yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第2部第4話

 取材を終えていないため、日本に滞在できるのは三日間が限度だった。

 帰国便の機内で、僕は一月前に業務連絡で二日間だけ帰国したときのことを思い出した。

 あのとき編集部に寄って用を済ませてから帰宅した僕に、麻季は抱きつこうとしたけれど、その麻季を押しのけるようにして、奈緒が足にしがみついて来たのだった。

 麻季は少し驚いて身を引いたけど、すぐに笑顔を取り戻して僕たちを見守っていた。

 奈緒人は少し離れてその光景を見つめていたようだった。

 そのときの家族の様子には少し違和感を感じたけど、すぐにいつもどおりの家族の団欒始まった。

 久し振りだったので、いつもより会話も華やかだったはずだ。わずか一月後にこんなことになるような前兆は、いくら思い返してもなかったと思う。

 麻季と子どもたちにいったい何があったのか。いくら考えてもその答は出なかった。

 その三日間でしなければいけないことはたくさんあった。

 帰国して編集部に連絡して断りを入れてから、僕は児童相談所に向った。

 そこで、相談所のケースワーカーさんから事情を聞いて実家に向った。

 車のキーを取りに、途中にで立ち寄った自宅の床には、小物や封を切られたレトルト食品の残骸などが散乱して異臭を放っていた。

 出張前の綺麗に片付けられていた自宅の面影は全く残っていない。

 それまでに何度も麻季の携帯に電話をしていたけれど、僕の携帯は着信拒否されているようだった。

 僕は混乱し怯えながらも半ば無意識に運転して実家に辿り着いた。

 実家のドアのチャイムを鳴らすと、しばらくして警戒しているような声がどちら様ですかと聞いてきた。実家で暮らしている妹の声だ。

「僕だけど」

「・・・・・・お兄ちゃん?」

「うん。開けてくれ」

 ドアが開くと妹が顔を出した。

「よかった。お兄ちゃんが戻って来てくれて」

 そのとき廊下の奥から奈緒人と奈緒が走り寄って来て、僕にしがみつくように抱きついた。

「パパ」

 二人は同時にそう言って泣き出した。僕はしゃがみこんで二人を抱き寄せながら、かたわらにじっと立っている妹の方を見上げた。

「・・・・・・今は奈緒ちゃんたちを慰めてあげて。話は後で」

 妹は涙をそっと払いながら低い声で言った。

 奈緒人と奈緒は泣きじゃくって僕に抱きついて離れなかった。

 何があったのか聞きたかたけど、妹に言われるまでもなく、今は子どもを落ち着かせるのが優先だった。

 僕は大丈夫だよとかそんな言葉しかかけられなかったけど、そう言いながら子どもたちの頭や背中を撫でているうちに、次第に二人は穏かな表情になって行った。

 いったいこれまで苦労して育てたこの二人に何が起こったのだろう。そしてこの先、僕の家庭はどうなってしまうのか。

 子どもたちの様子に胸が痛んだ僕だけど、二人が僕に抱きついたまま寝てしまうと改めて混沌とした境地に陥ってしまった。

「いったい何があったの? 麻季は無事なんだよな」

「どういう意味でお姉さんが無事って言っているのかわからないけど、まだ死んでいないという意味なら無事みたいね」

 妹が冷たい声で言った。

「・・・・・・どういう意味?」

「お兄ちゃんから電話をもらって、児童相談所から子どもたちを引き取ってすぐに、お姉さんから電話があったからね」

「麻季は何て言ってたんだ」

 僕は淡々と話す妹に詰め寄りたい気持を抑えて聞いた。それでも無意識に大きい声を出してしまったらしい。

「子どもたちが起きちゃうでしょ。もっと声を抑えて」

「悪かったよ・・・・・・それであいつは何だって?」

奈緒人君と奈緒ちゃんを返せって。電話に出たのはお父さんだけど、お父さんのことを誘拐犯みたいに罵っていたらしいよ」

 いったい何のだ。もともと麻季はうちの実家とは仲が良かった。僕の両親とも妹ともうまく行っていたのに。

「それでお父さんが、お兄ちゃんが帰るまでは孫は渡さないって言ったの。何があったのかは知らないけど、自宅で何日も幼い子どもたちを放置するような人には、子どもたちは渡せないって」

「麻季と子どもたちに何があったんだ。おまえは何か知っているのか」

「お兄ちゃん、児童相談所に寄って来たんでしょ。そこでケースワーカーさんの話を聞いた?」

「うん」

「じゃあ、お兄ちゃんはあたしたちと同じことは知っているよ。あたしたちも児童相談所の人から説明されたことしか知らないし。お姉さんが電話を切る前にお父さんが何があったのか聞いたけど、お姉さんは答えずに電話を切っちゃったし」

 最初のうちは、体調不良で二人とも休ませますという連絡が、麻季から幼稚園にあったらしい。

 でもそのうちその連絡すら無くなり、不審に思った幼稚園の先生が自宅や麻季の携帯に連絡しても応答がない。

 そんなことが数日間に及ぶようになると、さすがに心配になった幼稚園から児童相談所に連絡が行った。

 同時にマンションの近所の人たちからも、隣家は昼間の間は子どもが二人きりで過ごしているらしいという通報が児童相談所にあったそうだ。

 児童相談所の職員が家庭訪問をして見つけたのは、自宅の食べ物を漁りつくして衰弱した子どもたちだった。

 風呂やシャワーも入っていなかったようで、身体から異臭がしたそうだ。

 結局、奈緒人と奈緒はその場で救急車で病院に運ばれて点滴を受けた。そしてその二日後に児童相談所に一時保護された。

 警察を経由して僕の職場を突き止めた相談所の職員は、麻季には連絡を取らずに編集部に電話した。

 編集部から僕の携帯の番号を聞いた相談所のケースワーカーが僕に連絡した。

「結城さんの依頼どおり、実家のご両親と妹さんが二人をお迎えにきたので身分を確認した上で、奈緒人君と奈緒ちゃんをお渡ししました。翌日に奥様が見えられましたけどね」

 僕が帰国して児童相談所の担当だというケースワーカーをたずねたとき、彼女は苦笑しながら僕にそう説明した。

「奥様は男の人と一緒に来て、大きな声で私たちを誘拐犯呼ばわりしてましたよ」

 僕は妻の不始末を謝罪した。

 結局わかったのはこれだけだった。

 麻季が子どもたちを放置したことは間違いない。

 最初この話を聞いたとき、僕は麻季の身に何か不慮の事故が起きたのではないかと思った。怜菜の寂しく悲しい事故のことが頭をよぎった。

 でも、相談所の職員や妹の話によるとそんなことは全くないらしい。

 ようやく自分でも理解できてきた事実。それは想像もできないけど、麻季が子どもたちを意図的に放置した挙句、子どもたちを保護した相談所や僕の実家に来て、子どもたちを渡すように居丈高に要求したということだった。

 いったい麻季の心境に何が起こったのか。

 こんなのは僕の知っている麻季の行動ではない。

 自分の不倫や僕の怜菜への思い、それに僕の不在で混乱したとしても、麻季が子どもたちを放置するようなことは考えられない。

 僕は妻が知らない女性のように思えてきた。そしてそのことに狼狽した。

「父さんたちは?」

 僕は気分を変えようと妹に聞いた。

「子どもたちの服とか必要な品物を買いに行ってるよ。お兄ちゃんの家からは何も持って来れなかったからね」

「おまえにも迷惑かけたね」

 僕は妹に謝った。

「気にしなくていいよ。大学はもう講義はないし、四月に入社するまでは暇だしね。それに奈緒人君と奈緒ちゃんも懐いてくれたし」

「悪い」

「だからいいって。あ、父さんの車の音だ。帰ってきたみたいね」

「おう、博人帰ったのか」

 父さんと母さんは大きな買物袋を抱えて部屋に入ってきた。

「おかえり。奈緒ちゃんのサイズの服はあった?」

 妹が心配そうに母さんに話しかけた。

「うん、探し回ったけど見つけたよ。奈緒人の物も一通り揃ったよ」

「よかった」

 僕の子どもたちのために両親と妹がいろいろ考えてくれている。それは有り難いことなのだけど、そのことが今の僕にはすごく非日常的な会話に聞こえた。

 これまで僕は子どもたちの服のサイズなんか気にしたことはなかった。それは全て麻季の役目だったから。

 本当にもう戻れないのかもしれないという事実をようやく自分に認め出したのは、このときからだった。

「父さん、母さんごめん。二人ともこんなこと頼める状態じゃないのに本当に悪い」

 両親は高齢だった。僕と妹は両親が三十歳過ぎに生まれたのだ。

 両親が居宅支援サービスを受けようといろいろ調べていることは、以前僕は妹から聞いていた。

「おまえのためじゃないよ。孫のためだからね」

 母さんが笑って言った。

「それより博人、麻季さんと何かあったのか」

 父さんが真面目な顔になって言った。

「見当もつかないんだ。一月前に帰宅したときだって普通にしてたし」

「お兄ちゃんも何が何だかわからないんだって」

 妹が助け舟を出してくれた。

「そうか」

 父さんはため息をついた。

「おまえ、いつまで日本にいられるんだ」

「明後日にはまた戻らないと」

「わかった。とりあえず一月後には帰宅できるんだな」

「うん」

「じゃあ、それまでは奈緒人と奈緒はうちで預かる。何があっても麻季さんには渡さない。その代わり帰国したら、一度麻季さんとちゃんと話し合え」

「・・・・・・明日、麻季の実家に行ってみようかと思うんだけど」

「やめておけ」

 父さんが断定するように言った。

「だって」

 僕がそう言ったとき妹が口を挟んだ。

「自相に姉さんが子どもったを返せって言いに行ったとき、男の人と一緒だったんでしょ?」

「そうだったな・・・・・・」

 やはり鈴木先輩と麻季の仲が再燃したのだろうか。

「多分お姉さんの実家に行っても解決しないよ。それにお兄ちゃんが電話してもお姉さんは出ないんでしょ」

「着拒されてる」

「じゃあ無理よ。出張が終るまではこの子たちはうちで面倒みるから。父さんたちは体調もあるから厳しいだろうけど、あたしも面倒看るから」

「そうよ。唯も大学が休みなんで協力してくれるそうだし、あなたは安心して仕事に戻りなさい」

 母さんが妹の唯を見て言った。妹も頷いている。

 これでは全く何も解決しないし、麻季のことをまだ信じたい僕の悩みも解決しない。

 でも父さんと妹の言うことが正しいことはわかっていた。わずか二日でできることはない。

 翌日、麻季を探すことを諦めた僕はずっと奈緒人と奈緒と一緒に過ごした。

 妹が一緒に来てくれたので、公園に行ったりファミレスで食事をしたり、ショッピングモールで二人に玩具や服を買ったりした(妹の話では両親の服装のセンスは古いので買い足した方がいいとのことだった)。

 子どもたちは妹に懐いていたけど、それ以上に僕のそばを離れようとしなかった。

 麻季のことは気になるけれど、唯の言うように今は子どもたちと過ごすことを優先すべきだった。

 明日には、僕は再び子どもたちを置いて出かけなければならないのだから。

 妹の勧めで、早朝に実家を立って空港に向うとき、僕はあえて子どもたちを起こさなかった。

 あとで話を聞くと、目を覚まして僕がいないことを知った奈緒人と奈緒はパニックになって、泣きながら実家の家中を僕を求めて探し回ったそうだ。

 両親も妹もそれを宥めるのに相当苦労したらしい。

 僕は実家を出て一度自宅に車を戻してから電車で空港に向かったのだけど、散乱した部屋を眺めているとこれまで凍り付いていた感情が沸きたった。

 自宅を出るぎりぎりの時間まで、僕は泣きながら思い出だらけの部屋を掃除したが、完全に綺麗にすることは無理だった。

 時間切れで自宅を出て空港に向う前に、僕はふと思いついてリビングのテーブルに麻季あてのメモを残した。

 

『おまえのことは絶対に許さない。奈緒人も奈緒もおまえには渡さない』

 

 残りの一月、バイエルンでの取材に集中するのに大変だった。

 ふと気を許すと、幸せだったころの麻季の笑顔や子どもたちの姿が目に浮かび、集中して聞くべき演奏がいつのまにか終っていたりすることもあった。

 それでも麻季の行動の理由をあれこれ考えているよりは、仕事に集中した方がましだと気がついてからは、今まで以上に仕事にのめり込んだ。

 そのせいか、編集部に送信した記事や写真は好評だったし、雑誌自体の売り上げも二割増という期待以上の成果をあげたそうだ。

 仕事が終ると、僕は毎日実家に電話して奈緒人と奈緒と話をした。

 僕がいなくなってショックを受けていた二人も、次第に落ち着いていったようで、僕と話すことを泣くというよりは喜んでいる感じだった。

『二人とも思ったより元気にしているよ』

 電話の向こうで唯が言った。

「唯が子どもたちの面倒を見てくれるおかげだな」

『うーん。あたしもなるべく一緒に過ごすようにはしているんだけどさ。何というか、二人ともお互いがいれば安心みたいな境地になっちゃってるみたい』

奈緒人と奈緒は前からいつもべったり一緒だったからな」

『まあそうなんでしょうけど。ちょっとでも奈緒人から離すと、普段は落ち着いている奈緒がすぐに騒ぎ出すのよね。まあ兄妹が仲がいいのはいいことだけどね』

「そのせいで麻季や僕がいなくても我慢できるなら助かるけど」

 唯は少し笑った。

『いいお兄ちゃんだよ、奈緒人は。あたしもあんな兄貴が欲しかったなあ』

「・・・・・・悪かったな。それで麻季を恋しがったりはしていないのか」

『全然。お兄ちゃんのことはいつ帰るのって二人ともよく聞くけど、お姉さんのことはここに来てから一度も口にしないよ』

「そうか」

 僕は子どもたちが落ち着いていることに少し安心することができた。

 やがて一月が過ぎて僕は帰国した。

 帰国した僕を待っていたのは、昇進の内示と実家に届いていた内容証明の封筒だった。

 編集部に顔を出して無理を言って四日間の有給休暇ををもらいに行った僕は、編集長に呼ばれ社長室で辞令を受け取った。

 ジャズ雑誌の小規模な編集部の編集長を任されたのだ。

 正直昇進は嬉しかったけど、二人の子どもを抱えて今までどおり激務に耐えていけるのかどうか心もとなかった。

 唯ももう少ししたら、大学を卒業して内定している商社に入社することになる。当然二人の子どもたちの面倒を見るわけには行かないし、かといって高齢の両親だけに育児を任せるわけにもいかないだろう。

 とりあえず実家に戻って、今後のことを相談しよう。そして今度こそ麻季に直接会って、彼女が何を考えているのか説明させなければならない。

 正直ここまでされると、メモに残したように麻季を許すことはできないと思っていたけど、それでも納得できる理由が聞けるかもしれないと期待している気持もあった。

 僕にはどこかでまだ麻季に未練があったのかもしれない。

「パパお帰りなさい」

 実家に戻ると奈緒人と奈緒が迎えてくれた。もう二人は泣くことはなかった。

「お兄ちゃん」

 唯も子どもたちの後ろから出迎えてくれた。

「ただいま」

 僕は大分重くなってきた二人を一度に抱き上げた。思ったより力が必要だったけど、子どもたちが笑って喜び出したので、その苦労は報われた。

 唯も微笑みながらそんな僕たちを眺めていた。

 ついこの間までは、妹ではなくてこの子たちの母親がこの場所にいたのだ。ついそんなどうしようもない感慨に僕は耽ってしまった。

 居間にいた両親にあいさつすると、父さんが僕に一通の封書を渡してくれた。

 内容証明の封書だ。封筒に記載されている差出人は「太田弁護士事務所 弁護士 太田靖」となっている。

 僕は父さんを見た。父さんはうなずいて鋏を渡してくれた。

 封を切って内容を確かめると、受任通知書という用紙が入っていた。それは太田という弁護士が、麻季の僕に対する離婚請求に関する交渉の一切を受任したという文書だった。

 そこに記された離婚請求事由に僕は目を通した。

 

「貴殿は結城麻季氏(以下通知人という)との間にもうけた長男の育児を通知人一人に任せ滅多に帰宅せず、あるいは帰宅したとしても深夜に帰宅し、長男の育児上の悩みを相談しようとする通知人を無視して飲酒した挙句、それでも貴殿に相談しようとする通知人に対して罵詈雑言を吐くなどして通知人を精神的に追い込みました」

「また平成○○年○月頃、貴殿は通知人の大学時代の知人である訴外A(以下Aという)と不倫を始めました。通知人がAの夫(訴外B、以下Bという)からその話を聞かされ貴殿に事実を質問すると、貴殿は通知人が最初にBと不倫をしたのであって、貴殿とAはその相談をしていただけだという虚偽の返事をしたばかりか、事実無根である通知人とBとの不倫を責め立てるなどして通知人に多大な精神的被害を生じさせました」

「さらに貴殿と不倫関係にあったAが貴殿との不貞関係が原因で夫と離婚すると、貴殿は夫と離婚したAと実質的な同棲を試みようとしたものの、それを果たす前にAは不慮の交通事故で亡くなりました。Aが亡くなったことを知った通知人が長男のことを鑑み貴殿との婚姻関係の継続に努力しているにも関わらず、貴殿はAの遺児である女児を引き取り通知人が育児するよう要求しました。通知人が貴殿との婚姻関係を継続するために止むを得ずにAの遺児を引き取り努力して育児しようと試みている間、貴殿はAは聖女のような女だった。通知人のような汚らしい女とは大違いだったという趣旨の暴言を繰り返し、通知人に対して多大な精神的被害を生じさせました。またこの間も貴殿は滅多に自宅に帰宅せず長男とAの遺児の育児を通知人に任せたままでした」

「かかる貴殿の行為は,単にAとの不貞行為により婚姻関係破綻の原因を作ったことにとどまらず、通知人の人格を完全に無視し、通知人を精神的に虐待したモラルハラスメントとして認定されるべき行動であり、婚姻関係の破綻の責任は完全に貴殿に帰すものであります」

「以上の次第で通知人は貴殿との離婚及びその条件について当職に委任しました。つきましては近日中に離婚及びその条件についてお話し合いをさせていただきたいと思いますが、まずは受任のご挨拶で本通知を差し上げた次第です。なお,本件に関しては当職が通知人から一切の依頼を受けましたので、今後のご連絡等は通知人ではなく全て当職にしていただくようお願い申し上げます」

 

「どういう内容だったんだ」

 父さんが険しい声で聞いた。

 きっと僕の顔色が変っていたことに気がついたのだろう。僕は黙って父さんに受任通知を渡した。

 父さんは弁護士からの受任通知書をゆっくりと二回読んでから母さんに渡した。母さんにはその内容がよく理解できなかったようだ。

「博人、おまえこの内容は事実なのか」

 父さんが僕の方を見てゆっくりと言った。

「おまえはここに書いてあるようなひどい真似を本当に麻季さんにしたのか」

「そんなわけないでしょ。博人はこんなひどい真似をする子じゃないわ」

 母さんが狼狽して口を挟んだ。

「おまえは黙っていなさい。博人、どうなんだ。これが事実だとしたら父さんたちはおまえの味方にはなれないぞ」

 僕が混乱しながら重い口を開こうとしたとき、子どもたちと唯が居間になだれ込んで来た。

「パパ」

 奈緒が可愛い声で僕を呼びながら抱っこをねだった。奈緒人も照れた様子で僕のそばにぴったりとくっ付いて来た。

 何があってもこの子たちだけは僕の味方をしてくれる。

 太田という弁護士の内容証明によって僕は打ちひしがれていた。

 これまでの家庭生活の記憶が、麻季によって踏みにじられた気分だったのだ。多分この仕打ちは一生僕の心を傷つけ続けるだろう。

 でも、今この瞬間に僕にまとわりつく子どもたちを抱き寄せると、それが僕の心を正気に戻してくれた。

 父さんに渡された文書を今度は妹が険しい表情で読んでいた。

 どういうわけか父さんも母さんも黙ってしまい、結果として大人三人が最後の審判を待つかのように、唯の表情を見守ることになってしまった。

 妹は受任通知をぽいっとテーブルに投げ捨てて吐き捨てるように言った。

「ばかばかしい。お兄ちゃんがこんなことするわけないじゃん。他人ならいざ知らず、お兄ちゃんの家族であるあたしたちがが、こんな文書を信じるわけないじゃん。こんな内容をあたしたちが信じると思っているなら、麻季さんも相当頭悪いよね。まあ不倫して可愛い子どもたちを平気で放置するような人だから、この程度のでっちあげしかできないんでしょうね」

 唯はそれまでお姉さんと呼んでいた麻季を麻季さんと呼んだ。

「唯の言うとおりよ。お母さんは博人を信じているからね」

 唯と母さんの言葉に父さんは居心地悪そうにしていた。

「疑って悪かった。母さんと唯の言うとおり博人がこんなひどいことをするわけがないよな」

「父さん遅いよ。自分の子どもを信じてないの?」

 どういうわけか唯が半泣きで言った。

「悪かった。ちょっとこの文書に動揺してしまってな。虚偽のわりにはよくできているからな」

「ばかばかしい。あなたは昔から理屈ばっかりで仕事をしてきたから、こういうときに迷うんですよ。あたしも唯も一瞬だって博人を疑ったりしないのに」

「それに奈緒人と奈緒の様子を見てみなよ。こんなひどいことをする父親にこの子たちがこんなに懐くと思うの?」

 麻季が止めをさした。

「悪かったよ。謝る。だが何が起きたかは話してほしい。博人、事実を話してくれ」

 それまで大人の事情を気にせずにまとわりついている子どもたちを構いながら、唯と母さんの援護に僕は泣きそうになった。

 僕は全てを両親と妹に話した。

 麻季の浮気。そして奈緒人への愛情からそれを許して彼女とやり直そうとしたこと。玲菜に呼び出され、麻季と先輩がメールのやり取りを続けているのを知ったこと。そして、怜菜に最後に会ったときと、離婚後の怜菜のメールで彼女が僕を好きだったということを知ったこと。僕もそんな怜菜に惹かれていたこと。

 怜菜の離婚後、僕が再び麻季とやり直そうとしたこと。

 そして最後に怜菜の死後、彼女が先輩の妻で自分のことを恨まず黙って離婚したことを、麻季が怜菜の急死後のお通夜で知ったこと。

 麻季は先輩が怜菜の遺児を引き取らないということを知って、その子を引き取ったこと(この辺の話は奈緒を引き取る際に両親には説明してあったけど、麻季が奈緒の父親と浮気をしていたことや僕が怜菜に惹かれていたことは初めて話した)。

 話し終わったとき、両親と妹はしばらく何も言わなかった。

 彼らの気持ちはよくわかった。僕だって他人からこれほど純粋な悪意をぶつけられたのは初めてだったから。

 それに麻季はつい少し前までは他人ではなかった。

 僕が海外出張を告げたとき、抱きついて甘えてきた麻季の姿は今でも鮮明に思い浮ぶ。あれはわずか三月ほど前の出来事なのだ。

「・・・・・・お兄ちゃんさ」

 唯が泣き腫らした顔で僕を見て言った。でもその口調は鋭かった。

「今は混乱していると思うけど、することはしておかないとね」

「どういうこと?」

「麻季さんが弁護士を立ててきた以上、こちらもしなきゃいけないことはたくさんあるでしょ」

 僕は唯の言っていることがよくわからなかった。それに思考の半分は僕に抱きつきながらも、二人きりで遊びだした子どもたちに奪われていた。

「まず生活費とか貯蓄の口座を調べて。そして麻季さんが自由にできない状態にしないと」

 随分生々しい話になってきた。

 唯は音大で何となく四年間を過ごした僕と違って、国立大学の法学部を卒業したばかりだ。本人の志向もあって法曹の道には進まなかったけど、内定している商社では法務部配属が決まっているそうだ。

「あとは親権だね。お兄ちゃんは麻季さんと離婚しても、奈緒人と奈緒を麻季さんに任せる気はないんでしょ」

「あるわけないだろ。一週間近く子どもたちを自宅で放置したんだぞ、あいつは」

「だったら養育実績を作って親権争いを有利にしないと。お兄ちゃん、放っておくとこのまま離婚されて奈緒人と奈緒も麻季さんに盗られちゃうよ。こんなところで腑抜けていないでしっかりしなよ。こっちも麻季さんに対抗する準備をしないと。それともお兄ちゃん、まだ麻季さんに未練がある? 麻季さんと別れたくないの?」

「いや、離婚はもう仕方ないだろ。こんだけの文書を送りつけてくる麻季とはもう一緒に暮らせないよ」

 僕は弱々しく言った。

 でもそれは本音だった。マンションの部屋に残したメモは麻季も見たに違いない。

 僕は、先輩に殴られた麻季がきょとんとして僕を見つめ、「結城先輩、わたしのこと好きでしょ」と言ったときの彼女の表情を思い出した。すごく切なくて涙が出そうだったけど、もうあの頃には戻れないのだろう。

「麻季さんと離婚して子どもたちの親権を取りたいなら、そろそろお兄ちゃんも立ち上がってファイティングポーズ取らないと。麻季さんの豹変に悩んでいるのはわかるけど、もうあっちは完全に準備して宣戦布告してきているんだよ」

 妹の方が頭に血が上ってしまったらしい。唯に責められても、僕はどうにも冷静に計算する気にはなれなかった。

 そんな僕を尻目に唯はヒートアップして行った。両親も妹の剣幕にやや辟易している様子だった。

「お兄ちゃんの話を聞いていると、確かにお兄ちゃんと怜菜さんは心の中では麻季さんを裏切ったのかもしれないけど、実際に怜菜さんの旦那さんと体の関係になった麻季さんと比べれば非は全然少ないよ。ちゃんと戦えば二人から慰謝料は取れるよ」

「慰謝料とかどうでもいいよ」

「・・・・・・じゃあお兄ちゃんは養育権もどうでもいいの?」

「そんな訳ないだろ」

「唯の言うとおりだ」

 それまで黙っていた父さんが口を挟んだ。

「俺が役所を退職後に社会福祉法人の理事長をしていたとき、評議員をしてくれていた弁護士がいる。随分懇意にしてもらった人だ。彼に相談しよう」

「いや・・・・・・まだ麻季と一回も会って話していないんだ。とりあえず一度彼女と」

「やめたほうがいいよ。麻季さんの方が今後は一切は弁護士を通せって言ってるんだよ。もうお兄ちゃんが好きだった麻季さんはいないんだよ。お兄ちゃんもつらいだろうけど、奈緒人と奈緒を守りたいならお兄ちゃんもいい加減に目を覚まさないと」

 唯がもどかしそうな、というか泣きそうな表情で僕に言った。

「唯・・・・・・」

 麻季と直接会って話しても、彼女との仲が元に戻ることはないかもしれないけど、少なくともどうして彼女がこんなひどい仕打ちをしたかくらいはわかるだろうと、僕は心のどこかで期待していた。

 でも、子どもたちのこの先の生活を考えることが優先なのだ。

 唯の言うとおりだった。

 今では麻季は敵なのだ。

 奈緒人と奈緒のことを考えれば、たとえどのような理由があったにせよ、一週間も自宅に子どもたちを放置するような母親に親権を譲るわけにはいかない。

 僕は唯や父さんの勧めに従った。つまり麻季を敵に回して戦うことを決意したのだ。

 

 僕は父さんの知り合いの弁護士に、正式に妻側との依頼を依頼した。

 初老の人の良さそうな人だった。彼は受任通知を見て僕を疑わしそうに見た。

 きっと不倫したクズのようなDV男から、妻からの慰謝料要求の減額交渉でも依頼されたのだとと思ったのだろう。

 最初から事情を話すと弁護士はようやく理解してくれたけど、彼が言うには証拠がないので客観的に立証し反論することは難しいそうだ。

「私は結城さんの代理人を引き受ける以上、あなたが真実を話してくれている前提で交渉はしますけど、多分それは先方の太田先生も同じでしょうね」

 先方との予備的な交渉の中で、離婚するということ自体はお互いに与件になっていたので、そこで揉めることはなかった。

 また、お互いに慰謝料の要求も無かった。

 ただ、問題は二つあった。

 一つは離婚理由でもう一つは養育権だった。

 弁護士によれば互いに離婚で一致していて慰謝料の請求もない以上、離婚の理由はさして重要ではないそうだ。そんなところは争わずに養育権の交渉に全力を注ぎましょうと僕は弁護士に言われた。そう言われればそんな気もしてきた。

 どちらが有責かが重要なのは、離婚するしないや慰謝料の有無や多寡に影響するからであって、そこが争点になっていない以上、気にしない方がいいのかもしれない。

 先方の受任通知書の内容は巧妙に事実の一部を捉えてはいたけど、悪意によってその意味を捻じ曲げたもので、その内容はでたらめだった。

 でも僕がショックを受けたのはその内容にではない。僕が傷付くのを承知しながら、それを自分の弁護士に語った麻季の心の闇に僕は絶望したのだった。

 そして多分、麻季がそういう行動に出た理由は、弁護士間の交渉で明らかになるようなことではないだろう。

 だから僕は、自分の弁護士の言うとおり問題を親権に集中しようと思った。

 それは合理的な判断だった思うけど、どういうわけかそのとき同席していた唯が納得しなかった。

「条件とかそういう問題じゃないでしょ。反論しなかったらこんなデタラメを認めたことになっちゃうじゃない」

「婚姻関係の破綻の原因がこちらにはないことを主張してもいいですけど、お互いに証拠がない以上水掛け論になって終わりですよ」

「それでも主張するだけは主張した方がいいと思います。あの内容をこちらが認めたわけではないですし、協議が決裂して調停や裁判に移行したら有責側かどうかは親権にも影響するでしょ」

「まあ確かにその可能性は否定できませんね」

 結局、唯の主張するとおりに交渉することに決まった。

 最初に太田弁護士との直接交渉の際、僕は依頼した弁護士に頼んで同席させてもらった。もしかしたら麻季と会えるかもしれないと思ったのだ。

 でも先方は弁護士一人だけだった。やはり麻季はもう僕と顔を会わす気はないようだった。

 代理人の弁護士の予想どおり、僕と麻季の離婚に関してどちらに責任があるかという話し合いは、徹頭徹尾無益なものだった。

 お互いに証拠もなくただ主張しあうだけなのだ。これが当事者本人同士の話し合いなら泥沼だったろうけど、代理人同士の話し合いだったので、お互いに証拠を要求しそれがないとわかると、交渉はすぐにより良く子どもを養育できるのはどちらかという話し合いに移っていった。

 麻季に有利な点は、これまで奈緒人と奈緒を順調に育てた実績があることだった。

 不利な点は二つ。麻季が一週間弱子どもたちを自宅に放置したこと。

 受任通知書でデタラメを並べ立てた麻季も、僕が依頼した弁護士が情報公開請求によって入手した、児童相談所の通報記録に残されている事実には反論できなかったのだ。

 太田弁護士は、僕の虐待に耐えかねた麻季が一時的に錯乱した結果だと主張したけど、その頃僕はオーストリアにいたので、その主張には重大な瑕疵があった。

 もう一つは麻季の実家が遠方にあり、麻季の両親は育児をアシストできないということだった。

 それに僕と離婚する以上、専業主婦だった麻季は養育費だけでは生活していけないだろう。

 麻季の養育実績は彼女が専業主婦であることを前提にしていたから、彼女が離婚した場合の養育環境はいろいろと不明でもあった。

 一方、僕にとって根本的に不利だったのは、まだ幼稚園児である子どもたちを育てる環境が備わっていないことだった。

 太田弁護士はよくこちらの事情を調べていた。

 僕の仕事は時間が不規則だし帰宅も深夜に及ぶことが多い。子どもたちを幼稚園から保育園に移したとしても、僕一人で子どもたちを育てることは不可能だ。

 僕は親権を争うと決めたときに、両親に育児協力をお願いして快諾を得ていたけど、その両親自身がそろそろ介護が必要な状況になりつつあることを、太田弁護士には知られていた。

 今、奈緒人と奈緒を育てていけているのは主に唯のおかげだったけど、唯の就職が目前に控えている以上、それを交渉材料にするわけにはいかなかった。

 もう最悪は僕が仕事を変えるしかないかもしれない。

 ジャズ・ミューズという老舗ジャズ雑誌の編集長を任されたばかりの僕だったけど、もうこうなったら、奈緒人と奈緒を手離さいためには本気で転職しかないとまで思うになっていた。

「・・・・・・あたし、就職するのやめて奈緒人と奈緒を育てようか」

 ある日、唯が思い詰めたような顔で僕に言ったことがあった。

 考えるまでもなく、もちろんそんな犠牲を唯に強いるわけには行かなかった。

 そういうわけで、僕と麻季の離婚に関する協議はお互いに折れ合わずに膠着していた。

 結局、僕と麻季の協議離婚は親権で対立したまま成立せず、裁判所による調停に移行した。

 

 その夜、僕は某音楽雑誌の出版社主宰のパーティーに出席していた。

 クラシック音楽之友にいた頃と違って、最近はこの手の商業音楽関係のイベントへの招待が増えていた。

 マイナーな雑誌ながらも編集長を任されていた僕は、実務から開放された分この手の付き合いが増えていた。

 業務が終了したら、何よりも実家に戻って子どもたちの顔を見たかったけど、これも仕事のうちだった。

 予想どおり、都内の有名なホテルで開催されたそのパーティーには知り合いは皆無だった。

 老舗のロック雑誌の編集者や、アイドルミュージック専門の雑誌の若い編集者たちが、そこかしこで友だちトークを展開している。

 ところどころで人だかりができているのは、著名な評論家やミュージシャン本人を取り巻いている人たちのようだ。

 クラシック音楽専門の雑誌社が余技に出しているマイナーなジャズ雑誌の編集なんて、全くお呼びではない雰囲気だ。

 受付してから一時間以上経つけど、僕はこれまで誰とも、会話は愚かあいさつすらしていない。これなら途中で帰っても全然大丈夫そうだ。

 こういう場で誰にも相手にされないのはへこむけど、麻季にひどい言いがかりを付けられていた僕は、大抵の人間関係には耐性ができていた。

 それでもこの場の喧騒は気に障った。そろそろ黙って帰ろうかと思った僕は、静かにその場を去ろうとした。

 途中で金髪の若い男性(多分最近よくテレビで見るビジュアル系のバンドのボーカルだと思う)を囲んでいた人たちの脇を通り過ぎようとしたとき、突然僕は誰かに声を掛けられた。

「博人君」

 自分の名前を呼ばれた僕が振り返ると、理恵が僕のほうを見て微笑んでいた。

「・・・・・・理恵ちゃん」

「わぁー、すごい偶然だね。博人君ってこういうところにも顔出してたんだね」

「久し振り」

 何か大学時代の偶然の再会を思い起こさせるような出会いだった。

 理恵は人込みから抜け出して僕の横に来た。

「少し話そうよ・・・・・・・それとももう帰っちゃうの」

「少しなら時間あるけど」

 僕は理恵に手を引かれるようにして、壁際に並べられた椅子に座らされた。

「はい」

 僕は理恵から白のワインのグラスを受け取った。

「博人君、白ワイン好きだったよね」

「うん・・・・・・ありがとう」

 これだけの歳月を経ても、理恵が僕の好みを覚えていてくれていることに僕は少しだけ心が和んだ。

 もっとも理恵の細い左手の薬指二気づいていたので、それ以上の期待はなかったのだけど。

「本当に久し振りだね。何年ぶりかな」

 僕の隣に座った理恵が少し興奮気味に言った。

「少し痩せた?」

「さあ? どうだろ」

「それにしてもここで博人君と会うとは思わなかったよ」

 僕は名刺入れから最近作り直したばかりの名刺を取り出して理恵に渡した。

「今はここにいるんだ。それで声がかかったみたいだけど、どうも場違いみたいだ」

「なんだそうだったの」

 理恵が笑った。

「でもそれで博人君に会えたんだね」

 理恵は自分の名刺を僕にくれた。それは若者向けのポップ音楽の雑誌の編集部のものだった。

「・・・・・・なるほど」

「なるほどって何よ」

 彼女が笑った。

「しかし君も同じ業界にいるとは思わなかったよ」

「本当に偶然だね。もっともあたしは博人君みたいな高尚な音楽雑誌にいるわけじゃないけど」

「玲子ちゃん・・・・・・だっけ。妹さんも元気?」

「うん、元気よ。あいつには子育てを任せちゃってるし、借りばっか作ってるよ。玲子も文句言ってる」

 子育てを任せるって何だろう。

 麻季との親権争いが調停に移ったばかりだった僕は、子育てという言葉に反応してしまった。

 理恵も指輪をしているので結婚しているのだろうけど、彼女にも子どもができたのだろうか。

 それにしてもこの世界は、育児と両立できるような世界ではない。

「育児って・・・・・・お子さんいるの?」

「うん。女の子だよ」

「そうか」

「麻季ちゃんは元気? 後輩の女の子に結婚式の写真見せてもらったよ。麻季ちゃんのウエディングドレス綺麗だったね」

「あのさ・・・・・・」

「お子さんもできたって聞いたけど」

「うん。子どもは元気だよ」

「うん? 麻季ちゃんは?」

「元気だと思うけど最近会ってないから」

「・・・・・・どういうこと?」

 理恵はいぶかしげな表情を浮べた。

「実はさ。麻季とは離婚調停中なんだ」

 理恵は驚いたようだった。

「・・・・・・何で」

 彼女はそれまで浮べてた微笑みを消して、呆然としたように僕を見た。

「何で」という理恵の言葉に答えようとしたとき、理恵は誰から声をかけられた。仕事の話らしかった。

「すぐ行くよ」

 ちょっとだけいらいらしたように理恵が話しかけてきた若い男性に答えた。

「じゃあ、僕は帰るよ。子どもたちが寝る前に帰りたいし」

「・・・・・・まさか、麻季ちゃんがいない家にお子さん一人で家にいるの?」

「いや。子どもは二人だよ。実家に預けてるし妹が面倒看てくれているから」

「お子さん一人だって聞いてたんだけど」

 誰から聞いたのか知らないし無理もないけど、理恵の情報は僕と麻季がまだ普通に夫婦をしていた頃の頃のものらしい。

「今度機会が会ったら話すけど、子どもは二人いるんだ」

「博人君、いったい麻季ちゃんと何があったの?」

「いろいろとあったんだよ。ほら、編集部の人が呼んでるよ。また機会があったら会おう」

「ちょっと待って。博人君、明日時間作って」

 どういうわけか、必死な表情で理恵が言った。

 人の不幸に野次馬的な興味があるのか。自分は薬指に結婚指輪をして、幸せな家庭があるくせに。

 最近すさんでいた僕は、理不尽にも少しむっとした。なのでちょっと勿体ぶってスケジュールを確認する振りをした。

「明日? 空いてるかなあ」

 わざとらしくスケジュール帳を探そうとしている僕を尻目に理恵はもう立ち上がっていた。

「名刺の番号に電話するから」

 何とか乱雑なカバンからようやく手帳を取り出した僕には構わず、理恵はもう呼びかけた人の方に足早に歩いて行ってしまった。

 

 実家に帰宅した僕は、既に子どもたちが寝入ってしまったことを唯に聞かされた。

「必死で帰ってきたのにな」

 僕は落胆した。

 この頃の僕の生きがいは、仕事以上に子どもたちだったのだ。

「明日も遅いの?」

 簡単な夜食を運んで来てくれた唯が聞いた。

 明日は理恵から連絡があるかもしれない。それが就業時間後なら唯に断っておく方がいい。

 僕は思い立って今日理恵に会ったことを唯に話した。

「そういやさ。唯は知らないだろうけど、昔引っ越す前に神山さんっていう家があってさ」

「ああ。玲子ちゃんと理恵さんのとこでしょ」

 あっさりと妹は言った。

「・・・・・・おまえ、あの頃まだ生まれてなかっただろ。何で知っているの?」

「だって母親同士が仲良くて定期的に会ってたし、あたしもよくお母さんに一緒に連れて行かれてたもん。最近はあんまり会ってないけどさ。玲子ちゃんとは年も近いし仲いいよ。あと理恵さんもよくその集まりに顔を出してたけど、いつもお兄ちゃんが今どうしているのか聞いてたよ」

「え?」

「何だ。今日は理恵さんと会ってたんだ」

「いや、偶然なんだけど」

 僕は今日あったことを唯に話した。

「理恵さんの旦那さんが何年か前に亡くなったこと聞いた?」

「いや、知らなかった」

 では理恵は未亡人なのだ。育児を玲子さんに任せているというのは、そういう意味だったのか。

「そうか。今日はほんの少し世間話しただけなんで何も聞いてないんだ」

「お子さんが生まれた直後だったみたい。出産とご主人の葬儀と重なって、玲子さん大変だったみたいよ」

「・・・・・・そうなんだ」

 僕は言葉を失った。さっき明るく再会を喜んでくれた理恵も、いろいろ辛い目にあっているようだった。

「でも何か運命的な出会いだよね。理恵さんとメアドとか交換した? 幼馴染同士の久し振りの再会だったんでしょ」

 唯が暗い話はもう終わりだとでも言うように微笑んで続けた。

「お兄ちゃんも幼馴染久しぶりにと再会してちょっとはドキドキしたでしょ?」

 最近の唯にはたまにこういう言動があった。麻季のことを忘れさせようとしているのかもしれないけど、やたら僕に女性と親しくさせようとする。

 奈緒人と奈緒はあたしが面倒看ているから、お兄ちゃんは会社の女の子を誘ってデートしろとか。

 それは一緒にコンサートに行ってくださいと言ってくれた編集部の若い女の子のことを話したときだった。

 彼女は単なる仕事上の部下であってそんな対象じゃないし、そもそも彼女には彼氏がいたのだけど。

 そんな唯だったから僕と理恵の再会にはすごく食いついてきた。

「麻季と僕のことが気になるのかなあ。離婚調停中だって言ったら、明日会おうと言われたけど」

 それを聞いて唯は目を輝かせた。

「それ、理恵さん絶対お兄ちゃんに興味があるんだよ。明日は遅くなってもいいからうまくやんなよ」

「いや。それおまえの思い過ごしだから。それに都内からここまで帰るのにどんだけ時間かかると思っているんだ。終電だって早いのに」

 職場と実家とが距離的に離れていたことも、離婚協議では育児に不利な点としてカウントされていた。

「終電逃したらどっか泊まればいいじゃん。お兄ちゃんのマンションだってまだあるんだし」

「あそこには泊まりたくない。というかそんなことするよりは奈緒人と奈緒と一緒にいたいよ」

「まあそうだろうね」

 少し反省したように唯が言った。

「お兄ちゃんは奈緒人と奈緒が大好きだもんね」

「うん」

「・・・・・・お兄ちゃん、本当に麻季さんには未練ないの?」

「多分、ないと思うよ」

「じゃあ、ほんの少しだけでも、子どもたちのことは忘れて女性とお付き合いしてみなよ」

「離婚調停中なんだぞ。そんな気にはなれないよ」

「大丈夫だって。お互いに離婚を申し出た後なら、婚姻関係破綻後だから、誰とお付き合いしたって不貞行為で有責にはならないから」

 法学部にいる唯が小ざかしいことを言い出した。

「そんなこと言ってんじゃないよ。モラルの問題だ」

「それにさ。お兄ちゃんにもし次の伴侶が見つかったら、養育の面で調停で有利かもよ」

「そんなことを考えてまで女性と付き合いたくはないよ。第一そんなの相手に失礼だ」

「・・・・・・じゃあどうするのよ。別にあたしが内定辞退して奈緒人と奈緒のお母さん代わりをしてあげてもいいけど」

「それはだめ。父さんに殺される。それに唯には唯の人生があるんだし」

「あたしは別にそれでもいいんだけどな」

「おい・・・・・・ふざけんなよ」

「別にふざけてないよ。でもそうしたら収入がないから、お兄ちゃんに養ってもらうしかなくなるけどね」

「だめ」

「冗談だよ」

 妹が笑った。

「まあ、とにかくさ。理恵さんがお兄ちゃんに会いたいっていうなら、明日くらいは付き合ってあげなよ」

「今は子どもたちと少しでも一緒にいたいんだけどな」

 唯はそれを聞いて再び微笑んだ。

奈緒人と奈緒とはこの先ずっと一緒にいられるじゃん。今くらいはあたしに任せなよ。二人ともあたしにすごく懐いているし、お兄ちゃんなんて邪魔なだけだって」

「・・・・・・親権がどうなるかわからないんだし、ずっと子どもたちと一緒にいられる保障なんてないだろ」

「絶対に麻季さんなんかに負けないって。それに親権が心配なら、なおさら奥さん候補を探す努力をしないと。お兄ちゃんがそうしてくれないと、それこそあたしがいつまでも子どもたちの面倒を看るようになっちゃうじゃん」

「唯には悪いなって思っているよ。でも調停の結果とかに関係なく、おまえは就職したら僕たちのことは考えなくていいよ」

「だってこのままじゃお兄ちゃんが育児なんて無理じゃない」

「いざとなれば転職するよ」

「・・・・・・とにかく明日は遅くなってもいいからね。麻季さんなんか早く忘れて理恵さんと楽しんできなよ。嫌いじゃないんでしょ? 理恵さんのこと」

 どうなんだろう。子どもたちを麻季に奪われるかもしれないという不安が日ごとに大きくなっている今、女性と付き合い出すとかは全く考えられなかった。

 

 次の日の就業後、僕は理恵が指定した居酒屋で彼女を待っていた。全く色気のない店だったので唯の期待には応えられそうもな

かったけど、理恵が騒がしい居酒屋を選んだことに僕は密かにほっとしていた。

「博人君、ごめん。待った?」

 混み合った居酒屋の店内で理恵が僕に声をかけた。

「・・・・・・いや」

「何飲んでるの?」

 理恵が僕の向かいに座りながら聞いた。

「先にビールを飲んでる」

「じゃあ、あたしも最初はビールにしよ」

 乾杯をしてから少し沈黙が流れた。

 理恵はきっと麻季と僕との間に何が起こったのかを知りたくて、今日僕を呼び出したのだろう。

 でも呼び出された僕の方は、まるでお見合いに来ているような気分だった。

 僕がそんな気になっていたのは、全部昨日の唯の発言のせいだ。唯は僕に麻季のことを忘れてお嫁さん候補を探すように言ったのだ。

「あのさ」

「あの」

 僕と理恵は同時に言った。お互いに苦笑して再び沈黙が訪れたけど、僕は構わずに続けた。

「ご主人、亡くなったんだってね。妹に聞いたよ」

「唯ちゃんに聞いたんだ・・・・・・説明する手間が省けちゃったな」

 理恵が笑った

「お互いにいろいろあったようだね」

「うん。そうだね」

 何となく同志的な友情を感じた僕が理恵を見ると、彼女も僕の方を見ていた。

 どちらからともなく僕たちは笑い出した。

 大学時代の再会時を通り越して、家が隣同士でいつも一緒に遊んでいた頃に戻ってしまったような気がした。

 それから一時間くらいお互いの話をした。

 理恵はご主人の死後、実家に戻って実家の両親と妹の玲子さんに育児を頼りながら、仕事を続けているそうだ。

 まるで僕と同じ状況じゃないか。

 僕が思わずそう呟くと、理恵は僕と麻季に何があったのか知りたがった。

 人様に話すようなことではないけど、どういうわけか、麻季の不倫や育児放棄、怜菜の出産や事故死

など、僕は理恵に全てを話してしまったようだ。家族と弁護士以外にここまで話したのは初めてだった。

 話し終えたとき理恵から同情されるんだろうと僕は考えた。そしてそんな同情はいらないなとも。

 でも理恵が口にしたのは同情ではなく疑問だった。

「怜菜ちゃんが鈴木先輩と離婚したあと亡くなったのは知ってたけど、彼女、忘れ形見がいたのか」

「うん。それを知っている人はほとんどいないけど」

「そうか。それにしても麻季ちゃんらしくないなあ」

「え」

「麻季ちゃんらしくない」

 理恵は繰り返した。

「どういうこと?」

 僕は少し戸惑いながら理恵に聞いた。別に彼女は特別麻季と親しかったわけではないはずだ。

「わかるよ。麻季ちゃんのせいであたしは博人君に失恋したんだもん」

「何言ってるの」

「大学で博人君に再会したときさ、あたし本当にどきどきしちゃったの。生まれてから初めてだったな。そんなこと感じたの」

 大学時代、僕も理恵と結ばれるだろうと予感していたことを今さらながら思い出した。

 麻季が僕の人生に入り込んで来るまでは、僕は何となく理恵と付き合うんだろうなって考えていたのだった。

「まあ、結局博人君は麻季ちゃんと付き合い出したから、あたしは失恋しちゃったんだけどさ」

「ああ」

「ああ、じゃないでしょ。あっさり言うな。でもさ、学内の噂になってたもんね、博人君と麻季ちゃんって。とにかく麻季ちゃんって目立ってたからなあ」

「そうかもね」

「まあ、麻季ちゃんが何であんな冴えない先輩とっていう噂も聞いたことあるけどね」

「・・・・・・結局それが正しかったのかもな」

 僕は呟いた。

「最初から間違ってたかもしれないな。僕と麻季はもともと不釣合いだったのかも」

「そう言うことを言ってるんじゃない」

 少し憤ったように理恵が言った。

 そのとき、混み合った居酒屋の入り口から入ってきた二人連れの客の姿が見えた。

 何かを言おうとした理恵が僕の視線を追った。「うそ!? あれ、麻季ちゃんじゃん」

 それは恐ろしいほどの偶然だった。僕は前回の一時帰国以来始めて麻季を見のだ。

 麻季は男と一緒に店内に入り、店員に案内されて僕たちから少し離れたカウンター席に座った。

 久し振りに見る麻季は、外見は以前と少しも変わっていなかった。

 ただ、家庭に入っていた頃より幾分若やいで見えた。それに全体に少し痩せたかもしれない。

 カウンターで麻季の隣に座った男は、鈴木先輩ではなかった。

 そのとき、腰かけて周囲を見回した麻季と僕の視線が合った。

 麻季は一瞬本当に驚いたように目を見はって僕を眺めた。彼女は凍りついたように動きを止めたけど、その視線はやがて理恵の方に移動した。

「・・・・・・博人君」

 理恵が向かいから僕の肩に手を置いた。

「大丈夫?」

 その様子は、理恵に気がついたらしい麻季にも見られたはずだった。麻季は視線を自分の横にいる男に移した。そして彼女はその男の肩に自分の顔を乗せて寄り添った。

 それは幸せだった頃、よく彼女が僕に対してよくした仕草そのものだった。男が麻季の肩を抱き寄せるようにして何か囁いている。

 麻季が僕への愛情を失ったことはこれまで何回も悩んで納得していたはずだけど、実際に彼女が僕以外の男とスキンシップを取るのを見たのは初めてだった。

 こんなことで動揺することはない。そもそも麻季は以前鈴木先輩に抱かれているのだから。

 僕はそう思ったけど、実際に再会した麻季に無視され、しかも彼女が知らない男にしなだれかかっている様子を見ると、僕はそんなに冷静ではいられなかった。

 ふと気がつくと理恵が向かいの席から僕の隣に席を移していた。

「麻季ちゃんめ。やってくれるよね」

「何が?」

「・・・・・・でもさ。こういう方が麻季ちゃんらしい」

 何が麻季らしいのか。

 混乱した僕が理恵にその言葉の意味を聞こうとしたとき、理恵は僕の首に両手を回した。

「理恵?」

「仕返ししちゃおう」

 そのまま長い間、僕は理恵に口に唇を押し付けられていた。

 理恵がキスをやめても彼女の両腕は僕に巻きついたままだった。

 僕は麻季に目をやった。

 そのときの麻季のことはその後もずっと忘れられなかった。彼女は隣にいる男に体を預けながら僕と理恵を見つめていた。

 麻季の目から涙が流れ落ちた。

 いったい何でだ。そのことに何の意味があるのだろう。

「出ようよ」

 理恵が立ち上がって僕の手を握って僕を立たせた。

「うん・・・・・・」

 会計を済ませて混み合った居酒屋を出るとき、僕は最後に麻季を眺めた。もう麻季は僕たちの方を気にせず、男と何か賑やかに話し始めていた。

 先に店の外に出ていた理恵を追って外に出ると、彼女は携帯で電話していた。

 理恵の声が途切れ途切れに聞こえてきた。

「うん・・・・・・悪いけど明日香のことお願い。多分、今日は帰れないと思うから」

 理恵が携帯をしまった。

「今日は遅くなっても平気だから」

「何言ってるの?」

「麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ」

 理恵が真剣な表情で戸惑っている僕に言った。

 

「あたしさ、大学時代に一度麻季ちゃんに負けたじゃん?」

 居酒屋から移動した先は、ホテルの高層階の静かなバーだった。理恵の行きつけの店のようだけど、彼女が言うように夜景は素晴らしい。

 窓に面して置かれたソファに僕は理恵と並んで座った。

「・・・・・・別に勝ちとか負けとかじゃないでしょ」

「負けだよ。大学時代、もうちょっとってとこで、博人君を麻季ちゃんに持ってかれちゃったしね。あのとき、あたし結構悔しかったんだよ。しかも博人君たち、同棲して結婚までしちゃうしさ」

「あのさ」

「何?」

「大学で再会したときさ、理恵って僕のこと好きだったの?」

 普段の僕なら、こんなことをストレートに女性に聞くなんて考えられない。

 でも、さっきの理恵のキスの後なら、こういうことを口に出すことも何となくハードルが低かった。

「そうだよ」

 理恵が物憂げに髪をかき上げながら、あっさりと言った。

「でもさ・・・・・・僕と麻季が付き合い出したとき、君はその・・・・・・すぐに僕に近づかなくなったしさ」

「あたし、博人君に捨てないでって泣いて縋りつかなければいけなかったの?」

「そう言うことじゃないけど」

「それにあたし、あのときは博人君に告白だってされなかったし。不戦敗っていうところだったのかな」

「いや、あのときはさ」

「まあ、あたしもプライドだけは高かったからね。何があったか知らないけど、博人君と麻季ちゃんっていつのまにかキャンパスで一緒に過ごすようになっちゃうしさ」

「まあそうだけど」

「でしょ? あのとき君に泣きついてたらみっともない女の典型じゃない。あたしにだって見栄はあるのよ。まして博人君と幼馴染っていうアドバンテージがありながら負けちゃったんだしさ」

 あの頃の僕はいろいろな意味で麻季にかかりきりだった。

 何を考えているのか、今いちわからない彼女に不用意に惹かれてしまった僕は、彼女に対する自分の気持を整理するだけでも精一杯だったのだ。

 麻季に対する気持は、彼女と同棲する頃にはほぼ落ち着いていたのだけど、そこに至るまでの僕には、正直に言って理恵の気持を考える余裕はなかった。

 それにしても、この店に移ってからの理恵は昔話、しかも麻季絡みの話ばっかりだ。

 

『麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ』

 

 このの話はいったいどうなったんだ。

 別に期待して付いて来たわけじゃないし、理恵との昔話が嫌なわけじゃないけど、これでは麻季を忘れるどころかますます思い出してしまう。

 そして今一番考えたくないのが、ついさっき見かけた麻季の涙だった。

 親権を争っている子どもたちに対してはともかく、麻季はもう僕に対しては何の想いも残していないはずなのに。

「いろいろ悪かったよ」

「・・・・・・・謝らないでよ。博人君に謝られたらあたし、まるで情けない片想い女みたいじゃない」

「そういう意味じゃないよ」

「冗談だよ。あたしもすぐに彼氏できたし」

「彼氏って、亡くなった旦那さん?」

「そうだよ。博人君の結婚より何年かあとに彼と結婚したの。あたしの一人娘の父親」

 これまで強気な発言を繰り返していた理恵が泣きそうな表情を見せた。

 理恵のご主人は、彼女が出産のため入院している最中に、自宅で突然病死したそうだ。

 浮気され不倫された挙句、麻季に捨てられた僕とはまた違った悲しみが理恵にもあるのだろう。

 僕は怜菜の死を知ったときの感情を思い起こした。

 あのときはその衝撃と悲しみによって、一時期は麻季に裏切られたことなどどうでもいいと思えるほど自暴自棄になったのだ。

 なので愛し合っていた人を突然理不尽に喪失した痛みは理解できた。

「理恵が結婚してたって、こないだまで知らなかったよ」

「・・・・・・どうせ、あたしのことなんか思い出しもしなかったんでしょ」

「そうじゃないけど」

「唯ちゃんから聞くまでは、あたしのこと忘れていたくせに」

「だから違うって。昨日、君が指輪してるのを見てさ。それで」

「それで? 指輪を見たからどうだっていうのよ?」

 理恵は少し酔っている様子だった。

「どうって・・・・・・。唯に話を聞く前だったから、君もご主人がいるんだろうなって」

「昨日の夜、唯ちゃんからあたしの旦那が亡くなったことを聞いたの?」

「うん」

「そう・・・・・・唯ちゃんって絶対ブラコンだよね。いつも君のことばっかり話しているものね」

 酔っているせいか理恵の話がおかしな方向に逸れた。

「そんなわけあるか」

「あるよ。唯ちゃんって、彼氏いるのに彼氏の話じゃなくて博人君の話しかしないのよ。知らなかったでしょ? それも博人君が麻季ちゃんと普通に夫婦している時からそうだったんだよ」

 だんだん話が逸れて行ったけど、少なくとも麻季の話をしているよりはよかった。

 昔の麻季の気持なんか考えたって前向きな意味はないし、今の麻季の気持を慮っても離婚が覆ったり親権が手に入るわけでもないのだ。

「・・・・・・ええと、これ何だっけ? まあいいや。同じカクテルをください」

「ちょっとペース早いんじゃないの?」

「いいの。大丈夫。それよか、麻季ちゃんのことだけどさ」

「またかよ。忘れさせてくれるんじゃなかったの」

 思わず僕はそう口に出してしまった。理恵が僕をじっと見た。

「別にそれでもいいけど」

「え?」

「別にここは切り上げてそうしてあげてもいいよ」

「何言ってるの・・・・・・」

「でもさ」

 理恵は運ばれてきたカクテルを口に運んだ。

「博人君から聞いた話の麻季ちゃんは彼女らしくないけど、さっきわざと君に見せつけるように好きでもない男にベタベタしたり、あたしと博人君がキスしているのを見て泣いてた麻季ちゃんは麻季ちゃんらしかったなあ」

「意味がわからない」

「あの子らしいじゃん。さっき出会ったのは偶然なのに、博人君があたしと一緒にいるところを見かけた途端、すぐに隣の男に甘える振りをするなんてさ。きっと無意識に君の気を惹きたくてそうしちゃったんだと思うな。君に嫉妬させたかったんだよ」

「そんなわけあるか」

「あたしも、子どもを置き去りにしたり君にDVの罪を着せたりとか、君の話を聞いた後だったからさ。仕返しにキスするところを見せ付けてやったんだ。要は麻季ちゃんがしでかしたことを少し後悔させてやろうと思ったんだけど、まさか泣き出すとはね。思ったより麻季ちゃんってわかりやすい性格してるよね」

「・・・・・・麻季がまだ僕に未練があるって言いたいの」

「未練つうか少しだけ後悔してるんじゃない? 自分が始めちゃったことを」

「理恵ちゃんさ、まさか何か知ってるの?」

「知らないよ、何にも。知ってるわけないじゃん。昨日までは君と麻季ちゃんは幸せな家庭を築いているんだって思ってたんだしさ」

「・・・・・・本当に意味がわからん。あれだけのことで麻季が何を考えているのかわかったなら、理恵ちゃんは超能力者だよ。僕自身、自分の身に何が起こっているのか、麻季が何を考えているのか何にもわからないのに」

「麻季ちゃんがどうして君を裏切ったのかなんてわからないよ。それこそテレパスじゃないんだし。でも麻季ちゃんが君に未練があってさ、そしてどういう理由で始めたにせよ、自分の始めたことを後悔しているくらいはわかるよ」

「それって君の思い過ごしじゃないかな」

「じゃあ何でさっき麻季ちゃんは、あたしが博人君にキスしているのを見て泣いてたのよ」

 理恵が手に持ったカクテルをテーブルに置いて言った。二杯目のそれは既にほとんど中身がなくなっていた。

「麻季は何で泣いたんだろうな・・・・・・」

 僕は思わず呟いた。

「君を見つめて黙って涙流してたよね。あの後、彼氏に言い訳するのに大変だったろうなあ。麻季ちゃん」

「・・・・・・うん」

「まあ、君があたしと仲良くしているところを見て悲しくなっちゃったんでしょうね。自分から君を裏切ったのにね」

「何が何だかわからないな」

 理恵が笑った。

「本当だね。君も昔から麻季ちゃんには振り回されてるよね」

「それは否定できないけど」

「あたしさ」

「うん」

「大学時代に麻季ちゃんから直接言われたことがあるんだ」

「え?」

「博人君から手を引けって。博人君はサークルの新歓コンパのときから麻季ちゃんのことだけを見つめてるんだから、あたしに邪魔するなってさ」

「知らなかったよ・・・・・・麻季が君にそんなことを言ってたんだ」

「まあ、あたしはそんなの真面目に受け止める気なんかなかったんだけどね。だいたい、あたしにはそんなこと言ってたくせに、麻季ちゃんはいつも鈴木先輩とツーショットで歩いているしさ。信用できるかっつうの」

「麻季は感情表現が苦手だからね。あのときは鈴木先輩は麻季が自分に気があるって思い込んじゃったみたいだよ。麻季にはそんなつもりは全くなかったって」

「そう麻季ちゃんが言ってたことを、君は今でも信じているんだ」

「え」

「その数年後、麻季ちゃんは君を裏切って先輩と寝たのに?」

「・・・・・・あのときは麻季も育児ばっかで鬱屈していたし」

「君の奥さんなのに、大切な子どもがいたのに先輩に抱かれたんでしょ? そこまでされても大学時代の麻季ちゃんの言い訳を疑わないのね」

「理恵ちゃんは何か知っているの?」

 理恵が両手を上に伸ばして大きく伸びをした。わざとらしいといえばわざとらしい仕草だ。

「駄目だなあたし。今日はこんなことまで話すつもりはなかったんだけね」

 理恵は何かを知っているのだろう。

 僕はもう黙って彼女の話を聞くことにした。聞いてしまったら本当にもう戻れないかもしれないけど。

 ふと思ったけど、理恵が麻季のことを忘れさせてあげるというのは、勝手に僕が期待したような意味ではなかったのかもしれない。

 僕の知らない麻季の姿を教えることによって、僕の未練を断ち切るつもりだったのかもしれない。

 こんなことまで話すつもりはなかったと理恵は言ったけど、麻季と偶然に出合って動揺する僕を見て、理恵は知っていることを全部話すつもりになったのだろうか。

「博人君って、大学時代に麻季ちゃんが君と付き合う前に何人彼氏がいたか聞いたことある?」

 麻季は過去のことを極端に話さなかったし、自分の写真アルバムを実家から持って来たりもしなかった。

 彼女の携帯の写メだって僕か奈緒人の写真くらいしか保存されていなかったし。

「大学入学直後に鈴木先輩と付き合ってたじゃない? それは知ってるでしょ」

「だからあれは麻季の口下手のせいで先輩が勘違いしたんだよ」

「違うよ。あたし二人がキャンパス内で抱き合いながらキスしてたのを見たことあるもん」

 もう麻季について、これ以上ショックを受けることはないと思っていた僕は、その話に唖然とした。

「先輩だけじゃないのよ。麻季ちゃんと噂になっていた相手の男って」

「君の勘違いじゃないの?」

「博人君たちの披露宴の後ってさ、二次会しなかったんでしょ?」

「麻季が友だち少ないって言ってたからね。友だち呼んでパーティーするより、早く二人きりになりたいって言ってたから」

 それも幸せだった過去の記憶の一つだった。

 

『ごめんね。あたし博人君と違って社交的じゃないし。披露宴には来てくれる友だちはいるけど、二次会で盛り上がってくれるような知り合いはあんまりいないの。こんな女で本当にごめん。でもできれば披露宴の後は博人君と二人きりで過ごしたい』

 

 それでも披露宴では麻季は女友達から祝福されていた。「麻季きれい」と囁いていた彼女の女友達の声。

「あたしはその場にはいなかったから後で後輩に聞いたんだけどさ。二次会なかったから、飲み足りない大学の人たちで繰り出したらしいよ」

「うん」

「披露宴の新婦側の出席者が悪酔いしてさ。麻季ちゃんの悪口で深夜まで盛り上がったんだって」

「意味がわからない」

「麻季ちゃんと関係のあった男たちが酔っ払って未練がましく曝露したんだって。俺だって麻季ちゃんと付き合ってたのにとか、麻季ちゃんと泊まりがけでデートしたことあるのにとか、思わせぶりな素振りで俺に近づいてきたくせにとかって」

 僕は言葉を失った。

 それが事実なら、僕が知っている麻季の姿は虚構だったということになる。僕は頭を振って考え直した、

 当時の僕は麻季の男関係を詮索したりはしなかった。それを離婚協議中の今になって蒸し返したってしかたがない、それに初めてのとき麻季は明らかに処女だったのだ。

「結局さ。あの性格のせいであまり友だちができなかった麻季ちゃんは、自分の女を武器にして男たちにちやほやされることを選んでたんだと思うよ。だから麻季ちゃんの気持を勘違いしてたのは鈴木先輩だけじゃないよ。博人君と麻季ちゃんが付き合い出して傷付いた男は一人二人じゃなかったんだよね。実際にあたしも鈴木先輩以外の男といちゃいちゃしている麻季ちゃんのこと見かけたことあるし」

「勘違いしないでね。麻季ちゃんが博人君を一番好きなのは間違いないと思うよ。多分、今でも」

「・・・・・・今でもって。あんだけひどいことを言われて離婚を求められてるんだよ。麻季が今でも僕のことを好きだなんて考えられないよ」

「でも、さっきあたしと君がキスしているところを見て泣いてたよね。彼女」

「もてないと思っていた旦那が、君みたいな綺麗な女とキスしているのを見て動揺しただけでしょ。とにかく麻季は僕のことを一番好きどころか、今では一番嫌いなんだと思うよ」

「・・・・・・今の、もっかい言って?」

「へ?」

「あたしみたいなってとこ、もう一回言ってよ」

「いや・・・・・・あの」

「博人君、あたしのこと綺麗だと思う?」

「・・・・・・うん」

「そっか・・・・・・」

 やはり酔っているせいか、理恵は今日初めて幸せそうに微笑んで僕に寄りかかった。

「うれしいよ、博人君」

「うん」

「いろいろ辛い話してごめんね。結局忘れさせるどころか思い出させちゃったみたいだね」

「まあ、そうだね」

 僕は寄り添ってきた理恵の肩に手を回した。

「あたしたち、今いい感じかな?」

 肩に回した僕の手に自分の手を重ねながら理恵が言った。

「・・・・・・普通口にするか? そういうこと」

「そうなんだけど。今日昼間に唯ちゃんからメールもらってさ」

「うん?」

「・・・・・・兄貴のことよろしくお願いしますってさ」

「何勝手なこと言ってるんだ。唯のやつ」

「ブラコンの唯ちゃんも、あたしにならお兄ちゃんをあげてもいいって言ってくれたのよ」

「あいつ、何の権利があって」

「でもさ、あたし自信ないって断ったの」

「え」

 麻季を忘れることができるかどうかはともかく、理恵の僕に対する好意については僕は全く疑っていなかったのに。

 その自信がいきなり崩されたのだ。

「君に詳しく話を聞く前だったけど、今日君の話を聞いてもやっぱりあたしには自信がないな」

 僕に寄り添って手を重ねながら、今さら理恵は何を言っているのだろう。

「せっかく今君といいムードなのに、ごめんね」

「麻季のこと気になるの?」

「ううん。麻季ちゃんがさっきみたいにいくら泣こうが喚こうが全然気にならないよ」

「じゃあ何で?」

 このとき僕は冷静だったと思う。理恵は予想外の言葉を口にした。

「麻季ちゃんなんてどうでもいいよ。あたしが本当に気にしているのは怜菜ちゃんだよ」

 僕は凍りついた。

「あたし、今でも君のことが好き。多分、麻季ちゃんも今でもあなたのことが一番好きだと思う。でも麻季ちゃんがこんなことをしでかしたのも、怜菜ちゃんと博人君の関係に悩んだからだと思う」

「博人君」

 理恵が僕に聞いた。

「君は今でも亡くなった怜菜ちゃんのことが好きなんじゃないの?」

 少し酔ってはいたけれど、僕は理恵の言葉を胸の中で反芻してみた。

 これまで僕は麻季が突然僕に離婚を要求してきた理由がさっぱりわからなかった。

 太田弁護士の受任通知や、その後の弁護士同士の交渉を経ても、麻季の動機が理解できないという意味では何の進展もないのと同じだったった。

 それでも何となく心に浮かんでいたのは、何らかの理由で麻季が再び心変わりして、僕ではなく鈴木先輩を選んだのではないかということだった。

 というより、それ以外には思い浮ぶ動機はなかったのだ。

 今、僕は理恵の言葉を受けて、改めて自分の心を探ってみようと思った。

 いわゆる浮気や不倫と言われる行為について、僕は潔白だった。夫婦間のお互いへの貞操義務という観点からすれば、明らかに有責なのは麻季の側だった。

 ただ僕の方も怜菜に対して、まるで中学や高校のときの初恋のような淡い想いを抱いたことがあった。

 それから僕は改めて理恵の質問について考えた。

 怜菜が亡くなった今でも、僕は怜菜のことが気になっているのだろうか。

「好きか嫌いか聞かれれば、それは好きだと思うよ。あれだけか弱そうな外見で、あれほど芯の強い女性を僕は今まで見たことがなかった。彼女のそういうところに僕は惹かれていたんだし、その思いは彼女が亡くなっても変わるようなものじゃないよ」

 理恵は僕に寄り添ったまま少しだけ笑った。

「やっぱね。でも話してくれてありがとう。あたしもそんなに親しいというわけじゃないけど、大学時代に怜菜ちゃんとは知り合いだったの。けっこう好きだったのよ、彼女のこと。博人君が怜菜ちゃんに惹かれるのなんとなくわかるよ」

「何言ってるの」

「でもね」

 理恵が僕から少しだけ身体を離して言った。

「麻季ちゃんが突然こんなことをしでかしたのは、博人君と怜菜ちゃんの仲に嫉妬しちゃったからかもしれないね」

「あれから何年経っていると思ってるの。確かに怜菜さんが亡くなった直後は、麻季からそういう話も出たことはあったよ。奈緒の名前のことで揉めたこともあった。でもそのことはとうに克服したものだと思っていたんだけどな」

「そうか」

「うん。だから僕と怜菜さんのことが原因ではないと思う。やはり離れている間に、麻季は鈴木先輩の方が僕のことより好きだってことに気がついたんだろうね。結局、麻季は僕じゃなくて先輩を選んだんだよ」

 実際にそうとしか考えられなかったから僕はそう理恵に言った。

 いっそ麻季の口から鈴木先輩と暮らしたいのと正直に言われた方がよかった。彼女がはっきりとそう言ってくれたら、僕は麻季の要求どおりに彼女を自由にしたと思う。

 それなのに麻季は正直に告白するのではなく、僕のことを誹謗中傷することを選んだのだ。

「それは違うと思うけどな」

「何で?」

「だって・・・・・・。さっき麻季ちゃん、あたしとキスしている博人君を見て泣いてたじゃん。あたしと博人君が一緒にいるのを見て、男に寄り添うみたいな様子をあなたに見せ付けてたしさ」

 確かに、僕より鈴木先輩を選んだとしたらあそこで麻季が泣く理由はない。

「それにさ。せっかく復縁した博人君のことなんかどうでもいいほど鈴木先輩が好きなら、鈴木先輩以外の男と二人きりで飲みに来たりしないんじゃない?」

 それもそのとおりかもしれない。麻季の涙に混乱してあまり気にしていなかったけど、麻季が寄り添っていた男は鈴木先輩ではなかった。

「理恵ちゃんさ」

「なあに」

 理恵も少し酔っている様だった。不覚にも僕はそういう理恵を可愛いと思った。

「麻季は僕より先輩を選んだんじゃなくて、僕と怜菜さんの仲に嫉妬したからこんなことをしでかしたって思っているの?」

「多分ね。それにしても受任通知の内容とか理解できない点はあるけどさ」

「そうだよな」

「まあ、いいや。怜菜ちゃん本当にいい子だったよ。麻季ちゃんなんかの親友にはもったいないね」

 それには何て答えていいのかわからなかったので、僕は黙ったままだった。

 そしてこんなにシリアスな話をしているというのに、理恵は僕に寄り添っているし僕は理恵の肩を抱いている。

「ごめんね。麻季ちゃんのこと忘れさせるどころ、かかえって思い出させちゃって」

「いや。僕は別に」

「じゃあ、これから忘れさせてあげるよ。この店お勘定しておいてくれる?」