yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第1部第11話

 やがて少し落ち着いた僕たちは、いつものように駅に向かって歩き出した。

 僕は、今日は大学には行かないつもりだったのだけど、なんとなく奈緒と一緒に駅から電車に乗り込んだ。

 時間的にはもう奈緒は遅刻だったけど、彼女は僕の腕につかまって、僕の方を見て微笑んだり視線をはずしたりを繰り返していて、始業時間に遅れたことを気にしている様子はなかった。

 やがて、電車は僕の大学の最寄り駅に着いた。今日は行かない予定だったから、そこで降りる必要はなかった。

 ただ、奈緒が僕の腕から手を離したので、僕は奈緒に手を振って、その駅で電車を降りた。

 奈緒は僕が大学の講義を休む気でいるとは思ってもいなかったようだった、

 キャンパスに向かって歩きながら、遅刻した奈緒がその日学校でどういう言い訳をするのか考えると、自然と頬が緩んできた。

 富士峰に入ってからは一度も遅刻や休んだことがないと、前に彼女から聞いていたことを思い出したからだ。

 きっと奈緒は先生に言い訳するのに苦労したに違いない。

 

 その日の講義中、僕は大晦日以来初めて心底くつろいだ気分になれた。

 午後の講義の終了後、渋沢は志村さんの買物に付き合うとかで早々に二人揃って帰ってしまってので、教室の中はもう数人の学生が帰り支度をしているだけだった。

 自分も帰り支度をしながら、奈緒のことを考えた。

 僕が奈緒に関して心配していたことは全て杞憂だった。

 あれだけ悩んだ挙句、奈緒に本当に深刻な傷をつけないために、彼女に失恋という、より小さな傷を与える方を選んだ僕だったけど、奈緒は僕が兄であると知って傷付くどころかすごく喜んだのだ。

 同じ事実を知ったときの僕が受けた衝撃なんか、彼女は少しも受けなかったようだった。そしてその理由を考えてみると思い浮ぶことがあった。

 僕が自分の記憶を封印して、妹や母親のことを全く覚えていなかったのと対照的に、奈緒は過去の記憶を失ってはいなかったようだ。

 僕にとっては、思い起こされた過去の断片的な記憶ですら、あれだけ切なく悲しかった。両親によって奈緒と引き離された喪失感が、今再び恋人である奈緒を失おうとしている感情とあいまって、精神に深刻な打撃を受けたくらいに。

 それに比べて、奈緒は過去の記憶を失っていなかった。

 そして兄である僕から無理矢理引き離された奈緒は、僕のことを無理に忘れようと努力しながらこれまで生きてきた。

 それでも奈緒は僕のことが忘れられなかった。彼氏すら作る気がしないほどに。

 奈緒は兄と知らずに僕と付き合い出してからも、幼い頃引き離された兄に対して罪悪感を感じていたのだという。

 それほど「兄」に対して愛着とこだわりを持っていた奈緒のことだから、自分の彼氏が兄だと知ったとき、兄と再会できたことが、彼氏を失ったことによる悲しみをしのぐほど、嬉しかったであろうことについては僕にも納得できた。

 確かに、依然として僕が初めての彼女を失った事実には変りはない。

 でも僕はその代わりに、妹を失った記憶を取り戻し、そして今その妹を取り戻した。

何よりも恐れていたように、奈緒も傷付かずにもすんでいる。

 この先僕たちは恋人同士としてはやり直しはできないけど、兄妹としてはずっと一緒にいることはできる。

 奈緒に習って、もうそれでいいと思えばいいのだ。

 久しぶりにゆったりとした気持ちで僕はキャンパス出た。

 これから奈緒を富士峰の校門前まで迎えに行かなければならない。奈緒は僕が兄だと知ったときから、かつて僕が彼氏だったときのような遠慮をしないことにしたらしい。

 さっき別れ際に、遠慮のない口調で、放課後富士峰の校門まで奈緒に迎えに来るように言われた僕は、二つ返事でそれを受け入れたのだ。

 そして、僕も妙に心が満ち足りていたせいで、奈緒についてもあまり深く物事を考えずにいた。

 何を思い出してもパニック障害の症状の発現を心配しなくていい。僕は久しぶりに症状の心配から解放されたのだ。

 このとき、奈緒に会ってからいろいろあったせいで、僕は明日香の失踪についても心配するのをやめていた。

 今までと同様、ひょっこりと家に戻ってくるだろうと自分に言い聞かせたのだ。

 この失態はこの後、僕をひどく後悔させることとなった。

 

 富士峰の校門の前で、こうして奈緒を待っているのは初めてだった。

 以前の僕なら、さっきから校門の中からひっきりなしに吐き出されるように出てくる女子中学生や高校生の視線を意識して萎縮してしまっていただろう。

 いかにも彼女を迎えに来ている彼氏のように見えているだろうし、何よりも格好よければともかく僕なんかでは・・・・・・。

 でも待っている相手が自分の家族だというだけで、これだけ心に余裕ができるとは思わなかった。

 僕は富士峰の歴史がありそうな石造りの門に寄りかかって、マフラーを巻きなおした。

 今日は大分冷え込んでいる。さっきから僕の横を通り過ぎて行く富士峰の女の子たちも、みな同じような紺色のコートを着て同じ色のマフラーを巻いている。学校指定なんだろうけど、これでは僕なんかには誰が誰だかぱっと見には識別できない。

 奈緒のことを見逃してはいないと思うし、迎えに来いといった以上奈緒だって僕のことを探すだろうから、すれ違ってはいないと思うけど、これでは僕のほうから奈緒に気がつくのは難しいかもしれない。

 そろそろここに来てから三十分は経つ。奈緒に伝えられた時間を間違えたのだろうかと考え出したときだった。

「お待たせ」

 奈緒が突然現われて僕の腕に抱きついた。

 突然とは言ったけど、さっきから途切れることなく僕のそばを通り過ぎていた女の子たちの中に彼女も紛れていたのだ。

「お疲れ」

 僕は腕に抱き付いている奈緒に声をかけた。

「うん。今日は疲れた」

 奈緒は笑顔で僕に言った。

「登校したとき大変だった」

「どうしたの」

「遅刻したの初めてだったから。先生に問い詰められちゃった」

「登校中に気分が悪くなって駅で休んでたって言い訳するつもりだったんだろ」

「そうなんだけど担任に嘘言うのってきついね。わたし挙動不審に見えてたと思う」

 僕は抱き付いている奈緒に微笑んだ。

「お疲れ奈緒。じゃあ帰るか」

「うん」

 僕は奈緒に抱きつかれたままで歩き出した。恋人同士として付き合っていたときと、奈緒の態度はあまり変わらない。

 というか会話だけ取り上げて見れば、奈緒が敬語で話すのやめた分、以前より距離が縮まっている気がする。

「お兄ちゃん、歩くの早いって」

 奈緒が半ば僕に引き摺られるようになりながら笑って文句を言った。

 周囲に溢れている富士峰の女の子たちの好奇心に溢れた視線が集まっているのがわかったけど、奈緒はそれを全く気にしていないようだった。

「そう言えば普段は有希さんと一緒に帰ってるんじゃなかったっけ」

 僕は最後に見かけたときの、有希の冷静で冷酷な印象すら受けた横顔を思い出した。

「今日は用事があるから一緒に帰れないって言ってきたんだけど・・・・・・」

 奈緒は少し戸惑っているようだった。

「うん? どうした」

「うん。何か今日はあの子、様子が変だった。妙にそわそわしてて、落ち着きがなくて。わたしが先に帰るねって言ってもちゃんと聞いてないみたいだったし」

「何かあったのかな」

「う~ん。昨夜電話をくれたときはすごく怒っていたけど」

「・・・・・・そうだろうな」

「そうだよ。親友が浮気性の彼氏に冷たく振られそうになっていたんだしね」

「おい」

「冗談だよ」

 奈緒は笑った。それはやっぱりすごく可愛らしい表情だった。

「わたしさっきはお兄ちゃんに再会して浮かれちゃったけど、あれから考えてみたの。何でお兄ちゃんがわたしを振ろうとしていたのか」

「うん」

「自分の彼氏が本当のお兄ちゃんだと知って、わたしが驚かないように、そして傷付かないように自分が悪者になろうとしてくれたんでしょ?」

奈緒

「ありがとうお兄ちゃん」

 何か顔が熱い。まぶたの奥もむずむずする感じだ。

「お兄ちゃん?」

「うん」

「パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒

 奈緒があのときの僕の言葉を繰り返した。

「覚えてる? わたしがそのときに何て答えたか」

「ああ。覚えているよ」

 正確に言うと思い出したというのが正しいのだけれど。

「うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ」

 奈緒が記憶の中にあるのと正確に同じ言葉を繰り返した。

 あのときの絶望感と、その後の喪失感とつらかった日々。もう我慢も限界だった。

 僕は声を出さずに泣き始めた。

「わたしの気持ちはあれから十年間経っても全然変わっていないの。今でもお兄ちゃんだけでいいって、自信を持って言えるもの」

 泣いている僕を抱きかかえるようにしながら奈緒は柔らかい声で言ったけど、奈緒の声の方も雲行きが怪しくなっているようだった。

「・・・・・・今は泣いてもいいのかも。わたしたち、十年もたってあれから初めて会えたんだもんね」

 奈緒と僕は、富士峰の女生徒たちの好奇の視線に晒されながらお互いに手を回しあって、まるであの頃の小さな兄妹に戻ってしまったかのように泣いたのだった。

「有希さんの話だけどさ、僕たちが本当は兄妹だったこと彼女に話したの?」

 お互いに抱きしめあいながら大泣きした後、妙に恥かしくなった僕たちはとりあえず駅前のスタバに避難した。

 僕にとってはここは敷居が高い店なのだけど、そんなことを言っている場合ではないし奈緒は気後れする様子もなく店に入って行った。

 奈緒ちゃん大丈夫? とか奈緒ちゃんこの人に変なことされてない? とか周囲の生徒たちは失礼なことを聞いてきた。

 でも奈緒はまだ涙の残る顔で笑顔を僕に見せた。

「お兄ちゃん走ろう」

 奈緒はそう言って僕の手を引いて走り出したのだ。こうして僕たちはスタバの奥まった席で向かい合って座っていた。

 だいぶ落ち着いたところで僕は有希のことを思い出して聞いてみた。

「ううん、まだ話してない。説明すると長くなりそうだし」

 それはそうだろうなと僕は思った。

 まず自分の家の事情を話して、それから僕との偶然の出会いを話してと考えると、学校の休み時間に気軽に話せることではない。

 それに僕と奈緒自身だって兄妹としては再会したばかりで、お互いのことを話し合うのだって、まだこれからなのだ。

 最後に別れたときの有希の冷たい表情が脳裏に浮かんだ。有希の誤解がこれで解けるのではないかと期待しないではなかったけど、これは奈緒に任せておくしかないようだ。

「それにしても有希ちゃん、やっぱり今日は様子がおかしかったなあ。何か心配事でもあるのかな」

「やっぱり彼女は僕のこと怒ってたか?」

「うん。でも感情的にはならずにあたしを慰めてくれた感じ。『あんないい加減な男なんて奈緒ちゃんの方から振っちゃいなよ。周りにいくらでも奈緒ちゃんのことを好きな人がいるんだし』って言ってたよ」

「おまえそんなにもてるの?」

 奈緒がいたずらっぽく笑った。

「なあに? 気になるのお兄ちゃん。妹のことなのに」

「そういうわけじゃないけど」

「冗談だよ。気にしてくれて嬉しいよお兄ちゃん。でもあたしを好きな人がいるなんて話は聞いたことないよ」

「そうなんだ」

「わたしの目には今のところ、お兄ちゃん以外の男の子は全く映っていないから」

「それはそれでまずい気がする」

「何よ。嬉しいくせに」

「あのなあ・・・・・」

「シスコン」

「今日は冗談ばっかだな。この間まで奈緒ちゃんは真面目な女の子だと思ってたよ」

「彼氏に見せる顔とお兄ちゃんに見せる顔は違うんだよ。女の子ならみんなそうだと思うよ」

「ちゃんはいいよ。妹なんだし奈緒って呼んで。わたしだって奈緒人さんじゃなくて、お兄ちゃんって呼んでいるんだし」

「それもそうか」

 じゃあ、これからは奈緒って呼ぶよって答えようとしたとき、スマホの着信音が鳴った。ディスプレイを見ると、玲子叔母さんからだ。

「ごめん。ちょっと電話出てくるね」

「行ってらっしゃい」

 僕は席を立って、一度店の外に出てから電話を取った。 

 

 清潔で無機質な白い廊下を歩いて行くと、やけに足音が大きく響いた。廊下の窓からは、冬の午後の陰鬱な曇り空が四角く切り取られて見えている。

 救急病棟の待合室で僕は叔母さんの姿を見つけて思わず駆け寄った。

「ああ奈緒人。来たのか」

 叔母さんはいつもどおりに僕を呼んでくれたけど、その表情は固かった。

「明日香は、明日香の具合はどうなの」

「外傷とそれに伴う精神的なショックだって」

 叔母はそこで少しためらった。

「命に別状はないよ。今は寝てるから会えないけど」

「・・・・・・いったい明日香に何があったの?」

奈緒人には教えないわけにはいかないか。明日香はね」

 叔母が俯いた。叔母の目に涙が浮かんだ。

「昨日の夜、知り合いの男の部屋に連れ込まれて乱暴されそうになったんだって」

 目の前が暗くなった。

 奈緒との、本当の妹との再会に浮かれて明日香のことを僕は忘れていたのだ。

 つらかった時期に、あんなに明日香に頼りきっていた僕なのに。

 僕に黙って自分の友人関係を壊してまで、僕のことを救おうとしてくれた明日香が夜の街に飛び出して行ったのに、僕はさっき叔母さんから電話をもらうまで、明日香のことを思い出しすらしなかったのだ。

「明日香が抵抗したんで犯人の男は明日香に言うことを聞かそうと手をあげたらしい。偶然、別の明日香の知り合いの男がそのアパートを訪ねてきて、明日香を襲った相手を止めたんだって」

「・・・・・・明日香の容態はどうなの?」

「外傷はたいしたことはないみたい。抵抗したのと知り合いの男が間に入ってくれたんで、その・・・・・・性的な暴行は受けなくて済んだんだけど、精神的なショックの方が大きいみたいだ。明日香が目を覚ませばもっと詳しくわかると思う」

「明日香に乱暴しようとした奴はどうなったの」

 そいつを殺してやる。精神的に不安定になっていたせいかもしれないけど、僕はそのときは本気でそう思った。

 きっとあの金髪ピアスの男だ。確かイケヤマとかっていう名前の。

「助けてくれた子が警察と救急車を呼んでくれてね。警察が来るまで犯人の男が逃げないよう取り押さえてくれてたの。犯人は現行犯逮捕。助けた子も参考人として警察に呼ばれてるよ」

 何で夜中に飛び出して行った明日香をすぐに追い駆けなかったのだろう。あのときの僕は確かに混乱していた。

 明日香からは泣き顔で告白のようなことをされ、その直後に冷たい表情の有希に奈緒のことで責められもした。

 そのこともあって、有希が帰ったあとは奈緒のことで頭が一杯で明日香のことまで気が回らなかったのだ。

 それに明日香が夜出歩いていることに慣れてしまっていたこともある。

 僕は明日香が夜遊びをしていることを当然ながら知っていた。そして明日香が夜遅くなるのは、両親が不在か帰宅が遅くなるとわかっている夜に限られていた。

 だから僕たちの両親は、明日香の外見や成績を憂うことはあっても、高校生の明日香の夜遊びには気がついてはいなかったのだ。

 そのこと自体だって僕の責任なのだ。

 僕は明日香とトラブルを起こすのが嫌だったから、明日香の夜遊びを注意することも、それを両親に言いつけることもしなかった。

 両親が明日香の夜遊びを知ったら、いくら子どもたちには寛容な父さんも母さんも明日香に注意していただろう。

「父さんたちは?」

「こちらに向かってる。もう来るでしょ」

 そのとき救急治療室の引き戸が開いて中から白衣の一団が姿を現した。

 ちょうどタイミングを合わせたように、両親が真っ青な顔で救急病棟に飛び込んで来た。

 子どもたちの前ではいつも呑気そうな父さんと母さんのこんな必死な様子を僕は初めて見た。

 それでも父さんは動転している様子の母さんの手をしっかりと握って、その身体を支えるようにしている。

 叔母さんは父さんと母さんを、ちょうど救急治療室から出て来た医師のところに連れて行った。

 医師が手早く父さんたちに明日香の容態を説明した。その話はさっき僕が叔母さんから聞かされたことと同じ内容だったけど、医師はこう言った。

「お嬢さんは少し精神的にショックを受けておられますけど、幸いなことに外傷は軽微なものでした。もちろん命に別状もないし外傷も後には残らないでしょう。もう処置も終っていますので、念のために一晩入院して容態に変化がないようでしたら明日には退院してもらって大丈夫ですよ」

 叔母さんの説明と順序を逆にしただけだけど、その医師の説明を受けて両親は少し安心したようだった。

 外傷は大したことはないけど精神的にはショックを受けているというのと、精神的なショックはあるものの外傷は大したことはないという説明では受ける印象がまるで異なる。

 救急病棟に努めていると悲嘆にくれ動転している家族の扱いも上手になるのだろうか。

 医師は少しだけ両親を安心させると、明日香が目を覚ましたら面会していいと言い残して去って行った。

 医師が去って行くと今度は地味なスーツを着た体格のいい男が二人、両親に近づいて来た。

 僕はその人たちがこの場にいることにこれまで気がついていなかった。

「結城明日香さんのご両親ですね」

 片方の男が言った。

「所轄の警察署の者です。この事件のことをお話しさせてもらいますので、その後で何か事情をご存知でしたらお話ししていただけますか」

 その人は何かやたらていねいな言葉遣いだったけど、それはその人の外見には全く似合っていなかった。

 話しかけてきた男の人ももう一人の黙って立っている方の人も、体格がいいだけではなく目つきや表情も鋭い。

 高校生の不良のトラブルなんかを相手にしているよりは、暴力団とかを相手にしている方が似合っている感じの男たちだった。

 僕たちは救急病棟の待合室の隅でソファーに座った。

 自己紹介した男は明徳警察署の生活安全課の平井と名乗った。

「先にいらっしゃったご親戚の、ええと・・・・・・そう、神山さんにはお話ししたんですが、娘さんは昨日の夕方から夜にかけて、繁華街をあっちこっちある行きまわっていたみたいですね。その途中で知り合いの高校生の男に出合って、自分のアパートに来ないかと誘われてついて行ったみたいです」

 両親は身じろぎもせず警察の平井さんの話に聞き入っていた。医者の話で一瞬安心したようだった二人の表情はまた緊張してきたようだ。

「そいつはそこで一人暮らしをしいるんですがその部屋でお嬢さんは、その・・・・・・」

 平井さんは気を遣ったのか少し言いよどんだ。

「つまりそいつに乱暴されそうになって大声を出して抵抗したところ、黙らせようとした犯人から殴られたらしいです」

「・・・・・・大丈夫ですか」

 一応の礼儀としてか平井さんは青い顔の両親を気遣うように言った。

 もしかしたら警察のマニュアルにこういうときはそうしろと書いてあるのかもしれないけど、いずれにせよ平井さんには心から両親を気遣っているような感じはしなかった。

「大丈夫です。続けてください」

 父さんがそう言って母さんの手を握りしめた。

「犯人は飯田聡。都立工業高校の二年生ですが、お心当たりはありますか」

 父さんと母さんは顔を見合わせた。

「いえ。聞いたことがありません」

 そこで父さんは思い出したように叔母さんと僕の顔を見た。

「君たちは聞いたことあるかな?」

「ないよ」

 僕と叔母さんが同時に言った。それでは犯人は明日香の前の彼氏のイケヤマではなかったのだ。

「幸いなことに飯田がお嬢さんにさらに暴力を振るおうとしたときに、お嬢さんと飯田の知り合いが偶然に尋ねてきたらしいのです。大方そいつも飯田の同類だと睨んでいるんですけどね。でも、どういうわけかそいつは飯田を力ずくで止めて警察に通報してきたんですよ。だからそいつがお嬢さんを救ったということになるんでしょうね」

「そうですか。その方にお礼を言わないといけませんね」

 父さんが言った。

「いや。とりあえずそれは待ってください。結果的にお嬢さんを救った男は、そいつの名前は池山博之というんですけど、警察では池山と飯田に対しては前から目をつけてたんですよ」

 平井さんはあっさりと明日香の恩人である池山のことを切り捨てた。

「まあ不良というと聞こえはいいけど、こいつらはもっと悪質なこともしていたらしいんでね」

 では池山は不良どころか本当の犯罪者だったのだ。

 明日香がどうして池山なんかと付き合い出したのかはわからないけど、明日香をそういう方向に追いやった責任の一端は僕にもある。

「今、飯田は現行犯逮捕されていますし、池山の方は参考人と言うことで署で任意で事情聴取しているところです。ですから飯田と池山の聴取が済むまでは池山に接触したりお礼とかしない方がいいですよ」

「でもその方は娘を助けてくれたんでしょう」

 父さんが不思議そうに聞いた。

「結果的にはそうなります。でも、池山の動機だって善意かどうかなんてわからんのです。もしかしたら池山と飯田はお嬢さんを取り合っているライバルだったかもしれないですしね」

 父さんと母さんはもう話についていけなくなっていたようだ。

 無理もない。確かに明日香は服装を派手にしていたし、僕に対しては反抗的な態度だったけど両親とはそれなりに真面目に向き合っていたのだ。

 仕事が多忙な両親は、結果的に明日香を放置している状態だったので明日香の行動はここまでエスカレートしてしまったのだけど。だから明日香が警察から目を付けられているような連中と知り合いだということは、両親にとっては青天の霹靂のようなものなのだろう。

「飯田や池山は不良というよりはギャングに近い。それだけのことはしてきていると我々は思っています。だから今回のことはお嬢さんには気の毒でしたけど、飯田たちの犯罪を洗い出すいいチャンスなんですよ」

「そして叩けば決して池山だって真っ白というはずはありませんしね」

「あとお嬢さんが何であんな不良たちと知り合いだったんですかね。普通の家庭の真面目な高校生の女の子が知り合いになるような連中じゃないんですけどね」

 平山さんは少し探るように両親を見たけど、途方にくれているように両親も叔母さんもも黙りこくっていた。

「結城さんですか?」

 そのとき若い看護師さんが僕たちの方に向かって声をかけた。

「はい」

 刑事の話にショックを受けたのか返事すらできなかった両親に代わって叔母さんが返事した。

「明日香さんが目を覚ましました。先生の許可が下りたので面会できますよ」

「はい。奈緒人行こう」

 叔母さんが言った。父さんたちも目を覚ましたかのように立ち上がった。

「ああ、結城さん。いずれお嬢さんにも事情を詳しくお聞きすることになりますから」

 言葉はていねいだけど、そのときは平井という刑事の言葉はまるで嫌がらせのように聞こえた

 

 明日香は病室の個室のベッドに横たわっていた。外傷は大した怪我ではないと聞いていたのだけど、目の当たりにする明日香の顔には包帯やガーゼが痛々しいくらいに巻かれていた。

 明日香は僕たちに気づいた。

「ママ。ごめんなさい」

 明日香が最初に言った言葉がそれだった。

 母さんは黙ってそっと明日香の体を抱きしめるようにした。

 母さんの目には涙が浮かんでいた。それからこれまで医師や刑事の話には一切反応しなかった母さんは初めて声を出した。

「明日香、そばにいてあげられなくてごめんね。あたなを守ってあげられなくてごめんね」

「ママ」

 明日香も包帯が巻かれた片腕を母さんに回した。もう片方の腕は点滴を受けていたので動かせなかったのだろう。

「ママ。今までいろいろごめんなさい。でもママのこと大好きだよ」

 母さんも泣きながら明日香を抱きしめて声にならない言葉を発しているようだった。

 これから明日香の危うい交友関係が明らかになるのだろうけど、でも明日香と母さんはもう大丈夫だと僕はそのとき思った。

「パパにも心配させてごめん」

 明日香は父さんの方を見た。

「うん。明日香が無事ならそれでいいんだ」

 父さんも明日香の自由になるほうの手に自分の手を重ねて言った。

 そのときノックとほぼ同時にスライドするドアが開き、看護師と事務の職員らしい女性が顔を出した。

「すみません。面会が終わったらでいいですけど、入院の手続きをお願いできますか」

「あたしが行くよ」

 両親が何か言う前に叔母さんが言った。

「玲子、悪いけどよろしく」

 母さんが奈緒を見つめたままそう言った。

奈緒人も一緒に来て」

 僕が行ったって役には立たないと思うけど、叔母さんに促されて僕は一緒に病室を出て、病院の広いロビーに移動した。

「三人にしてあげた方が、奈緒も素直にいろいろ話せるでしょ」

 叔母さんが僕の耳元でささやいた。

 そういうことか。

 叔母さんがいろいろと手続きをしている間、僕は叔母さんからお金を渡され、病院の売店に行くように言われた。テレビを見るのに必要なカードやイヤホン、箱に入ったティッシュやプラスティックのカップなどを買う必要があるのだった。

 売店の人の助言に従って入院に必要な一式を買いそろえてロビーに戻ると、入院に必要な手続きをしていたはずの叔母さんの姿はなかった。

 しばらくきょろきょろと周囲を見回してみたが、見つからない。手続きを終えて明日香の病室に戻ったのだろう。

 明日香の病室の前に立って、しばらく中の様子をうかがっていると、スライドするドアが開いた。

「全部買えた?」

「うん。これおつり」

「ご苦労さん。それより奈緒人、明日香があんたと話したいって」

「うん。父さんたちは?」

「仕事に戻ったよ。今日はずっと明日香に付いてるって言ったんだけど、明日香が自分は大丈夫だから仕事に戻ってって」

 こんな状況なのに明日香は両親の仕事を気遣ったようだった。

 これに関しては他の人にはわからないかもしれない。でも僕と明日香には両親の仕事を優先することは当然のことだった。

 我が家の生活が成り立っていたのは、両親が昼夜なく仕事をしているせいなのだ。

 もちろん寂しく感じないなんてことはない。でも寂しくたってやることはやらないと僕も明日香もここまで生き抜くことすらできなかっただろう。

 だから普段の家事や身辺の雑事にしても、他の同級生たちと比べたら遊びまくっていた明日香ははるかによくやっていた方だと思う。

 明日香は自分がこんな仕打ちにあった時ですら両親の仕事を心配している。

 半分くらいは自業自得と思わないでもないけれども、その動機には疑いの余地はない。明日香の行動は全て僕のことを思いやってのことだったのだ。

「とにかく病室に戻ろう」

 叔母さんが僕を急かした。

 病室に入ると僕に気がついた包帯だらけの明日香が、点滴を受けていない方の手を僕に向かって伸ばした。

 僕は差し出された明日香の手を握りながらベッドの脇の椅子に腰掛けた。

「ごめん」

 最初に明日香はそう言った。さっき明日香が母さんに話しかけたときと同じ言葉だけど、言葉に込められた意味はきっとそれとは違っていたのだろう。

「いや。おまえが無事ならそれでいいよ」

 明日香が僕の手を握っている自分の手に力を込めたけど、それはずいぶん弱々しい感じだった。

「あたしね、いきなり飯田に話しかけられたの。奈緒のことで話しておきたいことがあるから俺の部屋に行こうって」

 奈緒のこと? 

 何で飯田とかいうやつが奈緒のことを、僕の妹のことを知っているんだ。

 明日香の男友だちには、直接奈緒との接点はないはずだ。

「何で飯田がそんなことを知っているのか気になったから、あたしつい飯田の部屋について行って」

「うん。そこはもう詳しく言わないでいいよ」

 僕は明日香を気遣ったけど、明日香はかすかに顔を横に振って話を続けた。

「それで、部屋に入ったらいきなりベッドにうつ伏せに押し倒されて、手を縛られて、あたしが抵抗したらすごく恐い目で睨まれて何度も顔を叩かれたの」

 明日香は低い声で続けた。

「・・・・・・もういいよ」

「うん。そしたらいきなりドアが開いて池山が入ってきて飯田に殴りかかって、あっという間に飯田のこと殴り倒しちゃったの」

 それでは池山が明日香を助けたというのは嘘ではないのだ。

「池山はあたしの手を解いてくれて、すぐに家に帰れって言ったの。これから警察に電話するし巻き込まれたくなければすぐにここから出て行けって」

「そうか」

 自分の別れた女を飯田から救うことくらいは理解できる話ではある。でも警察に電話するなんていったいどういうつもりだったのだろう。

 個人的に飯田のことをぼこぼこにするくらいはあの金髪ピアスの男ならやりそうだ。でも警察にチクルなんて池山らしくない。

「あたし、本当にもう池山のことなんて何とも思っていないんだよ。あたしが今好きな人はお兄ちゃんだけだし」

 突然の明日香の告白に僕は狼狽した。背後で立っているはずの玲子叔母さんのことも気になった。

「でもね、あたしが逃げちゃったら池山が飯田を一方的に殴った犯人にされるかもしれない。あたしは池山に助けられたんだから、そこにいて証言しなくちゃって思ったの」

 明日香が言うには池山は何度も早く家に帰れと言ったらしい。自分のことは構わないから、おまえはこんなことに関わりになるような女じゃないからと必死な表情で。

「・・・・・・前から池山はあたしのことを過大評価していたから。あたしが清純で穢れのない女の子だと思い込みたかったみたい」

「もういい。わかったから。今はもう思い出すな。辛いだろ」

 明日香僕の手を一端離した。

「もっと近くに来て。お兄ちゃん」

 僕が言われたとおりにすると、明日香は片手で僕の腕に抱きつくようにした。明日香の顔が僕の顔のすぐ横に来た。

「お兄ちゃん聞いて」

「・・・・・・席外そうか」

 叔母さんが聞いた。

「いい。叔母さんも聞いてて」

「いいのかよ」

 叔母さんが戸惑ったようにぶつぶつ言った。

「お兄ちゃん、今度こそ真剣に言うね。あたしお兄ちゃんにはいろいろ辛く当たってきたけど、本当はお兄ちゃんのことが好き」

 僕の頬に触れている明日香から湿った感触がする。

「あたし、奈緒のこと大嫌いだった。昔、お兄ちゃんの愛情を独占していて、今またお兄ちゃんを惑して傷つけようとしているあのビッチのことが」

奈緒はそんな子じゃないよ」

 僕は辛うじて反論した。

「うん。今にして思えばそうかもしれないね。あたしは多分、奈緒に嫉妬していたのかもしれない」

「どういうこと」

「十年以上も会っていないのに、久しぶりに一度だけ会っただけでお兄ちゃんを夢中にさせた奈緒に、あたしは嫉妬していたんだと思う。あたしが素直になって自分の気持ちに気がついたのは、お兄ちゃんと奈緒が付き合い出してからだったし」

「明日香」

「返事は急がない。でもあたしはお兄ちゃんとは血が繋がっていないし、奈緒と違ってお兄ちゃんとは付き合えるし結婚だってできるはず」

「結婚って」

「例え話だよ。あたし飯田に乱暴されそうになったとき、お兄ちゃんのことが頭に浮かんだの。池山でもなくママでもなく」

 明日香は僕から顔を離して僕の顔を見た。顔には痛々しく包帯が巻かれていたけど、それは何かの重荷を降ろしたような幸せそうな表情だった。こんな明日香は初めてだった。

「あたしが好きなのはお兄ちゃんだけ。でも返事は急がないからよく考えてね」

「・・・・・・明日香」

「そろそろ検診の時間ですから、面会時間はここまでですよ」

 そのときさっきの看護師が部屋に入って来て言った。