yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第1部第10話

今日は僕にとってはとても長い一日になってしまった。

 さっき渋沢と志村さんに、明日香と手をつないでいるところ不思議そうに見られて、戸惑いを感じたことが、随分昔のことのように思えてくる。

 明日香は、叔母さんと別れて集談社のビルから出た途端、どういうわけか僕の手を離した。

 そのとき僕は、すごく心細く感じたのだけどそれは一瞬だけだった。僕の手を離した明日香は再び手を握りなおした。今度は指をからめる恋人つなぎだった。僕は奈緒とだってこんな風に手をつないだことはない。

「おい」

「いいから」

 明日香が思わず引っ込めようとした僕の手を捕まえた。

 今こうして、帰りの電車の中で並んで座っている僕と明日香を渋沢たちに見られたとしたら、さっきのように見過ごしてくれることすらないかもしれない。

「お兄ちゃん、無理しないでいいよ。いろいろこないだから展開も急だったし不安なんでしょ?」

「確かにきついことはきついけどさ」

「じゃあ遠慮しないであたしに頼りなよ」

 電車を降りて夕暮れの住宅街を自宅に向かって歩いているときも、明日香は僕にぴったりと寄り添ったままだった。

 僕は安堵感と同時に罪悪感が膨れ上がっていくのを感じた。

 やがて僕たちは真っ暗な自宅の前に帰ってきた。

「あのさあ」

 僕は今まで以上に僕のそばに寄り添ってきた明日香に言った。

 今、明日香を失ったら僕はどういう状態になるのかわからない。その恐れは僕の中に確かにあったのだけど、いつまでも妹を僕の犠牲にするわけにはいかない。

「おまえもあんまり無理するなよ」

 明日香が僕の言葉に凍りついたようだった。僕の手を握る明日香の手に込められた力が弱々しくなっていった。

「確かに今の僕は情けない兄貴だし、明日香に頼って何とか心の平穏を保っている状態なのはわかっているんだけどさ」

「だ、だったらもっとあたしに頼っていいよ。言ったじゃん? あたしはもう二度とお兄ちゃんを一人にはしないって」

「おまえには無理をして欲しくないんだよ。父さんのためにも母さんのためにも」

「・・・・・・何言ってるの」

「おまえはずっと僕を守ろうとしてくれてたんだろ? 僕が奈緒と付き合い出したのを知ったときから」

「そのためにおまえ、彼氏とも別れて友だちとも縁を切ったりしたんだろ」

「お兄ちゃん」

「・・・・・・おかしいとは思っていたんだ。あれだけ僕を嫌っていたおまえが、僕のことを好きだって言ったりいきなりその・・・・・・キスしたりとかさ」

「それは」

「・・・・・・僕の気持ちを奈緒からおまえに向けさせようとしてくれていたんだね。真実を知ったときに僕があまり傷つかないように」

 明日香が驚いたように目を見開いた。

「お兄ちゃん、すごく具合悪そうだったのに、ファミレスであたしと叔母さんが話していたこと、覚えてたんだ」

「おまえの気持ちはよくわかったよ。ありがとな」

「お兄ちゃん・・・・・・」

「もう大丈夫だから。もう僕のことなんをか好きな振りをしてくれなくても平気だからさ」

「何言ってるの?」

「何って。おまえは僕が奈緒のことを忘れられるように、僕のことが好きな振りをしたりそのために彼氏と別れたりとかしてくれたんだろ?」

 明日香が僕の手を離した。そして泣き笑いのような複雑な表情を見せた。

「・・・・・・・鈍いお兄ちゃんにしてはよく見抜いていたんだね」

「まあね」

「あたしさ、お兄ちゃんにまだ謝っていないの」

「謝るって?」

「今までお兄ちゃんのことを一方的に嫌ったり辛く当たったりしてごめんなさい」

「・・・・・・うん」

「あたしさ。何かママとパパが、お兄ちゃんのことばっかり大切にしているように思えて面白くなくて」

「うん。わかってる」

「でもね。でも・・・・・・そうじゃないんだ」

 明日香はやがて涙を浮かべた。

「・・・・・・どういうこと?」

「あたし気がついたんだ・・・・・・奈緒がお兄ちゃんのことを誘惑してるってわかったときに」

「気がついたって?」

「あたし以外の女にお兄ちゃんが傷つけられるのがすごく嫌だって。本当にお兄ちゃんのこと嫌いだったら、誰がお兄ちゃんを傷つかせたって関係ないはずなのにね」

「・・・・・・うん」

「お兄ちゃんの言うとおり、あたしは最初は自分だけがお兄ちゃんの味方をしなきゃと思った。これまで辛く当たったってこともあるけど、お兄ちゃんにはあたししか味方がいない。少なくとも奈緒とのことを知っていて、お兄ちゃんを守れるのはあたしだけだって思ったから」

「それはわかったよ。でも、もういいんだ。僕のことでおまえが彼氏と別れたり、無理してずっと僕の隣にいてくれなくてもいいんだ。そんなことをされると僕のほうが辛く感じるよ」

「そうじゃないの!」

「そうじゃないって?」

「確かに最初は、お兄ちゃんが言うように義務感からだった。お兄ちゃんを守れるのはあたしだけだと思っていたし、あたしはお兄ちゃんを奈緒から守るためなら、お兄ちゃん好みの女にもなるし、イケヤマとだって別れてもいいと考えた」

「うん」

「でも今は違うの」

 明日香は必死な声で言った。

「違うって何が?」

「あたし、お兄ちゃんをあたしの方に振り向かせようとしているうちに気がついちゃったの。奈緒のこととか関係なくても、あたしはお兄ちゃんが好きなんだって。あたしにとってお兄ちゃんは運命の人なんだって」

 裸で抱きついてきたり、僕のベッドに潜り込んできたりした明日香だけど、ここまで真剣な顔で彼女に見つめられたのは初めてだった。

 ひょっとしたら以前の嫌がらせも含めて、最初から明日香は僕のことを異性として愛していたのだろうか。

「それは明日香に都合がよすぎる話だよね」

 そのとき、自宅の玄関前の暗がりから声がした。

 声に続いて有希が暗がりから道の方に出てきて、街灯に照らされた彼女の白い顔がぼんやりと浮かび上がった。

「明日香、それに奈緒人さんも今晩は」

 有希が笑顔で僕たちにあいさつした。

「どうしたの? 明日香、大丈夫?」

「有希、いつからいたの」

 明日香は震えた声で言った。動揺をを隠せない様子だった。

「三十分くらい前からいたよ。ちょっと用があって待ってたんだけど」

 穏かな様子で有希が答えた。

「あの・・・・・・あのさ。あたしたちが喋ってた話、聞こえてた?」

「ううん。誰かが来たなあって思ってぼうっとしてたら明日香と奈緒人さんだった。帰ろうかと思っていたところだから、都合がよかったって言ったんだけどさ。ちょっと時間ある?」

「えと、ごめん。ちょっと家族の悩みの話とかあってさ。また電話で話すんでもいいかな」

「すぐに済むと思うよ。奈緒人さんに聞きたいことがあるだけだから」

 有希が僕の方を見た。僕はどういうわけか緊張して有希の顔を見た。

奈緒人さん」

「うん」

「お二人は家族の問題とやらで忙しいみたいだから、時間を取らせちゃ悪いよね。だからはっきりと言うけど、奈緒人さんは奈緒ちゃんの彼氏だっていう自覚はあるの?」

「有希には関係ないでしょう。そんなのはお兄ちゃんと奈緒の間の話じゃない。何で有希がそんなことを聞くのよ」

 明日香は有希の話を聞くうちに動揺から脱したようで、逆に有希に対して不機嫌をむき出しにした。

奈緒ちゃんに頼まれたの。今の彼女、ぼろぼろで正直に言って見ていられなかったし。奈緒人さんに突然会えなくなって、LINEも既読にならなくなってさ。奈緒ちゃんが今どういう状態なのか、奈緒人さんはわかってる?」

「・・・・・・有希にはわからない事情だってあるんだよ。何も知らずに口出すのやめてよ。お兄ちゃんにだって事情があるの」

「ちょっと黙っていてくれるかな。あたしは今は奈緒人さんに聞いているんだけど」

 有希は奈緒のことを本気で心配しているのかもしれない。それなら、ここは適当に誤魔化すわけにはいかないだろう。僕はそう思った。

「君には詳しくは言えないけど、もう僕は奈緒と付き合わない方がいいんだ。その方が奈緒のためでもあると思う」

「確認するけど、奈緒人さんはもう奈緒ちゃんと付き合い続ける気はないのね」

「うん。そうだよ」

「それでその理由を奈緒ちゃんに話す気すらないと」

「その方が彼女のためだから」

「何言っているのかわからないけど。そっちがそういう態度なら、あたしにも言いたいことがあるんだけど」

 有希は、ついに友好的な態度で振舞うことを放棄して、僕を真っ直ぐに睨んだ。

奈緒ちゃんを振った理由って、まさか明日香と付き合うからじゃないでしょうね」

 明日香の告白を聞く前なら即座に否定できただろうけど、さっきの話のあとなので、一瞬なんと答えていいのかわからなくなってしまった。

 僕が黙っているのを見て有希は、

「やっぱりね。あたしは兄妹の禁断の告白タイムを邪魔しちゃったのか」

と、僕と明日香をあざ笑うように言った。

 その様子は、僕が知っている有希の姿とは全く違う。

「ちょっと有希、いい加減にしなよ」

 明日香が割って入った。

「ねえ明日香ちゃん」

 有希は猫なで声を出した。ちゃんづけまでして。「明日香ちゃんはあたしに言ってくれたこと覚えてる? 多分、奈緒人さんには秘密だったんだろうけど」

 明日香が怯んだように黙った。

「あたしの方が奈緒ちゃんより奈緒人さんの彼女にふさわしいって、しつこいくらいあたしに言ってくれたよね? あと奈緒人さんに電話しろとかおせち料理の買出しにかこつけて奈緒人さんとデートしろとかさ」

 もう有希は僕の方を見なかった。

「あたしを利用してまで、奈緒人さんと奈緒ちゃんを別れさせた理由って何? あたしは別に怒ってはいないよ。あたしには話せない事情があるみたいだし、明日香ちゃんが奈緒人さんと奈緒ちゃんのためなら、あたしが傷付いてもしかたないと判断したんだったら、あたしは辛いけど明日香ちゃんを恨んだりはしない」

 もちろんこれは有希の嫌がらせだったのだろう。恨んだりしないわけがない。その憎しみが、冷静を装った有希の声色に溢れていると僕は思った。

 明日香は、うつむいたまま一言も反論しなかった。

「でも、これだけは聞かせて。まさかとは思うけど、奈緒ちゃんを奈緒人さんから別れさせようとした理由って、明日香ちゃんが奈緒人さんのことを好きだったからじゃないよね?」

 明日香は追い詰められた小動物のように僕の方を見た。

 次の瞬間、明日香は突然身を翻して駆け去って行った。

 有希は別に驚く様子もなかった。

「安心してね。この間、あたしが奈緒人さんが好きですって言ったのは嘘だから。何でって顔してますね。明日香ちゃんにけしかけられたからだよ。うちのお兄ちゃんを奈緒から盗っちゃいなよって。面白そうだから途中までその話に乗ってみたけど、あたしが本当に親友を裏切るって明日香は思ったのかしらね」

 有希は身をひるがえして歩き始めた。そして一瞬だけ立ち止まって僕の方を振り返って見た。

「じゃあ、あたしは帰るね。さよなら奈緒人さん」

 

 その晩、結局明日香は帰って来なかった。

 明日香の帰宅が深夜になること自体は、今までだって珍しいことではない。特に両親が泊まりで帰宅できないとわかっていたときには、頻繁にあったことだった。

 でも、明日香が深夜に帰宅しないのは、いい妹になると僕に宣言してからは初めてのことだった。

 どこにいるのかを問いかけるLINEを明日香にいくら送っても既読にならない。

 得体の知れない不安を感じた僕は、以前と違ってさっさと一人で就寝することもせず、リビングでひたすら妹の帰りを待った。

 ただ待っているよりは外に出て探しに行こうかと思ったけど、探すにしても当てがなさ過ぎる。明日香が立ち寄りそうなところなんか、それこそ有希の家以外には考えつかない。

 だからやはり僕にできることは自宅で明日香の帰りを待つことくらいだった。

 さっき有希が曝露した話、明日香が有希に対して僕と仲良くなるようけしかけていたというのは初耳だった。

 有希は、僕が奈緒に連絡しない原因が明日香にあると思い込んでいるようだ。明日香が奈緒から僕を取り上げようとしているとも思っているのかもしれない。

 有希の話が事実だとすると、明日香は有希に対して、僕に告白するようにけしかけていたということになる。

 それについては、有希に対して申し訳ないとは思うけど、仕掛けた明日香に対して、僕が怒りや嫌悪を感じることはなかった。

 なぜなら、明日香の行動の動機は、僕が実の妹と恋人同士になったことを知ってショックを受ける前に、僕の気持ちを奈緒から離すことにあったのだから。

 そのためには、僕が好きになる女の子が自分でも有希でも、どちらでもいいと彼女は考えたのだろう。

 それでも明日香は有希の言葉にショックを受けた。だから、明日香に利用された有希の腹いせというか復讐は、少なくとも明日香に対しては功を奏したようだった。

 明日香は、自分が有希を利用しようとしたことを、僕に聞かれたくなかったのだろう。

 それに加えて、自分の一連の行動が僕を好きになったからという利己的な動機で行われたと、僕に思われたと思いこんでパニックに陥ったのではないか。

 僕は明日香の行動は僕のことを思いやってのことであって、利己的な動機ではないと信じているのに。明日香は結果として僕を好きになったかもしれないけど、自分の恋愛の成就のために行動したわけではないのだ、

 リビングでうろうろしながら、ずっと彼女の帰りを待っていた僕は、日が変わる頃になってついに明日香の帰宅を待つことを諦め、夜中に一人眠りについた。

 

 翌朝になって、開け放されたドア越しに明日香の部屋を見ても、階下に降りても明日香の姿は見当たらなかった。

 以前ならよくあることだけど、事情が事情なので、さすがに不安になった僕は立ちすくんで考えた。探す場所に有希の家以外で心当たりがあるとすると、叔母さんのマンションだったが、昨日別れ際に、叔母さんは今夜は徹夜で仕事だと言っていたので、叔母さんの家にいるはずはない。そうするともう心当たりは思いつかなかった。普段の明日香の生活に無関心だったからだ。

 とりあえず、駅の方へ行ってみようと僕は思った。

 明日香の通っている学校は、家から歩いて行ける距離の公立高校で、駅の近くにある。明日香は通学時間だけでその高校を選んだらしい。

 制服を着ていないので、学校には行っていないだろうけど、駅前を探せばひょっとするといるかもしれない。

 今日は自分の大学に講義を受けに行く気にはなれなかった。

 

 駅に向かう途中の高架下に奈緒が待っていた。僕が彼女の姿を認めた瞬間、奈緒も近づいてくる僕を見つけたようだった。僕たちの視線が交錯した。

 奈緒を見るのは久しぶりだった。冬休みが始まる前の最後の登校日以来だ。

 このとき、僕の胸からは明日香のことを心配する気持ちが消え去り、頭の中にはそこに立っている奈緒への想いだけが満ちていった。

 やっぱり奈緒は可愛い。外見だけで判断するなら、明日香よりも有希よりもはるかに可憐な容姿だ。

 登校前なのだろう、彼女は富士峰のセーラー服に身を包んでいた。

 逃げるわけにもいかず、僕は麻痺したような機械的な足取りで奈緒の方に近づいていった。

「おはようございます」

 奈緒が僕を真っ直ぐに見つめて言った。緊張している様子だったけど、それでも彼女は僕から目を逸らそうとはしなかった。

「・・・・・・おはよう」

 僕はなんとか彼女に返事をすることができた。感情は乱れているけれど、今のところパニックの症状が襲ってくる様子はなかった。

「・・・・・・途中まで一緒に登校してもいいですか」

 奈緒の言葉に僕は黙ってその場にたちすくんだ。

「それとも、それすら今では奈緒人さんには迷惑ですか」

 奈緒が言った。震えそう声、付き合い出したばかりの頃のような敬語。

 それは僕の中に、奈緒のことが可愛そうでどうしようもないような、切ない感情を呼び起こした。でもここで気を緩めるとかえって奈緒を不幸にするのだ。

 ・・・・・・こういう心理的な傷を心に負うのは僕だけでいいのだ。

「何か用かな」

 僕は感情を極力抑えて奈緒に答えた。

「昨日の夜、有希ちゃんから電話がありました。奈緒人さんは、もうわたしとは付き合う気がないって有希ちゃんは言ってました」

「そう」

「本当なんですか」

 奈緒の真っ直ぐな視線が僕を捉えた。

「うん。本当だよ」

 どんなに辛くてもここで誤魔化してしまったら意味がない。

 明日香や叔母さんは、僕はもう奈緒とは会わない方がいいと言った。

 僕は二人の言葉に従ったけど、僕が大晦日の夜以来これまで奈緒に連絡しなかったのは、二人が心配してくれたように、僕自身がこれ以上傷付くことを恐れたからではない。

 このまま奈緒と付き合っていたら、いつか傷付くことになるのは奈緒だった。

 好きになって、初めて付き合った相手が実の兄だということを知ったら、奈緒は僕と同じく精神を病むほどのショックを受けるだろう。

「わたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そうしたらわたしのこと嫌いにならないでいてくれますか」

 奈緒が装っていた平静さは既に崩れてしまっていた。両目に涙が浮かんでいる。

「そんなことできるわけないでしょ。将来を期待されている君が突然ピアノを止めるなんて」

「できますよ。それで奈緒人さんが別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾きません」

「・・・・・・もうこういう話はやめよう」

 奈緒だけではない。僕ももう泣きそうな気持ちだった。

「わたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて、奈緒人さんと冬休みに会わなかったからなんでしょ」

 奈緒が縋りつくような目で僕を見上げた。

「そんなんじゃないよ」

「じゃあせめて何でわたしのことを嫌いになったのか教えてください。このままではわたし、どうしていいのかわからない。もう何も考えられない」

 ついに奈緒は泣き出した。

 結局こうなるのだ。

 でも自分が僕の妹だとわかるよりも、不誠実な初恋の相手に、訳もわからないで振られた方が奈緒にとってはまだましだろう。

 失恋の痛みはいつかは癒える。それに僕とは違って彼女には、次の恋の相手にはこと欠かないだろうし。

 僕はそう考えようとしたけど、目の前で泣いている奈緒の姿を見ていると、だんだん息苦しい気分になった。

 目の前がぼやけてくる。今目の前で泣いている奈緒の姿が、最近思い出した過去の奈緒のイメージに重なっていった。

 

『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒

『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』

 

 泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。目の前で泣いているのは、母親に放置されて辛い思いをした挙句、大人たちの都合で僕と二度と会えないかもしれないことを知った、あの悲しそうな表情の奈緒だった。そして僕はそのとき奈緒を救えなかった。

 その僕が、再び奈緒を傷つけることになったのだ。

 動悸が速くなりめまいがする。それだけでなく、初めての症状だが呼吸するのが難しくなっている。

 今までで一番症状が激しいパニック障害が訪れたことに気がついて僕は狼狽した。

 目の前が真っ白に光って何も見えなくなる。続いて僕の方を見て泣き叫びながら母親に抱かれ、BMWに乗せられ、遠ざかっていく奈緒の幼い姿が目に映る。

 次に僕は明日香の姿を見た。裸で僕に抱き付こうとしている僕の妹の明日香。

 

『ねえ。これでもあたしってガキなの?』

『あたしを見てどう思った? 何言ってるのよ。本当の兄妹じゃないじゃん。それにそんなことは今関係ないでしょ』

 

 叔母さんの狼狽したような声。

 

奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なの』

 

 そして最後に有希の冷たい表情が目に浮かぶ。

 

『確認するけど、奈緒人さんはもう奈緒ちゃんと付き合い続ける気はないのね。それでその理由を奈緒ちゃんに話す気すらないと』

 

 その場に屈んで頭を抱えながら、必死で辛い連想に耐えていた僕にとって、この辺が限界だったようだ。

 僕は意識が遠ざかっていくのを感じた。それはそのときの僕にとっては、むしろ福音であり救いでもあった。

 気がつくと、僕は高架下のコンクリートの路面に横になっていた。体はコンクリートの冷たさで冷え切っているようだけど、僕の顔は路面ではなく、奈緒の柔らかい膝の上に乗っていた。

 奈緒の両手が僕の体に回されていた。

 冷たい路面に座り込んで膝枕しながら、上半身を屈めるようにしっかりと僕を抱きかかえている奈緒の顔は、驚くほど僕から近い距離にあった。

「大丈夫?」

 奈緒が僕を抱く手。明日香が同じことをしてくれた時よりも心が安らいだ。

「気持悪くない?」

「僕はどのくらい気を失ってたの?」

「ニ、三分かな」

 では僕が気を失っていたのは、ほんのわずかの間だけだったらしい。

 僕は体を起こそうとしたけど、奈緒が僕を抱く手に力を込めたので、僕は再び体から力を抜いて横たわった。

「さっき自分が何て言ったか覚えてる?」

 どういうわけか先ほど見せた涙の欠片もなく、穏やかな表情で奈緒が話し出した。僕は奈緒に抱かれたまま考えた。

「全然思い出せない。いろんなことが頭には浮かんだんだけど」

「そうか」

 奈緒の様子がおかしかった。

 それは別に不安になるような変化ではない。でもさっき僕に振られたと思って泣いていた奈緒とは全く違う表情だった。

「わたし、びっくりした。さっきお兄ちゃんはこう言ったんだよ。『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ』って」

「そんなこと言ったのか・・・・・・」

「うん。わたし今まで気がつかなかったの。でもそれを聞いてすぐにわかった。わたしはようやくお兄ちゃんに会えたんだね」

奈緒

「お兄ちゃん会いたかった」

 奈緒が僕を抱く手に再び力を込めて幸せそうに微笑んだ。

 僕はまるで夢を見ているようだ。それは覚めることのない夢だ。

「ずっとつらかったの。お兄ちゃんと二人で逃げ出して、でもママに見つかってお兄ちゃんと引き離されたあの日からずっと」

「・・・・・・うん」

「もう忘れなきゃといつもいつも思っていた。お兄ちゃんの話をするとママはいつも泣き出すし、今のパパもつらそうな顔をするし」

「前のパパも嫌いじゃない。あまり会えないけど、会うたびにわたしの言うことは何でも聞いてくれたし」

「でも。お兄ちゃんのことだけは何度聞いても何も教えてくれなかった」

「わたしね。これまで男の子には告白されたことは何度もあったけど、自分から誰かを好きになったことはなかったの」

「そういうときにね、いつもお兄ちゃんの顔が思い浮んでそれで悲しくなって、告白してくれた男の子のことを断っちゃうの」

「それでいいと思った。二度と会えないかもしれないけど、昔わたしのことを守ってくれたお兄ちゃんがどこかにいるんだから。わたしは誰とも付き合わないで、ピアノだけに夢中になろうと思った」

「でも。去年、奈緒人さんと出合って一目見て好きになって・・・・・・。すごく悩んだんだよ。わたしはもうお兄ちゃんのことを忘れちゃったのかなって。お兄ちゃん以外の男の子にこんなに惹かれるなんて」

奈緒人さんのこと、好きで好きで仕方なくて、告白して付き合ってもらえてすごく舞い上がったけど、夜になるとつらくてね。わたしにはお兄ちゃんしかいなかったはずなのに、奈緒人さんにこんなに夢中になっていいのかなって」

「それでも奈緒人さんのこと大好きだった。お兄ちゃんを裏切ることになっても仕方ないと思ったの。これだけ好きな男の子はもう二度と現れないだろうから」

 ここまで一気に自分の胸のうちを吐露し続けた奈緒がようやく一息ついた。

「でも奈緒人さんはお兄ちゃんだったのね。わたしがこれだけ好きになった男の人は、やっぱりお兄ちゃんだったんだ」

 男女間の愛情とかを超越するほど、ネグレクトされていた僕と奈緒の関係は強いものだったのだろうか。

 僕はその時混乱していた。パニック障害の症状だって治まったばかっりだった。

 でも僕がようやく思い出したシーンにはいつも、幼い大切な妹の奈緒がいたのだ。

「・・・・・・奈緒

「お兄ちゃん」

 奈緒が僕の顔すぐ近くで微笑んだ。

「やっと会えたね、奈緒

「うん、お兄ちゃんにようやく会えたよ」

「・・・・・・奈緒

「もう離さないよ、お兄ちゃん。何でお兄ちゃんがわたしを振ったのかわからないけど、もうそんなことはどうでもいいの。わたしはお兄ちゃんの妹だし、もう二度と昔みたいなあんなつらい別れ方はしないの」

奈緒

 僕は両手を奈緒の華奢な体に回した。

「お兄ちゃん」

 奈緒は僕に逆らわずに引き寄せられた。

 僕と奈緒はそうして周囲を通り過ぎて行く人々を気にせず、抱き合ったままでいた。