奈緒人と奈緒 第3部第3話
確かに博人は麻季のことを大切に考えているようで、それから彼は麻季を抱けないことをずっと耐えているようだった。
彼はその夜から全く麻季に手を出そうとしなくなった。
博人には思いも寄らないことだろうけど、耐えていたのは麻季も同じだった。麻季の場合、セックスがないだけならまだ耐えられたかもしれない。
でもあの夜以来、博人は自分から麻季の身体に触れないようになった。多分、抱きしめたり、キスしたりした後の自分の衝動に自信が持てなかったのだろう。
今では、ハグやキスといった夫婦間のコミュニケーションは、全て麻季の方からするだけになり、彼はそんな麻季に軽く応えるだけだった。
全部自業自得だ。博人君は自分を抑えてくれている。
そう理解はしていたけど、彼女の方もそろそろ限界に来ていた。
ある夜、寂しさに耐えられなくなった麻季は、博人に甘えるように彼に寄り添った。いつもの軽いキスとかでは済まない予感がする。
その夜の麻季は、まるで恋人同士だった頃に時間が戻ったみたいに博人に甘えた。麻季はもう我慢ができなかったのだ。
それは決してセックスだけのことではない。麻季にとっては、博人との肉体的な接触が激減したことが不安で仕方がなかった。
そういう麻季の気持を正確に理解したように、博人はいつもと違って真剣な表情で麻季を強く抱き寄せようとした。
『拒否しなさい』
またあの声だ。
『もうやだよ。一度は拒否したんだからもういいでしょ。拒否しても博人君はわたしのことを嫌わなかった。博人君の気持はもうこれで十分にわかったんだし』
『やり始めたことは中途半端にしちゃいけないね。一度拒否するくらいで彼の気持が理解できるくらいなら、何も鈴木先輩と寝ることなんかなかったじゃん』
『だって・・・・・・』
『だってじゃない。君だってわかってるんでしょ。彼の愛情は、単に一回セックスを拒否した程度じゃ試せないって』
『わたし、博人君に抱かれたい。彼に好きなようにさせてあげたいの』
『博人君の気持を知るためだけじゃない。ここで流されたら、怜菜に博人君を取られるかもしれないんだよ』
『そんなこと』
『さあ勇気を出して』
「やだ・・・・・・。駄目だよ」
結局、このときも麻季は心の中の声に従ったのだ。
このときの麻季は可愛らしく博人の腕の中でもがいたので、夫はそれを了承の合図と履き違えたようだった。
しつこく体を愛撫しようとする博人の手に、麻季は微笑みながら抵抗していたから。このままでは埒が明かない。
『博人君を押しのけないと』
麻季の服を脱がそうとした博人は、突然麻季によって突き飛ばすように手で押しのけられた。
一瞬、博人は呆然としたようにその場に凍りついた。
そのときの博人には、ひどく傷つけられた自分の感情を隠す余裕はなかったようだった。
麻季は再び博人の愛撫を拒絶したのだ。
「ごめん」
それでも博人は麻季に対して謝罪した。
何でもないことのように見せようとしているらしいけど、震えている声が博人の彼女を思いやろうとする意図を裏切っていた。
「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよね。悪かった」
「わたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」
「いや」
「・・・・・・口でしてあげようか」
麻季が言った。それは心の声とは関係なく、思わず彼女の口から出た言葉だった。
その言葉に博人は黙ってしまった。
「もう寝ようか」
ようやく博人が口にした言葉は、結婚してから初めて麻季が聞くような冷たいものだった。
博人の冷たい口調に麻季は混乱して泣き始めた。
「悪かったよ」
麻季の涙を見て後悔したように、博人は冷たい口調を改めて言った。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあんなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」
麻季は俯いたままだった。
『先輩との浮気を告白するなら今がチャンスだね』
『わたし、これ以上博人君に嫌われたくないよ』
『博人君を信じようよ。博人君は君を愛している。きっと君の浮気を許すだろう。そうしたら君の悩みの一つはそれで解決でしょ。これでもう二度と君は彼の愛情を疑うことはないだろう』
『・・・・・・・わたし恐い』
『勇気を出しなよ』
『だって』
『まず博人君の愛情を確認しようよ。それから親友だった怜菜の感情を探らないとね。知りたいんでしょ? そして安心したいんでしょ』
『あんなことを告白しちゃったら、わたし博人君に捨てられるかも』
『大丈夫だよ。むしろ、このまま何も手を打たないと怜菜に博人君を取られちゃうよ』
麻季はまたその声に従ったのだ。
「ごめんなさい。謝るから許して。わたしのこと嫌いにならないで」
「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れてるっ
てわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」
「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」
「わかってるよ。落ち着けよ」
混乱している彼女をなだめるように博人は言った。
「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」
「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理ならもう二度と迫ったりしないから」
「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」
混乱した声で麻季は鈴木先輩と寝てしまったことを話し始めた。
「・・・・・・え」
博人は予想すらしてなかった麻季の告白に凍りついた。
「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから許して」
このときは、いろいろとつらい思いをしたのだけど、結局のところ麻季は博人の愛情を確信することができた。
鈴木先輩との浮気を告白した彼女に対して、博人は最後には許してやり直そうと言ってくれたのだ。
博人の愛情を確認するという意味だけを取り上げれば、あの声のアドバイスは正しかったのかもしれない。
ただ、その愛情の対象のどこまでが彼女に対するものなのかはわからない。奈緒人があのとき初めて立って歩き出さなければどうなっていたのだろう。
また、博人の愛情を再確認したその代償も大きかった。
博人の愛情を確信した以上、もう麻季は博人に抱かれてもいいはずだった。
でも麻季の浮気を許して彼女の自分への愛情を信じてくれたはずの博人も、一度鈴木先輩に抱かれた麻季の身体を抱くことができなくなってしまった。
もうあの声も反対しなかったので、麻季は積極的に博人を誘惑した。
そういうときは博人もそれに応えてくれようとしするのだけど、やはり博人は最中に萎えてしまい、彼女を抱けなくなってしまう。
麻季は夫が自分を抱けなくなったという事実に狼狽したけれど、もちろんそれは自業自得というものだった。
それでも肉体的な問題を除けば、麻季は幸せで多忙な日々を送ることができた。
彼女には奈緒人がいる。
博人が彼女を許した理由の大半は奈緒人絡みなのかもしれないけど、そのことはあまり彼女を傷つけはしなかった。
奈緒人は二人の分身だった。そして二人を繋ぎとめる絆でもある。
奈緒人の成長ぶりを博人と話しているとき、彼女は博人に抱かれて喘いでいるときと同じくらいの充足感を感じた。
『麻季?』
鈴木先輩から電話がかかってきたのは、博人が不在の夕暮れのことだった。
着信表示には「鈴木先輩」という文字が浮かび上がっていた。
あれから結局、麻季は先輩とメールのやりとりを再開してしまっていた。
再び鈴木先輩と関係を持つ気は全くなかったが、怜菜の件はまだ未解決だった。
そのことを例の声に指摘され、麻季はしぶしぶと先輩に気のある素振りを装ったメールを返信していた。
怜菜が先輩の携帯をチェックしているかもしれないからね。そうあの声が言ったせいだった。
「メール以外で連絡しないでって言いましたよね?」
「わかってる。ごめん。でもそんなことを言っている場合じゃないんだ」
偶然再会してから、いや大学時代に先輩と知り合ってから、初めて聞くような切羽詰った声だった。
「何なんですか。もうすぐ博人君が帰ってくるんですよ。話があるなら早くして」
博人君が帰宅したときは抱きついてキスして、それから奈緒人を彼に抱かせて迎えてあげたい。
そういうささやかな幸せを、鈴木先輩ごときに奪われたくない。
それにこれ以上博人君に誤解されるのもまずい。麻季はそう思って冷たく答えた。
「悪い・・・・・・。でも僕よりも麻季に関係することだから」
「いったい何があったんですか」
「そのさ。すごく言いづらいんだけど」
「もったいぶらないで早く言って」
「麻季って太田怜菜さんと知り合いだったよね」
何が太田怜菜さんだ。あんたは独身だってわたしには言っているけど、彼女はあんたの奥さんじゃない。正確に言うと鈴木怜菜でしょ。
そう麻季は思ったけど、今さら先輩の嘘を咎める気はなかった。今はとにかく早くこの電話を切りたい。急がないと博人君が帰ってきてしまう。
「偶然に知ったんだけど・・・・・・。君の旦那と怜菜さんって浮気しているみたいだぜ」
一瞬、麻季の周囲の世界が停止した。
「もしもし?」
「ふざけないでよ! いったい何の根拠があって」
「いや。喫茶店で結城と怜菜さんが、二人きりで親密そうに話をしているところを見ちゃったんだ」
場所は博人の編集部の近くにあるクローバーという喫茶店。
その店の名前には聞き覚えがあった。打ち合わせでよく使う店だと博人が話してくれたことがある。
先輩はそこで親密そうに顔を近づけて、何やらひそひそと密談めいた様子で、話をしている博人と怜菜を見かけたのだという。
「僕も二人に見つかったらまずいと思ってすぐに店を出たんで、その後二人がどうしたかはわからない。ひょっとしたらホテルにでも」
先輩はひどく動揺している様子だった。
自分の妻が後輩と密会しているところを発見したのだとすると無理はない。
先輩は乱れた声で何か続けていたけど、もう麻季にはその声は届かなかった。
『やられたな。だから言ったじゃない。怜菜は麻季の敵だって』
『まだ博人君の浮気だって決まったわけじゃないでしょ!』
『先輩は嘘は言っていないと思う。怜菜に浮気されて動揺しているみたいだし。大方、自分のことは棚に上げて怜菜を疑って尾行でもしたんじゃないかな』
『・・・・・・待って。クローバーは同業者の人たちがいつも打ち合わせで使っている喫茶店だって博人君は言ってた。そんなところで密会なんかしないでしょ』
麻季は必死だった。心の声にもそれに同意して欲しかったのだ。
『かえってばれない場所だと思ったのかもよ。怜菜も博人も音楽関係の仕事をしているじゃない? 誰かに見られたって打ち合わせだと言い訳すれば誰も疑わないだろうし』
『やだ・・・・・・そんなのやだよ』
『落ちつきなよ。まだ君は負けた訳じゃない。先輩は女にだらしないくせに、怜菜に関しては自分への貞操を要求するようなクズだからさ。きっと前から怜菜のことは気にしていたと思うんだ。だけど、先輩の慌てている様子からすると、これまではそんな様子はなかったみたいだし、怜菜と博人が二人きりで会ったのはこれが最初だと思うよ』
「麻季? 俺の話聞いてる?」
「・・・・・・うん」
「君にショックな話をしちゃってごめん。でも君が結城に騙されているままでいることがどうしても我慢できなくて」
麻季は先輩の話を聞き流しながら、心の声に聞いた。
『博人君と怜菜は何を話していたんだろ』
『怜菜は旦那に浮気された被害者を装って、博人君の同情を買うと同時に、君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君に思わせようとしたんでしょ。そして怜菜は今、お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに、不倫された同士が恋に落ちるなんていう筋書きを実行しようとしているんだと思うよ。いずれにしてもまだこの二人は出来てない。安心しなよ』
「君の親友である怜菜と浮気するようなひどい男のことなんて忘れたら? 僕なら君を悲しませたりしない。それに奈緒人君のことだって責任を持って育てるよ」
さっきまで他人を装って怜菜さんと呼んでいた彼女のことを、先輩は怜菜と呼び捨てした。彼も動揺しているせいか、呼び方まで気が廻らず、つい普段どおりに怜菜と呼び捨ててしまったのだろう。
『わたし、どうすればいい? また先輩の言うとおりにするの?』
『バカかあんたは。私はあんたと先輩の仲を取り持っているわけじゃない。今は先輩なんて放置しなよ。つらいだろうけど、怜菜のことはなかったように、博人と仲のいい夫婦を続けなきゃだめでしょ。まだ、博人の気持は君のもとにある。怜菜なんかにはまだ取られていない。だから我慢してこれまでどおりに暮らすんだよ。ここで揺らげば本当に怜菜に負けちゃうよ』
『・・・・・・うん』
『できるね?』
『やってみる』
博人の態度はその後も変わらなかったし、日常の素振りからは、彼が浮気をしているような様子は全く覗えなかった。
そして、彼はますます麻季に対して優しく接してくれるようになった。
麻季は心の声に従って、必死に博人との生活を再建しようとしていた。
怜菜と博人君が二人で会ったことが本当だとしても、彼は怜菜の誘惑に乗らなかったのではないか。
そしてそのことを麻季に話さなかったのは、彼女を動揺させまいとしているからなのではないか。
だんだん麻季はそう考えるようになった。それほど博人との生活は穏かで愛情に溢れたものだったし、疑り深い心の声でさえ、『麻季は怜菜に勝ったのかもしれないね』と時折呟くようになっていた。
そういう穏かな日々の積み重ねがしばらくは続いた。・・・・・・怜菜の訃報を多田先輩から聞かされるまでは。
お通夜は今夜だそうだ。
斎場の場所と時間だけを告げると、多田先輩は他の皆にも伝えなくちゃと言い残して早々に電話を切った。
麻季は構ってもらおうと彼女にまとわりついて来る奈緒人の相手をしながら、クローゼットの奥から喪服を取り出した。ワンピースの喪服と黒のストッキング。真珠のネックレス。香典を包む袱紗。
全く現実感がないせいか不思議と悲しみも動揺も感じない。親友だった怜菜を失ったというのに。
まさか、自分はこれで博人を巡る怜菜との確執に決着がついたと内心喜んでいるのだろうか。そうだとしたら最悪の人間性だが、どうもそういうことでもないみたいだ。
悲しみは感じていないが、喜びもまた感じない。ひたすら心が凍結し、感情が鈍くなり、感度が低下している。無理に表そうとすればそういう感じだった。
無感動のまま麻季は必要な支度を終えた。
多田先輩から教わった怜菜の通夜の会場は自宅からそんなに離れてはいないけど、時間的にはあまり余裕がない。
奈緒人をどうしようか。
麻季は博人の携帯に何度も連絡をしてみたけど返事がなかった。
喪服に着替え終えた麻季が姿見で服装をチェックしていたとき、ドアのロックがはずれる音がして博人が帰ってきた。こんなに早い時間の帰宅は珍しい。
「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだもん」
普段どおりの冷静な声。まるで自分ではなく他人の声のようだ。
「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよりその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」
「博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これからお通夜に行きたいだけど」
「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」
「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」
「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」
知っているも何もない。突然亡くなったのはあなたも知っている怜菜だよ。
でも今さらそんなことを言ってもしかたないし、そんな場合でもない。
博人は怜菜に会っていたことを、彼女に話さなかった。そのことを怜菜の葬儀の日に追求するつもりはなかった。
「博人君は知らないと思う。わたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子。太田怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」
感情が鈍っているときでなければ、こんなに冷静に嘘はつけなかったろう。
博人は驚いたような表情で目を見張った。やがてその目に涙が浮かんだ。
麻季は心を動かされずに、何重ものフィルターを通しているかのように、ぼんやりと博人の涙を眺めていた。
「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」
「・・・・・・やっぱり送って行く」
「わたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」
「連れて行く。君が帰ってくるまで、車の中で奈緒人に食事させて待ってるから」
「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」
「とにかく一緒に行こう。僕も外で手を合わせたいから」
博人は奈緒人と一緒に斎場の駐車場で待っているそうだ。
麻季は車を降りて入り口の方に歩いて行った。入り口に黒々とした墨字で太田家と書いてあるのは何でだろう。怜菜は先輩の奥さんなのだから鈴木家と記されているべきではないか。
「麻季」
斎場に入ると人で溢れている入り口のロビーに川田先輩がいた。
「先輩」
「ちょうど始まったところだよ。一緒に並ぼう」
麻季は川田先輩と一緒に焼香を待つ列の後ろについた。並んでいる黒尽くめの人の列のせいで、祭壇や親族席の方を覗うことはできない。
「交通事故だって。怜菜、まだ若かったのに」
川田先輩がくぐもった声で麻季にささやいた。
「お嬢さんを庇って暴走した車にはねられたそうよ。お嬢さんだって小さいのにね」
「・・・・・・怜菜って子どもがいたんですか」
麻季の声が震えた。
「そうよ。鈴木先輩もさぞショックでしょうね」
列が動き出した。始まると早かった。少しして麻季は列の先頭に立った。
親族席に頭を下げたとき、麻季は絶望的な表情で親族に混じって座っている鈴木先輩と目が合った。頭を下げた麻季に応えて怜菜の家族や親族たちもお辞儀をした。同じように頭を下げた先輩は、もうそれ以上は麻季と目を合わそうとはしなかった。
祭壇の中央には怜菜の写真が飾られていた。
怜菜の通夜や葬儀にあたって、怜菜の両親ががどうしてその写真を選んだのかはわからない。
写真の中の怜菜は、生まれたばかりの自分の娘を大切そうに抱いて、カメラに向って微笑んでいた。その微笑は、かつてキャンパスで麻季の横に立って彼女に向けてくれたものと同じ微笑だった。
「ちょっと話していかない?」
香典返しを受け取ってそのまま斎場を後にした麻季に、先に外に出ていた川田先輩が話しかけた。
「怜菜の知り合いがいっぱい来ているの。サークルの人たちとか。少し話をして行こうよ」
「ごめんなさい。息子が待っているので」
「そうだよね、ごめん。あたしは娘を旦那に任せてきたけど、結城君ってマスコミに勤めてるんだもんね。そんなに簡単に帰っては来れないね」
「教えていただいてありがとうございました」
「うん。あんまり気を落すんじゃないよ。怜菜のことは本当に悲しいし悔しいけど、彼女は大切な娘を守ったんだもん。決して無駄には死んでないんだから」
もう無理だった。ここまでは心が氷ついていたせいで痛みすら感じなかった麻季だけど、だんだんと彼女の精神が、彼女の秩序が崩れていくみたいだ。
「怜菜って離婚したはずだけど、何で鈴木先輩が親族席にいたんだろう」
「怜菜、離婚したんですか?」
「うん。出産する前に離婚したって聞いたけど」
麻季にとって初耳な情報だったけど、あまり驚きはなかった。
麻季と鈴木先輩の不倫に気がついたからか。それともあの声が言うように、博人のことが好きで、離婚して身軽になって何らかの行動に出るためだったのか。
「鈴木先輩もつらいでしょうけど、ナオちゃんの育児とかしなきゃいけないだろうし、それで気が紛れてくれればいいんだけど」
川田先輩がそっと言った。
「怜菜の子どもってナオちゃんて言うんですか」
「うん。奈良の奈に糸偏に者って書くみたい。ってあれ? ・・・・・・奈緒人君の名前に似てるね」
「・・・・・・失礼します」
麻季はもう川田先輩の方を見ることもなく駐車場に向って歩き始めた。あっけにとられたように川田は彼女の後姿を眺めていた。
博人が待つ車に戻ると、麻季は普段奈緒人と並んで座る後部座席ではなく、助手席のドアを開けて車内に入った。
博人は運転席にぼんやりと座ったまま、半ば身体をねじるようにして、後部座席のチャイルドシートで寝入ってしまった奈緒人をぼんやりと見つめていた。
「何で?」
「何でって?」
「何で親族席に鈴木先輩がいたの」
「・・・・・・とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」
「博人君は何か知っているんでしょ。何でわたしに教えてくれないの。親友の怜菜のことなのに」
助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。凍りついた感情が突然融解したようだった。
怜菜の死と彼女に娘がいたことが、それほどショックだったのだろうか。その子の名前は奈緒というのだ。
「車を出すよ」
「奈緒って、奈緒って何で? 怜菜はいつ子どもを産んだの。何でその子は奈緒っていう名前なの」
博人は車中では何も喋らなかったし、自分が怜菜を知っていたことへの言い訳すらしなかった。
麻季が泣いたり悩んだりしているときには、いつも彼女を気にして慰めてくれた彼とは全く別人のようだ。
帰宅してから、目を覚ました奈緒人を風呂に入れ寝かしつけるいつもの麻季の仕事は、全て黙って博人がした。
その間、麻季は身動きせず着替えもしないままリビングのソファに座ったままだった。
「奈緒人は寝たよ」
博人はそう言って麻季の向かい側に座った。
博人が麻季の隣に座らないのは、彼女の浮気を知った日以来初めてだった。
「何か食べるなら用意するけど」
麻季にはもう夕食の支度をする気力は残っていなかった。
一応、彼女のことを気遣って博人はそう言ったけど、彼自身も彼女の返事を期待している様子はなかった。
「君は鈴木先輩との浮気を僕に告白したとき鈴木先輩は独身だって言ってたけど、鈴木先輩と怜菜さんが実は夫婦だったことは本当に知らなかったの?」
このときあの声がまだ麻季の頭の中で響いた。
『知らなかったって言わないと。ここで知っていたなんて言ったら、君は本当に博人に捨てられちゃうよ』
『先輩が独身でも既婚でもわたしが不倫したことに変わりはないよ・・・・・・』
『ばか。そんなことじゃない。怜菜のことを承知で彼女の夫と不倫したことを知られたらまずいって言ってるのよ』
『あんたが唆したんでしょ!』
『今そんなことを言ってる場合じゃないでしょ』
「先輩は独身だと思ってた・・・・・・さっき知ってショックだった」
「そうか。じゃあ怜菜さんが鈴木先輩と離婚していたことも知らないだろうね」
「知らない」
少なくともそれだけは本当だ。
「怜菜さんに子どもがいたことも?」
「さっき知った」
麻季は帰宅してから初めて、うつむいた顔を上げ博人を見た。
「ねえ。あなたは怜菜と知り合いだったの?」
「正直に話すと、怜菜さんとは仕事の関係で二人で会ったことがあった」
博人は言った。その態度は麻季の反応を思いやるというよりは、どちらかと言うと投げやりな様子に見えた。
麻季は学生時代から意識して、怜菜を博人に紹介しないようにしてきた。それなのに博人はあっさりと、彼女に黙って怜菜と会っていたことを認めたのだ。
「そこで全部聞いたんだ。怜菜さんが鈴木先輩の奥さんであることとか、彼女が先輩の携帯を見て君との浮気を知ったこととかね」
「怜菜さんは先輩が自分が独身だと偽って君を誘惑していることを知った。でも彼女は麻季のことは恨んでいないと言っていたよ」
「博人君・・・・・・。何でわたしに怜菜と会ったことを話してくれなかったの?」
「僕はショックを受けていたからね。君は鈴木先輩とはもう連絡しないと言っていた。でも怜菜さんが先輩のメールのログを見せてくれた。君はあの後もずっと先輩とメールをしていたんだね」
思わず麻季は言い訳をしようとしたけど、博人の冷たい、なげやりな表情を見て。その言葉は彼女の喉の奥に引っ込んでしまった。
今は切実にあの声のアドバイスが欲しかった。でもこういうときに限ってその役立たずの声は沈黙していた。
もう耐えられなかった。彼女はついに聞いた。
「博人君は怜菜のことが好きだったの?。怜菜は博人君のことを好きだと告白した?」
「うん。僕は彼女に惹かれていた。彼女も僕のことが大学時代から好きだったと言ってくれた」
それから博人は怜菜と関係を話し出した。
もう彼はその話が麻季にどう受け取るかなんて全く気にしていないようだった。怜菜の死に衝撃を受けたのは麻季だけではなかったのだ。
もしかしたら、怜菜の死に関しては、博人の方が麻季よりもずっとショックだったのかもしれない。
彼はもう何も麻季に隠し事をしなかった。
博人は、怜菜が自分が博人の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後に怜菜から会社に届いたメールの内容も詳しく話した。
博人自身も怜菜に惹かれていたこと、怜菜が自分の妻だったら幸せだったろうと考えたことがあることも。それでも怜菜が博人と麻季の復縁を応援してくれていたことも。
そのつらい告白を聞いて動揺した彼女の頭にようやくあの声が響いた。
『怜菜を救ってあげられなかった絶望に博人は悩んでいるんだね』
『今の彼は、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことだけを考えているんだと思う。正直、君と先輩のことなどどうでもよくなっちゃってるみたい』
麻季は泣き出した。
いつもと違って泣き出した麻季を博人はぼんやりと見ているだけだった。まるで泣き出した彼女を通り越して、その先にいる怜菜の幻影を追い求めているように。
「何で怜菜はわたしを責めなかったの? 怜菜はあなたが好きだったんでしょ。あなたもそんな怜菜に惹かれていたんでしょ。何で怜菜はわたしからあなたを奪おうとしなかったの。わかんないよ。わたしにはわかんない」
「さあ。もう彼女に聞くこともできないしね」
博人は自分と怜菜のことを話し終えてしまうと、それ以上何も言おうとしなかった。麻季の苦悩にすら無関心のようだった。
それでも結局、博人は怜菜への想いを、麻季は先輩との過ちと怜菜を裏切った後悔を、互いに告白しあい、その上でお互いに一からやり直す道を選んだのだ。
ただ、正直に言えば奈緒人がいなかったとしたら、二人がその道を選択したかどうかはわからなかった。
博人は少しするとまた以前のように優しい夫に戻ったけれど、そんな彼の態度にもう麻季は何の幻想も抱いてはいなかった。
この家族が新婚時代や奈緒人が生まれた頃のような、何の疑問もなかったあの頃に戻っていないことは明白だった。
その原因はやはり怜菜にあると麻季は考えた。浮気をした彼女を博人は許したのだけど、その許容自体は偽りではないと思う。そしてあのときやり直そうと言ってくれた博人の優しさも嘘ではなかったはずだ。
そう考えて行くと、現在の家庭の破綻の原因は、麻季の浮気ではなく怜菜が博人君に告白めいたことを話したせいだ。麻季にはそうとしか考えられなくなっていた。
心の声は結局正しかったのだろう。怜菜にとっては夫である鈴木先輩と、親友の麻季との浮気はつらいことでもなんでもなかったのだ。怜菜にとってそれはチャンスそのものだった。
その証拠に怜菜は全く鈴木先輩を責めることをせず、博人を呼び出して自分の学生時代からの彼への愛情を曝露したのだから。
怜菜にとって誤算だったのは自らが死んでしまったことだった。怜菜が事故に遭わなかったとしたら、今頃麻季は博人に捨てられていたかもしれない。
『そうだろうね。怜菜は君と先輩がメールのやり取りをしているなんて余計なことを博人に言いつけたんだしね』
『やっぱりそう思う?』
『うん。下手したら博人と怜菜は今頃再婚していたかもしれないよ。それで奈緒人と奈緒を仲良く二人で育てていたかも』
想像するだけで気が狂いそうなほどつらい話だった。
それでも怜菜は死んだ。
彼女の目的は意図しない自分の死によって阻止されたのだ。いつまでも死んだ怜菜に嫉妬したり、彼女を恨んでいる場合ではなかった。死人に嫉妬しても何も解決しない。
怜菜の想いは中途半端に博人の記憶に残ったけど、その想いに将来はないのだ。
少なくとも麻季と博人には奈緒人がいた。二人は怜菜の死の記憶を封印するように、再度この家庭を維持することを選んだ。
表面的には二人の仲は以前より安定しているようにも思えた。いまさら悩んでも得ることはない。そう悟った麻季と博人は、だんだんと以前の安定した生活を取り戻していった。
鈴木先輩から電話があったのは、博人が奈緒人を連れて公園に遊びにいている休日のことだった。
「久し振り」
先輩が電話の向こうでそう言った。
「・・・・・・もう電話してこないでって言ったでしょ」
「わかってる。君を騙していたことを一言謝りたくて」
「もう、どうでもいいよ。そんなこと」
「君を騙すつもりはなかったんだけど、何となく怜菜と結婚しているなんて君には言い出しづらくて」
「気にしてないよ。今となってはどうでもいい」
「怜菜の子どもの名前聞いた?」
「奈緒ちゃんでしょ。知ってるよ」
「結城のガキの名前から娘を命名するなんてあいつは気違いだよ。いくら結城のことを好きだからって、怜菜からこんな仕打ちを受けるいわれはないよ」
「結城のガキってわたしの大切な息子のことを言っているわけ?」
「悪い。でも俺は純粋な被害者だよ。怜菜に裏切られたうえに勝手に死にやがって。浮気相手のことを想って命名された娘を、俺は押しつけられてるんだぜ」
「何があったとしても自分の子どもでしょ」
「ああ。そうだな。最初はそれすら疑ったよ。DNA鑑定までした。結果は結城じゃなくて俺が親だったけどな。こんなことならあんな女のことなんか久し振りに抱くんじゃなかったよ」
「さっきから聞いていると先輩だけが一方的に被害者みたく聞こえるね」
「麻季だって浮気されたんだぜ。おまえも俺も被害者じゃないか」
「・・・・・・博人君と怜菜は浮気なんてしていなかったよ」
「そうかな。今にして思えば怜菜のやつ、やたら麻季の話をしてたもんな。麻季が保健所によく子どもを連れて健診や相談に来るとか、麻季の家はどこにあるとか、あのスーパーに毎日買物に来てるとかさ。俺の麻季への気持を知っていて俺のこと、けしかけてたんだろうな」
「話はそれだけ?」
「麻季だってあのガキ、じゃなかった君の息子の名前から命名された怜菜の娘のことが気になるだろうと思って電話したんだよ。鑑定結果がそういうことなんで認知はしたけど、引き取る気はないんだ」
「わたしには関係ない」
「・・・・・・わかったよ。俺だってもう麻季をどうこうしようなんて思ってないよ。もう昔の大学時代の女なんてこりごりだ。こんなことなら身近なオケの中で調達しておけばよかったよ。もう連絡なんかしねえよ。じゃあな」
その後の生活の中で、博人は怜菜や奈緒のことなんか一言も口にしなかった。本当に全く一言も。
それなのに、ある日麻季が奈緒を引き取りたいと思い切って博人に相談したとき、ほんの一瞬だったけど、確かに博人の表情が明るくなった。怜菜の死以降、そんな彼の表情を見るのは初めてだった。
一瞬だけ嬉しそうな表情を見せた博人は、すぐに顔を引き締めた。そして他人の子を引き取って育てることの難しさや、どれほどの覚悟がそれに必要かを延々と話し始めた。
麻季はそんな彼の言葉を真剣に聞いて考える振りをしていたけど、頭の中ではそんなものは聞き流していた。
博人君は格好をつけているだけだ。
本当は怜菜の忘れ形見を引き取れることが嬉しくてたまらないのだろう。
それでも怜菜と博人との淡い恋情を麻季に告白してしまった彼には、自分からそのことを申し出ることが出来なかったのだ。
だから、いろいろと難しいことを言ってはいても、麻季が奈緒を引き取りたいと言ったことを彼は本当に喜んでいたのだろう。
何で自分が奈緒を引き取らなければいけないのか、麻季にはよくわかっていなかった。ただ、例の声のアドバイスに従っただけだったから。
『こんな表面だけを取り繕った夫婦生活をずっと続けるつもり?』
声はいつでもそう話す。博人君が家にいるときには麻季はそれなりに彼のことを信じられた。だけど、博人君不在で家にいるときに麻季はいつも不安に襲われる。そういうときを狙ったように心の中で声が話し出す。
『怜菜が死んでもまだ終ってないんだよ。先輩との浮気で始まったこの作戦はさ』
『作戦とか言うな。もう先輩とも本当に終ったし怜菜も死んだの。これ以上続けることなんてないよ』
『あるよ。まだ奈緒がいる。怜菜の意図なんてまだ何にもわかっていないのよ』
『わかってるよ。怜菜は博人君と結ばれようとしてたんだよ。でも彼女が死んじゃってそれは終ったのよ』
『そんな単純なことじゃないと思うけどなあ。だって、実際博人君の心は怜菜に持ってかれちゃったままじゃん。だから何にも終っていないんだよ』
『それは』
『君は奈緒人のためにだけに、表面だけ取り繕ったようなこんな夫婦生活をこの先ずっとやっていけるの?』
『わたしと博人君はそんなんじゃない』
『奈緒を引き取ろうよ。博人だって喜ぶし。もうそれくらいしか君に出来ることはないよ。それでも出来ることはしておこうよ』
このときも結局、麻季はその声に負けた。
次の週末、麻季は博人の運転する車に乗って降りしきる雨の中を、奈緒が預けられている乳児院を併設した児童養護施設に向った。
奈緒を引き取った一時期、怜菜の意図に不安を覚えて博人と言い争いをしてしまったこともあったけど、それがかえってよかったのかもしれない。
お互いに不安や不満を吐き出したことによって、麻季の不安は収まった。それが端緒になって、二人の理解も深まり和解することができた。
博人は再び麻季を抱けるようにもなった。こうして夫婦の危機は収まったのだ。
容姿と性格だけを取り上げてみれば、奈緒は本当に可愛らしい女の子だった。
麻季のお腹を痛めた子どもは男の子だったから、これまで娘が自分の手元にいることなんて思ったこともなかった。
こうして幼い少女を育てていると、ぼんやりとだけどこの子への母親めいた感情が浮かんでくるようだった。
心が安定し、余裕を持って眺めてみると、することなすこと奈緒の仕草は全て可愛い。
麻季は一時期、怜菜の博人への想いを忘れるくらい奈緒に夢中になった。
奈緒を引き取って一緒に暮らし出した頃から、奈緒人は急にしっかりとした子になった。
どちらかというと甘えん坊な息子のことが麻季は大好きだったのだけれど、その息子はいつのまにか母親離れして、今では麻季が助かるほど奈緒の面倒をみてくれるようになった。
それは幸せな日々だった。
もう鈴木先輩も亡くなった怜菜さえも、麻季と博人を脅かすことはなかった。
博人が帰宅すると、麻季と二人の子どもは待ちかねたように、そろって玄関で彼を出迎える。博人に抱きつきたかったのは麻季も一緒だったけど、最近ではその権利はまだ幼い奈緒に奪われがちだった。
そういうとき、奈緒を抱き上げる博人のことを、麻季は怜菜のことなんて微塵も思い出さずに微笑んで眺めていられた。
奈緒人も父親に抱きつく権利を奈緒には喜んで譲ったけれど、そういうとき彼は最近では珍しく麻季に甘えるように抱きついた。それで麻季は、このときだけは早めに母親離れをした奈緒人を抱きしめることができた。
これ以上望むことは何もない。
怜菜と博人の関係を、博人と麻季は誰を傷つけることなく消化し昇華できたのだ。奈緒を幸せな家庭に加えることによって。
あの声は今回も正しいアドバイスを彼女にしてくれたようだった。