yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第2部第3話

 怜菜が交通事故で亡くなる前、僕は怜菜からメールを受け取った。

 怜菜が鈴木先輩と離婚してから半年近い月日が経過した頃だった。

 それは職場のPCのメーラーに届いていた。

 口には出さなかったけど、鈴木先輩と麻季と同じことをすることが気になって、僕は怜菜と携帯電話の番号やメールのアドレスを交換しなかった。

 だから怜菜は、名刺に記されていた職場のアドレスにそのメールを送信したのだろう。

 

from:太田怜菜

to:結城先輩

sub:ご無沙汰しています

『先輩お久し振りです。お元気に過ごしていらっしゃいますか。突然会社にメールしてしまってすみません。先日は見本誌を送付していただいてありがとうございました。そしてお礼が送れてすみませんでした。あたしが言うのも失礼ですけど、いいインタビュー記事でした。さすがは先輩ですね。うちの上司も喜んでいました』

『現在あたしは育児休業中です。先輩にはお知らせしていませんでしたけど、無事に女の子を出産いたしました。育児では大先輩の結城先輩に言うことではないですけど、この子があたしの支えになってくれています。以前お会いしたとき、あたしは先輩に失礼なことを言いました。「子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」って』

『でも今になってみると先輩の気持ちがわかります。今では本当にこの子のためなら何でもできると考えているあたしがいます。正直一人で育てていますので、辛いことはいっぱいあります。でもこの子の寝顔を見ていると、頑張らなきゃって思い直す日々を送っています』

『どうでもいいことを長々とすいません。最近、偶然に学生時代の友人に会いました。彼女は今は都内の公立高校の音楽の先生をしているのですけど、先日麻季に会ったことを話してくれました。休日のショッピングモールで偶然に出会ったみたいですね。先輩もご記憶かもしれません。休日出勤の途上の彼女は、麻季と立ち話で近況を報告しあっただけで別れたそうですけど、「麻季のご主人がお子さんの手を引いていたよ」と、そして「麻季はあたしと立ち話をしている間もご主人のもう片方の手にずっと抱きついていたよ」って言っていました。いいご夫婦で麻季がうらやましいって言ってましたね。彼女も未だに独身なんで(笑)』

『おめでとう先輩。元の旦那と離婚したこと自体には後悔はないのですけど、あたしなんかが余計なメールを先輩に見せたことで、先輩と麻季の人生が狂わないかとそれだけが心配でした。先輩なら麻季の気持ちを取り戻せるんじゃないかとは信じていましたけど』

『もう結城先輩とお話する機会はないでしょうし、ご迷惑でしょうからメールもこれで終わりにします』

『最後だから言わせてください。あたしは学生時代から結城先輩に片想いしていました。麻季が先輩と付き合い出したと教えてくれたとき、あたしは本当に目の前が暗くなる思いでした。でも麻季は親友でした。麻季は昔から綺麗でしたけど、性格に少し理解されにくいところがあったので友人は少なかった。でもあたしはその数少ない友人、いえ親友でした。だから先輩と麻季の結婚には素直に祝福したのです』

『その後、あたしは業界の繋がりで元の旦那に再会しました。しばらくして彼に口説かれて結婚したことをあたしはすぐに後悔しました。今までははっきりとは言いませんでしたけど、彼は結婚直後から女の出入りが激しかった。浮気がばれたことなんて片手では収まらないほどでした』

『でもそれは元の旦那が自分が既婚者であることを明かした上での付き合いでした。ところがある日、嫉妬と不安に駆られたあたしが彼の携帯のメールをチェックすると、彼は自分が独身であると言って麻季を口説いていたことを知りました。麻季があたしの親友であることを彼は知っていたのに。その後のことは先輩もご存知ですね』

『先輩はあたしのことを強い女だと言ってくれました。でもそれは誤解です。あたしは弱く卑怯な女でした。先輩から取材の依頼メールが来たとき、あたしの胸は高鳴りました。本当はあのインタビューの件はあたしの上司の係長が担当することになっていたのですけど、あたしはこの人は音大時代の親しい先輩だからと嘘を言って、自分が担当になることを納得してもらったのです』

『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなことをあたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はあたしが旦那と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩あたしに好意があるからではないことは理解していました』

『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちに、あたしは目が覚めました。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は、自分の娘を出産したときに感じた思いを通じて、間違っていなかったんだなって再確認させられたのです』

『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理なんて先輩にはないのに。でもあたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季とやり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう心境に導いてくれました』

『先輩のことだから麻季の携帯のチェックなんて卑怯な真似はしていないと思います。あたしから先輩への最後のプレゼントです。昨日噂を耳にしました。最近荒れていた元旦那に彼女ができたみたいです。あたしが元旦那に離婚を切り出したときも彼は平然として、君が僕のことを信じられないならしかたないねと言っていました。その旦那が最近ふさぎこんでいることをあたしは知り合いから聞いていました。最初はあたしと別れたからかなって思っていたんですけど、そうではないようです。やはり麻季が元旦那にきっぱりと別れを告げたみたい。結局麻季は結城先輩を選んだのです』

『そして元旦那も麻季のことを諦めて、次のお相手をオケ内で調達したらしいです。いつまでも独身で麻季を待つと言ったあのセリフはどこに行ったんでしょうね(笑)』

『これであたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こんどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってます』

 

 怜菜の離婚後も、結局なし崩しに麻季とのやり直しを選択した僕は、その辛いメールを読み終わった。

 それから数日後に、混乱した想いを乗せたメールを返信したのだけど、それは送信先不明で戻ってきてしまった。

 そのとき僕は、業務上の用件を装って首都圏フィルに電話した。知らない女性の声が応対してくれた。

『首都フィル事務局です』

『・・・・・・音楽之友社の結城と申しますけど鈴木さん、いや太田さんをお願いします』

 鈴木さんか太田さんわからない人からわけのわからない電話が僕にあったことが、つい昨日のようだった。

『鈴木は退職いたしました。後任の加藤と申します。どんなご用件でしょう』

『いえ、すみません。ちょっと個人的な用件で電話しました。失礼いたしました』

 電話口の加藤さんと名乗る女性は、僕の慌てている様子に少し同情してくれたらしかった。音楽之友社の肩書きも多少は有利に働いたのかもしれない。

『鈴木に何かご用でしたか』

『はい。連絡先を教えていただけないでしょうか』

 無理を承知でそう言った僕に加藤さんは答えた。

『それはお教えできません。業務上のご連絡でないならこれで失礼させていただきます』

『すみません。ありがとうございました』

 これで本当に怜菜と僕の繋がりは断ち切られた。

 

 怜菜のメールにあるとおり、怜菜と先輩が離婚したあとも僕は麻季と別れなかった。

 怜菜の決断に従って自分の行動を決めようと思っていたのだけど、この頃から奈緒人が急速に成長していたこともあり、僕はそんな奈緒人を大切に育てようとしている麻季と別れることができなかった。

 麻季と先輩の仲とか、最後に会ったときの怜菜の寂しそうな表情とかが僕を苦しめたけど、息子の成長を見守ることがそのときの僕にとって最優先事項になっていたのだった。

 怜菜の最後のメールで怜菜の心境を始めて知った僕は心を揺り動かれたのだけど、同時に麻季が先輩と本当に縁を切ったらしいという話にもほっとしていた。

 麻季が本当に僕のところに戻ってきてくれた。怜菜の告白に動揺していたし、心が動いたことも事実だったのだけど、やはり僕は心底から奈緒人を、そして奈緒人の母親、麻季を愛しているようだった。

 それから数週間後、怜菜への同情と未練を断ち切った僕は、珍しく早い時間に帰宅できた。自宅の近所での取材の帰りに直帰することができたのだ。まだ明るい時間に帰宅するのは久し振りだった。

 これなら奈緒人がおねむになる前に、息子と一緒に過ごすことができる。僕はそう思って自宅のマンションのドアを開けた。そこには黒づくめの喪服姿の麻季が立っていた。

「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだもん」

「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよりその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」

奈緒人は実家に預けようかと思ったんだけど、博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これからお通夜に行きたいだけど」

「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」

「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」

「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」

「博人君は知らないと思う。わたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子で太田怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」

「・・・・・・」

「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」

「・・・・・・やっぱり送って行く」

「わたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」

「連れて行く。君が帰ってくるまで、車の中で奈緒人に食事させて待ってるから」

 麻季はいつもと違う雰囲気の僕に不審を感じたようだった。麻季の勘は時として鋭い。

「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」

「とにかく一緒に行こう。僕も外で手を合わせたいから」

 自然と涙が溢れてきた。麻季の目の前で泣いてはいけないことはわかっていたし、怜菜だってそれは望んでいなかっただろう。

 でもこれはあんまりだ。鈴木先輩と麻季の不倫に悩んだ挙句、彼女は自分の娘だけを生きがいに生きて行こうとしていたのに。

「あとで全部話すよ。とにかく出かけよう」

 麻季はもう逆らわずに奈緒人を抱いて車に乗った。

 僕には今でも自宅から斎場まで運転したときの記憶がない。麻季によれば僕はいつものとおり安全運転で、斎場まで麻季を連れていったそうだ。

 僕の記憶は、通夜の弔いを済ませた麻季が青い顔で車のドアを開けたところまで飛んでいる。

 そこから先の記憶はある。

 麻季がいつもは奈緒人と並んで座る後部座席ではなく、助手席のドアを開けて車内に入ってきた。

「何で?」

「何でって?」

 僕はそのとき冷たく答えた。

 怜菜の死には先輩にも麻季にも関わりがないことだった。でもそのとき意識を覚醒した僕は、怜菜の淋しそうな微笑みを思い出した。

 怜菜の死に責任はないかもしれないけど、その短い生涯を閉じる直前に、怜菜を追い詰めた責任は彼らにある。

「何で親族席に鈴木先輩がいたの。何で鈴木先輩が泣いていたの」

 離婚して間がないことから、親族の誰かが気をきかせたのだろうか。もう離婚していたあいつには、親族席で怜菜の死を悼む権利なんてないのに。

「とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」

「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の怜菜のことなのに」

 助手席におさまったまま、麻季は本格的に泣き出した。

 

 その日も陰鬱な雨が降りしきっていた。

 午前中に僕の実家に奈緒人を預けた僕と麻季は、僕の運転する車で都下にある乳児院を併設した児童養護施設に向っていた。

 本来ならもう桜が咲いていてもいい季節だったけど、その日は冬が後戻りしたような肌寒い日だった。

 やがて海辺の崖に面している施設の入り口の前に立ったとき、僕は隣に立っている麻季の手を握って問いかけた。

「本当にいいのか」

「うん。もう決めたの。博人君はわたしを許してくれた。そして怜菜もわたしを許してくれていたとあなたから聞いた。信じてくれないかもしれないけど、わたしはあなたと奈緒人が好き。一番好き。もう迷わない。あなたはそんなわたしのことを信じているって言ってくれた。本当に感謝しているの」

「それはわかったよ。でも血が繋がっていない子を引き取るとか・・・・・・本当に大丈夫なのか」

 麻季は僕の手を強く握った。

「大丈夫だよ。わたしは怜菜の子どもを立派に育ててみせる。怜菜はわたしのせいで離婚したんでしょ。本当なら両親に祝福されて生まれて大切に育てられていたはずなのに」

「そう簡単なことかな。奈緒人だってまだ手がかかるのに」

「博人君は君の好きなようにすればいいって言ってくれたでしょ。今になって心配になったの?」

「違うよ。君が決めたんなら僕も協力する」

 僕はそのとき怜菜のことを思い出した。

 怜菜。わずか数回しか顔を会わせなかった怜菜。旦那の浮気に対してひとり毅然として立ち向かった怜菜。腰砕けでだらしない僕をさりげなく慰めてくれた怜菜。こんな僕のことを好きだったって、最後のメールで告白してくれた怜菜。

 彼女はもういない。

 熱を出した娘を病院に連れて行った帰りに、暴走して歩道に乗り上げた車にひかれて彼女は死んだ。

 麻季の話では怜菜は即死ではなかった。自分が抱きしめて守った娘のことを最後まで気にしながら、救急車の到着前に現場で息絶えたそうだ。

「行こう、博人君」

「うん」

 僕たちは手を繋いだまま施設の中に入った。施設の中に入ると、大勢の子どもの声が耳に入った。

 僕たちの考えは相当甘かったようだ。施設の職員は親切に対応してくれたけど、彼女が説明してくれた要件は厳しいものだった。児童虐待が普通にありえるこの世の中では、当然の措置なのだろう。

 養子縁組には、民法で定められたルールがある。養子となる子が未成年者の場合、家庭裁判所の許可が必要だ。

 さらに養子となる子が十五歳未満の場合は、法定代理人の同意が必要となる。

 もちろん今回のケースでは、法定代理人は実の父親だった。怜菜の死後、鈴木先輩は怜菜の遺児を認知していた。

 つまり、麻季の希望どおり玲奈の遺児を養子として引き取るためには、鈴木先輩の同意が必要なのだ。

 それは鈴木先輩と怜菜の関係を知った麻季にはかなりハードルが高いことだったと思う。

 僕は怜菜の通夜から帰宅して奈緒人を寝かせたあと、怜菜とのやり取りを全て麻季に話した。当然、麻季は錯乱した。夫である僕に嘘をついて、鈴木先輩とメールを交わしていたことを僕に知られたことや、先輩が実は独身ではなかったことを知った以上に、怜菜が鈴木先輩と麻季との関係を知りながら、麻季を責めずに黙って僕と会っていたことがショックだったようだ。

 麻季の受けたショックが僕と怜菜が密かに会っていたせいか、怜菜が自分を責めずに最後まで恨むことがなかったことを知ったせいか、どちらが原因なのかはわからない。

 怜菜の死には僕も相当ショックを受けていた。そして僕はもう何も麻季に隠し事をしなかった。

 怜菜が、僕が自分の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後に怜菜から会社に届いたメールのことも話した。自分も一瞬、怜菜が僕の妻だったら幸せだったろうと考えたことも麻季に告白した。

 それでどうなろうと、もう僕にはどうでもよかった。

 怜菜を救ってあげられなかった絶望に、僕は打ちひしがれていた。

 奈緒人のことは大切だけど、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことを考えると、僕は先輩と麻季のことなどどうでもよかった。

 麻季が先輩との関係を誤魔化したり、怜菜のことを悪く言うならそれまでのことだ。

 そうなったら僕は奈緒人の親権だけを争おう。今の仕事では奈緒人を育てられないというのなら転職だって辞さない。道路工事のアルバイトをしたって奈緒人を育てて見せる。

 でも怜菜とのやりとりを聞かされた麻季は泣き出した。それは先輩に騙されたことへの涙ではなく、先輩と離婚した怜菜が最後まで麻季を責めずに、僕との復縁を応援してくれたことを知ったときのことだった。

 怜菜の名前を叫びながら泣きじゃくる麻季の姿を見て、僕はもう一度彼女とやり直してみようと思ったのだ。

「わたし、鈴木先輩と話す」

 養護施設の職員から制度の説明を受けたあと、施設を後にした麻季は僕にきっぱりと言った。

「絶対に了解させるから」

 そのとき、自分の言葉の勢いに気がついた麻季は一瞬うろたえた様子で僕を見た。

「別にわたしが言えば先輩が言うことを聞くとかそういうことじゃなくて」

 最後の方は聞き取れないくらいに小さい声で麻季は言った。

「もういいよ。僕たちはお互いに全部さらけ出した上で、やり直すことを選んだんだ。今さらそんなことを気にしなくていいよ」

「・・・・・・だって」

「決めた以上はお互いに気を遣ったりするのやめようよ。僕も正直に君への気持とか、怜菜さんに惹かれたことがあることも話したんだ。もうお互い様じゃないか」

「それはそうだけど・・・・・・。博人君の話を聞いていると、あなたは本当は怜菜みたないな子の方が似合っていたんじゃないかと思ってしまって。あなたが怜菜の気持に応えていたら、今頃怜菜も死なずに幸せに暮らしてたのかな。そんなことを考える資格はあたしにはないのにね」

「もうよせよ。それより本当に先輩に話すの? 勝算はあるんだろうな」

「大丈夫だと思う」

「僕が先輩に話した方がいいんじゃないか」

「・・・・・・ううん。わたしにさせて。もう先輩と何とかなるとか絶対ないから。先輩が独身だってわたしに嘘を言ったことよりも、離婚したとはいえ自分の子ども引き取らずに施設に預けるような人だと知って、もう彼には嫌悪感しか感じない。友だちがほとんどいないわたしにとって怜菜はようやくできた親友だったの。散々裏切っておいてこんなことを言えた義理じゃないけど、お願い。わたしを信じて」

 僕は彼女を信じて施設からの帰り道、先輩がいるだろう横浜市内にある横フィルのリーサルスタジオに麻季を送り届けた。

「待っていてくれる?」

「もちろん」

 一時間後に横フィルのスタジオから麻季が早足で出てきた。

 車のドアを開けて助手席に乗り込んだ麻季は、僕に法廷同意人である鈴木先輩の署名捺印がある用紙を見せた。

「お疲れ」

「うん。わたし頑張ったよ」

 麻季が僕に抱きついて僕の唇を塞いだ。周囲の通行者たちからは丸見えだったろう。

 

 その後は、児童擁護施設の研修や施設職員の家庭訪問と面接があった。最終的に家庭裁判所の許可を経て、僕たちは養子縁組届を区役所に提出した。

 こうして亡き怜菜の忘れ形見である女の子、奈緒が僕たちの家庭にやって来たのだった。

 奈緒人と奈緒は初顔合わせの瞬間からお互いにうまが合うようだった。

 まだ奈緒は幼いけれど、奈緒人の方はもう自我が出来上がり出す頃だったので、僕と麻季はそのことが一番心配だったから、奈緒人と奈緒が仲がいいことに心底からほっとした。

 僕たちの心配をよそに二人はすぐにいつも一緒に生活することに慣れたようだった。

 麻季も育児自体は奈緒人で慣れていたから、奈緒を育てることに戸惑いはないようだった。

 この頃の僕は相変わらず仕事は忙しかったけど、それでもいろいろやりくりしてなるべく早く帰宅し、週末も家にいるようにしていた。

 そのせいで昼休も休まずに仕事をする羽目にはなったのだけど。

 毎日帰宅すると、僕は迎えてくれる麻季に軽くキスしてから子どもたちを構いに行った。

 奈緒人はだいたい起きていて、僕に抱きついてきた。

 奈緒はまだ幼いので眠っていることも多かったけど、たまに起きている時は僕の方によちよちとはいはいしてきて抱っこをねだった。

 そんな僕と子どもたちの様子を、僕から受け取ったカバンを胸に抱いたまま、麻季は微笑んで眺めていた。

 概ね順調な生活を送っていた僕たちだけど、やはりあれだけのことがあった以上何もなかったようにはいかなかった。

 麻季と鈴木先輩の関係に関しては、僕はもう別れて何の連絡もないという麻季を信じていた。

 だから、以前のようにそのことが夫婦間のしこりになることはなかったはずだったのだ。麻季は真実を知った瞬間、自分の行いを心底後悔したと思う。

 先輩に独身だと騙されていたとはいえ、自分の親友の怜菜を裏切ってつらい思いをさせていたこと。それでも怜菜は麻季を恨むことなく、僕と麻季の幸せを祈ったまま先輩と離婚したこと。

 そして一人で出産し奈緒を育てる道を選んだ怜菜が、娘の奈緒を庇いながら事故死したこと。

 全てを知って奈緒を引き取って育てる道を選択した麻季だけど、それだけで過去を割り切るわけにはいかなかったようだ。

 順調に子育てをしているように見えた麻季だけど、しばらくするとやたらに麻季が僕に突っかかってくるようになった。

 麻季が一番こだわっていたのは奈緒という怜菜の遺児の名前のことだった。

 怜菜はなぜ娘に奈緒という名前を付けたのか。

 怜菜は僕や麻季への嫌がらせで自分の最愛の娘にその名前を付けるような女ではない。

 怜菜は最後のメール以降、首都フィルを黙って退職して僕との連絡を絶った。

 怜菜が事故に遭わずに存命していたら、僕も麻季も怜菜の娘の名前を知ることはなかったろう。だからこれは嫌がらせではなかった。

 第一、怜菜が麻季への嫌がらせのためだけに、生命をかけて自分が守った娘の名前を命名するなんて考えられなかった。

 その点では僕と麻季の意見は一致していた。

 それでも、自分のお腹を痛めた息子の名前にちなんだとしか思えない奈緒という名前を娘に付けた怜菜の意図を考え出すと、麻季は冷静ではいられなかったようだ。

 怜菜がもう亡くなっているので、その意図は永遠に不明のままだ。だからそれは考えてもしようがないことなのだ。僕はそう麻季に言った。

 最初のうちは麻季は僕の言葉に納得していた。

 育児もうまく行っていたし、そのことだけで家庭を不和にするつもりは麻季にもなかった。先輩とのメールのやり取りで僕に嘘をついていたことを僕に知られていたことに対して、麻季が負い目を感じていたということもあったからかもしれない。

 それでもしばらくすると、麻季は奈緒の名前について文句を言うようになった。

 確かに兄妹に奈緒人と奈緒という名前は普通は命名しないだろう。別にはっきりとどこが変というわけではないけど、常識的には男と女の兄妹に一時違いの名前はつけないだろう。

 麻季は最初は柔らかくそういうことを寝る前に僕に話しかけてきた。この先そのことに周囲が不審に思い出すと、子どもたちがつらい思いをするかもしれないと。

 それは強い口調ではなかったので、子どもたちをあやすのに夢中になっていた僕はあまり深くは考えなかった。それがいけなかったのかもしれない。

 怜菜に対して罪悪感を感じていたはずの麻季は次第に怜菜のことを悪く言うようになった。

 ある夜、子どもたちを寝かしつけたあと、リビングのソファに僕と麻季は並んでくつろいでいた。

 翌日が休日だから、僕たちは麻季が用意してくれたワインとチーズを楽しもうと思ったのだった。

 結構いいワインに少し酔った僕は、久し振りに麻季を誘ってみようかと考えていた。麻季と和解してからずいぶん経つけど、怜菜の死や奈緒を引き取るといった事態が重なったこともあって、僕たちは相変わらずレスのままだった。

 今なら麻季を抱けるかもしれない。久し振りの夫婦の時間に僕は少し期待していたのだ。

 でも麻季は自分で用意したワインには一口も口をつけず暗く沈み込んだ顔で言った。

「怜菜を裏切ったわたしが言えることじゃないとは思うよ」

「でも、何で奈緒人の名前をもじって、奈緒なんて命名したんだろ。怜菜は博人君にはわたしのことを恨んでいないと言ったらしいけど、本当はすごく恨んでたんじゃないかな」

「いや。怜菜さんは本当に君を恨んだりはしていなかったよ」

「それなら何でわざとらしく奈緒なんて名前を付けるのよ。怜菜のわたしへの復讐か、あなたへの愛のメッセージとしか考えられないじゃない。そんな気持で命名された奈緒だって可哀そうだよ。あの子には何の罪もないのに」

 罪があるとしたら先輩とおまえだろ。僕はそう言いそうになった自分を抑えた。

「怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわった。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら、先輩のことすら恨んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな」

 僕はそのとき浮気の証拠を先輩に突きつけることもなく、ただ先輩が自分に帰ってくるのを耐えながら待っていた怜菜を思い出した。

 僕が君は強いなと言った言葉を怜菜は否定した。自分だって旦那に隠れて泣いているのだと。

 でも、今思い返しても怜菜はやはり強い女性だった。結局最後まで自分の意思を貫いて先輩と別れ一人出産したのだから。

 あえてつらいことを思い出すなら、怜菜が自分の弱さを見せたのは、最後に怜菜と会った時だろう。

 あの時は、怜菜は僕に惹かれていたとはっきり言った。そのとき僕は麻季と鈴木先輩のような隠れてこそこそするような卑怯な関係になりたくなくて、はっきりした返事をしなかった。

 でもそれが愛かどうかはともかく、僕がそんな怜菜に惹かれていたこともまぎれもない事実だった。

「そうね。聖女か。怜菜は真っ直ぐな子だったよ。大学時代からそうだったもん。わたしみたいに既婚者なのに浮気するような女じゃなかった」

「もうよそうよ」

「博人君は本当は怜菜と結婚した方が絶対に幸せだったよね。わたしみたいに平気で旦那を裏切って浮気するようなメンヘラとじゃなく」

「・・・・・・どういう意味だ」

「怜菜はあなたが好きだったんでしょ」

「・・・・・・多分ね」

「あなたも怜菜が気になったんだよね?」

「あのときはそう思ったかもしれないね」

「ほら。わたしは先輩に抱かれて、その後もあなたに嘘をついて先輩とメールを交わしてあなたを裏切ったけど。あなたと怜菜だって浮気してるのと同じじゃない。違うのわたしたちが一回だけセックスしちゃったってことだけでしょ」

「そのことはもう散々話し合っただろ。そのうえでお互いに反省してやり直そうとしたんじゃないか」

 麻季は俯いた。

「もうよそうよ。明日は休みだし子どもたちを連れて公園にでも行こう」

「・・・・・・わたしと違って博人くんは嘘を言わないよね。先輩との仲を誤魔化したわたしと違って、あなたは正直に怜菜に惹かれていたと言ってくれた」

「僕は君には嘘を言いたくないからね。というか君と付き合ってから君には一度も嘘をついことはないよ」

「・・・・・・ごめんね。自分でもわかってるのよ。先輩とわたしと違って、あなたと怜菜は本当は浮気とか不倫したわけじゃないし、それにもう怜菜はいないんだから、将来を不安に思う必要はないって」

 麻季はとうとう泣き出した。いろいろと納得できないことはあったけど、心の上では僕が怜菜に惹かれていたのは事実だったから僕は麻季に謝った。

「ごめん。僕と怜菜さんはお互いに情報交換しあっているつもりだったけど、確かにそうするうちに彼女に惹かれていたことは事実だ。君を裏切ったのかもしれない。それを君の浮気のせいにする気はないよ」

 麻季は何か言おうとしたけど僕は構わず話を続けた。

「でも奈緒人のために、それから怜菜の子どもの奈緒のためにも僕たちはやり直そうとしているんでしょ? 君には悪いと思うけどこんな話を蒸し返してどんなメリットがあるんだ」

 麻季が再び泣き出した。

「ごめんなさい」

「いや」

「わたし最低だ。自分が浮気したのにそれを許してくれた博人君に嫌なことを言っちゃって」

「もういいよ。明日は子どもたちを連れて外出しようよ」

 僕は麻季を抱きしめた。麻季も僕に寄りかかって目をつぶった。僕は数ヶ月ぶりに麻季に自分からキスした。麻季がこれまでしてくれてたような軽いキスではなく。

 麻季の体を撫でると、彼女も泣きながら喘ぎだした。僕は麻季の細い体を愛撫しながら彼女の服を脱がした。

 その晩、麻季の浮気以来初めて僕たちは体を重ねた。独身や新婚の時だってそんなことはなかったくらい麻季は乱れた。

 こうして僕は再び麻季を抱くことができた。それからしばらくは麻季の感情も落ち浮いていたし、僕が帰ると機嫌よく迎えてもくれた。

 奈緒人と奈緒も順調に育っていたし、僕たちは夫婦生活最大の危機を何とか乗り越えたかに思えた。

 そのまま過去のことを引きずらない生活が数年続いた。

 奈緒人も奈緒も幼稚園に入ったし、麻季も昼間は育児から開放されたせいか、奈緒の名前や怜菜のことに悩むことも無くなったようだった。

 奈緒人と奈緒は少し心配になるくらいに仲が良かった。

 これまでは奈緒人や奈緒の愛情は僕と麻季に向けられていたと思っていたのだけど、この頃になると二人は少しでもお互いが目に入る距離にいないとパニックになるくらいに泣き出すようになっていた。

 例えば外出中に僕と麻季が別行動を取ることもあった。

 そんなとき僕が奈緒人を、麻季が奈緒を連れてほんの三十分くらい別々に過ごそうとしたとき、まず奈緒が火がついたように泣き出し、「お兄ちゃんがいいよ」と叫び出した。

 泣き叫びはしなかったものの、奈緒人の方も反応は同じようなものだった。「奈緒はどこにいるの」と繰り返し泣きそうな顔で僕に訴えていたから。

 それで懲りた僕たちは極力二人を一緒にいさせるようにした。そしてこのこと自体は僕も麻季も嬉しかった。これまで頑張って奈緒人と、怜菜の忘れ形見である奈緒を育ててきた甲斐があったと思った。

 そのまま推移すれば、普通に仲のいい家族として歳月を重ねられたのかもしれない。

 この頃は僕と麻季が怜菜や先輩のことを話題に出すことすらなかった。僕も、そして麻季もそんな今の生活に満足していたのだから。

 

 編集長に海外出張を打診されたとき、僕は最初戸惑ってすぐに言葉が出てこなかった。

 その出張はヨーロッパの音楽祭を連続で三つ取材するのが目的だった。

 取材費に限りがある専門誌だったこともあり、出張させるのは記事作成兼写真撮影で一人だけ、あとは現地のコーディネーターと二人でやれとのことだった。音楽祭の日程が微妙に近いせいで、出張期間は約三ヶ月だった。

 家庭はうまく行っていた。

 麻季との仲もそれなりに円滑になっていたし、何よりも子どもたちについて何の心配もない状態だった。

 この頃の僕の帰宅は相変わらず遅かったけど、麻季がそのことに文句を言ったり悩んだりする様子もなかった。それでも僕は内心麻季や子どもたちに会えなくなるのは寂しかった。

 わがままは言えないことはわかっていたし、編集部の中から選ばれたことも理解していた。

 今までは、こういう取材は自ら音楽祭に赴く評論家に任せていたのだから、自社取材に踏みきった意味とそれを任された意味は十分に理解していた。

 この頃の家庭が円満だったせいで僕は編集長に出張をOKした。業務命令だったので了解するのが当然とは言えば当然だったのだけど。

 その晩、麻季に出張のことを伝えたとき、どういうわけか麻季はすごく不安そうな表情をした。

「麻季、どうしたの? 大丈夫か」

「うん。ごめんなさい。大丈夫だよ」

 麻季が取り付くろったような笑顔を見せた。

「博人君に三ヶ月も会えないと思って少し慌てちゃった。でもそんなに長い間じゃないし、博人君が会社で認められたんだもんね」

「ごめんな。でも仕事だから断れないしね」

「わかってる。奈緒人と奈緒のことはあたしに任せて。奈緒は三ヶ月もすると相当成長しているかもね」

「それを見られないのが残念だけど。でもたった三ケ月だし辛抱するよ」

 僕は奈緒を抱きながら麻季に言った。

奈緒人は?」

「珍しく奈緒より先に寝ちゃった。いつもは奈緒が隣にいないと文句言うのにね」

 奈緒の方も僕に抱かれらがらうとうとし始めていた。

 この頃になると、奈緒の顔立ちははっきりとしてきていた。

 奈緒は将来美人になるなと僕は考えた。怜菜の可愛らしい表情と、認めたくはないけど鈴木先輩の整った容姿を受け継いだ奈緒は、当然ながら奈緒人とは全く似ていなかったのだ。

奈緒をちょうだい」

 麻季はうとうとし始めた奈緒を僕から受け取って、奈緒人が寝ている寝室の方に連れて行った。

 やがて戻ってきた麻季が僕に抱きついた。麻季は不安そうな表情だった。僕は麻季を抱きしめた。

「博人君好きよ。あなたがいなくなって寂しい・・・・・・早く帰って来てね」

 そのとき麻季が何を考えていたかは今でもわからない。

 それから二月後、取材を後えてホテルで休んでいた僕の携帯が鳴った。日本の知らない番号からだった。僕が電話に出ると女性の声がした。

「突然すみません。こちらは明徳児童相談所の者ですが」

 その女性は僕が奈緒人と奈緒の父親だと言うことを確認するとこう言った。

奈緒人君と奈緒ちゃんは児童相談所で一時保護しています。奥様が養育放棄したためですけど」

 僕は携帯を握ったまま凍りついた。