奈緒人と奈緒 第2部第5話
翌日は平日で、お互いに仕事があった。
僕は二日連続で同じ服装でも別に気にならなかった。もともとそういう業界だったから。でも理恵はそうもいかないと言った。
校了間際でもないのに、同じ服で出社したら何と噂されるかわからないそうだ。
それで僕たちは、日付が変わったくらいの時間にホテルを出た。
「本当なら大学時代に博人君とこうなれていたのにね」
理恵がタクシーの後部座席で僕に寄りかかりながら呟いた。
「そうだね」
僕は少しだけ理恵の肩を抱く手に力を込めた。それに気づいたのか理恵が微笑んだ。
「それでも博人君とこういう風になれてうれしい」
酒に酔っていたせいか、さっきの余韻がまだ残っていたせいか、理恵はタクシーの運転手のことを気にする様子もなくそう言った。
理恵を送り届けて実家に戻ったときには、もう夜中の二時過ぎになっていた。
タクシーの支払いを済ませて、実家のドアの鍵をそうっと開けて家に入ると、すぐに唯が姿を見せた。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま・・・・・・って何でこんな時間まで起きてるんだよ」
「だってお兄ちゃん、なかなか帰って来ないしさ。あたしは入社するまで暇だから、夜更かししたって問題ないしね」
「・・・・・・まさか僕の帰りを待ってたんじゃないだろうな」
「何、自意識過剰なこと言ってるの。何でお兄ちゃんが帰って来るまで起きて待ってなきゃいけないのよ」
「違うの?」
「・・・・・・いや、まあ待ってたんだけどさ」
唯はそう言って笑ったけど、すぐに僕の腕を取って自分の方に引き寄せた。
「何だよ」
「シャンプーの匂いがする」
僕は一瞬どきっとした。妹にそういうことがばれるのはとても気恥ずかしい。
「理恵さんと休憩してきた?」
唯がストレートに聞いた。
「いや、その」
「よかったね、お兄ちゃん。理恵さんと再婚するならあたしは賛成だよ」
「・・・・・・まだそんな話になってるわけじゃないよ」
「まだ? じゃあ、さっさと決めちゃえばいいじゃん。うちの父さんも母さんも、理恵さんのご両親も誰も反対しないと思うけどな」
「とにかくもう寝る。明日もっていうか今日も仕事だし」
「うん。お風呂に入らなくていいからすぐ眠れるね」
「・・・・・・おい」
「うん」
翌日の午前中、理恵から電話があった。
奈緒人と奈緒が並んで寝ている実家の和室に横になったのが夜中の四時前で、起床したのが朝の六時だった。
奈緒人と奈緒と一緒に寝るのは心が安らいだけど、僕が寝て起きる間も二人は眠り続けたので、子どもたちと言葉を交わすことはできなかった。
わずか二時間の睡眠だったけど、仕事柄徹夜には慣れていたせいで、出社すれば僕はいつもどおりに仕事モードに戻れた。
『元気?』
携帯の向こうで理恵が言った。
「いきなり元気って何だよ」
『いやあ、ああいうのって久し振りだったからさ。こういう場合、何て言えばいいのか忘れちゃったよ。現役を離れて久しいからね』
「何言ってるんだ。まあ、でもそうだね。僕もこういうとき、何て答えたらいいのかわからないや」
思わず僕は笑ってしまった。
こういうやりとりはすごく新鮮だった。大学時代に麻季と付き合い出してからは、こういう会話は全くしたことがない。
麻季と僕との間はオールオアナッシングであって、うまく行っているときは直球の甘い会話しかしたことがなかったし、それ以外のときはお互いに傷付けあってばかりいたような気がする。
麻季の性格上、こういうゆとりのある会話は、望むべくもなかったのだ。
『でも、安心したよ。あたしもそうだけど博人君もまだ現役でああいいうことできたんだね』
「午前中から何を言ってるんだ君は」
『あはは。何かこういうのって久し振り。一緒に寝るよりこういう会話の方が楽しいね。若返ったみたい』
「理恵ちゃんさあ。周りに会社の人がいるんじゃないの」
『いないよ。今外出中だもん。つうか今さらちゃん付けるのやめてよ』
「僕の周りは人だらけなんだけどな」
『ちょっと出て来れない?』
「今、どこ?」
『博人君の会社の側のクローバーっていう喫茶店。ここたまに打ち合わせで使うんだ』
それは最後に怜菜と会った店だった。
クローバーに入るのは怜菜と会って以来だった。小さいとはいえ編集部を任された僕は、以前より外で打ち合わせをする機会が減っていたのだ。
「博人君。ここだよ」
店内に入ると、壁際の席に座った理恵が手を振っていた。
理恵が座っているのが、怜菜と最後に会ったときの席ではなかったことに、僕はどういうわけか少しほっとした。
「お待たせ」
「仕事大丈夫だったの」
理恵が僕の仕事を気にして言ってくれた。
「うん。どうせそろそろ昼食にしようかと思ってたとこだし」
「そうか、よかった」
理恵が上目遣いに僕を見て微笑んだ。
何だか本当に麻季に出会う前、まだ普通に恋愛していた頃に戻ったような気がした。
「じゃあ、何か食べようよ。ここ食事できるんでしょ」
「サンドウィッチとかパスタくらいしかないけどね」
「それでいいよ。博人君、何にする」
いそいそとメニューを取り出して、僕に相談する理恵の様子すら、今の僕には微笑ましかった。
彼女を抱いてしまった後に思うようなことではないのかもしれないけど、理恵のことが本当に好きになったのかもしれない。
僕はようやく麻季に対する不毛な感情から開放されるのだろうか。
「パスタっていってもナポリタンかミートソースしかないのね」
「この店にそれ以上期待しちゃだめだよ。でも味は結構いいよ」
「そう? 博人君は何にするの」
「ミックスサンドにする」
「じゃあ、あたしも」
そう言って理恵は微笑んだ。
店内には簡単な昼食をとる客に混じって、打ち合わせをしている顔見知りもちらほら目についた。
こんな環境で、僕はサンドウィッチを放置して理恵にプロポーズした。
理恵はと言えば口に中からハムとマヨネーズが溢れ出して、すぐには返事どころではなかったみたいだ。
目を白黒させながら、彼女は慌ててアイスコーヒーで口の中を洗い流した。
「うん、いいよ。バツイチ同士だけど結婚しようか」
やはりこの年になるとロマンスには無縁になるのだろうか。僕と理恵の再婚は、混み合った喫茶店であっさりと決まったのだった。
麻季にプロポーズしたときのような大袈裟なやりとりは何もなかった。考えてみれば愛しているとか好きだよとかの会話も、少なくともこのときにはお互いに口にしていなかった。
「とりあえず、麻季ちゃんと博人君が離婚するまでは婚約もできないね」
「ああ、悪い」
「いいよ。それで奈緒人君と奈緒ちゃんは当然引き取りたいんでしょ?」
「うん・・・・・・いい?」
「もちろんだよ。でも明日香も一緒に育てるからね」
「当然そうなるよね。奈緒と明日香ちゃんは同い年だしきっとうまくいくよ」
「うん。たださ。プロポーズしてくれた後にこんなこと言うのは後出しっぽくて申し訳ないんだけど」
「何?」
僕は少し嫌な予感がした。ここまでうまく行き過ぎいているような気がしていたのだ。
「あたし、仕事は止めたくないんだ」
「そんなことか。もちろんいいよ」
麻季は奈緒人を出産したとき、自ら望んで専業主婦になったが、僕はそのことに関して反対しなかったけど、積極的に麻季に仕事を辞めるよう望んだわけでもなかった。
今回も、理恵が共働きを望んでいる以上、無理に専業主婦にするつもりはなかった。
「そうじゃなくてさ。結婚しようって言ってくれたのは嬉しいけど、あたしと一緒になっても君と麻季ちゃんの親権争いには有利にはならないよ?」
僕はそのことをすっかり忘れていた。
もちろん親権に有利になる方が望ましいことは確かだったし、唯が僕に理恵と付き合うように勧めた理由の一つでもあった。
でもこのときの僕は、子どもたちの親権を考慮して理恵にプロポーズしたわけではなかった。ただ、理恵と一緒になりたいと思っただけで。
僕はそのことを正直に理恵に話した。
「・・・・・・嬉しい。そう言ってくれると、さっき結婚しようって言われたときより嬉しいかも」
理恵は顔を伏せて、今日初めて涙を浮べて言った。
その後の展開は早かった。
僕は久し振りに会う理恵のご両親に挨拶に行った。
お嬢さんと結婚させてくださいとか言わせてもらうことすらできず、理恵の両親からは、久し振りねえとか元気だったかとか、言葉をかけられた。
本当に懐かしく思ってくれているみたいだった。
懐かしいながらも当惑していた僕を見かねて、僕と理恵の結婚には賛成だよね? って両親に対して言い出して、僕たちを救ってくれたのが玲子ちゃんだった。
理恵と幼馴染だった頃にはまだ彼女は生まれていなかったので、僕と玲子ちゃんは顔を合わせるのは初めてだった。
「結城さんはお姉ちゃんと結婚したいんだって。ちゃんと答えてあげなよ」
大学生だった玲子ちゃんはそう言ってくれた。
「そんなのOKに決まってるだろ」
「そうよ。結城さんのご両親とはもうこのことは打ち合わせ済みなのよ」
理恵の両親がそう言った。
どうやら僕が自分の両親に理恵との結婚を話す前から、僕の両親にはその事実が伝わっていたようだった。
犯人は一人しかいない。
唯だ。そして唯と玲子ちゃんは仲がいいらしい。僕と理恵の結婚は、お互いの妹たちによって根回しされていたのだった。
このとき玲子ちゃんは奈緒と同じくらいの年齢の女の子を抱っこしていた。
「ほら明日香。あなたの新しいパパだよ」
玲子ちゃんがからかうように言った。
「玲子!」
顔を赤くしながら理恵が玲子をたしなめた。
翌週、僕は自分の実家に理恵を連れて行った。
予想したとおり、理恵の実家を訪れたのとほぼ同じような展開が僕たちを待ち受けていた。
事前に唯が根回しをしてくれていたせいで、僕の両親は僕と理恵の結婚に関しては、良いも悪いもなく既定事項のように受け止めたうえで理恵を歓迎してくれた。
「理恵さん、本当にこんな兄貴でいいんですか」
唯が理恵をからかった。
「唯ちゃんこそごめんね。大好きなお兄ちゃんを奪っちゃって」
理恵も動じなかった。
理恵と唯は視線を合わせたかと思うと笑い出した。
理恵は奈緒人を微笑んで見つめたが、その視線が奈緒に移ったとき、理恵は突然沈黙してしまった。
「理恵さん?」
不審に思ったのだろう。唯が理恵に話しかけた。
「どうかした?」
僕にまとわりついてくる奈緒人と奈緒を抱き上げて、二人一緒に膝の上に乗せながら僕も理恵に聞いた。
理恵が取り繕うように言った。
その場の雰囲気を気にしたらしい唯は、二人で少し近所を散歩してきたらと勧めてくれた。
「理恵さん、今日は泊まって行けるんでしょ?」
「あ、ええ」
「そうしなさい。ご両親には私から連絡しておくから」
父さんも理恵にそう勧めた。
「じゃあ、今夜は宴会だね。準備しておくから邪魔な二人は散歩でもしてきなよ」
唯が言った。
「僕たちもパパと一緒に行っていい?」
「あんたたちはお姉ちゃんのお手伝いして。できるよね」
「うん。お姉ちゃんのお手伝いする」
奈緒が元気に返事をした。奈緒は実家の中では一番唯に懐いているのだ。
「じゃあ僕も唯お姉ちゃんのお手伝いする」
奈緒の言葉を聞いた奈緒人は、僕と一緒に出かけるより奈緒と一緒にいる方を選んだ。
「驚いた。奈緒ちゃんって怜菜さんにそっくりじゃない」
理恵を連れて実家の近所の公園内を散策していたとき、理恵がそう言った。
そんなことだろうと思っていた僕は、別に理恵の反応に驚きはしなかった。
奈緒はまだ幼いながらも顔立ちが整っていた。多分、容姿に関しては将来を約束されていると言ってもいいくらいに。
鈴木先輩も外見はイケメンだったし、怜菜は性格も外見も可愛らしかった。奈緒の端正な外見は、両親の遺伝子を引き継いでいたのだ。
当然のことだけど、奈緒は僕にも麻季にも全く似ていない。
この頃には、唯も両親も血の繋がりのない奈緒のことを家族として受け入れていたから、僕も唯もそして僕の両親も一度たりともそれが問題だとは考えたことはなかった。
「これじゃ、麻季ちゃんが悩んじゃうわけだよね」
寒々とした公園内の池を眺めながら理恵が呟くように言った。
「どういうこと?」
理恵が僕を見た。
「麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るたびに、つらい思いをしていたのかもしれないね」
「そんなこと」
「ないって言える?」
「麻季は自分から奈緒を引き取るって言い出したんだ。娘が母親に似るなんて当たり前だろ。それくらいのことで、麻季が奈緒のことを疎んじることはないよ」
「・・・・・・もう一度聞くけどさ。本当にないって言えるの」
僕は沈黙した。つらかったけど、麻季が奈緒を引き取ると言い出してからの彼女の言動を改めて思い起こそうと思ったのだ。
少なくとも僕と一緒に過ごしていたときの麻季には、奈緒の容姿が怜菜と似ていることに対して悩んだりした様子はなかったはずだ。
あの頃の彼女は、奈緒人と同じくらいの愛情を奈緒に向けていた。
だけどもう少し考えを推し進めて、僕がそう錯覚していたように、当時の麻季が僕との仲に無条件に安らぎや安堵感を感じていなかったとしたらどうなのだろうか。
大学時代の自分の親友のことを好きになった旦那。
そして麻季が自ら育てることを選んだ奈緒は当然なことに怜菜に似ている。
その奈緒をひたすら大切にして可愛がっている僕。
麻季が口や態度には出さなくても、内心僕と怜菜の関係に悩んでいたとしたら。
怜菜への嫉妬が、奈緒への嫉妬や嫌悪に転化したということもあり得るのだろうか。
「麻季が怜菜への嫉妬心を奈緒にぶつけるようになったって言いたいの? そのせいで麻季は子どもたちをネグレクトしたと」
「麻季ちゃん本人に聞かなければ真相はわからないけど、そういう可能性もあるんじゃないかな。奈緒ちゃんって本当に怜菜さんに似てるしね」
「鈴木先輩の面影もあるんじゃないか」
「全くないとは言わないけど、どちらかと言うと奈緒ちゃんはお母さん似だよ。あたしはそう思うな」
「仮に君の推測のとおりだったとしてもさ。少なくとも麻季は奈緒人のことだけは自分のことより大切にしていたよ。それは間違いない。たとえ奈緒の育児を放棄したとしても、麻季は奈緒人を育児放棄することはないはずだよ」
だから、真実は違うところににあるのではないか。
「麻季ちゃんの育児放棄は許されることじゃないけど・・・・・・仮に奈緒人君だけを大切にして、奈緒ちゃんだけを食事も与えずに虐待していたとしたら」
僕は頭を振った。
夕暮れが近づいていて、だいぶ気温が下がってきたようだ。
「そうだったら、奈緒が今頃どうなっていたか考えたくもないね」
実際、母親であるはずの麻季に一人きりで放置されてたとしたら、いったいどれくらい心の傷を奈緒が受けていたかと考えるとぞっとする。
そういう意味では、僕は奈緒人のことを誇りに思っていた。奈緒人は麻季に放置された不安から泣きじゃくる奈緒を、精一杯慰めて守ろうとしたのだった。
そのせいもあって、奈緒は思ったより早く心の傷を癒して、元通りの明るい性格に戻ることができた。
「次の調停っていつなの?」
僕はつらそうな様子をしていたのかもしれない。理恵が話を変えた。
「七月だね」
「調停に出れば麻季ちゃんと直接話せるの?」
「いや。今のところお互いに別々に調停委員に呼ばれて、相手の主張を聞かされてそれに対する反論を聞かれるって感じかな」
「じゃあ麻季ちゃんと直接話したことはないんだ」
「帰国してから顔を合わせてすらいないよ。こないだの居酒屋で会ったのが初めてだよ」
「そうか」
理恵は何かを考え出した。
「今度の調停で、養育環境が整いましたって調停委員に申し立てなよ」
「え? いったい何を言ってるの」
「麻季ちゃんとの離婚が成立したら再婚する予定の人ができました。彼女が子どもたちを育てますって言って」
「編集業しながら養育なんて無理だろ。有希ちゃんだって玲子ちゃんが育ててるみたいなもんだろ」
「明日にでも経理か総務に異動させてくれって上司に言うから」
「・・・・・・はい?」
理恵が僕に抱きついた。
「それで駄目なら会社辞めてやる・・・・・・博人君、そうなったらちゃんとあたしを養えよ」
「おい」
理恵とべったりと寄り添ったまま実家に帰ると宴会の支度が整っていた。
奈緒人と奈緒が僕を出迎えてくれた。理恵はもう迷わずに二人に向って手を伸ばした。
法的にはまだ僕は既婚者だったからすぐに理恵と結婚するわけにはいかなかったし、お互いに子どもがいたから同居するのも難しかったので、少なくとも麻季との離婚調停の結果が出るまでは、これまでどおりお互いに実家で別々に生活を送ることになった。
平日は相変わらず多忙なので、奈緒人と奈緒と一緒に過ごせる時間はほとんどなかった。その分、休日はなるべく子どもたちと一緒に過ごすようにした。
そうして子どもたちと過ごしていると、二人の様子を見ていろいろと気づかされることがあった。
例えば最近、唯は楽しそうに僕と理恵のことをからかったり、僕たちが結婚したらどこに住むのかとかそういう質問をすることがあった。
そういうときには、両親も楽しそうに口を挟んできた。
でも、子どもたちは大人たちが盛り上がっている会話の中には入ってこようとしない。
普通の子どもたちなら、わからないなりに無理にでも話に参加しようとするだろうし、その場の関心を自分たちの方に向けようとするものではないか。
でも、奈緒人も奈緒も大人しく二人で寄り添っているだけで、話に割り込んで大人たちの関心を引こうとする様子を一切見せなかった。
大人同士の話の間、奈緒人と奈緒は二人だけのささやかな世界を作り上げて、その中にこもっているようだった。
それは微笑ましい光景でもあったけど、同時にひどく寂しいことでもあった。
母親にネグレクトされた経験を持つ奈緒人と奈緒は、大人たちに相手にされないときは他の甘やかされて育った子どもたちのように、大人の関心を自分たちの方に向かせようと駄々をこねたり話に割り込んできたりしない。
そういうとき、奈緒人と奈緒は反射的に二人だけの世界に閉じこもることを選ぶようになっていた。
やはりこの子たちには、まだネグレクトされたことによる影響が残っている。
僕は子どもたちが自然に二人きりの世界を作っているのを見てそう思った。
それから、奈緒人と奈緒の関係も微妙ながら変化しているようだった。
僕は今まで、奈緒人が奈緒のことを守ろうとしているのだと思っていた。でも、改めて二人をよく眺めると、意外と奈緒が奈緒人の面倒をみるような仕草を見せていることに気がついた。
奈緒人が食べ物をこぼしたり服を汚したりするたびに、奈緒はいそいそと奈緒人が落としたものを片付けたり、奈緒人の服をティッシュで拭いたりしていた。
僕はそんな奈緒の様子に初めて気がついた。
仕事のせいで子どもたちのことをじっくりと見てあげられなかったせいか、こういう奈緒の様子には今まで気が付きもしなかった。
そのことを唯に話すと「今さら何言ってるの」と呆れられた。
「前に奈緒人が奈緒の面倒をよくみてくれるって言ってたじゃないか」
「うん、そうだよ。あたしもこんなんじゃなくて奈緒人みたいな兄貴が欲しかったよ」
「いや、それはどうでもいいけど、何か僕が見るに、どっちかっていうと奈緒の方が奈緒人の面倒をみているように見えるんだけど」
「そんなの前からそうだよ。確かに奈緒人は奈緒を気にしているけど、奈緒だって奈緒人に甘えているばかりじゃないんだよ」
「・・・・・・今まで気がつかなかった」
「まあ、お兄ちゃんが気にしなくてもいいよ。あたしみたいに毎日この子たちを見ていられたわけじゃないんだしさ」
「こんなことにも気がついていなかったんだな。少しだけ自己嫌悪を感じるよ」
「女の子の方がしっかりするの早いしね。妹の奈緒が兄の奈緒人の日常の面倒をみるなんて微笑ましいじゃない」
「まあ、そうかな」
僕が新たに気がついた子どもたちのこういう様子は、唯にとっては単に微笑ましい成長のしるしに過ぎないようだったけど、こういう二人の様子を、僕不在の家庭で麻季がどういう気持で眺めながら子育てをしていたのか、僕はここにきて初めて考えてみた。
そうして考えるようになると、先日の理恵の話が頭に浮かんだ。
『麻季ちゃんが怜菜さんと君のことで悩んでいたとしたらさ。きっと奈緒ちゃんを見るたびにつらい思いをしていたのかもしれないね』
僕は想像してみた。
奈緒が怜菜にそっくりなことは、麻季も気がついていたかもしれない。そして奈緒人の方は僕に似ている。
そんな奈緒人と怜菜似の奈緒が、日増しに仲良くなっていくところを、麻季は育児しながら一番身近なところで眺めていた。
今まで考えたことはなかったけど・・・・・・もしも、本当にもしもだけど、麻季が奈緒人に僕の姿を見つつ奈緒に怜菜の面影を重ねていたとしたら、麻季はその二人の姿を見て何を思ったのだろう。
こんな幼い子どもたちに重ね合わせていいことじゃない。
だけど麻季が本当に僕と怜菜との仲を気にしていたとしたら、それは麻季にとってはまるで悪夢そのものだったかもしれない。
幼い二人が仲良くなる姿を見て、本来微笑ましいはずのその様子に、麻季が僕と玲菜が親しくなっていく姿を重ねてしまっていたとしたら。
その場合、どれほどの心の闇が麻季に訪れただろう。
理恵の言葉をきっかけにして、僕はそのことにようやく気がついたのだ。
せめて僕が家庭にいれば、麻季のストレスは僕の方向に向いていただろうし、僕も麻季を諌めたり慰めたり、場合によっては喧嘩して、彼女のストレスを発散させてあげることだってできたのかもしれない。
でもこのとき僕は海外にいた。
常識的に考えれば、幼い兄妹がどんなに仲が良かったとしても、その様子から僕と怜菜の仲を思い出して嫉妬するなんて、普通の人間なら考えられないだろう。
僕に言えた義理じゃないかもしれないけど、死んだ人間に執着したり、嫉妬したりすることは不毛だ。
生きている浮気相手なら、別れて清算することもできるかもしれない。でも亡くなった怜菜を振って別れることはできないのだ。
麻季に限らず、亡くなったライバルを相手にして勝てる人なんていない。
惹かれている気持がマックスのときにその相手が亡くなった場合、亡くなった彼女への想いは凍り付いたままで、その記憶が残っている限りは、そのまま心の中に留まり続けるしかないのだ。
いくらパートナーの愛情を疑った人でも、普通ならそんな実体のない相手への嫉妬にこだわる人は少ないだろう。
特に大切なはずの子どもたちを巻き込むほど、その嫉妬心を表に出す人はいないはずだ。
でも麻季ならあり得るかもしれない。愛情も憎悪も人一倍強い彼女ならば。大学時代に、面識すらなかった理恵にところに、僕に構うなと言いに行った麻季ならば、そういう非常識なことも考えられるのかもしれない。
自分の不倫にひけ目を感じていたうえに、僕と怜菜のささやかな心の交情を聞かされて混乱した麻季が、僕の出張中に奈緒人と奈緒の仲のいい様子に、僕と怜菜の姿を重ねて考えるようになってしまったとしたら。
彼女なら、心の中で奈緒人と奈緒の様子を、僕と怜菜との関係に置き換えてしまったとしても不思議ではないのかもしれない。
でもその仮定が成り立つのは、麻季がまだ僕のことを好きで執着がある場合に限られていた。
僕より鈴木先輩や他の男を選ぶくらいなら、僕と怜菜の感情に悩むことはないだろう。
そこまで考えつくと僕は再び混乱して、あのとき麻季が何を考えていたのかわからなくなってしまうのだった。
いろいろ考えた末、理恵の好意に甘えることにした僕は、代理人の弁護士に養育環境が麻季に対して有利な方向で整ったことを報告した。
麻季の代理人と親権について渡り合ってくれている彼にとって、それはいい交渉材料のはずだった。
でも彼は浮かない顔で答えた。
「まあ、昨日までならいい材料だったかも知れないですけどね」
「どういう意味です?」
「今日、太田先生から連絡があったんですよ。先方の状況がいい方に変化したんでお知らせしときますってね」
「・・・・・・変化って。いったい先方に何が起きたんですか」
「こっちと同じですよ。先方の養育環境もずいぶん有利になってしまいました」
「というと?」
「奥さんの方も離婚が成立したら再婚するらしいですよ。ですから養育条件の面ではこちらに不利になるところでした」
弁護士がそう言った。
「まあ、幸いにも結城さんにもお相手ができたみたいですから、そういう意味では五分五分というか一進一退というところですかね」
では麻季にはやはり好きな相手がいたのだ。
奈緒人と奈緒の親権の争いがかかっていた大事な場面だったのだけど、このとき僕は麻季の相手が誰なのかが気になった。
そしてすぐに、そういう自分の心の動きに幻滅した。
僕にとって一番大切なのは子どもたちだったはずなのに、そして今では一番大切な女性は理恵なのに。
それなのに、麻季の再婚相手のことに心を奪われている自分が心底情けなかった。
「相手の名前は?」
「鈴木雄二さんです。あなたの奥さんのかつての不倫相手ですね」
やはりそうか。
奈緒人と奈緒のこととか僕と怜菜のこととか、いろいろごちゃごちゃと考えたことなんか実際にはまるで関係なかったのだ。
やはり麻季は鈴木先輩のことが好きだったのだ。
「まあ奥さんの再婚はどうでもいいんですけどね。偶然にも先方と同じで結城さんにも一緒に育児できるお相手ができたわけだし、養育環境の面だけではこちらも有利にはなれなかったけど不利にもなっていません」
「はあ」
「それよりも問題なのは奥さんの相手が鈴木雄二ということですよ」
「どういうことですか」
「ご存知なんでしょ? 鈴木雄二氏は奈緒さんの実の父親ですからね。奈緒さんが戸籍上はあなたと麻季さんの娘だとしても血は繋がっていない。実の父親が奈緒ちゃんを引き取りたいと言い出しているわけで、ちょっとまずいことになりそうですね」
どうしてこんな簡単なことを今まで僕は忘れていたのだろう。
怜菜の遺児である奈緒の実の父親は鈴木先輩なのだった。
怜菜は先輩に自分の妊娠を告げることなく先輩と離婚して奈緒を出産した。
そして怜菜の死後、先輩は奈緒を引き取りはしなかったけど認知だけはしたのだった。
「鈴木氏は奈緒さんの実の父親ですからね。調停委員の心象にもだいぶ影響を与えるでしょうね」
「子どもたちを取られてしまうかもということですか」
「実の父親が奈緒さんを引き取りたいという意向を示しているのは、我々にとっては不利だと思います」
「でも、少なくとも奈緒人は鈴木先輩とは関係ないですよね」
「それはおっしゃるとおりです」
「・・・・・・この先、奈緒人と奈緒はいったいどうなってしまうんでしょうか」
「怜菜さんが亡くなった際、鈴木氏が奈緒さんを引き取らなかったことと、結城さんの奥さんの育児放棄を強調して、この二人には育児に不安があることを主張してみます」
「それで勝てるんでしょうか」
「調停は勝ち負けじゃないですからね。いかに調停委員の心象を良くするかです。調停結果が思わしくない場合は、その結果に従わないこともできます。でもそれは前に説明しましたね」
「ええ」
「最悪のケースは子さんたちの親権を奥さん側に取られてしまうことですが、可能性としては奈緒さんが奥さん側に、奈緒人君が結城さん側にとなることも考えられますね」
「奈緒人と奈緒を引き剥がすなんてあり得ないですよ。あれだけお互いに仲がいいのに」
「でも奥さんが鈴木氏と再婚するとなると、この可能性も現実味を帯びてきてしまいました」
「そんなことは認めない。駄目ですよ。あの子たちを別々にするなんて」
「多分、二人の親権を奥さん側が確保することは難しいでしょう。奥さんのネグレクトは児童相談所の記録で公に証明されていますし、調停委員の一人は元児童相談員をしていた人ですから、児童虐待の可能性のある人に親権を認めることはないと思います。でも、鈴木氏は奈緒さんの実の父親だし、別に子どもを虐待した経歴があるわけじゃないですから、奈緒さんの親権をこちらが確保するのは、正直難しいかもしれません」
「その場合は調停を拒否して裁判に持ち込めばいいんでしょ?」
「それはお勧めしません。裁判になれば多分こちらが不利です。この手の訴訟は判例では八割方、母親に有利な判決が出ているのです。少なくとも調停なら、児童委員出身の調停委員のおかげで何とか奈緒人君の親権は確保できる可能性はありますけど、裁判にしてしまえば二人とも奥さんの方に持っていかれてしまう可能性が大きいですね」
せっかく理恵が仕事を止めてまで育児をすると言ってくれたのに、この場に及んでまた鈴木先輩が僕を苦しめようとしているのだ。
今の僕にとって一番憎いのは、麻季ではなく鈴木先輩だったかもしれない。
それから数週間後、次の調停の前日に僕は再び弁護士から電話をもらった。
「最悪の事態です。太田先生から連絡があって奥さん側は明日の調停で申し立てを変更するそうです。奥さんは奈緒人君の親権、養育権、監護権とも全て放棄するみたいです。その代わりに奈緒さんだけを引き取ることを主張すると」
確かに最悪の事態だった。弁護士によれば調停ではその主張は認められる可能性が大だという。
それにしても麻季は何を考えているのだろう。自分の実の息子である奈緒人のことはどうでもいいのか。それとも奈緒人のことも奈緒のことも麻季にとってはどうでもよくて、単に僕に嫌がらせをしたいだけなのだろうか。