yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第3部第4話

 そういうわけで、感情が充足したため安定した家庭生活を送ることができた麻季だけど、奈緒の名前について悩むことはいまだにあった。

 博人が奈緒と呼ぶ声。奈緒人が奈緒と呼びかける声。そして何よりも、自分が奈緒に呼びかける際に感じる逡巡に彼女はしばしば考え込んだ。

 今が幸せなのでそんなことを考える必要はない。麻季はしきりに自分に言い聞かせた。

 博人が家にいるときはそんな考えは少しも脳裏をよぎることはなかったけど、奈緒人と奈緒を幼稚園の送迎バスに送り出して一人になったとき、やはり奈緒の名前についての疑問は、次第に彼女の心を蝕み出した。

 そんなある日、再び声が聞こえた。

『思っていたよりうまく行ってるよね。よかったね』

『うん・・・・・・』

『何か不安そうだね。博人君も頑張って家にいるようにしてくれてるし。まだ何か気になるの?』

『言葉に出しては言いづらいし、自分でもよくわからない漠然とした不安なんだけどね』

『博人君がまだ怜菜のこと引き摺っているんじゃないか不安なの?』

『ううん。それはもうないと思う。確かに亡くなった人には勝てないし、博人君が怜菜を嫌いになることは永遠にないんだけどね。でも亡くなった人相手に嫉妬してもしようがないよ。むしろ怜菜の娘をわたしが一生懸命に育てることが、博人君を繋ぎとめる唯一の方法だと思っているよ』

『・・・・・・なんだ。わかってるんじゃない。それなのにまだ不安を感じてるんだ』

『博人君がいないときだけなんだけどね』

『もう考えても仕方のないことで悩むのはやめにしたら?』

『わかってるよ。でも考えちゃうんだもん。しかたないじゃん』

『・・・・・・』

 声は沈黙してしまった。

『あんたはわたしなんでしょ? 今まで散々ああしろこうしろって指示してきたくせに。こんなときに黙ってないで何か言いなさいよ』

『聞くと後悔するかもよ。知らないでいたほうが幸せなこともあるしさ』

『わたし自身のくせに何を思わせぶりなこと言ってるのよ』

『まあ、結局君の意思しだいなんだけどね。わたしは君には逆らえないし、君が知りたいと言うなら話すしかないんだけど』

『じゃあ、話してよ。何でうまくいっているはずなのにわたしが不安を感じるのか』

『本当に話していいの? 後悔するかもよ』

『それでも知りたい。自分のこの不安の正体を』

『わかったよ』

 その声はため息混じりに言った。脳内の声の分際ですいぶん細かい芸をするものだ。

『あんたにその覚悟があるならこの際徹底的に考えてみようか』

 覚悟なんてあるわけがない。でも不安がいつまでたっても亡くならない以上、このまま目をつぶるわけにはいかないと麻季は思った。

『その前に聞くけどさ。奈緒のこと引き取ってよかったと思う?』

『よかったって思う。奈緒は可愛いし、わたしたちに懐いているし。このまま幸せに暮らせると思うな』

『そうだね。それはそのとおりだと思うよ。でもさ、怜菜が死んだとき君と博人君の仲ってどうだったか思い出してみな』

 そんなことは思い出すまでもない。

 博人は怜菜の死に、怜菜を救えなかった絶望に打ちひしがれていて、結婚して初めて麻季の涙にも無関心な状態だった。

 少なくともあのときの破綻寸前の家庭は麻季の浮気ではなく、怜菜の博人への想いとその後の彼女の突然の死が原因だったのだ。

『君と博人君の関係の危うい状態は、奈緒を引き取ったことによって解消されたんだよね』

『まあ、そうだけど。何よ、あんたの助言にお礼でも言えって言いたいわけ?』

 麻季の嫌味な言葉には反応せず声は続けた。

奈緒が我が家に来て博人君は再び君に優しくなった。やり直そうと言ってくれた。何よりもこれまで抱けなかった君のことを抱くようにもなった』

『そうだよ。奈緒を引き取ってからだって彼と言い争いをしなかったわけじゃないけど、結局彼は二人でやり直そうって言ってくれたの』

『博人君はあれだけ落ち込んでいたのにね。何で君に優しくなったのかな』

『それは・・・・・・』

『もうわかってるんじゃないの。彼の心が何で安定してまた君に優しくなったのか』

『それは・・・・・・。彼はわたしのことが好きだし、奈緒人のことだって愛してるし。奈緒のことをきっかけにわたしを許してくれたんだと・・・・・・』

『覚悟を決めてちゃんと考えることにしたんでしょ? それならもう自分を誤魔化さない方がいいよ』

『・・・・・・どういう意味?』

 声は少しだけ優しくなったようだった。そしてとても静かに麻季に言った。

『これは前にも言ったよ。君は忘れているかもしれないけど』

『何だっけ』

『あのときあたしはこう言ったの』

『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』

『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなちゃってるみたい』

『それが今では君と博人君はすごく仲がいい夫婦に戻れた。そのきっかけはわかるでしょ?』

『・・・・・・奈緒?』

『正解。奈緒が引き取られて博人君には生き甲斐ができたんだと思う。自分が何もしてやれなかった怜菜に対して、ようやく自分がしてあげられることができたんだって。それは幸せな家庭で奈緒をきちんと育ててあげること。彼にとってはそのためなら浮気した君のことを許すくらい何でもなかったんでしょうね』

 麻季はその言葉に衝撃を受けた。でも彼女の心にはどこかで覚めた部分があった。

 多分そのことを麻季は前から感じ取っていたのだろう。幸せなはずなのに、得体の知れない不安を感じていたのはそのせいだったのかもしれない。

『じゃあ、博人君は本当はわたしのことを許してないの? わたしのことを嫌いになったままなの』

『そこまではわからない。本当のところはあたしや君にはもう永久にわからないと思うよ』

『ふざけんな! 先輩と浮気して博人君の気持を試せってけしかけたのはあんたでしょう。今になってそんなこと言うなんて』

『あたしのせいじゃないよ。あのときと今とは事情が違うもん。こんなことになるなんてわからなかったし』

『何、言い訳してるのよ』

『神様じゃないんだからさ。まさか怜菜が鈴木先輩といきなり離婚するなんて思わなかったし、まして離婚してから産んだ自分の娘にあんな命名をするなんて』

『・・・・・・』

『それに一番誤算だったのが怜菜の死だよ』

『・・・・・・うん』

 本当はもう、麻季にも声の言いたいことは理解できていたのだ。

『君の不安の原因はわかったでしょ。それは前から自分でもわかってたと思うけど、結局単純な話だったね。博人君は怜菜に気持を持って行かれてしまってたんだよ。今、君の家庭が安定しているのは、博人君が怜菜の代わりに娘の奈緒のことを幸せにできるチャンスを得て、彼自身が落ちついたからでしょうね』

『わたしの不安の原因は結局それだったのね。博人君が本当にわたしのところに戻って来たわけじゃないって、わたし自身がどこかで感じていたからなのか』

『そうだね。それでも割り切ればいいんじゃない? 博人君は君と一生添い遂げてくれるよ。仲のいい模範的な夫婦として』

『・・・・・・奈緒のために? わたしのことなんて好きじゃないけど、奈緒のために一生わたしを好きな振りをしてくれるっていうこと?』

『うん。亡くなった怜菜の一人娘のためにね。だから聞かない方がいいって言ったじゃない。君はそれに気がついてしまったのだけど、これからどうするつもり?』

『頑張るしかないよ・・・・・・博人君は、結城先輩は絶対にわたしのことが好きなはず。どんなに時間がかかっても取り戻して見せるよ。怜菜と奈緒から博人君を』

 大学の頃、黙って麻季の髪を撫でて微笑んでいた博人の姿が、一瞬だけ麻季の脳裏に浮かんだ。

『そうか。そうだよね』

『辛いけど、気がつけてよかった。今夜も博人君が帰ってきたら笑顔で迎える』

『うん・・・・・・』

『何よ。まだ何かあるの』

『もう少しだけ気がついたことがある・・・・・・。ここから先は推理というか邪推というか、まあ今となっては証明しようのない話なんだけど。どうする? 聞く?』

『・・・・・・そんな言い方されたら聞くしかなくなっちゃうじゃん。まあ、もうこれ以上ひどい話はないとは思うけど』

『どうかな』

『さっさと言いなさいよ』

『怜菜について客観的にわかっていることは、突然の鈴木先輩との離婚、娘への奈緒という命名、そして突然の死、ということでいいよね』

『うん・・・・・・』

『最初の二つには、博人君に近づきたいという、怜菜の明確な意図が込められていると思う』

『そうかもね。怜菜は博人君のことがすごく好きだったんだね。鈴木先輩の言っていたこともあながち嘘じゃないのかもね』

『そして怜菜の死だけは悲劇的な偶然だと、君も博人君も鈴木先輩も疑っていないでしょ?』

『・・・・・・どういうこと?』

『それが偶然じゃなくて、三つ全てに怜菜の意図が働いていたとしたら?』

『それって』

『そう。怜菜は離婚して、意図的に鈴木先輩から自由になった。彼の浮気を責めることすらなく。そして意図的に自分の娘に奈緒人と一字違いの名前をつけた』

『そして、みんなが悲劇だって思っているけど、実はそれが彼女の意図的な死だったとしたら?』

 それは、想像力に溢れすぎていると自分でも認めていた麻季ですら考えついたことなかった考えだった。

『自殺ってこと?』

 心の声の非常識な推理に麻季の声が震えた。

「怜菜って自殺したんだと思う」

 これまで考えもしなかった言葉に僕は一瞬動揺したけど、すぐにそんなはずはないと思い直した。

 そんなわけはない。怜菜はか弱そうな外見とは裏腹に芯の強い女性だった。それはただ彼女の言葉だけからそう判断したわけではない。僕は彼女の一貫した行動からそう確信していた。

 怜菜は、離婚後に配偶者のいない状態で出産した。同じ病院に出産のために入院している母親たちと比べたって、つらいことは多々あったはずだった。

 でもそんなことは、怜菜から僕にあてた最初で最後のメールにだって何も言及されていなかった。

 僕は今では一語一句記憶している彼女のメールの文面を思い出した。

 それは何度思い起こしてもつらい記憶だった。生前の怜菜に最後に会ったとき、僕が彼女の思いに応えていれば、また違った現在があったのだろうか。

 そうしていれば、怜菜は死ぬことなく奈緒を抱いて、僕の隣で微笑んでいてくれる現在があり得たのだろうか。

「君が何を考えているのかよくわからないけど、怜菜さんの死は自殺じゃなかった。暴走してきた車から奈緒を守って亡くなったんだ」

「わたしだってそう思っていたんだけど、そうとも言えないんじゃないかって考えるようになったの」

「・・・・・・もうよせ。これ以上僕に君のことを嫌いにさせないでくれ」

「それは・・・・・・わたしは信じてるから」

「信じてるって何を」

「わたしが何をしても博人君は、結城先輩はわたしのことが好きだって」

「本当に何言ってるんだよ。もうよそうよ。昔のことは昔のことに過ぎないだろうが。君は鈴木先輩と再婚することにしたんだろ?」

「うん。ごめんね」

「謝るな。僕もこの先の人生は理恵とやり直すことに決めた。だからもうこれ以上怜菜さんのことは蒸し返さないでくれ」

「神山先輩なんてどうだっていい」

「・・・・・・それなら」

「神山先輩さんだけじゃない。雄二さんのことだってどうでもいいよ。怜菜は死んだし、雄二さんにだって、わたしたちの愛情の邪魔なんかできないんだよ。わたしたちはお互いに愛しあっている。でも問題は奈緒人と奈緒のことでしょ」

「何を言っているのかわからなよ・・・・・・もういい加減にしてくれ」

「それはわたしのセリフだよ。博人君もいい加減に目を覚ましてよ」

「子どもたちを放置した挙句、家庭を捨てたのは君の方だろうが。今さらお互いに愛しあっているも糞もあるか」

「博人君、まだ話の途中でしょ。そんなにあなたが興奮したらこの後の話がしづらいじゃない」

 麻季が微笑んだ。

「それに約束が違うよ。食べながら聞くって言ったのに全然食べてないじゃない。そんなんだと博人君、体壊しちゃうよ」

「・・・・・・食べるよ。だから続きを聞かせてくれ。何で子ども二人を家に放置した? そのとき君は何をしてたんだ」

「これ以上、怜菜に勝手なことをさせないためだよ」

「どういう意味だ」

奈緒は怜菜そのものじゃない。そして奈緒人はあなたそのもの。博人君は気がついていなかったかもしれないけど、奈緒人と奈緒はお互いに愛しあっているのよ。そんなことわたしは絶対に許さない」

「君が何を言っているのか全然わからない」

「・・・・・・食べないと」

「子どもたちが愛しあってるって、そしてそれを許さないっていったい何の冗談だ」

「博人君、食べないと身体に悪いよ」

「食事なんてどうでもいいだろ! そんなことを君に心配してもらう必要はないよ。僕には今ではもう理恵がいる。君はいったい何の権利があって・・・・・・いや、そうじゃない。奈緒人と奈緒が仲がいいことに何の問題があるんだ」

「怜菜は恐い子だったのよ。あなたを愛して、雄二さんの不倫のことを内心は喜びながら冷静に彼を振って、そしてあなたに告白したの。お腹の中に雄二さんの子がいたのにね」

「本当にもういい。これ以上そんな話は聞きたくない。それより僕が海外にいたときに、何で子どもたちを放置したか話せよ」

「怜菜が自分の大切な娘を放って死んでいいと思うほどあなたを愛したのだとしたら、あなたはそんな怜菜のことを愛せる? 怜菜が自分の娘を捨てて自殺したのだとしたら」

「そんな非常識なことがあるか。誤魔化さずに何で子どもたちを一週間近く放置したか答えてくれ。真実をだ。それを言わないなら僕は今すぐ帰る」

「そうね。わかった」

 麻季はそう答えた。

「わかったから、あなたの身体に悪いから少しでも食べて」

 もうとうに食欲なんてなくなっている。

 僕は形だけ目の前の皿からなにやらフライのようなものを取り上げて口に入れた。味なんて全く感じない。

「博人君、串揚げ好きだったよね」

「どうでもいいよ、そんなこと」

「わかってる。あのときね、わたしは」

 麻季は散々悩んだ挙句、その声を信じることにしたのだった。その圧倒的な説得力を前にして信じざるを得なかった。

 麻季がこれまで漠然と感じ続けてきた不安に、正確な解答が与えられた瞬間だった。

 このとき麻季は全てを理解した。これまで博人に対する自分の愛情の深さを、彼女自身疑ったことはなかった。

 でも、怜菜が自分の死をも厭わず、博人の心の中で一番の女性として生き続けていく道を選んでそれを実行したとしたら、その愛情は麻季のそれを凌ぐほど深いものであると考えざるを得ない。

 つまり愛情の深さにおいて、麻季は怜菜に負けたことになる。

 怜菜の自殺によって博人の心の中では、最後に会った怜菜の記憶が永遠に凍結されたまま古びることなく残るだろう。

 それは怜菜が博人への愛情を遠慮がちに表わしたときの切ない記憶だ。

 表面上は麻季に優しく接している博人の中では、怜菜の愛に応えなかった自分への後悔と、そんな彼を責めずに寂しげに微笑んで身を引いた彼女の最後の表情や容姿がいつも浮かんでいるのだ。

 麻季は最終的に怜菜に負けたのだ。

『負けちゃったね・・・・・・怜菜を甘く見すぎていた』

 声が重苦しく囁いた。

『・・・・・・うん』

『このことに気がつかなければ、この先博人君との仲を頑張って修復することを勧めたと思うけど、怜菜の意図を理解した以上、このまま博人君と一緒に生活しても君がつらいだけだと思う』

『どうしろって言うの』

『わからない』

『博人君の心を取り戻す方法が何かあるでしょう。今まで散々役に立たないアドバイスしておいて、こんなときには何も言わないつもり?』

『・・・・・・』

『確かに怜菜の思い切った行動で一時的に彼の心は奪われているかもしれないけど、博人君は、結城先輩はわたしのことが好きなの。先輩に殴られたわたしを助けて、わたしの髪を撫でてくれたときから』

『死んだ人相手には勝てないよ』

『そんなのってひどいよ』

『ただ』

『え?』

『たださ、死んだ怜菜相手には勝てないかもしれないけど負けないこと、いや少しでも負けを減らすことはできるかもしれないね』

 声は少し考え込んでいるように間をあけた。

『どういうこと?』

『今にして思えば君は、いや、君と私は完全に怜菜の仕掛けた罠に嵌ったんだよ。完膚なきまでにやられたね。そもそも怜菜は何で鈴木先輩なんかと結婚したんだと思う?』

『それは・・・・・・わたしだって不思議だったけど』

『先輩が電話で言っていたことを覚えてる? 怜菜は麻季の情報を先輩に伝えて、まるで先輩に対して麻季と接触させようとけしかけていたみたいだったって』

『うん。彼はそう言ってたね』

『そして先輩と君は出合って、怜菜の計画どおり不倫の関係になった。その後、彼女は博人に接触して、君と先輩がまだ連絡をとりあっていることを博人に告げ口したよね』

『・・・・・・やっぱり、怜菜の計画どおりだったってこと?』

『うん・・・・・・そしてさりげなく怜菜は博人に自分の思いを告白した。怜菜に誤算があったとすれば、博人君がその場で怜菜の気持に応えなかったことでしょうね』

『そのときはわたしは怜菜に負けていなかったってこと?』

『うん、そう思う。でも怜菜は賢い子だし、思い切って自分の考えを貫く強さを持っていた。大学の頃からそうだったじゃん』

 それは声の言うとおりだった。一見大人しそうな怜菜は、自分が決めたことは貫きとおす強さをその儚げな外見の下に秘めていた。

 麻季なんかと一緒に過ごさなかったら、怜菜は学内の人気者だったろう。それなのに彼女は麻季と二人でいる方が楽しいと言ってくれ、実際に友人たちの誘いを断ってまで麻季と一緒にいてくれたのだ。彼女には、周りに流されず自我を貫く強さがあった。

『怜菜は離婚して奈緒を出産するまで待った。そして、そのときが来ると迷わず車に身を投げたんじゃないかな』

『博人君の心の中で永遠に彼に愛されるためだけに?』

『うん。でも怜菜はもっと先まで考えていたんじゃないかな』

『わからないよ。これ以上何が起こるの』

『確かに死者には勝てないかもしれないけど、博人君は君には優しいし、君がこのまま良い妻でよい母でい続ければ、怜菜の記憶だっていつかは薄れていって、君への本当の愛情が戻るかもしれない』

 麻季はその言葉に一筋の希望を見出した気分だった。

 たとえ、今がどんなにつらくても何年かかっても何十年かかろうとも博人の愛情が戻ってくるなら・・・・・・・。

『でも、そのことも怜菜はちゃんと考えていたんだろうね』

『どういうことよ』

奈緒を見てればわかるでしょ。あの子は怜菜にそっくりじゃない。先輩の面影なんか全然ないよね。この先可愛らしく成長する奈緒を眺めるたびに、博人君は怜菜のことを思い出させられるんだよ』

『それにさ。奈緒奈緒人が大好きだし、奈緒人だって君より奈緒の方が好きみたいじゃない? 怜菜は自分と博人君が果たせなかったことを、奈緒奈緒人に託したんだと思う』

『そんなわけないでしょ!』

『じゃあ何で怜菜は自分の娘に奈緒なんて名前を付けたのかしらね』

『・・・・・・嫌だ。そんなの絶対にいや』

『もうできることだけしようよ。君は博人君を失う。でも怜菜や奈緒にはこれ以上勝手なことをさせるのをよそう。それで怜菜に完全には負けたことにはならないし』

『博人君とは別れられない。絶対に無理』

『想像してごらん。怜菜にそっくりに成長した奈緒を愛おしげに見つめる博人君の視線を。そしてある日、突然に奈緒と結婚したいって言い出す奈緒人の姿を。本当にそれに耐えられる? そしてそうなったら、何年も博人君とやり直そうとつらい思いをして頑張ってきた君は、完全に怜菜に負けたことになるんだよ』

『・・・・・・』

『もう決めないと。つらいことはわかるしあたしも甘かった。正直怜菜を見損なっていたし。でも今となってはそれくらいしか打てる手はないのよ』

『どうすればいい?』

『博人君と離婚しなさい。そして奈緒を引き取って、彼女を奈緒人と博人君から引き離しなさい』

『・・・・・・でも、それじゃあ奈緒人は』

『うん。君は奈緒人とはお別れすることになるね』

『そんな』

『つらい選択だよ。でも今迷って決断しないでいても、いずれ奈緒人は君を捨てて奈緒を一緒になるって言いだすよ』

『そんなこと決まったわけじゃない。奈緒人と奈緒はお互いに兄妹だって思っているのよ。普通に考えたら付き合うなんて言いだすわけないじゃん』

『義理の兄妹の恋愛なんて意外に世間じゃよくあるんじゃないの? 君だって、義理でもない博人の妹の唯ちゃんに嫉妬してたじゃない。実の妹なのに博人にベタべタするやな女だって』

奈緒人はそんな子じゃない。妹と付き合うなんてわたしが言わせない』

 声が少しだけ沈黙した。それからその声は再び囁いた。どういうわけかその声音は悲しみを感じさせるが、同時に麻季に同情しているような複雑な優しさにあふれていた。

『じゃあ、試してみようか。奈緒人が君と奈緒のどっちを選ぶか』

『・・・・・・何言ってるの』

『その結果をみて決めればいいじゃない。とりあえず子どもたちには可哀そうなことをする必要はあるけど、君をそこまで追い込んだのは怜菜の責任だしね』

『だって』

 それから声はその残酷な計画を静かに語り始めた。

 麻季は奈緒人と奈緒を試すためだけのために、子どもたちの世話を放棄して彼らを二人きりで自宅に放置した。

 精神的に虐待しただけではなく、食事の支度も入浴も何もかも放棄して、六日間の間、自宅を空けて子どもたちだけを取り残したのだ。

「あなたのお父様とか唯さんには子どもたちを放って男と遊び歩いたみたいに言われた。きっとあなたもそう思ってると思うけど、そんなことをしてたんじゃないの。これは大切な『実験』だったし、観察もしないでそんなことをするわけないでしょ」

 麻季は博人の反応を気にしているかのように、彼の様子を覗いながらそう言った。

「・・・・・・児童相談所の人が、マンションの管理会社に頼んで鍵を開けて家に入ったときのこと聞いてないのか。奈緒人も奈緒も衰弱してリビングの横にじっと横たわっていたんだぞ。すぐに救急車で病院に連れて行かれたくらいに。何でそのとき君が警察に逮捕されなかったか不思議なくらいだよ」

 博人は麻季に対して憤るというより泣きそうな表情だった。そんな彼の様子に麻季の心が痛んだ。

 そして奈緒人と奈緒を二人きりで放置している間も、麻季の心もずっと鈍い刃で繰り返し切りつけられているような痛みにさらされていたのだった。

 奈緒人はもちろん、奈緒のことだって麻季にとっては大切な我が子だった。それでも麻季は怜菜の意図を探って、それが彼女の死後もまだ策動しているようなら、たとえ全てを失ったとしてもその意図だけは阻止しなければいけなかった。

 それは奈緒のためでもある。その点ではもう彼女は声の言うことを疑っていなかったのだ。

 その六日間は麻季にとって、肉体的にも精神的にも追い詰められたつらい時間だった。

 子どもたちだけを自宅に残していた間、彼女はほとんどの時間をマンションの地下ガレージの車の中で、シートに蹲るようにしながら過ごした。

 一応、自宅近くのビジネスホテルの部屋を押さえてはいたものの、彼女がその部屋を利用したのはトイレに行くときくらいだった。

 ろくに食事もせずシャワーすら浴びず、彼女はマンション地下のガレージで過ごしたのだ。

 でもそんなことを博人に話す気はなかった。彼の同情を引くつもりはなかったし、たとえそれを説明したところで、博人が麻季に共感してくれるはずもなかったから。

「時々、奈緒人たちに気がつかれないようにそっと部屋に入って観察していたの。最初のうちは二人とも全然切羽詰っている様子はなかった。むしろわたしがいなくて奈緒は喜んでいたようだったよ。奈緒人にベタベタくっ付いて甘えてたし」

「切羽詰っていない子どもが衰弱して動けなくなるわけないだろ」

「そうね。最後の日に奈緒は疲れ果てたのか眠っていたの。それでわたしは奈緒人に話しかけに行ったたのね。もともとそれが目的だったし」

「疲れ果ててじゃねえよ。それは衰弱してたんだよ。おまえ、それでも母親かよ」

 それでも麻季は博人の言葉に動じている様子はなく、淡々と話を続けた。

奈緒人は眠っていなかった。ただ奈緒の傍らに横になって奈緒を横から抱きしめていたの。それでわたしは奈緒を起こさないようにそっと奈緒人に囁いたの。奈緒はいたずらをしたからお仕置きしなきゃいけない。でも奈緒人は悪くないからママと二人でよければお食事しに行こうって」

「君は・・・・・・なんてことを」

「ほら。やっぱり博人君は奈緒を庇うんだ」

「庇うとかそういう問題じゃないだろ」

「まあいいわ。そのときね・・・・・・奈緒人が言ったの。ママなんか嫌いだって。奈緒が一緒じゃなきゃどこにも行かないって」

「それを聞いたとき、わたしは決めた。たとえどんな犠牲を払ったってもうこれ以上怜菜の好きにはさせないって。そうしてわたしが奈緒人と奈緒を残して部屋を出ようとしたとき、奈緒人は何をしたと思う?」

「・・・・・・どういうことだ」

奈緒人はね。部屋から出て行くわたしのことなんか振り返りもしなかった。そして眠っている奈緒の口にキスしたの。まるで生きていれば怜菜に対してあなたがそうしていたかもしれないようなキスを」

「ばかなことを。怜菜と奈緒を重ねるな。それに奈緒人は僕じゃない・・・・・・僕の息子なんだ」

「そのときがちょうど六日目だった。児童相談所へ近所の人から通報があったでしょ?」

「・・・・・・ああ」

「あれ、わたしなの。もう奈緒人の前に姿を現す勇気はなかったけど、子どもたちが限界なのもわかっていた。だから近所の人のふりをして児童相談所に電話したの」

「わたしはこれ以上怜菜に自分の人生を狂わされたくない。これ以上怜菜にわたしの大事な子どもたちの人生も狂わされたくない」

 麻季は疲れたような表情で少しだけ笑った。

 大学時代から今に至るまで、麻季のそういう複雑な表情をまじまじと見たのは初めてだった。

 麻季を非難しようとした博人の言葉が口を出す前に途切れた。

「・・・・・・奈緒だって怜菜の自己満足な恋愛の犠牲者なのよ。わたしはこの先はずっと奈緒を可愛がって育てて行くわ。怜菜なんかに奈緒の人生を狂わせたりさせるつもりはない。あの子には、わたしの大切な娘として幸せでまっとうな人生を歩ませるつもり」

 ようやく博人は言うべき言葉を探し当てた。

「何を言っているのかわからないけど、それはもう君の役目じゃない。奈緒人と奈緒は僕が引き取って育てる」

「博人君じゃ駄目なんだってば。それに奈緒人と奈緒は一緒にいさせるわけにはいかないの」

奈緒人が奈緒を庇って君を拒否したから、君は奈緒人を捨てて奈緒だけを引き取ろうと言うのか」

「そんなわけないでしょ。お願いだから理解して。奈緒人は博人君と同じくらいあたしにとって大切なの。でも奈緒人と奈緒が一緒に暮らすのはだめ。それにわたしが奈緒人を引き取ってあなたと奈緒が一緒に暮らすのもだめなの。もうわたしが奈緒を引き取ってあなたが奈緒人を育てるしか道はないのよ。だから調停の申し立て内容を変更したの」

「なんでそうなるんだ。理由を言えよ。君は確かに正直に言ったのかもしれないけど、どういう理由でそんなことをしでかしたのか、その明確な説明がないじゃないか」

「本当にこれだけ聞いてもわからないの? 何でわたしが太田先生に嘘を言って、あんなひどい内容の受任通知書を書いてもらったか。何でわたしが博人君を愛しているのに、雄二さんに言い寄って再婚しようとしたか」

「・・・・・・ああ、わからない。ちゃんと説明しろよ。もっとも何を聞いたとしても二人の親権と監護権は渡すつもりはないけど」

「わたし、奈緒人と奈緒にはひどいことをしたよね」

「そのとおりだよ。君は奈緒人と奈緒が一生忘れられないくらいの心の傷を与えた。僕がマンションに残したメモを見たか」

「うん」

「あれが全てだ。怜菜さんとか鈴木のことなんかもうどうでもいい。どんな理由や言い訳を聞いたって僕が君を決して許さないのは、君が子どもたちを虐待したからだって何で気がつかないんだ。それともわかっていてわざと知らない振りでもしているのか」

「博人君の方こそ逃げないで考えて。怜菜が何で雄二さんと結婚したか。怜菜が何で雄二さんにわたしと接触するよう唆したのか。何で怜菜は、わたしと雄二さんの浮気を責めずに黙って離婚した挙句、あたなに会って愛の告白みたいなことをしたのか」

「僕は逃げてなんかいないし、自分の考えに言い訳もしていないよ。怜菜さんは僕を愛していたかもしれない。僕は確かに怜菜さんに惹かれていた。でも彼女は亡くなったんだ」

「怜菜の死が不幸な偶然だと信じ込んでいるのね」

「その根拠のない思い込みはもうよせ・・・・・・なあ、本当にそう思っているのだとしたら君は病院できちっと治療を受けたほうがいいよ」

 それは付き合い出して以来、初めて博人がした失言かもしれなかった。

 麻季はそれを聞いて顔を上げた。

 もう麻季は何も隠さなかった。これまでの彼女には博人に嫌われたくないという自己規制がかかっていたし、進めるべきだと思っている筋書きも、それが博人との永遠の別れに繋がる分、決定的な言葉を告げることを先延ばしにしたい感情もあった。

 それを言ってしまえばもう、今みたいに居酒屋で博人の食事の心配をするというささやかな幸せすら永久に失われてしまうのだ。

『勇気を出して言ってしまいなさい』

 その声につられて麻季はついに言った。

「相手が神山先輩なら恐くない。でも死んだ怜菜にはわたしはどうしたって勝てないもの。自業自得なことはわかってるけど、博人君とやり直せない以上、奈緒人と奈緒は一緒には過ごさせない。でも、あんなでっちあげた内容ではあなたに勝てないことはわかってた」

 博人は黙ったままだった。

「だからわたしは雄二さんに再び近づいたの。博人君の心は怜菜から奪えないかもしれないけど、雄二さんをわたしに振り向かせるのは簡単だったわ。そして奈緒の実の父親である雄二さんなら、奈緒の親権は勝ち取れるかもしれない」

「本当に心配しないで。今でも怜菜のことを愛していて、彼女のことを忘れられないあなたに約束します。奈緒のことは愛情を持って育てるし不自由だってさせない」

「今でもこの先も、わたしはずっと博人君だけを愛してる。でももう他に方法がないの。だからもうこれでいいことにしようよ」

「わたしは自分のしたことの罪は受けます。凄くつらいけど、あなたがわたしを許してくれるまではもう二度と奈緒人には会いません。だから奈緒のことだけはわたしに任せてください」

「いい加減にしろよ・・・・・・」

 博人はその乱れた感情を反映しているかのように、口ごもったまま辛うじて言葉を出した。

奈緒人のことよろしくお願いします」

 麻季は最後に涙を流したまま頭を下げた。