はまだ未解決だった。
そのことを例の声に指摘され、麻季はしぶしぶと先輩に気のある素振りを装ったメールを返信していた。
怜菜が先輩の携帯をチェックしているかもしれないからね。そうあの声が言ったせいだった。
「メール以外で連絡しないでって言いましたよね?」
「わかってる。ごめん。でもそんなことを言っている場合じゃないんだ」
偶然再会してから、いや大学時代に先輩と知り合ってから、初めて聞くような切羽詰った声だった。
「何なんですか。もうすぐ博人君が帰ってくるんですよ。話があるなら早くして」
博人君が帰宅したときは抱きついてキスして、それから奈緒人を彼に抱かせて迎えてあげたい。
そういうささやかな幸せを、鈴木先輩ごときに奪われたくない。
それにこれ以上博人君に誤解されるのもまずい。麻季はそう思って冷たく答えた。
「悪い・・・・・・。でも僕よりも麻季に関係することだから」
「いったい何があったんですか」
「そのさ。すごく言いづらいんだけど」
「もったいぶらないで早く言って」
「麻季って太田怜菜さんと知り合いだったよね」
何が太田怜菜さんだ。あんたは独身だってわたしには言っているけど、彼女はあんたの奥さんじゃない。正確に言うと鈴木怜菜でしょ。
そう麻季は思ったけど、今さら先輩の嘘を咎める気はなかった。今はとにかく早くこの電話を切りたい。急がないと博人君が帰ってきてしまう。
「偶然に知ったんだけど・・・・・・。君の旦那と怜菜さんって浮気しているみたいだぜ」
一瞬、麻季の周囲の世界が停止した。
「もしもし?」
「ふざけないでよ! いったい何の根拠があって」
「いや。喫茶店で結城と怜菜さんが、二人きりで親密そうに話をしているところを見ちゃったんだ」
場所は博人の編集部の近くにあるクローバーという喫茶店。
その店の名前には聞き覚えがあった。打ち合わせでよく使う店だと博人が話してくれたことがある。
先輩はそこで親密そうに顔を近づけて、何やらひそひそと密談めいた様子で、話をしている博人と怜菜を見かけたのだという。
「僕も二人に見つかったらまずいと思ってすぐに店を出たんで、その後二人がどうしたかはわからない。ひょっとしたらホテルにでも」
先輩はひどく動揺している様子だった。
自分の妻が後輩と密会しているところを発見したのだとすると無理はない。
先輩は乱れた声で何か続けていたけど、もう麻季にはその声は届かなかった。
『やられたな。だから言ったじゃない。怜菜は麻季の敵だって』
『まだ博人君の浮気だって決まったわけじゃないでしょ!』
『先輩は嘘は言っていないと思う。怜菜に浮気されて動揺しているみたいだし。大方、自分のことは棚に上げて怜菜を疑って尾行でもしたんじゃないかな』
『・・・・・・待って。クローバーは同業者の人たちがいつも打ち合わせで使っている喫茶店だって博人君は言ってた。そんなところで密会なんかしないでしょ』
麻季は必死だった。心の声にもそれに同意して欲しかったのだ。
『かえってばれない場所だと思ったのかもよ。怜菜も博人も音楽関係の仕事をしているじゃない? 誰かに見られたって打ち合わせだと言い訳すれば誰も疑わないだろうし』
『やだ・・・・・・そんなのやだよ』
『落ちつきなよ。まだ君は負けた訳じゃない。先輩は女にだらしないくせに、怜菜に関しては自分への貞操を要求するようなクズだからさ。きっと前から怜菜のことは気にしていたと思うんだ。だけど、先輩の慌てている様子からすると、これまではそんな様子はなかったみたいだし、怜菜と博人が二人きりで会ったのはこれが最初だと思うよ』
「麻季? 俺の話聞いてる?」
「・・・・・・うん」
「君にショックな話をしちゃってごめん。でも君が結城に騙されているままでいることがどうしても我慢できなくて」
麻季は先輩の話を聞き流しながら、心の声に聞いた。
『博人君と怜菜は何を話していたんだろ』
『怜菜は旦那に浮気された被害者を装って、博人君の同情を買うと同時に、君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君に思わせようとしたんでしょ。そして怜菜は今、お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに、不倫された同士が恋に落ちるなんていう筋書きを実行しようとしているんだと思うよ。いずれにしてもまだこの二人は出来てない。安心しなよ』
「君の親友である怜菜と浮気するようなひどい男のことなんて忘れたら? 僕なら君を悲しませたりしない。それに奈緒人君のことだって責任を持って育てるよ」
さっきまで他人を装って怜菜さんと呼んでいた彼女のことを、先輩は怜菜と呼び捨てした。彼も動揺しているせいか、呼び方まで気が廻らず、つい普段どおりに怜菜と呼び捨ててしまったのだろう。
『わたし、どうすればいい? また先輩の言うとおりにするの?』
『バカかあんたは。私はあんたと先輩の仲を取り持っているわけじゃない。今は先輩なんて放置しなよ。つらいだろうけど、怜菜のことはなかったように、博人と仲のいい夫婦を続けなきゃだめでしょ。まだ、博人の気持は君のもとにある。怜菜なんかにはまだ取られていない。だから我慢してこれまでどおりに暮らすんだよ。ここで揺らげば本当に怜菜に負けちゃうよ』
『・・・・・・うん』
『できるね?』
『やってみる』
博人の態度はその後も変わらなかったし、日常の素振りからは、彼が浮気をしているような様子は全く覗えなかった。
そして、彼はますます麻季に対して優しく接してくれるようになった。
麻季は心の声に従って、必死に博人との生活を再建しようとしていた。
怜菜と博人君が二人で会ったことが本当だとしても、彼は怜菜の誘惑に乗らなかったのではないか。
そしてそのことを麻季に話さなかったのは、彼女を動揺させまいとしているからなのではないか。
だんだん麻季はそう考えるようになった。それほど博人との生活は穏かで愛情に溢れたものだったし、疑り深い心の声でさえ、『麻季は怜菜に勝ったのかもしれないね』と時折呟くようになっていた。
そういう穏かな日々の積み重ねがしばらくは続いた。・・・・・・怜菜の訃報を多田先輩から聞かされるまでは。
お通夜は今夜だそうだ。
斎場の場所と時間だけを告げると、多田先輩は他の皆にも伝えなくちゃと言い残して早々に電話を切った。
麻季は構ってもらおうと彼女にまとわりついて来る奈緒人の相手をしながら、クローゼットの奥から喪服を取り出した。ワンピースの喪服と黒のストッキング。真珠のネックレス。香典を包む袱紗。
全く現実感がないせいか不思議と悲しみも動揺も感じない。親友だった怜菜を失ったというのに。
まさか、自分はこれで博人を巡る怜菜との確執に決着がついたと内心喜んでいるのだろうか。そうだとしたら最悪の人間性だが、どうもそういうことでもないみたいだ。
悲しみは感じていないが、喜びもまた感じない。ひたすら心が凍結し、感情が鈍くなり、感度が低下している。無理に表そうとすればそういう感じだった。
無感動のまま麻季は必要な支度を終えた。
多田先輩から教わった怜菜の通夜の会場は自宅からそんなに離れてはいないけど、時間的にはあまり余裕がない。
奈緒人をどうしようか。
麻季は博人の携帯に何度も連絡をしてみたけど返事がなかった。
喪服に着替え終えた麻季が姿見で服装をチェックしていたとき、ドアのロックがはずれる音がして博人が帰ってきた。こんなに早い時間の帰宅は珍しい。
「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだもん」
普段どおりの冷静な声。まるで自分ではなく他人の声のようだ。
「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよりその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」
「博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これからお通夜に行きたいだけど」
「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」
「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」
「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」
知っているも何もない。突然亡くなったのはあなたも知っている怜菜だよ。
でも今さらそんなことを言ってもしかたないし、そんな場合でもない。
博人は怜菜に会っていたことを、彼女に話さなかった。そのことを怜菜の葬儀の日に追求するつもりはなかった。
「博人君は知らないと思う。わたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子。太田怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」
感情が鈍っているときでなければ、こんなに冷静に嘘はつけなかったろう。
博人は驚いたような表情で目を見張った。やがてその目に涙が浮かんだ。
麻季は心を動かされずに、何重ものフィルターを通しているかのように、ぼんやりと博人の涙を眺めていた。
「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」
「・・・・・・やっぱり送って行く」
「わたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」
「連れて行く。君が帰ってくるまで、車の中で奈緒人に食事させて待ってるから」
「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」
「とにかく一緒に行こう。僕も外で手を合わせたいから」
博人は奈緒人と一緒に斎場の駐車場で待っているそうだ。
麻季は車を降りて入り口の方に歩いて行った。入り口に黒々とした墨字で太田家と書いてあるのは何でだろう。怜菜は先輩の奥さんなのだから鈴木家と記されているべきではないか。
「麻季」
斎場に入ると人で溢れている入り口のロビーに川田先輩がいた。
「先輩」
「ちょうど始まったところだよ。一緒に並ぼう」
麻季は川田先輩と一緒に焼香を待つ列の後ろについた。並んでいる黒尽くめの人の列のせいで、祭壇や親族席の方を覗うことはできない。
「交通事故だって。怜菜、まだ若かったのに」
川田先輩がくぐもった声で麻季にささやいた。
「お嬢さんを庇って暴走した車にはねられたそうよ。お嬢さんだって小さいのにね」
「・・・・・・怜菜って子どもがいたんですか」
麻季の声が震えた。
「そうよ。鈴木先輩もさぞショックでしょうね」
列が動き出した。始まると早かった。少しして麻季は列の先頭に立った。
親族席に頭を下げたとき、麻季は絶望的な表情で親族に混じって座っている鈴木先輩と目が合った。頭を下げた麻季に応えて怜菜の家族や親族たちもお辞儀をした。同じように頭を下げた先輩は、もうそれ以上は麻季と目を合わそうとはしなかった。
祭壇の中央には怜菜の写真が飾られていた。
怜菜の通夜や葬儀にあたって、怜菜の両親ががどうしてその写真を選んだのかはわからない。
写真の中の怜菜は、生まれたばかりの自分の娘を大切そうに抱いて、カメラに向って微笑んでいた。その微笑は、かつてキャンパスで麻季の横に立って彼女に向けてくれたものと同じ微笑だった。
「ちょっと話していかない?」
香典返しを受け取ってそのまま斎場を後にした麻季に、先に外に出ていた川田先輩が話しかけた。
「怜菜の知り合いがいっぱい来ているの。サークルの人たちとか。少し話をして行こうよ」
「ごめんなさい。息子が待っているので」
「そうだよね、ごめん。あたしは娘を旦那に任せてきたけど、結城君ってマスコミに勤めてるんだもんね。そんなに簡単に帰っては来れないね」
「教えていただいてありがとうございました」
「うん。あんまり気を落すんじゃないよ。怜菜のことは本当に悲しいし悔しいけど、彼女は大切な娘を守ったんだもん。決して無駄には死んでないんだから」
もう無理だった。ここまでは心が氷ついていたせいで痛みすら感じなかった麻季だけど、だんだんと彼女の精神が、彼女の秩序が崩れていくみたいだ。
「怜菜って離婚したはずだけど、何で鈴木先輩が親族席にいたんだろう」
「怜菜、離婚したんですか?」
「うん。出産する前に離婚したって聞いたけど」
麻季にとって初耳な情報だったけど、あまり驚きはなかった。
麻季と鈴木先輩の不倫に気がついたからか。それともあの声が言うように、博人のことが好きで、離婚して身軽になって何らかの行動に出るためだったのか。
「鈴木先輩もつらいでしょうけど、ナオちゃんの育児とかしなきゃいけないだろうし、それで気が紛れてくれればいいんだけど」
川田先輩がそっと言った。
「怜菜の子どもってナオちゃんて言うんですか」
「うん。奈良の奈に糸偏に者って書くみたい。ってあれ? ・・・・・・奈緒人君の名前に似てるね」
「・・・・・・失礼します」
麻季はもう川田先輩の方を見ることもなく駐車場に向って歩き始めた。あっけにとられたように川田は彼女の後姿を眺めていた。
博人が待つ車に戻ると、麻季は普段奈緒人と並んで座る後部座席ではなく、助手席のドアを開けて車内に入った。
博人は運転席にぼんやりと座ったまま、半ば身体をねじるようにして、後部座席のチャイルドシートで寝入ってしまった奈緒人をぼんやりと見つめていた。
「何で?」
「何でって?」
「何で親族席に鈴木先輩がいたの」
「・・・・・・とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」
「博人君は何か知っているんでしょ。何でわたしに教えてくれないの。親友の怜菜のことなのに」
助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。凍りついた感情が突然融解したようだった。
怜菜の死と彼女に娘がいたことが、それほどショックだったのだろうか。その子の名前は奈緒というのだ。
「車を出すよ」
「奈緒って、奈緒って何で? 怜菜はいつ子どもを産んだの。何でその子は奈緒っていう名前なの」
博人は車中では何も喋らなかったし、自分が怜菜を知っていたことへの言い訳すらしなかった。
麻季が泣いたり悩んだりしているときには、いつも彼女を気にして慰めてくれた彼とは全く別人のようだ。
帰宅してから、目を覚ました奈緒人を風呂に入れ寝かしつけるいつもの麻季の仕事は、全て黙って博人がした。
その間、麻季は身動きせず着替えもしないままリビングのソファに座ったままだった。
「奈緒人は寝たよ」
博人はそう言って麻季の向かい側に座った。
博人が麻季の隣に座らないのは、彼女の浮気を知った日以来初めてだった。
「何か食べるなら用意するけど」
麻季にはもう夕食の支度をする気力は残っていなかった。
一応、彼女のことを気遣って博人はそう言ったけど、彼自身も彼女の返事を期待している様子はなかった。
「君は鈴木先輩との浮気を僕に告白したとき鈴木先輩は独身だって言ってたけど、鈴木先輩と怜菜さんが実は夫婦だったことは本当に知らなかったの?」
このときあの声がまだ麻季の頭の中で響いた。
『知らなかったって言わないと。ここで知っていたなんて言ったら、君は本当に博人に捨てられちゃうよ』
『先輩が独身でも既婚でもわたしが不倫したことに変わりはないよ・・・・・・』
『ばか。そんなことじゃない。怜菜のことを承知で彼女の夫と不倫したことを知られたらまずいって言ってるのよ』
『あんたが唆したんでしょ!』
『今そんなことを言ってる場合じゃないでしょ』
「先輩は独身だと思ってた・・・・・・さっき知ってショックだった」
「そうか。じゃあ怜菜さんが鈴木先輩と離婚していたことも知らないだろうね」
「知らない」
少なくともそれだけは本当だ。
「怜菜さんに子どもがいたことも?」
「さっき知った」
麻季は帰宅してから初めて、うつむいた顔を上げ博人を見た。
「ねえ。あなたは怜菜と知り合いだったの?」
「正直に話すと、怜菜さんとは仕事の関係で二人で会ったことがあった」
博人は言った。その態度は麻季の反応を思いやるというよりは、どちらかと言うと投げやりな様子に見えた。
麻季は学生時代から意識して、怜菜を博人に紹介しないようにしてきた。それなのに博人はあっさりと、彼女に黙って怜菜と会っていたことを認めたのだ。
「そこで全部聞いたんだ。怜菜さんが鈴木先輩の奥さんであることとか、彼女が先輩の携帯を見て君との浮気を知ったこととかね」
「怜菜さんは先輩が自分が独身だと偽って君を誘惑していることを知った。でも彼女は麻季のことは恨んでいないと言っていたよ」
「博人君・・・・・・。何でわたしに怜菜と会ったことを話してくれなかったの?」
「僕はショックを受けていたからね。君は鈴木先輩とはもう連絡しないと言っていた。でも怜菜さんが先輩のメールのログを見せてくれた。君はあの後もずっと先輩とメールをしていたんだね」
思わず麻季は言い訳をしようとしたけど、博人の冷たい、なげやりな表情を見て。その言葉は彼女の喉の奥に引っ込んでしまった。
今は切実にあの声のアドバイスが欲しかった。でもこういうときに限ってその役立たずの声は沈黙していた。
もう耐えられなかった。彼女はついに聞いた。
「博人君は怜菜のことが好きだったの?。怜菜は博人君のことを好きだと告白した?」
「うん。僕は彼女に惹かれていた。彼女も僕のことが大学時代から好きだったと言ってくれた」
それから博人は怜菜と関係を話し出した。
もう彼はその話が麻季にどう受け取るかなんて全く気にしていないようだった。怜菜の死に衝撃を受けたのは麻季だけではなかったのだ。
もしかしたら、怜菜の死に関しては、博人の方が麻季よりもずっとショックだったのかもしれない。
彼はもう何も麻季に隠し事をしなかった。
博人は、怜菜が自分が博人の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後に怜菜から会社に届いたメールの内容も詳しく話した。
博人自身も怜菜に惹かれていたこと、怜菜が自分の妻だったら幸せだったろうと考えたことがあることも。それでも怜菜が博人と麻季の復縁を応援してくれていたことも。
そのつらい告白を聞いて動揺した彼女の頭にようやくあの声が響いた。
『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなっちゃってるみたい』
麻季は泣き出した。
いつもと違って泣き出した麻季を博人はぼんやりと見ているだけだった。まるで泣き出した彼女を通り越して、その先にいる怜菜の幻影を追い求めているように。
「何で怜菜はわたしを責めなかったの? 怜菜はあなたが好きだったんでしょ。あなたもそんな怜菜に惹かれていたんでしょ。何で怜菜はわたしからあなたを奪おうとしなかったの。わかんないよ。わたしにはわかんない」
「さあ。もう彼女に聞くこともできないしね」
博人は自分と怜菜のことを話し終えてしまうと、それ以上何も言おうとしなかった。麻季の苦悩にすら無関心のようだった。
それでも結局、博人は怜菜への想いを、麻季は先輩との過ちと怜菜を裏切った後悔を、互いに告白しあい、その上でお互いに一からやり直す道を選んだのだ。
ただ、正直に言えば奈緒人がいなかったとしたら、二人がその道を選択したかどうかはわからなかった。
博人は少しするとまた以前のように優しい夫に戻ったけれど、そんな彼の態度にもう麻季は何の幻想も抱いてはいなかった。
この家族が新婚時代や奈緒人が生まれた頃のような、何の疑問もなかったあの頃に戻っていないことは明白だった。
その原因はやはり怜菜にあると麻季は考えた。浮気をした彼女を博人は許したのだけど、その許容自体は偽りではないと思う。そしてあのときやり直そうと言ってくれた博人の優しさも嘘ではなかったはずだ。
そう考えて行くと、現在の家庭の破綻の原因は、麻季の浮気ではなく怜菜が博人君に告白めいたことを話したせいだ。麻季にはそうとしか考えられなくなっていた。
心の声は結局正しかったのだろう。怜菜にとっては夫である鈴木先輩と、親友の麻季との浮気はつらいことでもなんでもなかったのだ。怜菜にとってそれはチャンスそのものだった。
その証拠に怜菜は全く鈴木先輩を責めることをせず、博人を呼び出して自分の学生時代からの彼への愛情を曝露したのだから。
怜菜にとって誤算だったのは自らが死んでしまったことだった。怜菜が事故に遭わなかったとしたら、今頃麻季は博人に捨てられていたかもしれない。
『そうだろうね。怜菜は君と先輩がメールのやり取りをしているなんて余計なことを博人に言いつけたんだしね』
『やっぱりそう思う?』
『うん。下手したら博人と怜菜は今頃再婚していたかもしれないよ。それで奈緒人と奈緒を仲良く二人で育てていたかも』
想像するだけで気が狂いそうなほどつらい話だった。
それでも怜菜は死んだ。
彼女の目的は意図しない自分の死によって阻止されたのだ。いつまでも死んだ怜菜に嫉妬したり、彼女を恨んでいる場合ではなかった。死人に嫉妬しても何も解決しない。
怜菜の想いは中途半端に博人の記憶に残ったけど、その想いに将来はないのだ。
少なくとも麻季と博人には奈緒人がいた。二人は怜菜の死の記憶を封印するように、再度この家庭を維持することを選んだ。
表面的には二人の仲は以前より安定しているようにも思えた。いまさら悩んでも得ることはない。そう悟った麻季と博人は、だんだんと以前の安定した生活を取り戻していった。
鈴木先輩から電話があったのは、博人が奈緒人を連れて公園に遊びにいている休日のことだった。
「久し振り」
先輩が電話の向こうでそう言った。
「・・・・・・もう電話してこないでって言ったでしょ」
「わかってる。君を騙していたことを一言謝りたくて」
「もう、どうでもいいよ。そんなこと」
「君を騙すつもりはなかったんだけど、何となく怜菜と結婚しているなんて君には言い出しづらくて」
「気にしてないよ。今となってはどうでもいい」
「怜菜の子どもの名前聞いた?」
「奈緒ちゃんでしょ。知ってるよ」
「結城のガキの名前から娘を命名するなんてあいつは気違いだよ。いくら結城のことを好きだからって、怜菜からこんな仕打ちを受けるいわれはないよ」
「結城のガキってわたしの大切な息子のことを言っているわけ?」
「悪い。でも俺は純粋な被害者だよ。怜菜に裏切られたうえに勝手に死にやがって。浮気相手のことを想って命名された娘を、俺は押しつけられてるんだぜ」
「何があったとしても自分の子どもでしょ」
「ああ。そうだな。最初はそれすら疑ったよ。DNA鑑定までした。結果は結城じゃなくて俺が親だったけどな。こんなことならあんな女のことなんか久し振りに抱くんじゃなかったよ」
「さっきから聞いていると先輩だけが一方的に被害者みたく聞こえるね」
「麻季だって浮気されたんだぜ。おまえも俺も被害者じゃないか」
「・・・・・・博人君と怜菜は浮気なんてしていなかったよ」
「そうかな。今にして思えば怜菜のやつ、やたら麻季の話をしてたもんな。麻季が保健所によく子どもを連れて健診や相談に来るとか、麻季の家はどこにあるとか、あのスーパーに毎日買物に来てるとかさ。俺の麻季への気持を知っていて俺のこと、けしかけてたんだろうな」
「話はそれだけ?」
「麻季だってあのガキ、じゃなかった君の息子の名前から命名された怜菜の娘のことが気になるだろうと思って電話したんだよ。鑑定結果がそういうことなんで認知はしたけど、引き取る気はないんだ」
「わたしには関係ない」
「・・・・・・わかったよ。俺だってもう麻季をどうこうしようなんて思ってないよ。もう昔の大学時代の女なんてこりごりだ。こんなことなら身近なオケの中で調達しておけばよかったよ。もう連絡なんかしねえよ。じゃあな」
その後の生活の中で、博人は怜菜や奈緒のことなんか一言も口にしなかった。本当に全く一言も。
それなのに、ある日麻季が奈緒を引き取りたいと思い切って博人に相談したとき、ほんの一瞬だったけど、確かに博人の表情が明るくなった。怜菜の死以降、そんな彼の表情を見るのは初めてだった。
一瞬だけ嬉しそうな表情を見せた博人は、すぐに顔を引き締めた。そして他人の子を引き取って育てることの難しさや、どれほどの覚悟がそれに必要かを延々と話し始めた。
麻季はそんな彼の言葉を真剣に聞いて考える振りをしていたけど、頭の中ではそんなものは聞き流していた。
博人君は格好をつけているだけだ。
本当は怜菜の忘れ形見を引き取れることが嬉しくてたまらないのだろう。
それでも怜菜と博人との淡い恋情を麻季に告白してしまった彼には、自分からそのことを申し出ることが出来なかったのだ。
だから、いろいろと難しいことを言ってはいても、麻季が奈緒を引き取りたいと言ったことを彼は本当に喜んでいたのだろう。
何で自分が奈緒を引き取らなければいけないのか、麻季にはよくわかっていなかった。ただ、例の声のアドバイスに従っただけだったから。
『こんな表面だけを取り繕った夫婦生活をずっと続けるつもり?』
声はいつでもそう話す。博人君が家にいるときには麻季はそれなりに彼のことを信じられた。だけど、博人君不在で家にいるときに麻季はいつも不安に襲われる。そういうときを狙ったように心の中で声が話し出す。
『怜菜が死んでもまだ終ってないんだよ。先輩との浮気で始まったこの作戦はさ』
『作戦とか言うな。もう先輩とも本当に終ったし怜菜も死んだの。これ以上続けることなんてないよ』
『あるよ。まだ奈緒がいる。怜菜の意図なんてまだ何にもわかっていないのよ』
『わかってるよ。怜菜は博人君と結ばれようとしてたんだよ。でも彼女が死んじゃってそれは終ったのよ』
『そんな単純なことじゃないと思うけどなあ。だって、実際博人君の心は怜菜に持ってかれちゃったままじゃん。だから何にも終っていないんだよ』
『それは』
『君は奈緒人のためにだけに、表面だけ取り繕ったようなこんな夫婦生活をこの先ずっとやっていけるの?』
『わたしと博人君はそんなんじゃない』
『奈緒を引き取ろうよ。博人だって喜ぶし。もうそれくらいしか君に出来ることはないよ。それでも出来ることはしておこうよ』
このときも結局、麻季はその声に負けた。
次の週末、麻季は博人の運転する車に乗って降りしきる雨の中を、奈緒が預けられている乳児院を併設した児童養護施設に向った。
奈緒を引き取った一時期、怜菜の意図に不安を覚えて博人と言い争いをしてしまったこともあったけど、それがかえってよかったのかもしれない。
お互いに不安や不満を吐き出したことによって、麻季の不安は収まった。それが端緒になって、二人の理解も深まり和解することができた。
博人は再び麻季を抱けるようにもなった。こうして夫婦の危機は収まったのだ。
容姿と性格だけを取り上げてみれば、奈緒は本当に可愛らしい女の子だった。
麻季のお腹を痛めた子どもは男の子だったから、これまで娘が自分の手元にいることなんて思ったこともなかった。
こうして幼い少女を育てていると、ぼんやりとだけどこの子への母親めいた感情が浮かんでくるようだった。
心が安定し、余裕を持って眺めてみると、することなすこと奈緒の仕草は全て可愛い。
麻季は一時期、怜菜の博人への想いを忘れるくらい奈緒に夢中になった。
奈緒を引き取って一緒に暮らし出した頃から、奈緒人は急にしっかりとした子になった。
どちらかというと甘えん坊な息子のことが麻季は大好きだったのだけれど、その息子はいつのまにか母親離れして、今では麻季が助かるほど奈緒の面倒をみてくれるようになった。
それは幸せな日々だった。
もう鈴木先輩も亡くなった怜菜さえも、麻季と博人を脅かすことはなかった。
博人が帰宅すると、麻季と二人の子どもは待ちかねたように、そろって玄関で彼を出迎える。博人に抱きつきたかったのは麻季も一緒だったけど、最近ではその権利はまだ幼い奈緒に奪われがちだった。
そういうとき、奈緒を抱き上げる博人のことを、麻季は怜菜のことなんて微塵も思い出さずに微笑んで眺めていられた。
奈緒人も父親に抱きつく権利を奈緒には喜んで譲ったけれど、そういうとき彼は最近では珍しく麻季に甘えるように抱きついた。それで麻季は、このときだけは早めに母親離れをした奈緒人を抱きしめることができた。
これ以上望むことは何もない。
怜菜と博人の関係を、博人と麻季は誰を傷つけることなく消化し昇華できたのだ。奈緒を幸せな家庭に加えることによって。
あの声は今回も正しいアドバイスを彼女にしてくれたようだった。
奈緒人と奈緒 第3部第2話
博人と結婚して奈緒人が生まれ、麻季は幸せだった。
もうあまり心の中の声が勝手に彼女に指示することもなくなっていて、生まれてはじめて彼女は、平凡だけど安定した生活を送るようになった。
もう二度とあの声が聞こえることはないだろうと彼女は思った。
それくらい育児というのは彼女にとって大変で、しかし幸せな体験だった。
妊娠をきっかけに麻季は佐々木先生の教室をやめた。先生は育児が一段落したらいつでも戻っておいでと、残念そうに彼女に声をかけてくれた。
育児で多忙な麻季だったけど、奈緒人がお昼寝をしたりしているときは、彼女の自由になる時間がある。
そんなとき、麻季はベビーベッドに寝ている奈緒人をぼんやりと見つめていることが多かった。この子は博人君に似ている。
そんな奈緒人を見つめているだけで、自然に育児の苦労も忘れ、彼女の顔には自然に笑みが浮かんだ。
彼女にとっての出産とは、自分の愛する人が無条件で増えたということだった。
怜菜と鈴木先輩の結婚、そしてその披露宴に招待されなかったことについて、彼女はだいぶ冷静に考えられるようになった。
怜菜が何で鈴木先輩とって悩んだこともあったけど、あの心の中の言葉のとおりだとは やっぱり思えない。
例えば、お互いに好きな相手と添い遂げられなかった同士である怜菜と鈴木先輩が、何かの拍子に相談しあい慰めあっているうちに、恋に落ちたということだって考えられるのではないか。
そういうことだって、世の中には決してないことではない。そしてそういうことだとしたら二人が麻季を披露宴に招待しなかったことも納得できる。
先輩だっていくら怜菜の親友だといっても、自分を振った相手を招待するなんてことはしたくないだろう。
ひょっとしたら、怜菜は麻季のことを招待したかったのかもしれない。もう自分は博人への想いを断ち切って、鈴木先輩と幸せになるよって伝えるために、幸せな披露宴の様子を見せたかったのかもしれない。
でも、常識的に考えれば、鈴木先輩が麻季のことを自分の元カノだと信じ込んでいた以上、怜菜も麻季を招待するとは言い張れなかったのも無理はない。
心の声は以前に言った。怜菜は敵だと。そして、彼女は麻季と博人との付き合いを邪魔しようと企んでいるんだよと。
今にして思えば邪推もいいところで、せいぜいよく言っても考えすぎだ。
怜菜と鈴木先輩が結婚したことによって、麻季と博人の仲が邪魔される要素なんかない。
むしろその逆だろう。今度はその声も麻季の考えたことに反論しようとしなかった。
鈴木先輩との思いがけない再会は、麻季が奈緒人を保健所の三ヶ月健診に連れて行った帰り道のことだった。
周囲のママたちと違って、特に仲の良いママ友なんていない麻季は、奈緒人を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。
駐車場に向かう途中の段差でベビーカーを持て余していたとき、一人の男性が黙ってベビーカーに手を差し伸べて持ち上げてくれた。
お礼を言おうとその男性の顔を見た瞬間、麻季は凍りついた。
黙って手助けしてくれた男性は、鈴木先輩だった。同時に彼の方も麻季に気が付いたようだった。
「あれ、もしかして夏目さん?」
「・・・・・・鈴木先輩」
二人はしばらく呆然としてお互いの顔を見詰め合っていた。すぐに先輩は気を取り直したようで、懐かしそうに笑顔で麻季にあいさつした。
「久し振りじゃん。元気だった?」
「うん」
「そういや結城と結婚したんだってね。夏目さんじゃなくて結城さんか」
「先輩は・・・・・・」
怜菜と結婚したんですよね、と麻季は言うつもりだったけど、先輩はそれを質問だと取り違えたようだ。
「俺? 俺は相変わらず寂しい一人身だよ。同情してくれる?」
先輩は麻季の言葉を自分への質問だと間違えたのだった。そして、自分は独り身だと嘘を言った。自分と怜菜の結婚を、彼女が知らないと思ったらしい。
実際、偶然に多田先輩から聞かなかったら、麻季は怜菜と先輩の結婚のことなんか知る由もなかったろう。
いったい先輩は何を考えてそういう嘘を彼女に言ったのだろう。
「夏目さん、じゃなくて結城さん。これから少し時間ない? 久し振りで懐かしいしちょっとだけ話しようよ」
当然、麻季にはそんな気は全くなかった。けれどこのとき再び、久し振りのにの声が頭なの中で響いたのだ。
『いいチャンスじゃん。この際、鈴木先輩と怜菜のことを少し探っておきなよ。それにどうして鈴木先輩が怜菜との結婚を隠しているのかも気になるでしょ』
麻季は好奇心からその声に従うことにした。
「そこのファミレスでお茶でもしようか」
「・・・・・・少しだけなら」
鈴木先輩は学生時代より少し大人びていて、服装も落ちついた感じで格好よくなっていた。
麻季は奈緒人が寝入ってしまっているベビーカーを押して、先輩とファミレスに入った。
ファミレスの店員は、先輩と麻季のことをきっとまだ幼い子どもを連れた若夫婦だと思っただろう。
席について飲み物が運ばれると、先輩は快活に共通の知人たちの消息を話してくれた。麻季は作り笑顔で頷いてはいたけど、その実少しもその話に興味を持てなかった。
彼女にとって興味があったのは怜菜と先輩との関係、そして怜菜の消息だった。
「今は横フィルにいるんだ。ようやく去年次席奏者になれたくらいだけどね」
「すごいんですね」
麻季はとりあえずそう言ったけど、その言葉に熱意がこもっていないことに、先輩は敏感に気が付いたようだった。
「君だって立派に子育てしてるじゃん。とても幸せそうだよ」
「そんなことないです」
「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ正直に言うと、君ほど才能のある子が家庭に入るなんて意外だったけどね」
「わたしには才能なんてなかったし」
「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃうなんてもったいないって」
「・・・・・・わたしはこの子の育児に専念したかったんです」
「いい奥さんなんだね。しかし結城のやつも嫉妬深いというか」
博人の悪口を聞かされて麻季の顔色が変ったことに気がついたのだろう。先輩は言い直した。
「そうじゃないか。愛情が深いってことだね」
取り繕うように笑った先輩は、心なしか少しイライラしているような感じだ。
本当にここで鈴木先輩と出会ったのって偶然なんだろうか。麻季は少し不審に思った。
『やっぱりこれは怜菜の罠だよ。先輩と怜菜が結婚したのは、君への復讐なんじゃないの?』
心の声が響いた。そしてこれまでその声を聞く一方だった麻季は、初めてその声に心の中で反論した。
『そんなの意味不明じゃない。復讐ならわたしに隠すのって意味ないじゃない』
心の声は待っていたとばかりに反論した。
『そうとも言えないんじゃない? 多分さ、先輩はこの後、君のことを誘惑してくると思うな』
『わたしが博人君を裏切るなんてあり得ないでしょ』
『そんなことは言わなくてもわかってるって。でも問題は先輩の方じゃない。怜菜が何を考えてるかでしょ』
『・・・・・・どういう意味よ』
『先輩の考えていることなんてわかりやすいでしょ。君と寄りを戻すっていうか、君のことを抱きたいんでしょ。こういう男が考えそうなことだよね』
『だからわたしがそんなことするわけないって』
麻季の反論を無視してその声は続けた。
『問題はさ、君の言うとおり怜菜が何を考えているかだよ』
『どういう意味?』
「麻季ちゃん、よかったらメアドとか携帯の番号とか交換してくれる?」
「・・・・・・何でですか」
「いや・・・・・・音楽のこととか同窓の友人たちの情報交換とか君としたいと思ってさ」
「わたしは家庭にこもってますから、先輩には何も教えられないと思います」
「それでも情報は大切だよ。僕の方は麻季ちゃんに教えられることは結構あると思うよ」
いつのまにか先輩は麻季のことを、結城さんではなくて麻季ちゃんと呼び出していた。
『怜菜が本当は鈴木先輩のことなんか好きでも何でもなかったとしたら?』
『どういう意味?』
『そして鈴木先輩が執念深くずっと君のことを狙っていたとしたら?』
『先輩がわたしにそんなに執着するわけないじゃん。この人、ただでさえ女にもてるんだし。それに卒業してから何年経ってると思ってるのよ。先輩や怜菜がそんなことのためだけに偽装結婚までするわけないじゃん。結婚とか式とかって、どんだけ費用と労力がかかると思ってるのよ』
『先輩はそんな面倒くさいことは考えないでしょ。問題は怜菜の意図でしょうが』
『どういうこと?』
『前にも言ったとおり怜菜は君の敵だ。先輩は単純に怜菜に惚れただけでしょ。彼女って控え目で可愛らしいしね』
『・・・・・・あんた、どっちの味方なのよ』
『わたしは君そのものだからさ。君の味方に決まってるじゃん』
『先輩は大学卒業後に怜菜を好きになったということね。それはわかった。でもそれじゃ怜菜の気持は?』
『怜菜は君の敵だよ。そしてこれは純粋に仮説に過ぎなくて証拠はないんだけど、怜菜が何とかして博人君を君から奪おうと考えているとしたらさ、君に浮気させちゃうのがてっ取り早くない?』
『わたしは浮気なんてしないよ。博人君を失ったら生きていけないもん』
『仮定の話として聞いてよ。仮に君と鈴木先輩が浮気したとするじゃん』
『絶対にしない』
『仮にだって! そうしたら鈴木先輩の動向を見張っているだろう怜菜はどうすると思う?』
『・・・・・・どうするのよ』
『怜菜は博人君に接触するよ、間違いなく。それで旦那に浮気された被害者を装って、博人君の同情を買うと同時に、君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君を説得するでしょうね。押し付けがましくなく自然にね』
「今日はいい日だったよ。偶然に麻季ちゃんに会えてメアドとか交換できるとは思わなかった」
『鈴木先輩のことは気にしなさんな。きっと彼には深い考えなんかないよ。ただ、偶然に会えた君を口説いて、あわよくば抱きたいと考えているだけだから』
『先輩なんかどうでもいいけど・・・・・・怜菜が博人君のことを好きだったのは確かかもしれない』
麻季はついにその声に対してそれを認めた。
『でもこんな馬鹿げたことを怜菜がするわけないじゃん。わたしが博人君一筋だってことを怜菜は知っていたはずだし、先輩のことなんて好きじゃなかったこともね』
『君は怜菜の善意を信じてるの? 君の親友だから?』
『怜菜はわたしの人生で唯一の親友なの』
『その親友に君は何をした? 怜菜から博人君を奪った。そしてそれを許してくれた親友の怜菜に博人君を会わせなかったばかりか、卒業までろくに怜菜と一緒に過ごさなかったんでしょ』
『それは・・・・・・』
『それはじゃないよ。そんな仕打ちをされても、怜菜がいまだに君のことを親友だと思っているとでも?』
『じゃあ、どうすればいいのよ。今さら怜菜にあの頃どう思ったなんて聞けるわけないじゃない』
『確かめてみたら?』
その声が静かに言った。
『私の言ったことが正しいかどうか試してみればいいよ』
『・・・・・・どうやって』
『簡単じゃない。鈴木先輩に一回だけ抱かれてみればいいんだよ。鈴木先輩は君を落す気満々だし』
『いい加減にしなさいよ。わたしが博人君を裏切れるわけがないでしょ』
『試すだけなんだから裏切りにはならないよ。それに、君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても博人君は君を許すよ。君はそれだけ博人君に愛されていると思うよ』
『それならなおさら博人君を裏切っちゃだめでしょ』
『それは正しい。怜菜さえ存在しなければね。でも怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理解して手を打っておくべきだよ』
『馬鹿なこと言わないで。それにわたしが先輩に抱かれたら怜菜がどうするっていうのよ』
『さっき言ったとおりだと思うよ。怜菜は旦那に浮気された被害者として、博人君に接触するんじゃないかな。怜菜って、旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖女とか天使とかっていうイメージじゃん』
麻季はそのときは、心の声も愚かなことを言うものだと考え直した。
たとえ、その声が言っていることが正しくて、怜菜がそういうことを仕掛けていたとしても、麻季が鈴木先輩に靡かなければ無意味な話なのだ。
怜菜のことなんかもう放っておけばいい。そして博人君の愛情も疑わなければそれでいい。
しつこく乞われて、やむを得ずに先輩と連絡先を交換した麻季はそう思っただけだった。
それなのにそれからしばらくして麻季は怜菜の意図を図りかね、それを知りたくてどうしようもなくなってしまった。
もちろん博人と一緒にいるときや、奈緒人の面倒をみているときは少しもそういう気は起こらない。
でも博人の不在時に奈緒人がお昼寝を始めると、彼女は親友だったはずの怜菜のことが頭にこびりついて離れなくなるのだった。
そして決して考えるべきでもなく、試すべきでもないことが麻季の脳裏を占めるようになった。
彼女はこんなにも博人君を愛している。
多分博人が万一浮気のような過ちを犯したとしても、麻季は結局それを許すだろう。
でも博人はどうだろう。
麻季が先輩と過ちを犯したとしても、彼は麻季のことを許してくれるのだろうか。
怜菜の意図が知りたい。特に彼女がどれくらい博人に対して想いを残しているのか知りたい。
麻季はひとりでいるときは、いつもそのことを考えるようになってしまった。
同時に博人の気持を試したいという欲求も、徐々に彼女の心を支配するようになっていった。
先輩はメアド交換をして以来、しょっちゅうメールを送ってくるようになった。
麻季の方は当たり障りなくそれに返事をしていた。
博人との馴れ初めが馴れ初めだったので、本当は先輩とメールのやり取りなんかすべきではないことはわかっていた。
でも怜菜の意図を知りたいという欲求のことを考えると、ここで先輩との連絡を絶やすわけにはいかなかった。
心の声はあれからもしつこく麻季に話しかけてきた。
『鈴木先輩に一回だけ抱かれてみな。試すだけなんだから裏切りにはならないよ』
『君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても、きっと博人は君を許すよ。君はそれだけ彼に愛されているんだから』
『怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理解して手を打っておくべきだよ』
『怜菜は旦那に浮気された被害者として博人に接触するでしょう。そして、お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに、恋に落ちるなんていう筋書きを書いているんじゃないかな。怜菜って旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖女とか天使とかっていうイメージじゃん』
そんなとき先輩からメールが届いた。
横フィルの次の定演で先輩がソリストとしてデビューする。招待状を送るから来ないかという内容だった。
『行ってきなよ』
その声が静かに言った。
『確かめてみたら?』
鈴木先輩にホテルの一室で抱かれた夜、麻季は先輩に抵抗もしなかったけど、乱れた演技すらもしなかった。終始人形のように先輩にされるままになっていただけだ。
博人に抱かれて、乱れて喘ぐときとは大違いだ。それでも先輩はそんな麻季に満足したようだった。
「結城って本当に君のことがわかってないんだな。何年も君と寝ていて、君のこと開発すらしていないなんてさ」
先輩は博人のことを嘲笑しながら、麻季の裸身を優しく愛撫した。
「もう少し機会をくれれば君のこと絶対に変えてみせるよ」
先輩が何を言おうと麻季の心には何も響かない。
次の機会なんてないのだ。
怜菜の感情を推し量るためには、こういうことは一度だけで十分だった。
それに彼女はろくに先輩の言葉に注意していなかった。心の声の方に気を取られていたからだ。
『ついでに博人の気持も確かめとこうよ』
『そんな必要はありません』
『本当は不安なんでしょ、彼の気持が。怜菜が動き出す前に安心しておこうよ』
『どうすればいいの』
『博人が君を求めてきても拒否しなよ。君だって嫌でしょ? 先輩に抱かれた身体で博人君と交わるなんてさ』
『・・・・・・』
『しかし見事なまでに感じてなかったね。鈴木先輩のせいとは思えないから、きっと君は博人じゃなきゃ駄目なんだな』
『当たり前だよ』
『でももう君はそんな大切な人を裏切って浮気しちゃったんだよ』
『あんたがそうしろって言ったんでしょう』
『わたしは君だからね。つまりこれは君自身が望んでしたことなんだよ』
『今まで博人君が求めてくれるのを断ったことないし、断れば疑われちゃうよ』
『そう。君は疑われなきゃいけないんじゃないかな』
「今日は泊まっていける?」
「無理。奈緒人を迎えに行かなきゃいけないし、先輩だって打ち上げに顔を出さないわけにはいかないでしょ」
「君と過ごせるなら打ち上げなんて」
「わたしが無理なの!」
「ひょっとして後悔してる?」
「してる。わたし、博人君を裏切っちゃった」
「・・・・・・泣かないで。君のせいじゃない。全部、僕が悪いんだ」
「もういい。これが最初で最後だから。先輩、もうわたしに連絡してこないで」
「普通の友人同士としてとかなら」
『電話は駄目だけどメールくらいは許してやんなよ』
『もうそんな必要ないじゃない』
『怜菜の気持を知りたいならそうした方がいい。始めちゃった以上は良くも悪くも続けないと。中途半端が一番まずいよ』
「・・・・・・電話はしてこないで。メールにして」
「・・・・・・わかった。君がそういうならしつこくはしないよ。大学の頃から本当に君だけしか愛せなかった。だからメールくらいはさせてくれ」
『出産してから博人君は全然そういうこと誘ってこないもん。考えたって無駄じゃないかな』
『そろそろ博人君だってそういうこと考えていると思うよ。早晩、君のことを求めてくるって。そのときは彼を拒否しなよ。そうしないと好きでもない男に抱かれて博人を裏切った意味がなくなってしまうから』
鈴木先輩はベッドの上ではしつこくメールしないと約束したけど、ホテルの前で別れたその晩に、さっそくまた麻季に会いたいというメールを送りつけてきた。麻季は拒絶の返事を書いてメールを出した。
『もうわたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない』
その後、多忙であまり家にはいないながらも、麻季と奈緒人のことを気遣う博人に対して、麻季は自分がしてしまったことに罪悪感を感じた。
幸運なのか不運なのか、産後の麻季の体調を気遣った博人は麻季を誘うことはなかったので、表面上は二人は今までどおり仲のいい夫婦のままだった。
あんな声に従って博人君を裏切るなんて、何て馬鹿なことをしたのだろう。麻季は後悔したけど、してしまったことはもうなかったことにはできない。
麻季の浮気なんて夢にも疑っていない博人は相変わらず優しかったし、麻季も自分の過ちをだんだんと忘れることができるようになった。
それでもやはりその日は訪れた。
ある夜、奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、博人が出産以来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。
このときの麻季は自分の不倫を忘れ、博人の愛撫に期待して身体を彼に委ねようとした。
『ほら、ちゃんと拒否しないと』
最近聞こえてこなかった声が麻季に言った。
博人は麻季をこれまでより強く抱き寄せて、彼女にキスしながら手を胸に這わせ始めていた。
『やだよ。久し振りなのに断ったら博人君を傷付くと思うし、それにわたしだって・・・・・・』
『君は先輩に抱かれたんでしょ。それなのにしれっと博人君に抱かれる気?』
『あれはしたくてしたんじゃないし! それに気持悪いだけだった』
『そうだね。そんな思いまでして先輩に抱かれたのには目的があったからでしょ。今さらそれをぶち壊す気なの』
『・・・・・・だって』
『ここで頑張らないと、先輩と寝たことは単なる浮気になっちゃうよ。さあ、疲れてるからそんな気分になれないって博人にいいなよ』
博人の手に身を委ねてい麻季は彼の腕の中から抜け出した。
「・・・・・・麻季?」
初めて見るかもしれない、博人の傷付いているような表情に麻季は胸を痛めた。
「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」
「いや。僕の方こそごめん」
「ううん。博人君のせいじゃないの。ごめんね」
一度博人の腕から逃げ出した麻季は、再び彼に抱きついて軽くキスした。
「もう寝るね」
「うん。おやすみ」
本当は麻季の方が泣きたい気持だったのだ。
奈緒人と奈緒 第3部第1話
奈緒は怜菜にそっくりだ。
友人のいない学生時代を、唯一といっていい親友の怜菜と過ごした麻季にはそう思えた。
別に外見だけじゃない。まだ幼いのに他人に対する態度がすごくソフトなところや、人の気持を優先して自分を抑えるところは、まるで人のいい玲菜そのものだった。
そして一見、遠慮がちで儚げな様子に隠れてはいるけど、実は奈緒の芯は非常に強く、自分の考えを曲げない強い意志の力を持っている。
幼稚園の先生からの連絡ノートを読んで、麻季は自分の考えを確信するようになった。
鈴木先輩の実子ではあるけれど、彼の調子のいい優しさや、その場限りの人当たりの良さなんて奈緒には全く感じられない。
奈緒は完全に怜菜似だったのだ。
最初の頃は、麻季にとってそのことが嬉しかった。自分に裏切られてもなお、黙って身を引く道を選び、そして突然の死を遂げた親友の怜菜が、再び自分の前に姿を現してくれたように感じたのだ。
心配する博人を説き伏せて奈緒を引き取った決心は正しかった。そう思うと麻季の生活には自然とやりがいと張りが戻ってきた。
博人も多忙な仕事を無理にやりくりして、週末はなるべく家で過ごすように心がけていたようで、自然に夫婦の仲も改善されだした。
自分の浮気から始まった家庭の危機が、ようやく収束しようとしていた。
これも怜菜のおかげかもしれない。
怜菜の遺児を引き取ることによって、麻季と博人は失っていた共通の目標を再び共有することができたのだ。
奈緒の遠慮がちな態度は、父親の博人や麻季自身に対してさえ向けられていた。
奈緒は物心がつく前から結城家に養子に入っていたし、奈緒が実子でないことは、まだ幼い本人には伝えていなかったので、両親にくらいは無邪気に自己主張してもいいはずだった。
でも奈緒はそうしなかった。
養子であることを知らないことを考慮すると、きっと奈緒は家族も含めて誰に対しても一歩引いて、相手の意向に従う態度を示すような性質を持っていたのだろう。
その頃から、奈緒は奈緒人によく懐いていたし、奈緒人も奈緒の面倒をよく見ていた。
そのこと自体には不満がないどころか、麻季にとっても喜ばしいことですらあった。
二人はいつも一緒に過ごしていた。
その様子は微笑ましかったし、仕事から帰った博人もそんな様子を暖かく満足して見守っていた。それでも少しだけ困るようなこともあった。
たとえば休日に家族で外出するとき、家族四人で一緒に遊んだり食事をしたりする場合は別に問題はないのだけど、博人と麻季が手分けして生活に必要なものを購入しようと、二手に分かれたりすると問題が発生した。
奈緒は奈緒人の姿が視界にないことに気がつくと、火のついたように泣き出してしまう。
奈緒人も泣きはしないまでも、博人の手を振り払い、奈緒の姿を求めて駆け出して行こうとした。
そういう子どもたちに手を焼いた博人と麻季は、外出中に奈緒人と奈緒を引き離すことを諦めた。
何か漠然とした不安を感じないでもなかったけど、それがどういうことなのか当時の麻季にはわからなかった。
そして、奈緒人と奈緒の親密な関係は親にとっては、嬉しい悩みなのだと考えようとした。
一見、理想的に育児や家事をこなしているように見えた麻季には、当時もっと気になることがあった。
それは引き取った娘の名前だった。
奈緒自身には何の罪もない。
実の両親がそう名付けたのだとしたら、あまり趣味がいいとは言えないけど、まあ世間にないことでもないだろう。
でも、その命名が博人に淡い想いを抱いていた怜菜が、黙って自分の娘に名付けたことが他人に知れたとしたら、世間体が悪いなんてものじゃない。
仮に怜菜の子どもが男の子だとしたら、いったい彼女はその子に何と名付けたのだろう。まさか奈緒人だろうか。
鈴木先輩と別れて一人で出産、育児をする道を選んだ怜菜は、離婚に際して自分の旦那に何も要求しなかったらしい。
もちろん、麻季自身に対して慰謝料を請求することもなかった。
怜菜は黙って自分の夫が自分の元に帰ってくるのを待ち続け、それが敵わないと判断すると、何一つ要求するでもなく一人で身を引いたのだ。
当時、既に身重の身になっていたことすら夫に告げずに。
そういう怜菜の身の処し方は一見鮮やかなように見える。
事実、麻季が博人を問い詰めたとき、博人も怜菜のそういう様子に惹かれていたと正直に白状したものだった。
『怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわかった。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら先輩のことすら恨んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな』
博人は怜菜のことを聖女とか天使とかという表現で褒め称えた。
麻季だって理解はしていたのだ。
怜菜と博人の間の恋情は淡く、そしてプラトニックなものだ。自分が鈴木先輩と犯してしまったような肉体的な関係ではないのだと。
でも、それだからといって相手を想う気持ちが、肉体関係を伴った不倫より小さいとは言えないだろう。
ましてその相手の怜菜が亡くなってしまえば、自分の夫が怜菜に対して抱いた想いは、彼女への恋情を残したまま永遠に氷結されてしまったままになるのだ。
疑おうと思えばどんなことだって怪しく思える。
怜菜が自分の夫に何も要求せずに離婚したのだって、ひょっとしたら博人と麻季自身が離婚したときに、自分と博人がすぐにでも結ばれると期待したためかもしれない。
もっと邪推すれば、荒唐無稽な考えかもしれないけど、怜菜は自分への博人の想いを永遠のものにすべく、自分の娘に博人の一人息子の名前をもじって奈緒という名前を命名し、その後自ら命を絶ってということだって・・・・・・。
それはいくら何でも妄想が過ぎるというものだと麻季は思った。
彼女は卒業してから全く連絡を取らなくなっていた怜菜のことを思い出してみた。
当時、同性の友人がほとんどいなかった麻季にとって怜菜はほとんど唯一の友人であり、親友でもあったのだけど、あの頃の怜菜には男女問わず友人が多かった。
講義に出てもサークルに行っても、彼女に話しかける学生はたくさんいた。
「怜菜、元気?」
「よう怜菜。最近付き合い悪いじゃん」
「怜菜さ、鹿児島フェスのマスタークラス申し込む?」
「今日、芸大の人たちから合コン誘われてるんだけど怜菜も行かない?」
怜菜は話しかけてくる友人たちに、愛想よく受け答えしていたけど、気の進まない誘いは頑として断っていた。
「わたしなんかに気を遣わなくていいからもっと友だちと遊べばいいじゃん」
麻季は怜菜のそういう態度に不審を覚えて、そう言ったことがあった。
「いいよ。本当に気が進まないし、あたしは麻季と一緒にいた方がいいや」
そういうとき、怜菜は決まって笑ってそう言うのだ。
麻季だって怜菜がいなくても一人で寂しいということはない。怜菜と一緒に過ごす方が気は休まるのだけど、一人で過ごしたくなければ自分に言い寄って来た男を呼び出せばいい。
もっとも、ほとんどがつまらない男ばかりだったので、麻季が一緒にいてもいいと思えるような男は、サークルの鈴木先輩くらいだったのだけど。
彼になら多少のことは許してもいいかもと麻季は当時考えていた。
本音を言えば相手が鈴木先輩だとしても、一緒にいることに、本心から充足感を感じたことはなかったのだけれど、自分の相手をしてくれる人の中では彼はだいぶましな方だった。
それに彼と一緒にいると学内で優越感を感じることができる。
それでも麻季にとっては、怜菜が一緒にいてくれたほうが気が休まった。
唯一の親友、というか唯一の同性の友人である彼女といると、麻季は気を遣わずに楽しく過ごすことができるような気がしていたからだ。
怜菜には友人たちの誘いが多かったけど、それでもほとんどの誘いを断って、麻季と一緒に過ごしてくれていた。
彼女も麻季と一緒にいる方が、気を遣わなくていいやと笑っていた。
そんな二人の関係が変化したのは、麻季が生まれて初めて自分から手に入れたいと思った男性と出合ってからのことだった。
結城先輩のことはサークルの新勧コンパのときから気にはなっていた。
あの夜、麻季は先輩たちから途切れなく誘いの言葉をかけられたのだった。
あのときは怜菜ともまだ仲良くなる前だったから、麻季は話しかけてくる先輩たちの相手をしながらぼんやりと店内を見回していたそのとき、一人の男の先輩と目があった。
その人は麻季と目が合って狼狽したようだった。男のこういう反応には慣れていたから、麻季はとりあえずその先輩に会釈した。
・・・・・・今度こそ先輩はさりげなく彼女から視線を外してしまい、隣にいる同回生らしい女の子と喋り始めた。
こちらから挨拶したにも関わらず無視されたことにも腹が立ったけど、自分の会釈を完璧に無視して、他の女と親しげに話し始めたことに、麻季は何だか少しだけむしゃくしゃした気持になった。
そんな彼女の様子に周囲に群がっていた先輩たちも不審に思ったようだ。
「あの・・・・・・。あそこでお話している先輩は何という人ですか」
「ああ、あいつは二年の結城だよ」
「結城先輩ですか」
「夏目さん、あんなやつに興味あるの? あいつ変わり者だぜ。音大に入ったのにろくに器楽もしないで、音楽史とか音楽理論とかだけ勉強してるんだ」
その先輩は結城先輩の人となりをけなしながら解説してくれたけど、そのときの麻季の耳にはそんな言葉はろくに届いていなかった。
あまり格好いいとかスマートとかという印象はない。でも、何だかそのときは結城先輩のことが気になったのだ。
どうせあの先輩もわたしのことが気になってるんだろうな。そう麻季は思った。
でも冴えなさそうな結城先輩は、わたしに話しかける勇気がないのだろう。
その後、結城先輩はあまりサークルに顔を出さなかったこともあって、彼と話をする機会はなかった。その間に麻季は怜菜と知り合い、仲良くなった。
それは麻季が怜菜と一緒に、階段教室で一般教養の東洋美術史の講義に出席していたときだった。
講義が始まってしばらくすると、隣に座ってた男の人が麻季に出席票を回してくれた。その人はそのまま席を立とうとしているようだった。
そのとき、麻季はその人が結城先輩であることに気がついて、少し彼をからかってみようと考えたのだった。自分にからかわれて嬉しくない男も少ないだろうし。
「こんにちは結城先輩」
驚いたように結城先輩は席に座りなおした。出席票に目を落すと、最後の欄に雑な字で結城博人と書かれていた。
博人さんというのか。
「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一年の夏目といいます」
「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」
「先輩に教えてもらいました」
麻季はそう答えた。
「じゃあね」
その場の雰囲気を持て余したように、先輩が中途半端に立ち上がりながら言った。
「講義聞かないんですか?」
「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」
「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」
「・・・・・・そんなことないよ」
「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じました」
「じゃあ、失礼します」
麻季はそう言って話を終らせたのだけど、その後に隣に座っていた怜菜が珍しく結城先輩のことを聞き始めた。
「今の人ってサークルの結城先輩だよね」
「そうみたい」
「麻季、いつのまに先輩と知り合いになったの?」
「話したのは今が初めてだよ」
「嘘? 何で初対面の人にあんなに親しく話せるの」
「・・・・・・何でって別に」
「麻季って結城先輩のこと気になる?」
怜菜が麻季にそういう質問をするのは珍しかった。
「何で? そういうこと聞くの怜菜にしちゃ珍しいじゃん」
「そうかな? 別にそうでもないでしょ」
怜菜が少し赤くなった。
「ひょっとして怜菜って結城先輩が好きなの?」
ぶんぶんと音が出そうなほど、怜菜は首を横に何度も振った。
「違うよ。そんなんじゃないって。それにあたしは麻季の恋の邪魔なんてしないよ」
「別にわたしだって好きとかそういうんじゃ」
「ふふ」
珍しく言葉を濁した麻季を見て、怜菜は微笑んだ。講義が始まったこともあり、このときの話はそれで終った。
その後キャンパス内で何度か結城先輩を見つけた。
先輩は、男と二人で歩いている麻季の方を、何気なく見つめていたみたいだった。
それでも麻季にとって腹立たしいことに、結城先輩は彼女には一言も声をかけようとはしなかった。
この頃、麻季は三回生の鈴木先輩に言い寄られていた。彼への気持ははっきりしなかったけど、それでも他の男に向ける気持とは少し違う気持を抱き始めていた。
何より彼といると周囲の女の子の視線が彼女の優越感をくすぐる。
それでも麻季は、鈴木先輩と一緒にいるよりは怜菜と一緒にいることを選ぶことが多かった。
男は鈴木先輩に限らずいっぱいいたけど、女友だちは怜菜くらいしかいなかったから。
そんなある日、麻季は結城先輩が女の子と親し気に話をしているところを目撃した。
何か心の芯がじわじわと痛んでくるような感覚が訪れて、彼女はそのことに狼狽した。
結城先輩と一緒にいる子は陽気な可愛らしい感じの人だった。単なる知り合いという感じじゃないなと麻季は思った。
「結城先輩だ」
一緒にいた怜菜がそう言った。そして少し残念そうに話を続けた。
「やっぱり神山先輩かあ。何かいい雰囲気だね、あの二人」
麻季は少しだけ心が重くなるのを感じた。別に彼のことをはっきりと好きというわけではないのに。
「神山って誰?」
「二年の先輩。何かさ、結城先輩と幼馴染なんだって」
「そう」
「やっぱり結城先輩と神山先輩と付き合ってるのかなあ。まあお似合いだよね」
自分の心の動きはそのときにはさっぱりわからなかった。それでも麻季は冷たく言った。
「全然似合ってないじゃん。結城先輩はあの人のことを全然好きじゃないと思うよ」
「よしなよ」
怜菜が麻季の言葉を聞いて、真面目な表情になった。
「・・・・・・よしなよって何が」
「あんたは今はもう鈴木先輩と付き合ってるんでしょ。他の人にちょっかいを出して不幸にするのはやめな」
「付き合ってないよ」
「嘘。こないだ麻季と鈴木先輩が抱き合ってキスしてるとこ見たよ」
「あんなの。一方的にキスされただけだよ。わたしは誰とも付き合っていません」
「嘘言え。あんたの方だって鈴木先輩の首に両手を回して抱きついてたじゃん」
「怜菜には関係ないでしょ。何? あんたやっぱり結城先輩のこと好きなんでしょ? それでわたしに彼に手を出すなって言ってるんじゃないの」
「違うって」
そう答えた怜菜の顔は真っ赤ですごくわかりやすかった。
何だ。親友とか言ったって、結局怜菜も自分の恋が大切なだけか。なまじ客観的なアドバイスの形を取っているだけ、玲菜の言葉は麻季を苛立たせた。
このとき結城先輩のことがどこまで好きなのか、自分でもわからなかった。
鈴木先輩を振って、平凡そうに見える結城先輩を選んだら後悔するかもしれないよ。心の中でそんな声が聞こえた。
でも目の前の怜菜の偽善に腹が立った彼女には、もはや冷静に考える余地は残っていなかった。
お互いに恋愛なんて超越した親友同士だと思っていたのに。怜菜に裏切られた気がした麻季は、もう自分を抑えるすべを知らなかった。
それでも、しばらくは結城先輩とは会えなかったから、彼女は具体的な行動には出られなかった。ただ、頭の中に結城先輩の姿がしょっちゅう浮かぶようになって、鈴木先輩はそんな彼女の様子がいつもと違うことに気がついたらしい。
麻季と二人でキャンパスを歩いていた鈴木先輩は彼女を責め始めた。
「麻季さあ、おまえ浮気してるだろ」
「浮気? わたしは別に先輩と付き合っていないし、浮気とか言われてもわかんない」
「ふざけんなよ。キスまでしておいて付き合ってないってどういうこと?」
「先輩が勝手にしたんでしょ。わたしは知らないよ、そんなこと」
「・・・・・・まあ、いいや。今日のところは許してやるよ。それよかさ、これから遊びにいかね? 今日はもう実習はないんだろ」
先輩としては譲歩したつもりだったのだろう。
麻季がその誘いを断った瞬間、鈴木先輩の手が頬に飛んできて彼女は地面に倒れたのだ。
下から眺め上げると、鈴木先輩に詰め寄る結城先輩の姿が見えた。
結城先輩が何か話すと、鈴木先輩はみっともなく言い訳しながら去って行ってしまった。
このときが、麻季が初めて結城先輩への愛情を実感した瞬間だったかもしれない。
「君、大丈夫?」
結城先輩が倒れている麻季に手を差し伸べた。
「怪我とかしてない?」
「……先輩、神山先輩と別れたの?」
麻季はこのとき一番気になっていたことを聞けなかった。その代わりに二番目に気にしていたことを口に出した。
「何言ってるんだよ。そんなこと今は関係ないだろ・・・・・・。君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」
「彼氏って誰のことですか?」
結城先輩はとりあえず麻季を学内のラウンジに連れて行ってくれた。
「ほら、コーヒー」
「ありがとう。結城先輩」
麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっきの先輩のことを話し始めた。
「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義があるからって断ったら突然怒り出して。付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。わたしは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」
結城先輩は何か考え込んでいる様子だった。
「神山先輩と別れたの?」
麻季が聞いた。何でそんなことを突然口にしたのか自分でもわからなかったけど。
「別れるも何も付き合ってさえいないよ」
「・・・・・・先輩?」
そのとき、結城先輩はいきなり麻季の髪を愛撫するように触った。
先輩は急に声を出して笑った。髪を撫でられながら麻季は微笑んで言った。
「結城先輩、やっぱりわたしのこと好きでしょ」
「結城先輩とお付き合いを始めたの」
そう怜菜に対して話したとき、麻季は少し緊張していた。
怜菜が結城先輩のことを好きなのだとしたら、ショックを受けるかもしれない。もともと怜菜への意地から始めた自分の行動について、この頃には麻季は結城先輩のことが好きで始めたことだと思い込むようになっていた。
だから、今の麻季は友情よりも自分の恋愛を優先した怜菜のことを、もはや恨んではいなかった。お互い様だと考えたから。
自分と結城先輩の付き合いに、彼女がショックを受けないかだけを心配していたのだ。
「そっか」
怜菜はあっさりと言った。
「ごめんね」
「何で麻季が謝るのよ。あんたの誤解だって」
「・・・・・・それならいいんだけど」
「あたしは別にどうでもいいんだけどさ。ちょっとだけ鈴木先輩と神山先輩のことが気になるな。きっと傷付いてると思うよ」
「博人君は神山先輩とは付き合ってないって」
「もう博人君って呼んでるんだ」
「うん。ごめん」
「だから、謝らなくてもいいって。でも付き合ってなかったにしても、神山先輩はショックだろうなあ。結城先輩に失恋したんだしさ」
「よくわかんない」
「それに鈴木先輩は絶対落ち込むよね。付き合ってた彼女を後輩に取られちゃったんだもんね」
「わたし鈴木先輩の彼女だったことなんかないもん」
「・・・・・・抱き合ってキスしてたくせに」
「先輩からされただけだよ」
「あっちはそう思ってないって」
「まあ、でも」
ここで初めて怜菜が麻季に優しく微笑んでくれた。
「鈴木先輩には悪いけど、付き合うなら結城先輩の方がいいよね。安心できそうだし」
怜菜の言葉を聞いて麻季は、ああよかった、これからも怜菜と友だちでいられると思ってほっとした。
友だちでいられると思ってほっとしたのはよかったけど、結局その後は怜菜とはあまり一緒に過ごさなくなっていった。
一つには博人と付き合っているうちに、思っていたより麻季の方が博人に夢中になってしまったからだった。
男性に対してここまで依存に近いくらい一緒にいたいと考えるようになったのは、彼女にとっては初めての経験だった。
麻季はなるべく博人と過ごすようにしていた。お互いに違う講義に出席している時間を除けば、キャンパス内でも大学への行き帰りもいつも二人きりで過ごしていた。
それは全部彼女の希望だったけど、博人も笑ってそれでいいよと言ってくれた。
そういうこともあり、博人といつもべったりと一緒だった麻季には、怜菜と一緒に過ごせる時間がなくなってしまったのだった。
もう一つは麻季自身の怜菜に対する感情の問題だった。
怜菜に祝福されてほっとした彼女はこれまでどおり彼女と付き合えると思っていた。
ところが博人に惹かれ夢中になっていくうちに、自分でもよくわからない嫉妬めいた感情によって心が支配されてしまうようになった。
怜菜は博人のことが好きだったのだろうか。つい先日までの彼女の悩みは自分が親友の好きな人を奪ってしまったことによって、怜菜が自分から離れていってしまうのではないかというものだった。
ところが博人に対する独占欲が強くなっていくうちに、怜菜に対する感情が変化していった。
怜菜が本当に博人のことを好きで、しかもその感情をまだ諦めていないとしたらどうだろう。
麻季は男性に関して他の女の子のことなんか気にしたことはなかった。神山先輩に対してだって負けると思ったことはなかった。
それなのに怜菜に対しては、なぜか不安を覚えるのだ。
そういうわけで、麻季は怜菜も含めて学内ではあまり博人以外の人と会ったり喋ったりしなくなった。
博人と二人きりでいるだけで十分だったし、そうしている間は怜菜への漠然とした不安もあまり感じないですむ。
麻季が自分の方からこれほどまでの愛情と不安と嫉妬心を抱いた男性は博人が初めてだった。
最初、怜菜はそんな麻季の様子に戸惑い、そして少し寂しそうだった。
「麻季って最近、結城先輩とべったりだね」
二人が出席していた同じ講義が少し早く終ったあと、一緒に中庭を歩きながら彼女はそう言った。
「うん。彼と一緒にいないと寂しくて。ごめんね」
「謝ることはないよ。あたしは別にいいけどさ。麻季って本当に結城先輩が好きなんだね」
「うん」
「でも気をつけた方がいいかも。たまに鈴木先輩が二人のこと凄い目で睨んでるし」
「・・・・・・あの人、まだそんなことしてるんだ。博人君に追い払われて逃げたくせに」
「まあ、先輩にしてみれば、自分のことを麻季に浮気されて捨てられた被害者だって思っているろうし」
「冗談じゃないよ。わたしあの人に殴られたんだよ。女に手を出すなんて最低でしょ。あのとき博人君が助けてくれなかったら、もっとひどいことされてたかも」
「それはそうかもしれないけどさ、まあでもちょっとは注意しなよ。あ、お迎えが来たみたいだよ」
「うん。ごめんね」
麻季は博人が怜菜に気づく前に、彼の腕を取って出て行ってしまった。
怜菜が普通に接してくれるのはいいけど、彼には怜菜を紹介したくなかったのだ。
だから博人は、怜菜も含めて麻季の友人に紹介されたことは一度もなかった。
麻季の心配をよそに二人の交際は順調に続いた。
麻季は自分のアパートを解約して、博人の部屋に引っ越した。最初のうちは、博人の自分への態度が凄く淡白なことに不安を感じていたけど、一緒に暮らすようになると段々とそんな不安も解消されていった。
博人なりに麻季に愛情を感じていてくれていることも、彼の不器用な愛情表現から理解できるようになったのだ。
鈴木先輩や他の男たちのように、四六時中彼女を誉めたり愛していると言ったりはしないし、彼の方から手を繋いだり身体に触ったりすることもあまりないけど、それでも穏かで静かな愛情というものがこの世にはあるのだということを麻季は初めて理解した。
これまでの男たちは、自分が喋ることが好きで麻季の言うことをあまり理解しようとしなかった。
もちろんそれは自分の感情表現の下手さから来るものでもあった。
ところが博人はほとんど口を挟まずに不器用な彼女の言葉を聞き、自分の中で繋ぎ合わせ、最後には彼女の考えていることを理解してくれたのだ。
両親と怜菜を除けば、そんな人は博人だけだった。
もう博人君から一生離れられないと麻季は思った。
だから博人が音楽の出版社に内定が決まった日の夜、彼からプロポーズされた麻季は本当に嬉しかった。
「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」
このときの麻季の涙はこれまでと違って中々止まらなかった。
結婚後、麻季は大学時代のピアノ科の恩師、佐々木先生の個人教室のレッスンを手伝っていた。
音大時代のほとんどの時間を博人にかまけて過ごしてしまった彼女だけど、佐々木教授だけは、どういうわけか彼女に目をかけてくれていた。
演奏家としてやっていくほどの実力もないし、中学や高校の音楽教師になれるほどのコミュ力もない麻季に、先生は自分の個人レッスンを手伝わないかと言ってくれた。
卒業したときは、既に博人との結婚が決まっていた彼女は、何となくそれもいいかと考えたのだ。
音大志望の中高生を教えるくらいなら何とかできそうだ。既に音楽系の出版社で働き出していた博人もそれを勧めてくれた。
始めてみると、意外と自分にあっている仕事だった。
拘束時間はきつくないし、実生活での麻季とは異なり、レッスンのときは中高生たちに自分の伝えたいことがよく伝わった。
半分はピアノに語らせているせいもあったのだろう。今思えば無茶をしていたと思う。
博人と一緒に暮らしている小さな部屋にはもちろんピアノなんかない。
佐々木先生の教室で空き時間に、教えるところを一夜漬けでおさらいするのが精一杯。
それでも仕事自体は楽しかった。
それで彼女は博人と結婚した後もその仕事を続けていた。
博人といつでも一緒にいられた大学時代とは異なり、彼の会社までついて行くわけにもいかない。
博人不在の時間を潰すのには彼女にとって格好の仕事場だった。
その日は初めて教室を訪れた親子の相手をするところから麻季の仕事は始まった。
きちんとした紹介で入ってくる人だったから、あまり問題はないはずだった。
約束の時間に、まだ幼い女の子を連れて教室に来た母親を見たとき、麻季はどこかで見覚えのある人だなと思っただけだった。
でも相手は興奮したようにいきなり彼女に話しかけてきた。
「夏目ちゃんじゃない。久し振り」
そう言われてよく見ると、彼女は同じサークルにいた一年上の先輩だった。
あまり女性の知り合いがいなかった麻季だけど、ようやく彼女のことを思い出した。彼女は大学時代の新歓コンパのときに博人と二人でずっと話をしていた先輩だったのだ。
「多田先輩ですよね? ご無沙汰してます」
「やだ、夏目ちゃんって佐々木先生のとこで働いてたんだ。知っていればもっと早く連絡できなのに。あたしは今は結婚して川田っていう姓なんだけどね」
だから今まで気がつかなかったのか。麻季は記憶を探ってみた。たしかこの先輩はどっかの私立中学の音楽の教師になったはずだ。
「そうそう。まだちゃんと働いているんだけどさ。中学生って面倒でね。音大じゃなくて教育大の音楽科行っとけばよかったよ。あたしって教育とかって全然苦手だしさ」
「こちらはお嬢さんですか」
「そうなの。保育園なんだけど早い方がいいと思ってさ。麻季が指導してくれるの?」
そういえばこの先輩自身も佐々木先生の愛弟子だったはずだ。
「ちょっと待ってくださいね」
ロビーの椅子を勧めてから麻季は佐々木先生の私室に赴いた。
ノックして部屋に入ると、先生はデスクの上に広げた書き込みだらけの譜面から顔を上げた。
「どうしたの?」
「先生、あたしより一期上の多田さんって覚えています?」
「ああ真紀子さんでしょ。どっかで学校の先生してるんじゃなかったっけ」
「そうなんですけど、今日申込みにいらした川田さんって、旧姓多田さん、多田真紀子さんでした」
「あら、じゃあ川田美希ちゃんって多田さんのお子さんなんだ」
「はい。どうされます? わたしがレッスンしましょうか」
「あの多田さんのお嬢さんなら最初くらいはあたしがみるわ。三番のレッスン室に連れて来て」
多田さん、いや川田さんにそれを告げると彼女は喜んだ。
「佐々木先生が直接レッスンしてくれるの?」
「はい。とりあえずは最初は多田先輩のお嬢さんなら自分がみるとおっしゃってましたよ。その後は全部佐々木先生というわけにはいかないと思いますけど」
「光栄だわ。美希、落ちついて頑張るのよ」
麻季は美希を連れて佐々木先生の待つ部屋に赴いた。
「美希落ちついてた?」
麻季が川田先輩の待つロビーに戻ると、先輩は心配そうに聞いた。
「ちょっと緊張してましたけど、みんなそうですから」
麻季は笑った。
佐々木先生の美希への初レッスンが終るまで、川田さんは大学時代の思い出をいろいろと語り出した。
「そういえば夏目ちゃん、結城君と結婚したんだってね。おめでとう」
「ご存知だったんですね」
「うん。あんたと仲良しだった怜菜から聞いたよ。ああ、もう夏目ちゃんじゃないのか」
怜菜は麻季と博人の披露宴に来てくれていた。その場では一言くらいしか会話できなかったけど。そしてそれ以来、麻季は怜菜と話をしていない。
「そういや怜菜も結婚したんだってね」
「・・・・・・そうなんですか? わたし聞いてないです」
「え? 怜菜も水臭いなあ。あんたと怜菜って親友だと思ってたのに」
「怜菜、いつ結婚したんですか」
「先月だよ」
「そうですか」
麻季は少しだけショックを受けた。
冷静に考えれば無理はないのかもしれない。何しろ博人に夢中だった麻季は、在学中も卒業後も怜菜とはほとんど一緒に過ごしていなかったのだから。
それでも卒業後に、麻季は自分の披露宴に怜菜を招待したし、久し振りに会った彼女は、式の前に目を輝かせて、麻季のウェディングドレス姿を見て「麻季きれい」と言ってくれたのだ。
その怜菜は自分の披露宴には麻季を呼んでくれなかったのだ。
「怜菜ってどういう人と結婚したんですか」
怜菜への失望を押し隠して麻季は先輩に聞いた。
「怜菜の結婚のことを知らないんじゃ相手のことも知らないか。えーとね。あたしより一年上の鈴木雄二って先輩・・・・・・というか、あんたの元彼じゃなかったっけ」
「・・・・・・鈴木先輩はわたしの元彼じゃありません。わたしが大学時代に付き合ったのは今の旦那だけですから」
「ああ、そうだよね。あんたと結城君っていつも一緒だったもんね」
少しだけ慌てた表情で先輩は取り繕うように言った。
「何かさ。怜菜と鈴木先輩って卒業後に鈴木先輩のオケの定演でばったり出会ったんだって。怜菜って首都フィルで事務やってるでしょ? 鈴木先輩の横フィルと首都フィルってよく合同でイベントとかしてるみたいで、その縁でそうなったみたい」
先輩の話は麻季の耳に入っていたけど、彼女は半ばそれを聞きながらも心の中ではいろいろな疑問が浮かんできていた。
怜菜は博人君を慕っていたはずだった。それは多分麻季の思い違いではないだろう。そしてそんな怜菜が鈴木先輩に惹かれていたたなんていう話は怜菜から一言だって聞いたことがない。
もちろん卒業後のことだし、鈴木先輩はイケメンだったから、怜菜が改めて彼に惹かれて結婚したということもあり得るかもしれない。
でも麻季が怜菜の気持を気にしながら博人と付き合い出したことを彼女に告げたとき、怜菜はこう言った。
『まあ、でも鈴木先輩には悪いけど、付き合うなら結城先輩の方がいいよね。安心できそうだし』
怜菜は本当は博人ではなく鈴木先輩のことが好きだったのだろうか。それなら麻季が博人と付き合ったときも、うろたえずに受け止めてくれた理由としては理解できる。そして結果的に麻季に振られることになる鈴木先輩のことを気にしていたのも理解できる。
でも麻季が博人と付き合いだす前に、彼と自分が話をしていたところを聞いていた怜菜の様子を思い出すと、やはり彼女は博人のことを好きだったのではないかと思える。
怜菜は麻季への友情から、自分の気持を抑圧してまで麻季と博人との付き合いや結婚を祝福してくれたのだ。それは間違いないはずだった。
それならなぜ彼女は鈴木先輩と結婚したのだろう。それも親友であった自分には一言も知らせずに、披露宴に招待すらすることもなく。
『怜菜は敵だからね』
凄く久し振りに麻季の心の中で誰かの声がした。
『怜菜が鈴木先輩と結婚した理由はわからない。それでも彼女は麻季と博人との付き合いを邪魔しようと企んでいるんだよ』
その声を聞くのは久し振りだった。そしてできればもう二度と聞きたくない声だった。
濁ったような男とも女ともつかないような低い声。
麻季が博人と付き合い出してからも、彼女の人生の節目でしょっちゅう心の中で勝手にアドバイスし出す声。
博人と同棲したのもその声の勧めだった。
佐々木先生の教室を手伝うことに決めたのもその声に従ったまでだ。
でも博人のプロポーズに答えたのは、その声とは関わりなく純粋に自分の意思だった。そしてその声は、博人との結婚後は彼女の頭の中で響きだすことはなくなっていたのだった。
『怜菜は敵だ。これは罠だよ。怜菜は君のことを恨んでいるんだから』
「あ、佐々木先生。ご無沙汰しています」
多田先輩が立ち上がって、レッスン室から美希を伴って出てきた先生に声をかけた。
「多田さんお久し振り。元気だった?」
「おかげさまで元気です。それで美希はどうでしょうか」
「うん。まだわかんないけど、弾き方の癖とかあんたにそっくりだわ。しばらく結城さんにレッスンさせるけどいい?」
「はい。ありがとうございます」
先輩が感激したように声を出した。
「麻季ちゃん、娘をよろしくね」
「結城さん?」
黙っている彼女を不審に思った先生が麻季に声をかけた。
奈緒人と奈緒 第2部第6話
その日はすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園には樹木が高く枝を張り、繁茂している緑に日差しが和らげられていた。
申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古びた建物の中より、よほど快適だったかもしれない。
僕は唯に弁護士から聞かされたことを相談した。案の定、唯はひどく好戦的だった。
「麻季さんってどこまで自分勝手で卑劣なんだろう。お兄ちゃんに嫌がらせをするためなら、奈緒人と奈緒を不幸にすることも辞さないのね」
吐き捨てるように唯はそう言った。
「次のの調停で何と主張するのか決めなきゃいけないんだ」
僕はもう、何かを考えられる当事者能力を失っていた。
これまでの僕は奈緒人と奈緒を失うか、これまでどおり一緒に過ごせるのかの二択以外のことは考えもしなかった。突然に告げられた、奈緒だけを引き取りたいという麻季の主張は僕を混乱させた。
これまで、麻季には少なくとも奈緒人と奈緒にだけは愛情があるということを、僕は疑っていなかったし、そのことを前提として、麻季と親権を争っていた。
たとえ奈緒人と奈緒の親密な様子に僕と怜菜を重ねてしまっていたとしても、まさか麻季が奈緒人と奈緒を引き離すような、子どもたちにとって残酷な主張をするとは夢にも思っていなかったのだ。
「明日、どうすればいいのかな」
僕は思考を停止して唯に弱音を吐いた。そんな僕の様子に唯は憤った様子だった。
「どうもこうもないでしょ。断固拒否するのよ。奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて可哀そうなことは認められないでしょうが。あの子たちが麻季さんの虐待に耐えられたのはお互いを慰めあってきたからじゃない。奈緒人と奈緒を散々傷付けたくせに、反省するどころかさらに傷つけようとする麻季さんなんかに負けちゃだめよ」
「でも弁護士は訴訟に移行しても負けそうだって言ってるし」
「だから何? やってみなければわからないでしょ。調停ごときで諦めるなんて、お兄ちゃんは奈緒人と奈緒を愛していないの?」
理恵も基本的には唯と同じ意見だった。でも唯と異なり彼女は、僕がどう判断しようともその判断を受け入れると言ってくれた。
『後で後悔するくらいなら、結果はともかく唯ちゃんの言うように、とことん足掻いた方がいいかもしれないね』
そう電話口で理恵は話した。
『でも最終的には決めるのは博人君だし、それがどういう決断になるとしても、あたしは最後まで博人君の味方をするよ』
調停の日、両親は病院へ行くことになっていた。そして間の悪いことに、唯はその日、内定していた企業の招集日だった。
つまり、実家には奈緒人と奈緒の面倒をみる人間がいなかったのだ。
「明日は病気になる。高熱があることにする」
唯が思い詰めた顔でそう言った。
「だめだよ。社会人になる最初のステップからおまえをさぼらせるわけにはいかないよ」
「じゃあ、もう内定辞退するよ」
「だから駄目だって」
そんなことを唯とやりあっていたとき、理恵が電話してきた。
『奈緒人君と奈緒ちゃんも連れて来ればいいじゃん。家裁の隣の公園で遊ばせておけば?』
「子どもたちだけで?」
『明日はあたしもついて行くから』
「仕事もあるだろうしいいよ」
『明日は代休だよ。あたしも一度くらい調停っていうの経験してみたいし』
「・・・・・・それじゃ奈緒人たちはどうなるの」
『玲子に頼んで明日香と一緒に公園で遊んでるように頼んでおくから。玲子が奈緒人君たちの面倒みてくれるよ』
「玲子ちゃんと明日香ちゃんって、奈緒人と奈緒と会ったことすらないじゃん」
『心配いらないって。それとなく気にするように玲子に言っておくから』
そういうわけで、その日の調停の場には関係者として理恵が同席した。
その場では顔を合わせなかったけど、調停委員の話では、麻季の方も鈴木先輩を連れてきたということだった。
結局唯の言うとおり、奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて考えられないことを主張して、この日の調停は終った。
僕と理恵が連れ立って家裁のそばの公園を歩いて行くと、ジュースやアイスクリームを販売しているワゴンのところで、玲子ちゃんが三人の子どもたちと一緒に休憩していた。
その朝、僕は奈緒人と奈緒をつれて家裁のすぐ側にある公園に出向いて、そこで理恵と明日香ちゃんを連れた玲子ちゃんと出会い、奈緒人と奈緒を預けたのだ。
「すっかり仲良くなってるね」
理恵が微笑んで玲子ちゃんに話しかけた。
玲子ちゃんは初対面のはずの奈緒人と奈緒にもう懐かれているようだった。
「玲子さん、奈緒人たちの面倒をみてもらってすいませんでした」
僕は玲子ちゃんに礼を言った。
「どういたしまして。奈緒ちゃんと明日香はすぐに仲良くなって一緒に遊んでました」
「本当にありがとう」
「いいですよ。一人も三人も一緒だし。まとめて面倒みてただけで」
「玲子おばさんにソフトクリーム買ってもらった」
奈緒人が言った。
「おばさんって、奈緒人。お姉さんと言いなさい」
「パパ」
僕は調停後の暗い気持ちを隠して、奈緒を抱き上げた。抱き上げられた奈緒は無邪気に喜んで笑っていた。
調停からの帰り道、みんなでファミレスに寄って遅い昼食をとることにした。
僕と理恵、玲子ちゃんと子どもたち三人の総勢六人で賑やかに食事をしたのだったけど、奈緒人と奈緒がお互い以外の子どもと親しくしているのを見るのは初めてだった。
明日香ちゃんは人見知りしない子のようだった。
彼女は多少甘やかされて育った様子はしたけれど、奈緒人と奈緒とは短い公園でのひとときですっかり打ち解けているようだ。
特に奈緒と明日香ちゃんは既にお互いを名前で呼び合っている。
「お兄ちゃん口に付いている」
「服にもこぼしてるじゃん」
「お兄ちゃんの服、ケチャップが付いてるよ」
「・・・・・・明日香まで奈緒人君のことお兄ちゃんって呼んでるじゃない」
玲子ちゃんが理恵をからかうように言った。
「もう、いつでも結城さんと結婚できるね」
「あんた子どもたちの前で何言ってるの」
理恵が狼狽して言った。
そう言えば、明日香ちゃんに対して理恵は僕との結婚のことを話しているのか聞いたことがなかった。
うちの実家でも理恵との再婚は両親と妹には了解を得ていたけど、まだ奈緒人と奈緒にはっきりと話をしたわけではなかった。
麻季との親権争いが片付いていない不安定な状況で、将来の話を子どもたちにするわけにはいかなかったからだ。
「子どもってすぐに仲良くなっちゃうんだね」
理恵のことを気にする様子もなく玲子ちゃんが笑って言った。
「そうですね。僕も驚いたよ」
「あたしは結城さんと奥さんの事情はよく知らないけど、この子たちのこういう様子を見ているだけでも、結城さんとお姉ちゃんの結婚を応援する気になるよ」
玲子ちゃんが理恵に言った。
「・・・・・・玲子」
「まあ、結城さんと結城さんの奥さんの話は唯ちゃんから聞かされてはいたし、奈緒人君たちもつらかったんだなとは思ってたんだけどさ」
「うん」
「でもまあ、唯ちゃんは結城さんが大好きなブラコンちゃんだから、話が偏ることも多いからな」
「何言ってるのよ」
「だから話半分に聞いていたんだけど、今日公園で二人を眺めててさ。奈緒人君と奈緒ちゃんって相当つらいことを乗り越えてきたんだなって思った」
少しだけ声を潜めて、子どもたちを気にしながら彼女は言った。やはり初対面の玲子ちゃんでもそう考えたのだ。
「結城さんとお姉ちゃんが結婚すれば、奈緒人君と奈緒ちゃんと、それにうちの明日香が一緒に暮らせるじゃない? それだけでもこのカップリングは正しいよ」
「それだけでもって言うな。あたしと結城さんは」
「・・・・・・何よ」
「何でもない」
理恵が赤くなった。
二人の女の子にお兄ちゃんと呼ばれている奈緒人はあまり動じていなかった。
奈緒人は、自然に明日香ちゃんのことを受け入れているように見えたけど、それでも彼が一番気にしているのは、奈緒のことなんだろうなと僕は思った。
それより僕にとって意外だったのは、奈緒人が実家の両親や唯に慣れ親しむのと同じくらい玲子ちゃんに気を許していたことだった。
普段は大人同士の会話が始まると、大好きなはずの唯にさえ遠慮していた奈緒人が、僕や理恵の話しかけている玲子ちゃんの気を引こうと試みていることに僕は気がついた。
ただ、奈緒人は玲子ちゃんのことを「玲子おばさん」と呼びかけていたせいで、玲子ちゃんの機嫌を少し損ねているようだった。
「あのね、奈緒人君。おばさんじゃなくて、玲子お姉ちゃんって呼んでもいいのよ」
「なんで? あたしは叔母さんって呼んでるじゃん。お兄ちゃんもおばさんって呼べばいいよ」
明日香ちゃんがそう言いながら、奈緒人の腕に手をかけた。
一瞬、奈緒が明日香ちゃんの方を見た。
その視線はまるで子どもっぽくなかった。嫉妬する一人の女の子のような視線みたいだ。
・・・・・・まさかね。考えすぎだと僕は思った。
麻季の心境を想像しようと努めていたせいか、自分まで変な影響を受けたらしい。僕は頭を振った。
「どうしたの」
気が付くと理恵が不審そうに僕の方を眺めていた。
「いや・・・・・・何でもない」
「三人ともすぐに仲良しになったね。何だかうれしいと言うか気が抜けちゃった」
「どうして?」
「うん。あたしと博人君がうまくいってもさ。子どもたちが一緒に住むことに慣れなかったら、どうしようかってちょっと心配だったからさ。でも玲子の言うとおりいらない心配だったみたい」
奈緒人と奈緒の親密な関係性に、麻季は僕と怜菜の心の不倫を重ねて見ているのではないかと、言い出したのは理恵だったが、当の理恵自身は、奈緒人と奈緒が仲がいいことを単純に喜んでいて、それ以上余計なことは何も考えていないようだった。
もうごちゃごちゃ考えるのはやめようと僕は思った。
麻季が何を考えているのなんかどうでもいい。それよりも親権を獲得できれば、僕と理恵の家庭の幸せは約束されたようなものだ。
子どもたちの仲のいい様子を見て、僕は遅ればせながらそう思った。
そう割り切ってしまえば、親権の争い以外に悩むことはなかった。
子どもを放置した麻季に対して嫌悪感を感じていた僕だったけど、それでも僕の中には麻季への未練、というか麻季との幸せだった過去の生活への未練が、わずかだけど残されていたのだろう。
でも理恵へのプロポーズや、明日香ちゃんを含めた子どもたちの仲の良さを実感したことで、ようやく僕はその思いから開放された。
その感覚は癌の手術後の経過にも似ていた。癌の手術後の患者はいつ再発するのかと常に悩むかもしれない。そして経過観察期間が過ぎて、もう大丈夫だと思うようになって初めて、今後の人生に向き合うことができるのではないか。
僕の場合もそれに似ていた。
まだ調停の結果は出ていないけど、この先の自分の人生に向き合う気持が僕の心の中にみなぎるようになったのだ。
僕はもう迷わなかった。理恵と三人の子どもたちと、新しい家庭を構築するという単純な目標だけを僕は希求するようになった。
弁護士の言うように、調停の結果奈緒の親権が確保できなかったら訴訟を起こそう。悲観的な弁護士と違って唯は勝てる要素は十分にあると言っていたのだし。
僕はその方針を実家の両親と唯に、そして理恵に伝えた。みんなが賛成してくれた。
僕は仕事上もプライベートでもかつての調子を取り戻していた。
理恵と実質的に婚約していた僕にとって、もう将来は不安なものではなかった。麻季との離婚が成立したら、すぐに理恵と結婚することになっている。
理恵は残業のない職場に異動希望を出し、それが認められなければ専業主婦になると言ってくれていた。
そして、たとえ僕と麻季の離婚の目途はつかなくても、来年の四月になって唯が奈緒人たちの面倒を見れなくなったら、一緒に住んで子どもたちの面倒をみると理恵は言った。
現状にも将来にも、今の僕にとって不安な要素がだいぶ減ってきていたから、僕は今まで以上に仕事に集中することもできるようになっていた。
その日の夜の九時頃、僕は残っている部下たちにあいさつして編集部を出た。
この時間になると、帰宅しても子どもたちはもう寝てしまっている。
まっすぐ帰宅しようかと思ったけれど、さっき唯からメールが来て、今日は家に夕食がないので残業するなら、どこかで食事をしてくるように言われていた。
僕は夕食の心配をしなければいけなかった。
一瞬、まだ仕事をしているだろう理恵に連絡して、一緒に食事でもという考えが頭をよぎったけれど、よく考えたら彼女は今日は泊りがけの取材で地方に赴いていることに気がついた。
面倒くさいし、コンビニで何か買って実家に帰ろうかと思って社から地下鉄の駅に向って歩こうとした瞬間、僕の目の前に人影が立っていることに気がついた。
「久しぶりだね」
目の前の人影が穏かにそう言った。
都心の夜の歩道は、ビルの中の灯りや街路灯に照らされていて、その灯火の下にその人影はたたずんでいた。
「・・・・・・え? 何で」
僕は口ごもった。目の前に立っていたのは、見慣れた服に身を包んだ麻季だった。
「元気そうね、博人君」
以前によく僕に見せてくれた優しい微笑みを浮べて麻季が言った。
ちょっと長い出張から戻ったとき、麻季は僕に今と全く同じ微笑みを浮べてそう言ってくれたものだった。
「偶然だね」
ようやく僕は掠れた声で答えることができた。
「偶然というわけじゃないの・・・・・・。あなたが会社から出てくるのを待ってた」
麻季の微笑みに、不覚にも少しだけ動揺する自分のことが、僕は心底嫌だった。
「・・・・・・お互いに弁護士を通してしか接触しないことになっていなかったっけ」
僕はようやく気を取り戻してそう言うことができた。
麻季と直接二人きりになることはもうないものだと思ってはいたけど、先日の居酒屋での偶然もある。
理恵に結婚を申し込んでからは、万一再び麻季と会うことになったらそう言おうと僕は心に決めていた。そしてどうやら僕は動揺しながらも、思っていたとおりのセリフを口に出すことができた。
「それはそうなんだけど・・・・・・」
麻季は俯いてしまった。
「何か用事でもあるの」
僕は意識して冷たい声を出すように努めた。麻季は黙ったままだ。
「これから実家に帰らなきゃいけないんで、用事がないならこれで失礼する」
用事があったとしても、僕は黙ってここから立ち去るべきだった。
「待って。あなたと話したいの」
「・・・・・・話なら弁護士を通してくれるかな」
「・・・・・・博人君と直接お話したいと思って」
「あのさ」
僕は段々と腹が立ってきた。
「弁護士を通せって言い出したのは君の方だろう。携帯だって着信拒否してるくせに今さら何言ってるんだ」
「してない」
「え」
「着拒してたけどすぐに後悔してとっくに解除してあるの。でも博人君連絡してくれないし」
「あれ? 編集長まだいたんすか」
部下の一人がそのとき編集部から出てきて僕に話しかけた。
彼はすぐに麻季に気がついた。悪いことに彼は麻季とも顔見知りだった。
「あれ、麻季さん。ご無沙汰してます。お元気でしたか」
「・・・・・・お久しぶりです」
麻季が小さな声で言った。
「何だ。結城さん、今日は奥さんと待ち合わせでしたか。相変わらず仲がいいですね」
社内では僕の上司以外は、僕と麻季の仲が破綻していることを知らない。
「そんなんじゃないよ」
「麻季さん相変わらずおきれいで。それにお元気そうですね」
「・・・・・・はい」
彼は腕時計を眺めた。
「おっといけね。マエストロをお待たせしたらご機嫌を損ねちゃう。じゃあ、俺はこれで失礼します」
「先生によろしくな」
「わかりました」
彼は麻季に向ってお辞儀をして足早に去って行った。
どうもこのままでは埒があかない。それにいつまでも、編集部の前で人目に晒されているわけにもいかなかった。
「しようがない。とにかくここから移動しよう」
僕は麻季に言った。
「うん。ごめん」
「来るなら来るって連絡してくれればいいだろ。いきなり待ち伏せとか何考えてるんだよ」
「ごめんなさい」
麻季が泣き出した。
彼女が何を企んでいるのかはわからないけど、社の前で泣かれると困る。
僕は仕方なく彼女の手・・・・・・ではなく、上着の袖を遠慮がちに掴んで歩き出した。麻季は大人しく僕の後を付いて来た。
クローバーへ行こうと思ったのだけど、馴染みのその喫茶店はこの時間では既に閉店していた。
それによく考えるとあそこは生前の怜菜と最後に会った場所だし、理恵にプロポーズした場所でもある。あそこに麻季を連れて行く訳には行かなかった。この辺にはファミレスもない。
こんな時にどうかと思ったけど、立ち話を避けるためには選択肢はあまり残されていなかった。
「そこの居酒屋でもいいかな」
麻季は黙って頷いた。
チェーンの居酒屋はそこそこ混んでいるようだったけど、僕たちは待たされることなく席に案内された。
向かい合って席に納まるとしばらく沈黙が続いた。
店員が突き出しをテーブルに置いて、飲み物の注文を取りに来た。
「・・・・・・僕には生ビールをください。君は・・・・・・ビールでいい?」
麻季は俯いたままだ。これでは店員だって変に思うだろう。
麻季は昔から炭酸飲料が苦手だった。
彼女は酒が飲めないわけではなかったのだけど、ビールとか炭酸が入っているものは一切受け付けなかったことを僕は思い出した。
彼女は地酒の冷酒とかを少しだけ口にするのが好きだったな。
それでもこの場で僕が麻季に酒を勧めていいのだろうか。少し僕は迷った。
「・・・・・・冷酒、少しだけ飲むか」
俯いていた麻季が少しだけ顔を上げた。
「・・・・・・いいの?」
「いいのって。聞く相手が違うだろ」
こいつはいったい何を考えているのだろうか。
「冷酒でいいか」
「うん。わたしの好みを覚えていてくれたんだ」
麻季の返事は少しだけ嬉しそうに聞こえた。
やがて生ビールのジョッキと冷酒の瓶がテーブルに運ばれてきた。
麻季の前にはガラスのお猪口のような小さなグラスが置かれる。何となく手酌にさせるのも可哀そうで、僕は冷酒の瓶を取って彼女のグラスに注いだ。
「ありがとう」
麻季がグラスを手に持って僕の酌を受けて微笑んだ。
何か混乱する。まるで奈緒人が寝たあと、夫婦で寝酒を楽しんでいた昔の頃に戻ったような感覚が僕を包んだ。
今日一日ほとんど飲み食いせずに仕事をしていたせいか、こんな状況でも喉を通過する生ビールは美味しかった。
人間の整理は単純にできている。僕は思わず喉を鳴らして幸せそうなため息をついてしまったみたいだ。
麻季は冷酒のグラス越しにそんな僕の様子を見てまた微笑んだ。
「博人君、喉渇いてたの?」
「・・・・・別に」
「何か懐かしい。博人君が残業して深夜に家に帰って来たときって、いつもビールを飲んでそういう表情してたね」
「そうだったかな。もう昔のことはあまり覚えていないんだ」
僕は意識して冷たい声を出した。
・・・・・・実際は覚えていないどころではなかった。
子どもができる前もできた後もあの頃の僕の最大の楽しみは、帰宅して次の日の仕事を気にしながらも麻季にお酌してもらいながらビールを飲むことだったから。
奈緒人を身ごもってから麻季は酒を一切飲まなくなったけど、その前は彼女も僕に付き合って冷酒をほんの少しだけだけど一緒に付き合ってくれたものだった。
いや。そんなことを思い出してどうする。
どういうわけか、あれだけひどいことを麻季にされたにも関わらず、僕は以前の生活を懐かしく思い出してしまったようだ。
僕は無理に冷静になろうとした。
「それで何か用だった? 調停のことだったら家裁の場以外では交渉しないように弁護士に言われてるんだけど」
「・・・・・・うん」
「うんじゃなくてさ」
麻季が何を考えているのか僕には全く理解できない。
「食事してないんでしょ」
「博人君、職場で夜食食べるの嫌いだもんね」
麻季がそう言った。
「何か食べないと」
麻季はいそいそとメニューを持ってじっとそれを眺め出した。
「君の食事の面倒みるのって久し振り。ふふ。博人君、食べ物の好み海外から帰っても変わってないよね?」
「・・・・・何言ってるの」
「本当は身体には悪いんだけど・・・・・・でも好きなものを食べた方がいいよね」
麻季が店員を呼んで食べ物を注文した。
それは完璧なまでに僕の好みのものだった。
これだけを取ってみれば、理恵や唯よりも僕の食生活の嗜好を理解していたのは麻季だった。でもそれは当然だ。破綻したにしても、それまでは何年にも渡って麻季と僕は夫婦だったのだから。
それにしても麻季は何でわざわざ僕に会いに来たのだろう。
「お酒、注いでもらってもいい?」
さっき麻季に酒を注いだときに、僕は冷酒の瓶を自分の手前に置いてしまっていた。
僕は再び麻季のグラスに冷酒を満たし、今度は麻季の手前にその瓶を置いた。
麻季は一口だけグラスに口をつけてテーブルに置いた。
「ビールでいい?」
「え」
僕はいつの間にか生ビールのジョッキを空にしてしまっていた。
「頼んであげる」
「あのさあ。明日も仕事だしゆっくり酒を飲んでる時間はないんだ」
「でもお料理もまだ来てないよ」
「君が勝手に頼んだんだろうが」
「今日って実家に帰るだけでしょ? まだ終電まで三時間以上あるじゃない」
「そういう問題じゃない。第一に早く帰って子どもたちの顔を見たい。第二に君と二人きりで一緒にいたくない・・・・・・。おい、よせよ。何で泣くんだよ」
泣きたいのはこっちの方だ。僕は泣き出した麻季を見ながらそう思った。
「ごめん」
「・・・・・・うん」
「本当にごめんなさい」
「もういいよ。それにさっきから何に対して謝ってる? 突然会社の前で待っていたこと? それとも泣いたこと?」
僕は弁護士から、調停の場以外では、弁護士が同席していない限り調停内容に関わる会話は避けるように言われていた。
これまではあまりそのことを真面目に考えたことはなかった。そもそも麻季の方が僕を避けていたので、顔を合わす可能性なんてなかったからだ。
でも、こうして久し振りに麻季と二人で話せる状態になると、僕はこれまで溜め込んできて吐き出す場がなかった怒りや疑問が口をついて出てしまった。
そして一度負の感情を口に出してしまうと、それは自分では制御できなくなってしまった。
「それともまさかと思うけど、麻季は不倫したことや、子どもたちを虐待したことを今さら後悔して謝っているのか? そんなわけないよな。弁護士から聞いたよ。鈴木先輩と再婚するんだってな。よかったね、僕なんかに邪魔されないで最愛の人とようやく結ばれてさ」
一気にそこまで話したとき、ようやく僕の激情の糸が途切れた。心の底がひえびえとして重く深く沈んでいった。
同時に僕は、周囲の客の好奇心と視線を集めてしまったことにも気がついた。
「大声を出して悪かったな」
僕は冷静さを取り戻して麻季を見た。
麻季は動じていなかった。むしろこれ以上にないというほどの笑顔で、僕に向かって微笑んだのだ。とても幸せそうに。
「結城先輩、やっぱりわたしのこと好きでしょ」
麻季が静かに笑って言った。
僕は凍りついた。
・・・・・・麻季はいったい何を言っているのだ。
そして記憶を探るまでもなく、それは鈴木先輩に殴られた麻季を助けたときに彼女が脈絡もなく言ったセリフだった。
それをきっかけに僕と麻季は付き合うようになったのだ。
「何言ってるんだ・・・・・・結城先輩って何だよ」
「懐かしくない? わたしと博人君の馴れ初めの会話だよ」
それにしても、泣いたかと思うとすぐに優しい顔で微笑む麻季は、いったい何を考えているのだろう。
麻季のこういう支離滅裂な性格は、大学時代には理解していたつもりだったけど、彼女と付き合い出して結婚してからは、こういう意図を理解しがたい言動は全くといっていいほど見られなくなっていたのに。
「もういい。僕は帰る」
僕が立ち上がると、初めて麻季は慌てた様子で僕のスーツの袖口を掴んだ。
「帰らないで。ちゃんと話すから・・・・・・。全部話そうと思って来たの」
今まで笑っていた彼女がまた泣き顔になって言った。
僕はしぶしぶ腰を下ろした。
「何を話す気なんだよ」
「全部話すよ。博人君がドイツに出張してからわたしが何を考えていたか」
僕は思わず緊張してまだ涙の残る麻季の顔を見直した。
「わたしさ。いろいろ努力はしたんだけど、結局、奈緒のことが好きになれなかったんだ」
麻季が言った。
麻季にそういう感情もあるのではないかと考えたこともあったので、僕は思ったよりは動揺しなかった。
それでも仲が良かった頃の夫婦のような間合いで二人で過ごしている状況で、薄く微笑みながらそういう言葉を口に出した麻季の様子に僕は少しショックを受けた。
「もちろん奈緒には何の責任もないことなのよ。だから一生懸命頑張って笑顔で奈緒には優しくしたんだけどね」
「・・・・・・・怜菜の娘だからか? でもそれなら何でわざわざ苦労してまで奈緒を引きとったんだ」
「・・・・・・あまり驚かないのね」
「僕が不在のときの君の行動を知ってからは、君についてはもう何を聞かされても驚かなくなったよ」
「博人君ひどい」
「君の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったよ」
「確かに今は離婚調停中だけど、お互い別に嫌いになって別れるわけじゃないんだよ。会っているときくらい、前みたいに仲良くしたっていいじゃない」
「・・・・・・何言ってるの?」
「何って」
「僕たちがお互いにまだ愛し合っているとでもいいたいの」
「うん・・・・・・。あれ、違うの?」
麻季は本気で戸惑ったようにきょとんとした顔をした。
そして麻季の話は、かつて僕が彼女のメンタルを疑ったときのように支離滅裂になってしまっている。
子どもたちの育児放棄。帰国したときに見た廃墟のようにゴミが散乱していた我が家。太田弁護士から受け取った受任通知書。そして鈴木先輩と麻季の再婚。
そのどこを取ったら僕への愛情が見られるというのだ。
「注いでくれる?」
麻季がにっこり笑ってグラスを掲げた。
わずか数ヶ月僕が家庭を留守にしている間に麻季の心境に何が起きたのか、どうして彼女は自分の夫と子どもたちにこんなひどい仕打ちができたのか。
今夜はようやくその答が聞けるのではないかと思ったけど、滑り出しは最悪だった。謎がさらに深まっていくばかりだ。
もう諦めて帰った方がいいんじゃないか。麻季の心境を理解することは、もう諦めるつもりになったばかりなのだし。
一瞬そう考えたけど、一見すると整合していない麻季の話は、彼女の中ではロジカルに完結していたことを思い出した。コミュ障というか彼女は心情表現が稚拙なのだ。
どうせもう遅くなってしまっている。僕はもう少し粘ってみるつもりになった。そのためにはこちらから話を誘導して質問した方がいい。
付き合い出したばかりの頃はよくそうしたものだった。
とりあえず黙って麻季に冷酒を注いでから僕が自分から質問しようとしたとき、麻季が 注文した料理が一度に運ばれてきてしまった。
「話は後にしてとりあえず食べて」
そう言って麻季は取り皿に運ばれてきた料理を取り分けて僕の前に置いた。
「あなたは放っておくと夜食べないことが多かったよね」
「・・・・・・そうだっけ」
「うん。だから子どものこととかすぐにあなたに相談したいときでも、あなたに食事させるまでは我慢してたんだよ。そうしないとあなたは相談を真面目に聞いてくれるのはいいんだけど、相談に夢中になって食事を忘れちゃうから」
いまさらそんな話を微笑みながら言われても困るし、同時に全く自分の心には響いてこない。懐かしさすら浮かんでこないのだ。
当然とは言えば当然だった。
僕には今では理恵がいる。麻季は僕たちは離婚協議中だけど、お互いにまだ愛し合っているというようなことを言った。でも僕の愛情はもう麻季には向けられていない。
そして麻季だって鈴木先輩と再婚するのではなかったのか。僕のことを愛しているのならそんなことをするわけがない。麻季が普通の女なら。
そう普通の女ならそうだ。
でも麻季は、少なくとも今の状態の麻季は普通ではないのかもしれない。
僕はとりあえず奈緒に対する麻季の気持について棚上げして、根本的な疑問から解消してみようと思った。
「まあせっかく注文してくれたんだから食べるよ。でも時間も遅いし食べながら話そう」
僕は麻季を宥めるように微笑んでみた。まるで言うことを聞かないわがままな子どもをあやすように。
「ちゃんと食べてくれる?」
麻季が顔をかしげて言った。それはかつてはよく見た見覚えのある可愛らしい仕草だった。
「君が家を出て行ったのってさ」
食欲は全くなかったけど、無理に食べ物を口に運んでから僕は切り出した。
「うん」
普通は緊迫する場面だと思うけど、どういうわけか麻季は食事をする僕の様子をにこにこしながら見守っている。
「やっぱり僕とじゃなくて、鈴木先輩と家庭を持ちたいと思ったからなんでしょ?」
「違うよ」
あっさりと麻季は答えた。
「大学で初めて博人君と出会ってから、わたしが本当に好きなのは昔から今まであなただけよ。だから、わたしが一緒に暮らしたいのもあなただけ」
「あのさあ」
「もちろん、一度は雄二さんと過ちを犯したのは事実だけど・・・・・・。でもあのときだって本当に愛していたのは博人君だけ。あのときはそんなわたしを博人君は許してくれたよね」
もう麻季には未練の欠片もないはずなのに、麻季が先輩のことを雄二さんと呼んだことに少しだけ胸が痛んだようだった。
「だって再婚する予定なんだろ? 鈴木先輩と」
「うん。でも雄二さんと連絡を取り出したのは最近だよ。家を出て行ったときはメールさえしていなかったし。最近会うようになるまでは、彼と会ったのはあなたと二人で奈緒を引き取りに行ったときが最後」
「それは変じゃない? 君は児童相談所に押しかけてきただろう。自分が見捨てた子どもたちを返せってさ。そのときは男と一緒だったって聞いたんだけどな」
いまさら彼女の心変わりなんか批判するつもりなんかなかったのに、僕は思わず麻季を非難するような言葉を口にしてしまった。
「うん。でもそれ雄二さんじゃないから」
麻季は落ちついて言った。
「・・・・・・誰なの」
「あなたと神山先輩が居酒屋でキスしてたときにわたしと一緒にいた人」
「どういう人なの」
「よくわからないの。どっかのお店で声をかけられただけだから。名前もよく覚えていない」
「・・・・・・手当たり次第ってわけか」
「そうかも。今は雄二さんだけだけど」
麻季に真実を白状させようとした僕は、思わぬ彼女の話に自分の方が混乱してしまった。
家を出る前からか出た後かはわからないけど、麻季は複数の男と遊んでいたようだ。
「・・・・・・何で子どもたちを何日も放置したまま家を空けた?」
僕は力なく言った。もう上手に彼女から考えを引き出す自信なんて消え失せていた。
以前と全く変わらない様子で僕を見つめて微笑んでいる麻季は、僕の妻だった頃の麻季ではないことはもちろん、大学の頃の不可解な麻季ですらなかったようだ。
麻季のしたことを許せはしないまでも、事情を聞けばその行動が少しでも理解できるだろうと思っていた僕が甘かったようだ。
「口がお留守になってるよ。もっとちゃんと食べないと」
「食べるよ・・・・・・だから答えてくれ」
「ちょっとだけあなたを愛し過ぎちゃったからかな。わたしを放って家を空けた博人君にも原因があるのよ」
「寂しかったからとか陳腐な言い訳をするつもり?」
「あなたがいなくて寂しかったのは事実だけど、それだけじゃないの。わたしも努力したんだけど我慢できなくなって」
「抱いてくれる男がいなくなって我慢できなくなったってことか」
思わず情けない言葉を口にした僕はそのことに少しだけ狼狽した。
「何度でも言うけど今でも昔と変わらずにあなたのこと愛してる。いえ、会えなくなった分、昔より何倍もあなたが好きかも」
「わかんないな。僕のことを愛しているなら何で男を作って家出することになるんだよ」
「だから最初に言ったでしょ。奈緒のこと」
僕はもう麻季を問い詰めることを諦めて、彼女に好きに喋らせることにした。
今夜は帰れないかもしれないな。腕時計をちらっと見て僕はそう覚悟した。
やがて麻季が微笑みながら話し出した。
奈緒人と奈緒 第2部第5話
翌日は平日で、お互いに仕事があった。
僕は二日連続で同じ服装でも別に気にならなかった。もともとそういう業界だったから。でも理恵はそうもいかないと言った。
校了間際でもないのに、同じ服で出社したら何と噂されるかわからないそうだ。
それで僕たちは、日付が変わったくらいの時間にホテルを出た。
「本当なら大学時代に博人君とこうなれていたのにね」
理恵がタクシーの後部座席で僕に寄りかかりながら呟いた。
「そうだね」
僕は少しだけ理恵の肩を抱く手に力を込めた。それに気づいたのか理恵が微笑んだ。
「それでも博人君とこういう風になれてうれしい」
酒に酔っていたせいか、さっきの余韻がまだ残っていたせいか、理恵はタクシーの運転手のことを気にする様子もなくそう言った。
理恵を送り届けて実家に戻ったときには、もう夜中の二時過ぎになっていた。
タクシーの支払いを済ませて、実家のドアの鍵をそうっと開けて家に入ると、すぐに唯が姿を見せた。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま・・・・・・って何でこんな時間まで起きてるんだよ」
「だってお兄ちゃん、なかなか帰って来ないしさ。あたしは入社するまで暇だから、夜更かししたって問題ないしね」
「・・・・・・まさか僕の帰りを待ってたんじゃないだろうな」
「何、自意識過剰なこと言ってるの。何でお兄ちゃんが帰って来るまで起きて待ってなきゃいけないのよ」
「違うの?」
「・・・・・・いや、まあ待ってたんだけどさ」
唯はそう言って笑ったけど、すぐに僕の腕を取って自分の方に引き寄せた。
「何だよ」
「シャンプーの匂いがする」
僕は一瞬どきっとした。妹にそういうことがばれるのはとても気恥ずかしい。
「理恵さんと休憩してきた?」
唯がストレートに聞いた。
「いや、その」
「よかったね、お兄ちゃん。理恵さんと再婚するならあたしは賛成だよ」
「・・・・・・まだそんな話になってるわけじゃないよ」
「まだ? じゃあ、さっさと決めちゃえばいいじゃん。うちの父さんも母さんも、理恵さんのご両親も誰も反対しないと思うけどな」
「とにかくもう寝る。明日もっていうか今日も仕事だし」
「うん。お風呂に入らなくていいからすぐ眠れるね」
「・・・・・・おい」
「うん」
翌日の午前中、理恵から電話があった。
奈緒人と奈緒が並んで寝ている実家の和室に横になったのが夜中の四時前で、起床したのが朝の六時だった。
奈緒人と奈緒と一緒に寝るのは心が安らいだけど、僕が寝て起きる間も二人は眠り続けたので、子どもたちと言葉を交わすことはできなかった。
わずか二時間の睡眠だったけど、仕事柄徹夜には慣れていたせいで、出社すれば僕はいつもどおりに仕事モードに戻れた。
『元気?』
携帯の向こうで理恵が言った。
「いきなり元気って何だよ」
『いやあ、ああいうのって久し振りだったからさ。こういう場合、何て言えばいいのか忘れちゃったよ。現役を離れて久しいからね』
「何言ってるんだ。まあ、でもそうだね。僕もこういうとき、何て答えたらいいのかわからないや」
思わず僕は笑ってしまった。
こういうやりとりはすごく新鮮だった。大学時代に麻季と付き合い出してからは、こういう会話は全くしたことがない。
麻季と僕との間はオールオアナッシングであって、うまく行っているときは直球の甘い会話しかしたことがなかったし、それ以外のときはお互いに傷付けあってばかりいたような気がする。
麻季の性格上、こういうゆとりのある会話は、望むべくもなかったのだ。
『でも、安心したよ。あたしもそうだけど博人君もまだ現役でああいいうことできたんだね』
「午前中から何を言ってるんだ君は」
『あはは。何かこういうのって久し振り。一緒に寝るよりこういう会話の方が楽しいね。若返ったみたい』
「理恵ちゃんさあ。周りに会社の人がいるんじゃないの」
『いないよ。今外出中だもん。つうか今さらちゃん付けるのやめてよ』
「僕の周りは人だらけなんだけどな」
『ちょっと出て来れない?』
「今、どこ?」
『博人君の会社の側のクローバーっていう喫茶店。ここたまに打ち合わせで使うんだ』
それは最後に怜菜と会った店だった。
クローバーに入るのは怜菜と会って以来だった。小さいとはいえ編集部を任された僕は、以前より外で打ち合わせをする機会が減っていたのだ。
「博人君。ここだよ」
店内に入ると、壁際の席に座った理恵が手を振っていた。
理恵が座っているのが、怜菜と最後に会ったときの席ではなかったことに、僕はどういうわけか少しほっとした。
「お待たせ」
「仕事大丈夫だったの」
理恵が僕の仕事を気にして言ってくれた。
「うん。どうせそろそろ昼食にしようかと思ってたとこだし」
「そうか、よかった」
理恵が上目遣いに僕を見て微笑んだ。
何だか本当に麻季に出会う前、まだ普通に恋愛していた頃に戻ったような気がした。
「じゃあ、何か食べようよ。ここ食事できるんでしょ」
「サンドウィッチとかパスタくらいしかないけどね」
「それでいいよ。博人君、何にする」
いそいそとメニューを取り出して、僕に相談する理恵の様子すら、今の僕には微笑ましかった。
彼女を抱いてしまった後に思うようなことではないのかもしれないけど、理恵のことが本当に好きになったのかもしれない。
僕はようやく麻季に対する不毛な感情から開放されるのだろうか。
「パスタっていってもナポリタンかミートソースしかないのね」
「この店にそれ以上期待しちゃだめだよ。でも味は結構いいよ」
「そう? 博人君は何にするの」
「ミックスサンドにする」
「じゃあ、あたしも」
そう言って理恵は微笑んだ。
店内には簡単な昼食をとる客に混じって、打ち合わせをしている顔見知りもちらほら目についた。
こんな環境で、僕はサンドウィッチを放置して理恵にプロポーズした。
理恵はと言えば口に中からハムとマヨネーズが溢れ出して、すぐには返事どころではなかったみたいだ。
目を白黒させながら、彼女は慌ててアイスコーヒーで口の中を洗い流した。
「うん、いいよ。バツイチ同士だけど結婚しようか」
やはりこの年になるとロマンスには無縁になるのだろうか。僕と理恵の再婚は、混み合った喫茶店であっさりと決まったのだった。
麻季にプロポーズしたときのような大袈裟なやりとりは何もなかった。考えてみれば愛しているとか好きだよとかの会話も、少なくともこのときにはお互いに口にしていなかった。
「とりあえず、麻季ちゃんと博人君が離婚するまでは婚約もできないね」
「ああ、悪い」
「いいよ。それで奈緒人君と奈緒ちゃんは当然引き取りたいんでしょ?」
「うん・・・・・・いい?」
「もちろんだよ。でも明日香も一緒に育てるからね」
「当然そうなるよね。奈緒と明日香ちゃんは同い年だしきっとうまくいくよ」
「うん。たださ。プロポーズしてくれた後にこんなこと言うのは後出しっぽくて申し訳ないんだけど」
「何?」
僕は少し嫌な予感がした。ここまでうまく行き過ぎいているような気がしていたのだ。
「あたし、仕事は止めたくないんだ」
「そんなことか。もちろんいいよ」
麻季は奈緒人を出産したとき、自ら望んで専業主婦になったが、僕はそのことに関して反対しなかったけど、積極的に麻季に仕事を辞めるよう望んだわけでもなかった。
今回も、理恵が共働きを望んでいる以上、無理に専業主婦にするつもりはなかった。
「そうじゃなくてさ。結婚しようって言ってくれたのは嬉しいけど、あたしと一緒になっても君と麻季ちゃんの親権争いには有利にはならないよ?」
僕はそのことをすっかり忘れていた。
もちろん親権に有利になる方が望ましいことは確かだったし、唯が僕に理恵と付き合うように勧めた理由の一つでもあった。
でもこのときの僕は、子どもたちの親権を考慮して理恵にプロポーズしたわけではなかった。ただ、理恵と一緒になりたいと思っただけで。
僕はそのことを正直に理恵に話した。
「・・・・・・嬉しい。そう言ってくれると、さっき結婚しようって言われたときより嬉しいかも」
理恵は顔を伏せて、今日初めて涙を浮べて言った。
その後の展開は早かった。
僕は久し振りに会う理恵のご両親に挨拶に行った。
お嬢さんと結婚させてくださいとか言わせてもらうことすらできず、理恵の両親からは、久し振りねえとか元気だったかとか、言葉をかけられた。
本当に懐かしく思ってくれているみたいだった。
懐かしいながらも当惑していた僕を見かねて、僕と理恵の結婚には賛成だよね? って両親に対して言い出して、僕たちを救ってくれたのが玲子ちゃんだった。
理恵と幼馴染だった頃にはまだ彼女は生まれていなかったので、僕と玲子ちゃんは顔を合わせるのは初めてだった。
「結城さんはお姉ちゃんと結婚したいんだって。ちゃんと答えてあげなよ」
大学生だった玲子ちゃんはそう言ってくれた。
「そんなのOKに決まってるだろ」
「そうよ。結城さんのご両親とはもうこのことは打ち合わせ済みなのよ」
理恵の両親がそう言った。
どうやら僕が自分の両親に理恵との結婚を話す前から、僕の両親にはその事実が伝わっていたようだった。
犯人は一人しかいない。
唯だ。そして唯と玲子ちゃんは仲がいいらしい。僕と理恵の結婚は、お互いの妹たちによって根回しされていたのだった。
このとき玲子ちゃんは奈緒と同じくらいの年齢の女の子を抱っこしていた。
「ほら明日香。あなたの新しいパパだよ」
玲子ちゃんがからかうように言った。
「玲子!」
顔を赤くしながら理恵が玲子をたしなめた。
翌週、僕は自分の実家に理恵を連れて行った。
予想したとおり、理恵の実家を訪れたのとほぼ同じような展開が僕たちを待ち受けていた。
事前に唯が根回しをしてくれていたせいで、僕の両親は僕と理恵の結婚に関しては、良いも悪いもなく既定事項のように受け止めたうえで理恵を歓迎してくれた。
「理恵さん、本当にこんな兄貴でいいんですか」
唯が理恵をからかった。
「唯ちゃんこそごめんね。大好きなお兄ちゃんを奪っちゃって」
理恵も動じなかった。
理恵と唯は視線を合わせたかと思うと笑い出した。
理恵は奈緒人を微笑んで見つめたが、その視線が奈緒に移ったとき、理恵は突然沈黙してしまった。
「理恵さん?」
不審に思ったのだろう。唯が理恵に話しかけた。
「どうかした?」
僕にまとわりついてくる奈緒人と奈緒を抱き上げて、二人一緒に膝の上に乗せながら僕も理恵に聞いた。
理恵が取り繕うように言った。
その場の雰囲気を気にしたらしい唯は、二人で少し近所を散歩してきたらと勧めてくれた。
「理恵さん、今日は泊まって行けるんでしょ?」
「あ、ええ」
「そうしなさい。ご両親には私から連絡しておくから」
父さんも理恵にそう勧めた。
「じゃあ、今夜は宴会だね。準備しておくから邪魔な二人は散歩でもしてきなよ」
唯が言った。
「僕たちもパパと一緒に行っていい?」
「あんたたちはお姉ちゃんのお手伝いして。できるよね」
「うん。お姉ちゃんのお手伝いする」
奈緒が元気に返事をした。奈緒は実家の中では一番唯に懐いているのだ。
「じゃあ僕も唯お姉ちゃんのお手伝いする」
奈緒の言葉を聞いた奈緒人は、僕と一緒に出かけるより奈緒と一緒にいる方を選んだ。
「驚いた。奈緒ちゃんって怜菜さんにそっくりじゃない」
理恵を連れて実家の近所の公園内を散策していたとき、理恵がそう言った。
そんなことだろうと思っていた僕は、別に理恵の反応に驚きはしなかった。
奈緒はまだ幼いながらも顔立ちが整っていた。多分、容姿に関しては将来を約束されていると言ってもいいくらいに。
鈴木先輩も外見はイケメンだったし、怜菜は性格も外見も可愛らしかった。奈緒の端正な外見は、両親の遺伝子を引き継いでいたのだ。
当然のことだけど、奈緒は僕にも麻季にも全く似ていない。
この頃には、唯も両親も血の繋がりのない奈緒のことを家族として受け入れていたから、僕も唯もそして僕の両親も一度たりともそれが問題だとは考えたことはなかった。
「これじゃ、麻季ちゃんが悩んじゃうわけだよね」
寒々とした公園内の池を眺めながら理恵が呟くように言った。
「どういうこと?」
理恵が僕を見た。
「麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るたびに、つらい思いをしていたのかもしれないね」
「そんなこと」
「ないって言える?」
「麻季は自分から奈緒を引き取るって言い出したんだ。娘が母親に似るなんて当たり前だろ。それくらいのことで、麻季が奈緒のことを疎んじることはないよ」
「・・・・・・もう一度聞くけどさ。本当にないって言えるの」
僕は沈黙した。つらかったけど、麻季が奈緒を引き取ると言い出してからの彼女の言動を改めて思い起こそうと思ったのだ。
少なくとも僕と一緒に過ごしていたときの麻季には、奈緒の容姿が怜菜と似ていることに対して悩んだりした様子はなかったはずだ。
あの頃の彼女は、奈緒人と同じくらいの愛情を奈緒に向けていた。
だけどもう少し考えを推し進めて、僕がそう錯覚していたように、当時の麻季が僕との仲に無条件に安らぎや安堵感を感じていなかったとしたらどうなのだろうか。
大学時代の自分の親友のことを好きになった旦那。
そして麻季が自ら育てることを選んだ奈緒は当然なことに怜菜に似ている。
その奈緒をひたすら大切にして可愛がっている僕。
麻季が口や態度には出さなくても、内心僕と怜菜の関係に悩んでいたとしたら。
怜菜への嫉妬が、奈緒への嫉妬や嫌悪に転化したということもあり得るのだろうか。
「麻季が怜菜への嫉妬心を奈緒にぶつけるようになったって言いたいの? そのせいで麻季は子どもたちをネグレクトしたと」
「麻季ちゃん本人に聞かなければ真相はわからないけど、そういう可能性もあるんじゃないかな。奈緒ちゃんって本当に怜菜さんに似てるしね」
「鈴木先輩の面影もあるんじゃないか」
「全くないとは言わないけど、どちらかと言うと奈緒ちゃんはお母さん似だよ。あたしはそう思うな」
「仮に君の推測のとおりだったとしてもさ。少なくとも麻季は奈緒人のことだけは自分のことより大切にしていたよ。それは間違いない。たとえ奈緒の育児を放棄したとしても、麻季は奈緒人を育児放棄することはないはずだよ」
だから、真実は違うところににあるのではないか。
「麻季ちゃんの育児放棄は許されることじゃないけど・・・・・・仮に奈緒人君だけを大切にして、奈緒ちゃんだけを食事も与えずに虐待していたとしたら」
僕は頭を振った。
夕暮れが近づいていて、だいぶ気温が下がってきたようだ。
「そうだったら、奈緒が今頃どうなっていたか考えたくもないね」
実際、母親であるはずの麻季に一人きりで放置されてたとしたら、いったいどれくらい心の傷を奈緒が受けていたかと考えるとぞっとする。
そういう意味では、僕は奈緒人のことを誇りに思っていた。奈緒人は麻季に放置された不安から泣きじゃくる奈緒を、精一杯慰めて守ろうとしたのだった。
そのせいもあって、奈緒は思ったより早く心の傷を癒して、元通りの明るい性格に戻ることができた。
「次の調停っていつなの?」
僕はつらそうな様子をしていたのかもしれない。理恵が話を変えた。
「七月だね」
「調停に出れば麻季ちゃんと直接話せるの?」
「いや。今のところお互いに別々に調停委員に呼ばれて、相手の主張を聞かされてそれに対する反論を聞かれるって感じかな」
「じゃあ麻季ちゃんと直接話したことはないんだ」
「帰国してから顔を合わせてすらいないよ。こないだの居酒屋で会ったのが初めてだよ」
「そうか」
理恵は何かを考え出した。
「今度の調停で、養育環境が整いましたって調停委員に申し立てなよ」
「え? いったい何を言ってるの」
「麻季ちゃんとの離婚が成立したら再婚する予定の人ができました。彼女が子どもたちを育てますって言って」
「編集業しながら養育なんて無理だろ。有希ちゃんだって玲子ちゃんが育ててるみたいなもんだろ」
「明日にでも経理か総務に異動させてくれって上司に言うから」
「・・・・・・はい?」
理恵が僕に抱きついた。
「それで駄目なら会社辞めてやる・・・・・・博人君、そうなったらちゃんとあたしを養えよ」
「おい」
理恵とべったりと寄り添ったまま実家に帰ると宴会の支度が整っていた。
奈緒人と奈緒が僕を出迎えてくれた。理恵はもう迷わずに二人に向って手を伸ばした。
法的にはまだ僕は既婚者だったからすぐに理恵と結婚するわけにはいかなかったし、お互いに子どもがいたから同居するのも難しかったので、少なくとも麻季との離婚調停の結果が出るまでは、これまでどおりお互いに実家で別々に生活を送ることになった。
平日は相変わらず多忙なので、奈緒人と奈緒と一緒に過ごせる時間はほとんどなかった。その分、休日はなるべく子どもたちと一緒に過ごすようにした。
そうして子どもたちと過ごしていると、二人の様子を見ていろいろと気づかされることがあった。
例えば最近、唯は楽しそうに僕と理恵のことをからかったり、僕たちが結婚したらどこに住むのかとかそういう質問をすることがあった。
そういうときには、両親も楽しそうに口を挟んできた。
でも、子どもたちは大人たちが盛り上がっている会話の中には入ってこようとしない。
普通の子どもたちなら、わからないなりに無理にでも話に参加しようとするだろうし、その場の関心を自分たちの方に向けようとするものではないか。
でも、奈緒人も奈緒も大人しく二人で寄り添っているだけで、話に割り込んで大人たちの関心を引こうとする様子を一切見せなかった。
大人同士の話の間、奈緒人と奈緒は二人だけのささやかな世界を作り上げて、その中にこもっているようだった。
それは微笑ましい光景でもあったけど、同時にひどく寂しいことでもあった。
母親にネグレクトされた経験を持つ奈緒人と奈緒は、大人たちに相手にされないときは他の甘やかされて育った子どもたちのように、大人の関心を自分たちの方に向かせようと駄々をこねたり話に割り込んできたりしない。
そういうとき、奈緒人と奈緒は反射的に二人だけの世界に閉じこもることを選ぶようになっていた。
やはりこの子たちには、まだネグレクトされたことによる影響が残っている。
僕は子どもたちが自然に二人きりの世界を作っているのを見てそう思った。
それから、奈緒人と奈緒の関係も微妙ながら変化しているようだった。
僕は今まで、奈緒人が奈緒のことを守ろうとしているのだと思っていた。でも、改めて二人をよく眺めると、意外と奈緒が奈緒人の面倒をみるような仕草を見せていることに気がついた。
奈緒人が食べ物をこぼしたり服を汚したりするたびに、奈緒はいそいそと奈緒人が落としたものを片付けたり、奈緒人の服をティッシュで拭いたりしていた。
僕はそんな奈緒の様子に初めて気がついた。
仕事のせいで子どもたちのことをじっくりと見てあげられなかったせいか、こういう奈緒の様子には今まで気が付きもしなかった。
そのことを唯に話すと「今さら何言ってるの」と呆れられた。
「前に奈緒人が奈緒の面倒をよくみてくれるって言ってたじゃないか」
「うん、そうだよ。あたしもこんなんじゃなくて奈緒人みたいな兄貴が欲しかったよ」
「いや、それはどうでもいいけど、何か僕が見るに、どっちかっていうと奈緒の方が奈緒人の面倒をみているように見えるんだけど」
「そんなの前からそうだよ。確かに奈緒人は奈緒を気にしているけど、奈緒だって奈緒人に甘えているばかりじゃないんだよ」
「・・・・・・今まで気がつかなかった」
「まあ、お兄ちゃんが気にしなくてもいいよ。あたしみたいに毎日この子たちを見ていられたわけじゃないんだしさ」
「こんなことにも気がついていなかったんだな。少しだけ自己嫌悪を感じるよ」
「女の子の方がしっかりするの早いしね。妹の奈緒が兄の奈緒人の日常の面倒をみるなんて微笑ましいじゃない」
「まあ、そうかな」
僕が新たに気がついた子どもたちのこういう様子は、唯にとっては単に微笑ましい成長のしるしに過ぎないようだったけど、こういう二人の様子を、僕不在の家庭で麻季がどういう気持で眺めながら子育てをしていたのか、僕はここにきて初めて考えてみた。
そうして考えるようになると、先日の理恵の話が頭に浮かんだ。
『麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るたびにつらい思いをしていたのかもしれないね』
僕は想像してみた。
奈緒が怜菜にそっくりなことは、麻季も気がついていたかもしれない。そして奈緒人の方は僕に似ている。
そんな奈緒人と怜菜似の奈緒が、日増しに仲良くなっていくところを、麻季は育児しながら一番身近なところで眺めていた。
今まで考えたことはなかったけど・・・・・・もしも、本当にもしもだけど、麻季が奈緒人に僕の姿を見つつ奈緒に怜菜の面影を重ねていたとしたら、麻季はその二人の姿を見て何を思ったのだろう。
こんな幼い子どもたちに重ね合わせていいことじゃない。
だけど麻季が本当に僕と怜菜との仲を気にしていたとしたら、それは麻季にとってはまるで悪夢そのものだったかもしれない。
幼い二人が仲良くなる姿を見て、本来微笑ましいはずのその様子に、麻季が僕と玲菜が親しくなっていく姿を重ねてしまっていたとしたら。
その場合、どれほどの心の闇が麻季に訪れただろう。
理恵の言葉をきっかけにして、僕はそのことにようやく気がついたのだ。
せめて僕が家庭にいれば、麻季のストレスは僕の方向に向いていただろうし、僕も麻季を諌めたり慰めたり、場合によっては喧嘩して、彼女のストレスを発散させてあげることだってできたのかもしれない。
でもこのとき僕は海外にいた。
常識的に考えれば、幼い兄妹がどんなに仲が良かったとしても、その様子から僕と怜菜の仲を思い出して嫉妬するなんて、普通の人間なら考えられないだろう。
僕に言えた義理じゃないかもしれないけど、死んだ人間に執着したり、嫉妬したりすることは不毛だ。
生きている浮気相手なら、別れて清算することもできるかもしれない。でも亡くなった怜菜を振って別れることはできないのだ。
麻季に限らず、亡くなったライバルを相手にして勝てる人なんていない。
惹かれている気持がマックスのときにその相手が亡くなった場合、亡くなった彼女への想いは凍り付いたままで、その記憶が残っている限りは、そのまま心の中に留まり続けるしかないのだ。
いくらパートナーの愛情を疑った人でも、普通ならそんな実体のない相手への嫉妬にこだわる人は少ないだろう。
特に大切なはずの子どもたちを巻き込むほど、その嫉妬心を表に出す人はいないはずだ。
でも麻季ならあり得るかもしれない。愛情も憎悪も人一倍強い彼女ならば。大学時代に、面識すらなかった理恵にところに、僕に構うなと言いに行った麻季ならば、そういう非常識なことも考えられるのかもしれない。
自分の不倫にひけ目を感じていたうえに、僕と怜菜のささやかな心の交情を聞かされて混乱した麻季が、僕の出張中に奈緒人と奈緒の仲のいい様子に、僕と怜菜の姿を重ねて考えるようになってしまったとしたら。
彼女なら、心の中で奈緒人と奈緒の様子を、僕と怜菜との関係に置き換えてしまったとしても不思議ではないのかもしれない。
でもその仮定が成り立つのは、麻季がまだ僕のことを好きで執着がある場合に限られていた。
僕より鈴木先輩や他の男を選ぶくらいなら、僕と怜菜の感情に悩むことはないだろう。
そこまで考えつくと僕は再び混乱して、あのとき麻季が何を考えていたのかわからなくなってしまうのだった。
いろいろ考えた末、理恵の好意に甘えることにした僕は、代理人の弁護士に養育環境が麻季に対して有利な方向で整ったことを報告した。
麻季の代理人と親権について渡り合ってくれている彼にとって、それはいい交渉材料のはずだった。
でも彼は浮かない顔で答えた。
「まあ、昨日までならいい材料だったかも知れないですけどね」
「どういう意味です?」
「今日、太田先生から連絡があったんですよ。先方の状況がいい方に変化したんでお知らせしときますってね」
「・・・・・・変化って。いったい先方に何が起きたんですか」
「こっちと同じですよ。先方の養育環境もずいぶん有利になってしまいました」
「というと?」
「奥さんの方も離婚が成立したら再婚するらしいですよ。ですから養育条件の面ではこちらに不利になるところでした」
弁護士がそう言った。
「まあ、幸いにも結城さんにもお相手ができたみたいですから、そういう意味では五分五分というか一進一退というところですかね」
では麻季にはやはり好きな相手がいたのだ。
奈緒人と奈緒の親権の争いがかかっていた大事な場面だったのだけど、このとき僕は麻季の相手が誰なのかが気になった。
そしてすぐに、そういう自分の心の動きに幻滅した。
僕にとって一番大切なのは子どもたちだったはずなのに、そして今では一番大切な女性は理恵なのに。
それなのに、麻季の再婚相手のことに心を奪われている自分が心底情けなかった。
「相手の名前は?」
「鈴木雄二さんです。あなたの奥さんのかつての不倫相手ですね」
やはりそうか。
奈緒人と奈緒のこととか僕と怜菜のこととか、いろいろごちゃごちゃと考えたことなんか実際にはまるで関係なかったのだ。
やはり麻季は鈴木先輩のことが好きだったのだ。
「まあ奥さんの再婚はどうでもいいんですけどね。偶然にも先方と同じで結城さんにも一緒に育児できるお相手ができたわけだし、養育環境の面だけではこちらも有利にはなれなかったけど不利にもなっていません」
「はあ」
「それよりも問題なのは奥さんの相手が鈴木雄二ということですよ」
「どういうことですか」
「ご存知なんでしょ? 鈴木雄二氏は奈緒さんの実の父親ですからね。奈緒さんが戸籍上はあなたと麻季さんの娘だとしても血は繋がっていない。実の父親が奈緒ちゃんを引き取りたいと言い出しているわけで、ちょっとまずいことになりそうですね」
どうしてこんな簡単なことを今まで僕は忘れていたのだろう。
怜菜の遺児である奈緒の実の父親は鈴木先輩なのだった。
怜菜は先輩に自分の妊娠を告げることなく先輩と離婚して奈緒を出産した。
そして怜菜の死後、先輩は奈緒を引き取りはしなかったけど認知だけはしたのだった。
「鈴木氏は奈緒さんの実の父親ですからね。調停委員の心象にもだいぶ影響を与えるでしょうね」
「子どもたちを取られてしまうかもということですか」
「実の父親が奈緒さんを引き取りたいという意向を示しているのは、我々にとっては不利だと思います」
「でも、少なくとも奈緒人は鈴木先輩とは関係ないですよね」
「それはおっしゃるとおりです」
「・・・・・・この先、奈緒人と奈緒はいったいどうなってしまうんでしょうか」
「怜菜さんが亡くなった際、鈴木氏が奈緒さんを引き取らなかったことと、結城さんの奥さんの育児放棄を強調して、この二人には育児に不安があることを主張してみます」
「それで勝てるんでしょうか」
「調停は勝ち負けじゃないですからね。いかに調停委員の心象を良くするかです。調停結果が思わしくない場合は、その結果に従わないこともできます。でもそれは前に説明しましたね」
「ええ」
「最悪のケースは子さんたちの親権を奥さん側に取られてしまうことですが、可能性としては奈緒さんが奥さん側に、奈緒人君が結城さん側にとなることも考えられますね」
「奈緒人と奈緒を引き剥がすなんてあり得ないですよ。あれだけお互いに仲がいいのに」
「でも奥さんが鈴木氏と再婚するとなると、この可能性も現実味を帯びてきてしまいました」
「そんなことは認めない。駄目ですよ。あの子たちを別々にするなんて」
「多分、二人の親権を奥さん側が確保することは難しいでしょう。奥さんのネグレクトは児童相談所の記録で公に証明されていますし、調停委員の一人は元児童相談員をしていた人ですから、児童虐待の可能性のある人に親権を認めることはないと思います。でも、鈴木氏は奈緒さんの実の父親だし、別に子どもを虐待した経歴があるわけじゃないですから、奈緒さんの親権をこちらが確保するのは、正直難しいかもしれません」
「その場合は調停を拒否して裁判に持ち込めばいいんでしょ?」
「それはお勧めしません。裁判になれば多分こちらが不利です。この手の訴訟は判例では八割方、母親に有利な判決が出ているのです。少なくとも調停なら、児童委員出身の調停委員のおかげで何とか奈緒人君の親権は確保できる可能性はありますけど、裁判にしてしまえば二人とも奥さんの方に持っていかれてしまう可能性が大きいですね」
せっかく理恵が仕事を止めてまで育児をすると言ってくれたのに、この場に及んでまた鈴木先輩が僕を苦しめようとしているのだ。
今の僕にとって一番憎いのは、麻季ではなく鈴木先輩だったかもしれない。
それから数週間後、次の調停の前日に僕は再び弁護士から電話をもらった。
「最悪の事態です。太田先生から連絡があって奥さん側は明日の調停で申し立てを変更するそうです。奥さんは奈緒人君の親権、養育権、監護権とも全て放棄するみたいです。その代わりに奈緒さんだけを引き取ることを主張すると」
確かに最悪の事態だった。弁護士によれば調停ではその主張は認められる可能性が大だという。
それにしても麻季は何を考えているのだろう。自分の実の息子である奈緒人のことはどうでもいいのか。それとも奈緒人のことも奈緒のことも麻季にとってはどうでもよくて、単に僕に嫌がらせをしたいだけなのだろうか。
奈緒人と奈緒 第2部第4話
取材を終えていないため、日本に滞在できるのは三日間が限度だった。
帰国便の機内で、僕は一月前に業務連絡で二日間だけ帰国したときのことを思い出した。
あのとき編集部に寄って用を済ませてから帰宅した僕に、麻季は抱きつこうとしたけれど、その麻季を押しのけるようにして、奈緒が足にしがみついて来たのだった。
麻季は少し驚いて身を引いたけど、すぐに笑顔を取り戻して僕たちを見守っていた。
奈緒人は少し離れてその光景を見つめていたようだった。
そのときの家族の様子には少し違和感を感じたけど、すぐにいつもどおりの家族の団欒始まった。
久し振りだったので、いつもより会話も華やかだったはずだ。わずか一月後にこんなことになるような前兆は、いくら思い返してもなかったと思う。
麻季と子どもたちにいったい何があったのか。いくら考えてもその答は出なかった。
その三日間でしなければいけないことはたくさんあった。
帰国して編集部に連絡して断りを入れてから、僕は児童相談所に向った。
そこで、相談所のケースワーカーさんから事情を聞いて実家に向った。
車のキーを取りに、途中にで立ち寄った自宅の床には、小物や封を切られたレトルト食品の残骸などが散乱して異臭を放っていた。
出張前の綺麗に片付けられていた自宅の面影は全く残っていない。
それまでに何度も麻季の携帯に電話をしていたけれど、僕の携帯は着信拒否されているようだった。
僕は混乱し怯えながらも半ば無意識に運転して実家に辿り着いた。
実家のドアのチャイムを鳴らすと、しばらくして警戒しているような声がどちら様ですかと聞いてきた。実家で暮らしている妹の声だ。
「僕だけど」
「・・・・・・お兄ちゃん?」
「うん。開けてくれ」
ドアが開くと妹が顔を出した。
「よかった。お兄ちゃんが戻って来てくれて」
そのとき廊下の奥から奈緒人と奈緒が走り寄って来て、僕にしがみつくように抱きついた。
「パパ」
二人は同時にそう言って泣き出した。僕はしゃがみこんで二人を抱き寄せながら、かたわらにじっと立っている妹の方を見上げた。
「・・・・・・今は奈緒ちゃんたちを慰めてあげて。話は後で」
妹は涙をそっと払いながら低い声で言った。
何があったのか聞きたかたけど、妹に言われるまでもなく、今は子どもを落ち着かせるのが優先だった。
僕は大丈夫だよとかそんな言葉しかかけられなかったけど、そう言いながら子どもたちの頭や背中を撫でているうちに、次第に二人は穏かな表情になって行った。
いったいこれまで苦労して育てたこの二人に何が起こったのだろう。そしてこの先、僕の家庭はどうなってしまうのか。
子どもたちの様子に胸が痛んだ僕だけど、二人が僕に抱きついたまま寝てしまうと改めて混沌とした境地に陥ってしまった。
「いったい何があったの? 麻季は無事なんだよな」
「どういう意味でお姉さんが無事って言っているのかわからないけど、まだ死んでいないという意味なら無事みたいね」
妹が冷たい声で言った。
「・・・・・・どういう意味?」
「お兄ちゃんから電話をもらって、児童相談所から子どもたちを引き取ってすぐに、お姉さんから電話があったからね」
「麻季は何て言ってたんだ」
僕は淡々と話す妹に詰め寄りたい気持を抑えて聞いた。それでも無意識に大きい声を出してしまったらしい。
「子どもたちが起きちゃうでしょ。もっと声を抑えて」
「悪かったよ・・・・・・それであいつは何だって?」
「奈緒人君と奈緒ちゃんを返せって。電話に出たのはお父さんだけど、お父さんのことを誘拐犯みたいに罵っていたらしいよ」
いったい何のだ。もともと麻季はうちの実家とは仲が良かった。僕の両親とも妹ともうまく行っていたのに。
「それでお父さんが、お兄ちゃんが帰るまでは孫は渡さないって言ったの。何があったのかは知らないけど、自宅で何日も幼い子どもたちを放置するような人には、子どもたちは渡せないって」
「麻季と子どもたちに何があったんだ。おまえは何か知っているのか」
「お兄ちゃん、児童相談所に寄って来たんでしょ。そこでケースワーカーさんの話を聞いた?」
「うん」
「じゃあ、お兄ちゃんはあたしたちと同じことは知っているよ。あたしたちも児童相談所の人から説明されたことしか知らないし。お姉さんが電話を切る前にお父さんが何があったのか聞いたけど、お姉さんは答えずに電話を切っちゃったし」
最初のうちは、体調不良で二人とも休ませますという連絡が、麻季から幼稚園にあったらしい。
でもそのうちその連絡すら無くなり、不審に思った幼稚園の先生が自宅や麻季の携帯に連絡しても応答がない。
そんなことが数日間に及ぶようになると、さすがに心配になった幼稚園から児童相談所に連絡が行った。
同時にマンションの近所の人たちからも、隣家は昼間の間は子どもが二人きりで過ごしているらしいという通報が児童相談所にあったそうだ。
児童相談所の職員が家庭訪問をして見つけたのは、自宅の食べ物を漁りつくして衰弱した子どもたちだった。
風呂やシャワーも入っていなかったようで、身体から異臭がしたそうだ。
結局、奈緒人と奈緒はその場で救急車で病院に運ばれて点滴を受けた。そしてその二日後に児童相談所に一時保護された。
警察を経由して僕の職場を突き止めた相談所の職員は、麻季には連絡を取らずに編集部に電話した。
編集部から僕の携帯の番号を聞いた相談所のケースワーカーが僕に連絡した。
「結城さんの依頼どおり、実家のご両親と妹さんが二人をお迎えにきたので身分を確認した上で、奈緒人君と奈緒ちゃんをお渡ししました。翌日に奥様が見えられましたけどね」
僕が帰国して児童相談所の担当だというケースワーカーをたずねたとき、彼女は苦笑しながら僕にそう説明した。
「奥様は男の人と一緒に来て、大きな声で私たちを誘拐犯呼ばわりしてましたよ」
僕は妻の不始末を謝罪した。
結局わかったのはこれだけだった。
麻季が子どもたちを放置したことは間違いない。
最初この話を聞いたとき、僕は麻季の身に何か不慮の事故が起きたのではないかと思った。怜菜の寂しく悲しい事故のことが頭をよぎった。
でも、相談所の職員や妹の話によるとそんなことは全くないらしい。
ようやく自分でも理解できてきた事実。それは想像もできないけど、麻季が子どもたちを意図的に放置した挙句、子どもたちを保護した相談所や僕の実家に来て、子どもたちを渡すように居丈高に要求したということだった。
いったい麻季の心境に何が起こったのか。
こんなのは僕の知っている麻季の行動ではない。
自分の不倫や僕の怜菜への思い、それに僕の不在で混乱したとしても、麻季が子どもたちを放置するようなことは考えられない。
僕は妻が知らない女性のように思えてきた。そしてそのことに狼狽した。
「父さんたちは?」
僕は気分を変えようと妹に聞いた。
「子どもたちの服とか必要な品物を買いに行ってるよ。お兄ちゃんの家からは何も持って来れなかったからね」
「おまえにも迷惑かけたね」
僕は妹に謝った。
「気にしなくていいよ。大学はもう講義はないし、四月に入社するまでは暇だしね。それに奈緒人君と奈緒ちゃんも懐いてくれたし」
「悪い」
「だからいいって。あ、父さんの車の音だ。帰ってきたみたいね」
「おう、博人帰ったのか」
父さんと母さんは大きな買物袋を抱えて部屋に入ってきた。
「おかえり。奈緒ちゃんのサイズの服はあった?」
妹が心配そうに母さんに話しかけた。
「うん、探し回ったけど見つけたよ。奈緒人の物も一通り揃ったよ」
「よかった」
僕の子どもたちのために両親と妹がいろいろ考えてくれている。それは有り難いことなのだけど、そのことが今の僕にはすごく非日常的な会話に聞こえた。
これまで僕は子どもたちの服のサイズなんか気にしたことはなかった。それは全て麻季の役目だったから。
本当にもう戻れないのかもしれないという事実をようやく自分に認め出したのは、このときからだった。
「父さん、母さんごめん。二人ともこんなこと頼める状態じゃないのに本当に悪い」
両親は高齢だった。僕と妹は両親が三十歳過ぎに生まれたのだ。
両親が居宅支援サービスを受けようといろいろ調べていることは、以前僕は妹から聞いていた。
「おまえのためじゃないよ。孫のためだからね」
母さんが笑って言った。
「それより博人、麻季さんと何かあったのか」
父さんが真面目な顔になって言った。
「見当もつかないんだ。一月前に帰宅したときだって普通にしてたし」
「お兄ちゃんも何が何だかわからないんだって」
妹が助け舟を出してくれた。
「そうか」
父さんはため息をついた。
「おまえ、いつまで日本にいられるんだ」
「明後日にはまた戻らないと」
「わかった。とりあえず一月後には帰宅できるんだな」
「うん」
「じゃあ、それまでは奈緒人と奈緒はうちで預かる。何があっても麻季さんには渡さない。その代わり帰国したら、一度麻季さんとちゃんと話し合え」
「・・・・・・明日、麻季の実家に行ってみようかと思うんだけど」
「やめておけ」
父さんが断定するように言った。
「だって」
僕がそう言ったとき妹が口を挟んだ。
「自相に姉さんが子どもったを返せって言いに行ったとき、男の人と一緒だったんでしょ?」
「そうだったな・・・・・・」
やはり鈴木先輩と麻季の仲が再燃したのだろうか。
「多分お姉さんの実家に行っても解決しないよ。それにお兄ちゃんが電話してもお姉さんは出ないんでしょ」
「着拒されてる」
「じゃあ無理よ。出張が終るまではこの子たちはうちで面倒みるから。父さんたちは体調もあるから厳しいだろうけど、あたしも面倒看るから」
「そうよ。唯も大学が休みなんで協力してくれるそうだし、あなたは安心して仕事に戻りなさい」
母さんが妹の唯を見て言った。妹も頷いている。
これでは全く何も解決しないし、麻季のことをまだ信じたい僕の悩みも解決しない。
でも父さんと妹の言うことが正しいことはわかっていた。わずか二日でできることはない。
翌日、麻季を探すことを諦めた僕はずっと奈緒人と奈緒と一緒に過ごした。
妹が一緒に来てくれたので、公園に行ったりファミレスで食事をしたり、ショッピングモールで二人に玩具や服を買ったりした(妹の話では両親の服装のセンスは古いので買い足した方がいいとのことだった)。
子どもたちは妹に懐いていたけど、それ以上に僕のそばを離れようとしなかった。
麻季のことは気になるけれど、唯の言うように今は子どもたちと過ごすことを優先すべきだった。
明日には、僕は再び子どもたちを置いて出かけなければならないのだから。
妹の勧めで、早朝に実家を立って空港に向うとき、僕はあえて子どもたちを起こさなかった。
あとで話を聞くと、目を覚まして僕がいないことを知った奈緒人と奈緒はパニックになって、泣きながら実家の家中を僕を求めて探し回ったそうだ。
両親も妹もそれを宥めるのに相当苦労したらしい。
僕は実家を出て一度自宅に車を戻してから電車で空港に向かったのだけど、散乱した部屋を眺めているとこれまで凍り付いていた感情が沸きたった。
自宅を出るぎりぎりの時間まで、僕は泣きながら思い出だらけの部屋を掃除したが、完全に綺麗にすることは無理だった。
時間切れで自宅を出て空港に向う前に、僕はふと思いついてリビングのテーブルに麻季あてのメモを残した。
『おまえのことは絶対に許さない。奈緒人も奈緒もおまえには渡さない』
残りの一月、バイエルンでの取材に集中するのに大変だった。
ふと気を許すと、幸せだったころの麻季の笑顔や子どもたちの姿が目に浮かび、集中して聞くべき演奏がいつのまにか終っていたりすることもあった。
それでも麻季の行動の理由をあれこれ考えているよりは、仕事に集中した方がましだと気がついてからは、今まで以上に仕事にのめり込んだ。
そのせいか、編集部に送信した記事や写真は好評だったし、雑誌自体の売り上げも二割増という期待以上の成果をあげたそうだ。
仕事が終ると、僕は毎日実家に電話して奈緒人と奈緒と話をした。
僕がいなくなってショックを受けていた二人も、次第に落ち着いていったようで、僕と話すことを泣くというよりは喜んでいる感じだった。
『二人とも思ったより元気にしているよ』
電話の向こうで唯が言った。
「唯が子どもたちの面倒を見てくれるおかげだな」
『うーん。あたしもなるべく一緒に過ごすようにはしているんだけどさ。何というか、二人ともお互いがいれば安心みたいな境地になっちゃってるみたい』
『まあそうなんでしょうけど。ちょっとでも奈緒人から離すと、普段は落ち着いている奈緒がすぐに騒ぎ出すのよね。まあ兄妹が仲がいいのはいいことだけどね』
「そのせいで麻季や僕がいなくても我慢できるなら助かるけど」
唯は少し笑った。
『いいお兄ちゃんだよ、奈緒人は。あたしもあんな兄貴が欲しかったなあ』
「・・・・・・悪かったな。それで麻季を恋しがったりはしていないのか」
『全然。お兄ちゃんのことはいつ帰るのって二人ともよく聞くけど、お姉さんのことはここに来てから一度も口にしないよ』
「そうか」
僕は子どもたちが落ち着いていることに少し安心することができた。
やがて一月が過ぎて僕は帰国した。
帰国した僕を待っていたのは、昇進の内示と実家に届いていた内容証明の封筒だった。
編集部に顔を出して無理を言って四日間の有給休暇ををもらいに行った僕は、編集長に呼ばれ社長室で辞令を受け取った。
ジャズ雑誌の小規模な編集部の編集長を任されたのだ。
正直昇進は嬉しかったけど、二人の子どもを抱えて今までどおり激務に耐えていけるのかどうか心もとなかった。
唯ももう少ししたら、大学を卒業して内定している商社に入社することになる。当然二人の子どもたちの面倒を見るわけには行かないし、かといって高齢の両親だけに育児を任せるわけにもいかないだろう。
とりあえず実家に戻って、今後のことを相談しよう。そして今度こそ麻季に直接会って、彼女が何を考えているのか説明させなければならない。
正直ここまでされると、メモに残したように麻季を許すことはできないと思っていたけど、それでも納得できる理由が聞けるかもしれないと期待している気持もあった。
僕にはどこかでまだ麻季に未練があったのかもしれない。
「パパお帰りなさい」
実家に戻ると奈緒人と奈緒が迎えてくれた。もう二人は泣くことはなかった。
「お兄ちゃん」
唯も子どもたちの後ろから出迎えてくれた。
「ただいま」
僕は大分重くなってきた二人を一度に抱き上げた。思ったより力が必要だったけど、子どもたちが笑って喜び出したので、その苦労は報われた。
唯も微笑みながらそんな僕たちを眺めていた。
ついこの間までは、妹ではなくてこの子たちの母親がこの場所にいたのだ。ついそんなどうしようもない感慨に僕は耽ってしまった。
居間にいた両親にあいさつすると、父さんが僕に一通の封書を渡してくれた。
内容証明の封書だ。封筒に記載されている差出人は「太田弁護士事務所 弁護士 太田靖」となっている。
僕は父さんを見た。父さんはうなずいて鋏を渡してくれた。
封を切って内容を確かめると、受任通知書という用紙が入っていた。それは太田という弁護士が、麻季の僕に対する離婚請求に関する交渉の一切を受任したという文書だった。
そこに記された離婚請求事由に僕は目を通した。
「貴殿は結城麻季氏(以下通知人という)との間にもうけた長男の育児を通知人一人に任せ滅多に帰宅せず、あるいは帰宅したとしても深夜に帰宅し、長男の育児上の悩みを相談しようとする通知人を無視して飲酒した挙句、それでも貴殿に相談しようとする通知人に対して罵詈雑言を吐くなどして通知人を精神的に追い込みました」
「また平成○○年○月頃、貴殿は通知人の大学時代の知人である訴外A(以下Aという)と不倫を始めました。通知人がAの夫(訴外B、以下Bという)からその話を聞かされ貴殿に事実を質問すると、貴殿は通知人が最初にBと不倫をしたのであって、貴殿とAはその相談をしていただけだという虚偽の返事をしたばかりか、事実無根である通知人とBとの不倫を責め立てるなどして通知人に多大な精神的被害を生じさせました」
「さらに貴殿と不倫関係にあったAが貴殿との不貞関係が原因で夫と離婚すると、貴殿は夫と離婚したAと実質的な同棲を試みようとしたものの、それを果たす前にAは不慮の交通事故で亡くなりました。Aが亡くなったことを知った通知人が長男のことを鑑み貴殿との婚姻関係の継続に努力しているにも関わらず、貴殿はAの遺児である女児を引き取り通知人が育児するよう要求しました。通知人が貴殿との婚姻関係を継続するために止むを得ずにAの遺児を引き取り努力して育児しようと試みている間、貴殿はAは聖女のような女だった。通知人のような汚らしい女とは大違いだったという趣旨の暴言を繰り返し、通知人に対して多大な精神的被害を生じさせました。またこの間も貴殿は滅多に自宅に帰宅せず長男とAの遺児の育児を通知人に任せたままでした」
「かかる貴殿の行為は,単にAとの不貞行為により婚姻関係破綻の原因を作ったことにとどまらず、通知人の人格を完全に無視し、通知人を精神的に虐待したモラルハラスメントとして認定されるべき行動であり、婚姻関係の破綻の責任は完全に貴殿に帰すものであります」
「以上の次第で通知人は貴殿との離婚及びその条件について当職に委任しました。つきましては近日中に離婚及びその条件についてお話し合いをさせていただきたいと思いますが、まずは受任のご挨拶で本通知を差し上げた次第です。なお,本件に関しては当職が通知人から一切の依頼を受けましたので、今後のご連絡等は通知人ではなく全て当職にしていただくようお願い申し上げます」
「どういう内容だったんだ」
父さんが険しい声で聞いた。
きっと僕の顔色が変っていたことに気がついたのだろう。僕は黙って父さんに受任通知を渡した。
父さんは弁護士からの受任通知書をゆっくりと二回読んでから母さんに渡した。母さんにはその内容がよく理解できなかったようだ。
「博人、おまえこの内容は事実なのか」
父さんが僕の方を見てゆっくりと言った。
「おまえはここに書いてあるようなひどい真似を本当に麻季さんにしたのか」
「そんなわけないでしょ。博人はこんなひどい真似をする子じゃないわ」
母さんが狼狽して口を挟んだ。
「おまえは黙っていなさい。博人、どうなんだ。これが事実だとしたら父さんたちはおまえの味方にはなれないぞ」
僕が混乱しながら重い口を開こうとしたとき、子どもたちと唯が居間になだれ込んで来た。
「パパ」
奈緒が可愛い声で僕を呼びながら抱っこをねだった。奈緒人も照れた様子で僕のそばにぴったりとくっ付いて来た。
何があってもこの子たちだけは僕の味方をしてくれる。
太田という弁護士の内容証明によって僕は打ちひしがれていた。
これまでの家庭生活の記憶が、麻季によって踏みにじられた気分だったのだ。多分この仕打ちは一生僕の心を傷つけ続けるだろう。
でも、今この瞬間に僕にまとわりつく子どもたちを抱き寄せると、それが僕の心を正気に戻してくれた。
父さんに渡された文書を今度は妹が険しい表情で読んでいた。
どういうわけか父さんも母さんも黙ってしまい、結果として大人三人が最後の審判を待つかのように、唯の表情を見守ることになってしまった。
妹は受任通知をぽいっとテーブルに投げ捨てて吐き捨てるように言った。
「ばかばかしい。お兄ちゃんがこんなことするわけないじゃん。他人ならいざ知らず、お兄ちゃんの家族であるあたしたちがが、こんな文書を信じるわけないじゃん。こんな内容をあたしたちが信じると思っているなら、麻季さんも相当頭悪いよね。まあ不倫して可愛い子どもたちを平気で放置するような人だから、この程度のでっちあげしかできないんでしょうね」
唯はそれまでお姉さんと呼んでいた麻季を麻季さんと呼んだ。
「唯の言うとおりよ。お母さんは博人を信じているからね」
唯と母さんの言葉に父さんは居心地悪そうにしていた。
「疑って悪かった。母さんと唯の言うとおり博人がこんなひどいことをするわけがないよな」
「父さん遅いよ。自分の子どもを信じてないの?」
どういうわけか唯が半泣きで言った。
「悪かった。ちょっとこの文書に動揺してしまってな。虚偽のわりにはよくできているからな」
「ばかばかしい。あなたは昔から理屈ばっかりで仕事をしてきたから、こういうときに迷うんですよ。あたしも唯も一瞬だって博人を疑ったりしないのに」
「それに奈緒人と奈緒の様子を見てみなよ。こんなひどいことをする父親にこの子たちがこんなに懐くと思うの?」
麻季が止めをさした。
「悪かったよ。謝る。だが何が起きたかは話してほしい。博人、事実を話してくれ」
それまで大人の事情を気にせずにまとわりついている子どもたちを構いながら、唯と母さんの援護に僕は泣きそうになった。
僕は全てを両親と妹に話した。
麻季の浮気。そして奈緒人への愛情からそれを許して彼女とやり直そうとしたこと。玲菜に呼び出され、麻季と先輩がメールのやり取りを続けているのを知ったこと。そして、怜菜に最後に会ったときと、離婚後の怜菜のメールで彼女が僕を好きだったということを知ったこと。僕もそんな怜菜に惹かれていたこと。
怜菜の離婚後、僕が再び麻季とやり直そうとしたこと。
そして最後に怜菜の死後、彼女が先輩の妻で自分のことを恨まず黙って離婚したことを、麻季が怜菜の急死後のお通夜で知ったこと。
麻季は先輩が怜菜の遺児を引き取らないということを知って、その子を引き取ったこと(この辺の話は奈緒を引き取る際に両親には説明してあったけど、麻季が奈緒の父親と浮気をしていたことや僕が怜菜に惹かれていたことは初めて話した)。
話し終わったとき、両親と妹はしばらく何も言わなかった。
彼らの気持ちはよくわかった。僕だって他人からこれほど純粋な悪意をぶつけられたのは初めてだったから。
それに麻季はつい少し前までは他人ではなかった。
僕が海外出張を告げたとき、抱きついて甘えてきた麻季の姿は今でも鮮明に思い浮ぶ。あれはわずか三月ほど前の出来事なのだ。
「・・・・・・お兄ちゃんさ」
唯が泣き腫らした顔で僕を見て言った。でもその口調は鋭かった。
「今は混乱していると思うけど、することはしておかないとね」
「どういうこと?」
「麻季さんが弁護士を立ててきた以上、こちらもしなきゃいけないことはたくさんあるでしょ」
僕は唯の言っていることがよくわからなかった。それに思考の半分は僕に抱きつきながらも、二人きりで遊びだした子どもたちに奪われていた。
「まず生活費とか貯蓄の口座を調べて。そして麻季さんが自由にできない状態にしないと」
随分生々しい話になってきた。
唯は音大で何となく四年間を過ごした僕と違って、国立大学の法学部を卒業したばかりだ。本人の志向もあって法曹の道には進まなかったけど、内定している商社では法務部配属が決まっているそうだ。
「あとは親権だね。お兄ちゃんは麻季さんと離婚しても、奈緒人と奈緒を麻季さんに任せる気はないんでしょ」
「あるわけないだろ。一週間近く子どもたちを自宅で放置したんだぞ、あいつは」
「だったら養育実績を作って親権争いを有利にしないと。お兄ちゃん、放っておくとこのまま離婚されて奈緒人と奈緒も麻季さんに盗られちゃうよ。こんなところで腑抜けていないでしっかりしなよ。こっちも麻季さんに対抗する準備をしないと。それともお兄ちゃん、まだ麻季さんに未練がある? 麻季さんと別れたくないの?」
「いや、離婚はもう仕方ないだろ。こんだけの文書を送りつけてくる麻季とはもう一緒に暮らせないよ」
僕は弱々しく言った。
でもそれは本音だった。マンションの部屋に残したメモは麻季も見たに違いない。
僕は、先輩に殴られた麻季がきょとんとして僕を見つめ、「結城先輩、わたしのこと好きでしょ」と言ったときの彼女の表情を思い出した。すごく切なくて涙が出そうだったけど、もうあの頃には戻れないのだろう。
「麻季さんと離婚して子どもたちの親権を取りたいなら、そろそろお兄ちゃんも立ち上がってファイティングポーズ取らないと。麻季さんの豹変に悩んでいるのはわかるけど、もうあっちは完全に準備して宣戦布告してきているんだよ」
妹の方が頭に血が上ってしまったらしい。唯に責められても、僕はどうにも冷静に計算する気にはなれなかった。
そんな僕を尻目に唯はヒートアップして行った。両親も妹の剣幕にやや辟易している様子だった。
「お兄ちゃんの話を聞いていると、確かにお兄ちゃんと怜菜さんは心の中では麻季さんを裏切ったのかもしれないけど、実際に怜菜さんの旦那さんと体の関係になった麻季さんと比べれば非は全然少ないよ。ちゃんと戦えば二人から慰謝料は取れるよ」
「慰謝料とかどうでもいいよ」
「・・・・・・じゃあお兄ちゃんは養育権もどうでもいいの?」
「そんな訳ないだろ」
「唯の言うとおりだ」
それまで黙っていた父さんが口を挟んだ。
「俺が役所を退職後に社会福祉法人の理事長をしていたとき、評議員をしてくれていた弁護士がいる。随分懇意にしてもらった人だ。彼に相談しよう」
「いや・・・・・・まだ麻季と一回も会って話していないんだ。とりあえず一度彼女と」
「やめたほうがいいよ。麻季さんの方が今後は一切は弁護士を通せって言ってるんだよ。もうお兄ちゃんが好きだった麻季さんはいないんだよ。お兄ちゃんもつらいだろうけど、奈緒人と奈緒を守りたいならお兄ちゃんもいい加減に目を覚まさないと」
唯がもどかしそうな、というか泣きそうな表情で僕に言った。
「唯・・・・・・」
麻季と直接会って話しても、彼女との仲が元に戻ることはないかもしれないけど、少なくともどうして彼女がこんなひどい仕打ちをしたかくらいはわかるだろうと、僕は心のどこかで期待していた。
でも、子どもたちのこの先の生活を考えることが優先なのだ。
唯の言うとおりだった。
今では麻季は敵なのだ。
奈緒人と奈緒のことを考えれば、たとえどのような理由があったにせよ、一週間も自宅に子どもたちを放置するような母親に親権を譲るわけにはいかない。
僕は唯や父さんの勧めに従った。つまり麻季を敵に回して戦うことを決意したのだ。
僕は父さんの知り合いの弁護士に、正式に妻側との依頼を依頼した。
初老の人の良さそうな人だった。彼は受任通知を見て僕を疑わしそうに見た。
きっと不倫したクズのようなDV男から、妻からの慰謝料要求の減額交渉でも依頼されたのだとと思ったのだろう。
最初から事情を話すと弁護士はようやく理解してくれたけど、彼が言うには証拠がないので客観的に立証し反論することは難しいそうだ。
「私は結城さんの代理人を引き受ける以上、あなたが真実を話してくれている前提で交渉はしますけど、多分それは先方の太田先生も同じでしょうね」
先方との予備的な交渉の中で、離婚するということ自体はお互いに与件になっていたので、そこで揉めることはなかった。
また、お互いに慰謝料の要求も無かった。
ただ、問題は二つあった。
一つは離婚理由でもう一つは養育権だった。
弁護士によれば互いに離婚で一致していて慰謝料の請求もない以上、離婚の理由はさして重要ではないそうだ。そんなところは争わずに養育権の交渉に全力を注ぎましょうと僕は弁護士に言われた。そう言われればそんな気もしてきた。
どちらが有責かが重要なのは、離婚するしないや慰謝料の有無や多寡に影響するからであって、そこが争点になっていない以上、気にしない方がいいのかもしれない。
先方の受任通知書の内容は巧妙に事実の一部を捉えてはいたけど、悪意によってその意味を捻じ曲げたもので、その内容はでたらめだった。
でも僕がショックを受けたのはその内容にではない。僕が傷付くのを承知しながら、それを自分の弁護士に語った麻季の心の闇に僕は絶望したのだった。
そして多分、麻季がそういう行動に出た理由は、弁護士間の交渉で明らかになるようなことではないだろう。
だから僕は、自分の弁護士の言うとおり問題を親権に集中しようと思った。
それは合理的な判断だった思うけど、どういうわけかそのとき同席していた唯が納得しなかった。
「条件とかそういう問題じゃないでしょ。反論しなかったらこんなデタラメを認めたことになっちゃうじゃない」
「婚姻関係の破綻の原因がこちらにはないことを主張してもいいですけど、お互いに証拠がない以上水掛け論になって終わりですよ」
「それでも主張するだけは主張した方がいいと思います。あの内容をこちらが認めたわけではないですし、協議が決裂して調停や裁判に移行したら有責側かどうかは親権にも影響するでしょ」
「まあ確かにその可能性は否定できませんね」
結局、唯の主張するとおりに交渉することに決まった。
最初に太田弁護士との直接交渉の際、僕は依頼した弁護士に頼んで同席させてもらった。もしかしたら麻季と会えるかもしれないと思ったのだ。
でも先方は弁護士一人だけだった。やはり麻季はもう僕と顔を会わす気はないようだった。
代理人の弁護士の予想どおり、僕と麻季の離婚に関してどちらに責任があるかという話し合いは、徹頭徹尾無益なものだった。
お互いに証拠もなくただ主張しあうだけなのだ。これが当事者本人同士の話し合いなら泥沼だったろうけど、代理人同士の話し合いだったので、お互いに証拠を要求しそれがないとわかると、交渉はすぐにより良く子どもを養育できるのはどちらかという話し合いに移っていった。
麻季に有利な点は、これまで奈緒人と奈緒を順調に育てた実績があることだった。
不利な点は二つ。麻季が一週間弱子どもたちを自宅に放置したこと。
受任通知書でデタラメを並べ立てた麻季も、僕が依頼した弁護士が情報公開請求によって入手した、児童相談所の通報記録に残されている事実には反論できなかったのだ。
太田弁護士は、僕の虐待に耐えかねた麻季が一時的に錯乱した結果だと主張したけど、その頃僕はオーストリアにいたので、その主張には重大な瑕疵があった。
もう一つは麻季の実家が遠方にあり、麻季の両親は育児をアシストできないということだった。
それに僕と離婚する以上、専業主婦だった麻季は養育費だけでは生活していけないだろう。
麻季の養育実績は彼女が専業主婦であることを前提にしていたから、彼女が離婚した場合の養育環境はいろいろと不明でもあった。
一方、僕にとって根本的に不利だったのは、まだ幼稚園児である子どもたちを育てる環境が備わっていないことだった。
太田弁護士はよくこちらの事情を調べていた。
僕の仕事は時間が不規則だし帰宅も深夜に及ぶことが多い。子どもたちを幼稚園から保育園に移したとしても、僕一人で子どもたちを育てることは不可能だ。
僕は親権を争うと決めたときに、両親に育児協力をお願いして快諾を得ていたけど、その両親自身がそろそろ介護が必要な状況になりつつあることを、太田弁護士には知られていた。
今、奈緒人と奈緒を育てていけているのは主に唯のおかげだったけど、唯の就職が目前に控えている以上、それを交渉材料にするわけにはいかなかった。
もう最悪は僕が仕事を変えるしかないかもしれない。
ジャズ・ミューズという老舗ジャズ雑誌の編集長を任されたばかりの僕だったけど、もうこうなったら、奈緒人と奈緒を手離さいためには本気で転職しかないとまで思うになっていた。
「・・・・・・あたし、就職するのやめて奈緒人と奈緒を育てようか」
ある日、唯が思い詰めたような顔で僕に言ったことがあった。
考えるまでもなく、もちろんそんな犠牲を唯に強いるわけには行かなかった。
そういうわけで、僕と麻季の離婚に関する協議はお互いに折れ合わずに膠着していた。
結局、僕と麻季の協議離婚は親権で対立したまま成立せず、裁判所による調停に移行した。
その夜、僕は某音楽雑誌の出版社主宰のパーティーに出席していた。
クラシック音楽之友にいた頃と違って、最近はこの手の商業音楽関係のイベントへの招待が増えていた。
マイナーな雑誌ながらも編集長を任されていた僕は、実務から開放された分この手の付き合いが増えていた。
業務が終了したら、何よりも実家に戻って子どもたちの顔を見たかったけど、これも仕事のうちだった。
予想どおり、都内の有名なホテルで開催されたそのパーティーには知り合いは皆無だった。
老舗のロック雑誌の編集者や、アイドルミュージック専門の雑誌の若い編集者たちが、そこかしこで友だちトークを展開している。
ところどころで人だかりができているのは、著名な評論家やミュージシャン本人を取り巻いている人たちのようだ。
クラシック音楽専門の雑誌社が余技に出しているマイナーなジャズ雑誌の編集なんて、全くお呼びではない雰囲気だ。
受付してから一時間以上経つけど、僕はこれまで誰とも、会話は愚かあいさつすらしていない。これなら途中で帰っても全然大丈夫そうだ。
こういう場で誰にも相手にされないのはへこむけど、麻季にひどい言いがかりを付けられていた僕は、大抵の人間関係には耐性ができていた。
それでもこの場の喧騒は気に障った。そろそろ黙って帰ろうかと思った僕は、静かにその場を去ろうとした。
途中で金髪の若い男性(多分最近よくテレビで見るビジュアル系のバンドのボーカルだと思う)を囲んでいた人たちの脇を通り過ぎようとしたとき、突然僕は誰かに声を掛けられた。
「博人君」
自分の名前を呼ばれた僕が振り返ると、理恵が僕のほうを見て微笑んでいた。
「・・・・・・理恵ちゃん」
「わぁー、すごい偶然だね。博人君ってこういうところにも顔出してたんだね」
「久し振り」
何か大学時代の偶然の再会を思い起こさせるような出会いだった。
理恵は人込みから抜け出して僕の横に来た。
「少し話そうよ・・・・・・・それとももう帰っちゃうの」
「少しなら時間あるけど」
僕は理恵に手を引かれるようにして、壁際に並べられた椅子に座らされた。
「はい」
僕は理恵から白のワインのグラスを受け取った。
「博人君、白ワイン好きだったよね」
「うん・・・・・・ありがとう」
これだけの歳月を経ても、理恵が僕の好みを覚えていてくれていることに僕は少しだけ心が和んだ。
もっとも理恵の細い左手の薬指二気づいていたので、それ以上の期待はなかったのだけど。
「本当に久し振りだね。何年ぶりかな」
僕の隣に座った理恵が少し興奮気味に言った。
「少し痩せた?」
「さあ? どうだろ」
「それにしてもここで博人君と会うとは思わなかったよ」
僕は名刺入れから最近作り直したばかりの名刺を取り出して理恵に渡した。
「今はここにいるんだ。それで声がかかったみたいだけど、どうも場違いみたいだ」
「なんだそうだったの」
理恵が笑った。
「でもそれで博人君に会えたんだね」
理恵は自分の名刺を僕にくれた。それは若者向けのポップ音楽の雑誌の編集部のものだった。
「・・・・・・なるほど」
「なるほどって何よ」
彼女が笑った。
「しかし君も同じ業界にいるとは思わなかったよ」
「本当に偶然だね。もっともあたしは博人君みたいな高尚な音楽雑誌にいるわけじゃないけど」
「玲子ちゃん・・・・・・だっけ。妹さんも元気?」
「うん、元気よ。あいつには子育てを任せちゃってるし、借りばっか作ってるよ。玲子も文句言ってる」
子育てを任せるって何だろう。
麻季との親権争いが調停に移ったばかりだった僕は、子育てという言葉に反応してしまった。
理恵も指輪をしているので結婚しているのだろうけど、彼女にも子どもができたのだろうか。
それにしてもこの世界は、育児と両立できるような世界ではない。
「育児って・・・・・・お子さんいるの?」
「うん。女の子だよ」
「そうか」
「麻季ちゃんは元気? 後輩の女の子に結婚式の写真見せてもらったよ。麻季ちゃんのウエディングドレス綺麗だったね」
「あのさ・・・・・・」
「お子さんもできたって聞いたけど」
「うん。子どもは元気だよ」
「うん? 麻季ちゃんは?」
「元気だと思うけど最近会ってないから」
「・・・・・・どういうこと?」
理恵はいぶかしげな表情を浮べた。
「実はさ。麻季とは離婚調停中なんだ」
理恵は驚いたようだった。
「・・・・・・何で」
彼女はそれまで浮べてた微笑みを消して、呆然としたように僕を見た。
「何で」という理恵の言葉に答えようとしたとき、理恵は誰から声をかけられた。仕事の話らしかった。
「すぐ行くよ」
ちょっとだけいらいらしたように理恵が話しかけてきた若い男性に答えた。
「じゃあ、僕は帰るよ。子どもたちが寝る前に帰りたいし」
「・・・・・・まさか、麻季ちゃんがいない家にお子さん一人で家にいるの?」
「いや。子どもは二人だよ。実家に預けてるし妹が面倒看てくれているから」
「お子さん一人だって聞いてたんだけど」
誰から聞いたのか知らないし無理もないけど、理恵の情報は僕と麻季がまだ普通に夫婦をしていた頃の頃のものらしい。
「今度機会が会ったら話すけど、子どもは二人いるんだ」
「博人君、いったい麻季ちゃんと何があったの?」
「いろいろとあったんだよ。ほら、編集部の人が呼んでるよ。また機会があったら会おう」
「ちょっと待って。博人君、明日時間作って」
どういうわけか、必死な表情で理恵が言った。
人の不幸に野次馬的な興味があるのか。自分は薬指に結婚指輪をして、幸せな家庭があるくせに。
最近すさんでいた僕は、理不尽にも少しむっとした。なのでちょっと勿体ぶってスケジュールを確認する振りをした。
「明日? 空いてるかなあ」
わざとらしくスケジュール帳を探そうとしている僕を尻目に理恵はもう立ち上がっていた。
「名刺の番号に電話するから」
何とか乱雑なカバンからようやく手帳を取り出した僕には構わず、理恵はもう呼びかけた人の方に足早に歩いて行ってしまった。
実家に帰宅した僕は、既に子どもたちが寝入ってしまったことを唯に聞かされた。
「必死で帰ってきたのにな」
僕は落胆した。
この頃の僕の生きがいは、仕事以上に子どもたちだったのだ。
「明日も遅いの?」
簡単な夜食を運んで来てくれた唯が聞いた。
明日は理恵から連絡があるかもしれない。それが就業時間後なら唯に断っておく方がいい。
僕は思い立って今日理恵に会ったことを唯に話した。
「そういやさ。唯は知らないだろうけど、昔引っ越す前に神山さんっていう家があってさ」
「ああ。玲子ちゃんと理恵さんのとこでしょ」
あっさりと妹は言った。
「・・・・・・おまえ、あの頃まだ生まれてなかっただろ。何で知っているの?」
「だって母親同士が仲良くて定期的に会ってたし、あたしもよくお母さんに一緒に連れて行かれてたもん。最近はあんまり会ってないけどさ。玲子ちゃんとは年も近いし仲いいよ。あと理恵さんもよくその集まりに顔を出してたけど、いつもお兄ちゃんが今どうしているのか聞いてたよ」
「え?」
「何だ。今日は理恵さんと会ってたんだ」
「いや、偶然なんだけど」
僕は今日あったことを唯に話した。
「理恵さんの旦那さんが何年か前に亡くなったこと聞いた?」
「いや、知らなかった」
では理恵は未亡人なのだ。育児を玲子さんに任せているというのは、そういう意味だったのか。
「そうか。今日はほんの少し世間話しただけなんで何も聞いてないんだ」
「お子さんが生まれた直後だったみたい。出産とご主人の葬儀と重なって、玲子さん大変だったみたいよ」
「・・・・・・そうなんだ」
僕は言葉を失った。さっき明るく再会を喜んでくれた理恵も、いろいろ辛い目にあっているようだった。
「でも何か運命的な出会いだよね。理恵さんとメアドとか交換した? 幼馴染同士の久し振りの再会だったんでしょ」
唯が暗い話はもう終わりだとでも言うように微笑んで続けた。
「お兄ちゃんも幼馴染久しぶりにと再会してちょっとはドキドキしたでしょ?」
最近の唯にはたまにこういう言動があった。麻季のことを忘れさせようとしているのかもしれないけど、やたら僕に女性と親しくさせようとする。
奈緒人と奈緒はあたしが面倒看ているから、お兄ちゃんは会社の女の子を誘ってデートしろとか。
それは一緒にコンサートに行ってくださいと言ってくれた編集部の若い女の子のことを話したときだった。
彼女は単なる仕事上の部下であってそんな対象じゃないし、そもそも彼女には彼氏がいたのだけど。
そんな唯だったから僕と理恵の再会にはすごく食いついてきた。
「麻季と僕のことが気になるのかなあ。離婚調停中だって言ったら、明日会おうと言われたけど」
それを聞いて唯は目を輝かせた。
「それ、理恵さん絶対お兄ちゃんに興味があるんだよ。明日は遅くなってもいいからうまくやんなよ」
「いや。それおまえの思い過ごしだから。それに都内からここまで帰るのにどんだけ時間かかると思っているんだ。終電だって早いのに」
職場と実家とが距離的に離れていたことも、離婚協議では育児に不利な点としてカウントされていた。
「終電逃したらどっか泊まればいいじゃん。お兄ちゃんのマンションだってまだあるんだし」
「あそこには泊まりたくない。というかそんなことするよりは奈緒人と奈緒と一緒にいたいよ」
「まあそうだろうね」
少し反省したように唯が言った。
「うん」
「・・・・・・お兄ちゃん、本当に麻季さんには未練ないの?」
「多分、ないと思うよ」
「じゃあ、ほんの少しだけでも、子どもたちのことは忘れて女性とお付き合いしてみなよ」
「離婚調停中なんだぞ。そんな気にはなれないよ」
「大丈夫だって。お互いに離婚を申し出た後なら、婚姻関係破綻後だから、誰とお付き合いしたって不貞行為で有責にはならないから」
法学部にいる唯が小ざかしいことを言い出した。
「そんなこと言ってんじゃないよ。モラルの問題だ」
「それにさ。お兄ちゃんにもし次の伴侶が見つかったら、養育の面で調停で有利かもよ」
「そんなことを考えてまで女性と付き合いたくはないよ。第一そんなの相手に失礼だ」
「・・・・・・じゃあどうするのよ。別にあたしが内定辞退して奈緒人と奈緒のお母さん代わりをしてあげてもいいけど」
「それはだめ。父さんに殺される。それに唯には唯の人生があるんだし」
「あたしは別にそれでもいいんだけどな」
「おい・・・・・・ふざけんなよ」
「別にふざけてないよ。でもそうしたら収入がないから、お兄ちゃんに養ってもらうしかなくなるけどね」
「だめ」
「冗談だよ」
妹が笑った。
「まあ、とにかくさ。理恵さんがお兄ちゃんに会いたいっていうなら、明日くらいは付き合ってあげなよ」
「今は子どもたちと少しでも一緒にいたいんだけどな」
唯はそれを聞いて再び微笑んだ。
「奈緒人と奈緒とはこの先ずっと一緒にいられるじゃん。今くらいはあたしに任せなよ。二人ともあたしにすごく懐いているし、お兄ちゃんなんて邪魔なだけだって」
「・・・・・・親権がどうなるかわからないんだし、ずっと子どもたちと一緒にいられる保障なんてないだろ」
「絶対に麻季さんなんかに負けないって。それに親権が心配なら、なおさら奥さん候補を探す努力をしないと。お兄ちゃんがそうしてくれないと、それこそあたしがいつまでも子どもたちの面倒を看るようになっちゃうじゃん」
「唯には悪いなって思っているよ。でも調停の結果とかに関係なく、おまえは就職したら僕たちのことは考えなくていいよ」
「だってこのままじゃお兄ちゃんが育児なんて無理じゃない」
「いざとなれば転職するよ」
「・・・・・・とにかく明日は遅くなってもいいからね。麻季さんなんか早く忘れて理恵さんと楽しんできなよ。嫌いじゃないんでしょ? 理恵さんのこと」
どうなんだろう。子どもたちを麻季に奪われるかもしれないという不安が日ごとに大きくなっている今、女性と付き合い出すとかは全く考えられなかった。
次の日の就業後、僕は理恵が指定した居酒屋で彼女を待っていた。全く色気のない店だったので唯の期待には応えられそうもな
かったけど、理恵が騒がしい居酒屋を選んだことに僕は密かにほっとしていた。
「博人君、ごめん。待った?」
混み合った居酒屋の店内で理恵が僕に声をかけた。
「・・・・・・いや」
「何飲んでるの?」
理恵が僕の向かいに座りながら聞いた。
「先にビールを飲んでる」
「じゃあ、あたしも最初はビールにしよ」
乾杯をしてから少し沈黙が流れた。
理恵はきっと麻季と僕との間に何が起こったのかを知りたくて、今日僕を呼び出したのだろう。
でも呼び出された僕の方は、まるでお見合いに来ているような気分だった。
僕がそんな気になっていたのは、全部昨日の唯の発言のせいだ。唯は僕に麻季のことを忘れてお嫁さん候補を探すように言ったのだ。
「あのさ」
「あの」
僕と理恵は同時に言った。お互いに苦笑して再び沈黙が訪れたけど、僕は構わずに続けた。
「ご主人、亡くなったんだってね。妹に聞いたよ」
「唯ちゃんに聞いたんだ・・・・・・説明する手間が省けちゃったな」
理恵が笑った
「お互いにいろいろあったようだね」
「うん。そうだね」
何となく同志的な友情を感じた僕が理恵を見ると、彼女も僕の方を見ていた。
どちらからともなく僕たちは笑い出した。
大学時代の再会時を通り越して、家が隣同士でいつも一緒に遊んでいた頃に戻ってしまったような気がした。
それから一時間くらいお互いの話をした。
理恵はご主人の死後、実家に戻って実家の両親と妹の玲子さんに育児を頼りながら、仕事を続けているそうだ。
まるで僕と同じ状況じゃないか。
僕が思わずそう呟くと、理恵は僕と麻季に何があったのか知りたがった。
人様に話すようなことではないけど、どういうわけか、麻季の不倫や育児放棄、怜菜の出産や事故死
など、僕は理恵に全てを話してしまったようだ。家族と弁護士以外にここまで話したのは初めてだった。
話し終えたとき理恵から同情されるんだろうと僕は考えた。そしてそんな同情はいらないなとも。
でも理恵が口にしたのは同情ではなく疑問だった。
「怜菜ちゃんが鈴木先輩と離婚したあと亡くなったのは知ってたけど、彼女、忘れ形見がいたのか」
「うん。それを知っている人はほとんどいないけど」
「そうか。それにしても麻季ちゃんらしくないなあ」
「え」
「麻季ちゃんらしくない」
理恵は繰り返した。
「どういうこと?」
僕は少し戸惑いながら理恵に聞いた。別に彼女は特別麻季と親しかったわけではないはずだ。
「わかるよ。麻季ちゃんのせいであたしは博人君に失恋したんだもん」
「何言ってるの」
「大学で博人君に再会したときさ、あたし本当にどきどきしちゃったの。生まれてから初めてだったな。そんなこと感じたの」
大学時代、僕も理恵と結ばれるだろうと予感していたことを今さらながら思い出した。
麻季が僕の人生に入り込んで来るまでは、僕は何となく理恵と付き合うんだろうなって考えていたのだった。
「まあ、結局博人君は麻季ちゃんと付き合い出したから、あたしは失恋しちゃったんだけどさ」
「ああ」
「ああ、じゃないでしょ。あっさり言うな。でもさ、学内の噂になってたもんね、博人君と麻季ちゃんって。とにかく麻季ちゃんって目立ってたからなあ」
「そうかもね」
「まあ、麻季ちゃんが何であんな冴えない先輩とっていう噂も聞いたことあるけどね」
「・・・・・・結局それが正しかったのかもな」
僕は呟いた。
「最初から間違ってたかもしれないな。僕と麻季はもともと不釣合いだったのかも」
「そう言うことを言ってるんじゃない」
少し憤ったように理恵が言った。
そのとき、混み合った居酒屋の入り口から入ってきた二人連れの客の姿が見えた。
何かを言おうとした理恵が僕の視線を追った。「うそ!? あれ、麻季ちゃんじゃん」
それは恐ろしいほどの偶然だった。僕は前回の一時帰国以来始めて麻季を見のだ。
麻季は男と一緒に店内に入り、店員に案内されて僕たちから少し離れたカウンター席に座った。
久し振りに見る麻季は、外見は以前と少しも変わっていなかった。
ただ、家庭に入っていた頃より幾分若やいで見えた。それに全体に少し痩せたかもしれない。
カウンターで麻季の隣に座った男は、鈴木先輩ではなかった。
そのとき、腰かけて周囲を見回した麻季と僕の視線が合った。
麻季は一瞬本当に驚いたように目を見はって僕を眺めた。彼女は凍りついたように動きを止めたけど、その視線はやがて理恵の方に移動した。
「・・・・・・博人君」
理恵が向かいから僕の肩に手を置いた。
「大丈夫?」
その様子は、理恵に気がついたらしい麻季にも見られたはずだった。麻季は視線を自分の横にいる男に移した。そして彼女はその男の肩に自分の顔を乗せて寄り添った。
それは幸せだった頃、よく彼女が僕に対してよくした仕草そのものだった。男が麻季の肩を抱き寄せるようにして何か囁いている。
麻季が僕への愛情を失ったことはこれまで何回も悩んで納得していたはずだけど、実際に彼女が僕以外の男とスキンシップを取るのを見たのは初めてだった。
こんなことで動揺することはない。そもそも麻季は以前鈴木先輩に抱かれているのだから。
僕はそう思ったけど、実際に再会した麻季に無視され、しかも彼女が知らない男にしなだれかかっている様子を見ると、僕はそんなに冷静ではいられなかった。
ふと気がつくと理恵が向かいの席から僕の隣に席を移していた。
「麻季ちゃんめ。やってくれるよね」
「何が?」
「・・・・・・でもさ。こういう方が麻季ちゃんらしい」
何が麻季らしいのか。
混乱した僕が理恵にその言葉の意味を聞こうとしたとき、理恵は僕の首に両手を回した。
「理恵?」
「仕返ししちゃおう」
そのまま長い間、僕は理恵に口に唇を押し付けられていた。
理恵がキスをやめても彼女の両腕は僕に巻きついたままだった。
僕は麻季に目をやった。
そのときの麻季のことはその後もずっと忘れられなかった。彼女は隣にいる男に体を預けながら僕と理恵を見つめていた。
麻季の目から涙が流れ落ちた。
いったい何でだ。そのことに何の意味があるのだろう。
「出ようよ」
理恵が立ち上がって僕の手を握って僕を立たせた。
「うん・・・・・・」
会計を済ませて混み合った居酒屋を出るとき、僕は最後に麻季を眺めた。もう麻季は僕たちの方を気にせず、男と何か賑やかに話し始めていた。
先に店の外に出ていた理恵を追って外に出ると、彼女は携帯で電話していた。
理恵の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「うん・・・・・・悪いけど明日香のことお願い。多分、今日は帰れないと思うから」
理恵が携帯をしまった。
「今日は遅くなっても平気だから」
「何言ってるの?」
「麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ」
理恵が真剣な表情で戸惑っている僕に言った。
「あたしさ、大学時代に一度麻季ちゃんに負けたじゃん?」
居酒屋から移動した先は、ホテルの高層階の静かなバーだった。理恵の行きつけの店のようだけど、彼女が言うように夜景は素晴らしい。
窓に面して置かれたソファに僕は理恵と並んで座った。
「・・・・・・別に勝ちとか負けとかじゃないでしょ」
「負けだよ。大学時代、もうちょっとってとこで、博人君を麻季ちゃんに持ってかれちゃったしね。あのとき、あたし結構悔しかったんだよ。しかも博人君たち、同棲して結婚までしちゃうしさ」
「あのさ」
「何?」
「大学で再会したときさ、理恵って僕のこと好きだったの?」
普段の僕なら、こんなことをストレートに女性に聞くなんて考えられない。
でも、さっきの理恵のキスの後なら、こういうことを口に出すことも何となくハードルが低かった。
「そうだよ」
理恵が物憂げに髪をかき上げながら、あっさりと言った。
「でもさ・・・・・・僕と麻季が付き合い出したとき、君はその・・・・・・すぐに僕に近づかなくなったしさ」
「あたし、博人君に捨てないでって泣いて縋りつかなければいけなかったの?」
「そう言うことじゃないけど」
「それにあたし、あのときは博人君に告白だってされなかったし。不戦敗っていうところだったのかな」
「いや、あのときはさ」
「まあ、あたしもプライドだけは高かったからね。何があったか知らないけど、博人君と麻季ちゃんっていつのまにかキャンパスで一緒に過ごすようになっちゃうしさ」
「まあそうだけど」
「でしょ? あのとき君に泣きついてたらみっともない女の典型じゃない。あたしにだって見栄はあるのよ。まして博人君と幼馴染っていうアドバンテージがありながら負けちゃったんだしさ」
あの頃の僕はいろいろな意味で麻季にかかりきりだった。
何を考えているのか、今いちわからない彼女に不用意に惹かれてしまった僕は、彼女に対する自分の気持を整理するだけでも精一杯だったのだ。
麻季に対する気持は、彼女と同棲する頃にはほぼ落ち着いていたのだけど、そこに至るまでの僕には、正直に言って理恵の気持を考える余裕はなかった。
それにしても、この店に移ってからの理恵は昔話、しかも麻季絡みの話ばっかりだ。
『麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ』
このの話はいったいどうなったんだ。
別に期待して付いて来たわけじゃないし、理恵との昔話が嫌なわけじゃないけど、これでは麻季を忘れるどころかますます思い出してしまう。
そして今一番考えたくないのが、ついさっき見かけた麻季の涙だった。
親権を争っている子どもたちに対してはともかく、麻季はもう僕に対しては何の想いも残していないはずなのに。
「いろいろ悪かったよ」
「・・・・・・・謝らないでよ。博人君に謝られたらあたし、まるで情けない片想い女みたいじゃない」
「そういう意味じゃないよ」
「冗談だよ。あたしもすぐに彼氏できたし」
「彼氏って、亡くなった旦那さん?」
「そうだよ。博人君の結婚より何年かあとに彼と結婚したの。あたしの一人娘の父親」
これまで強気な発言を繰り返していた理恵が泣きそうな表情を見せた。
理恵のご主人は、彼女が出産のため入院している最中に、自宅で突然病死したそうだ。
浮気され不倫された挙句、麻季に捨てられた僕とはまた違った悲しみが理恵にもあるのだろう。
僕は怜菜の死を知ったときの感情を思い起こした。
あのときはその衝撃と悲しみによって、一時期は麻季に裏切られたことなどどうでもいいと思えるほど自暴自棄になったのだ。
なので愛し合っていた人を突然理不尽に喪失した痛みは理解できた。
「理恵が結婚してたって、こないだまで知らなかったよ」
「・・・・・・どうせ、あたしのことなんか思い出しもしなかったんでしょ」
「そうじゃないけど」
「唯ちゃんから聞くまでは、あたしのこと忘れていたくせに」
「だから違うって。昨日、君が指輪してるのを見てさ。それで」
「それで? 指輪を見たからどうだっていうのよ?」
理恵は少し酔っている様子だった。
「どうって・・・・・・。唯に話を聞く前だったから、君もご主人がいるんだろうなって」
「昨日の夜、唯ちゃんからあたしの旦那が亡くなったことを聞いたの?」
「うん」
「そう・・・・・・唯ちゃんって絶対ブラコンだよね。いつも君のことばっかり話しているものね」
酔っているせいか理恵の話がおかしな方向に逸れた。
「そんなわけあるか」
「あるよ。唯ちゃんって、彼氏いるのに彼氏の話じゃなくて博人君の話しかしないのよ。知らなかったでしょ? それも博人君が麻季ちゃんと普通に夫婦している時からそうだったんだよ」
だんだん話が逸れて行ったけど、少なくとも麻季の話をしているよりはよかった。
昔の麻季の気持なんか考えたって前向きな意味はないし、今の麻季の気持を慮っても離婚が覆ったり親権が手に入るわけでもないのだ。
「・・・・・・ええと、これ何だっけ? まあいいや。同じカクテルをください」
「ちょっとペース早いんじゃないの?」
「いいの。大丈夫。それよか、麻季ちゃんのことだけどさ」
「またかよ。忘れさせてくれるんじゃなかったの」
思わず僕はそう口に出してしまった。理恵が僕をじっと見た。
「別にそれでもいいけど」
「え?」
「別にここは切り上げてそうしてあげてもいいよ」
「何言ってるの・・・・・・」
「でもさ」
理恵は運ばれてきたカクテルを口に運んだ。
「博人君から聞いた話の麻季ちゃんは彼女らしくないけど、さっきわざと君に見せつけるように好きでもない男にベタベタしたり、あたしと博人君がキスしているのを見て泣いてた麻季ちゃんは麻季ちゃんらしかったなあ」
「意味がわからない」
「あの子らしいじゃん。さっき出会ったのは偶然なのに、博人君があたしと一緒にいるところを見かけた途端、すぐに隣の男に甘える振りをするなんてさ。きっと無意識に君の気を惹きたくてそうしちゃったんだと思うな。君に嫉妬させたかったんだよ」
「そんなわけあるか」
「あたしも、子どもを置き去りにしたり君にDVの罪を着せたりとか、君の話を聞いた後だったからさ。仕返しにキスするところを見せ付けてやったんだ。要は麻季ちゃんがしでかしたことを少し後悔させてやろうと思ったんだけど、まさか泣き出すとはね。思ったより麻季ちゃんってわかりやすい性格してるよね」
「・・・・・・麻季がまだ僕に未練があるって言いたいの」
「未練つうか少しだけ後悔してるんじゃない? 自分が始めちゃったことを」
「理恵ちゃんさ、まさか何か知ってるの?」
「知らないよ、何にも。知ってるわけないじゃん。昨日までは君と麻季ちゃんは幸せな家庭を築いているんだって思ってたんだしさ」
「・・・・・・本当に意味がわからん。あれだけのことで麻季が何を考えているのかわかったなら、理恵ちゃんは超能力者だよ。僕自身、自分の身に何が起こっているのか、麻季が何を考えているのか何にもわからないのに」
「麻季ちゃんがどうして君を裏切ったのかなんてわからないよ。それこそテレパスじゃないんだし。でも麻季ちゃんが君に未練があってさ、そしてどういう理由で始めたにせよ、自分の始めたことを後悔しているくらいはわかるよ」
「それって君の思い過ごしじゃないかな」
「じゃあ何でさっき麻季ちゃんは、あたしが博人君にキスしているのを見て泣いてたのよ」
理恵が手に持ったカクテルをテーブルに置いて言った。二杯目のそれは既にほとんど中身がなくなっていた。
「麻季は何で泣いたんだろうな・・・・・・」
僕は思わず呟いた。
「君を見つめて黙って涙流してたよね。あの後、彼氏に言い訳するのに大変だったろうなあ。麻季ちゃん」
「・・・・・・うん」
「まあ、君があたしと仲良くしているところを見て悲しくなっちゃったんでしょうね。自分から君を裏切ったのにね」
「何が何だかわからないな」
理恵が笑った。
「本当だね。君も昔から麻季ちゃんには振り回されてるよね」
「それは否定できないけど」
「あたしさ」
「うん」
「大学時代に麻季ちゃんから直接言われたことがあるんだ」
「え?」
「博人君から手を引けって。博人君はサークルの新歓コンパのときから麻季ちゃんのことだけを見つめてるんだから、あたしに邪魔するなってさ」
「知らなかったよ・・・・・・麻季が君にそんなことを言ってたんだ」
「まあ、あたしはそんなの真面目に受け止める気なんかなかったんだけどね。だいたい、あたしにはそんなこと言ってたくせに、麻季ちゃんはいつも鈴木先輩とツーショットで歩いているしさ。信用できるかっつうの」
「麻季は感情表現が苦手だからね。あのときは鈴木先輩は麻季が自分に気があるって思い込んじゃったみたいだよ。麻季にはそんなつもりは全くなかったって」
「そう麻季ちゃんが言ってたことを、君は今でも信じているんだ」
「え」
「その数年後、麻季ちゃんは君を裏切って先輩と寝たのに?」
「・・・・・・あのときは麻季も育児ばっかで鬱屈していたし」
「君の奥さんなのに、大切な子どもがいたのに先輩に抱かれたんでしょ? そこまでされても大学時代の麻季ちゃんの言い訳を疑わないのね」
「理恵ちゃんは何か知っているの?」
理恵が両手を上に伸ばして大きく伸びをした。わざとらしいといえばわざとらしい仕草だ。
「駄目だなあたし。今日はこんなことまで話すつもりはなかったんだけね」
理恵は何かを知っているのだろう。
僕はもう黙って彼女の話を聞くことにした。聞いてしまったら本当にもう戻れないかもしれないけど。
ふと思ったけど、理恵が麻季のことを忘れさせてあげるというのは、勝手に僕が期待したような意味ではなかったのかもしれない。
僕の知らない麻季の姿を教えることによって、僕の未練を断ち切るつもりだったのかもしれない。
こんなことまで話すつもりはなかったと理恵は言ったけど、麻季と偶然に出合って動揺する僕を見て、理恵は知っていることを全部話すつもりになったのだろうか。
「博人君って、大学時代に麻季ちゃんが君と付き合う前に何人彼氏がいたか聞いたことある?」
麻季は過去のことを極端に話さなかったし、自分の写真アルバムを実家から持って来たりもしなかった。
彼女の携帯の写メだって僕か奈緒人の写真くらいしか保存されていなかったし。
「大学入学直後に鈴木先輩と付き合ってたじゃない? それは知ってるでしょ」
「だからあれは麻季の口下手のせいで先輩が勘違いしたんだよ」
「違うよ。あたし二人がキャンパス内で抱き合いながらキスしてたのを見たことあるもん」
もう麻季について、これ以上ショックを受けることはないと思っていた僕は、その話に唖然とした。
「先輩だけじゃないのよ。麻季ちゃんと噂になっていた相手の男って」
「君の勘違いじゃないの?」
「博人君たちの披露宴の後ってさ、二次会しなかったんでしょ?」
「麻季が友だち少ないって言ってたからね。友だち呼んでパーティーするより、早く二人きりになりたいって言ってたから」
それも幸せだった過去の記憶の一つだった。
『ごめんね。あたし博人君と違って社交的じゃないし。披露宴には来てくれる友だちはいるけど、二次会で盛り上がってくれるような知り合いはあんまりいないの。こんな女で本当にごめん。でもできれば披露宴の後は博人君と二人きりで過ごしたい』
それでも披露宴では麻季は女友達から祝福されていた。「麻季きれい」と囁いていた彼女の女友達の声。
「あたしはその場にはいなかったから後で後輩に聞いたんだけどさ。二次会なかったから、飲み足りない大学の人たちで繰り出したらしいよ」
「うん」
「披露宴の新婦側の出席者が悪酔いしてさ。麻季ちゃんの悪口で深夜まで盛り上がったんだって」
「意味がわからない」
「麻季ちゃんと関係のあった男たちが酔っ払って未練がましく曝露したんだって。俺だって麻季ちゃんと付き合ってたのにとか、麻季ちゃんと泊まりがけでデートしたことあるのにとか、思わせぶりな素振りで俺に近づいてきたくせにとかって」
僕は言葉を失った。
それが事実なら、僕が知っている麻季の姿は虚構だったということになる。僕は頭を振って考え直した、
当時の僕は麻季の男関係を詮索したりはしなかった。それを離婚協議中の今になって蒸し返したってしかたがない、それに初めてのとき麻季は明らかに処女だったのだ。
「結局さ。あの性格のせいであまり友だちができなかった麻季ちゃんは、自分の女を武器にして男たちにちやほやされることを選んでたんだと思うよ。だから麻季ちゃんの気持を勘違いしてたのは鈴木先輩だけじゃないよ。博人君と麻季ちゃんが付き合い出して傷付いた男は一人二人じゃなかったんだよね。実際にあたしも鈴木先輩以外の男といちゃいちゃしている麻季ちゃんのこと見かけたことあるし」
「勘違いしないでね。麻季ちゃんが博人君を一番好きなのは間違いないと思うよ。多分、今でも」
「・・・・・・今でもって。あんだけひどいことを言われて離婚を求められてるんだよ。麻季が今でも僕のことを好きだなんて考えられないよ」
「でも、さっきあたしと君がキスしているところを見て泣いてたよね。彼女」
「もてないと思っていた旦那が、君みたいな綺麗な女とキスしているのを見て動揺しただけでしょ。とにかく麻季は僕のことを一番好きどころか、今では一番嫌いなんだと思うよ」
「・・・・・・今の、もっかい言って?」
「へ?」
「あたしみたいなってとこ、もう一回言ってよ」
「いや・・・・・・あの」
「博人君、あたしのこと綺麗だと思う?」
「・・・・・・うん」
「そっか・・・・・・」
やはり酔っているせいか、理恵は今日初めて幸せそうに微笑んで僕に寄りかかった。
「うれしいよ、博人君」
「うん」
「いろいろ辛い話してごめんね。結局忘れさせるどころか思い出させちゃったみたいだね」
「まあ、そうだね」
僕は寄り添ってきた理恵の肩に手を回した。
「あたしたち、今いい感じかな?」
肩に回した僕の手に自分の手を重ねながら理恵が言った。
「・・・・・・普通口にするか? そういうこと」
「そうなんだけど。今日昼間に唯ちゃんからメールもらってさ」
「うん?」
「・・・・・・兄貴のことよろしくお願いしますってさ」
「何勝手なこと言ってるんだ。唯のやつ」
「ブラコンの唯ちゃんも、あたしにならお兄ちゃんをあげてもいいって言ってくれたのよ」
「あいつ、何の権利があって」
「でもさ、あたし自信ないって断ったの」
「え」
麻季を忘れることができるかどうかはともかく、理恵の僕に対する好意については僕は全く疑っていなかったのに。
その自信がいきなり崩されたのだ。
「君に詳しく話を聞く前だったけど、今日君の話を聞いてもやっぱりあたしには自信がないな」
僕に寄り添って手を重ねながら、今さら理恵は何を言っているのだろう。
「せっかく今君といいムードなのに、ごめんね」
「麻季のこと気になるの?」
「ううん。麻季ちゃんがさっきみたいにいくら泣こうが喚こうが全然気にならないよ」
「じゃあ何で?」
このとき僕は冷静だったと思う。理恵は予想外の言葉を口にした。
「麻季ちゃんなんてどうでもいいよ。あたしが本当に気にしているのは怜菜ちゃんだよ」
僕は凍りついた。
「あたし、今でも君のことが好き。多分、麻季ちゃんも今でもあなたのことが一番好きだと思う。でも麻季ちゃんがこんなことをしでかしたのも、怜菜ちゃんと博人君の関係に悩んだからだと思う」
「博人君」
理恵が僕に聞いた。
「君は今でも亡くなった怜菜ちゃんのことが好きなんじゃないの?」
少し酔ってはいたけれど、僕は理恵の言葉を胸の中で反芻してみた。
これまで僕は麻季が突然僕に離婚を要求してきた理由がさっぱりわからなかった。
太田弁護士の受任通知や、その後の弁護士同士の交渉を経ても、麻季の動機が理解できないという意味では何の進展もないのと同じだったった。
それでも何となく心に浮かんでいたのは、何らかの理由で麻季が再び心変わりして、僕ではなく鈴木先輩を選んだのではないかということだった。
というより、それ以外には思い浮ぶ動機はなかったのだ。
今、僕は理恵の言葉を受けて、改めて自分の心を探ってみようと思った。
いわゆる浮気や不倫と言われる行為について、僕は潔白だった。夫婦間のお互いへの貞操義務という観点からすれば、明らかに有責なのは麻季の側だった。
ただ僕の方も怜菜に対して、まるで中学や高校のときの初恋のような淡い想いを抱いたことがあった。
それから僕は改めて理恵の質問について考えた。
怜菜が亡くなった今でも、僕は怜菜のことが気になっているのだろうか。
「好きか嫌いか聞かれれば、それは好きだと思うよ。あれだけか弱そうな外見で、あれほど芯の強い女性を僕は今まで見たことがなかった。彼女のそういうところに僕は惹かれていたんだし、その思いは彼女が亡くなっても変わるようなものじゃないよ」
理恵は僕に寄り添ったまま少しだけ笑った。
「やっぱね。でも話してくれてありがとう。あたしもそんなに親しいというわけじゃないけど、大学時代に怜菜ちゃんとは知り合いだったの。けっこう好きだったのよ、彼女のこと。博人君が怜菜ちゃんに惹かれるのなんとなくわかるよ」
「何言ってるの」
「でもね」
理恵が僕から少しだけ身体を離して言った。
「麻季ちゃんが突然こんなことをしでかしたのは、博人君と怜菜ちゃんの仲に嫉妬しちゃったからかもしれないね」
「あれから何年経っていると思ってるの。確かに怜菜さんが亡くなった直後は、麻季からそういう話も出たことはあったよ。奈緒の名前のことで揉めたこともあった。でもそのことはとうに克服したものだと思っていたんだけどな」
「そうか」
「うん。だから僕と怜菜さんのことが原因ではないと思う。やはり離れている間に、麻季は鈴木先輩の方が僕のことより好きだってことに気がついたんだろうね。結局、麻季は僕じゃなくて先輩を選んだんだよ」
実際にそうとしか考えられなかったから僕はそう理恵に言った。
いっそ麻季の口から鈴木先輩と暮らしたいのと正直に言われた方がよかった。彼女がはっきりとそう言ってくれたら、僕は麻季の要求どおりに彼女を自由にしたと思う。
それなのに麻季は正直に告白するのではなく、僕のことを誹謗中傷することを選んだのだ。
「それは違うと思うけどな」
「何で?」
「だって・・・・・・。さっき麻季ちゃん、あたしとキスしている博人君を見て泣いてたじゃん。あたしと博人君が一緒にいるのを見て、男に寄り添うみたいな様子をあなたに見せ付けてたしさ」
確かに、僕より鈴木先輩を選んだとしたらあそこで麻季が泣く理由はない。
「それにさ。せっかく復縁した博人君のことなんかどうでもいいほど鈴木先輩が好きなら、鈴木先輩以外の男と二人きりで飲みに来たりしないんじゃない?」
それもそのとおりかもしれない。麻季の涙に混乱してあまり気にしていなかったけど、麻季が寄り添っていた男は鈴木先輩ではなかった。
「理恵ちゃんさ」
「なあに」
理恵も少し酔っている様だった。不覚にも僕はそういう理恵を可愛いと思った。
「麻季は僕より先輩を選んだんじゃなくて、僕と怜菜さんの仲に嫉妬したからこんなことをしでかしたって思っているの?」
「多分ね。それにしても受任通知の内容とか理解できない点はあるけどさ」
「そうだよな」
「まあ、いいや。怜菜ちゃん本当にいい子だったよ。麻季ちゃんなんかの親友にはもったいないね」
それには何て答えていいのかわからなかったので、僕は黙ったままだった。
そしてこんなにシリアスな話をしているというのに、理恵は僕に寄り添っているし僕は理恵の肩を抱いている。
「ごめんね。麻季ちゃんのこと忘れさせるどころ、かかえって思い出させちゃって」
「いや。僕は別に」
「じゃあ、これから忘れさせてあげるよ。この店お勘定しておいてくれる?」