yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第1部第12話

「明日香、明日退院だって」

 連れ立って病院から出たところで、叔母さんが言った。

「そんなに早く退院できるの」

「治療は終わってるからね。退院後は自宅療養になるみたい」

「そうなんだ」

「結城さんと姉さんから頼まれたんで、明日はあたしが明日香を迎えに行くんだけど」

「うん」

「あんたは大学だね」

 叔母さんが言いたいことくらいすぐにわかった。

「明日は休んで僕も一緒に行っていい?」

「その方が明日香も喜ぶだろうな」

 叔母さんが言った。

「まさか目の前で、明日香の一世一代のあんたへの告白を見せつけられるとは思わなかったけど。あの子も今度ばかりは本気みたいだね」

「叔母さんもそう思う?」

「うん思う。あんたはどうなのよ。最近明日香とはすごく仲いいみたいだけど」

「仲はいいよ」

 叔母さんは少しためらってからそっと言った。

「やっぱり奈緒ちゃんのことが忘れられない?」

 僕は兄妹として奈緒とやり直していることを、明日香にも叔母さんにも話していなかったことに気がついた。

「それはないんだ。叔母さんにはまだ言ってなかったけど、今朝登校中に奈緒待ち伏せされんだ」

「え? 奈緒ちゃんに会ったの?」

 叔母さんは驚いたように言った。多分僕のパニック障害のことを気にしてくれていたのだろう。

「うん。何で会ってくれないの、嫌いになったのって」

「それだけ聞くとさ、奈緒ちゃんはやっぱりあんたが実の兄貴であることを知らないのか」

「正確に言うと知らなかった、になるんだけど」

「どういう意味よ。こんな場合なのにもったいつけるな」

「いろいろあって、奈緒に僕が実の兄貴であることがばれちゃったんだ」

「マジで?」

 叔母さんが驚いた様子だった。

「うん。無意識のうちに、僕が気がつかせるようなことを口にしちゃったらしいんだけど」

「それで? 奈緒ちゃんはショックだった?」

「それがそうでもない。むしろずっと引き離されて会えなかった兄と再会したことを喜んでいたよ。もう二度と僕とは別れないって」

 突然の明日香の事件のことで緊張していた僕だけど、その時の奈緒の表情や言葉を思い出すと胸が温かくなっていった。

 恋人同士としての関係は消滅したけど、二度と会えないと思っていた兄妹として、奇跡的に再会できたのだ。

「そうか」

 叔母さんが言った。

「じゃあ、あんたはこれまで会えなかった実の妹の奈緒ちゃんと、これまで妹だったけど彼女に立候補した明日香と、二人を同時にゲットしたわけか」

「そんなんじゃないし」

 僕は赤くなって叔母さんに言った。

 

 叔母さんと別れて帰宅しても、やはり家には両親はいなかった。

僕はその日のうちに奈緒に電話した。奈緒はワンコールで電話に出た。

「妹さん大丈夫だった?」

「けがはしてるけど、幸い大きなけがじゃないって。ありがとう」

 僕は明日、明日香の退院の付き添いがあるので、奈緒と約束した朝一緒の登校ができないことを伝えた。

「そうなんだ。よかったね」

「ありがとう。ごめんね」

「全然大丈夫だよ」

「あとさ、明日は退院の付き添いだけど、明後日以降、妹が自宅療養になったら、大学を休んで面倒を見なきゃいけないかもしれないんだ」

 それはさっきから考えていたことだった。

 平日の昼間は間違いなく自宅には母さんはいない。明日香の外傷は大したことがないと言っても、けがをした明日香を一人にしておくのもかわいそうだ。

「お母様は?」

 少しだけ遠慮したように奈緒が聞いた。そういえばまだお互いの家族の近況について、奈緒との間ではほとんど話題に出ていなかった。

「母さんも父さんも音楽雑誌の編集をしているんだ」

 僕は家の事情を奈緒に話した。

「だから普段は昼間はもちろん、夜だって滅多に家にいないよ」

「そうか。じゃあしばらくは朝お兄ちゃんと会えないね」

 奈緒が言った。

「ごめんね」

 僕は再び謝った。

「ううん、今は妹さんのことを考えてあげないとね」

 奈緒には申し訳ないけど、この状況では明日香のことを優先する以外には選択肢はなかった。

「朝来られるようになったら、いつもの電車に来てね。わたしは毎朝あの電車に乗っているから」

「行けそうになったらLINEか電話するよ」

「うん。お兄ちゃんありがとう」

 そのとき、電話の背後で何かを注意する女性の声が聞こえた。何を話しているかはよく聞こえなかったけど、少しイライラしているような感じの声だった。

「いけない。ママが怒ってる」

 奈緒が少し慌てたように言った。

「ピアノの練習時間だったんだけど、弾いていないの気がつかれちゃった」

「練習を邪魔しちゃってたのか。悪い」

「いいの。お兄ちゃんと話しているほうが楽しいし」

「じゃあもう切るね」

「うん。妹さん、お大事にね」

 電話が切れてから僕は少し考え込んだ。

 ママ。よく考えれば、その人は僕の本当の母親だ。そこに気がついた僕は、自分の心に何らかの影響が生じるだろうと思ったけど、そういうことは起きなかった。まるで無感動なのだ。

 僕は奈緒が妹と知ってパニック障害を発症したけど、実の母親のことを考えても何の影響も感慨も起きなかった。

 それから僕はさっきの明日香の告白のことを考えた。

 奈緒と恋人同士だった頃の僕なら、どうしたら明日香を傷つけずに告白を断ればいいか考えるだけだっただろう。

 奈緒を振って明日香と付き合い出すなんて考えたことすらなかった。

 でも、僕にはもう彼女はいないし、これまでの明日香の献身に対しては感謝しかない。それなら僕は明日香の気持ちに応えるべきなんだろうか。

 奈緒とは違って明日香は義理の妹だ。一滴たりとも同じ血は流れていない。だからさっき明日香が言っていたように、付き合うことにも結婚することにも法的な制約はないのだ。

 一方で、ついこの間まで奈緒と付き合っていた僕が、奈緒とは付き合えないとわかったとたん明日香と付き合い出すというのは節操がなさ過ぎるのではないかという気もした。

 少なくとも、奈緒と恋人同士ではなくなった経緯を知らない人には、そう思われてもしかたがない。

 僕は試しに、僕と明日香が付き合い出したときの周囲の反応を想像してみた。

 渋沢は明日香が僕の義理の妹であることを知っているから、驚きはするだろうけどそれが禁じられた恋とか、社会的なタブーだとは考えないだろう。

 でも他の人たちはどう思うだろう。考えてみれば僕と明日香が実の兄妹ではないことを知っているのは、両親や親戚を除けばほとんどいない。

 当たり前のことだけど、父さんや母さんだってわざわざ周囲に再婚家庭であることをアピールしてなんかいない。

 それに何といっても去年までは、僕自身だって明日香が自分の本当の妹ではないなんて想像したことすらなかったのだ。

 そう考えると、仮に僕と明日香が恋人同士になったときの周囲の反応は、考えるだけでも面倒くさそうだった。

 渋沢以外の僕の友人たちや明日香の友だちは、僕と明日香が兄妹なのに禁断の恋人関係になったと思い込むだろうし、そういう噂だって流れるだろう。

 そういう人たちに向かって、一人一人に我が家の家庭事情を最初から話していくなんて不可能だ。

 僕と奈緒が付き合い出したときはそういう問題は生じなかった。

 誰も僕と奈緒が実の兄妹だなんて知らなかった。というか当事者である僕たちだってそれを知らなかったのだから。

 そう考えると、明日香と付き合い出すのは大変そうなのに比べて、奈緒とこのまま付き合っていた方がはるかに自然で楽そうだった。

 そのとき僕は胸に鋭い痛みを感じた。今、僕は何を考えた?

 奈緒とこのまま付き合うなんてありえない。お互いに生き別れた兄妹だとわかった今となっては。

 奈緒は僕の妹なのだ。奈緒と感動的な再会をはたした今朝は、つらい別れをした妹と再会できたことに喜びを感じて、それ以外に余計なことを考える余裕なんてなかった。

 でも、改めてこの先の僕たちの関係を考えてみると、僕は自分の汚い心の動きに気がついた。

 最初に奈緒とキスをしたあの夕暮れの日、正直に考えれば僕の下半身は奈緒の華奢で柔らかくいい匂いのする身体に反応していなかったか。

 奈緒とキスを重ねるたびに、次は奈緒に対して何をしようかと、わくわくしながら考えている自分はいなかったか。

 そうだ。僕は奈緒の体を愛撫し、そして奈緒と身体的に結ばれたいと思っていたのだ。

 その気持ちは、実は今になってもまだ清算すらできていなかった。

 奈緒は妹だ。そして僕のことを兄だと気がついた以上、彼女は僕が自分に対してこんな破廉恥な気持ちを抱いているなんて夢にも思っていないだろう。

 つらい別れをして以来、再会を夢見続けていた奈緒は、自分の兄を取り戻せたことに満足しているのだ。彼氏としての奈緒人が消滅してしまっても気にならないくらいに。

 それなのに僕はそんな妹に対して汚らしい欲情をまだ捨てきれていない。

 こんなことを考えていたら、またパニック障害を発症そうだった。僕はとりあえず無理に考えを違う方向に捻じ曲げた。

 明日香は急がないと言ってくれた。

 奈緒との関係の整理とか、明日香との付き合い方とかを今日一日で決めろと言われてもそれは無理だ。奈緒に対して抱いている性欲のような衝動を、思い起こすだけでもつらい今では絶対に無理だった。

 もう寝よう。そう決めて支度してベッドに入ると、自分がすごく眠いことに気がついた。

 眠りにつく前に、ふと疑問が湧いた。

 明日香が飯田のアパートに無防備について行ったのは、飯田に奈緒の話をほのめかされたからだと言っていた。

 奈緒のような子と、警察にマークされている飯田との間にはいったいどんな接点があるのだろう。

 

 翌朝、叔母さんは家まで車で僕を迎えに来てくれた。

 周囲に響くような重低音を伴っているため、叔母さんの車はすぐにわかる。

 明らかに近所迷惑としか思えないのだけど、叔母さんはそのシルバーの古い国産のクーペを大切にしていたし自慢もしていた。

「おはよう叔母さん」

 僕は玄関から外に出た。

「おはよう奈緒人。何か雪でも降りそうな天気だね」

 叔母さんが車の中でハンドルを握りながら言った。

「叔母さん、ここは住宅地だし朝なんだからあまりエンジンの空吹かししないでよ」

「悪い。ちょっと調子が悪くてさ。じゃあ行こうか」

 僕は叔母さんの車の助手席に乗り込んだ。スポーツカーらしくひどく腰がシートに沈み込み、フロントウィンドウから見る景色がとても低いように感じる。

「明日香の保険証持ってきた?」

「うん。持ってきたよ」

「じゃあ行こう。あ、帰りは明日香が助手席な。後ろの席は狭いし怪我人にはつらいからね」

 叔母さんの車はツーシーターではないものの、後席は飾りみたいなものだった。やたらに狭いし天井も低い。とても長く人が乗っていられるような空間ではない。

「叔母さんも普通の車に買い換えたら?」

「普通の車じゃん」

 叔母さんがアクセルを踏んだ。車は急発進して坂を下りだした。

「叔母さん、ここスクールゾーンだからスピード出しちゃ駄目だよ」

「お、いけね」

 やがて叔母さんの運転する車は環状線に入った。

 妹の入院している病院はうちからはそんなに遠くないのだけど、平日の朝は病院までの国道は通勤の車で渋滞していて、なかなか目的地の近くに辿り着く様子がない。

「叔母さんさ」

 僕は、信号待ちでも工事でもないのに一向に動かない車の中で、ハンドルを握っている叔母さんに言った。

「うん」

「明日香はいつから学校に行けるのかな」

「それはわからないよ。今日主治医に聞いてみるけど、少なくとも今週いっぱいくらいは自宅療養なんじゃないかなあ」

 僕は即座に決心した。奈緒には申し訳ないことになるけど。

「じゃあ僕が学校を休んで奈緒の面倒をみるよ」

「悪いね」

 本当に申し訳なさそうに玲子叔母さんが言った。

「あたしも今日の午前中休むだけで精一杯でさ」

「叔母さんのせいじゃないよ」

「結城さんと姉さんも仕事を何とかやりくりするって言ってたけど」

「無理しなくていいって言っておいて。僕が明日香の面倒を見るから」

「・・・・・・わかった」

 玲子叔母さんは最近すぐに涙を見せるようになったらしい。

 ようやく叔母さんは病院の駐車場に車を入れた。自宅を出てから一時間以上はかかっていた。

 それから明日香が退院するまでも長かった。

 叔母さんが会計で治療費や入院費用を支払うだけで一時間弱は要しただろう。

 突然の入院だったので荷物なんか全くないのはよかったけど、それからが大変だった。

 明日香が着替えることになって僕は叔母さんに病室から追い出された。でもすぐにまた病室のスライドドアが開いて、叔母さんが困惑した顔を見せた。

「明日香の着替えがないや」

叔母さんが言った。

「そう言えば着替え持ってくるの忘れてたね。とりあえず昨日着ていた服じゃだめなの?」

「・・・・・・飯田って男に破かれちゃったみたいね。病院の人が畳たんで置いといてくれたんだけど、とても着られる状態じゃないな」

 よく考えれば不思議なことではなかった。奈緒のこととか明日香の告白のこととか、そういう自分にとっての悩みばかり考えていたせいで、僕は本当に必要なことなんか何も考えていなかったのだ

「悪い。あたしがうっかりしてた」

 叔母さんはそう言ったけど叔母さんのせいじゃない。

 むしろ昨日病院を後にしてすぐに仕事に戻るほど忙しかったのに、明日香の保険証を持ってくることを注意してくれたのだって叔母さんだった。

 学校を休んで明日香の退院に付き添うくらいで、僕はいい兄貴になったつもりでいたのだけど、それだけでは何もしていないのと同じだ。

「叔母さんのせいじゃないよ」

 僕は叔母さんに言った。

「でも破かれた服とか見たら明日香も思い出しちゃっうかなあ」

「・・・・・・気にしていない様子だけど、多分相当無理していると思うな」

「そうだよね」

「家に戻るわけにも行かないからさ、あたしちょっと明日香の服を適当に買ってくるわ。だからあんたは明日香の相手してやってて。できる?」

 叔母さんがわざわざできるかと念を押したわけはよくわかった。

「うん、大丈夫」

「じゃあちょっと行ってくる」

 叔母さんが明日香の服を買いに行っている間、僕は明日香と二人で病室で叔母さんの帰りを待っていた。

「結局、学校は何日くらい休めばいいんだって?」

 僕は明日香のベッドの横の丸椅子に座って聞いた。

「今週いっぱいは自宅で療養してた方がいいって先生が言ってた」

 明日香が答えた。

「お兄ちゃんと違って勉強とか好きじゃないし、学校休めるのは嬉しいな」

「そんなのん気なこと言ってる場合か」

 僕は明日香に笑いかけた。

「だって正々堂々と休めるなんて滅多にないじゃん」

 明日香も笑ってくれたけど、何かその表情は痛々しかった。

「とりあえず今朝母さんが会社から、おまえの中学の担任に具合悪いから休ませますって連絡しているはずなんだけどさ」

「うん」

「明日からはどうしようか。いっそインフルエンザになったことにする? 今流行っているし」

「別に・・・・・・怪我したからでいいじゃん」

「だってそしたら」

 そうしたら担任の先生には理由を聞かれるだろう。明日香が不良に乱暴されそうになって怪我をしたなんて他人には話したくない。

「あまり気にしなくていいよ。お兄ちゃんも叔母さんも」

 明日香が不意に言った。

「おまえ」

「自業自得だもん。あたしがあんなバカやって、飯田たちみたいなやつらと付き合ってなかったらこんなことも起きなかっただろうし」

「おまえのせいじゃないよ。女の子を力づくで何とかしようなんて、男の方が悪いに決まってる。おまえが変な連中と付き合ったのは感心しないけど、だからといってこれにはおまえに全く責任はないよ」

「うん。お兄ちゃんありがと」

 病院で会ってから初めて僕は明日香の涙を見た。

「だからおまえが気にすることなんて何もないんだ」

「うん」

 明日香の泣き笑いのような表情が、そのとき僕の印象に残った。

「それにしてもさ、あたしはか弱くなんかないって。奈緒とか有希みたいなお嬢様じゃないんだしさ」

「・・・・・・僕にとってはおまえはいつもか弱い危なっかしい妹だよ」

「え」

「前にさ、公園で鳩を追い駆けていた幼いおまえの記憶が残っているって話したことあるだろ」

「だからそれ、きっと奈緒の記憶だよ。年齢が違うもん。あたしたちが初めて出会ったのはそんなに幼い年じゃないし」

「うん。多分それは僕の思い違いなんだろうけどさ。でもそのときの女の子をすごく大切に感じたことや、僕が守ってやらなきゃって思ってその子を追い駆けていた記憶はすごく鮮明なんだよね」

「お兄ちゃんは奈緒のことをそれだけ大切に思ってたんでしょうね」

「いや、僕はその子をおまえだとこの間まで信じていたしさ。それでもその幼いおまえのことが心配な気持ちは確かに感じてたんだ。事実としては勘違いかもしれないけど、おまえのことを大切に思った想いだけは本当の感情だと思うよ」

「お兄ちゃん・・・・・・」

「おまえが夜遅く帰ってきたときとか、家に朝まで帰ってこなかったときとか、正直関りたくないと思ったことはあったけど、それでも結局気になって眠れなかったんだよね。僕も」

 病室のベッドに腰かけていた明日香が涙の残った目で僕を見上げた。

「それくらいにしなよ。それ以上言うともう本気でお兄ちゃんを誰にも渡したくなくなっちゃうよ」

「うん。おまえと恋人同士になれるかどうかはともかく、少なくともおまえは僕の妹だよ、一生」

 僕はだいぶ恥かしいことを真顔で言ったのだけど、そのときはそれはあまり考えずに自然と口から出た言葉だったのだ。

「・・・・・・まあとりあえずそれで満足しておこうかな」

 泣きやんだ明日香が微笑んで言った。

「ヘタレなお兄ちゃんにこれ以上迫ったら、逃げ出しちゃうかもしれないし、それはそれで嫌だから」

「ヘタレって」

「とりあえずあたしはこれで奈緒と同じスタートラインに立てたってことだね」

 明日香が言った。

 僕は黙ってしまった。まだ明日香の気持ちに応えられるほど気持ちの整理はついていない。僕は昨晩感じた奈緒への性欲のような衝動を思い出した。

「血が繋がっていないだけ有利だしね」

 明日香が僕に止めをさした。

 

 それでも叔母さんが帰ってくるまで、病室内の雰囲気は穏やかだったと思う。

 お互いに意識して微妙なラインの会話を続けながらも、僕と明日香はお互いを理解し合おうとしていたのだ。

 僕が奈緒のことで悩んでいたときに、明日香は僕を黙って支えてくれたし、今は僕は同じことを明日香にしようとしている。それは明日香の僕への想いとはかかわりなく、ようやく僕たちが自然な兄妹の関係に復帰できたということだった。

「パパやママもそうだけど、また玲子叔母さんに迷惑かけちゃったな」

 明日香の担任にどう話そうかという話を蒸し返していたときに、明日香がぽつんと言った。

 確かにそのとおりだった。僕と奈緒のことでいろいろ迷惑をかけただけでは足りずに、今回は叔母さんにはお礼の言いようもないほど世話になったのだ。

 真っ先に病院に駆けつけたのも、すぐに僕に連絡をくれたのも叔母さんだ。

 そして今日は半日だけとはいえ、多忙な仕事をよそに病院の支払いから明日香の着替えの購入まで面倒を見てくれている。

「昔から姉さんにはあんたたちの世話を押し付けられてたからね」

 僕が叔母さんにお礼を言おうとしても叔母さんはそう言って笑うだけだった。

 叔母さんにだって自分の仕事やプライベートな時間だってあるのだろうに、僕たちも両親も叔母さんに頼ってばかりだ。

「叔母さんって彼氏いないのかなあ」

 明日香がそう言った。

「さあ? 聞いたことないよね」

「あんなに綺麗なんだから絶対いると思うな」

「確かにそうだ」

 そのとき僕は叔母さんのすらりとした細身の容姿を思い浮かべた。確かにあれで彼氏がいない方が不自然だ。もっとも性格の方はだいぶ男っぽいので、大概の男では叔母さんを満足させられないのかもしれない。

「玲子叔母さんってパパのこと好きだったんじゃないかな」

 突然、明日香がびっくりするようなことを言い出した。

「え? パパって今の父さんのこと?」

「うん。あたしたちのパパのこと」

 女の子の想像というのも随分突飛な方向に暴走するものだと、そのとき僕は思った。それはまじめに取り合う気もしないほど、斜め上の発想だった。

「何でそうなるの」

「叔母さんがパパに話しかけるときの雰囲気とかで感じない? 何か甘えているような感じ」

「どうかなあ。特には気がつかないな」

「ママがいる時は普通の態度なのよ。でもさ、この間の夜みたいに、ママがいなくてパパとかあたしたちと一緒にいる時の叔母さんって、すごくはしゃいでててさ。パパに話しかけるときの様子とか何か可愛い女の子って感じじゃん」

「それは思いすぎだと思うけどなあ。叔母さんにだけじゃなくて、母さんにだって失礼だろ、そんな想像は」

「でもそう感じるんだもん」

 明日香が頑固に言い張った。

「ママとパパって幼馴染で、大学のときに再会して、それで社会人になってからパパの離婚を経てようやく結ばれたんでしょ」

「叔母さんはそう言っていたね」

 僕はそのときに初めて、父さんと母さんの馴れ初めを聞いたのだった。僕の本当の母さんと父さんとの別れの原因を聞くのと一緒に。

「ママと叔母さんは十三歳年が違うの。すごく年の離れた姉妹なんだって」

 その辺の事情を詳しく聞いたことはなかったけど、叔母さんと母さんが年齢が離れていることだけは、前から何となく感じていたことだった。

「ママが今度四十三歳でしょ?」

「そういや母さんの誕生日って来月じゃん。今年は一緒にプレゼント買おうか」

 これまで仲が悪かった僕たちは、母さんへのプレゼントをそれぞれ別々に用意していたのだ。母さんは平等にそれを喜んでくれたのだけど。

「いいけど。って今はそういう話じゃなくて。パパとママが大学時代に再会したとき、叔母さんは小学生にはなっていたわけだし、そのときパパに淡い初恋をしたっておかしくないじゃん」

「どうでもいいけど、それ全部状況証拠、っていうか思い込みだろう」

「可能性の話だよ。あと再婚の頃は叔母さんだって二十歳を過ぎていたんだから、あらためてパパに対する禁じられた、報われない恋に泣いていたとしても不思議はないでしょ。顔には祝福の笑みを浮べながら。叔母さんかわいそう」

 叔母さんにこれまで世話になったと言いながら明日香はさっそくこれだ。

 でも叔母さんには悪いけど、こういう話で明日香が重苦しい気持ちを忘れられるならむしろ大歓迎だった。

 もっとも叔母さんの前では、こういう話をしないように釘はさしておかなければならないけど。

「叔母さん、もてそうだし彼氏とか作って結婚しようと思えばすぐにでもできそうなのにね」

 僕は言った。それは本音だった。

 むしろ僕たちの世話を焼いているとが、叔母さんの交際や結婚の邪魔になっているのかもしれない。

 それに加えて、殺人的に多忙な仕事のせいも大きいと思うけど。

 そのとき、叔母さんがどこかのショップのブランドロゴが記された紙のバッグを提げて病室に入ってきた。

「ちょうど先月号で見本を提供してもらったショップを思い出してさ、考えたらこの病院のすぐそばにあるんだったよ」

 叔母さんが持ってきたショップのロゴは僕は初めて見かけるものだったけど、明日香はそれを見て顔を輝かせた。

「え、これJASPERじゃん。こんなの貰っていいの?」

「たまには明日香にプレゼントしてもいいかなって。高いんだぞ大事にしろよ」

「はーい。着替えるからお兄ちゃんは出て行ってよ」

「あ、うん」

 僕は病室の外で少なくともニ、三十分は待たされたんじゃないかと思う。

 その間に室内からは楽しそうな話し声が聞こえてきた。つらい目にあった明日香がはしゃいでいる様子を聞くと正直ほっとした。

 病室の外の廊下で待たされている間、室内から聞こえてくる明日香と叔母さんの会話は、主にファッション関係の話らしかった。

「お待たせ」

 明日香と叔母さんが並んで病室から出て来た。顔や腕にまだ包帯が巻かれているので、痛々しい感じは残っているけど、新しい服に着替えたせいか明日香はだいぶ元気な様子に見えた。

「ほら、この服ちょっと大人っぽいでしょ」

 明日香が僕に言った。

「こないだまでの明日香のファッションはケバ過ぎて見ていられなかったからね」

 叔母さんが笑って言った。

「これくらいシックな方がいいよ」

 こうして明日香と叔母さんが並んで立っていると、まるで少し年の離れたお洒落な姉妹のようだ。とても叔母と姪には見えない。

「じゃあ帰ろうか。さすがに少し急がないと午後の約束に遅れそうだよ」

 叔母さんが言った。

 叔母さんが車を病院の入り口にまわしてきたので、まず僕が狭い後部座席に乗り込んだ。明日香が無事に助手席に座ったのを確認してから、叔母さんは車を発進させた。

「雪が降ってる」

 明日香が走り出した車の中から外を見て言った。

 朝、病院に向かっているときは陰鬱な曇り空だったのだけど、病院を出る頃には細かい雪がちらほらと空から舞い落ちてきていた。

「こんなんじゃ積もらないだろうね」

「積もらなくて助かるよ。明日香は今週は登校しないからいいだろうけど、毎日出勤する方の身になれよ」

 叔母さんが笑った。

「だって叔母さんは好きで今の仕事してるんだからいいじゃん」

「それはそうだけど・・・・・・ってそんなこと誰から聞いたの」

「パパが言ってた。玲子ちゃんは好きな仕事しているだけで幸せだからなって」

 叔母さんが顔をしかめた。

「何で結城さんがそんなこと言ったんだろ」

「叔母さんって何で結婚しないのってあたしがパパに聞いたの。そしたらパパがそう言った」

「何であんたはそう余計なことを結城さんに聞くのよ」

「何でって言われてもなあ。ねえねえ、叔母さんってパパのこと好きだったの?」

「な、何言ってんのよ明日香」

 叔母さんが狼狽したように口ごもった。

「叔母さん、前! 前の信号、赤だって」

 僕の警告に気が付いた叔母さんは、横断歩道の手前でタイヤを軋ませて車を急停止させた。

 叔母さんは真っ赤な顔で、じっと目の前の革張りの高価そうなステアリングを見つめていた。

「ちょっとやりすぎちゃったかなあ」

 叔母さんはあの後あまり喋らなくなった。

 そして明日香と僕を自宅に送り届けると、そそくさと車を出して仕事に戻ってしまった。

 明日香はリビングのソファで、怪我をした部分を当てないように上手に横になってくつろいでいた。

 手元にはテレビのリモコンまで引き寄せているところを見ると、こいつは今日は自分の部屋ではなくリビングで過ごす気になっているようだ。

「ちょっとなんてもんじゃないだろ。叔母さん、あれからあまり話してくれなくなっちゃったじゃないか」

「だって気になるんだもん」

 年上の叔母さんのそういう感情面みたいな部分を話すことに、僕は違和感のようなものを感じた。

 だけど、今は明日香が襲われた話ととかをするよりも、こういう話をしていた方が明日香にとっては気が楽なのだろう。だから僕は無理に話を遮らずその話に付き合うことにした。

「叔母さんだってもう三十じゃない? あんだけお洒落で綺麗なのに、いつまで独身でいるつもりだろ。男なんていくらでも捕まえられそうじゃん」

「確かに綺麗だけどさ。叔母さんって性格は男っぽいからなあ」

「お兄ちゃんってやっぱりキモオタ童貞だけあって、女のこととかわかってないのね」

 随分な言われようだけど、明日香の言葉には以前のようなとげはなかった。

「それは反論できないけど」

「叔母さんのしっかりとした態度なんて、職場とかあたしたち向きの演技だよ、きっと」

 明日香が随分うがったことを言った。

「そうかなあ」

 車の趣味とかきびきびした決断の早い行動とかがあいまって叔母さんを男っぽく見せているのだろうけど、その全部が演技だというのはさすがに素直には受け取り難い。

「男と同じに扱われる職場だってまえに叔母さんも言っていたし。それに叔母さんが両親があまりそばにいてくれないあたしたちと一緒に過ごしてくれるときってさ」

「うん」

「多分必要以上に頼りになる叔母さんを演出してくれてたんだよ、今まで」

 それはあまり考えたことのない視点だった。たしかにそういうことはあるかもしれない。

 叔母さんは以前から好んで僕たちの世話を焼いてくれていたし、まだ幼かった頃の僕たちに対して安心感を与えようとしてくれていたのかもしれなかった。

 小さい頃から叔母さんにべったりだった明日香も、今までただ甘えていただけではないらしい。明日香は叔母さんの心の動きまで察していたようだった。

「本当は叔母さんだって普通の女の子だと思うよ。まあ三十歳になるんだから女の子ってことはないんだけど」

「女の子ってことはないだろ・・・・・・。そういや叔母さんって誕生日いつだっけ?」

 僕はふと思いついて言った。

「八月でしょ」

「叔母さんの誕生日に一緒にプレゼントしようか。お世話になってるんだし」

 明日香はそんな僕の提案を瞬時に却下した。

「叔母さんに喧嘩売るつもりならお兄ちゃんが一人でプレゼントしたら? ケーキに三十本ろうそくを立てて渡しなよ・・・・・・そんな勇気がお兄ちゃんにあるならね」

 三十になる女の人は誕生日なんて喜ばないのだろうか。

「あたしさ、パパとママの仲が壊れるなんて絶対に嫌なんだけど、それでもどういうわけか、ママがいないときの叔母さんとパパの会話とかは大好きなんだ」

 そういえば年末にもそういうことがあった。明日香の言うように叔母さんが父さんのことを好きなのかどうかはわからないけど、確かにあのときの二人は親密な感じだった。

「それはわかる。この間の夜とか楽しかったよな」

「お兄ちゃんは玲子叔母さんのこと大好きだもんね」

「明日香だってそうじゃん」

「マジで言うんだけどさ。お兄ちゃんって本当のママの記憶ってあまりないんでしょ」

「うん。ほとんどない」

「うちのママだってあまり家にいないしさ。お兄ちゃんにとってのママの役って、玲子叔母さんが引き受けてたんじゃないかなあ」

 僕は不意をつかれた。確かにそういうことはあるかもしれない。

 僕は昔から叔母さんには懐いていた。去年母さんと明日香とは血が繋がっていないことを知らされたとき、しばらくして僕は叔母さんとも血縁関係がなかったことに気がついた。それからの僕の叔母さんへの態度は不自由で不自然なものになってしまった。

 でもこの間の夜、叔母さんは僕に敬語を使うのはよせと言ってくれたのだ。僕が叔母さんの言葉に従ったとき、叔母さんは目に涙を浮べてくれていた。

 明日香のことや奈緒のことで、僕が自分でも気が付かずにどんなに叔母さんを頼っていたか。

「叔母さんだってお兄ちゃんのことすごく大切にしているしね」

 明日香が言った。

「そうだね」 

 僕は軽く言ったけど、明日香だけではなく僕もこれまで相当叔母さんに助けられてきたことを、改めて実感したのだった。

 そこで僕は大事なことを明日香に言っていなかったことに気がついた。

「それよりさ。奈緒と会ったんだ」

「え」

 明日香は驚き、そして憤ったように僕をにらんだ。

「何でよ? もう会わないって約束したじゃない」

 僕は昨日叔母さんに話したことを繰り返した。

 奈緒待ち伏せされ詰られたこと。その後フラッシュバックを起こした僕が口走ったセリフによって、奈緒は僕が引き離された実の兄だと気づいたこと。

 明日香は驚いたように口も挟まずに話を聞いていたけど、僕と奈緒がこれからは再会した兄妹としてずっと一緒にいようと言い交わしたと話しているあたりで不服そうな顔をした。

「それって結局、奈緒とお兄ちゃんはこれまでどおり朝一緒に登校するし、お兄ちゃんは毎週土曜日にはピアノ教室に奈緒を迎えに行くってこと?」

「まあ、そうだね」

「・・・・・・なんか別れた恋人同士がよりを戻したみたいに聞こえるんだけど」

「そんなわけあるか。これから兄妹として仲良くしていこうってことだよ」

「兄妹ってそんなにいつもベタベタ一緒にいるものだっけ」

「最近は僕だっておまえといつも一緒じゃん」

「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないし」

 正しい日本語にはなってないけど、明日香の言うことも理解できた。

 同時に、いい兄妹になるはずの兄の方が、今でもまだ、妹になったはずの奈緒に対して抱いている性的な情欲のことも心に浮かんだのだけど、それは胸のうちに仕舞っておいた。

「お兄ちゃん?」

 明日香が静かな声で言った。今までとは違う真剣な声を聞き、僕は妹の顔を見た。

「お兄ちゃんは本当にそれでつらくならない?」

「え」

「好きになった、とっても好きになった女の子が自分の実の妹だってわかって、それでもお兄ちゃんは平気なの」

 それは僕の悩みを的確に指摘した言葉だった。もともと明日香はこういう事態を防ごうとしてくれていたのだ。

 記憶のない僕が妹の奈緒と再会して、自分の初めてできた大好きな彼女を失って、それでもなお何で奈緒と一緒に登校したり、奈緒をピアノ教室に送迎したりしようと思えるのか。

「お兄ちゃんがそれでも平気ならあたしは何も言わない。言う権利もないと思うし」

「権利ならあるって。おまえは僕のことを助けようとしてくれたんだし」

「それでもね」

 男たちにひどい目に合わされ、入院して退院した今まで、気丈だった明日香の声が初めて気弱な響きを帯びた。

「勝手なことを言うね。できるなら、お兄ちゃんは奈緒に会うべきじゃないと思う」

「妹なんだぞ。それに奈緒が妹だということにもすぐに慣れると思う」

「そういうことじゃないの」

 明日香は嫉妬心からそう言っているようには見えず、何かを心配してるように見えた。

奈緒が何か考えがあってお兄ちゃんに近づいてきたのなら、お兄ちゃんはもう奈緒のことは忘れた方がいいよ」

「それはない。奈緒は何も知らずに僕と出ったんだ」

 僕は確信を持って反論したけど、明日香の態度も揺るがなかった。

「本当にそうならいいけど。本当にそれならあたしも安心だけど」

 明日香が笑いもせずにそっと言った。