yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第1部第13話

 翌日も僕は大学を休んだ。

 僕のことをからかったり、叔母さんの父さんへの恋心を語ったりしている明日香は、もうあまり思いつめていないように見えた。

 でも、僕がトイレに行ったり食事の支度をしたりして、リビングのソファに寝ている明日香のところに戻る際、僕は明日香が普段はあまり見せない暗い表情をしていることに気がついた。

 奈緒に会えないことは正直寂しかったし、講義に遅れてしまうことへの危惧もあったけど、僕が悩んでいた時期にそっと寄り添って一緒にいてくれた明日香を、一人で自宅に放置するなんて論外だった。

 なのでリビングのソファで横になっている明日香の隣で僕はじっと腰かけて、スマホでゲームをしていた。明日香がテレビを見ているので、イヤホンをして邪魔にならないようにしていたのだけど、それでも明日香は僕のしていることが気に入らないようだった

「リビングで一緒にいるのに、何でお兄ちゃんは自分ひとりでニヤニヤしながらゲームしているのよ」

 明日香が僕の耳からイヤホンを取り上げた。ニヤニヤなんかしていない。

「よせよ。壊れちゃうだろ」

「一緒にテレビ見ながら話しようよ」

 明日香が僕の手からスマホを取り上げて言った。

「テレビって」

 平日の午前中だから仕方ないのだろうけど、明日香がさっきから興味深々に見入っているのは主婦向けの情報番組だった。

「・・・・・・これ見るの?」

 僕は一応明日香に抗議したけれど、実はそんなにプレイしていたゲームに未練はなかった。

 最近はリアルの生活でいろいろ進展があるせいか、これまではあれほど熱中していたゲームが、なんだかそんなに面白いとは思わなくなっていた。

「・・・・・・嫌なの? じゃあチャンネル変えようか」

 明日香がリモコンを弄ったけど、結局はどれも似たような番組だ。

「いいよ。最初におまえが見ていたやつで」

 窓からはちらほらと舞い降ってくる粉雪が見える。このまま降り続けば、今日は積もりそうな勢いだ。

「・・・・・・この人おかしいよね」

 番組の中で芸人のコメンテーターが何か気の利いたことを言ったのだろう。明日香が笑って僕の方を見た。

 今頃は奈緒はどうしているのだろう。僕はふと考えた。

 まだ午前中の授業時間だから、授業に熱中しているのだろうか。それともピアノのことでも考えてるのか。

 ・・・・・・それとも。ひょっとしたら僕のことを考えているのかもしれない。

 つらかった別れを経て久しぶりに再会できた兄のことを。

 奈緒が自分の実の妹であることを知った日以来、僕は精神的には本当にまいっていたのだけど、奈緒にとってはそれはそういう受け止め方をするような事実ではなかったようだ。

 奈緒はすぐに僕が自分の兄であることを受け入れたばかりか、僕を抱きしめながら本当に幸せそうな微笑みを浮べたのだ。

 僕は奈緒が真実を知らされることを恐れていた。出来立ての自分の彼氏が、恋愛対象として考えてはいけない相手だと知らされたとき、奈緒がショックを受けて傷付くことを恐れたからだ。

 奈緒は傷付くどころか喜んだ。僕だって妹との再会は嬉しくないはずはなかった。

 でも、これほどまでに入れ込ん最初の恋人が、付き合ってはいけない女の子だったと知ったときの絶望感は、僕の心に深く沈潜してなくなることはなかった。

 僕ほどにショックを受けていないのは、僕が兄だと知る前の僕のことを、奈緒がそれほど愛してくれていたわけではないからなのだろうか。その考えは僕を混乱させた。

 奈緒を傷つけたくないと思っていたはずの僕は、あろうことか、奈緒が僕と恋人同士ではいられなくなるという事実を知っても動揺しなかったことに対してショックを受けたのだ。

 いったい僕は何がしたいのだろう。過去に自分の記憶を封じ込めるほどにつらい過去があった。その話は玲子叔母さんが僕に話してくれたから、今ではよく理解できていた。そのつらかった過去の一部は、奈緒との再会によって癒されることになった。

 それなのに僕はこれ以上いったい何を求め、何を期待していたのだろう。

 つらい別れをした兄と偶然に再会できて喜んでいる実の妹の態度に、僕は何が不満なのだろう。

 これは突き詰めると簡単な話なのだろう。僕はあれだけ大切にしていた妹が、再び僕のそばにいてくれることだけでは満足できないのだ。要するに僕は、奈緒のことを今でも妹としてではなく女としてしか見ていないのだ。

 無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒の態度に、僕は飽き足らない想いを感じているのだ。

 本音を言えば、奈緒を傷つけたくない混乱させたくないと思いながらも、奈緒が彼氏である僕にもう少し執心な姿を見せて欲しかったのだ。

 僕が奈緒に対して感じているのと同じ感情で。奈緒と出合った日。奈緒と初めてキスした日。

 僕はその思い出を今でも大切にしていた。そして僕は奈緒にもその想いを共有して欲しかった。

 奈緒は血の繋がった実の妹だった。それが理解できた今でもなお、僕は奈緒に自分のことを異性として意識していて欲しいと願っていたのだ。ちょうど今の僕が奈緒に対してそう考えているように。

「また黙っちゃった。お兄ちゃんってこういうときはいつも何考えてるの」

 明日香は物思いにふけっていて自分を無視している僕の態度に不満そうだった。

「ただぼんやりとしてただけだけど」

「そんなにあたしと二人きりでいるとつまらない?」

 明日香が不満そうに言った。

「そんなことないって」

「だってお兄ちゃん、さっきから全然あたしの話聞いてないじゃん」

「だからぼんやりしてたから」

 明日香がソファから半分身を起こした。

「あたし以外の女のことを考えてたんでしょ」

 一瞬僕はどきっとした。明日香の言うとおりだったから。

「いったい誰のこと考えてたのよ」

 明日香がテレビの音量を下げて僕を睨んだ。

 テレビの音量が下ったせいで、部屋の中は静かだった。

 相変わらず窓の外には粉雪が降りしきり、庭の樹木を白く装っている。叔母さんは嫌がっていたけどこの分だと積もるかもしれない。

「正直に言うとさ、さっきまで奈緒のことを考えてた」

「・・・・・・最悪だよ」

 明日香が低い声で言った。

「お兄ちゃん言ったよね? 奈緒とは再会したいい兄妹の関係だって」

「うん」

「あたしと二人きりでも奈緒の方が気になるの? 実の妹なんでしょ? お兄ちゃんは実の妹のことでいつも頭がいっぱいなわけ?」

「いや、違うって」

「どう違うのよ。お兄ちゃんはあたしの気持ちを知ったんでしょ。あたしはお兄ちゃんのことが好き。お兄ちゃんにあたしに彼氏になって欲しい。血も繋がっていないし、ママだってそれを望んでいるのに」

 穏やかな午前中の時間はこれで終ったみたいだった。

 明日香は今では涙を浮べていた。こいつは昨日は僕に返事は急がないと言ったばかりだったはずなのに。

「お兄ちゃんが大学の友だちの女の子が好きであたしが振られるなら仕方ないよ。でも、何でそれが奈緒なの? 奈緒だってお兄ちゃんが彼氏じゃなくて実の兄だってことを受け入れたんでしょ? お兄ちゃんだってそう言ってたじゃない。それなのに何でおあたしと一緒のときにいつもいつも奈緒のことばかり考えてるのよ」

 明日香はいい兄妹として仲直りする以前のような興奮した口調で話し出した。

 奈緒のことを考えていたと正直に明日香に話したのは失敗だったようだ。

 やはり明日香の一番気に障る存在は奈緒のようだった。

 奈緒が悪意をもって僕を陥れるために近づいたのだという誤解は解けたはずだった。あれは偶然の出会いだったのだ。それを理解してもなお、明日香の奈緒に対する敵愾心はちっとも薄れていないようだ。

 こうなってしまったら仕方がない。明日香が僕に対して敵愾心を持っていた頃、明日香が切れたときは僕は反論せず怒りが収まるまでじっと耐えたものだった。

 それがどんなにひどい言いがかりであったとしても。

 久しぶりに今日もそうするしかないだろう。それに今回は明日香の言っていることは単なる言いがかりではなかった。

 奈緒と兄妹として名乗りあったときの安堵感は消えていき、さっきから悩んでいるように、僕が奈緒に対して再び恋愛感情を抱き出したことは事実なのだ。

 でもそれだけは明日香にも誰にも言ってはいけないことだ。

 昔はよくあったことだった。ひたすら罵声に耐えているうちに明日香の声は記号と化し意味を失う。

 そこまでいけば騒音に耐えているだけの状態になり、意味を聞き取って心が傷付くこともない。

 久しぶりにあの頃は頻繁にあった我慢の時間を過ごせばいい。そう思っていた僕だけど、どういうわけか明日香の言葉はいつまで耐えていてもその意味を失わなかった。

「まさかお兄ちゃんは血の繋がった妹を自分の彼女にしたいの?」

 以前と違って明日香の言葉は鮮明に僕の耳に届き僕の心に突き刺さった。

「実の妹とエッチしたいとかって考えているの?」

 もうやめろ。やめてくれ。

 以前と違った反応が僕の中で起きた。僕はまたパニック症候群の症状の発作を起こしたのだ。

 視界が歪んでぐるぐる回りだす。叔母さんや奈緒の声が無秩序にでも鮮明に聞こえてきた。

 

奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに』

 

 叔母さんの驚愕したような声。

 

『わたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そうしたらわたしのこと嫌いにならないでいてくれますか』

『それで奈緒人さんがわたしと別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾きません』

『わたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて奈緒人さんと冬休みに会わなかったからじゃないんですか』

 

 僕を見上げる奈緒の縋りつくような涙混まじりの目。

 

「お兄ちゃんごめん」

 気がつくと僕はソファで横になっていた。明日香の顔が間近に感じる。

「・・・・・・まったやっちゃったか。ごめん明日香」

 明日香が僕を抱いている手に力を込めた。

「あたしが悪いの。自分でもよくわからないけど、奈緒のことを考えたらすごく悲しくなって、でも頭には血が上ってかっとなっちゃった。本当にごめんなさい」

 代償は大きかったけど、でもこれでようやく明日香の気持ちはおさまったようだった。

 僕は安堵したけど、もちろん事実としては何も解決していないことは理解できていた。

 明日香はもう何も喋らずに僕に覆いかぶさるように横になった。思ってたより重いな、こいつ。僕は何となくそう思った。

 全身が汗びっしょりで体が体温を失って冷えていくのを感じる。明日香の包帯を巻いた手が僕の額の汗を拭うようにした。明日香の手に僕の汗がついてしまうのに。

 そのまま明日香は僕の頭を撫でるように手を動かした。それはずいぶんと僕の心を安定させてくれた。

 やはり奈緒への恋心、つまり自分の実の妹への恋愛感情は無益なだけでなく有害ですらある。世間的にどうこう以前に自分の心理ですらその禁忌に耐えることすらできていない。

 再び発作に襲われた僕は、やっと冷静に考えられるようになった。

 きっと明日香の言うとおりなのだろう。もうこれは本当に終らせなければならないのだ。それに僕の恋は、無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒をも戸惑わせ、傷つけることになるかもしれない。

 兄としての僕への奈緒の想いの深さは、恋人が実は兄だったという事実をも圧倒したため、奈緒は僕のように傷付かずに済んだのだろう。

 それを蒸し返せば今度こそ奈緒を深く傷つけることになるかもしれない。

 奈緒が僕のように胃液を吐きながら発作を起こし、のたうちまわって苦しんでいる姿が浮かんだ。

 だめだ。自分の大切な妹にそんな仕打ちをするわけにはいかない。奈緒への無益な恋心に惑わされていた僕がそれに気がつけたのは、明日香のおかげだった。

 確かにきつく苦しい荒療治だったけど、そのおかげで僕は目が覚めたのだろう。

 僕は大きく息を吸った。この決心によって傷付く人は誰もいない。明日香の望みをかなえられるし、僕のことを実の兄として改めて別な次元で慕い出した奈緒だってもはや傷付くことはない。

 叔母さんだって僕たちの味方をしてくれるはずだった。

「明日香」

 明日香は僕の髪を撫でる手を止めて僕の方を見た。

「・・・・・・まだ苦しい?」

「いや。そうじゃないんだ」

 僕は体を起こし、半ば僕に覆いかぶさるようにしていた明日香を抱き起こすようにして自分の隣に座らせた。

「おまえが言ってたことがあるじゃん。僕のことが好きだって」

 明日香が怪訝そうな表情をした。

「言ったよ。それがどうしたの・・・・・・あ」

 そのとき明日香の表情が何かに怯えるような影を宿した。

「よく考えてって言ったのに。あたし、お兄ちゃんにもう振られるの?」

 本心で明日香のことを奈緒以上に愛しているかと聞かれたらそれは違う。でも少なくとも明日香が大切で心配な存在であることは確かだった。

 僕が一番つらい時期に僕を支えてくれたのは明日香だった。

 明日香の怯えた表情を見たとき、僕は心底から明日香をいとおしく感じたのだ。

「僕たち付き合ってみようか」

 一瞬、驚いたように目を大きく見開いた明日香の表情を僕は可愛いと思った。

「お兄ちゃん、それってどういう意味」

「どういうってそのままの意味だよ。っていうか僕に告白してきたのはおまえの方だろう」

 次の瞬間、僕は明日香に飛びつかれ、ソファの背もたれに押し付けられた。

「だめだと思ってたのに・・・・・・絶対に断られるって諦めてたのに」

「・・・・・・・泣くなよ」

「嬉しいからいいの。お兄ちゃん大好きだよ」

 僕も明日香の体に手を廻して彼女を抱き寄せた。

 そのとき、一瞬だけ記憶に残っていた幼い奈緒の声が頭の中で響いた。

『お兄ちゃん大好き』

 

 夜半過ぎに雪は雨に変わっていたようだ。結局、明日香の望みどおり朝の景色が一面雪景色となることはなかったのだ。

 その晩、僕と明日香は深夜までソファで寄り添っていた。初めて心が通じ合った直後の甘い会話や甘い沈黙は僕たちの間には起こらなかった。

 アンチクライマックスもいいところだけど、僕と明日香が恋人同士になっても、今までの関係やお互いに対する想いが劇的に変化することはなかったようだった。

 僕が明日香を受け入れたとき、明日香は涙を浮べながら僕に抱きついてきた。僕もそのときは感極まって明日香を抱き寄せたのだけど、しばらくしてお互いの気持ちが落ち着いてくると、初めて彼女が出来たときのようなどきどきして興奮したような気持ちはすぐにおさまっていった。

 そして残ったのは、限りなく落ち着いて居心地のいい時間だった。

 思うに僕と明日香の関係は長年の仲違いを解消して、明日香が僕のいい妹になると宣言したときの方が、今回よりはるかにドラスティックな変化を迎えていたのだと思う。

 結局、明日香の気持ちに応えて付き合うようになっても、その前までの彼女との関係とあまり変化がなかった。多分それは明日香も同じように感じていたんじゃないかと思う。

 僕が真実を知りパニック障害を発症するようになってから、明日香は常に僕に寄り添っていてくれた。

 改めて付き合い出したとはいえ、これ以上べったりするのも難しい。

 そういわけで深夜まで抱き合いながら寄り添っていた僕たちの会話は、今までとあまり変わらなかった。

 ただ、お互いが恋人同士になったことを、両親や玲子叔母さんに話すタイミングとかを、少し真面目に話したことくらいが今までと違った点だ。

 その会話も、寄り添いあった恋人同士が近い距離で囁きあっているわりには、きわめて事務的な会話といってもよかった。

「まあ急ぐことないよ」

 明日香が僕の肩に自分の顔をちょこんと乗せながら言った。

「でもいつかは言わないとね」

「多分、あたしがお兄ちゃんのことを好きなのはもうパパやママにもばれてるし」

「そうなの」

「うん。ママには前からけしかけられるようなことも言われていたしね」

 その話は叔母さんからも聞いていた。母さんは、僕と明日香が結ばれることを密かに期待していたのだという。そうしていつまでも家族四人で暮らしていくことを望んでいたらしい。

「それに確実に叔母さんにはばれてるし」

「そらそうだ。叔母さんがいる前でおまえは告白したんだから」

「叔母さんには隠し事したくなかったし」

 明日香が言った。

 それからしばらく、僕たちは黙ったまま寄り添っていた。居心地は悪くない。お互いに長年身近にいたせいか、こういう時間も全く気まずくはなかった。

「あのさ」

 明日香が僕の手を両手で包んで撫でるようにしながら言った。

 こういう動作は今までにはなかったもので、僕の動悸は少し早くなったようだ。

「うん」

「今日一緒に寝てもいい?」

「一緒って、どういうこと?」

「一緒は一緒だよ。お兄ちゃんのベッドでいいや」

 僕たちはその晩随分遅くなってから、結局僕の部屋のベッドで一緒に寝ることにした。考えてみれば、これまでも嫌がらせで明日香が僕のベッドに潜り込んでくることがあったので、別にそれは敷居が高いことではなかった。

 ただこれまでと違って明日香は最初から僕に密着して抱きついたので、僕は少し混乱した。

 長年一緒に連れ添った夫婦みたいに、こいつとの間には新たな発見はないと思っていたのだけど、一緒にベッドに入って抱き付かれると、これまで明日香に対しては感じなかったような感覚が湧き上がってきた。

 ここは自制すべきところだった。

 飯田に襲われかかった明日香に対して、そういうことを求めるわけにはいかない。

 でも体の反応の方は素直だったので僕は、明日香がすやすやと寝息を立てた後も、しばらくは天井を見上げて自分の興奮を収めようと無駄な努力を重ねていたのだ。

 それでもいつのまにか僕は寝入ってしまったようだった。

「ねえ起きてよ」

 僕が目を覚ますと、昨夜カーテンを閉め忘れたのか、外の景色が目に入った。

 雪は小雨に変わっているようだった。僕は隣で横になっている明日香の柔らかな肢体を再び意識しながら目を覚ました。

「・・・・・・なんでお兄ちゃんが赤くなるのよ」

「別に」

 明日香の身体に反応したからとは言えない。

「まだ十時前だけどもう起きる?」

 今週いっぱいは明日香は医師から自宅療養を指示されている。その間は僕も大学の講義を休むつもりだったから、特に早く起きる必要はなかった。

 自堕落にいつまでも寝ているつもりはないけど、明日香はまだ怪我だって癒えていないのだから、何も急いでベッドから出なくてもいい。

「誰か来たみたい」

 明日香が僕を覗き込んで言った。

「聞こえなかった? さっきチャイムが鳴ってた」

 僕は起き上がった。特に気が付かなかったと言おうとしたとき再びチャイムが響いた。

「どうする?」

「とりあえず見て来る。おまえはこのまま寝てろよ」

「うん」

 明日香は再び毛布を引き寄せた。

「はい」

 僕がリビングに降りてインターフォンを取ると女性の声がした。

「突然申し訳ありません。警察の者ですけど」

「・・・・・・はい」

 何となく用件は想像が付く。でも僕はてっきり平井さんたちが来るものだと思っていたのだ。

 僕がドアを開けるとそこには私服姿の若い女性が二人立っていた。一人が僕に手帳を見せた。

「明日香さんの具合が悪くなければ、三十分ほどですみますので事情をお伺いしたいんですけど」

 その人はそう言った。

「平井さんじゃないんですね」

 いきなり見知らぬ警官が現われたことに不信感を覚えた僕は聞いてみた。

 女の人は動じずに微笑んだ。

「性犯罪の被害者の方への聴取は、女性警官がすることになっています。明日香さんへの聴取はあたしたちがさせていただいた方がいいでしょう」

 女の警官は話を続けた。

「それに自分の上司を悪く言うようだけど、平井さんは高校生くらいの女の子の扱いには慣れてませんしね」

 彼女は笑ってそう言った。

 確かにあの平井さんに明日香が事情聴取されるよりは、目の前で柔らかな微笑みを浮べている女性の警官に事情聴取された方が明日香も緊張しないだろう。

 二人の女性警官は制服も着ていないのでそういう意味でも明日香には答えやすいかもしれない。それにしてもこの人が何気なく言った性犯罪という言葉は、改めて明日香が被害を受けそうになった飯田の凶行を否応なしに思い浮かべさせられた。

 明日香は僕との仲が進展して多少は気分転換できたかもしれないけど、やはり明日香があのとき経験したことは高校生にとっては過酷な出来事だったのだ。

「ちょっと妹の様子を見てきますから、少し待ってもらえますか」

 僕は言った。

 明日香に心の準備ができているかを確認しないで、勝手にこの人たちを家に入れるわけにはいかない。

「あら。あなたは明日香さんのお兄さんなのね」

「はい。ちょっとだけ待ってください」

「ごゆっくりどうぞ。明日香さんの気が進まないならまた明日とかに出直してもいいのよ」

 私服の女性警官が気を遣ったように言ってくれた。

 僕は自分の部屋の戻って毛布を被っている明日香に声をかけた。

「明日香?」

「誰だった?」

 毛布から顔だけちょこんと出した明日香が聞いた。

「それが・・・・・・警察の人なんだ。おまえから事情を聞きたいって」

 明日香の顔が一瞬曇った。でもすぐに明日香は気を取り直したようだった。

「そう。早く済ましちゃった方がいいんだろうね」

 明日香が殊勝に微笑んだ。

「気を遣って女性の警官が来てくれてるし三十分くらいで終るって」

「そうか」

 明日香が起き上がった。

「じゃあ着替えるね」

「リビングで待っていてもらうな」

「うん。お兄ちゃん?」

 僕は部屋のドアのところで立ち止まった。

「一緒にいてくれる?」

「もちろん」

 

 やがて着替えてリビングに入ってきた明日香に対して、警察の人たちは一生懸命に微笑みかけ、できるだけ明日香を刺激しないようにしながら、事情聴取を終えて引き上げていった後、明日香は大きく息を吐いてソファに横になった。

「痛っ」

 明日香は顔をしかめて言った。どうやら傷になっているところをソファにぶつけたらしい。

「大丈夫?」

 明日香は体をもぞもぞと動かして、ようやく具合のいい位置を見つけたらしかった。

「平気。ちょっとぶつけただけだから」

 ソファに居心地良さそうに横になると明日香は再び大きくため息をついた。

「やっと終ったのね」

「うん。もうおまえから話を聞くことはないでしょうって言ってたし」

「自業自得なんだから図々しいかもしれないけど。あたし、もうあいつらとは関りになりたくない」

 明日香が言った。

 警察の女の人たちはあの晩に起きた出来事を優しく同情しながらも、明日香の記憶に残っていることは一欠けらも取りこぼさずに聞き取っていった。

 今日家に来た警官は、性犯罪の被害者の聞き取りは女性警官の方が当たることになっていると言っていた。自分の上司の平井さんは若い女の子の扱いには慣れていないとも。

 その言葉に嘘はないだろうけど、彼女の聞き取りだって笑顔やていねいな口調を取り去ってしまえば容赦のないものだったと言える。

 これでは明日香が再び言葉と記憶のうえで再びレイプされているようなものだ。

 何度か僕は女性の警官の尋問をとどめようとした。そのたびに警官は柔らかい口調で謝りながらも、知りたいことを知ろうとする執念を諦めはしなかった。

 そして明日香は顔色も変えずに、淡々とその夜自分に起きたことを話し続けた。

 そうして飯田に押し倒され、服を破かれ、両手を縛られたあたりで、明日香の話に池山が登場した。

 この間まで自分の彼氏だった池山のことを、明日香は庇うような説明をした。

 どういうわけか明日香を庇った池山の行為には警官にはあまり関心がないようで、彼女は飯田と池山の会話の内容を覚えている限り全て話すように明日香に求めたのだけど、女性警官にとってはその内容は期待はずれだったらしい。

 でも、縛られて身の危険を感じていた明日香が二人のやり取りを逐一覚えていることなんて不可能だったろう。

「まあ仕方ないですね。明日香ちゃんだってそれどころじゃなかっただろうし」

 残念そうに彼女が言った。

「ごめんなさい」

 明日香は一応警官に謝ったけど本気で悪いとは思っていないらしかった。何と言っても、明日香は参考人かもしれないけどそれ以前に被害者なのだ。

「じゃあこれで終ります。明日香さんご協力ありがとう。飯田と池山がどうなったかは平井警部がお知らせにあがると思いますから」

 ソファに座った明日香がほっとしたように少しだけ力を抜いた。

 明日香から事情聴取した警官と、もう一人の何も喋らずひたすらメモを取っていた警官が立ち上がった。

「じゃあお邪魔しました。もう明日香さんにお話を伺うことはないからね」

 僕と明日香も立ち上がり二人を玄関まで送った。明日香は相変わらず僕の手を離そうとしなかった。

「ずいぶん仲のいい兄妹なのね。まるで恋人同士みたい」

 今までずっと黙ったまま喋らなかった方の警官が言った。

「うらやましいわ」

「二人きりの兄妹なんです」

 微塵も動揺せずに明日香がしれっと答えた。

 

「これで全部おしまい。もうあいつらとは二度と関りになりたくない」

 警官たちを見送ってから具合よくソファに横になった明日香が繰り返した。

「お兄ちゃん、隣に来て」

 明日香が僕に言った。

 僕は明日香の横たわった体の顔の隣のあたりに腰かけた。明日香が片手を上げて僕の腕に触れた。

「ごめんね」

 明日香がぽつんと言った。

「何が?」

「あたしがバカやってたからこんなことになっちゃったんだよね」

 さっきまで顔色一つ変えず気丈に警官の質問に答えていた明日香が、今では曇った表情を見せている。

「おまえのせいじゃない。悪いのは飯田だろ」

「あたしはもう、お兄ちゃんが恥かしいと思うような友だちとは付き合わないからね」

「うん」

「・・・・・・奈緒や有希みたいに誰が見てもお兄ちゃんにとって恥かしくない女の子になるから」

 奈緒はそうかもしれないけど有希は少し違う気がする。でもそれは今明日香に言うことじゃない。

「別に今だって恥かしくなんかないだろ」

「優しくしなくていいよ。それよりこんなことしてたらお兄ちゃんに嫌われちゃう方が恐い。せっかくお兄ちゃんの彼女になれたのに」

 明日香が言った。

「こんなことで嫌いになんてなるか」

「だって・・・・・・お兄ちゃん、僕たち付き合ってみようかって言った」

 明日香がいったい何を言っているのか僕には理解できなかった。

「言ったけど・・・・・・嫌だった?」

「ううん、嬉しかった」

 明日香が話を続けた。

 どういうことだ。

「でもどうせなら、おまえのことが好きだとか、付き合ってみようかじゃなくて、僕と付き合ってくれって言われたかったな。付き合ってみようかじゃお試しみたいで不安じゃん」

「考えすぎだよ。お試しとかそんなこと考えて言ったわけじゃない」

「ごめん、そうだよね。さっきまでは何の不安も感じなかったけど、警察の人の質問に答えていたら不安になっちゃった。あたしってお兄ちゃんにふさわしくないのかもって」

 明日香が苦労してソファから身を起こして僕を見た。

「確かにあたしは池山に助けられたし飯田たちとも遊んでたけど、もう二度とそんなことはしないの」

「うん」

「だから・・・・・・お兄ちゃん、ずっとあたしと一緒にいて。パパとママとあたしとお兄ちゃんでみんなでずっと一緒に暮らそうよ。あたしのこと捨てないで。もう誰もいらないよ。お兄ちゃんがずっとあたしの彼氏でいてくれたら」

 僕さえいたら誰もいらないと、一番最初に言ってくれたのは、まだ幼かった奈緒だった。

 今改めてそれと同じ言葉を明日香から聞かされた僕は、自分では決断したつもりだったことを自分の中では曖昧に済ませていたことに気がついた。

 わかってはいたことだ。今まで曖昧にして突き詰めて考えなかっただけで。

 僕は明日香の顔を見たかったけど、俯いて涙を流しているので目を合わせることもできない。少し乱暴だったけど、僕は明日香の顎に手をかけて少しだけ手に力を込めた。たいした抵抗もなしに明日香が顔を上げた。僕は明日香の目を見た。

「そうだね、明日香。ずっと一緒にいようか」

 実の妹にはこんな言葉はかけられない。明日香は妹であって妹ではない。だから僕は奈緒にはこの先一生言ってはいけないことだって、明日香には言える。

 もう手を離しても明日香は俯かなかった。それどころか今までで一番激しく彼女が僕に抱きついてきた。

 僕もそんな明日香に応え、両手を明日香の体に回した

「・・・・・・今日も一緒に寝てくれる?」

 しばらく抱き合っていたあと明日香が言った。

「警察の人にいろいろ聞かれたりとかしたし、落ち着かないの」

「今日も同じベッドで寝るの?」

「ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」

 明日香が立ち上がって涙を拭いて僕を見た。

「リビングの電気消しておいて。テレビも」

「わかったよ」

 ここは明日香の言うとおりにしよう。

「シャワー浴びてくる。今日もパパとママは帰ってこないから。お兄ちゃんは部屋に行って待ってて」

 明日香がバスルームの方に歩いて行った。ちょうどお昼ごろの時間だった。

 外の雨は激しさを増し、雨音がはっきりとリビングまで届いている。

 僕が立ち上がって二階に上がろうとしたとき、再びチャイムが鳴ってインターホンから玲子叔母さんの声が聞こえた。

「おーい。いないのかな、まだ寝てるんじゃないだろうな」

 残念なようなほっとしたような心境だったけど、とりあえず僕は玄関に行って鍵を開け叔母さんを家に招じ入れた。

「寒かったあ。びしょ濡れだよ」

 叔母さんがそう言いながら家に上がって来た。

「叔母さん車じゃなかったの」

 僕は家に上がるといつものようにさっさとリビングに向かう叔母さんの後に続きながら聞いた。

「打ち合わせ先が駐車できないんでさ。傘なんか全然役に立たないしびしょ濡れになっちゃったよ」

「そんなに降ってたんだ」

「うん。いきなり雨が強くなってさ。こんなんじゃ社に戻れないからここで雨宿りしようかと思ってさ」

 叔母さんが高そうな、でも雨にぐっしょり濡れたコートとスーツの上着を一度に脱いだ。リビングのフローリングに雨滴が落ちた。

 白いブラウスとスカートだけの姿になった叔母さんは、何かぶつぶつ言いながら濡れた髪を拭こうと無駄な努力をしていた。

 薄い生地の濡れたブラウスから叔母さんの白い肌が透けて見えた。僕は叔母さんから目を逸らそうとしたのだけど、無防備な仕草で髪を気にしている叔母さんの全身から目が離せなかった。

 濡れて肌にくっついている感じの白いブラウス越しに、黒いブラジャーが浮かんでいる。

 胸だけではなく上半身全体がほの白く浮かび上がっていた。

 これまで奈緒や明日香よりはるかに大人だと思っていたし、そういう目で見たことのなかった叔母さんの体は思っていたより華奢で細身だった。

「・・・・・・バスタオル持って来ようか」

 僕はそう言ったけど、このときは玲子叔母さんの体から目が離せないままだった。

「ああ悪い。でもそれよかシャワー浴びようかな」

 そう言って僕を見た叔母さんが僕の視線に気がついた。

「・・・・・・あ」

 叔母さんは狼狽したように小さく呟いて、床から拾い上げた服を胸に抱えて僕の視線から自分の肢体を隠す仕草をした。

「叔母さんごめん。って言うか見てないから」

 今まで玲子叔母さんの上半身をガン見していた僕が言っても全然説得力がなかったろう。

「見るって何を。奈緒人、あんた何言ってるの・・・・・・」

 叔母さんがいつもと違って小さな声で呟いた。

「包帯だらけでシャワー浴びられないんだけど」

 そのとき明日香がリビングに戻って来て言った。僕はその瞬間救われた思いだった。

「そういやそうか。って、おまえその格好」

「服を脱いでいる途中で気がついたんだもん。今日はシャワーもお風呂も無理だわ。お兄ちゃん、体拭いてくれる?」

「あんた、何て格好してるのよ」

 叔母さんが明日香の半裸を見て言った。明日香もそんな叔母さんの姿を驚いたように見た。

「玲子叔母さん、いつ来たの? っていうか叔母さんこそ何でそんな格好してるのよ」

 奇妙な状況だった。肌を露出しているとしか言いようのない叔母と姪がお互いに驚いたように見詰め合っている。僕はこの場をどう収めればいいのだろうか。

「お兄ちゃん」

 ・・・・・・シャワーから戻って来た明日香はさっきまでの甘い口調を引っ込めて、並んで突っ立っている僕と叔母さんを不機嫌そうに交互に睨んだ。

 結局、明日香は不貞腐れて自分の部屋にこもってしまった。叔母さんも濡れた服を抱えて、タクシーを捕まえるからとだけ小さな声で言って家から出て行ってしまった。

 何がなんだかわからないけど、今僕はリビングに一人取り残されていた。明日香には少し可愛そうだったかもしれない。初めて結ばれようとしているそのとき、悪気はないとはいえ突然の叔母さんの来訪に邪魔されたのだから。

 今日は僕と明日香が一生一緒にいようと誓い合った日だ。一度決めたことなのだから最後までその決心は貫こうと僕は思った。

 とりあえず明日香の誤解を解いて仲直りしよう。ちゃんと話せばきっとあいつだってわかってくれるはずだ。それに明日香は高校生の女の子としては考えられないような辛い目にあったばかりだった。多少は僕の方から譲歩してあげる場合なのは間違いない。

 僕はそう決心すると、リビングを後にして二階に続く階段を上っていった。明日香の部屋はドアが閉まっていて中からは何の物音もしない。僕は思いきってそのドアをノックした。

「明日香?」

 返事はない。

「明日香・・・・・・入るよ」

 ドアを開けて部屋に入ると明日香はベッドに入って頭から毛布を被っていた。相変わらず返事はしてくれない。

「叔母さん、帰ったよ」

 とりあえず何を喋ればいいかわからず僕はそう言った。明日香は僕を振り向きもせずうつ伏せ気味に毛布の下に潜り込んでいるままだ。

「・・・・・・」

「風呂に入れなかったんだろ。体拭いてやろうか?」

「なあ、返事してくれよ。僕は明日香の彼氏なんでしょ? 何で返事してくれないの」

 彼氏という言葉に反応したのか、ようやく明日香が毛布の下から顔を覗かせた。

「もう忘れちゃった? 僕はおまえとずっと一緒にいようって決めたばかりなんだけど」

 再び、明日香が僕の方に視線を戻した。どうやら少しだけ明日香は僕の言うことを聞く気になったようだった。

「明日香、好きだよ」

 僕は真顔で言った。

「・・・・・・わかった」

 ようやく明日香がベッドから上半身を起こして言ってくれた。

 毛布から這い出した明日香は、寒いのに白いタンクトップの短いシャツだけを身にまとっていた。シャツの隙間から覗く肌に巻かれた包帯が痛々しい。

「叔母さんのことをいやらしい目で見ていたお兄ちゃんのことは忘れてあげるよ」

 そっちか。明日香の不機嫌の原因は。

「叔母さんがいきなり脱ぎ出すからびっくりしただけだよ。嫌らしい目でなんか見てないって」

「・・・・・・」

「本当だって」 

 明日香がようやく表情を緩めてくれた。

「信じるよ。てか、忘れてあげるよ。あたしだってお兄ちゃんと喧嘩するのは嫌だし」

「本当だぞ」

「わかった。じゃあ、お詫びにぎゅっとして、お兄ちゃん」

 明日香の態度がさらに柔らかになった。

 僕は明日香の甘い声に従ったけど、言葉どおり抱きしめたら、きっと明日香の傷が痛むだろう。だから僕はベッドの端に腰かけてそっと彼女の体に手を廻した。

「もっと強くしてくれてもいいのに」

 明日香が僕の首に両手を回しながら言った。

 この先は明日香の指示を待っていたのでは駄目なのだろう。

 僕は自分から明日香にキスした。

「疑ってごめんね」

 明日香が言った。

 僕も明日香を抱きしめた。

 慣れというのは恐いものかもしれない。もう僕には、明日香の体を抱くことに対する違和感がなくなっていた。

 実の妹である奈緒を除けば、明日香と僕はいろいろな意味で一番相性がいいのかもしれない。

 一緒にいて安心するとか気を遣わなくていいとかという意味では、ひょっとしたら明日香は僕にとって奈緒以上に隣にいるのが自然な存在なのだろうか。

 

 次の土曜日の午後、僕は明日香の了解をもらって奈緒をピアノ教室まで迎えに行った。

 奈緒に僕が明日香と付き合い出したことを伝えるためということもあったけど、最後に話したときに、奈緒からピアノ教室に迎えに来るように言われていたということもあった。

 平日、明日香に付き添って学校を休んでいる間、僕は何回か奈緒にLINEしたり電話したりしたのだけど、LINEの方は既読にならず、何度もかけた電話の方は通じない。

 結局、金曜日の夜になるまで奈緒からは何の連絡もなかった。

 それで僕はとりあえず土曜日は約束どおり奈緒を迎えに行くことに決めた。

 明日香は僕が自分を置いて奈緒に会いに行くことには反対しなかった。

 あれだけ嫉妬深かった明日香は、僕が彼女の告白を受け入れて以来、もうあまり奈緒に対して嫉妬めいたことを口にしなくなった。

 その代わり、明日香は今まで以上にいつも僕の側にいるようになった。

 これまでだって大概ベタベタしていた方だと思うけど、そんなものでは済まないくらいに。極端な話トイレと風呂以外はいつも一緒にいる感じだ。

 その風呂だって昨日までは僕が体を拭いていたのだったから、実質的には常に隣に明日香がいたことになる。

 同時に明日香はやたら甲斐甲斐しくもなった。食事の用意から何から何まで自分でしようとする。僕が休んで家にいたのは明日香の世話を見るためだったからさすがにこれには困った。体調だって完全に回復しているわけではないのだ。

「おまえは座ってろよ。食事なんか僕が作るから」

 僕は彼女にそう言ったのだけど、明日香は妙に女っぽい表情ではにかむように笑って言った。

「いいからお兄ちゃんこそ座ってて。全部あたしがするんだから」

 こういう言葉を明日香の口から聞くとは思わなかったけど、それは決して不快な感じではなかった。

「でもおまえ体は・・・・・・」

「もう全然平気だよ。でも良くなったってママに言ったら学校に行かなきゃいけないし、お兄ちゃんと一緒にいられないから」

「ちょっと・・・・・・包丁持ってるのに」

 明日香は文句を言いながらも後ろから抱きしめた僕の手を振り払わずに、包丁を置いて振り向いた。

 出がけに明日香の行ってらっしゃいのキスが思わず長びいたこともあって、到着してそれほど待つことなく、ピアノ教室の建物から生徒たちが次々と出てきた。

 妹を迎えに来ているんだから恥かしがることはないと思った僕は、比較的入り口に近いところで奈緒が出てくるのを待っていた。これだけ近ければ見落とす心配はない。

 このときの僕は全くの平常心というわけでもなかったけど、それほど緊張しているわけでもなかった。

 奈緒の兄貴だということを知られてしまった今では、僕に彼女ができたということを奈緒に話すことに対してはあまり抵抗感を感じないようになっていた。

 奈緒はあのとき僕が離れ離れになっていた兄貴であることを自然に受け入れた。

 初めての彼氏を失う辛さが、大好きだった兄と再会することで帳消しになる奈緒なのだから、そういうこともあるだろう。

 その後の奈緒は、僕と恋人同士であった頃よりも自然な態度と言葉遣いで僕を慕ってくれた。

 むしろ悩んで混乱していたのは僕の方だった。

 奈緒が僕のことを兄であると認めてくれた事実にさえ嫉妬した挙句、自分の妹に欲情する気持まで持て余していた。

 でもそれももう終わりだった。今の僕には明日香しか見えていない。明日香の言うとおり、僕と明日香は結ばれる運命だったのかもしれない。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、血の繋がっていない男女としてはお互い他の誰よりも長い間身近に暮らしてきた仲なのだ。

 行き違いや誤解もあったけどそれを克服して結ばれた間柄のだから、僕はもう明日香を自分から手放す気はなかった。

 明日香のいうとおりこのまま付き合って将来は結婚しよう。

 そして父さんと母さんがいる家で共に過ごすのだ。子どもだってできるだろうし。

 そんな物思いに耽っていても、目の方は奈緒が通り過ぎてしまわないか入り口の方を眺めていたのだけど、なかなか奈緒は出てこなかった。

 いつもより遅いなと思った僕が、奈緒のことを見落としたんじゃないかと考えて少し慌てだしたとき、見知った顔の少女が教室から出てきた。

 その子は外に出るとすぐに僕のことに気が付いたようだった。

 それは有希だった。有希は慌てた様子もなくにっこり笑って僕の方に駆け寄ってきた。

奈緒人さん、こんにちは」

「有希さん・・・・・・どうも」

 有希は最後に会ったときのことを気にしていない様子だった。

「もしかして奈緒ちゃんのお迎え?」

「うん」

 ここで嘘を言う理由はなかったから僕は正直にうなづいた。

「聞いてないんですか? 奈緒ちゃんは今週はずっとインフルエンザで自宅療養してますよ。今日もピアノのレッスンは休んでるし」

 それこそ初耳だった。

「知らなかった」

「電話とかLINEとかしてないの?」

「したけど返事がなくて」

 有希が少し真面目な顔になって僕に言った。

奈緒人さん、これから少し時間あります?」

「あまり遅くはなれないけど」

「軽くランチでも一緒にどうですか」

「うん、わかった」

 駅前のファミレスは、以前僕と奈緒が初めて一緒に食事をしたときの場所だった。

 僕たちはボックス席に納まってオーダーを済ませた。昼食をして行こうということになったのだけど、冬休みのときのように一枚のピザを僕と有希で分け合うということはなかった。僕たちは言葉少なくそれぞれに注文を済ませた。

 今日は昼食を食べながら奈緒と話をするつもりだったから、多少は遅くなっても明日香が心配することもない。

「ごめんなさい」

 オーダーが済むとすぐに有希がしおらしい声で僕に頭を下げた。

 一瞬僕は有希が明日香が襲われたことを謝ろうとしているのかと思って身構えた。でもそういうことではないらしい。

奈緒ちゃんから全部聞きました。奈緒人さんは昔離れ離れになった奈緒ちゃんのお兄さんだったって」

 では奈緒はそれを有希に話したのだ。

「あたし、家庭の複雑な事情とか考えずに奈緒人さんのこと一方的に責めちゃって。本当にごめんなさい」

「いや。奈緒のことを心配してくれて言ってくれたんだろうし謝るようなことじゃないよ」

奈緒人さんは奈緒ちゃんが妹だって気づいていたんですね。それで奈緒ちゃんがそのことで傷付かないように距離を置こうとしていたのね」

 有希がずいぶんと感激したように目を潤ませて僕を見つめていた。

「・・・・・・奈緒にはつらい想いをさせたかもしれないけど。まだしも振ってあげた方がいいかと思って」

奈緒人さんの気持ちはわかるし、妹思いのいいお兄さんだと思う」

 有希が言った。

「でも結果としてはそんな心配はいらなかったようですね」

「うんそうなんだ。でも奈緒はそこまで君に話したの?」

「あたしと奈緒ちゃんは親友ですから」

 有希は少しだけ笑った。

奈緒ちゃんはすごく喜んでました。昔からずっと再会したかったお兄ちゃんとやっと会えたって。別れてからも毎日ずっと奈緒人さんのことを考えてたんだって」

「そうだね。僕もああいう別れ方をした妹と再会できて嬉しかったよ」

「だからごめんなさい。何も知らずにあんな偉そうで嫌な態度を奈緒人さんにしてしまって」

 有希はそう言ったけど、その後再び体勢を整えるように深く息を吸った。

「でも明日香には謝りません」

 やはりそうなるのか。

「あたしは奈緒人さんのことが好きなわけじゃないから、結果としてはノーダメージでしたけど、明日香はあたしが奈緒人さんを好きだと思っていたにも関わらず、自分の恋愛のためにそれを利用したんです」

「ちょっと待って。そうじゃないんだ」

「実の兄妹だと思ってたから完全に油断してました。あのときは明日香は自分が奈緒人さんと血が繋がっていないことを知っていて、そして奈緒ちゃんが奈緒人さんの本当の妹であることを知ってたんでしょ?」

「それは・・・・・・そうだけど」

「じゃあ明日香は奈緒ちゃんから奈緒人さんの気持ちを覚めさせるために、あたしの気持ちを利用したのね」

 それは違うと言いたかったけど、そこだけ切り抜くと、困ったことに有希の推理は間違っていないのだ。

 明日香の本当の目的は僕を救うことだった。でもそのためにいろいろと本来なら取るべきでない手段を明日香が取ってしまったも事実だった。

 それでも僕は明日香を、自分の彼女を弁護しようと試みた。

 僕はもう全部を有希にさらけ出すことにした。そうしたって、有希が明日香に都合よく利用されたという事実は変わらないということはわかっていたのだけど。

「明日香は僕が、奈緒が自分の妹だって気がついて悩み傷付くことを恐れて、奈緒から僕の気持ちを引き離そうとしたんだ。決して奈緒と別れさせた僕を自分の彼氏にしたかったからじゃないよ」

 有希は少し考え込んだけどそれでも納得した様子はなかった。

「それが事実だとしても二つ疑問があるよね」

「・・・・・・うん」

「まず一つ目は、奈緒人さんを傷つけないためならあたしを傷つけても、奈緒ちゃんが悩んで苦しんでも構わないのかということ。目的が正しければどんな犠牲を払っても、どんな手段を取ってもいいの?」

 僕は答えられなかった。明日香がしたことはまさにそういうことだったから。

 まともな答えなんか期待していないのか、黙り込んだ僕には構わず有希は冷静な表情で続けた。

「もう一つは・・・・・・。あのとき明日香は明らかに奈緒人さんに告白してたよね? あたしは奈緒人さんと明日香が本当の兄妹だと思っていたから、自分が明日香に利用されたんだって思って悲しかった気持ち以上に、実の兄を異性として愛するなんて気持悪いって思ったのだけど」

 この話の行き先がだんだんと見えてきた。行き着く先は芳しくないところなのだけど、もともと有希にはそのことをいずれは話すつもりだったのだ。僕は覚悟した。

奈緒人さんが明日香の本当の兄じゃないなら、お二人は付き合おうと思えば付き合えるんだよね」

「うん」

「明日香の気持ちに応えたの?」

 僕はゆっくりとうなずいた。

「うん。明日香と付き合うことになった」

「ほらね」

 有希が小さく笑って言った。

「兄貴思いの妹の行動だったって言いたいみたいだけど、結局明日香は望んでいたものを手に入れてるんじゃない」

 結果としてはそうなる。それは否定できない事実だった。

「あのときあたし、明日香にとって都合のいい話だねって言ったけど、結局そのとおりだったわけね」

「でも、明日香だって最初は純粋に僕を救うつもりだったんだ。途中で僕のことを好きになったのは事実だと思うけど・・・・・・」

 僕の言葉は途中で途切れた。さっきまで笑っていた有希の目に涙が浮かんでいることに気がついたからだ。

奈緒人さんのことは恨んでないよ。逆にあたしが謝らなければいけないの。でも明日香は・・・・・・」

「有希さん」

 有希は俯いた。彼女が明日香を許す気がないことは明白だった。やがて彼女は顔を上げた。

「今日はもう帰る」

「うん」

 僕には他にかける言葉が思いつかなかった。最後に有希は涙をそっと片手で払いながら意味深なことを言った。

「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといいね」

 どういう意味かを聞き返す暇もなく彼女はもう後ろを振り向かず、僕を残してファミレスを出て行ってしまった。

 有希が去っていった後、目の前には手をつけてさえいない料理がテーブルの上に並んでいた。もったいないし店の人にも変に思われるかもしれない。僕は自分の目の前に置かれた冷めたパスタを一口だけ口にしたけどすぐに諦めた。

 有希の言うとおりだった。

 明日香は有希の恋心を、僕と奈緒を離すために利用したのだ。そのときの明日香は僕に対して恋心なんて感じていなかったはずだから、有希を利用したといっても、結果として有希が僕と付き合うようになってもいいと考えての行動だったろう。

 つまりある意味では有希を応援したとも言える。でも結果がこうなってしまえば今さら何を言っても有希は納得しないだろう。

 僕と明日香は付き合い出したのだ。決して明日香の仕掛けた手段によって成就した関係ではない。それでも有希の視点から見れば明日香の一人勝だというふうに思われても無理はない。

 僕はもう半ば有希と明日香を仲直りさせることは諦めていた。明日香のしたことを考えると、有希が明日香と仲直りせずこのまま疎遠になっても仕方がないのかもしれなかった。

 そう考えると奈緒に会いに来た僕は当初の目的を果たせなかったのだけど、有希に対しては期せずしてできることはしたような気がしてきた。

 有希としては利用されたのは面白くないだろうけど、彼女は僕のことが好きだったわけではないので、そう言う意味では実害は少なかったと言える。

 そのとき有希が最後に言い捨てて言った言葉が胸に浮かんだ。

 

「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといいね」

 

 僕は席を立って勘定を済ませた。インフルエンザになったという奈緒のことも心配だけどさすがに命に別状はないだろう。

 それよりも明日香のところに帰ろう。きっと明日香も僕の戻りが遅いと心配するだろう。僕はファミレスを出ると足を早めてできたての恋人の元に急いで戻ろうとした。

 自宅のドアを開けると目の前に明日香が立っていたので僕は驚いた。

「明日香、おまえこんなとこで何やってんだよ」

 明日香はそれには答えずに僕に抱きついた。

「おい」

「最近のあたしの勘って結構当たるんだよ」

 明日香が僕の胸に自分の顔を押し付けるようにしながら言った。

「・・・・・・ひょっとしてずっと待ってたの?」

「だから勘だって。お兄ちゃんのことなんかこんなとこでずっと待ってるはずないじゃん・・・・・・って、あ」

 僕に抱き寄せられた明日香が真っ赤になった。

 僕は明日香と抱き合いながらもつれ合うようにソファに倒れこんだ。

「やめてよ、お兄ちゃん乱暴だよ。こら無理矢理はよせ」

 明日香が少しだけ笑って言った。僕はこのとき明日香をソファに押し倒したままの姿勢で言った。

「有希さんと話をしてきた」

「・・・・・・え?」

 明日香がふざけながら僕に抵抗していた体を凍らせた。

奈緒ちゃんにじゃなくて?」

奈緒はレッスンを休んでたんだ。それで有希さんと話をした」

「そうか」

 明日香が僕の体から離れて身を起こした。

「有希、怒ってた?」

「うん」

 有希の反応は疑問の余地のないものだった。あれでは誤魔化しようがない。

「そうか・・・・・・」

「おまえと僕が付き合い出したことを聞いてさ。有希さんは自分がおまえに利用されたって思っている。つまりおまえが僕と奈緒を別れさせるために自分の気持を利用したんだって」

「・・・・・・あたし、あのときは本当に有希がお兄ちゃんと付き合ってくれればって思って」

「うん。おまえが僕のことを心配して奈緒と別れさせようとしていたことはわかってる。でも結果的におまえと僕は付き合っちゃったから、有希さんは素直にはそのことを受け取れなくなってるんだよ」

「・・・・・・うん」

 明日香はさっきまでの元気を失って俯いてしまった。

「気にするなとは言えないけど」

 僕は明日香の肩を引き寄せて言った。

「でももう仕方ないよ。おまえはやっぱり有希さんには悪いことしたんだよ」

 僕は明日香の涙を指で払った。明日香が僕の方を見た。

「それでも僕だけはわかってるから。ずっと一緒にいるんだろ? 有希さんの怒りも何もかも僕が引き受けるよ」

「お兄ちゃん」

「だからおまえはもう悩むな。僕が全部引き受けるから」

「いいの? あたし本当にお兄ちゃんに全部頼っていいの」

「うん。僕はおまえの兄貴で彼氏なんだからさ・・・・・・って、え?」

 明日香が僕に抱きついて僕の唇を塞いだのだ。

 口を離しても明日香は僕から離れようとしなかった。

 もうこれでいいのだ。これでもう何度目かわからないけど明日香を大切に思う気持ちが僕の中に溢れた。明日香の取った行動は間違っているにせよその動機は僕のためだ。

「前にも言ったけど、おまえはもっと僕を頼れって。まああまり頼りにならないかもしれないけどさ」

 明日香は何も言わずに子どものように僕に頭を擦り付けているだけだった。僕は黙って明日香の華奢な体を抱きしめた。

 

第1部了 次回から第2部