yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第2部第1話

 僕が初めて彼女に出会ったのは、大学のサークルの新歓コンパの席上だった。
 その年、サークルに入会した新入生たちは男も女もどちらも子どもっぽい感じがした。多分一年生のときは僕も同じように見えたのだろうけど。
 その中で、彼女だけはひどく大人びていて、冷静な印象を受けた。見た目が綺麗だったせいか、彼女は上級生の男たちに入れ替わり話しかけられていた。
 その年の新入生の女の子の中では、彼女は一番人気だった。その子が気になった僕は、しばらく彼女の方をじっと見て観察していた。
 彼女は笑顔で先輩たちに応えていたけど、その態度は非常に落ち着いたものだった。
 どうにかすると、年下の男たちを年上の女性がいなしているような印象すら受けた。
 彼女が綺麗だったことは確かだったから、僕も彼女に自己紹介したいなと、ぼんやりと会場の隅の席で一人で酒を飲みながら考えていた。
 そういう意味では、僕も新入生の彼女に群がる上級生たちと考えていることは一緒だった。
 でも彼女の周囲からは話しかける連中が一向にいなくならないし、その群れに割り込むには自分のプライドが邪魔していたので、僕は諦めて同じ二回生の知り合いの女の子と世間話をする方を選んだ。
「結城君も彼女のこと気になるの?」
 僕は知り合いの子の隣で、その子から彼氏の愚痴を聞かされていたのだけど、そのうち僕が自分の話をいい加減に聞き流していることに気がついた彼女がからかうように言った。
「別にそうじゃないけど。彼女、大人気だなって思って」
「あの子、綺麗だもんね。夏目さんって言うんだって」
 気になっていた子の話題になったせいか、僕は再び離れたテーブルにいる彼女の方を眺めた。
 そのとき、顔を上げて周囲を見回した彼女と目が合った。彼女は戸惑う様子もなく、落ち着いた様子で僕に軽く会釈した。
 新入生が誰に向かってあいさつしているのか気になったのだろう。彼女を取り巻いていた男たちの視線も僕の方に向けられたため、僕は慌てて彼女から目を逸らして、何もなかったように隣の子の方に視線を戻した。
 それで、僕は新入生の彼女のあいさつを無視した形になった。
「結城君らしくないじゃん。新入生にあいさつされて照れて慌てるなんて」
 彼女が僕をからかった。
「放っておいてくれ」
 僕はふざけているような軽い調子で答えたけど、心の中では自分の不様な態度が気になっていた。
 あれでは彼女の僕への印象は最悪だったろう。まあでもそれでいいのかもしれない。あんなやつらみたいに、新入生の女の子に媚を売るようにしながら彼女の隣にへばりつくよりも。
 みっともない真似をしなくてよかった。負け惜しみかもしれないけど、僕はそう思うことにした。
 次に僕が彼女に出合ったのは、階段教室で一般教養の東洋美術史の講義に出席していたときだった。
 その講義は出席票に名前を書いて提出し、課題のレポートさえ提出してさえいれば、その出来や講義時の態度に関わらず単位が取れると評判だったので、広い階段教室は一、二年の学生で溢れていた。
 東洋美術史なんかに興味はない僕は、さっさと出席票を書いて教室の後ろの出口から姿を消そうと考えていた。
 講義が始まってしばらくすると、出席票が僕の座っている列に回ってきた。
 自分の名前を出席票に書いて隣に座っている女の子に回して、僕はそのまま席を立とうとした。
 そのとき、僕は彼女に声をかけられた。
「こんにちは結城先輩」
 出席票を受け取った隣の女の子はサークルの新入生の夏目さんだった。
 驚いて大声を出すところだったけど、今は講義中だった。僕はとりあえず席に座りなおした。
「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一年の夏目といいます」
 講義中なので声をひそめるように彼女が言った。
「知ってるよ。あそこで見たし・・・・・・でも何で僕の名前を?」
「先輩に教えてもらいました」
 彼女は出席票に女性らしい綺麗な字で自分の名前を記入しながらあっさりと言った。
 僕はその署名を眺めた。夏目麻季というのが彼女の名前だった。彼女は出席票を隣の学生に渡すと、もう話は終ったとでもいうように美術史のテキストに目を落としてしまった。
「じゃあ」
 彼女に無視された形となった僕は、つぶやくような小さな声で講義に集中しだした彼女に声をかけて席を立った。もう返事はないだろうと思っていた僕にとって意外なことに、夏目さんがテキストから顔を上げて怪訝そうに僕を見上げた。
「講義聞かないんですか?」
「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」
 夏目さんはそれを聞いて小さく笑った。
「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」
「そんなことないよ」
 僕は中途半端に立ったままで、思わず夏目さんの笑顔に見とれてしまった。
「でも先輩って格好いいですよね。年上の男の人の余裕を感じます」
 彼女がどこまで真面目に言っているのか僕にはわからなかったけど、彼女の言葉は何かを僕に期待させ、そしてひどく落ち着かない気分にさせた。
「じゃあ、失礼します」
 くすっと笑って再び夏目さんはテキストに視線を落としてしまった。
 気になる新入生から話しかけられる。それも僕の名前を知っていたというサプライズのせいで、それからしばらくは僕の脳裏から彼女のことが離れなかった。
 何で僕の名前を聞いたのか、何で僕に話しかけたのか、何で僕のことを格好いいと言ったのか。
 彼女の謎の行動はそれからしばらく僕を悩ませた。多分僕は彼女のことが気になっていたのだ。

 彼女への思いが次第に募っていくことは感じてはいたけれど、それからしばらく彼女と話をする機会はなかった。
 キャンパス内で友人たちと一緒にいる彼女を見かけることは何度かあったけど、彼女が僕にあいさつしたり話しかけたりすることはなかった。
 東洋美術史の講義で、僕は何度か夏目さんと近くの席になったこともあったけど、もう彼女は僕のことなど気にする素振りさえ見せなかった。それどころか知らない男子と、仲良すぎだろと思う距離感で笑い合ったりしていた。
 僕の名前を先輩に聞いたり、その後は僕のことなど全く眼中にない様子だったり。彼女の行動はいちいちちぐはぐだった。
 ひょっとしたらもう二度と夏目さんと会話することはないかもしれない。そう思うと残念なような寂しいような感慨が胸に浮かんだけど、僕はすぐにその思いを心の中で打ち消した。
 僕と彼女では釣りあわないし、きっと縁もなかったのだろう。そう考えれば夏目さんに対する未練のような感情は薄れていった。
 彼女の人生の中で、僕はほんの一瞬だけ触れ合った大学の先輩というだけなのだろう。
 これ以上夏目さんのことを深く考えるのはやめようと僕は思った。
 それにこの頃、僕は偶然に幼馴染の女の子とキャンパス内で再会していた。同じ大学の同じ学年だったのに、今までお互いに一向に気がつかなかったのだ。
「結城君」
 自分の名前を背後で呼ばれた僕が振り返ると、懐かしい女の子が泣いているような笑っているような表情で立ちすくんでいた。
「・・・・・・もしかして理恵ちゃん? 神山さんちの」
「うん。博人君でしょ。わぁー、すごい偶然だね。同じ大学だったんだ」
「久し振りだね」
 中学二年生のときに僕は引っ越しをした。それで、それまで幼稚園の頃からずっとお互いに近所に住んでいて、同じピアノ教室にも通っていた理恵とはお別れだったのだ。
 あのとき涙さえ見せずに強がって笑っていた彼女との再会は、いったい何年ぶりだっただろう。
 僕に声をかけたとき、理恵はびっくりしたような表情だった。そして僕がほんとうにかつての幼馴染だとわかったとき、どういうわけか理恵は少しだけ目を潤ませたのだった。
 久し振りに会った理恵に対して、懐かしいという思いは確かにあった。でもそれ以上に理恵については、自分好みの女の子にようやく出会ったという気持ちの方が大きかったかもしれない。
 気が多い男の典型のようだけど、理恵と再会した僕は、夏目さんのことを忘れ、理恵のことを思わずじっと見つめてしまった。
「な、何」
 僕の無遠慮な視線に気がついた利恵が顔を赤くして口ごもった。
 そのときは僕たちはお互いの家族の消息を交換して別れただけだったけど、僕の脳裏には夏目さんの表情が薄れていって、代わりに理恵の姿が占めるようになっていった。
 その後、再会してからの理恵は僕と出会うと一緒にいた友だちを放って僕の方に駆け寄って来るようになった。そして僕の腕に片手を掛けて僕に笑いかけた。
「博人君」
「な、何」
 突然片腕を掴まれた僕は驚いて理恵の顔を見る。周囲にいた学生たちがからかうような羨望のような視線を僕に向ける。
「別に何でもない・・・・・・呼んだだけだよ」
 理恵は笑って僕の腕を離して友だちの方に戻って行く。僕に向かって片手をひらひらと胸の前で振りながら。
 この頃になると、僕は密かに理恵に恋するようになっていた。
 理恵の僕に対する態度も積極的としか思えなかったので、僕は久し振りに再会した幼馴染に対する自分の恋は、ひょっとしたら近いうちに報われるのではないかと思い始めていた。
 つまり一言で言うと僕は理恵に夢中になっていたのだ。なので、一瞬だけ気になった夏目さんと疎遠になったことを思い出すことは、だんだんと無くなっていった。
 僕と理恵はお互いに愛を告白したわけではなかったけど、次第にキャンパス内で一緒に過ごす時間が増えてきた。
 理恵は学内で僕を見かけると、一緒にいる友だちを放って駆け寄って来る。
 置き去りにされた友だちの女の子たちは、僕たちの方を見てくすくす笑って眺める。
 そんな状態がしばらく続いた頃、そろそろ勇気を出して理恵に告白しようと僕は心に決めた。
 その日も僕は理恵と並んで歩いていた。理恵はさっきから自分の妹が最近生意気だという話を楽しそうにしていた。
 玲子ちゃんというのが理恵の妹の名前だった。僕たちが昔隣同士に住んでいた頃には理恵には妹はいなかったから、僕が引っ越した後で生まれたのだろう。
 今では小学生になったという玲子ちゃんは、理恵にとってはひどく相手にしづらい気難しい女の子らしい。理恵のふくれた顔を眺めながら僕は彼女の話にあいづちを打っていた。
 でも正直会ったことすらない小学生の女の子に興味を抱けという方が無理だった。たとえそれが気になっている女の子の妹の話だとしても。
 そのとき視線の端に麻季の姿が見えた。彼女は誰か知らない上級生の男と一緒だった。
 一瞬、何か心に痛みが走った。麻季が他の男と寄り添って一緒に歩いている。それだけのことに僕はこんなに動揺したのだった。
 これまで理恵のことばかりを考え、麻季のことなど忘れていたのに。
 隣で話している理恵の声が消え、僕は自分の心が傷付くだろうことを承知のうえで麻季の方を見つめた。
 でも何か様子がおかしかった。僕が見つめている先に一緒にいる男女は、何かいさかいを起こしているようだった。自分の肩を押さえた男の手を麻季は振り払っていた。
「それでね、玲子ったら結局あたしの買ったバッグを勝手に学校に持って行っちゃってね」
「・・・・・・うん」
 手を振り払われた男は麻季のその行為に唖然とした様子だったけど、すぐに憤ったように麻季の顔を平手打ちした。麻季の華奢な体が地面に崩れた。
「でね、あいつったら勝手に友だちに貸して」
「悪い」
 僕は驚いたように話を途中で中断した理恵を放って、麻季と男の方に駆け出した。このときはよくわからないけど何だか夢中だった。
 とにかくあの麻季が暴力を振るわれていることに我慢できなかったのだ。
 僕は中庭のベンチの横にいる二人のそばまで走った。麻季は地面に崩れ落ちたままだで、激昂した男が何か彼女に向かって言い募っている。
 再び男が手を上げたとき、僕は二人の近くに到着した。
 先輩らしい男はけわしい表情で僕を見た。それでもその先輩は、か弱い女には手をあげたのだけど、まともに男相手に喧嘩する気はないようだった。
 きっと手を痛めつけられないのだろう。ピアノ科とか器楽科にいる連中なら無理もなかった。
 普通音大には演奏系、作曲・指揮系、音楽教育系の学科がある。
 演奏系の学生にとっては手は喧嘩ごときで傷めるわけにはいかない。逆に言うとこの先輩は、自分の大切な手を女を殴るためなんかによくも使えたものだ。
 僕は音楽学を選考していたから実際の器楽の演奏にはそれほど執着がない。
 先輩が麻季を虐めるのを止めないのなら、それなりに考えがあった。でも駆けつけてきた僕を見て先輩は急に冷静になったようで、人を馬鹿にするものいい加減にしろと、倒れている麻季に言い捨ててその場をそそくさと去って行った。
「君、大丈夫?」
 僕は倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情で僕を見上げた。
「怪我とかしてない?」
「……先輩、神山先輩と別れたの?」
 僕が麻季を地面から立たせると、それが僕であることを認識した彼女は場違いの言葉を口にした。
「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ」
 僕は呆れて言った。
「君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」
「彼氏って誰のことですか?」
 相変わらずマイペースな様子で麻季が首をかしげた。男にいきなり平手打ちされて地面に倒されたというのに、そのことに対する動揺は微塵も見られなかった。
 彼女はいろいろおかしい。僕はそう思ったけど、同時に首をかしげてきょとんとしている麻季の様子はすごく可愛らしかった。
 綺麗だとか大人びているとか思ったことはあったけど、守ってあげたいような可愛らしいさを彼女に対して感じたのはこのときが初めてだった。
 とりあえず麻季は怪我はしていない様子だったけど、そのまま別れるのは何となく気が引けていた僕は、彼女を学内のラウンジに連れて行った。
 ラウンジは時間を潰している学生で溢れていた。そのせいかどうか学内で目立っている麻季を連れていても、僕たちはそれほど人目を引くことなく窓際のテーブルに付くことができた。
「ほら、コーヒー」
「ありがとう。先輩」
 麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっきの先輩のことを話し始めた。
「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義があるからって断ったら突然怒り出して」
 それが本当なら悪いのは自分の意向を押し付けようとして、それが断られた突端に麻季に手を出した先輩の方だ。でも、あのとき先輩は馬鹿にするなと言っていた。
「付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。わたしは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」
 やはり内心そうではないかと思っていたとおりだったようだ。
 最初に新歓コンパで麻季を見かけたときはひどく大人びた女の子だと思った。
 群がる先輩たちへの冷静な受け答えを見ていて、彼女は単に男にちやほやされることに慣れているというだけではなく、しっかりと自分を律することができるんだろうなと。
 新入生にとっては、いくら男慣れしている子でも初めてのコンパで先輩たちに取り囲まれれば多少は狼狽してしまうはずだけど、彼女には一向にそういう様子が無かったから。
 でもそういうことだけでもないらしい。実はこの子は他人とコミュニケーションを取るのが苦手な子なのではないだろうか。
 今現在だってそうだけど、僕には麻季が何を考えているのかさっぱりわからない。でも麻季の中では自分の態度とそれに至る思考過程はきっと一貫しているのだろう。
 先輩はきっと麻季が自分のことを好きなのだと解釈したのだ。そしてその考えに沿って麻季に対して馴れ馴れしい態度を取ったに違いない。
 そして麻季も先輩の行動の意味を深く考えることもせず、自分の意に染まないことを強要されるまではなすがままに付き合っていたのだろう。
 僕が麻季について思いついたのはこういうことだった。
 突然に表面に現われる麻季の突飛な態度も、その過程の説明がないから驚くような行動に思えてしまうのであって、彼女の中ではその行動原理は一貫しているのではないか。
麻季の舌足らずの言葉の背後を探ってやればきっと彼女が何を考えているのかわかるのだろう。
「神山先輩と別れたの?」
 麻季が言った。
「なんで彼女のこと知ってるの」
「サークルの友だちに聞いたの」
 またそれか。僕のことが気になるのだろうか。そして、そうだとするとなんでこれまで僕のことを無視していたのか。ほかの男と一緒に過ごしてはいたのに。
「別れるも何も付き合ってさえいないよ」
「先輩、本当?」
 そのとき気がついた。きっと先輩に殴られて倒れた時に付いたのだろう。麻季の髪に枯葉の欠片が乗っていた。
 僕は急におかしくなって声を出して笑った。麻季は思ったとおり急に笑い出した僕の様子を変だとも思わなかったようだった。
 僕は手を伸ばして麻季のストレートの綺麗な髪から枯葉を取った。その間、麻季はじっとされるがままになっていた。麻季の髪の滑らかな感触を僕は感じ取ってどきどきした。
「結城先輩、わたしのこと好きでしょ」
 麻季が静かに笑って言った。

 それは思っていたより普通の恋愛関係だった。僕は麻季と付き合い出す前にも数人の女の子と付き合ったことがあった。そのどれもがどういうわけか長続きしなかった。
 結果として麻季との付き合いが一番長く続くことになった。
 あのとき麻季と付き合い出すことがなかったら、きっと僕は理恵に告白していただろう。そして多分その想いは拒否されなかったのではないか。
 でも麻季と付き合い出してからは、自然と理恵と会うこともなくなっていった。理恵の方も遠慮していたのだと思うし、僕はいつも麻季と一緒だったから、理恵に限らず他の女の子とは、わずかな時間にしろ二人きりで過ごすような機会は無くなったのだった。
 勢いで付き合い出したようなものだったけど、いざ自分の彼女にしてみると麻季は思っていたほど難しい女ではなかった。
 こうしてべったりと一緒に過ごしていると、麻季の思考は以前考えていたような難しいものではなかったのだ。付き合い出す前は少しメンヘラじゃないかとか彼女に失礼な考えが浮かんだことも確かだったけど、いざ恋人同士になり麻季と親しくなっていくと意外と彼女は付き合いやすい恋人だった。
 多分、四六時中側にいるようになって、僕が彼女が何を考えているのかをわかるようになったからだろう。
 それに思っていたほど麻季はコミュ障ではなくて、相変わらず言葉足らずではあったけど、僕は彼女の考えがある程度掴めるようになっていった。
 彼女には嫉妬深いという一面もあったし、ひどく情が深いという一面もあった。そういうこれまで知らなかった麻季のことを少しづつ理解して行くことも、僕にとっては彼女と付き合う上での楽しみになっていた。
 僕が三回生になったとき、麻季はお互いのアパートを行き来するのも面倒だからと微笑んで、ある日僕が帰宅すると僕のアパートに自分の家財道具と一緒に彼女がちょこんと座っていた。合鍵は渡してあったのだけどこのときは随分驚いたものだ。
 同棲を始めて以来、僕たちはあまり外出しなくなった。食事の用意も麻季が整えてくれる。意外と言っては彼女に失礼だったけど、麻季は家事が上手だった。そんな様子は同棲を始める前は素振りにさえ見せなかったのに。
 僕がインフルエンザに罹って高熱を出して寝込んだとき、僕は初めて真剣に狼狽する麻季の姿を見た。
「ねえ大丈夫? 救急車呼ぼうよ」
 僕は高熱でぼうっとしながらも思わず微笑んで麻季の頭を撫でた。麻季は僕に抱きついてきた。
「インフルエンザが移るって。離れてろよ」
「やだ」
 僕は麻季にキスされた。
 結局、僕の回復後に麻季が寝込むことになり、逆に僕が彼女を介抱する羽目になったのだ。
 この頃になるとサークルでも学内でも僕たちの付き合いは公認の様相を呈していた。
 麻季は相変わらず目立っていた。やっかみ半分の噂さえ当時の僕には嬉しかったものだ。
 これだけ人気のある麻季が心を許すのは僕だけなのだ。麻季の心の動きを知っているのは僕だけだ。
 それに麻季自身が関心を持ち、一心に愛している対象も僕だけなのだ。
 麻季と肉体的に結ばれたとき彼女は処女だった。
 別に僕は付き合う相手の処女性を求めたりはしないし、僕が今まで経験した相手は、最初の女の子を除けばみな体験者だったけど、それでも麻季の初めての相手になれたことは素直に嬉しかった。
 僕が四回生で麻季が三回生のとき、僕は就職先から内定をもらった。
 この大学では亜流だった僕は、別に演奏家を目指しているわけでも音楽の先生を目指しているわけでもなかったので、普通に企業への就職活動をしていた。
 音楽史音楽学のゼミの教授は、このまま院に進んで研究室に残ったらどうかと勧めてくれたけど、僕は早く就職したかった。
 麻季との結婚も視野に入れていたのだ。
 結局、ゼミの教授の推薦もあって、老舗の音楽雑誌の出版社から内定が出たときは本当に嬉しかったものだ。
 内定の連絡を受けた僕は迷わずに麻季にプロポーズした。
 僕の申し出に、麻季は信じられないという表情で凍りついた。感情表現に乏しい彼女だけどこのときの彼女の言葉に誤解の余地はなかったのだ。
「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」
 このときの麻季の涙を僕は生涯忘れることはないだろう。
 一年半の婚約期間を経て僕と麻季は結婚した。僕と麻季の実家の双方も祝福してくれたし、サークルのみんなも披露宴に駆けつけてくれた。
「麻季きれい」
 麻季のウエディングドレス姿に麻季の女友達が祝福してくれた。僕の側の招待客は親族を除けば大学や高校時代の男友達だけだった。幼馴染の理恵を招待するわけにはいかなかった。
 でもずいぶん後になって、知り合い経由で理恵が僕たちを祝福してくれていたという話を聞いた。
 結婚後しばらくは麻季も働いていた。それは彼女の希望でもあった。ピアノ専攻の彼女は演奏家としてプロでやっていけるほどの才能はなかったけど、ピアノ科の恩師の佐々木先生の個人教室のレッスンを手伝うことになったのだ。でもそれもわずかな期間だけだった。
 やがて麻季は、彼女の希望どおり妊娠して男の子を産んでくれた。僕たちは息子の奈緒人に夢中だった。
 麻季は佐々木教授の手伝いをやめて育児に専念してくれた。
 奇妙なきっかけで始まった僕たちの夫婦生活は順調だった。麻季は理想的な妻だった。かつて彼女のことを精神的な病気じゃないかと疑った自分を殴り倒してやりたいほど。
 僕は本当に幸せだった。
 仕事が多忙であまり麻季を構ってやれなかったけど、できるだけ早く帰宅して奈緒人をあやすようにしていた。
 僕が奈緒人を風呂に入れるとき、麻季は心配そうに僕の手つきを眺めていたのだ。これでは麻季の育児負担を軽減するために奈緒人の入浴を引き受けた意味がないのに。
 僕たちの生活は順調だった。少なくともこのときの僕には何の不満もなかったのだ。
 麻紀と奈緒人と共に歩んでいく人生に何の不満もないと思っていたのは本当だったけど、あえて物足りないことあげるとしたら、奈緒人が誕生してから麻季との夜の営みが途絶えてしまったことくらいだろうか。
 ある夜、奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、僕は出産以来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。
 少しだけ麻季は僕の手に身を委ねていたけど、すぐに僕の腕の中から抜け出した。
「・・・・・・麻季?」
 これまでになかった麻季の拒絶に僕は内心少しだけ傷付いた。
「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」
 子育ては僕たちにとって始めての経験だったし、疲れてその気になれないことだってあるだろう。
 僕は育児で疲労している麻季のことを思いやりもせずに、自分勝手に性欲をぶつけようとしたことを反省した。
 こんなことで育児もろくに手伝わない僕が傷付くなんて自分勝手な考えだ。何だか自分がすごく汚らしい男になった気がした。
「いや。僕の方こそごめん」
 僕は麻季に謝った。
「ううん。博人君のせいじゃないの。ごめんね」
 一度僕の腕から逃げ出した麻季は再び僕に抱きついて軽くキスしてくれた。
「もう寝るね」
「うん。おやすみ」
 これが僕たち夫婦のセックスレスの始まりだった。
 この頃はまだ奈緒人には手がかかっていた頃だった。
 実際、育児雑誌で注意されている病気という病気の全てに奈緒人は罹患した。
 そのたびに麻季は狼狽しながら僕に電話してきて助けを求めたり、病院に駆け込んだりして大騒ぎをした。
 麻季は真剣に誠実に育児に取り組んでいた。
 それは確かだったしそんな妻に僕は感謝していたけれど、それにしてももう少し肩の力を抜いた方がいいのではないかと僕は考えた。そしてそのそのせいで、何度か麻季と言い争いになったこともあった。
 麻季は奈緒人を大切に育てようとしていた。僕たち夫婦の子どもなのだからそれは僕にとっても嬉しいことではあったけど、麻季の場合はそれが行き過ぎているように思えた。
 市販の粉ミルクで赤ちゃんが死亡したニュースを見てからは、麻季は粉ミルクを使うことを一切やめて、母乳だけで奈緒人を育てようとした。
 ちなみに危険な粉ミルクのニュースは外国の出来事だ。
 それから大手製紙会社の製品管理の不具合のニュースを見て以来、麻季は市販の紙おむつを使用することをやめ、自作の布おむつを使用するようになった。
 製紙会社の不祥事は紙おむつではなくティッシュ製造過程のできごとだったのだけど。
 麻季との同棲生活や結婚生活を通じて、これまで彼女がここまで脅迫的な潔癖症だと感じるようなことはなかった。
 結局、麻季は僕と彼女との間に生まれた奈緒人のことが何よりも大事なのだろう。
 そういう彼女の動機を非難することはできないし、息子の母親としてはむしろ理想的な在り方だった。
 最初の頃少し揉めてからは、行き過ぎだと思いつつも僕は黙って麻季のすることを容認することにした。
 若干不安は残ってはいたけど、そもそも仕事が多忙でろくに育児参加すらできていない僕には、麻季の育児方法について口を出せるのにも限度があった。
 こんなに一生懸命になって奈緒人を育てている麻季に対して、これ以上自分勝手な性欲を押し付ける気はしなかったので、僕は当面はそういうことに麻季を誘うことを止めることにした。内心では少し寂しく感じてはいたけど。
 この頃の僕は、ちょうど仕事を覚えてそれが面白くなっていた時期でもあったし、少しづつ企画を任されて必然的に多忙になっていった時期でもあった。
 だから育児に協力したいという気持ちはあったけど、実際には二、三日家に帰れないなんてざらだった。
 なので、出産直後のように奈緒人をお風呂に入れるのは僕の役目という麻季との約束も、単に象徴的な夫婦間の約束になってしまっていて、たまの休日に「パパ、奈緒人のお風呂お願い」と麻季に言われて入浴させる程度になっていた。
 それすら、麻季は育児に協力できないで悩んでいる僕に気を遣って言ってくれたのだと思う。ろくに育児に協力できない僕の気晴らしのために、わざと奈緒人を風呂に入れるように頼んでくれていたのだろう。
 どんなに育児に疲れていても僕に対するこういう気遣いを忘れない彼女のことが好きだった。
 僕は麻季と結婚してからどんどん彼女のことが好きになっていくようだ。
 そして麻季も夫婦間のセックスレスを除けば、そんな僕の想いに応えてくれていた。
 この頃は僕も忙しかったけど、麻季だって育児に追われていたはずだ。
 それでも彼女は一日に何回も仕事中の僕にメールしてくれた。
 奈緒人が初めて寝返りをうったとき。奈緒人が初めて「ママ」と呼んだとき。奈緒人が初めてはいはいしたとき。
 その全てのイベントを、僕は仕事のせいで見逃したのだけど、麻季はいちいちその様子を自宅からメールしてくれた。
 そのおかげで僕は息子の成長をリアルタイムで感じることができた。
 当時は今ほど気軽に画像や動画を添付して送信できなかった時代だったので、麻季からのメールの画像は画質が低かったけど、それを補って余りあるほどの愛情に満ちた文章が送られてきたのだ。
 麻季は昔から感情表現が苦手な女だった。それは結婚してからも同じだった。
 それでも僕たちが幸せにやってこれたのは、僕が彼女の言外の意図を読むことに慣れたからだった。
 でも仕事のせいで麻季と奈緒人にあまり会えない日々が続いていたせいで、麻季は僕とのコミュニケーションにメールを多用するようになった。
 そして、目の前にいる彼女の思考は読み取りづらくても、メールの文章は麻季の考えを明瞭に伝えてくれることが僕にもわかってきた。
 文章の方がわかりやすいなんて変わった嫁だな。僕は微笑ましく思った。
 そういうわけで麻季の関心が育児に移ってからも、彼女の僕への愛情を疑ったことはなかった。
 それは疲れきって自宅に帰ったときに食事の支度がないとか、風呂のスイッチも切られていたとか、そういう次元の不満がないことはなかったけど、僕が帰宅すると奈緒人と添い寝していた麻季は寝床から起き出して、疲れているだろうに僕に微笑んで「おかえりなさい」と言って僕の腕に手を置いて軽くキスしてくれる。
 それだけで僕の仕事のストレスは解消されるようだった。
 この頃の麻季の僕に対する愛情は疑う余地はなかったけど、やはり夜の夫婦生活の方はレスのままだった。奈緒人が一歳の誕生日を迎えた頃になると、育児にも慣れてきたのか麻季の表情や態度にもだいぶ余裕が出てきていた。
 以前反省して自分と約束したとおり、僕は麻季に拒否されてから今に至るまで彼女を求めようとはしなかったけど、そろそろいいのではないかという考えが浮かんでくるようになった。
 まさかこのまま一生レスで過ごすつもりは麻季にだってないだろうし、いずれは二人目の子どもだって欲しかったということもあった。
 そんなある夜、久し振りに早目の時間に帰宅した僕は、甘えて僕に寄り添ってくる麻季に当惑した。
 奈緒人はもう寝たそうだ。その夜の麻季はまるで恋人同士だった頃に時間が戻ったみたいに僕に甘えた。
 これは麻季のサインかもしれない。ようやく彼女にもそういうことを考える余裕ができたのだろう。そして表現やコミュニケーションが苦手な彼女らしく態度で僕を誘おうとしているのだろう。
 長かったレスが終ることにほっとした僕は麻季を抱こうとした。
「やだ・・・・・・。駄目だよ」
 肩を抱かれて胸を触られた途端に柔らかかった麻季の体が硬直した。
 でも僕はその言葉を誘いだと解釈して行為を続行した。このとき麻季がもう少し強く抵抗していればきっと彼女も相変わらず疲れているのだと思って諦めたかもしれない。
 でもこのときの麻季は、可愛らしく僕の腕のなかでもがいたので、僕はそれを了承の合図と履き違えた。しつこく体を愛撫しようとする僕に麻季は笑いながら抵抗していたから。
 でもいい気になって麻季の服を脱がそうとしたとき、僕は突然彼女に突き飛ばすように手で押しのけられた。
「あ」
 麻季は一瞬狼狽してその場に凍りついたけどそれは僕の方も同じだった。
 僕は再び麻季に拒絶されたのだ。
「ごめん」
「ごめんなさい」
 僕と麻季は同時にお互いへの謝罪を口にした。
「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよね。悪かった」
 いつまで麻季に拒否されるんだろうという寂しさを僕は再び感じたけど、ろくに家に帰ってこない亭主の代わりに家を守って奈緒人を育ててくれている麻季に対してそんなことを聞く権利は僕にはない。
「わたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」
「いや」
「・・・・・・口でしてあげようか」
 麻季が言った。
 それは僕のことを考えてくれた発言だったのだろうけど、その言葉に僕は凍りつき、そしてひどく屈辱を感じた。
「もう寝ようか」
 麻季の拒絶とそれに続いた言葉にショックを受けたせいで、僕のそのときの口調はだいぶ冷たいものだったに違いない。
 そのとき麻季が突然泣き始めた。
「悪かったよ」
 僕はすぐに麻季を傷つけた自分の口調に後悔し、謝罪したけど彼女は泣き止まなかった。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあんなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」
 それでも麻季は俯いたままだった。そして突然彼女は混乱した声で話し始めた。
「ごめんなさい。謝るから許して。わたしのこと嫌いにならないで」
 僕は自責の念に駆られて麻季を抱きしめた。こんなに家庭に尽くしてくれている彼女に、こんなにも暗い顔をさせて謝らせるなんて。
「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れてるってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」
 僕の方も少し涙声になっていたかもしれない。麻季は僕の腕の中で身を固くしたままだった。
 かつて彼女が、まるで言葉が通じなかった状態のメンヘラだった麻季の姿が目に浮かんだ。ここまで麻季と分かり合えるようになったのに、一時の無分別な性欲のせいで、これまでの二人の積み重ねを台無しにしてしまったのだろうか。
 そのとき麻季が濡れた瞳を潤ませたままで言った。
「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」
 何を言っているのだ。僕は本格的に混乱した。もともとコミュ障気味の麻季だったけど、このときは本気で彼女が何を言っているのかわからなかった。
「わかってるよ。落ち着けよ」
「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」
「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理ならもう二度と迫ったりしないから」
「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」
「・・・・・・え」
 僕はその告白に凍りついた。
「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから許して」
 混乱する思考の中で僕は麻季に抱きつかれた。僕の唇を麻季がふさいだ。そのまま麻季は僕を押し倒して覆いかぶさってきた。
「おい、よせよ」
「ごめんね・・・・・・しようよ」
 彼女はソファに横になった僕の上に乗ったままで服を脱ぎ始めた。
 僕は混乱して麻季を跳ね除けるように立ち上がったのだけど、その拍子に彼女は上着を中途半端に脱ぎかけたまま床に倒れた。
 麻季が泣き始めた。
 深夜になってようやく落ち着いた麻季から聞き出した話は僕を混乱させた。
 麻季は浮気をしていたのだ。それも奈緒人を放置したままで。
 その相手との再会は保健所の三ヶ月健診から帰り道でのできごとだった。
 麻季は奈緒人を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。
 駐車場の段差で、ベビーカーを持て余していた麻季に手を差し伸べて助けてくれた男の人がいた。
 お礼を言おうと彼の顔を見たとき、二人はお互いに相手のことを思い出したそうだ。
 彼は大学時代に麻季を殴った先輩だったのだ。麻季は最初先輩のことを警戒した。でも先輩は何事もなかったように懐かしそうに麻季にあいさつした。
 当時近所にママ友もいないし僕も滅多に帰宅できない状況下で孤独だった麻季は、先輩に誘われるまま近くのファミレスで昔話をした。サークルや学科の友人たちの消息を先輩はたくさん話してくれた。
 当時の友人たちはそれぞれ自分の夢に向かって頑張っているようだった。中には夢を実現した友人もいた。
 僕との結婚式で「麻季、きれい」と感嘆し羨望の眼差しをかけてくれた友人たちに対して、当時の麻季は優越感を抱いていたのだけど、その友人たちは今では華やかな世界で活躍し始めていた。
 国際コンクールでの入賞。国内どころか海外の伝統のあるオケに入団している友だちもいた。
 それに比べて自分は旦那も滅多に帰宅しない家で一人で子育てをしている。麻季の世界は奈緒人の周囲だけに限定されていた。
 結婚式で感じた優越感は劣等感に変わった。麻季の複雑な感情に気づいてか気が付かないでか、先輩は自分のことも話し出した。
 国内では有名な地方オーケストラに入団した先輩は、まだ新人ながら次の定期演奏会ではチェロのソリストとして指名されたそうだ。
「みんなすごいんですね」
「君だって立派に子育てしてるじゃん。誰にひけ目を感じることはないさ。それにとても幸せそうだよ」
「そんなことないです」
「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家庭に入るなんて意外だったけどね」
「わたしには才能なんてなかったし」
「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃうなんてもったいないって」
 そのときは先輩と麻季はメアドを交換しただけで別れた。
 それ以来先輩からはメールが頻繁に来るようになった。その内容も家に引きこもっていた麻季には眩しい内容だった。
 そのうちに麻季は先輩とのメールのやり取りを楽しみにするようになった。
 そしてその日。
 先輩のオケの定期演奏会のチケットが送られてきた。それは先輩がソリストとしてデビューするコンサートのチケットだった。
 麻季は自分の実家に奈緒人を預けて、花束を持ってコンサートに出かけた。知り合いのコンサートを聴きに行くのは久し振りで、彼女は少しだけ大学時代に戻った気がしてわくわくしていた。
 終演時に観客の喝采を浴びた先輩は、客席から花束を渡す麻季を見つめて微笑んだ。
 実家に預けた奈緒人のことが気になった麻季がコンサートホールを出たところで、人目を浴びながらも、それを気にする様子もなく先輩がタキシード姿で堂々と彼女を待ち受けていた。
 その晩、誘われるままに先輩と食事をした麻季は、ホテルで先輩に抱かれた。
 話し終えた麻季がリビングの床にうずくまっていた。
 さっき脱ごうとした上着の隙間から白い肌を覗かせたままだ。それがひどく汚いもののように見える。
 情けないことに僕は一言も声を出すことができなかった。麻季が浮気をした。こともあろうに大学時代に僕が麻季を救ったその相手の先輩と。
 麻季との恋愛や結婚、そして奈緒人の誕生は全てそこが出発点だったのに、その基盤が今や音を立てて崩壊したのだ。
「・・・・・・先輩のこと好きなの?」
 僕はようやく言葉を振り絞った。
「本当に好きなのは博人君だけ。でも信じてもらえないよね」
 俯いたまま掠れた声で麻季が言った。
「先輩と何回くらい会ったの」
「最初の一度だけ。そのときだって先輩に抱かれながら、奈緒人とあなたの顔が浮かんじゃって。もうこれで最後にしようって彼に言ったの。それから会ってないよ」
 回数の問題じゃない。
 確かに慣れない子育てに悩んでいる麻季を仕事にかまけて一人にしたのは僕だった。でも心はいつも麻季と奈緒人のもとを離れたことなんてなかった。
 麻季だって寂しかったのだ。仕事中に頻繁に送られてくるメールだって今から思えば寂しさからだったのだろう。
 でも僕はそこで気がついた。あれだけ頻繁に僕に送信されていたメールがあるときを境にその回数が減ったのだ。
 それは麻季が先輩と再会してメールでやり取りを始めた頃と合致する。
「先輩って鈴木って言ったっけ」
「・・・・・・うん」
「鈴木先輩って独身?」
「うん。でも彼とはもう別れたんだよ。一度だけしかそういうことはしてないよ」
 そのとき僕はもっと辛いことに気がついてしまった。
 麻季が先輩に抱かれた時期は、麻季に拒否された僕がもう麻季に迫るのはやめようとしていた時期と同じだった。つまり麻季は僕に対しては関係を拒否しながらも、先輩に対しては体を開いていたことになる。
 僕の中にどす黒い感情が満ちてきた。できることならこの場で暴れたかった。あのとき鈴木先輩がしたように麻季の頬を平手で殴りたかった。
「先輩のこと好きなのか?」
 僕は再び麻季に問いかけた。
「何でそんなこと言うの」
 麻季は不安そうに僕を眺めた。
「僕は君のこと愛しているから。君が僕と離婚して先輩と一緒になりたいなら・・・・・・」
「違う!」
 麻季がまた泣き出した。
「先輩は君たちの関係のことを何か言ってたんでしょ」
「それは」
「泣いてちゃわからないよ。ここまできて隠し事するなよ」
 この頃になってだんだん僕の言葉も荒くなってきた。自分を律することが難しくなってきていたのだ。
「・・・・・・あなたと別れて一緒になってくれって。奈緒人のこともきっと幸せにするからって」
「そう」
 本当に今日はこのあたりが限度だった。このまま話していると本当に麻季に手を上げかねない。奈緒人の名前が先輩の口から出たと言うだけで自分の息子が彼に汚されたような気さえする。
「でも断ったよ、わたし。最初のときからすごく後悔したから。あの後先輩からメールがいっぱい来たけど返事しないようにしたんだよ」
 麻季は泣きながら震える手で自分の携帯を僕に見せようとした。
 誰がそんなもの見るか。
「今日はもう寝よう。明日は休みだし明日また話そう」
 僕は立ち上がった。僕の足に麻季がまとわりついた。
「お願い、許して。何でもするから。わたしあなたと別れたくない」
「・・・・・・今日はここで寝るよ。君は奈緒人の側にいてあげて」
 絶望に満ちた表情で床に座り込んだ麻季が僕を見上げた。
 麻季の悲しい表情を見ることが今まで僕にとって一番悲しく嫌なことだったはずのに、このときは僕は麻季の絶望に対して、何も感じなくなってしまっていたようだった。
 翌朝、ほとんど眠れなかった僕はソファで強張った体を起こした。体に掛けられていた毛布が体から滑り落ちて床に広がった。麻季が僕に毛布を掛けたのだろう。
 その記憶がないところを見ると、僕は少しは眠ったのかもしれない。
 家の中は妙に静かだった。もう朝の九時近い。
 ソファで無理のある姿勢で一晩を過ごしたせいで体の節々が痛かった。
 僕は起き上がって寝室の様子を覗った。寝室からは何の気配もしない。麻季のことはともかく、奈緒人がどうしているか気になった僕は寝室のドアをそっと開けて中を覗き込んだ。
 ドアを開けた僕の目に麻季がベッドの上で奈緒人に授乳している光景が目に入った。
 麻季も昨晩の告白に悩んでいたはずだけど、このときだけは自分の白い胸に夢中になってしゃぶりついている我が子のことを慈愛に満ちた表情で見つめていたのだ。
 麻季は寝室のドアが開いたことにも気がついていない様子だった。
 このとき僕が我を忘れて見入ったのは麻季ではなく奈緒人だった。もう離乳食を始めていたはずなのだけど、このときの奈緒人は母親の乳房に夢中になって吸い付いていたのだ。
 自分の妻と自分の息子なのだけど、このときの母子の姿は何というか神々しいという感じがした。
「おはよう」
 麻季はさぞかし僕に言い訳したかっただろう。でも彼女は僕の方を振り返ることをせず、「しっ」と僕を優しくたしなめた。
「・・・・・・ごめんなさい。久し振りに奈緒人がおっぱいを欲しがってるの」
「うん、そうだね。ごめん」
 僕は寝室のドアを閉じた。
 やがて麻季が寝室から出てきて、リビングのソファでぼんやりとテレビを見ている僕の向かいに座った。いつもなら迷わず僕の隣に座るのに。
「ごめんね。もう離乳できてたはずなんだけど、今日は奈緒人はおっぱいが欲しかったみたい」
奈緒人は?」
「お腹いっぱいになったら寝ちゃった。ベビーベッドに寝かせてきた」
「そうか」
「ごめん」
 何で麻季は謝るのだ。
 奈緒人のことで彼女が謝る理由なんて一つもない。むしろ謝るのは他のことじゃないのか。
 さっき見かけた母子の美しい様子が僕の脳裏に現われた。そして昨晩の麻季の告白が思い浮んだ。
 麻季の謝罪は浮気についてなのだろうか。僕は混乱していた。これでは冷静な判断ができない。
奈緒人は離乳が早いよな」
 僕は何となくそう言った。
「そうね。長い子だと卒乳するのが四歳とか五歳の子もいるみたいだよ」
「そうか」
「・・・・・この子も感じていたのかもね。自分の母親が、自分だけの物を父親でもない男に触らせてたって」
 彼女は暗い表情でそう言った。僕は麻季の言葉に凍りついた。考えてみれば、麻季は母乳が出る状態で浮気していたのだ。
「昨日は慌ててみっともない姿を見せちゃったけど、わたしのしたことが博人君にとって、それに奈緒人にとってもどんなにひどいことだったのかがよくわかった」
「うん」
 僕にはうんという以外の言葉が思いつかなかった。
「本当にごめんなさい。今でも愛しているのはあなたと奈緒人だけ。でも自分がしたことが許されないことだということもわかってる」
「僕は・・・・・・。奈緒人の世話もろくにしなかったし、君を一人で家に放置していたことも認めるよ。仕事が忙しかったとはいえ反省はしている。でもだからといって他の男に抱かれることはなかったんじゃないか」
「うん」
「うんじゃねえよ」
 僕は思わず声を荒げた。
「不満があるなら何で僕に話さないんだよ。僕にセックスを迫られるのが嫌なら、何でもっとはっき言りわないんだよ。僕が悪いことはわかってるよ。だからと言っていきなり浮気することはないだろ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいから理由を話してくれよ。もう一度聞く。今度は本気で答えろよ」
「・・・・・・はい」
「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?」
「それは・・・・・・うん」
「僕とはエッチするのは嫌だったのに?」
「・・・・・・」
「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したんだろ」
「うん」
 それを静かに肯定した麻季に僕は逆上した。
「もう離婚だな。先輩が好きなら何で大学時代に先輩のとこに行かなかったんだよ。何で僕のことを誘惑した? 何で僕と理恵の仲に嫉妬したりした?」
 麻季は俯いて黙ってしまった。麻季の目に涙が浮かんだ。
 その場を嫌な沈黙が支配した。
 そのとき寝室から奈緒人の泣き声が聞こえた。僕と麻季は同時に立ち上がり、競うようにして寝室に殺到した。
 奈緒人はベビーベッドの柵を乗り越えて床に落下したのだった。
 これまでの麻季とのいさかいを忘れ、僕は心臓が止まる思いをした。
 でも奈緒人はそんな僕の心配には無頓着に起き上がってたちあがり、よたよたと二、三歩歩いた。
奈緒人が歩いたよ、おい」
「うん。少しだけだったけどしっかり歩いたよ」
 その瞬間僕たちはいさかいを忘れ、瞬時に夫婦、いや父母に戻ったのだ。
 麻季が再び床に倒れた奈緒人を抱き上げた。麻季に抱き上げられた奈緒人はもう泣き止んでいて、麻季の腕から逃れたいようにじたばたしていた。
「フロアに立たせてみて」
 僕は麻季にそっと言った。
 麻季はもう僕のことは忘れたように返事せずに、奈緒人を見つめながら大切な壊れ物を置くように寝室のカーペットの上に立たせて、そっと手を離した。
 もう間違いではない。奈緒人は再び自力で歩行して、すぐに倒れ掛かった。
 危ういところで僕は奈緒人を抱き上げることができた。
「やった」
「やったね」
 僕と麻季は目を合わせて微笑みあった。そして申し合わせたように奈緒人の表情を眺めた。
 奈緒人はもう歩くことに飽きてしまったようで、僕に抱かれたまま僕の胸に顔を押し付けて再びうとうとし始めていた。
 僕は自分の腕の中にいる奈緒人を見つめた。
 奈緒人を実家に預け、僕以外の男に抱かれた麻季。僕の誘いを拒否して一度だけとはいえ鈴木先輩に抱かれた麻季。
 そんな彼女を許す理由としては、傍から見れば非常にあやふやだったかもしれない。
 でも奈緒人の初めての歩行を実際に見届けて感動していた僕は、その思いを共有できるのは麻季だけだとあらためて気がついたのだ。
 僕と麻季はそれまでのいさかいを忘れ、狭い寝室の中初めて歩行した奈緒人のことを見つめていたのだ。このときはもう言葉は必要なかったみたいだった。
 結局このときは僕は麻季を許してやり直す道を選んだ。先輩とは二度と連絡もしないし会わないという条件で。
「僕たち、最初からやりなおそうか。奈緒人のためにも」
 僕の許容に最初は呆然として戸惑っていた様子の麻季は、泣きながら僕に抱きつこうとして僕に抱かれている奈緒人に気がついて自重した。
 その代わりに彼女は奈緒人を抱いている僕の手を強く握った。麻季の手は少し湿っていて冷たかった。