奈緒人と奈緒 第3部第2話
博人と結婚して奈緒人が生まれ、麻季は幸せだった。
もうあまり心の中の声が勝手に彼女に指示することもなくなっていて、生まれてはじめて彼女は、平凡だけど安定した生活を送るようになった。
もう二度とあの声が聞こえることはないだろうと彼女は思った。
それくらい育児というのは彼女にとって大変で、しかし幸せな体験だった。
妊娠をきっかけに麻季は佐々木先生の教室をやめた。先生は育児が一段落したらいつでも戻っておいでと、残念そうに彼女に声をかけてくれた。
育児で多忙な麻季だったけど、奈緒人がお昼寝をしたりしているときは、彼女の自由になる時間がある。
そんなとき、麻季はベビーベッドに寝ている奈緒人をぼんやりと見つめていることが多かった。この子は博人君に似ている。
そんな奈緒人を見つめているだけで、自然に育児の苦労も忘れ、彼女の顔には自然に笑みが浮かんだ。
彼女にとっての出産とは、自分の愛する人が無条件で増えたということだった。
怜菜と鈴木先輩の結婚、そしてその披露宴に招待されなかったことについて、彼女はだいぶ冷静に考えられるようになった。
怜菜が何で鈴木先輩とって悩んだこともあったけど、あの心の中の言葉のとおりだとは やっぱり思えない。
例えば、お互いに好きな相手と添い遂げられなかった同士である怜菜と鈴木先輩が、何かの拍子に相談しあい慰めあっているうちに、恋に落ちたということだって考えられるのではないか。
そういうことだって、世の中には決してないことではない。そしてそういうことだとしたら二人が麻季を披露宴に招待しなかったことも納得できる。
先輩だっていくら怜菜の親友だといっても、自分を振った相手を招待するなんてことはしたくないだろう。
ひょっとしたら、怜菜は麻季のことを招待したかったのかもしれない。もう自分は博人への想いを断ち切って、鈴木先輩と幸せになるよって伝えるために、幸せな披露宴の様子を見せたかったのかもしれない。
でも、常識的に考えれば、鈴木先輩が麻季のことを自分の元カノだと信じ込んでいた以上、怜菜も麻季を招待するとは言い張れなかったのも無理はない。
心の声は以前に言った。怜菜は敵だと。そして、彼女は麻季と博人との付き合いを邪魔しようと企んでいるんだよと。
今にして思えば邪推もいいところで、せいぜいよく言っても考えすぎだ。
怜菜と鈴木先輩が結婚したことによって、麻季と博人の仲が邪魔される要素なんかない。
むしろその逆だろう。今度はその声も麻季の考えたことに反論しようとしなかった。
鈴木先輩との思いがけない再会は、麻季が奈緒人を保健所の三ヶ月健診に連れて行った帰り道のことだった。
周囲のママたちと違って、特に仲の良いママ友なんていない麻季は、奈緒人を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。
駐車場に向かう途中の段差でベビーカーを持て余していたとき、一人の男性が黙ってベビーカーに手を差し伸べて持ち上げてくれた。
お礼を言おうとその男性の顔を見た瞬間、麻季は凍りついた。
黙って手助けしてくれた男性は、鈴木先輩だった。同時に彼の方も麻季に気が付いたようだった。
「あれ、もしかして夏目さん?」
「・・・・・・鈴木先輩」
二人はしばらく呆然としてお互いの顔を見詰め合っていた。すぐに先輩は気を取り直したようで、懐かしそうに笑顔で麻季にあいさつした。
「久し振りじゃん。元気だった?」
「うん」
「そういや結城と結婚したんだってね。夏目さんじゃなくて結城さんか」
「先輩は・・・・・・」
怜菜と結婚したんですよね、と麻季は言うつもりだったけど、先輩はそれを質問だと取り違えたようだ。
「俺? 俺は相変わらず寂しい一人身だよ。同情してくれる?」
先輩は麻季の言葉を自分への質問だと間違えたのだった。そして、自分は独り身だと嘘を言った。自分と怜菜の結婚を、彼女が知らないと思ったらしい。
実際、偶然に多田先輩から聞かなかったら、麻季は怜菜と先輩の結婚のことなんか知る由もなかったろう。
いったい先輩は何を考えてそういう嘘を彼女に言ったのだろう。
「夏目さん、じゃなくて結城さん。これから少し時間ない? 久し振りで懐かしいしちょっとだけ話しようよ」
当然、麻季にはそんな気は全くなかった。けれどこのとき再び、久し振りのにの声が頭なの中で響いたのだ。
『いいチャンスじゃん。この際、鈴木先輩と怜菜のことを少し探っておきなよ。それにどうして鈴木先輩が怜菜との結婚を隠しているのかも気になるでしょ』
麻季は好奇心からその声に従うことにした。
「そこのファミレスでお茶でもしようか」
「・・・・・・少しだけなら」
鈴木先輩は学生時代より少し大人びていて、服装も落ちついた感じで格好よくなっていた。
麻季は奈緒人が寝入ってしまっているベビーカーを押して、先輩とファミレスに入った。
ファミレスの店員は、先輩と麻季のことをきっとまだ幼い子どもを連れた若夫婦だと思っただろう。
席について飲み物が運ばれると、先輩は快活に共通の知人たちの消息を話してくれた。麻季は作り笑顔で頷いてはいたけど、その実少しもその話に興味を持てなかった。
彼女にとって興味があったのは怜菜と先輩との関係、そして怜菜の消息だった。
「今は横フィルにいるんだ。ようやく去年次席奏者になれたくらいだけどね」
「すごいんですね」
麻季はとりあえずそう言ったけど、その言葉に熱意がこもっていないことに、先輩は敏感に気が付いたようだった。
「君だって立派に子育てしてるじゃん。とても幸せそうだよ」
「そんなことないです」
「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ正直に言うと、君ほど才能のある子が家庭に入るなんて意外だったけどね」
「わたしには才能なんてなかったし」
「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃうなんてもったいないって」
「・・・・・・わたしはこの子の育児に専念したかったんです」
「いい奥さんなんだね。しかし結城のやつも嫉妬深いというか」
博人の悪口を聞かされて麻季の顔色が変ったことに気がついたのだろう。先輩は言い直した。
「そうじゃないか。愛情が深いってことだね」
取り繕うように笑った先輩は、心なしか少しイライラしているような感じだ。
本当にここで鈴木先輩と出会ったのって偶然なんだろうか。麻季は少し不審に思った。
『やっぱりこれは怜菜の罠だよ。先輩と怜菜が結婚したのは、君への復讐なんじゃないの?』
心の声が響いた。そしてこれまでその声を聞く一方だった麻季は、初めてその声に心の中で反論した。
『そんなの意味不明じゃない。復讐ならわたしに隠すのって意味ないじゃない』
心の声は待っていたとばかりに反論した。
『そうとも言えないんじゃない? 多分さ、先輩はこの後、君のことを誘惑してくると思うな』
『わたしが博人君を裏切るなんてあり得ないでしょ』
『そんなことは言わなくてもわかってるって。でも問題は先輩の方じゃない。怜菜が何を考えてるかでしょ』
『・・・・・・どういう意味よ』
『先輩の考えていることなんてわかりやすいでしょ。君と寄りを戻すっていうか、君のことを抱きたいんでしょ。こういう男が考えそうなことだよね』
『だからわたしがそんなことするわけないって』
麻季の反論を無視してその声は続けた。
『問題はさ、君の言うとおり怜菜が何を考えているかだよ』
『どういう意味?』
「麻季ちゃん、よかったらメアドとか携帯の番号とか交換してくれる?」
「・・・・・・何でですか」
「いや・・・・・・音楽のこととか同窓の友人たちの情報交換とか君としたいと思ってさ」
「わたしは家庭にこもってますから、先輩には何も教えられないと思います」
「それでも情報は大切だよ。僕の方は麻季ちゃんに教えられることは結構あると思うよ」
いつのまにか先輩は麻季のことを、結城さんではなくて麻季ちゃんと呼び出していた。
『怜菜が本当は鈴木先輩のことなんか好きでも何でもなかったとしたら?』
『どういう意味?』
『そして鈴木先輩が執念深くずっと君のことを狙っていたとしたら?』
『先輩がわたしにそんなに執着するわけないじゃん。この人、ただでさえ女にもてるんだし。それに卒業してから何年経ってると思ってるのよ。先輩や怜菜がそんなことのためだけに偽装結婚までするわけないじゃん。結婚とか式とかって、どんだけ費用と労力がかかると思ってるのよ』
『先輩はそんな面倒くさいことは考えないでしょ。問題は怜菜の意図でしょうが』
『どういうこと?』
『前にも言ったとおり怜菜は君の敵だ。先輩は単純に怜菜に惚れただけでしょ。彼女って控え目で可愛らしいしね』
『・・・・・・あんた、どっちの味方なのよ』
『わたしは君そのものだからさ。君の味方に決まってるじゃん』
『先輩は大学卒業後に怜菜を好きになったということね。それはわかった。でもそれじゃ怜菜の気持は?』
『怜菜は君の敵だよ。そしてこれは純粋に仮説に過ぎなくて証拠はないんだけど、怜菜が何とかして博人君を君から奪おうと考えているとしたらさ、君に浮気させちゃうのがてっ取り早くない?』
『わたしは浮気なんてしないよ。博人君を失ったら生きていけないもん』
『仮定の話として聞いてよ。仮に君と鈴木先輩が浮気したとするじゃん』
『絶対にしない』
『仮にだって! そうしたら鈴木先輩の動向を見張っているだろう怜菜はどうすると思う?』
『・・・・・・どうするのよ』
『怜菜は博人君に接触するよ、間違いなく。それで旦那に浮気された被害者を装って、博人君の同情を買うと同時に、君と先輩の仲が浮気ではなく本気だと博人君を説得するでしょうね。押し付けがましくなく自然にね』
「今日はいい日だったよ。偶然に麻季ちゃんに会えてメアドとか交換できるとは思わなかった」
『鈴木先輩のことは気にしなさんな。きっと彼には深い考えなんかないよ。ただ、偶然に会えた君を口説いて、あわよくば抱きたいと考えているだけだから』
『先輩なんかどうでもいいけど・・・・・・怜菜が博人君のことを好きだったのは確かかもしれない』
麻季はついにその声に対してそれを認めた。
『でもこんな馬鹿げたことを怜菜がするわけないじゃん。わたしが博人君一筋だってことを怜菜は知っていたはずだし、先輩のことなんて好きじゃなかったこともね』
『君は怜菜の善意を信じてるの? 君の親友だから?』
『怜菜はわたしの人生で唯一の親友なの』
『その親友に君は何をした? 怜菜から博人君を奪った。そしてそれを許してくれた親友の怜菜に博人君を会わせなかったばかりか、卒業までろくに怜菜と一緒に過ごさなかったんでしょ』
『それは・・・・・・』
『それはじゃないよ。そんな仕打ちをされても、怜菜がいまだに君のことを親友だと思っているとでも?』
『じゃあ、どうすればいいのよ。今さら怜菜にあの頃どう思ったなんて聞けるわけないじゃない』
『確かめてみたら?』
その声が静かに言った。
『私の言ったことが正しいかどうか試してみればいいよ』
『・・・・・・どうやって』
『簡単じゃない。鈴木先輩に一回だけ抱かれてみればいいんだよ。鈴木先輩は君を落す気満々だし』
『いい加減にしなさいよ。わたしが博人君を裏切れるわけがないでしょ』
『試すだけなんだから裏切りにはならないよ。それに、君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても博人君は君を許すよ。君はそれだけ博人君に愛されていると思うよ』
『それならなおさら博人君を裏切っちゃだめでしょ』
『それは正しい。怜菜さえ存在しなければね。でも怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理解して手を打っておくべきだよ』
『馬鹿なこと言わないで。それにわたしが先輩に抱かれたら怜菜がどうするっていうのよ』
『さっき言ったとおりだと思うよ。怜菜は旦那に浮気された被害者として、博人君に接触するんじゃないかな。怜菜って、旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖女とか天使とかっていうイメージじゃん』
麻季はそのときは、心の声も愚かなことを言うものだと考え直した。
たとえ、その声が言っていることが正しくて、怜菜がそういうことを仕掛けていたとしても、麻季が鈴木先輩に靡かなければ無意味な話なのだ。
怜菜のことなんかもう放っておけばいい。そして博人君の愛情も疑わなければそれでいい。
しつこく乞われて、やむを得ずに先輩と連絡先を交換した麻季はそう思っただけだった。
それなのにそれからしばらくして麻季は怜菜の意図を図りかね、それを知りたくてどうしようもなくなってしまった。
もちろん博人と一緒にいるときや、奈緒人の面倒をみているときは少しもそういう気は起こらない。
でも博人の不在時に奈緒人がお昼寝を始めると、彼女は親友だったはずの怜菜のことが頭にこびりついて離れなくなるのだった。
そして決して考えるべきでもなく、試すべきでもないことが麻季の脳裏を占めるようになった。
彼女はこんなにも博人君を愛している。
多分博人が万一浮気のような過ちを犯したとしても、麻季は結局それを許すだろう。
でも博人はどうだろう。
麻季が先輩と過ちを犯したとしても、彼は麻季のことを許してくれるのだろうか。
怜菜の意図が知りたい。特に彼女がどれくらい博人に対して想いを残しているのか知りたい。
麻季はひとりでいるときは、いつもそのことを考えるようになってしまった。
同時に博人の気持を試したいという欲求も、徐々に彼女の心を支配するようになっていった。
先輩はメアド交換をして以来、しょっちゅうメールを送ってくるようになった。
麻季の方は当たり障りなくそれに返事をしていた。
博人との馴れ初めが馴れ初めだったので、本当は先輩とメールのやり取りなんかすべきではないことはわかっていた。
でも怜菜の意図を知りたいという欲求のことを考えると、ここで先輩との連絡を絶やすわけにはいかなかった。
心の声はあれからもしつこく麻季に話しかけてきた。
『鈴木先輩に一回だけ抱かれてみな。試すだけなんだから裏切りにはならないよ』
『君が一回だけ先輩に抱かれたことがわかっても、きっと博人は君を許すよ。君はそれだけ彼に愛されているんだから』
『怜菜は強敵だよ。彼女は控え目で可愛らしいけど芯は強い。今のうちに怜菜の目的を理解して手を打っておくべきだよ』
『怜菜は旦那に浮気された被害者として博人に接触するでしょう。そして、お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに、恋に落ちるなんていう筋書きを書いているんじゃないかな。怜菜って旦那と親友のひどい仕打ちに耐え忍んでいる聖女とか天使とかっていうイメージじゃん』
そんなとき先輩からメールが届いた。
横フィルの次の定演で先輩がソリストとしてデビューする。招待状を送るから来ないかという内容だった。
『行ってきなよ』
その声が静かに言った。
『確かめてみたら?』
鈴木先輩にホテルの一室で抱かれた夜、麻季は先輩に抵抗もしなかったけど、乱れた演技すらもしなかった。終始人形のように先輩にされるままになっていただけだ。
博人に抱かれて、乱れて喘ぐときとは大違いだ。それでも先輩はそんな麻季に満足したようだった。
「結城って本当に君のことがわかってないんだな。何年も君と寝ていて、君のこと開発すらしていないなんてさ」
先輩は博人のことを嘲笑しながら、麻季の裸身を優しく愛撫した。
「もう少し機会をくれれば君のこと絶対に変えてみせるよ」
先輩が何を言おうと麻季の心には何も響かない。
次の機会なんてないのだ。
怜菜の感情を推し量るためには、こういうことは一度だけで十分だった。
それに彼女はろくに先輩の言葉に注意していなかった。心の声の方に気を取られていたからだ。
『ついでに博人の気持も確かめとこうよ』
『そんな必要はありません』
『本当は不安なんでしょ、彼の気持が。怜菜が動き出す前に安心しておこうよ』
『どうすればいいの』
『博人が君を求めてきても拒否しなよ。君だって嫌でしょ? 先輩に抱かれた身体で博人君と交わるなんてさ』
『・・・・・・』
『しかし見事なまでに感じてなかったね。鈴木先輩のせいとは思えないから、きっと君は博人じゃなきゃ駄目なんだな』
『当たり前だよ』
『でももう君はそんな大切な人を裏切って浮気しちゃったんだよ』
『あんたがそうしろって言ったんでしょう』
『わたしは君だからね。つまりこれは君自身が望んでしたことなんだよ』
『今まで博人君が求めてくれるのを断ったことないし、断れば疑われちゃうよ』
『そう。君は疑われなきゃいけないんじゃないかな』
「今日は泊まっていける?」
「無理。奈緒人を迎えに行かなきゃいけないし、先輩だって打ち上げに顔を出さないわけにはいかないでしょ」
「君と過ごせるなら打ち上げなんて」
「わたしが無理なの!」
「ひょっとして後悔してる?」
「してる。わたし、博人君を裏切っちゃった」
「・・・・・・泣かないで。君のせいじゃない。全部、僕が悪いんだ」
「もういい。これが最初で最後だから。先輩、もうわたしに連絡してこないで」
「普通の友人同士としてとかなら」
『電話は駄目だけどメールくらいは許してやんなよ』
『もうそんな必要ないじゃない』
『怜菜の気持を知りたいならそうした方がいい。始めちゃった以上は良くも悪くも続けないと。中途半端が一番まずいよ』
「・・・・・・電話はしてこないで。メールにして」
「・・・・・・わかった。君がそういうならしつこくはしないよ。大学の頃から本当に君だけしか愛せなかった。だからメールくらいはさせてくれ」
『出産してから博人君は全然そういうこと誘ってこないもん。考えたって無駄じゃないかな』
『そろそろ博人君だってそういうこと考えていると思うよ。早晩、君のことを求めてくるって。そのときは彼を拒否しなよ。そうしないと好きでもない男に抱かれて博人を裏切った意味がなくなってしまうから』
鈴木先輩はベッドの上ではしつこくメールしないと約束したけど、ホテルの前で別れたその晩に、さっそくまた麻季に会いたいというメールを送りつけてきた。麻季は拒絶の返事を書いてメールを出した。
『もうわたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない』
その後、多忙であまり家にはいないながらも、麻季と奈緒人のことを気遣う博人に対して、麻季は自分がしてしまったことに罪悪感を感じた。
幸運なのか不運なのか、産後の麻季の体調を気遣った博人は麻季を誘うことはなかったので、表面上は二人は今までどおり仲のいい夫婦のままだった。
あんな声に従って博人君を裏切るなんて、何て馬鹿なことをしたのだろう。麻季は後悔したけど、してしまったことはもうなかったことにはできない。
麻季の浮気なんて夢にも疑っていない博人は相変わらず優しかったし、麻季も自分の過ちをだんだんと忘れることができるようになった。
それでもやはりその日は訪れた。
ある夜、奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、博人が出産以来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。
このときの麻季は自分の不倫を忘れ、博人の愛撫に期待して身体を彼に委ねようとした。
『ほら、ちゃんと拒否しないと』
最近聞こえてこなかった声が麻季に言った。
博人は麻季をこれまでより強く抱き寄せて、彼女にキスしながら手を胸に這わせ始めていた。
『やだよ。久し振りなのに断ったら博人君を傷付くと思うし、それにわたしだって・・・・・・』
『君は先輩に抱かれたんでしょ。それなのにしれっと博人君に抱かれる気?』
『あれはしたくてしたんじゃないし! それに気持悪いだけだった』
『そうだね。そんな思いまでして先輩に抱かれたのには目的があったからでしょ。今さらそれをぶち壊す気なの』
『・・・・・・だって』
『ここで頑張らないと、先輩と寝たことは単なる浮気になっちゃうよ。さあ、疲れてるからそんな気分になれないって博人にいいなよ』
博人の手に身を委ねてい麻季は彼の腕の中から抜け出した。
「・・・・・・麻季?」
初めて見るかもしれない、博人の傷付いているような表情に麻季は胸を痛めた。
「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」
「いや。僕の方こそごめん」
「ううん。博人君のせいじゃないの。ごめんね」
一度博人の腕から逃げ出した麻季は、再び彼に抱きついて軽くキスした。
「もう寝るね」
「うん。おやすみ」
本当は麻季の方が泣きたい気持だったのだ。