奈緒人と奈緒 第2部第2話
奈緒人への愛情から麻季の浮気を許した僕だったけど、麻季の改悛の情を無条件で信じたわけではなかった。
正直に言えば、彼女の僕に対する愛情への疑いは残っていた。あのときの麻季の言葉を何度脳内で再生したかわからない。
「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?』
『それは・・・・・・うん』
『僕とはエッチするのは嫌だったのに?』
『・・・・・・」
「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したんだろ』
『うん』
僕が麻季を許したのは、奈緒人のことが大切だからだった。
麻季の僕への愛情については疑わしかったけど、麻季の奈緒人への愛情についてだけは疑いの余地はなかったのだ。
浮気をした妻と、浮気された夫のやり直しというのは思ったより大変だった。
この頃の僕はひどく卑屈になっていた。もともと僕たちの付き合いは、鈴木先輩に殴られた麻季を僕が救ったことから始まっていた。その先輩のことを麻季が一瞬でも好きだと思ったのなら、僕たち夫婦の成り立ちそのものが否定されてしまう。
そういうとき、僕は付き合い出した頃や、同棲し始めた頃の麻季を思い起こした。あの頃の麻季の僕の愛情は疑いようがない。
あの頃、何気なく過ごしてしまった日々、そして付き合い出してから、浮気するまでの彼女の僕への献身的ともいっていい態度は、麻季を信じようとする僕の力になってくれた。
それでも、それは未だに引きずっていた麻季に対する僕の疑念や嫌悪を振り払うには十分ではなかったのだけど、僕は自分の意思の力でそれを補おうとした。
麻季は先輩とは完全に別れたと言った。もともと気が進まない関係だったのだと。
僕に浮気を告白したその晩に先輩に対して、「もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない」とメールしたそうだ。
別に疑う理由もないので、僕は麻季の携帯の送信ボックスを確認することもなくその言い訳を受け入れた。
こうして僕と麻季の最初の危機は、何とか破滅を回避できたように思えた。
危機を回避したあと、僕たちは麻季が自分の浮気を告白する前の生活習慣に忠実に過ごすようになった。何もかもが以前のとおりだった。
麻季は先輩に出会う前にしてくれていたように、相変わらず会社で多忙に過ごしている僕に再び奈緒人の写メや一言コメントをメールで送ってくれるようになった。
それは麻季が先輩と浮気してからはおろそかになっていた行事だった。
麻季の浮気以降で大きく変わったことはまだあった。
夫婦の危機があったからといって、業務の多忙さは少しも遠慮してくれなかった。
むしろその頃の僕は、昇進して小さなユニットの部下を指揮して企画記事を製作する立場に立たされるようになったのだ。
もちろんその昇進には昇給がついてきていたから、僕は家庭にかまけて仕事をおろそかにするわけにはいかなかった。
なので麻季とやり直すと決めた日からしばらくして、僕は前以上に帰宅する頻度が減った。
それでも一度過ちを犯して僕に許された麻季は何も不満を言わなかった。
たまの休暇の日にへとへとになって帰宅した僕を、麻季は笑顔で迎えてくれた。
問題はその後だった。
麻季が妊娠してから長年レスだったのに、この頃、僕が迫っても拒否していた彼女が、どういうわけか逆に積極的になったのだ。
最初のうちはこれまで僕を拒否していた麻季が、自分から僕に抱かれようとしていることが嬉しかった。たとえ罪の意識からにせよ、麻季が本心で僕とやり直そうと努力している証拠だと思ったから。
でも実際に行為に及ぼうとすると、以前は執着していた麻季の、子どもを生んだとは思えない綺麗な裸身に対して、僕は得体の知れない嫌悪を抱いたのだ。
僕も努力はした。意思の力を結集して僕に迫ってくる麻季の裸身を愛撫した。喘ぎ出した麻季にキスもした。
でも駄目なのだ。いざ事に及ぼうとすると僕は全くその気になれなくなるのだった。一時はあれだけ拒絶する麻季を抱こうとして足掻いていたというのに。
自分が抱いている麻季の美しい身体は、少なくとも一度は鈴木先輩に抱かれて悶えていたのだ。
そう考えた瞬間、僕は萎えてしまい麻季を抱けなくなってしまう。でも麻季はそういう僕を責めなかった。
そういうときの麻季は「気にしないで」って言って微笑んだ。
それはきっと自分のした行為が僕にどんな影響を及ぼしたかを慮り、そしていい妻であろうと努めようとしたからだろう。だから勘ぐれば麻季だって義務感から僕を誘っているだけかもしれなかった。
そして僕がその気にならず、僕の相手をしなくてすんだことにほっとしていたのかもしれない。自分の方から僕を誘っただけで、麻季の義務は終了しているのだから。
それでも僕は麻季を信じた。奈緒人が始めて自分の足で歩いたときの麻季の姿と、大学時代に僕に声をかけてきた麻季の様子を思い浮かべて。
麻季と僕は奈緒人にとってはいい両親だったと思うけど、夫婦としての肉体的な関係はレスのままだった。以前は麻季に拒否されたからだ。でも今ではその責任と原因は僕にあった。
その日も僕は編集部で、目の回るような多忙な日常を過ごしていた。印刷会社に入稿する記事の締切日は近づいてきているのに、原稿は手元にない。
遅筆で有名な評論家の自宅に催促に行こうとしていた僕は、自分のデスクで鳴り出した電話を取った。
「結城さんに鈴木様という方からお電話です」
交換にはいと答えてすぐに受話器の向こうで声がした。
「はい。結城です」
「突然すいません。えと、覚えていますか? あたしは太田と言いますけど」
「はい? 鈴木さんじゃないんですか」
受話器の向こうで慌てたような感じがする。
「あ、いえ。鈴木なんですけど、結婚前は太田でした。というか大学時代は太田だったんで、結城先輩には太田と言ったほうがいいかなって」
先輩ってなんだろう。ゼミの後輩に太田なんていたっけ。
「すいません。よくわからないんですけど、失礼ですけどどちらさまでしょうか」
万一作家さんだったらまずいので、僕はていねいに聞き返した。
「旧姓は太田れいなといいます。結婚して鈴木になりましたけど」
「はあ」
「ごめんなさい。わかりまえせんよね。首都圏フィルの渉外担当の鈴木と申します。来月の取材の件でご連絡させていただきました」
それでようやく彼女の用件がわかった。
首都圏フィルハーモニー管弦楽団は、自治体が援助している地方オケの中では実力のあるオーケストラだった。
全国レベルの有名なオーケストラほど知名度は高くないけど、知る人ぞ知るという感じで固定のファンも結構ついていた。
特に最近、地方オケでは有り得ないほど知名度の高いコンダクターが常任指揮者に就任することも話題となっていた。
僕はその指揮者へのインタビューをメールで事務局に申し込んでいた。メールを読んだ担当者が連絡をくれたのだろう。そこまでは別に不審な点はなかった。
だけどこの担当者は鈴木なのか太田なのか。それにいきなり人のことを先輩と呼ぶのはどういうわけなのだろう。
「あの、先輩ってどういうことですか?」
電話の向こうで少し考え込む気配がした。それからようやく落ち着いた声で返事が帰ってきた。
「ごめんなさい。混乱させちゃって。というかあたしの方が混乱しているんですけど」
何だかさっぱり要領を得ない。
「うちの金井へのインタビューは喜んでお受けします。金井にも了解は得ています」
ようやく本題に入ったようだ。
「ありがとうございます。それで取材の日時なんですけど」
「これから会えませんか?」
「はい?」
「直接会って打ち合わせさせてください」
彼女は一方的に時間と場所を指定して、僕が返事をする間もなくいきなり電話を切った。僕のサラリーマン生活を通じて、ここまでひどいビジネストークは初めてだった。
鈴木さんだか太田さんだかの指定した時間は一時間後で、場所は編集部のすぐ近くの喫茶店だった。
幸か不幸か一時間後には何も予定は入っていない。
僕は首を傾げた。非常識な話しだし何が何だかわからないけど、とりあえず行って話しを聞けば疑問も晴れるだろう。
金井氏へのインタビューは次号の目玉記事になる。先方の担当者の奇妙な言動のせいで、なかったことにされるわけにはいかなかった。
僕は立ち上がって、椅子に掛けていた上着を羽織った。
「お出かけですか、デスク」
部下の一人が僕に声をかけた。
「何かよくわかんないんだけど、首都フィルの担当者が会って打ち合わせしたいって言うからちょっと出てくる」
「はあ? インタビューの日時や場所を決めるだけでしょ? 直接会う必要あるんですかね」
「僕に聞かれてもわからんよ。とにかくこっちからお願いしておいて断るわけにもいかんだろ」
「まあ、そうですね」
「山脇先生に電話で締め切り過ぎてますよって言っておいてくれるか」
「わかりました」
彼は一瞬いやそうな顔をしたが、仕方なさそうにうなずいた。
山脇先生に原稿の催促をするのがいやでない編集者などいない。彼はきっと、十五分以上先生から原稿が遅れた言い訳を聞かされることになるのだ。
「じゃあ行ってくる」
徒歩で十五分ほどで指定の喫茶店に着いた。待ち合わせ時間まではまだ四十五分もある。こんなに早く来る必要はなかったのだけど、せっかく外出の機会が転がり込んできたので僕は少しゆっくりしようと思ったのだ。
席に収まって注文を終えると、僕は携帯を見た。今朝から午後二時十五分の現在に至るまで、麻季からのメールが十通近く届いていた。
僕は時間を掛けて麻季のメールの全てに目を通した。
別に今日も何の変わりもないようだけど、それでもこれだけのメールを遅れるのだから、麻季にとって今日は比較的余裕のある一日なのだろう。
奈緒人は順調に歩行距離と時間を伸ばしているようだ。離乳食も食べてはいるものの、どういうわけか麻季の浮気が発覚して以降、奈緒人は再び麻季のおっぱいを求めるようになってしまった。離乳は早かった方だったのに。
僕は麻季あてに返信した。奈緒人の今日の出来事への感想と、今日も帰宅は十一時くらいになるという短い内容だった。
そして少し迷ったけどメールの最後に「麻季と奈緒人のこと、心から愛しているよ」と付け加えた。
麻季へのメールを送信し終わったとき、人の気配を感じた僕は顔を上げた。
「音楽之友社の結城せん、結城さんですか」
その女性が僕にあいさつした。
名刺交換を済ませると、僕は彼女にもらった名刺にちらりと目を落とした。
『財団法人首都圏フィルハーモニー管弦楽団 事務局広報渉外課 鈴木怜菜』
「首都フィルの鈴木です。よろしくお願いします」
「音楽之友の結城です。初めまして」
彼女は何かほんわかした雰囲気の優しそうな女性だった。ちゃんと仕事の話ができるのか、一瞬心配になったくらいに天然の女性に見えた。
仕事をしているよりも、専業主婦で育児とかしている方が似合いそうな感じだ。
外見だけ見れば麻季の方がよほどビジネスウーマンに見えるだろう。あくまでも外見だけの話だけど。
「あのインタビューの件ですけど」
彼女が手帳を見ながら言い出した。
「はい」
「よろしければ三月十四日の定演終了後にグリーンホールでいかがでしょう」
グリーンホールは首都フィルの本拠地だった。都下にあるけどそれほど遠いわけでもない。僕は手帳でスケジュールをチェックした。その日には今のところ予定がない。
「わかりました。何時にお伺いしましょうか」
「十四時開演ですのでインタビューは十六時くらいからでいいですか」
「結構です」
「もしお時間があるなら十四時にいらして定演を見ていってください」
その方がインタビューする側としては好都合だった。彼女はしばらく自分のバッグをごそごそと探っていた。
「あ、あった。これをどうぞ」
「ありがとうございます」
僕は招待券を受け取って言った。
それで打ち合わせはあっけなく終ってしまった。
しばらく沈黙が続いた。
こんな内容なら電話かメールで十分だろう。なぜ彼女はわざわざ会って打ち合わせをしようと言ったのだろう。でも初対面の、しかもこちら側からお願い事をしている身でそんなことを聞くわけにいかなかった。
「結城さんって音楽雑誌の編集者をされてたんですね」
突然彼女が言った。
「はい?」
「ごめんなさい。あたし、結婚前は旧姓が太田なんですけど、結城先輩と同じ大学で一つ下の学年にいたんです」
何だそういうことか。
「ああ、それで」
「はい」
彼女は微笑んだ。
「先輩はあたしのこと知らないと思いますけど、あたしは先輩のことよく知っています」
「うん? 同じサークルでしたっけ」
「違います。あたし麻季の親友でしたから」
「そうなの? ごめん。全然わからなかった」
実際にはわからなったというより知らなかったという方が正しかった。
大学の頃の麻季には、僕の知る限りでは本当に親しい友人は男女共にいなかったはずだ。
何しろその頃の彼女は、筋金入りのコミュ障だった。外見の美しさや一見落ち着いて見える容姿や態度のせいで、取り巻きのような友人はいっぱいいたらしいけど。
「いえ。先輩とは直接お話したこともありませんし。でも麻季からはよく惚気られてました。あの麻季がこれほど夢中になっている男の人ってどんな人かなあってよく考えてましたよ」
「そうだったんだ。ごめん、あいつはあまり自分のこと喋らないから」
「結城先輩と麻季の結婚式にも参列させていただきました。麻季、綺麗だったなあ」
そのとき僕は、帰宅して麻季に話してやれる話題ができてラッキーくらいに考えていた。
でも、どういうわけか彼女は俯いた。そして静かに泣き出した。
「鈴木さん、どうしたの」
僕は驚いて彼女に声をかけた。周囲の客の視線が刺さるようだった。これでは別れ話を持ちかけている浮気男と、振られた女のカップルのようじゃないか。
「・・・・・・ごめんなさい」
「いや、いいけど。大丈夫?」
それには答えずに彼女が話し出した。
「音楽之友からの取材メールを見たとき、あたしびっくりしました。最後に結城博人って書いてあったし。あたしそれが麻季の旦那さんのことだってすぐに気がついたんです。こんな偶然があるんだなあって」
「そうなんだ」
よくわからないまま僕は相づちを打った」
「あたし、ずっと先輩に連絡を取ろうとしてたんです。麻季の携帯の番号しか知らなくて、でも麻季には連絡できないし」
「うん」
「だから仕事で先輩から連絡を受けたときチャンスだと思いました。これで先輩とお話できるって」
彼女はコミュ障の麻季には似合いの親友なのかもしれない。さっきから随分彼女の話を聞いているのだけど、彼女が何を言いたいのか少しも理解できない。
「あたし、結婚してるんです」
それはそうだろう。旧姓太田と言っていたし、それに左手の薬指には細いリングが光っている。
「あたし、いけないとは思ったんですけど。でも最近旦那の様子が変だし不安だったんで、旦那の携帯を見ちゃったんです。そしたら旦那と麻季が浮気していて」
僕は凍りついた。
麻季の浮気の話なんてとうに知っている。今はそれを克服しようと夫婦ともに努力している最中だった。
でも鈴木先輩は独身ではなかったのか。
「君・・・・・・横フィルの鈴木先輩の奥さんなのか」
「・・・・・・はい」
彼女は俯いてそう答えた。
麻季の告白のあと僕は鈴木先輩について調べていた。
ネットでも情報は手に入ったし、社の演奏家のデータベースにも情報はあった。新人であればネットの方はともかく、社のDBには音楽雑誌に紹介されているような有望な若手しか登録はない。
鈴木先輩は社のDBにも情報が登録されていた。 鈴木雄二。
横フィルの次席チェリスト。東洋音楽大学の一年上の先輩。横フィルの有望な新人。
「麻季とうちの旦那が浮気してたって聞いても驚かないんですね」
怜菜が顔を上げて僕に聞いた。
「・・・・・・うん。麻季から聞いているからね」
「そうか。先輩は麻季のこと許したんですか」
「許したっていうか、やり直すことにした」
「何で麻季と旦那の浮気を知ったんですか。先輩が麻季を疑って問い詰めたんですか」
「いや。麻季の方から告白した」
「そうなんですか」
怜菜は寂しそうに笑った。
「先輩がうらやましい」
「どういうこと?」
「自分から告白したなら、麻季は罪の意識を感じていたからでしょうし、先輩に嘘をつきたくなかったんでしょうね。うちの旦那と違って」
どう答えればいのかわからない。僕は黙っていた。
「それにうちの旦那は、まだ自分の浮気があたしにばれていないと思ってますよ」
「鈴木先輩は独身だって聞いたんだけど」
彼女には気の毒だけど、僕にとっては気になることだったので、僕はまずそれを確認しようと思った。
「麻季にそう言われたんですか」
「・・・・・・うん」
「じゃあ、きっとうちの旦那が麻季に自分は独身だって言ったんでしょうね。麻季がそのことで先輩に嘘をつく理由はないでしょうし」
「君と麻季の親友でしょ。麻季は君と鈴木先輩が結婚したことを知らなかったの?」
「ええ。麻季とは先輩の結婚式以来会ってませんし、あたしたちの結婚は大学卒業後だし結婚式も挙げなかったんで、あたしと旦那のことを知っている人は大学時代の知り合いはほとんどいないと思います」
「あのさ」
「はい」
「僕も麻季に裏切られたと知ったときは自殺したいような心境だったよ。でも僕たちには子どもがいるし、何よりも麻季は本当に先輩との過ちを後悔していると僕は信じている」
「・・・・・・そうですか」
「麻季と鈴木先輩の仲はもう終っている。君の気が楽になるならそれだけは保証するよ」
「結城先輩にとっては、かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをしているのは許容範囲内なんですか」
怜菜が顔を上げて僕を真っ直ぐ見た。
「そんな訳ないでしょ。でも麻季はもう君の旦那と縁を切っているんだし」
怜菜がバッグからプリントを何枚か取り出した。
「やり直そうとしている先輩と麻季を邪魔する気はないんです。でも、事実を知らないで判断するのは、先輩と麻季にとってもよくないと思います。余計なお世話かもしれませんけど」
「・・・・・・どういう意味?」
「さっきも言ったように、旦那の様子が最近変だったんで悪いことだとは思ったんですけど、旦那の携帯をチェックしたんです。そしたら麻季と旦那がメールを交換し合ってて。転送すると旦那にばれそうなんで、旦那が携帯をリビングに置いたまま自宅のスタジオで練習している間に関係あるメールを見ながら全部パソコンに入力し直したんです」
怜菜に渡されたプリントは、先輩の携帯の送受信メールのやりとりを印刷したものだった。
「よかったら読んでください」
僕は怜菜に渡された書類に目を通した。
最初のうちは久し振りの再会を懐かしがったり、大学時代の知り合いの話題を交換したりしている内容のメールが、麻季と先輩の間に交わされていた。
メールでのやりとりが重ねられて行くうちに、二人のメールは随分親密な様子に変わっていった。
僕は胸の痛みを感じながらプリントを読み進めた。
メールから理解できた範囲では、その内容は麻季に告白されたものと事実としては全く同じ内容だったので、少なくとも浮気を告白した麻季が嘘をついていないことだけは確認できた。
それでも実際に男女の親密そうなやりとりを読むことは、僕の精神にかなりの打撃となった。
メールを読むことによって、僕は麻季の告白したできごとを追体験させられていたのだ。
段々と親密さを増していく二人。そのうちメールはもっとも辛い部分に差し掛かった。
この辺りになると、少なくともメールの文面上は麻季は先輩に対して敬語ではなく、もっと親しみを込めた口調になっていた。
そして先輩も麻季のことを呼び捨てするよう
『ごめんさい。わたしも久し振りにコンサートに行きたいし先輩の演奏も聞きたい。でも小さな子どもがいるから家を留守にできないの。ごめんね先輩』
『それは残念。お子さん、昼間は保育園とか幼稚園とかに行ってるんじゃないの』
『何言ってるの。専業主婦だから保育園には入れません。それに奈緒人はまだ幼稚園に入園できる年齢じゃありません。先輩って音楽以外のことでは常識ないのね(笑)』
『そっかあ。実家とかに預かってもらえないの? 今度の演奏はぜひ麻季に聞いて欲しかったなあ。実は演奏のイメージは大学時代の清楚だった麻季をイメージして作ったんだ。水の妖精だから麻季にぴったりでしょ(笑)』
『清楚な水の妖精って、子持ちの主婦に何言ってるの(笑)。でもわかったよ。実家に預けられるかどうか聞いてみる』
『ほんと? やった』
コンサート当時の日付のメールはなかった。それはそうだろう。この日、麻季は結局奈緒人を自分の実家に預けてコンサートに出かけたのだから。多分、精一杯着飾って。
そしてその夜、麻季は先輩に抱かれた。二人は直接会って二人きりで過ごしていたのでメールを交換していないのは当然だった。
僕は麻季の必死の謝罪と奈緒人への愛情表現によって、その過去を克服していたつもりだったけど、直接二人のやりとりを見るのはやはりきつかった。
ここまで読んでもまだ、未読のプリントが残っていた。麻季の釈明によればその夜の過ちに後悔した彼女は、もうこれで最後にしようと先輩に言ったはずだった。
その後も先輩からは言い寄られたり、メールが来たりしたとは言っていたけど、麻季は返事をしなかったと泣きながら僕に言っていた。
証拠として自分の携帯を僕に差し出しながら。 僕はプリントの続きを読んだ。もう黙って僕を見守っている怜菜のことは、意識から消えていた。
『僕は本気だよ。学生時代から麻季のことが大好きだった。旦那と別れて僕と一緒になってくれないか。君のことも奈緒人君のことも責任を持って一生大切にすると約束する』
『ごめんなさい先輩。もう連絡しないで。わたしはやっぱり奈緒人が大事。だから奈緒人の父親である主人を裏切れません』
『奈緒人君のことは大切にするって言ってるじゃないか。それに君だって専業主婦で子育てと旦那の面倒だけみている人生を送るなんて、君を家庭に閉じ込めるなんて君の旦那は絶対間違っているよ。昔からあいつは嫉妬深かったけど。麻季はあれだけ佐々木先生に認められていた自分のピアノを本気で捨てるのか? 僕なら君と一緒に音楽の道を歩んで、お互いを高めあうような関係になれると思う。麻季を本気で愛している。もう一度自分の人生をよく考えて』
『先輩、何か誤解してるよ。博人君はわたしに専業主婦になれなんて一言も言っていないの。妊娠したときにあたしが自分で先生の手伝いを止めたの。奈緒人のために育児に専念したかったから。間違っても博人君の悪口は言わないで』
『ご主人のことを悪く言ったのはごめん。でもこれだけは撤回しない。僕は君のご主人より君のことを理解しているし君にふさわしいと思う』
『もうやめようよ。わたしは博人君と奈緒人を愛してるの。先輩とはもうメールしません。これまでありがとう、先輩。もうわたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない。何度メールしてきても決心は変わりません』
僕はプリントを全部読み終わった。その生々しいやりとりに動揺もしたし、僕に対する鈴木先輩の誹謗めいた言葉に憤りもした。でも結局麻季は先輩を拒絶したのだ。少なくとも先輩と別れたという麻季の言葉は嘘ではなかった。
「見せてくれてありがとう」
僕はプリントの束を怜菜に返そうとした。
「先輩、まだ二、三枚読み残しがあるみたい」
怜菜が言った。
最後と思っていたページの下に、数枚最後のページに折曲がってくっつくようにして残っていることに僕は気づいた。
「先輩には申し訳ないですけど、その最後の方を読んだ方がいいと思います」
怜菜はさっきまで泣いていたとは思えないくらい冷静な口調で言った。
「・・・・・・わかった」
僕は紙をめくって未読のプリントを読み始めた。
最初に麻季から鈴木先輩に当てたメールがあった。日付を見ると二~三ヶ月前だ。
それを見て僕は目の前が暗くなった。僕が必死で彼女を信じてやり直そうとしている間に、麻季は再び先輩とメールを再会していたのだ。
『もう電話もメールもしないで。わたしのことを本当に大切に思っていると言う先輩の言葉が本心ならもう放っておいて』
『ごめん。君のことが心配でいてもたってもいられなくなって。今日も定演のリハだったんだけど散々な出来だったし』
『説明するからこれで最後にして。わたしは先輩との過ちを博人君に告白しました。博人君はわたしのことを許してやり直そうと言ってくれたの。もちろん完全に彼に許してもらえたなんて思っていない。彼は奈緒人のためにわたしのことを許そうと考えてくれたんだと思う。もうわたしには奈緒人と博人君のためだけを考えて一生過ごすほかに選択肢はないの。先輩のこと嫌いじゃなかった。でももうわたしの中に先輩の居場所はありません』
麻季は先輩のことは嫌いではないと言っていた。それは本当に辛かったけど、そこだけを問題にして、せっかくやり直している僕たちの関係を無にする気はなかった。
「もう少しだけだから全部読んでみてください」
怜菜が言った。
続きを読むと先輩と縁を切ったはずの麻季のメールがまず目に入った。
『奈緒人が今日初めて「おなかすいちゃ」って言ったの。ちょっと言葉は遅かったからすごく嬉しかった』
『よかったね。安心した?』
『うん。旦那にメールしたら彼もすごく喜んでた。少し興奮しすぎなくらい(笑) 博人君も仕事中なのにね』
『そうか』
『あ、惚気話でごめん、先輩』
『いや。麻季が旦那とやり直そうと決めたんだから別に構わないよ。何か悩みでもあったらいつでも連絡して』
次のメールは数か月後だった。それは麻季の方から先輩に出したメールだった。
『突然ごめん。先輩元気でしたか。定演の評判聞きました。もうこれで人気演奏者の仲間入りだね』
先輩はそれに対してお礼を言う程度の当たり障りのない返信をしていた。
『またメールしちゃってごめんなさい。うまくやり直せてると思っていたんだけど、博人君内心ではわたしのことを許してないみたい。彼に迫っても全然抱いてくれないの。やっぱりわたしが先輩と寝たこと気にしてるのかな』
『僕が言うのもなんだけど、男ならそんなに簡単に妻の浮気を許せないかもね』
『どうしよう。わたしにはもう博人君と奈緒人しかいないのに』
『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のところにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分の罰だと思ってる』
『そんなこと言わないで。先輩はわたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』
麻季は夫婦生活の不満のような微妙な話題まで先輩に相談していた。そして先輩の方もは全く麻季を諦めていないような返信をしていた。
「これって・・・・・・」
「結城先輩、ごめんなさい。先輩を苦しめる気はないの。でも事実は事実だから」
怜菜は僕に向かってすまなそうに謝った。
「君が謝ることはないよ。ただ、麻季は先輩とはもう縁が切れていると思っていたから、こういうやりとりをしているとは思わなかった」
「本当にごめんなさい。先輩だって被害者なのに」
「君はこのことを先輩に言ったの?」
僕は無理して怜菜のことを心配して言った。
でも心中は穏かではなかった。
僕は不貞を働いた麻季を許したつもりだった。でもこのメールを見る限り、麻季が僕の態度に不満、あるいよく言って不安を感じていることは明らかだった。
麻季は僕には口では僕に謝罪し一番愛しているのは僕だと言った。
でもこのメールのニュアンスでは、息子のために僕とやり直すような気持ちが感じられた。
そして何よりも夫である僕に対して何も言わないでいる自分の考えを、先輩に対しては隠すことなく伝えていたのだ。
僕は吐き気を感じた。
「彼には何も話していません。メールのことも麻季のことも。今は様子見ですね。このまま彼と麻季がフェードアウトするならなかったことにしようと思ってます。でも、これ以上二人の仲が縮まったら彼とは離婚します」
怜菜は冷静にそう言った。でも彼女の手は震えていた。
「できれば離婚はしたくないんです。妊娠しているので」
僕は絶句した。思わず視線が怜菜の腹部に向かってしまった。
「・・・・・・先輩はそのことを知っているのか」
自分の妻が妊娠しているのに、他人の妻に独身を装っていつまでも待っていると言うようなクズなら、もうすることは一つしかない。
「いえ。まだ彼には伝えていません」
怜菜が寂しそうに笑った。
「先輩はやっぱり麻季を許すんですか」
「わからない」
本当にわからなかった。
やり直すと宣言した以上、普通の夫婦生活を送ることは僕の義務だった。だから誘ってくる麻季を抱けなかったことは、僕の責任かもしれない。
でも、そのことを不倫の相手に、僕をこういう風にした原因者にしれっと相談している麻季の心理は、僕の想像の範囲を超えていた。
「麻季のこと恨んでるだろ」
自分のことで精一杯だったはずの僕は、このとき半ば逃避気味に、怜菜と先輩の仲を考えようとした。
麻季とのことは考えたくなかったので、これは完全に逃避だった。
「麻季は彼を独身だと思っているみたいだし、あたしが妻だとは知らないでしょうし」
怜菜が再び寂し気に微笑んだ。
どういうわけか怜菜のその表情に、僕は自分が麻季に再び裏切られたと知ったとき以上の痛みを感じた。
「先輩に妊娠しているって言ってみたら?」
「結城先輩には怒られちゃうかもしれないけど、旦那は本当は優しい人なんです。だからあたしが彼の子どもを妊娠していると知ったら、それで目が覚めるとは思います」
「だったら」
「ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼に戻って欲しいんです。子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」
その言葉に僕は言葉を失った。それは僕のしようとしたことへの明確な否定だった。
怜菜はすぐに僕の様子に気がついた。自分だって辛いだろうに、彼女は人の気持ちを思いやれる人間のようだった。
「ごめんなさい。結城先輩がお子さんのことを考えて麻季を許したことを批判してるんじゃないんです」
僕が間違っているのだろうか。
奈緒人のことを、心底から一緒に考えてくれるのは麻季しかいないと考えて、僕は麻季の不倫を許した。でもその結果がこのメールだ。
「あたし、決めたんです」
「・・・・・・うん」
「もう一月だけは旦那のことを責めないで我慢します。でも、一月たってもまだ旦那が麻季にいつまでも待っているみたいなメールをしていたら、彼とは離婚します」
「そうか」
「結城先輩には事前に話しておきたかったんです。ご迷惑だったでしょうけど」
「いや。君に恨みはないよ。どうするにしても真実を知れて良かった」
僕は相当無理して言った。実際、怜菜には何の非もないばかりか、一番の被害者は彼女だったかもしれない。
「じゃあ、これで失礼します。インタビューの件はよろしくお願いします」
「あ、ちょっと」
「はい」
「大きなお世話かもしれないけど。君が鈴木先輩と別れたとして、お腹の子どもは・・・・・・」
「育てますよ、もちろん。一人になってもあたしには仕事もあるし、育児休業も取れますから」
最後に怜菜は強がっているような泣き笑いの表情を見せた。
怜菜の話を聞いて以来、僕はずっと考えていた。
鈴木先輩が独身じゃなくて、怜菜が先輩の奥さんであったこと、麻季が先輩とはもう連絡していないと言いながら、親密な相談メールを送っていたこととか。
その事実は僕を苦しめた。
でも、辛い思いをを必死で我慢してじっと自分の心の奥底を探ってみると、僕が本当に悩んでいるのは麻季の心理や行動とかではなくて、僕が麻季を許した動機の部分であることが段々と理解できるようになった。
『ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼にあたしのところに戻って欲しいんです。子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません』
怜菜は彼女と鈴木先輩との仲をシビアに見つめていた。麻季と先輩の関係に目を背け、奈緒人を言い訳に、なし崩しに麻季とやり直そうとしている僕とは対照的に。
なりふり構わないのなら怜菜にだってできることはあるはずだった。メールのことを鈴木先輩に話して麻季との仲を清算するように詰め寄ってもいいはずだし、自分が妊娠していることだって武器になる。怜菜本人も、自分の妊娠を知れば先輩は麻季を諦めて自分のところに戻ってくるだろうと言っていた。
でも彼女はそれをせず、黙って先輩と麻季の仲を見守っている。
自分の浮気を知られ、怜菜に責められ彼女の妊娠を知った上で、先輩が自分を選ぶことを拒否しているのだ。
怜菜は強い女性だった。自分の行動や悩みを振り返るとますますそう思い、僕は自己嫌悪に陥った。
僕がしたことは判断停止に近い。麻季と先輩の仲を深く探ろうともせず、麻季の本当の気持ちを知ることさえ拒否し、麻季が謝っていることに安住して奈緒人を言い訳に彼女を許した。
麻季には当然非がある。先輩とはもう何も関係がないと言いつつ、夫婦間の悩みを先輩にしていたのだから。
でも、きちんとした言い訳や謝罪すらさせてもらえず、僕に対する罪の意識を抱えたままにさせられた彼女が、先輩にメールした動機は少しだけ僕にも理解できた。
それなら一度、存分に浮気をした麻季を責め立て自分の気持をぶつけてから今後のことを決めればいいのだけど、今の僕にはそれすら恐かった。
麻季を問い詰めようとは思ったときだってあった。怜菜に見せられたメールのやり取りを思い浮かべて。
『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のところにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分の罰だと思ってる』
『そんなこと言わないで。先輩はあたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』
少なくともこのことだけは麻季に指摘しておくべきだったろう。彼女は僕に嘘をついて先輩とメールを交わしていたのだから。
それでもそれを実行しようとすると、僕は情けないことに奈緒人の無邪気な様子を思い浮かべて躊躇してしまうのだった。
これを言ったら麻季は本当に家を出て行ってしまうかもしれない。そうなればもう二度と麻季とも奈緒人とも会えなくなるかもしれない。
そう思うと僕には何もできなかった。本当に情けない。怜菜は自分と自分のお腹の子のために、一人で必死で耐えているというのに。
帰宅してマンションのドアを開けたとき、偶然に目の前には奈緒人がいた。
奈緒人はいきなりドアを開けて入ってきた僕を見て凍りついたように固まった。
でもそれが僕とわかると、満面に笑みを浮べて僕の方に手を伸ばしてきた。
僕はしがみついてくる奈緒人を抱き上げた。
「お帰りなさい、博人君」
奈緒人を追いかけてきたらしい麻季が微笑んだ。
『かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをしているのは許容範囲内なんですか』
そう怜菜は言った。もちろん答えはノーだったはずだった。
でも帰宅した僕に抱きつく息子や、その様子を微笑んで見ている麻季を見ると、怜菜に会って考え直したことはどこかに失われてしまい、メール程度は許容するべきじゃないかとも思えてくる。
怜菜は辛い立場だったろう。自分の夫が親友の麻季に対して自分は独身だと、いつまでも麻季を待っていると言っているのだから。
確かに麻季は嘘をついていた。もう連絡しないと言っていたのに、実際は先輩に身の上相談までしていた。
でも怜菜と違って、僕には奈緒人と麻季が微笑んで僕の帰宅を待っていてくれる家庭がある。
メールのことはショックだったし、麻季の本心はわからなくなったけど、少なくともあのメールでは麻季は僕を選んでくれていた。
妻の存在を隠して、麻季を口説いている先輩をただ待っているだけの怜菜よりも、僕の方がまだましな状態なのかもしれない。
潔く、浮気した麻季と別れるか、曖昧に今の関係を続けるのか。このときの僕は本当に揺れていた。
結局、僕は怜菜に会ったことも、怜菜から麻季と先輩が未だにメールをやりとりしていることを聞いたことも麻季には話さなかった。奈緒人を抱いた僕に微笑んだ麻季に対して、あらためて愛情を感じたせいかもしれない。
愛情というか、それはむしろ執着といってもいいかもしれないけど。
怜菜は、メールで証拠を押さえていることや、自分の妊娠を武器にして先輩を引きとめようとはしていない。先輩が自ら目を覚ますことを願ってじっと待っているのだ。
そんな怜菜の意思を無視して勝手に麻季にメールの話をするわけにはいかなかった。
怜菜に見せられたメールは僕を悩ませた。先輩との関係を泣きながら謝罪した麻季が僕に嘘を言っていたのだ。
麻季が嘘をついたことと、自分の悩みを打ち明ける相手として僕ではなく先輩を選んだことは、麻季が先輩に抱かれたことよりも僕を苦しめた。
怜菜は一月だけ待つと言った。別に僕が怜菜に義理立てする必要はない。
でも僕は怜菜の判断に自分を委ねようと考えた。合理的な思考ではないかもしれないけど、あれだけ追い詰められている怜菜が鈴木先輩を許すなら、僕も麻季を許そう。
でも麻季が先輩と別れるなら僕も麻季との離婚をを考えよう。
悩んだ結果、ようやくそこまで僕は自分の思考を整理することができた。
このときの僕には正常な判断能力は失われていたのかもしれない。情けないけど僕は怜菜の判断に全てを委ねる気になっていた。
「ご飯食べたの」
麻季が微笑んだまま聞いた。
「連絡しなくて悪い。食べてきちゃった」
実際は怜菜との会談で食欲を失っていた僕は何も食べていなかった。でも今麻季の用意した食事を食べられるほど僕のメンタルは強くない。
「気にしないでいいよ。それよりそろそろ奈緒人を寝かせなきゃ」
「ああ。悪い」
僕の手から奈緒人を受け取った麻季は、奈緒人を寝室に連れて行った。
こうして僕は、自分の判断を保留して怜菜の審判を受け入れる道を選んだ。
怜菜の言う一月を待つ間、僕は麻季にできる限り優しくした。別に陰険な思いからではない。これが麻季との生活が最後になるかもしれないのだ。
浮気までされて情けないという気持ちもあったけど、麻季と付き合って結婚した生活は、彼女の不倫の発覚までは幸せだった。
だから僕は麻季と別れるにせよ、最後までその思い出を綺麗なままにしたかった。
麻季も僕に対して優しく接してくれた。彼女が本心で何を考えていたかまではわからない。でもこの奇妙なモラトリアムの間、僕たちは理想的な夫婦を演じたのだ。
僕は怜菜と会ったことを麻季には話さなかった。怜菜は僕に対して何も口止めしなかった。
でも、彼女が何もせずに先輩の行動を見守っている以上、そして僕も怜菜の判断に追随しようと考えたからには、麻季に怜菜のことを話すわけにはいかなかった。
それでもいろいろ考えることはあった。
怜菜が鈴木先輩を許した場合、僕は麻季と本気でこの先やり直せるのか。
そして怜菜が先輩を見限ったとしたら僕と麻季は離婚することになるのだろうか。
先輩と麻季は結ばれるのか。その場合の奈緒人の親権はどうなるのか。
それはいくら考えても現状では何の結論も出なかった。
再び怜菜と会ったのは、横フィルの新しい常任指揮者へのインタビュー終了後だった。
笑顔であいさつする怜菜に、僕は少し話せないかと誘ってみた。怜菜が決断するために区切った期限まで、あと一週間とちょっとしか残っていない頃だった。
「いいですよ」
屈託のない笑顔で怜菜は答えた。
定演のあったホールの近くは知り合いだらけでまずいので、僕は彼女をタクシーに乗せて、ホールから三駅ほど離れているファミレスまで連れ出した。
人目を避けて行動しているいることに対して、何となく不倫をしているような妙な緊張感を感じる。
でもホール周辺は怜菜や僕の知り合いだらけだったから、そうするしかなかったのだ。
タクシーの中の彼女は、インタビューの様子や何月号にそれが掲載されるかといった仕事繋がりの話をしていたと思う。
適当に見つけたファミレスに入って向かい合わせに座った僕は、時間を取らせたことを彼女に詫びた。
「いえ。あたしも先輩とお話したかったから」
怜菜は笑って言った。
「君は強いな」
そんなことを言うつもりはなかったけのだけど、僕は思わず口に出してしまった。
表面上は、いい家族を必死で演じていた僕は、この頃になるともう精神的に限界だった。
家庭でストレスを感じながらも麻季に優しく接している分、仕事中の僕の態度は最悪だった。部下にも些細なことで当り散らしたりもした。
「強くなんかないですよ。旦那の目を盗んで毎日泣いてます。お互い辛いですよね」
そんな僕の心境を知ってかどうかはわからないけど、彼女は僕にそう言って微笑んだ。
その微笑んだ顔はすごく綺麗だった。
・・・・・・大学時代に知り合ったのが麻季ではなく怜菜だったら、僕は今頃どういう人生を送っていたのだろう。大学で知り合って愛し合って結婚したのが、麻季ではなく怜菜だったとしたら。
仕事から帰宅した僕を、奈緒人を抱いた怜菜がおかえりなさいと迎えてくれる姿が思い浮かんだ。
彼女なら麻季と違って浮気も不倫もしないだろうし、きっと何の悩み事もない夫婦生活を送れていたかもしれない。
それはどうしようもない幻想だった。怜菜が僕を好きになる理由はない。そして僕にとって、何よりも大切な奈緒人を産んでくれたのは麻季であって、怜菜ではない。
「どうしました?」
怜菜が微笑んで言った。
僕は慌てて無益な幻想を頭から振り払った。こんな妄想で現実逃避している場合ではなかった。あと一週間と数日で結果が出るのだ。
「もう少しで一月になるけど、君の決心が固まったのかどうか聞きたくて」
「まだ決めてません。一月たっていないし」
それから、彼女はハンドバッグの中から数枚のプリントを取り出した。読むまでもなく麻季と先輩のメールのやり取りだろう。未だに麻季は先輩と接触があるのだ。
「多分このことが気になっているんですよね。どうぞご覧になってください」
そう言われると、僕は麻季のメールが気になっていたような気がしてきた。
さっきまで先行きのことばかり気にしていて、今現在の麻季と先輩の様子を気にすることは失念していたのだ。
『奈緒人君は順調に成長しているようで何よりです。よかったね』
『ありがとう先輩。この子はわたしにべったりなのでトイレに行くのも大変』
『麻季みたいな人がママならそうなるだろうね』
『この子を幼稚園に盗られちゃったらあたしはすることが無くなっちゃうな。そう思うとちょっと恐い』
『そしたら君はそれだけ旦那さんに愛情を注げるんじゃない? やり直すんだからいいことだと思うけどな』
『先輩は何でそんな意地悪なこと言うの?』
『ごめん。意地悪したつもりはないんだ。でも君が彼を愛していると言っていたから』
『わたしの方こそごめんなさい。先輩が心配してくれているのに』
『彼とうまくいってないの?』
『博人君はわたしに優しいよ。でも何か彼の目が遠くて恐いの。わたしを見てくれているときでもわたしを通り越してもっと遠くの方を見ているようで』
『こんなこと聞いて悪いけど、旦那は君を抱いてくれた?』
『レスのままです。でもそういうこと先輩には聞かれたくないよ』
『ごめん。でもしつこいようだけど言わせてもらうよ。僕には麻季を誘惑して抱いてしまった責任がある。麻季が旦那と幸せなら僕はもう何も言わないしメールだってしない。でも麻季が彼との生活に辛い思いをしているなら、僕のところに来て欲しい。僕は麻季がどうするか決めるまでは独身のままで待っている。それが僕の贖罪だと思うから』
『ありがとう先輩。今は決められないけど気持ちは嬉しい。わたしのしたことは過ちだし博人君を裏切ったのだけど、それでも先輩との一夜が単なる遊びじゃなかったってわかった。それだけでも先輩には感謝している』
『お礼を言うのは僕の方だ。例え僕が麻季と結ばれても僕は一生君の旦那さんへ罪悪感を感じて生きて行くんだろうな。それでも後悔はしてないよ』
前に読ませてもらたメールよりも二人の距離が近づいていることが覗われた。
もうこれは駄目かもしれない。
このときになってようやく僕にも、怜菜が先輩に対して不貞行為の証拠を提示して、彼を責めなかった理由が理解できた。
実際にこの二人が僕や怜菜を捨てて一緒になる決断をするかは結果論であって、今はそんなことはどうでもいい。
先輩と麻季が、自分たちの不倫の関係に価値を見出し、そのことをお互いに確認しあっていることが問題なのだ。
怜菜は最初からそのことだけを追求していた。だから先輩を責めなかったし、麻季に対して先輩には自分という妻がいることを話したりもせず、ずっと耐えて待つことにしたのだ。
そして僕にもようやく理解できた。麻季が奈緒人を愛していて、それゆえに麻季が先輩と縁を切ることを、僕は勝利条件だと考えていた。でもそうではないのだ。
麻季と先輩がお互いに求め合いながらも、お互いの配偶者や子どもへの未練のために、もう連絡も取らず会わないと決めたとしても、それは何の解決にもなっていないことを。
そのことを僕はか弱い外見の怜菜に教わったのだ。
「また結城先輩につらい思いをさせたちゃてごめんなさい。まだ期限は来ていないと言ったけど、でも正直もう駄目かなって思ってます」
それまで微笑んでいた怜菜が泣き出した。
「・・・・・・僕もそう思う。これは互いに求め合っている悲劇の恋人同士の会話だもんね」
「あたしもそう思います。こういうことになるかなって思ってはいたけど、それが現実になるとすごく悲しくて寂しい。むしろ旦那のことを憎みたいのに、まだ未練が残っている自分がとてもいや」
「先輩と離婚する?」
「はい。期限前だけどもう無理でしょう。旦那とは別れます。そして一人でお腹の子を育てます。先輩は・・・・・・どうされるんですか」
僕は息を飲んだ。優柔不断な僕だけどもう逃げているわけにはいかないことは理解できていた。
「君が先輩と別れるなら僕もそうするよ」
「え?」
怜菜が一瞬理解できないというよううな表情を見せた。
「何言ってるんです? あたしと旦那が離婚したからといって、先輩が同じことをする必要なんてないですよ。先輩がお子さんのために麻季と頑張ろうとしているなら、それは立派なことじゃないですか」
「僕もこの間君に会ってから考えたんだ。謝ってくれて、奈緒人を大切にしてくれる麻季とやり直そうとした決心は正しかったのかって。麻季が僕のことを好きなことは間違いないと思っているけど、少なくとも麻季の心の半分は先輩に取られているようだ。それなら毎日僕に微笑んでくれる麻季は多少なりとも演技をしているわけで、麻季の気持ちに目をつぶってそんな生活を維持することが本当に奈緒人の幸せになるのかって」
「先輩の気持ちはわかりますけど、麻季は現実逃避しているだけですよ。たまたまその相手のうちの旦那が優しくしてくれるから自分の気持を勘違いしているんだと思いますけど」
「君だって辛いのに麻季のことなんか庇わなくていいよ」
「そうじゃないです。麻季と旦那との関係は恨んでいますけど、麻季本人のことは恨んでません。親友だし彼女のことはよくわかっています。麻季は本心では結城先輩のことしか愛していないと思います。今はうちの旦那との偽りの関係に酔っているだけですよ」
「もういいよ。今はお互いに自分のことだけを考えようよ」
「・・・・・・はい。もう少ししたら結論を出します。そうしたら旦那に別れを言いだす前に先輩には連絡させてください」
「うん。わかった」
その数日後に僕は再び怜菜と会った。最初に彼女と会った社の近くの喫茶店で。
怜菜に呼び出されて、緊張しながら店内に入った僕に気がついた彼女は、立ち上がり僕に深々と頭を下げた。
「お呼び立てしてごめんなさい」
「いや」
僕たちは向かい合って座った。
注文したコーヒーが運ばれてからあらためて怜菜が頭を下げた。
「いろいろとご迷惑をおかけましたけど決心しました。今までお付き合いいただいてありがとうございました」
「・・・・・・決めたんだね」
「はい。結城先輩には感謝しています」
怜菜が言った。
「いや。僕の方こそありがとう」
「先輩さえよかったら、今日この後帰宅したとき旦那に離婚を求めようと思います」
「いいも悪いもないよ。僕や麻季のことは気にしないで自分の思ったとおりにしてください」
「ありがとう」
怜菜はもう泣かずに僕に向かって微笑んでくれた。
「このあと先輩はどうされるんですか?」
「もう少し考えるよ。君にはいろいろ教わったし、そういうことも含めて最初から考えてみようと思う」
「それがいいかもしれませんね」
「お子さんは順調なの? 体調は平気?」
「・・・・・・しないでください」
怜菜にしては珍しく乱れた声だった。
「うん?」
「そんなに優しくしないでください。あたし、これから一人で頑張らないといけないのに」
怜菜が俯いた。
「最近、先輩があたしの旦那だったらなって考えちゃって。ここまで麻季のことを思いやる先輩みたいな人が、あたしの旦那さんだったらどんなに幸せだったろうなって、あたし先輩とお会いするようになってから考えちゃって」
後にそのことをで後悔することになるのだけど、このときの僕は黙ったままだった。
心の浮気も僕にとっては有責なのだ。
怜菜の毅然とした様子や、それでもたまみ見せる弱さに、きっと僕も惹かれていたのだと思うけど、それを言葉にしてしまえばしていることが麻季や先輩と一緒になってしまう。
「麻季がうらやましい・・・・・・。ごめんね先輩。お互いに配偶者の浮気に悩んでいるのに、一番言ってはいけないこと言っちゃった。忘れてください」
怜菜が立ち上がった。
「今までありがとうございました。誰にも言えずに悩んでいたんで、先輩とお会いしてずいぶん助けてもらいました」
「僕は何もしていないよ」
僕はようやくそれだけ言った。
怜菜が微笑んだ。
「そんなことないですよ、結城先輩。麻季とやり直せるように祈ってます。じゃあさよなら、先輩」
「さよなら」
結局これが、生前の怜菜と直接会って交わした最後の会話となった。