奈緒人と奈緒 第1部第8話
「お兄ちゃん、おせち買えた?」
夜になってどこからか帰宅した明日香は、僕に会うとまずそれを聞いてきた。
「買えてない」
「え~、ちゃんとメモ書いたのに。お兄ちゃんは信用できないから、明日香にも一緒に行ってもらったのに」
「・・・・・・予約もなしにこの時期におせち料理なんて買えるわけないだろ。おまえには常識がないなのか」
「そうなの? じゃあお正月とかどうするよ」
「どうって・・・・・・コンビ二とかファミレスなら正月でも営業してるでしょ」
「本気で言ってるの? パパとママも帰ってくるのに。玲子叔母さんだって多分家に来るよ。そん時におせちもなかったら、叔母さんに何言われるかわからないじゃん」
「それは確かに」
叔母さんのことだから、正月はうちを当てにしているに違いない。どうも叔母さんには彼氏もいないみたいだし。
「はあ。でも考えていても仕方ないか。あとでママ・・・・・・は無理か。おせちのことはパパか叔母さんに相談するよ」
「うん。そうして」
突然、有希から告白された直後だというのに、僕は明日香と普通に会話できている。何だか僕が言うのも生意気なようだけど、これまでの人生で全く縁がなかった女の子の告白に対して、いつのまにか耐性ができたみたいだ。
奈緒の告白。明日香の告白。そして今日、有希にまで告白された。明日香はともかく、奈緒と有希の場合は出会ってからたいして間がない時期の告白だった。
でも、奈緒の告白は有希の場合とは違う。
一見すると、ろくに知りもしない可愛い女の子に外見に惹かれて、奈緒の告白に応えたように思えるかもしれないけど、あのとき、わずかな時間だけしか話したことのない奈緒のすべてに心から惹かれたのだった。奈緒が告白してくれるより前から。
「何であたしを無視して考えごとしてるのよ」
妹が不満そうに言った。
『あたしは奈緒ちゃんの友だちだから、奈緒人さんに振り向いて貰おうなんて考えてないし。というか生意気なようだけど、奈緒人さんがあたしのこと好きになってくれたとしても、あたしは奈緒人さんとは付き合えないもん』
『どういうこと? 君の言っていること、さっきからよくわからないんだけど』
「ねえ。ねえってば。お兄ちゃんあたしの話聞いてるの?」
『だって奈緒ちゃんに悪いじゃん。あたしはたとえ親友の彼氏だったとしても、本当にその人が好きになったのなら遠慮しない。そう思ったときも以前はあったのだけど』
『どういう意味?』
『奈緒ちゃんってさ。多分奈緒人さんが考えているよりメンタルが弱い子なんだよ。さっき奈緒人さん、奈緒ちゃんのこと大変なんだなって言ったでしょ。あなたが奈緒ちゃんの行動に関して感じた感想はそれだけなんでしょ。でもね。あれだけ気持ちが弱い子が必死になってピアノに縋りついていることとか、奈緒人さんに依存している意味とか、奈緒人さん何にも気がついていないでしょ』
『あたしはピアノなんかに人生をかけるつもりはないけど。もし仮にあたしがどんな手段でも使ってピアノのコンテストで奈緒ちゃんに勝とうと決心したとしたら、必死にピアノの練習をするとかそういうことはしない』
『あたしなら奈緒人さんを誘惑して奈緒ちゃんを振らせるように仕向けると思う。多分それだけで、奈緒ちゃんぼろぼろになってろくな演奏もできなくなるから』
『・・・・・・変なこと言ってごめん。奈緒ちゃんは親友だから。あたしは奈緒人さんのことが好き。でもそれだけなの。奈緒人さんと付き合う気はないの。ただ自分の気持ちを知っておいてほしかっただけ。ごめんね、変な話しちゃって』
「明日も別に予定ないんでしょ? おせちは無理でも、せめてお正月っぽい食べ物を買い出しに行くからね。荷物持ちよろしく」
妹の言葉がようやく耳に入って、意識の中で形になった。
大晦日の深夜、僕は明日香と二人で初詣に出かけた。いわゆる二年参りというやつだ。明日香が言うには、大晦日の十時ごろ出かけて新年の早朝には家に戻る予定らしい。
大晦日には家に戻って来る予定だった両親からは何の連絡もないし、まともな年越し蕎麦すら用意できず微妙に苛立っていた様子だった明日香は、大晦日の深夜に半ば無理矢理僕を家から連れ出したのだった。
とりあえず、明日香がデパートの地下の食品売り場で何とか揃えてきたそれらしい料理とか、コンビニで買えたぱさぱさの蕎麦でも十分に満足だった僕としては、もう今日は自分の部屋でゲームをしていてもよかったのだけど、明日香にとっては大晦日は何かのイベントがないと納得できない、特別な日のようだった。
行き先は、この日は早朝まで終電に関係なく運行している電車に乗って、三十分はかかる神社だった。
僕たちは最寄の駅から深夜の電車に乗り込んだ。普段なら絶対に電車なんかに乗っていない時間に外出しようとしているだけでも、何か特別なことをしているような気になる。
こんな時間なのに、大晦日の深夜の電車はまるで朝のラッシュ時のように混み合っていたけど、晴れ着を着た女の子たちの華やかな姿が見られたせいで、さっきまで気分が重かった僕まで、少し華やかな気分になっていった。
この時間だけは、奈緒と会えないことや有希の不可解な告白を忘れて、明日香のことを考えてやらなければいけないのかもしれない。
明日香は、今年も例年のように自分の友だちと外出するのだろうと僕は思っていた。
でも明日香は、自分で宣言したとおり以前の派手な友人だちとは、全く会っていないようだった。
考えてみれば、一人で過ごすことがあまり苦にならない僕と違って、明日香は誰かと一緒にいることが好きなたちだ。
僕のために、いい妹になる宣言をしたせいで友だちを無くした明日香は、大晦日に寂しい思いをすることになってしまったのだ。
紅白が終る頃になってもう両親から連絡はないだろうと思ったのか、明日香は突然、ソファに座って眠りそうになりながらテレビを見ている僕を外に連れ出した。
明日香に気を遣った僕は、半ば無理矢理家の外に連れ出されながらも、明日香の気晴らしになるなら悪くないなと考え直したのだ。
深夜の電車の中で楽しそうに笑いさざめく晴れ着姿の女の子たち。車窓を流れる高層ビル街のきらめく夜景。
そして僕の隣には何となく不満そうな顔をした明日香がいる。明日香は以前のような派手な格好はしなくなっていた。そのせいもあって、周囲の華やかな晴れ着姿の少女たちに比べると、だいぶ地味な容姿に見える。
でもそれは明日香のせいではない。振袖なんて、母さんが不在の家で明日香が一人で引っ張り出せるものではないし、着付けだって助けなく自分でできるものではないのだ。
両親が不在では、周囲で笑いさざめいている少女たちが普通にできることも明日香にとっては望むべくもない。
そう考えると僕は自分の妹が少しだけ不憫に思えてきた。奈緒や有希のように、幸せな家庭に育った少女たちなら与えられて当然なことさえ、両親が共働きで多忙な我が家では、明日香には期待することさえ許されていないのだから。
それでも明日香は周囲の女の子たちを気にしている様子もなく、チャコール色のコートを着て僕の腕に掴まっていた。
そして今日のこのときだけは、僕は妹の手を振り払う気はしなかった。今ごろはきっと奈緒だって、今日ばかりはハードなピアノのレッスンから開放され家族で団らんしているのだろう。多分有希も。
有希に奈緒に対する愛情を疑われたり、有希の告白めいた言葉を聞かされた僕は混乱していたけど、それでも明日香と二人だけで大晦日をリビングで過ごしていると、僕なんかと二人きりで過ごすしかない明日香に対する憐憫のような気持ちが、まるで拭いきれない染料が白紙を染めていくように僕の心に広がっていった。
去年の大晦日はどうだったっけ。
確か去年も両親はいなかった。そして去年の大晦日は、僕たちが本当の家族でないということを両親から聞いた直後だったせいもあって、僕は自分の部屋で一人で過ごしたし、そのことにほっとしていたことを思いだした。
その頃は、明日香もまだイケヤマとかいう男と付き合う前だったし、派手な格好で遊びだす前だったので、多分妹も一人で自分の部屋で過ごしていたはずだ。
お祭りごとの好きな明日香が、両親不在の夜に一人で自室に閉じこもって何を考えていたのかはわからない。でもあの話の直後のことだ。明日香もきっと辛かっただろう。その時の僕には明日香を思いやるような余裕はなかったのだけど。
そう思うと奈緒に会えない自分の悩みは消えていって、明日香の悩みに無関心だった自分に腹が立った。
そのせいか、僕は思わず混み合った電車の中で僕にしがみついている妹を、心持ち自分の方に抱き寄せるようにした。
「お兄ちゃん?」
僕突然肩を抱き寄せられた明日香が困惑したように言った。
「どうかした?」
「いや。どうもしていないけど」
「そうか」
明日香は僕の腕に改めてしがみつくような仕草を見せた。
「結構混んでるよな」
僕は照れ隠しにそう言った。
「毎年この時期の電車はこうなんだろうね。あたしたちが知らなかっただけで」
明日香が車窓を眺めながら呟いた。
目的の駅に降りた瞬間から行列が始まっていた。
学生のアルバイトのような警備員のアナウンスの声ががあちこちで響いていて、周囲には着飾った集団が楽しそうに笑いさざめく声があふれている。
家を出るときまではハイテンションで僕を引っ張っていた明日香は、周りの熱気に当てられたように大人しく僕の腕に掴まったままで、いつもよりだいぶ言葉数が少なかった。
それだけ周囲は賑やかだったのだけど、一時間ほど並んで神社の鳥居をくぐると、周囲には何か賑わいの中でも尊厳な雰囲気が漂っていた。
神社の中は、果てしなく続く提灯の列にぼんやりと照らされていて、それははしゃいでいる人々の声を飲み込んで、騒音の中にあっても不思議な静謐を感じさせた。
「初めて来たけど結構いい雰囲気だね」
妹が幻想的な提灯の列に目を奪われながら呟いた。
「まあ、大晦日の夜にお参りする習慣なんてうちにはなかったしな」
「それはお兄ちゃんだけでしょ。あたしはパパやママと近所の神社に行ったことあるよ。朝早く美容院で着付けもしてもらって」
「僕はおまえの着物姿なんか見たことないぞ」
「あたしなんか見ようとしていなかったからでしょ」
「そうじゃなくて本当に見たことないんだって」
「あたしの着物姿に興味なんかないくせに」
明日香が笑った。
「それにしてもこれって何時間くらい並んでれば参拝できるのかな」
「さあ。見当もつかないや」
結局お賽銭を投げて参拝しおみくじを引くまでに、それから三時間くらいかかった。もう夜中の二時過ぎだ。
「帰る?」
一応予定の行動を消化したので僕は明日香に聞いてみた。
「やだ」
思ったとおりの答えが明日香から帰ってきた。明日香にとってはまだ物足りないらしい。
「今日はお店だって二十四時間営業してるよ、きっと。ファミレスとかに寄って行こう」
僕もまだここの雰囲気に当てられていたし、こんな日に両親が不在で僕なんかと二人で一緒に過ごすしかなかった明日香のことを考えると、それを無下に退けるわけにもいかなかった。
「じゃあ、ファミレスに行くだけ行ってみるか?」
「うん」
嬉しそうに明日香が言った。
「でも、また並ぶと思うけどな」
「いいよ。それでも」
明日香は嬉しそうに僕の腕にしがみついた。
結局、行列ができていたファミレスで席に案内された頃にはもう夜中の三時を過ぎていた。並んでいる間、立ったまま僕の肩に寄りかかってうとうとしていた明日香は、席に案内されると急に元気を取り戻したようだった。
「ねえ。何食べる? ケーキを食べようかと思っていたけど、考えたら今日は大した食事してないしさ。一緒にピザとか食べちゃう?」
明日香はずいぶん楽しそうだ。
「おまえが決めていいよ。何が来ても文句は言わないからさ」
明日香はそれを聞いて再び真剣な表情でメニューに目を落した。注文は明日香に任せよう。
僕はメニューをテーブルに置いて、何となく周囲を見回した。
そのとき僕は、神社の参拝帰りの客とは思えないスーツ姿のビジネスマンみたいな人が隣の席に案内されているのを、ぼんやりと見ていた。その人には女性の連れがいた。
「叔母さん?」
「え、何々?」
僕の声に驚いた妹が目をメニューから上げた。
「何だ。明日香と奈緒人か。偶然じゃんか」
そこには玲子叔母さんが立っていて、どういうわけか飽きれたように僕たちを眺めていた。
「あんたたち、こんなとこで何してるのよ。兄妹でデートでもしてたの?」
「叔母さんこそデート?」
明日香が嬉しそうに叔母さんに聞いた。
そう言えば叔母が男の人と一緒のところを見るのは初めてだ。
「・・・・・・こんな時間に外出とか結城さんや姉さんは知っているんでしょうね」
「だってパパもママも全然連絡してこないんだもん」
明日香が口を尖らせた。
「何? 大晦日も二人きりだったの? あんたたち」
「そうだよ」
「姉さんも結城さんも子供たち放って何やってんの」
叔母さんは驚いたようだった。そして叔母さんと僕たちの会話を聞いている人に言った。
「酒井さん悪い。打ち合わせはまた今度にならない?」
「え? 何で」
「家族の関係で用事ができちゃった。悪いけど」
「はあ。社内じゃちょっとって言うから、あんだけ並んでようやく店には入れたのに。まあいいですけど、でも打ち合わせしないなら大晦日に呼び出さないでよ。僕にだって家庭があるんですよ」
「ほんとにごめん。そのうち埋め合わせするから」
「まあ独身の人にはわからないでしょうけど、家族持ちには特別な日なのに」
そうぶつぶつ言いながら、その男の人は去って行った。
叔母さんは僕の隣に座って初めて見た細身の赤いフレームの眼鏡を外した。
もしかしたら眼鏡を外すことで、仕事のオンとオフを別けているのかもしれない。
「叔母さん仕事いいの?」
明日香が目の前に座った叔母さんに声をかけた。
「よくないけど・・・・・・。それよか姉さんたちは二人とも本当にこの間からずっと帰って来ないの?」
この間とは叔母さんと父さんが偶然に家で鉢合わせした夜のことを言っているらしい。
「うん。年末には帰るって言ってたけど連絡もないよ」
明日香が言った。
「それよかさ。まだ注文してないんだけど。叔母さんも何か食べるでしょ」
「明日香さあ。親が二人揃って大晦日に連絡もないっていうのに、寂しがり屋のあんたが何でそんなに平気なんだよ」
「だって今年は一人じゃなくてお兄ちゃんもいるし」
「・・・・・・なるほどね。そういうことか」
叔母さんが再び眼鏡をかけた。思っていたより悩んでいる様子のない明日香に安心して、また仕事に戻る気なのだろうか。僕は一瞬そう思ったけど、叔母さんは明日香からメニューを取り上げただけだった。
「じゃあ何か食べるか。そういえばあたしも昼から何にも食べてないや」
「叔母さんご馳走してくれるの」
どうせ親から預かったお金で支払う気だったくせに、明日香はここぞとばかりに目を輝かせて言った。
「相変わらず人の奢りだとあんたは容赦ないな」
注文を終えた明日香に対して再び眼鏡を外した叔母さんが飽きれたように笑った。
「そういや年越し蕎麦とか食べたの?」
「うん。お兄ちゃんがコンビニのざる蕎麦も結構美味しいって言うから」
「どうだった?」
「お兄ちゃんに騙された」
「いや、あれはあれで美味いだろうが。それに別に手打ち蕎麦なみに美味しいなんて言ってないし」
僕は反論した。
「だったら最初からそういう風に言ってよ。期待して損しちゃった」
「おまえに嘘は言ってないだろ」
「あんたたち、最近仲いいじゃん。まるで昔からの恋人同士みたいよ」
叔母さんが笑った。
僕と明日香のほかに叔母さんが一人加わるだけで、不思議なことにどういうわけか家族団らんという雰囲気が漂う。
僕なんかでもいないよりは妹にとっては元気が出るだろうと思ってここまで付き合っていたのだけど、やはり叔母さんがいると妹のテンションは高くなるようだった。
偶然に叔母さんに会えてよかったと僕は思った。よく考えてみれば、ここは叔母さんの勤務先の出版社の所在地からすごく近い場所だった。
「ちょっとトイレ。お兄ちゃんデザート持ってくるように頼んでおいて」
「うん」
妹が席を立つと、叔母さんがにやにやしながら僕の方を見た。
「何で笑ってるんの」
「奈緒人。あんたさあ、あの短い時間の間に急速に明日香と仲良しになったみたいんじゃん」
「ああ、まあ昔よりは仲良くなったかもね」
「何を冷静に言ってるんだか」
叔母さんが笑ったまま言った。
「しかしわからんものだよねえ。仕事の打ち合わせでたまたま入ったファミレスにさ、妙にいい雰囲気の若いカップルがいるなってあって思ったら、あんたたちだったとは」
叔母さんの話は、別に僕たちへの嫌がらせのようではなかった。
「まあでもよかったよ。あんたたちが仲が悪いとあたしも居心地が良くないし」
「ごめん」
叔母さんは僕たち二人を可愛がってくれていただけに、明日香と僕の不和には心を痛めていたのだろう。
「まあ、別にいいさ。けどさあ、仲直りするのを通り越して、まるで恋人同士みたいにイチャイチャしだしてるのはちょっと急ぎ過ぎじゃない? 血が繋がっていないとはいえ一応兄妹なんだしさ」
「そんなんじゃないって」
「おう。奈緒人が珍しく照れてる」
叔母さんが幸せそうな表情で笑った。
「心配するな。あんたたちの両親はあたしが責任を持って説得してやる。だから明日香を泣かせるんじゃないぞ」
ここまで来ると、叔母さんの話はもはや本気なのか冗談なのかわからなかった。
一応、本気で僕と明日香の仲を誤解しているといけない。僕は叔母さんに奈緒のことを話すことに決めた。両親にさえ話していないけど、叔母さんなら信用できた。
「確かに僕と明日香は仲直りしたといってもいいけど、叔母さんが想像しているような変な関係じゃないよ」
「変な関係なんて言ってないじゃん。でもほんと?」
叔母さんは本気で驚いている様子だった。僕はそっとため息をついた。誤解を解いておくことにして本当によかった。
「本当だよ。それに、僕も最近は彼女ができたし」
「彼女って・・・・・・明日香じゃないの?」
「だから違うって。鈴木奈緒って子で」
そこで僕は深夜の叔母さんと父さんの会話を思い出した。会ったことはなくても叔母さんは奈緒のことを知ってはいるのだ。父さんの書いたあの短い記事を読んでいたのだから。
「え。もっかい名前言って」
どういうわけか叔母さんが青くなった。
「鈴木奈緒。東京都の中学生のピアノコンクールで優賞した子。父さんが記事を書いたの叔母さんも知っていたんでしょ」
「その子と付き合っているってどういうこと? あんたはさっきから自分が何を言っているのかわかってるの」
叔母さんの様子がおかしい。何でだろう。叔母さんは本気で僕と明日香を付き合せたかったのだろうか。
「どうって。偶然出会って付き合うことになったんだけど・・・・・・というか僕に彼女がいることは明日香だって知っているよ」
「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「だから明日香とはそういう関係じゃないって」
「何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の妹じゃないの」
「言っちゃだめ! 今はまだだめ!」
そのとき、トイレから戻ったらしい明日香の悲鳴に似た声が響いた。周囲の席を埋め尽くした客の喧騒が一瞬静まり返った。
「明日香?」
僕は振りかえった。真っ青な顔の明日香の姿が目に入った。
「明日香? どした?」
叔母さんが怪訝そうな声で明日香に問いかけた。
少しして周囲の喧騒が戻って来たけど、叔母さんの言葉は僕の耳にはっきりと届いていた。
「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹じゃないの」
最初は、明日香の悲鳴のような声に気を取られていたせいもあって、叔母が言った言葉の意味の重さにすぐには気がつかなかった。
その瞬間はむしろ混み合った店内の客の視線をひき付けてしまっていることの方に意識を奪われていたから、僕は反射的に呆然と立ち尽くしている明日香の手を引いて向かいの席に座らせた。
「・・・・・・前にあたしの家であんたは奈緒ちゃんと奈緒人が一緒に歩いてたって言ってたね?」
叔母さんが恐い表情で明日香に聞いた。たった今妹が見せた狼狽のことはわざと無視しているようだった。
「あんた奈緒人が奈緒ちゃんとそういう関係だって知ってたの? そもそも奈緒人と奈緒ちゃんはお互いのことを実の兄妹だってわかっているの?」
そのあたりで僕はようやく叔母の言葉が持っていた意味に気がついた。胃の奥が痛み始めたと思った途端、何かが急速に喉からせり出してきそうな感覚があった。
「あたしは知ってたよ。奈緒が知っていたかどうかはわからない」
明日香が低い声で言った。
「奈緒人は・・・・・・って知ってたって感じじゃないね。でも。何でそのまま放っておいたのよ」
「お兄ちゃんが好きになった子が実は自分の妹だなんてわかったら、どんだけショックを受けるかを考えてみて」
「明日香・・・・・・」
「だからお兄ちゃんをあたしに振り向かせて、奈緒への好意を無くさせようとしていたの。好意がなくなった相手が後から実の妹だってわかった方がまだショックは少ないでしょ。自分が一番好きな子が実の妹だったことがわかったのと比べたら」
「・・・・・・あたしが邪魔しちゃったわけか。明日香ごめん」
「あたしに言われても」
このあたりが限界だった。僕は立ち上がってトイレに駆け込んで胃の中のもの一気に吐き出した。