yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第2部第6話

 その日はすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園には樹木が高く枝を張り、繁茂している緑に日差しが和らげられていた。

 申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古びた建物の中より、よほど快適だったかもしれない。

 僕は唯に弁護士から聞かされたことを相談した。案の定、唯はひどく好戦的だった。

「麻季さんってどこまで自分勝手で卑劣なんだろう。お兄ちゃんに嫌がらせをするためなら、奈緒人と奈緒を不幸にすることも辞さないのね」

 吐き捨てるように唯はそう言った。

「次のの調停で何と主張するのか決めなきゃいけないんだ」

 僕はもう、何かを考えられる当事者能力を失っていた。

 これまでの僕は奈緒人と奈緒を失うか、これまでどおり一緒に過ごせるのかの二択以外のことは考えもしなかった。突然に告げられた、奈緒だけを引き取りたいという麻季の主張は僕を混乱させた。

 これまで、麻季には少なくとも奈緒人と奈緒にだけは愛情があるということを、僕は疑っていなかったし、そのことを前提として、麻季と親権を争っていた。

 たとえ奈緒人と奈緒の親密な様子に僕と怜菜を重ねてしまっていたとしても、まさか麻季が奈緒人と奈緒を引き離すような、子どもたちにとって残酷な主張をするとは夢にも思っていなかったのだ。

「明日、どうすればいいのかな」

 僕は思考を停止して唯に弱音を吐いた。そんな僕の様子に唯は憤った様子だった。

「どうもこうもないでしょ。断固拒否するのよ。奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて可哀そうなことは認められないでしょうが。あの子たちが麻季さんの虐待に耐えられたのはお互いを慰めあってきたからじゃない。奈緒人と奈緒を散々傷付けたくせに、反省するどころかさらに傷つけようとする麻季さんなんかに負けちゃだめよ」

「でも弁護士は訴訟に移行しても負けそうだって言ってるし」

「だから何? やってみなければわからないでしょ。調停ごときで諦めるなんて、お兄ちゃんは奈緒人と奈緒を愛していないの?」

 理恵も基本的には唯と同じ意見だった。でも唯と異なり彼女は、僕がどう判断しようともその判断を受け入れると言ってくれた。

『後で後悔するくらいなら、結果はともかく唯ちゃんの言うように、とことん足掻いた方がいいかもしれないね』

 そう電話口で理恵は話した。

『でも最終的には決めるのは博人君だし、それがどういう決断になるとしても、あたしは最後まで博人君の味方をするよ』

 

 調停の日、両親は病院へ行くことになっていた。そして間の悪いことに、唯はその日、内定していた企業の招集日だった。

 つまり、実家には奈緒人と奈緒の面倒をみる人間がいなかったのだ。

「明日は病気になる。高熱があることにする」

 唯が思い詰めた顔でそう言った。

「だめだよ。社会人になる最初のステップからおまえをさぼらせるわけにはいかないよ」

「じゃあ、もう内定辞退するよ」

「だから駄目だって」

 そんなことを唯とやりあっていたとき、理恵が電話してきた。

奈緒人君と奈緒ちゃんも連れて来ればいいじゃん。家裁の隣の公園で遊ばせておけば?』

「子どもたちだけで?」

『明日はあたしもついて行くから』

「仕事もあるだろうしいいよ」

『明日は代休だよ。あたしも一度くらい調停っていうの経験してみたいし』

「・・・・・・それじゃ奈緒人たちはどうなるの」

『玲子に頼んで明日香と一緒に公園で遊んでるように頼んでおくから。玲子が奈緒人君たちの面倒みてくれるよ』

「玲子ちゃんと明日香ちゃんって、奈緒人と奈緒と会ったことすらないじゃん」

『心配いらないって。それとなく気にするように玲子に言っておくから』

 

 そういうわけで、その日の調停の場には関係者として理恵が同席した。

 その場では顔を合わせなかったけど、調停委員の話では、麻季の方も鈴木先輩を連れてきたということだった。

 結局唯の言うとおり、奈緒人と奈緒を別々に育てるなんて考えられないことを主張して、この日の調停は終った。

 僕と理恵が連れ立って家裁のそばの公園を歩いて行くと、ジュースやアイスクリームを販売しているワゴンのところで、玲子ちゃんが三人の子どもたちと一緒に休憩していた。

 その朝、僕は奈緒人と奈緒をつれて家裁のすぐ側にある公園に出向いて、そこで理恵と明日香ちゃんを連れた玲子ちゃんと出会い、奈緒人と奈緒を預けたのだ。

「すっかり仲良くなってるね」

 理恵が微笑んで玲子ちゃんに話しかけた。

 玲子ちゃんは初対面のはずの奈緒人と奈緒にもう懐かれているようだった。

「玲子さん、奈緒人たちの面倒をみてもらってすいませんでした」

 僕は玲子ちゃんに礼を言った。

「どういたしまして。奈緒ちゃんと明日香はすぐに仲良くなって一緒に遊んでました」

「本当にありがとう」

「いいですよ。一人も三人も一緒だし。まとめて面倒みてただけで」

「玲子おばさんにソフトクリーム買ってもらった」

 奈緒人が言った。

「おばさんって、奈緒人。お姉さんと言いなさい」

「パパ」

 突然、奈緒奈緒人から離れて僕に抱きついてきた。

 僕は調停後の暗い気持ちを隠して、奈緒を抱き上げた。抱き上げられた奈緒は無邪気に喜んで笑っていた。

 調停からの帰り道、みんなでファミレスに寄って遅い昼食をとることにした。

 僕と理恵、玲子ちゃんと子どもたち三人の総勢六人で賑やかに食事をしたのだったけど、奈緒人と奈緒がお互い以外の子どもと親しくしているのを見るのは初めてだった。

 明日香ちゃんは人見知りしない子のようだった。

 彼女は多少甘やかされて育った様子はしたけれど、奈緒人と奈緒とは短い公園でのひとときですっかり打ち解けているようだ。

 特に奈緒と明日香ちゃんは既にお互いを名前で呼び合っている。

「お兄ちゃん口に付いている」

 奈緒奈緒人の口を拭いた。

「服にもこぼしてるじゃん」

 明日香ちゃんも奈緒の真似をして奈緒人の世話をやき始めた。

「お兄ちゃんの服、ケチャップが付いてるよ」

「・・・・・・明日香まで奈緒人君のことお兄ちゃんって呼んでるじゃない」

 玲子ちゃんが理恵をからかうように言った。

「もう、いつでも結城さんと結婚できるね」

「あんた子どもたちの前で何言ってるの」

 理恵が狼狽して言った。

 そう言えば、明日香ちゃんに対して理恵は僕との結婚のことを話しているのか聞いたことがなかった。

 うちの実家でも理恵との再婚は両親と妹には了解を得ていたけど、まだ奈緒人と奈緒にはっきりと話をしたわけではなかった。

 麻季との親権争いが片付いていない不安定な状況で、将来の話を子どもたちにするわけにはいかなかったからだ。

「子どもってすぐに仲良くなっちゃうんだね」

 理恵のことを気にする様子もなく玲子ちゃんが笑って言った。

「そうですね。僕も驚いたよ」

「あたしは結城さんと奥さんの事情はよく知らないけど、この子たちのこういう様子を見ているだけでも、結城さんとお姉ちゃんの結婚を応援する気になるよ」

 玲子ちゃんが理恵に言った。

「・・・・・・玲子」

「まあ、結城さんと結城さんの奥さんの話は唯ちゃんから聞かされてはいたし、奈緒人君たちもつらかったんだなとは思ってたんだけどさ」

「うん」

「でもまあ、唯ちゃんは結城さんが大好きなブラコンちゃんだから、話が偏ることも多いからな」

「何言ってるのよ」

「だから話半分に聞いていたんだけど、今日公園で二人を眺めててさ。奈緒人君と奈緒ちゃんって相当つらいことを乗り越えてきたんだなって思った」

 少しだけ声を潜めて、子どもたちを気にしながら彼女は言った。やはり初対面の玲子ちゃんでもそう考えたのだ。

「結城さんとお姉ちゃんが結婚すれば、奈緒人君と奈緒ちゃんと、それにうちの明日香が一緒に暮らせるじゃない? それだけでもこのカップリングは正しいよ」

「それだけでもって言うな。あたしと結城さんは」

「・・・・・・何よ」

「何でもない」

 理恵が赤くなった。

 二人の女の子にお兄ちゃんと呼ばれている奈緒人はあまり動じていなかった。

 奈緒人は、自然に明日香ちゃんのことを受け入れているように見えたけど、それでも彼が一番気にしているのは、奈緒のことなんだろうなと僕は思った。

 それより僕にとって意外だったのは、奈緒人が実家の両親や唯に慣れ親しむのと同じくらい玲子ちゃんに気を許していたことだった。

 普段は大人同士の会話が始まると、大好きなはずの唯にさえ遠慮していた奈緒人が、僕や理恵の話しかけている玲子ちゃんの気を引こうと試みていることに僕は気がついた。

 ただ、奈緒人は玲子ちゃんのことを「玲子おばさん」と呼びかけていたせいで、玲子ちゃんの機嫌を少し損ねているようだった。

「あのね、奈緒人君。おばさんじゃなくて、玲子お姉ちゃんって呼んでもいいのよ」

「なんで? あたしは叔母さんって呼んでるじゃん。お兄ちゃんもおばさんって呼べばいいよ」

 明日香ちゃんがそう言いながら、奈緒人の腕に手をかけた。

 一瞬、奈緒が明日香ちゃんの方を見た。

 その視線はまるで子どもっぽくなかった。嫉妬する一人の女の子のような視線みたいだ。

 ・・・・・・まさかね。考えすぎだと僕は思った。

 麻季の心境を想像しようと努めていたせいか、自分まで変な影響を受けたらしい。僕は頭を振った。

「どうしたの」

 気が付くと理恵が不審そうに僕の方を眺めていた。

「いや・・・・・・何でもない」

「三人ともすぐに仲良しになったね。何だかうれしいと言うか気が抜けちゃった」

「どうして?」

「うん。あたしと博人君がうまくいってもさ。子どもたちが一緒に住むことに慣れなかったら、どうしようかってちょっと心配だったからさ。でも玲子の言うとおりいらない心配だったみたい」

 奈緒人と奈緒の親密な関係性に、麻季は僕と怜菜の心の不倫を重ねて見ているのではないかと、言い出したのは理恵だったが、当の理恵自身は、奈緒人と奈緒が仲がいいことを単純に喜んでいて、それ以上余計なことは何も考えていないようだった。

 もうごちゃごちゃ考えるのはやめようと僕は思った。

 麻季が何を考えているのなんかどうでもいい。それよりも親権を獲得できれば、僕と理恵の家庭の幸せは約束されたようなものだ。

 子どもたちの仲のいい様子を見て、僕は遅ればせながらそう思った。

 そう割り切ってしまえば、親権の争い以外に悩むことはなかった。

 子どもを放置した麻季に対して嫌悪感を感じていた僕だったけど、それでも僕の中には麻季への未練、というか麻季との幸せだった過去の生活への未練が、わずかだけど残されていたのだろう。

 でも理恵へのプロポーズや、明日香ちゃんを含めた子どもたちの仲の良さを実感したことで、ようやく僕はその思いから開放された。

 その感覚は癌の手術後の経過にも似ていた。癌の手術後の患者はいつ再発するのかと常に悩むかもしれない。そして経過観察期間が過ぎて、もう大丈夫だと思うようになって初めて、今後の人生に向き合うことができるのではないか。

 僕の場合もそれに似ていた。

 まだ調停の結果は出ていないけど、この先の自分の人生に向き合う気持が僕の心の中にみなぎるようになったのだ。

 僕はもう迷わなかった。理恵と三人の子どもたちと、新しい家庭を構築するという単純な目標だけを僕は希求するようになった。

 弁護士の言うように、調停の結果奈緒の親権が確保できなかったら訴訟を起こそう。悲観的な弁護士と違って唯は勝てる要素は十分にあると言っていたのだし。

 僕はその方針を実家の両親と唯に、そして理恵に伝えた。みんなが賛成してくれた。

 僕は仕事上もプライベートでもかつての調子を取り戻していた。

 理恵と実質的に婚約していた僕にとって、もう将来は不安なものではなかった。麻季との離婚が成立したら、すぐに理恵と結婚することになっている。

 理恵は残業のない職場に異動希望を出し、それが認められなければ専業主婦になると言ってくれていた。

 そして、たとえ僕と麻季の離婚の目途はつかなくても、来年の四月になって唯が奈緒人たちの面倒を見れなくなったら、一緒に住んで子どもたちの面倒をみると理恵は言った。

 現状にも将来にも、今の僕にとって不安な要素がだいぶ減ってきていたから、僕は今まで以上に仕事に集中することもできるようになっていた。

 

 その日の夜の九時頃、僕は残っている部下たちにあいさつして編集部を出た。

 この時間になると、帰宅しても子どもたちはもう寝てしまっている。

 まっすぐ帰宅しようかと思ったけれど、さっき唯からメールが来て、今日は家に夕食がないので残業するなら、どこかで食事をしてくるように言われていた。

 僕は夕食の心配をしなければいけなかった。

 一瞬、まだ仕事をしているだろう理恵に連絡して、一緒に食事でもという考えが頭をよぎったけれど、よく考えたら彼女は今日は泊りがけの取材で地方に赴いていることに気がついた。

 面倒くさいし、コンビニで何か買って実家に帰ろうかと思って社から地下鉄の駅に向って歩こうとした瞬間、僕の目の前に人影が立っていることに気がついた。

「久しぶりだね」

 目の前の人影が穏かにそう言った。

 都心の夜の歩道は、ビルの中の灯りや街路灯に照らされていて、その灯火の下にその人影はたたずんでいた。

「・・・・・・え? 何で」

 僕は口ごもった。目の前に立っていたのは、見慣れた服に身を包んだ麻季だった。

「元気そうね、博人君」

 以前によく僕に見せてくれた優しい微笑みを浮べて麻季が言った。

 ちょっと長い出張から戻ったとき、麻季は僕に今と全く同じ微笑みを浮べてそう言ってくれたものだった。

「偶然だね」

 ようやく僕は掠れた声で答えることができた。

「偶然というわけじゃないの・・・・・・。あなたが会社から出てくるのを待ってた」

 麻季の微笑みに、不覚にも少しだけ動揺する自分のことが、僕は心底嫌だった。

「・・・・・・お互いに弁護士を通してしか接触しないことになっていなかったっけ」

 僕はようやく気を取り戻してそう言うことができた。

 麻季と直接二人きりになることはもうないものだと思ってはいたけど、先日の居酒屋での偶然もある。

 理恵に結婚を申し込んでからは、万一再び麻季と会うことになったらそう言おうと僕は心に決めていた。そしてどうやら僕は動揺しながらも、思っていたとおりのセリフを口に出すことができた。

「それはそうなんだけど・・・・・・」

 麻季は俯いてしまった。

「何か用事でもあるの」

 僕は意識して冷たい声を出すように努めた。麻季は黙ったままだ。

「これから実家に帰らなきゃいけないんで、用事がないならこれで失礼する」

 用事があったとしても、僕は黙ってここから立ち去るべきだった。

「待って。あなたと話したいの」

「・・・・・・話なら弁護士を通してくれるかな」

「・・・・・・博人君と直接お話したいと思って」

「あのさ」

 僕は段々と腹が立ってきた。

「弁護士を通せって言い出したのは君の方だろう。携帯だって着信拒否してるくせに今さら何言ってるんだ」

「してない」

「え」

「着拒してたけどすぐに後悔してとっくに解除してあるの。でも博人君連絡してくれないし」

「あれ? 編集長まだいたんすか」

 部下の一人がそのとき編集部から出てきて僕に話しかけた。

 彼はすぐに麻季に気がついた。悪いことに彼は麻季とも顔見知りだった。

「あれ、麻季さん。ご無沙汰してます。お元気でしたか」

「・・・・・・お久しぶりです」

 麻季が小さな声で言った。

「何だ。結城さん、今日は奥さんと待ち合わせでしたか。相変わらず仲がいいですね」

 社内では僕の上司以外は、僕と麻季の仲が破綻していることを知らない。

「そんなんじゃないよ」

「麻季さん相変わらずおきれいで。それにお元気そうですね」

「・・・・・・はい」

 彼は腕時計を眺めた。

「おっといけね。マエストロをお待たせしたらご機嫌を損ねちゃう。じゃあ、俺はこれで失礼します」

「先生によろしくな」

「わかりました」

 彼は麻季に向ってお辞儀をして足早に去って行った。

 どうもこのままでは埒があかない。それにいつまでも、編集部の前で人目に晒されているわけにもいかなかった。

「しようがない。とにかくここから移動しよう」

 僕は麻季に言った。

「うん。ごめん」

「来るなら来るって連絡してくれればいいだろ。いきなり待ち伏せとか何考えてるんだよ」

「ごめんなさい」

 麻季が泣き出した。

 彼女が何を企んでいるのかはわからないけど、社の前で泣かれると困る。

 僕は仕方なく彼女の手・・・・・・ではなく、上着の袖を遠慮がちに掴んで歩き出した。麻季は大人しく僕の後を付いて来た。

 クローバーへ行こうと思ったのだけど、馴染みのその喫茶店はこの時間では既に閉店していた。

 それによく考えるとあそこは生前の怜菜と最後に会った場所だし、理恵にプロポーズした場所でもある。あそこに麻季を連れて行く訳には行かなかった。この辺にはファミレスもない。

 こんな時にどうかと思ったけど、立ち話を避けるためには選択肢はあまり残されていなかった。

「そこの居酒屋でもいいかな」

 麻季は黙って頷いた。

 チェーンの居酒屋はそこそこ混んでいるようだったけど、僕たちは待たされることなく席に案内された。

 向かい合って席に納まるとしばらく沈黙が続いた。

 店員が突き出しをテーブルに置いて、飲み物の注文を取りに来た。

「・・・・・・僕には生ビールをください。君は・・・・・・ビールでいい?」

 麻季は俯いたままだ。これでは店員だって変に思うだろう。

 麻季は昔から炭酸飲料が苦手だった。

 彼女は酒が飲めないわけではなかったのだけど、ビールとか炭酸が入っているものは一切受け付けなかったことを僕は思い出した。

 彼女は地酒の冷酒とかを少しだけ口にするのが好きだったな。

 それでもこの場で僕が麻季に酒を勧めていいのだろうか。少し僕は迷った。

「・・・・・・冷酒、少しだけ飲むか」

 俯いていた麻季が少しだけ顔を上げた。

「・・・・・・いいの?」

「いいのって。聞く相手が違うだろ」

 こいつはいったい何を考えているのだろうか。

「冷酒でいいか」

「うん。わたしの好みを覚えていてくれたんだ」

 麻季の返事は少しだけ嬉しそうに聞こえた。

 やがて生ビールのジョッキと冷酒の瓶がテーブルに運ばれてきた。

 麻季の前にはガラスのお猪口のような小さなグラスが置かれる。何となく手酌にさせるのも可哀そうで、僕は冷酒の瓶を取って彼女のグラスに注いだ。

「ありがとう」

 麻季がグラスを手に持って僕の酌を受けて微笑んだ。

 何か混乱する。まるで奈緒人が寝たあと、夫婦で寝酒を楽しんでいた昔の頃に戻ったような感覚が僕を包んだ。

 今日一日ほとんど飲み食いせずに仕事をしていたせいか、こんな状況でも喉を通過する生ビールは美味しかった。

 人間の整理は単純にできている。僕は思わず喉を鳴らして幸せそうなため息をついてしまったみたいだ。

 麻季は冷酒のグラス越しにそんな僕の様子を見てまた微笑んだ。

「博人君、喉渇いてたの?」

「・・・・・別に」

「何か懐かしい。博人君が残業して深夜に家に帰って来たときって、いつもビールを飲んでそういう表情してたね」

「そうだったかな。もう昔のことはあまり覚えていないんだ」

 僕は意識して冷たい声を出した。

 ・・・・・・実際は覚えていないどころではなかった。

 子どもができる前もできた後もあの頃の僕の最大の楽しみは、帰宅して次の日の仕事を気にしながらも麻季にお酌してもらいながらビールを飲むことだったから。

 奈緒人を身ごもってから麻季は酒を一切飲まなくなったけど、その前は彼女も僕に付き合って冷酒をほんの少しだけだけど一緒に付き合ってくれたものだった。

 いや。そんなことを思い出してどうする。

 どういうわけか、あれだけひどいことを麻季にされたにも関わらず、僕は以前の生活を懐かしく思い出してしまったようだ。

 僕は無理に冷静になろうとした。

「それで何か用だった? 調停のことだったら家裁の場以外では交渉しないように弁護士に言われてるんだけど」

「・・・・・・うん」

「うんじゃなくてさ」

 麻季が何を考えているのか僕には全く理解できない。

「食事してないんでしょ」

「博人君、職場で夜食食べるの嫌いだもんね」

 麻季がそう言った。

「何か食べないと」

 麻季はいそいそとメニューを持ってじっとそれを眺め出した。

「君の食事の面倒みるのって久し振り。ふふ。博人君、食べ物の好み海外から帰っても変わってないよね?」

「・・・・・何言ってるの」

「本当は身体には悪いんだけど・・・・・・でも好きなものを食べた方がいいよね」

 麻季が店員を呼んで食べ物を注文した。

 それは完璧なまでに僕の好みのものだった。

 これだけを取ってみれば、理恵や唯よりも僕の食生活の嗜好を理解していたのは麻季だった。でもそれは当然だ。破綻したにしても、それまでは何年にも渡って麻季と僕は夫婦だったのだから。

 それにしても麻季は何でわざわざ僕に会いに来たのだろう。

「お酒、注いでもらってもいい?」

 さっき麻季に酒を注いだときに、僕は冷酒の瓶を自分の手前に置いてしまっていた。

 僕は再び麻季のグラスに冷酒を満たし、今度は麻季の手前にその瓶を置いた。

 麻季は一口だけグラスに口をつけてテーブルに置いた。

「ビールでいい?」

「え」

 僕はいつの間にか生ビールのジョッキを空にしてしまっていた。

「頼んであげる」

「あのさあ。明日も仕事だしゆっくり酒を飲んでる時間はないんだ」

「でもお料理もまだ来てないよ」

「君が勝手に頼んだんだろうが」

「今日って実家に帰るだけでしょ? まだ終電まで三時間以上あるじゃない」

「そういう問題じゃない。第一に早く帰って子どもたちの顔を見たい。第二に君と二人きりで一緒にいたくない・・・・・・。おい、よせよ。何で泣くんだよ」

 泣きたいのはこっちの方だ。僕は泣き出した麻季を見ながらそう思った。

「ごめん」

「・・・・・・うん」

「本当にごめんなさい」

「もういいよ。それにさっきから何に対して謝ってる? 突然会社の前で待っていたこと? それとも泣いたこと?」

 僕は弁護士から、調停の場以外では、弁護士が同席していない限り調停内容に関わる会話は避けるように言われていた。

 これまではあまりそのことを真面目に考えたことはなかった。そもそも麻季の方が僕を避けていたので、顔を合わす可能性なんてなかったからだ。

 でも、こうして久し振りに麻季と二人で話せる状態になると、僕はこれまで溜め込んできて吐き出す場がなかった怒りや疑問が口をついて出てしまった。

 そして一度負の感情を口に出してしまうと、それは自分では制御できなくなってしまった。

「それともまさかと思うけど、麻季は不倫したことや、子どもたちを虐待したことを今さら後悔して謝っているのか? そんなわけないよな。弁護士から聞いたよ。鈴木先輩と再婚するんだってな。よかったね、僕なんかに邪魔されないで最愛の人とようやく結ばれてさ」

 一気にそこまで話したとき、ようやく僕の激情の糸が途切れた。心の底がひえびえとして重く深く沈んでいった。

 同時に僕は、周囲の客の好奇心と視線を集めてしまったことにも気がついた。

「大声を出して悪かったな」

 僕は冷静さを取り戻して麻季を見た。

 麻季は動じていなかった。むしろこれ以上にないというほどの笑顔で、僕に向かって微笑んだのだ。とても幸せそうに。

「結城先輩、やっぱりわたしのこと好きでしょ」

 麻季が静かに笑って言った。

 僕は凍りついた。

 ・・・・・・麻季はいったい何を言っているのだ。

 そして記憶を探るまでもなく、それは鈴木先輩に殴られた麻季を助けたときに彼女が脈絡もなく言ったセリフだった。

 それをきっかけに僕と麻季は付き合うようになったのだ。

「何言ってるんだ・・・・・・結城先輩って何だよ」

「懐かしくない? わたしと博人君の馴れ初めの会話だよ」

 それにしても、泣いたかと思うとすぐに優しい顔で微笑む麻季は、いったい何を考えているのだろう。

 麻季のこういう支離滅裂な性格は、大学時代には理解していたつもりだったけど、彼女と付き合い出して結婚してからは、こういう意図を理解しがたい言動は全くといっていいほど見られなくなっていたのに。

「もういい。僕は帰る」

 僕が立ち上がると、初めて麻季は慌てた様子で僕のスーツの袖口を掴んだ。

「帰らないで。ちゃんと話すから・・・・・・。全部話そうと思って来たの」

 今まで笑っていた彼女がまた泣き顔になって言った。

 僕はしぶしぶ腰を下ろした。

「何を話す気なんだよ」

「全部話すよ。博人君がドイツに出張してからわたしが何を考えていたか」

 僕は思わず緊張してまだ涙の残る麻季の顔を見直した。

「わたしさ。いろいろ努力はしたんだけど、結局、奈緒のことが好きになれなかったんだ」

 麻季が言った。

 麻季にそういう感情もあるのではないかと考えたこともあったので、僕は思ったよりは動揺しなかった。

 それでも仲が良かった頃の夫婦のような間合いで二人で過ごしている状況で、薄く微笑みながらそういう言葉を口に出した麻季の様子に僕は少しショックを受けた。

「もちろん奈緒には何の責任もないことなのよ。だから一生懸命頑張って笑顔で奈緒には優しくしたんだけどね」

「・・・・・・・怜菜の娘だからか? でもそれなら何でわざわざ苦労してまで奈緒を引きとったんだ」

「・・・・・・あまり驚かないのね」

「僕が不在のときの君の行動を知ってからは、君についてはもう何を聞かされても驚かなくなったよ」

「博人君ひどい」

「君の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったよ」

「確かに今は離婚調停中だけど、お互い別に嫌いになって別れるわけじゃないんだよ。会っているときくらい、前みたいに仲良くしたっていいじゃない」

「・・・・・・何言ってるの?」

「何って」

「僕たちがお互いにまだ愛し合っているとでもいいたいの」

「うん・・・・・・。あれ、違うの?」

 麻季は本気で戸惑ったようにきょとんとした顔をした。

 そして麻季の話は、かつて僕が彼女のメンタルを疑ったときのように支離滅裂になってしまっている。

 子どもたちの育児放棄。帰国したときに見た廃墟のようにゴミが散乱していた我が家。太田弁護士から受け取った受任通知書。そして鈴木先輩と麻季の再婚。

 そのどこを取ったら僕への愛情が見られるというのだ。

「注いでくれる?」

 麻季がにっこり笑ってグラスを掲げた。

 わずか数ヶ月僕が家庭を留守にしている間に麻季の心境に何が起きたのか、どうして彼女は自分の夫と子どもたちにこんなひどい仕打ちができたのか。

 今夜はようやくその答が聞けるのではないかと思ったけど、滑り出しは最悪だった。謎がさらに深まっていくばかりだ。

 もう諦めて帰った方がいいんじゃないか。麻季の心境を理解することは、もう諦めるつもりになったばかりなのだし。

 一瞬そう考えたけど、一見すると整合していない麻季の話は、彼女の中ではロジカルに完結していたことを思い出した。コミュ障というか彼女は心情表現が稚拙なのだ。

 どうせもう遅くなってしまっている。僕はもう少し粘ってみるつもりになった。そのためにはこちらから話を誘導して質問した方がいい。

 付き合い出したばかりの頃はよくそうしたものだった。

 とりあえず黙って麻季に冷酒を注いでから僕が自分から質問しようとしたとき、麻季が 注文した料理が一度に運ばれてきてしまった。

「話は後にしてとりあえず食べて」

 そう言って麻季は取り皿に運ばれてきた料理を取り分けて僕の前に置いた。

「あなたは放っておくと夜食べないことが多かったよね」

「・・・・・・そうだっけ」

「うん。だから子どものこととかすぐにあなたに相談したいときでも、あなたに食事させるまでは我慢してたんだよ。そうしないとあなたは相談を真面目に聞いてくれるのはいいんだけど、相談に夢中になって食事を忘れちゃうから」

 いまさらそんな話を微笑みながら言われても困るし、同時に全く自分の心には響いてこない。懐かしさすら浮かんでこないのだ。

 当然とは言えば当然だった。

 僕には今では理恵がいる。麻季は僕たちは離婚協議中だけど、お互いにまだ愛し合っているというようなことを言った。でも僕の愛情はもう麻季には向けられていない。

 そして麻季だって鈴木先輩と再婚するのではなかったのか。僕のことを愛しているのならそんなことをするわけがない。麻季が普通の女なら。

 そう普通の女ならそうだ。

 でも麻季は、少なくとも今の状態の麻季は普通ではないのかもしれない。

 僕はとりあえず奈緒に対する麻季の気持について棚上げして、根本的な疑問から解消してみようと思った。

「まあせっかく注文してくれたんだから食べるよ。でも時間も遅いし食べながら話そう」

 僕は麻季を宥めるように微笑んでみた。まるで言うことを聞かないわがままな子どもをあやすように。

「ちゃんと食べてくれる?」

 麻季が顔をかしげて言った。それはかつてはよく見た見覚えのある可愛らしい仕草だった。

「君が家を出て行ったのってさ」

 食欲は全くなかったけど、無理に食べ物を口に運んでから僕は切り出した。

「うん」

 普通は緊迫する場面だと思うけど、どういうわけか麻季は食事をする僕の様子をにこにこしながら見守っている。

「やっぱり僕とじゃなくて、鈴木先輩と家庭を持ちたいと思ったからなんでしょ?」

「違うよ」

 あっさりと麻季は答えた。

「大学で初めて博人君と出会ってから、わたしが本当に好きなのは昔から今まであなただけよ。だから、わたしが一緒に暮らしたいのもあなただけ」

「あのさあ」

「もちろん、一度は雄二さんと過ちを犯したのは事実だけど・・・・・・。でもあのときだって本当に愛していたのは博人君だけ。あのときはそんなわたしを博人君は許してくれたよね」

 もう麻季には未練の欠片もないはずなのに、麻季が先輩のことを雄二さんと呼んだことに少しだけ胸が痛んだようだった。

「だって再婚する予定なんだろ? 鈴木先輩と」

「うん。でも雄二さんと連絡を取り出したのは最近だよ。家を出て行ったときはメールさえしていなかったし。最近会うようになるまでは、彼と会ったのはあなたと二人で奈緒を引き取りに行ったときが最後」

「それは変じゃない? 君は児童相談所に押しかけてきただろう。自分が見捨てた子どもたちを返せってさ。そのときは男と一緒だったって聞いたんだけどな」

 いまさら彼女の心変わりなんか批判するつもりなんかなかったのに、僕は思わず麻季を非難するような言葉を口にしてしまった。

「うん。でもそれ雄二さんじゃないから」

 麻季は落ちついて言った。

「・・・・・・誰なの」

「あなたと神山先輩が居酒屋でキスしてたときにわたしと一緒にいた人」

「どういう人なの」

「よくわからないの。どっかのお店で声をかけられただけだから。名前もよく覚えていない」

「・・・・・・手当たり次第ってわけか」

「そうかも。今は雄二さんだけだけど」

 麻季に真実を白状させようとした僕は、思わぬ彼女の話に自分の方が混乱してしまった。

 家を出る前からか出た後かはわからないけど、麻季は複数の男と遊んでいたようだ。

「・・・・・・何で子どもたちを何日も放置したまま家を空けた?」

 僕は力なく言った。もう上手に彼女から考えを引き出す自信なんて消え失せていた。

 以前と全く変わらない様子で僕を見つめて微笑んでいる麻季は、僕の妻だった頃の麻季ではないことはもちろん、大学の頃の不可解な麻季ですらなかったようだ。

 麻季のしたことを許せはしないまでも、事情を聞けばその行動が少しでも理解できるだろうと思っていた僕が甘かったようだ。

「口がお留守になってるよ。もっとちゃんと食べないと」

「食べるよ・・・・・・だから答えてくれ」

「ちょっとだけあなたを愛し過ぎちゃったからかな。わたしを放って家を空けた博人君にも原因があるのよ」

「寂しかったからとか陳腐な言い訳をするつもり?」

「あなたがいなくて寂しかったのは事実だけど、それだけじゃないの。わたしも努力したんだけど我慢できなくなって」

「抱いてくれる男がいなくなって我慢できなくなったってことか」

 思わず情けない言葉を口にした僕はそのことに少しだけ狼狽した。

「何度でも言うけど今でも昔と変わらずにあなたのこと愛してる。いえ、会えなくなった分、昔より何倍もあなたが好きかも」

「わかんないな。僕のことを愛しているなら何で男を作って家出することになるんだよ」

「だから最初に言ったでしょ。奈緒のこと」

 僕はもう麻季を問い詰めることを諦めて、彼女に好きに喋らせることにした。

 今夜は帰れないかもしれないな。腕時計をちらっと見て僕はそう覚悟した。

 やがて麻季が微笑みながら話し出した。