奈緒人と奈緒 第1部第7話
翌日、僕は妹に起こされた。時計を見るともう十時近い。
「お兄ちゃん起きてよ。買物に一緒に行ってくれるって約束したじゃん」
僕は眠気を振り払ってベッドに起き上がった。
え?
「あのさ」
「どしたの?」
「どしたのって・・・・・・」
「ああ」
明日香は同じベッドの中で僕の隣に横たわっていた。半ば半身を起こして僕の方に抱きつくようにしながら、僕に声をかけて起こそうとしたらしい。
「ああじゃなくてさ。何でここにいるの?」
「叔母さんと一緒にあたしの部屋で寝てたんだけどさ。叔母さんすごくお酒臭いし寝相も悪いのよ」
「・・・・・・おまえが叔母さんに一緒に寝ようって誘ったんだろうが」
「よく覚えてるね。お兄ちゃん寝てたんじゃなかったの」
僕は一瞬どきっとした。
「何となく記憶があるだけだよ」
僕は曖昧に言った。
「ふ~ん。それでさ八時になったら叔母さん、突然起き上がって会社に行っちゃった。パパと一緒に仲良く出かけたみたいだよ」
「そうか・・・・・・。っておまえなあ」
「何よ」
「それとおまえが僕のベッドに潜り込むのとどういう関係があるんだよ」
「何となく寂しくなってさ。祭りの後って言うの?」
珍しく感傷的な妹の感想は、僕にも素直に共感できるものだった。昨日の夜が楽しかった分だけ、父さんと叔母さんがいなくなったこの家はいつにもまして寂しい感じがする。
血の繋がっていない兄のベッドに潜り込むとは、深夜アニメに登場する妹じゃあるまいしどうかとは思うけど、明日香が人恋しいと思った気持ちには僕は素直に共感できた。
今までは両親不在で兄妹別々に過ごしていても、寂しいなんて感じたことはなかったのに、たった一晩の幸せに僕と明日香は打ちのめされてしまったのだった。
「もう少しこのまま寝るか? それとももう起きて買物に行くか?」
僕は傍らで毛布に潜り込もうとしている妹に聞いた。
「・・・・・・もうちょっとこうしていようかな」
妹は顔を毛布の中に隠して呟くように言った。
「何だよ、人のこと起こしといて」
僕は妹にそう言ったけど、妹が今感じている気持ちはよく理解できた。
「寝よう」
妹はそう言って、再び体を横たえた僕の上に自分が被っていた毛布をかけてくれた。
次に目を覚ましたのは、それから一時間後くらいだった。
明日香は僕から少し離れた場所で、横向きになって寝入っていた。明日香のことだから、またいつかのように抱きついてくるんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかったようだ。
少しお腹が空いていた。昨日は叔母さんに特上寿司をいっぱいご馳走になったとはいえ、もうお昼過ぎなのだ。
よく寝ているので少しかわいそうだとは思ったけど、僕は妹に声をかけた。このまま寝ていたら一日が無駄になってしまう。それに今日は食材の買出しをするって、明日香も言っていたのだし。
体に触れるのは気が引けたので、普通に声をかけると、さすがによく寝たせいか明日香はすぐに目を覚ました。
「今何時?」
明日香が目をこすりながら言った。
「十一時くらい」
「そっか。よく寝た―――ってまずい」
明日香は跳ね上がるように飛び起きてた。
「何で起こしてくれなかったのよ。十時には家を出たかったのに」
「何言ってるんだ。さっき十時ごろ自分で起きてたじゃん。それでまた寝るって言ったのおまえだろ」
理不尽な言いがかりだったけど、以前のようなとげは感じられない。
同じベッドで一緒に寝るとか、仲が悪かった兄妹の関係が、普通の関係を通り越して極端に逆側に振れてしまっている様な気もしたけど、それでもまだ昨夜感じた家族の安心感のような感覚は今でも続いていた。どうやら昨夜のことは夢ではなかったみたいだ。
「早く起きて仕度して。買物に出かけるよ」
明日香は慌しく起き上がって僕を急かした。
「そんなに慌てなくてもまだ時間はあるのに・・・・・・」
「いいから。あ~あ、失敗しちゃったなあ」
「失敗って?」
「何でもないよ。ほら早く起きて着替えてよ」
「わかったよ」
明日香が何で慌てているのかはわからない。それでも明日香と二人で買物に出かけることを楽しみに感じている自分に気がついて、僕は驚いた。
奈緒に会えないのは寂しいけど、今日だけは奈緒と約束をしていなくてよかったのかもしれないと僕は思った。
明日香と二人きりで外出するのは、多分初めてのことだったと思う。今までのことを考えると、明日香と並んで冬の曇り空の下を、喧嘩もせず刺々しい雰囲気もなく歩いていること自体が奇跡のようなものだ。
僕たちは別に手を繋ぐでもなく寄り添うでもなく、でもお互いに疎遠というほどの距離感を感じることもなく並んで歩いた。今でも昨夜の魔法は解けていない。
去年のあの夜以来、僕にすっぽりと覆いかぶさっていた暗く思いベールがはがれて、急に周囲が明るくなったような感覚はまだ続いている。
これは明日香のおかけでもあるし、玲子叔母さんの助けもあったことは間違いない。
僕は明日香の隣を黙って歩きながら、改めて考えた。それでも僕の生活が急に明るい方向に転回したのは、奈緒と知り合ったためだった。それと兄妹の関係の改善とは合理的な関係などないのかもしれないけど、僕は不思議にそう確信していた。
明日香は駅ビルの中のスーパーマーケットで買物をしたいと言ったので、僕たちは近所のスーパーを素通りして駅前に向っていた。
近所の店と何が違うのかはよくわからないけど、わからない以上は言うとおりにした方がいいのだろう。
駅ビルについたとき、僕はすぐに買物をするのかと思ったのだけれど、明日香は僕の先に立ってビルの中のファミレスの中に入って行った。
朝食も昼食もまだなのだから先に食事をする気なのだろうか。
別にそれでもいいけど一言言ってくれればいいのに。明日香は店の中に入ると、寄ってきた店員には構わずにきょろきょろと店内を見回していた。
「あ、いた。あっちに行こう」
僕はいきなり明日香に手を取られて窓際の席の方に連れて行かれた。
「有希ちゃん遅れてごめん」
窓際のテーブルには可愛らしい少女が一人で座っていた。一瞬僕には何が起こっているのかわからなかったけど、よく見るとそれは奈緒の友人の有希だった。
「いえいえ。あたしも来たばっかだし」
有希は明日香の方を見て笑った。
「本当にごめん。兄貴ったら男の癖に支度するのが遅くてさ」
「明日香ちゃん、ちゃんとメールくれたからわかってたよ。あ、奈緒人さんこんにちは」
「こんにちは・・・・・・って、君たち知り合いだったの?」
僕は明日香と有希の顔を交互に眺めながら言った。
「お兄ちゃんこそ有希ちゃんと知り合いだってあたしに黙ってたくせに」
「いや、おまえと有希さんが知り合いだなんて知らなかったし。それに有希さんとは一度会っただけで」
「昨日はいきなり変なメッセージをしてごめんなさい」
有希が話をややこしくした。明日香が疑わしげに僕を見たけど、妹の表情は柔らかかった。昨夜の久し振りの家族団らんからずっとそうなのだ。
それにしても、僕が明日香と有希と一緒にファミレスのテーブルを囲む意味がわからない。
有希とLINEを交換しただけで奈緒とは気まずくなったというのに、これを奈緒に見られたら今度こそ本当に僕は破滅だ。
そう思うなら席を外せばいいのだけど、昨夜の父さんと玲子叔母さんの会話を思い起こすと、ここはもう少し有希と仲良くなった方がいい気もする。
別に記憶にない自分の過去にそれほど執着があるわけではないけど、その過去の話に奈緒と有希の名前が出ているのなら話は別だ。
「お兄ちゃんはそっちに座って」
明日香が有希の正面に腰をおろしながら、有希の隣を指差した。
「え? 何で」
「何よ、お兄ちゃんあたしの隣がいいの? あたしは別にそれでもいいけど有希ちゃんにシスコンだと思われちゃうよ」
本当に何なんだ。
「奈緒人さんさえよかったら隣にどうぞ」
有希が飽きれたように笑いながら言った。
僕は恐る恐る有希の隣に腰掛けた。今、僕の隣にいる小柄な女の子が奈緒の親友だと思うとなぜか少し混乱する。正面には明日香がいる。
自分の家族と、僕の付き合い始めたばかりの彼女の友だちと一緒にいることは悪い気持はしないけれど、なぜ僕の知らないところでこの二人が親しくなったのかはどうしても気になる。
「有希ちゃん何頼んだの?」
「うん。モンブランと紅茶。先に注文しちゃってごめんなさい」
「全然OK。でもあたしもお兄ちゃんも朝から何も食べてないから食事してもいい?」
有希は明日香の顔を不思議そうに見た。そして笑い出した。
「何よ」
「明日香ちゃんってさ。あたしと二人きりの時は奈緒人さんのこと『兄貴』って呼ぶのに、奈緒人さんと一緒にいる時は『お兄ちゃん』て呼ぶのね」
何かよくわからないけどこれは恥かしいかもしれない。妹は赤くなって口ごもってしまった。
「ごめんなさい。変なこと言っちゃって」
赤くなって狼狽している妹を見て少し後悔したように有希が言った。
「別に変な意味じゃなの。何か羨ましいなあって思って」
「うらやましいって・・・・・・何で?」
「よくわかんないけど、あたしって一人っ子だからかなあ。お兄さんがいるのってうらやましい」
「そんなにいいもんじゃないけどね、実際にお兄ちゃ・・・・・・兄貴がいても」
「それよかさ、何で二人は知り合いなの?」
僕はさっきから気になっていることを質問してみた。
有希は奈緒の親友のはずだ。その有希と明日香が知り合いということは、まさか明日香は奈緒とも知り合いなのだろうか。いや、あの朝の奈緒と明日香は知り合いのように見えなかった。
「何でって言われても。最近ちょっといろいろあって知り合ったんだよ」
明日香が素っ気なく答えた。全く答えになっていない。
「そうなんです。でも知り合ったばかりの明日香ちゃんのお兄さんが、奈緒の彼氏だなんてびっくりです」
そう言った有希は少しも驚いていないように見えた。
「それよか何食べる? お腹空いたよ」
明日香が話を変えた。
「・・・・・・ピザとフライドチキン?」
「何でよ」
「食べたかったんだろ? 昨日は寿司に付き合ってもらったからな」
「・・・・・・よく覚えてたね」
「まあね」
「変なところだけ無駄に優しいんだから」
明日香はまた少し赤くなって小さい声で言った。
「いいなあ。あたしもお兄さんが欲しい」
有希が再び明日香をからかうような目で見た。
さっきもそうだけど、明日香が同学年の女の子にこういう風にいじられていることが僕には少し新鮮に感じられた。
「こんなのでよかったらあげようか」
まだ赤い顔をしたまま明日香が有希に言い返した。
結局この二人の関係やなぜここで待ち合わせをしていたかということは、いつの間にか曖昧にされてしまった。
二人は身を乗り出すようにして、テーブルに開いたメニューを眺めている。こんなことなら明日香が有希の隣に座ったらよかったのに。有希がケーキだけではなく、自分も食事しようかなって言ったのがきっかけだった。
「じゃあ二人で一緒にピザ食べない? ここのピザ大きいから一人では食べきれないし」
結局ピザを頼むのか。明日香と有希がどのピザを注文するのか楽しそうに話しているのを聞きながら僕は考えた。
そのとき、僕はふと昨晩の父さんと叔母さんの会話を思い出した。父さんの書いた記事の話だ。
確か一位に入賞した奈緒より、二位入賞のオオタユキという子の演奏の方が感情表現が豊かだったとかいう内容の記事だったはずだ。
そういえば以前、志村さんから貰った奈緒の入賞記事には二位以下の記載はなかっただろうか。奈緒のことしか気にしていなかったのでよく覚えていないけど。
僕はポケットからその記事を取り出して眺めた。恥かしいけど僕はこのプリントをいつも持ち歩いては、時々奈緒の小さな顔写真を眺めていたのだ。
僕は改めてその記事を眺めてみた。
『東京都ジュニアクラシック音楽コンクールピアノ部門高校生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院高等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』
ここまでは暗記するほど眺めている。問題はその次の部分だ。
やはり載っていた。一位の奈緒の記事との違いは写真がないというだけだ。
『第二位 富士峰女学院高等部2年 太田有希』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金20,000円の贈呈』
演目も一緒だ。まあでもこれは意外でも何でもないだろう。
同級生で同じ先生についてピアノのレッスンを受けている二人は、ただの親友というだけでなくピアノでも競い合うライバル同士でもあるということだ。これで僕にはまた奈緒に関する知識が増えたのだ。
注文したいピザが決まったのだろう。二人はメニューを閉じて何やらスマホの画面をお互いに見せあっている。
「有希さんって、太田有希っていう名前だっけ?」
有希が僕の方を見た。
並んで座っている有希との距離が近かったせいで、彼女の顔は一瞬どきっとしたほど僕のすぐそばに近寄っていた。
僕は以前どこかで読んだことを思い出した。
対人距離という概念があって、人によってその距離感は異なるそうだ。相手との距離がだいたい50センチ以下になる距離は密接距離と呼ばれている。それは格闘をしている場合などを除き、愛撫、慰め、保護の意識を持つ距離感であるそうだ。
逆にそういう親密な関係にない他者を近づけたくない距離と捉えた場合、同じ距離であってもそれは排他域とも呼ばれる。
多分僕はこの排他域が人より大きいのだと思う。ついこの間まで僕の持っている排他域に踏み込んでくる人は誰もいなかったし、僕はそのことに満足していた。
でも最近は僕の排他域に入り込んでくる人が増えていた。いつの間にか抱きついたりベッドに潜り込んでくるようになった妹の明日香。僕の腕にしがみついて身を寄せてくれる奈緒。
奈緒は僕の恋人だからそれは密接距離だ。奈緒に対して愛撫・・・・・・はともかく慰めや保護欲は感じているし、彼女と密着していることは素直に嬉しい。
明日香について言えば今までは妹の接近は居心地がいいとは言えなかった。僕はいつも明日香のことを警戒していたのだ。
でも、今朝明日香が僕の隣に寝ていることを知っても、僕は別に居心地の悪い思いをしなかった。むしろ昨晩の楽しいひと時が終って寂しそうな妹を慰めたいとまで思ったくらいに。もちろん思っただけで口に出したりはしなかったけど。
妹との距離も確実に縮まっているのだろう。別にそれは悪いことではない。まあ明日香が僕を好きだと言った言葉があまり重いものだとそれは問題ではあるけれど。
その距離の中に突然踏み込んできた有希は、別に居心地が悪るそうな様子はなかった。
僕は有希に受賞者の一覧が掲載されたプリントを渡した。
「ああこれで見たのね。あたしいつも奈緒ちゃんより下なの。でも奈緒ちゃんは特別に上手だから」
そのことをあまり気にしている様子もなく有希は笑った。
「本当に奈緒ちゃんと仲がいいんだね」
「うん。でも明日香ちゃんと奈緒人さんだって仲がいいじゃない。何度も言うけどうらやましいなあ」
有希はいつの間にか敬語を使わなくなっていた。どうも人見知りしない子らしい。
そして明るい笑顔と一緒にそういう言葉が出ているせいか、僕は年下の女の子にタメ口で話されても少しも不快感を感じなかった。
明日香も同じことを考えているようだった。
「ちゃんはやめて。明日香でいいよ」
「そう? じゃあ明日香も有希って呼んでね」
明日香は何かを期待しているかのように僕の方を見たけど、そういうわけにはいかない。少なくとも今はまだ。
そのうち僕が奈緒を呼び捨てできるようになり、奈緒もそうしてくれるようになるといいのだけど、そうなる前に奈緒の親友とお互いを呼び捨てしあうような仲になるのはまずい。
有希の件では地雷を踏んだばかりだし、こうして会っていることすら本当は心配なくらいなのだ。
「ピアノといえばさ」
僕は明日香の視線から目を逸らした。
「『クラシック音楽之友』っていう音楽の専門誌を知ってる?」
「もちろん知ってますよ」
「先月号は読んだ?」
「あれって千五百円もするんだもん。高いから滅多に買わないの」
「そう」
僕は自分のバッグからクラッシク音楽之友を取り出した。今朝、不用意にもソファの上にぽつんと置き去りにされていたのだ。
父さんの書いたという記事をゆっくりと見たいと思った僕は、家を出がけに自分のバッグに入れてきていた。目次からコンテストの批評記事を探しあててそのページを開いた僕は、ざっとその内容に目を通してから開いたままのページを有希に見せた。
『鈴木奈緒の演奏は正確でミスタッチのない演奏だった。きわめて正確に作曲家の意図に忠実に演奏するテクニックは、非常に完成度が高い。ただ、同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコンクールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いないが、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人とも富士峰女学院の同級生だそうだ』
「専門の雑誌で誉めてもらえるなんて嬉しいけど」
有希が記事に目を通してから言った。
「でもちょっと誉めすぎだよ。先生とかに将来を有望視されているのは奈緒ちゃんの方だもん」
「何の話してるのよ」
話について来れない明日香が不思議そうに聞いた。
「父さんの記事が有希さんを誉めてるんだよ」
「パパの記事?」
「え? お父さんの記事?」
二人が同時に驚いたように声を出した。
「うちの父親ってその雑誌の編集長してるんだ。その記事を書いたのも父親だよ」
「え~。それ早く言ってよ。あたし記事に文句つけちゃったじゃない」
有希が恨めしそうに僕を見た。
「奈緒人さんの意地悪」
「なになに、パパってその雑誌を作ってるの?」
「・・・・・・父親の職業くらい覚えておけよ」
ピアノなんかに興味がないのか、明日香の感想は的外れなものだった。
「気にしなくていいよ。これ有希さんにあげるよ」
後で考えたらその雑誌は玲子叔母さんの忘れ物だったのだけど。
「いいの?」
「うん。一応有希さんが良く書かれている記事だから記念にして。あ、でも奈緒ちゃんには・・・・・・」
「わかってる。見せないから安心して」
有希は雑誌を抱きかかえるようにしてにっこりとした。
「奈緒人さん、ありがとう。大事にするね」
有希とは一緒に食事をして一時間ほどしてから別れた。明日香と有希は仲良くピザを半分こした挙句、有希が最初に注文していたケーキまで二人でシェアしていた。その様子は僕から見ても微笑ましかった。
それに何より明日香が派手で高校生離れした女の子とではなく、有希のような子と仲良くしていることが僕には嬉しかった。
それでも知り合ってから間がないらしい明日香と有希のおしゃべりに、僕が付き合わされた理由は最後までわからなかった。
「お兄ちゃん買物に行くよ」
ぺこっと一礼して帰って行く有希の後姿をじっと眺めていた僕に明日香が声をかけた。
「何ぼけっと有希のこと見つめてるの? もしかして有希に惚れちゃった?」
「いや・・・・・・そんなことないけど」
「なに真面目に返事してんのよ。冗談だって」
明日香が笑った。
「じゃあスーパーに行こう。今夜は何食べたい?」
もちろんそんなことを妹から聞かれたことは初めてだった。
『さっきは本当にごめんなさい。そしてわたしのわがままを許してくれてありがとう。奈緒人さんに冬休みは一緒デートしようって言われたときは嬉しかった。それだけは本当です。でもわたしには自由な時間はないの。学校のないこの時期にすることは随分前から先生に決められていました。そもそも練習曲の進度が他のライバルの子とくらべてあまり進んでいないし、来年からは佐々木先生とは別な先生についてソルフェージュと聴音も勉強しなければいけないので、この休み中にある程度練習曲を進めておかなければならないのです』
『わたしもせっかくの休みは奈緒人さんと一緒に過ごしたかった。でもピアニストになる夢を捨てるのでなければやるべきことはやらなければいけません。これは誰に言われたわけでもなく自分から希望してしていることですから。さっき奈緒人さんは気にしなくていいよと言ってくれたけど、多分本心ではないと思います。わたしが奈緒人さんの立場だったらピアノとあたしとどっちを選ぶの? くらいのことは言っていたと思うから』
『奈緒人さん大好きです。でもやっぱり冬休みは会えないと思います。本当にごめんなさい。あと、今までの土曜日のように毎日教室まで迎えに来てくれると言ってくれてありがとう。嫌われても仕方ないのに奈緒人さんはこんなことまで考えてくれたのですね。でもこれも無理です。ごめんなさい。休み中は夜の十時まで個人レッスンがあって、終る時間が遅いのでいつもママが車で迎えに来てくれるのです。一応、一人で帰るからお迎えはいらないとママに言ってみたらすごく怒られました。夜中に一人で電車に乗るなんて許さないそうです』
『だから奈緒とさんがわたしに提案してくれたことは全てお断りすることになってしまいました。嫌われても仕方ないですよね。それでも図々しいけど奈緒人さんに嫌われたくない。よかったらせめて毎日寝る前に電話かLINEでお話したいです。勝手なことばっか言ってごめんね。今日はまたこれから二時間くらい練習です。本当にごめんなさい』
もう何度読んだかわからないくらい読み返した奈緒のメッセージを、僕は再び読み返していた。
本文中にいったい何回ごめんなさいと書いてあるのか思わず数えたくなるくらい、ひたすら僕に対して謝罪している内容だ。
確かにがっかりしたのは事実だけど、そんなことくらいで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてありえないのに。いったい何で彼女はこんなに狼狽し不安をさらけ出しているようなメールをよこしたのだろう。
お互いに年内最後の登校日だった朝、冬休の予定を聞いた僕に対して奈緒は俯きながら休み中は会えないのだと言った。その時は時間がなかった。もうすぐ僕の大学の最寄り駅に電車が到着するタイミングだったから。確かに奈緒に会えないと言われたとき、一瞬僕は奈緒に振られたのかと思ったけれど、駅に着く前の短い時間でピアノのレッスンの過密な予定を説明された。
それで僕は、奈緒と別れる直前に、気にしなくていいよと言うことができたのだ。あとピアノ教室に迎えに行ってもいいかとも。
それでも奈緒は僕の誘いを断ったことを気にしていたのだろう。
今日は午前中で授業が終ったので、最後までサークル活動がある渋沢を残して、志村さんと二人で学校を出ようとした時、奈緒からLINEのメッセージが届いた。
朝の会話でもだいたい事情はわかっていたので、奈緒に対して含むところなんか何もなかったのだけど、僕の誘いを断ったことに対して奈緒は随分気にしていたようだった。
志村さんの好奇の視線を無視して、帰りの電車内で僕はそのメッセージに目を通した。
そして再びそんなに気にしなくていいこと、こんなことで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてあり得ないという返事をした。
でも彼女からは返事はなかった。多分、もうあの教室でピアノのレッスンに集中していたのかもしれない。奈緒のメールは僕をますます彼女のことを好きにさせるだけの効果しかなかった。
普段の土曜日の午後のように、ピアノ教室に迎えに行くことさえ断られたのは、正直少しショックだったけど。
こうして冬休の間僕は奈緒に会えないことになった。
奈緒のピアノに対する情熱と、そのために費やさなければならない時間を思い知った僕は奈緒を恨むどころか、それだけの過密な日程をこなさなければならない彼女が、それでも僕に対して気を遣ってくれていることに心温まるような気持ちを抱いた。
僕とピアノとどっちを選ぶのかなんていう感想を僕が抱くわけがない。むしろこれほどまで情熱を傾けているピアノの練習を邪魔しようとした僕に対して、ここまで奈緒が気にしてくれていることが嬉しかった。
ただ事実としては、長い休み期間中、僕は奈緒と会えないということだった。自分の勝手な妄想の中では、二人でクリスマスにデートをしたり初詣に行ったりする予定だったのだけど、それは全て実現しないことになったのだ。
孤独な休暇期間なんて今に始まったことではない。
一人でも僕にはすることはある。新学期に備えて勉強をしておくと後が楽だし、コンプしていないストラテジーゲームもパソコンの中に放置してある。
要するにいつもと同じ冬休を過ごせばいいのだ。寂しいけど奈緒には寝る前にLINEをするようにしよう。
でも、意外なことに僕の冬休は忙しいものとなった。明日香と有希が常に僕のそばにいるようになったのだ。
冬休みの初日、僕は自分のベッドの中で、執拗に鳴らされ続けているチャイムの音を遠くに聞いていた。
わけもわからず起き上がった僕は、それが自宅のドアのチャイムだと気がついた。宅配便だろうか。
階下に降りてドアを開くと、女の子が立っていた。
「あ、やっと起きた」
なんで彼女がいるのだろう。
「え? なになに。有希さん?」
「あ、はい」
ドアの前に立っていた有希は、赤くなって僕から視線をそらした。
まずい。古びてほころびだらけのTシャツとペラペラのショーパンしか身にまとっていない。
「有希さん、どうしたの」
そこで僕は気がついた。
「ああ、明日香に会いに来たのか」
有希は顔を赤くしたまま、ふるふると顔を振った。何かを必死で訴えようとしていたみたいだけど、結局何も言わずに僕にルーズリーフに何かを書きなぐったメモを渡してくれた。
『お兄ちゃんへ。明日は大晦日だからおせち料理を用意しなければいけません。でも今日はあたしは用事があるので買ってきて欲しい物をメモにしておくので、今日中に揃えておいてね。万一お兄ちゃんが夕方まで寝過ごすといけないので、有希にお兄ちゃんを起こしてくれるよう頼んでおいたから。あと、買物にも付き合ってくれるみたいだから、有希と一緒にメモに書いた物を買って来ておいてください。あたしは夕方には家に戻るからね。お兄ちゃんはあたしがいなくて寂しいかもしれないけど、いい子にしていてね』
『買っておいて欲しい物 おせち料理』
なんだこれは。
「明日香から奈緒人さんに渡してって頼まれたの。あとお昼ごろ家に行って奈緒人さんを起こしてって」
「うん、ありがと。目を覚ましたよ」
僕は言った。ようやく意識がはっきりとしだすと、自宅の玄関にに明日香以外の女の子がいるという違和感が半端でなくすごい。
「明日香め。有希さんに無理言ったみたいだね。本当にごめん」
「ううん。どうせ暇だったから」
有希が笑って言った。
冬休に入ってから、明日香と有希が毎日のように会っている場所に、どういうわけか僕も同席させられていたのだけど、それは明日香に荷物持ちを強要されていたせいだった。
有希も僕に対してはあくまでも親友の彼氏で、友だちの明日香の兄貴というスタンスで僕に接してくれていた。
なので有希は、過度に馴れ馴れしい態度を僕に向けることはなかった。
「ちゃんと起きました?」
有希が首をかしげるようにしながら僕を見上げて言った。
「うん。本当にごめん。明日香が無理なことお願いしちゃって」
「別にいいの。全然無理じゃないし」
もともと誰とでも親しくなれる子だとは思っていたけど、今日の有希は何だかいつも以上に親し気だ。
妹の友だちで奈緒の親友。僕にとっては有希はそれだけの存在なのに。僕が気にし過ぎているだけで、有希にとってはそれだけのことなのかもしれない。
でも今、僕の家の前で部屋に僕と有希は二人きりだ。そのことを正直に奈緒に話せるかといったら、もちろんそんな勇気は僕になかった。
「あのさ」
「はい」
「じゃあ、買い物に付き合ってもらえるなら、すぐに着替えるから、上がってリビングで待っていてくれる?」
「あ、いえ。ここで待っています」
うつむいてしまった有希を見て、僕はうろたえた。男一人しかいない家に富士峰の女子高校生が喜んで入るわけないじゃないか。
「そうだよね。なるべく早く支度するから」
「急がなくていいですよ」
ようやく顔を上げた有希は、僕のうろたえた様子を見てくすりと笑った。
その日は結局、明日香抜きで有希と二人で過ごすことになってしまった。
明日香の指示は明確だった。あいつはもともとおせち料理なんて作る気はなかったのだ。
要するに、出来合いのおせち料理を買っておけということだった。
有希と僕は、明日香の指示にしたがってデパ地下とか名店街みたいなところを回ったのだけど、どの店に行っても予約なしではお売りできませんと断られた。
「まあ最初からわかっていたけど」
有希が苦笑した。
「明日香って世間知らずだよね。おせち料理なんて予約なしで買えるわけないのに」
「そうなんだ」
世間知らずという点では、僕も明日香と同類らしい。
「僕もこの時期なら普通に買えるもんだと思ってたよ」
「そんなわけないでしょ。高価な商品なんだから、売れ残りのクリスマスケーキみたいに売ってるわけないじゃん」
「有希さんさあ・・・・・・・知ってたなら最初からそう言ってくれればよかったのに」
ここまで明日香の指示どおり出来合いのおせち料理を入手しようとして、僕たちは相当無駄な努力を強いられていたのだ。
「うん。最初から絶対無理だと思っていたんだけど、一応明日香に頼まれたんでさ」
「無理なら無理って、明日香に言ってくれればよかったのに」
「でもあたしにとっては無駄でもなかったから」
「どういうこと?」
「・・・・・・奈緒人さんといっぱいお店を回ったりできたでしょ? まるで二人でデートしてるみたいだったし嬉しかった」
有希は何を言っているのだろう。明日香を通じて有希とも親しくなれた僕だったけど、有希に対して恋愛感情を抱いたことは一度もない。奈緒の親友である有希だって、僕が奈緒と相思相愛だということはよくわかっていたはずだ。
何か今日の有希は様子がおかしい。どうおかしいかと言えば、僕のことが好きだと宣言した時の何か吹っ切れたようだった明日香とそっくりだ。
僕は少し疲れたという有希を、いつもの駅前のファミレスに連れて行った。そこは明日香と有希がよく待ち合わせしている場所だったので、買物帰りに一休みする場所としては違和感はなかったのだけど、有希と二人でこの店に入るのは初めてだった。
「お昼食べてないからお腹空いちゃった」
有希はそんな僕の感じている違和感なんか全く気が付いていないように言った。
有希は平気なのだろうか。彼氏でもない男と二人きりで買物をして、ファミレスに入ることなど気にならないのだろうか。
「そういや起きてから何も食べてないね」
「中途半端な時間だけど食事しようか」
「うん」
「ピザ食べたいな。でもここのピザ大きくて食べきれないんだよね。いつもは明日香と二人で食べてるんだけど」
「うん」
「半分食べてもらってもいい?」
ここまで有希をうちの大晦日の準備に付き合わせておいて、ここで断る理由はなかった。やがて注文したピザとかサラダが運ばれてきた。
「すいません。取り皿をください」
有希は遠慮せずそう言った。彼女は自分が注文したサラダやピザを取り分けて僕の前の皿に入れてくれた。
「・・・・・・それ多すぎだよ。有希さんの分がほとんど無くなっちゃうじゃん」
「奈緒人さんは男の人なんだからいっぱい食べてね」
やっぱり今日の有希は何だか様子がおかしかった。
有希にとって僕の彼女の奈緒や僕の妹の明日香とはどんな存在なのだろう。
僕の勘違いでなければ、有希は僕に好意を抱いているとしか思えない。僕は決心した。明日香のことはともかく、奈緒のことを考えずに無自覚に有希と仲良くなるわけにはいかない。奈緒とは親友の有希にだってそのことは十分にわかっているはずだった。
「あのさあ」
「あの・・・・・・」
僕と有希は同時に話し始めた。
「先にどうぞ」
僕は有希に話を譲った。
「明日香の指示通りにおせち料理買えなかったわけだけど、どうするつもりなの?」
「どうするって・・・・・・予約なしでは買えないんだから仕方ないでしょ」
「いいの? 明日香に怒られますよ」
「両親が何か考えてくれるでしょ。それに叔母さんだって新年はうちに来てくれると思うし。大晦日は出前の蕎麦とかで過ごすよ」
「出前の蕎麦とかって・・・・・・それこそ予約した?」
「してないけど」
「じゃあ無理ね。奈緒人さんと明日香って本当に世間知らずなのね」
「そうかな」
「うん、そうだよ。わかった、あたしがおせちも年越し蕎麦も面倒みてあげる」
「いいよ、そんなの。カップ麺の天蕎麦だって全然大丈夫だし」
「あたしが嫌なの。そんなものを明日香と奈緒人さんに食べさせるのは」
ここまでくると、いくら奈緒が明日香の友だちなのだとしてもいくらなんでも行き過ぎだ。
「そこまで君に迷惑かけられないし気にするなよ」
そう言うと有希は目を伏せた。
「奈緒人さん、もしかして迷惑?」
「そんなことないよ。でも有希さんだって忙しいのに」
「あたしは休み中は暇だから」
僕は有希の返事にひどく違和感を感じた。
有希はコンテストでは奈緒の後塵を拝したかもしれないけど、それでも都大会で二位に入賞するくらいの実力がある。そして、一位の奈緒があそこまで過酷な練習スケジュールを組んでいいる以上、有希だって状況はほとんど同じではないのか。
「有希さんだってピアノの練習とかで忙しいでしょ。音大を目指すなら休みなんかないらしいじゃん。君だってピアノで忙しいんじゃないの?」
それを聞いた有希は驚いた様子だった。
「随分詳しいのね。奈緒に聞いたの?」
有希が僕を見つめて言った。
「うん」
「そう」
有希はもうおせち料理のことなどすっかり忘れたようだった。そして真面目な表情で言った。
「奈緒人さんには納得できないかもしれないけど、彼女と付き合うってそういうことなんだよ」
「いや、それは理解しているつもり。納得できないなんてことはないよ。むしろ奈緒ちゃんって大変なんだなあって思っただけでさ」
「そう・・・・・・。大変だなあって思ったんだ」
「うん」
「それだけ?」
「それだけって・・・・・・どういう意味?」
僕と奈緒は確かに付き合ってはいるけど、普通の恋人同士のように休暇の間に会うことすらできない。
平日の方が登校時や土曜日に奈緒と会えるだけまだましだった。奈緒は学校のない休暇期間中はその全ての時間をピアノに専念すると自分で決めていたから。そして僕は奈緒のその決定を邪魔しようとは思わなかった。むしろ邪魔をしてはいけないとさえ決心したくらいだ。
僕と付き合うことにより奈緒の夢の実現を阻害することになるのなら、僕は喜んで寂しい思いに耐えるつもりだった。それに奈緒は休み中僕に会えないことを、そこまで考えなくてもと思うほど悩んでくれていたのだ。僕にとってはそれだけでも十分だった。
有希が顔を上げ僕を見た。
「好きだけど、でもそれそこどういう意味で聞いてるの?」
有希が何を言いたいのかよくわからなかったのだ。明日香や僕のために、おせち料理や年越し蕎麦を何とかしてあげましょうかと言ってくれたさっきまでの柔らかな態度の有希とは、まるで別人のようだ。
「好きな子のことならさ、普通はもっと気になるんじゃないの?」
「え」
「休み中はピアノの練習が忙しいからって奈緒ちゃんに言われて、理解のある優しい彼氏として気にするなよって彼女に言ってあげてさ。そして優しい自分に自己満足してるってわけ?」
「そんなことはないよ」
「それで休みの日は明日香とか、あたしとかで適当に時間を潰してるのね」
・・・・・・いくらなんでもこれはひどい。僕だって奈緒に会いたい気持ちはあるのにそれを我慢しているのだ。でも有希の話はまだ終らなかった。
「何で奈緒ちゃんがそこまでピアノにこだわるか、奈緒ちゃんにとって奈緒人さんと一緒にいるのと、志望している音大を目指して彼氏とのデートを犠牲にして頑張るのと、どっちが幸せかとか考えないの?」
「だって奈緒ちゃんが自分で決めたことだろ? 僕はそれを応援したいと・・・・・・」
「・・・・・・奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」
彼女は繰り返した。
「何でそんなこと君に言われなきゃいけないの」
僕は我慢できずについにそう言ってしまった。でも有希は精一杯の僕の抗議をあっさりスルーした。
「じゃあさ。奈緒人さんは奈緒ちゃんのどういうところが好きになったの?」
いつのまにか、僕の奈緒に対する愛情を疑われているような話の流れになってしまっている。
奈緒のピアニスト志望への僕の理解が何でこんな話に繋がるのか、それが何でそんなに有希を興奮させたのかよくわからない。
一見冷静に話しているようだけど、この時の有希は感情に任せて話しているようにしか見えなかった。
「どういうところって・・・・・・」
今まで何度も考えたことではあったけど、改めて僕は考えた。
本当に正直に言えば、大人しそうな美少女である奈緒の外見のせいも大きい。でもそれだけじゃない。
彼女といるとすごく話がしやすい。何よりもこんなどうしようもない僕なんかを好きになってくれて告白してくれて、こんな僕なんかに嫉妬したり気を遣ってくれたりする。そういう奈緒が好きなのだ。
僕はそれをたどたどしい口調で有希にわかってもらおうとした。こんな恥かしいことを口にしたのは、あの朝奈緒の告白に返事をして以来だった。
「・・・・・・奈緒人さんって、自分に都合のいい行動をしてくれるアニメとかゲームの中の女の子に夢中になっている男の子みたいね」
これだけ恥かしい思いをしながら、ようやく有希の質問に答えた僕を待っていたのは、嘲笑にも似た言葉だった。
「本当に生身の奈緒ちゃんに恋してるの? じゃあさ。奈緒ちゃんが奈緒人さんのどういうところが好きになったか考えたことある?」
それは厳しい質問だった。奈緒に告白されてから、僕はそのことをいつも考えていたような気がする。そしてその答えに回答を見出すことはできなかった。
これで何度目になるのか覚えていないほど、悩んで考えた疑問に対する答えは結局見つからなかったのだ。
「それは自分ではよくわからないよ」
きっと僕は情けない声を出していたと思う。奈緒のような子が、なぜ一度だけ雨の日に傘に入れてあげたくらいで、僕なんかを好きになってくれたのか。
それは多分このまま奈緒と付き合えたとしても謎のままなのかもしれない。考えてみれば奈緒の僕に対する愛情は、彼女の態度からは疑う余地がなかった。それは自分に自信がない僕でさえ、奈緒の日頃の態度から納得できていたことだった。
でも僕は、奈緒が僕のどんなところを好きになってくれたのかなんて、彼女に改まって聞いたことがないこともまた事実だった。
僕の混乱した情けない表情を見た有希は我に帰ったようだった。
「あ、ごめん。何かあたし奈緒人さんにひどいこと言ってる」
「ひどいとまでは思わないけど、正直結構きつかった」
「本当にごめん。あたし、これまでも奈緒ちゃんのこと好きになった男の子のこと今までよく見てきたから」
「うん」
「だいたいは奈緒ちゃんの方がその気にならないんだけどね」
だいたいはと言うことは、奈緒の方も気になった男がいたことがあるのだろうか。でもそのことを口に出す前に有希が話を続けた。
「心配しなくていいよ。すごく不思議だけど、奈緒ちゃんがここまで入れ込んだ男の子って、奈緒人さんが初めてだと思うよ」
「別に心配とかしてないけど」
有希の言葉は僕を傷つけもし、また安堵させもした。僕は年下の有希の言葉に一喜一憂するようになってしまったようだ
「奈緒ちゃんはあのとおり見た目は可愛いし性格もいいし、彼女に惚れる男の子はいっぱいいたんだけど、奈緒ちゃんがちゃんと付き合った相手は奈緒人さんが最初だしね」
「うん。男と付き合うのは初めてだって奈緒ちゃんも言ってたよ」
「あたしさ。奈緒ちゃんとは小学校の頃からの友だちでね。あたしにとっては唯一の親友なの。だからさっきは奈緒人さんには言い過ぎたかもしれないけど」
「別にいいけど」
「だから奈緒人さんには、簡単に奈緒ちゃんの話しに納得してほしくないの。もう少し深くあの子のこと考えてあげて」
正直、有希が何を言っているのか理解できたわけではなかったけど、僕は有希が奈緒を大切にしている気持ちは理解できた。
それで有希に対して憤る気持ちはおさまってはいけれど、それでもこれ以上僕と奈緒との付き合いの意味を有希と話し合う気はなかった。それは僕と奈緒が二人で話し合うべきことだったから。
「話は変わるけどさ。有希さんだって奈緒と同じくらいピアノ関係で忙しいんじゃないの? 明日香と僕を気にしてくれるのは嬉しいけど、こんな無駄な買物に付き合ってくれる暇なんか本当はないんでしょ」
僕は無理に話を逸らした。
「・・・・・・あたしは奈緒ちゃんとは違うよ」
有希が言った。
「別に父さんが書いた記事だからってこだわる気はないけどさ。有希さんだって単なる趣味でピアノやってるわけじゃないんでしょ。都大会で二位入賞とか、感情表現では奈緒ちゃんより将来期待できるとまで言われてるんだし」
「あたしは別に・・・・・・ピアニストになろうなんて思っていないもの」
「じゃあ君は天才なんだ。奈緒ちゃんなんか問題にならないくらい」
この時の僕は大人気なかったかもしれない。さっきから明るく清純で人懐こい女の子と思い込んでいた有希から厳しいことを言われていた僕は、こんなつまらないことで憂さ晴らしをする気になっていたのだった。
「君は天才なんでしょ。奈緒ちゃんみたいに必死に練習しなくても、僕と明日香なんかの相手をしていても本番では成績がいいみたいだしね」
「あたしのこと馬鹿にしてるの」
「馬鹿にしてるのは君の方だろ」
僕も思わずとげとげしい口調で言い返した。こんなことは初めてだった。ひどい嫌がらせを明日香にされていた頃も、両親から出生の秘密を明かされた時でさえ、少なくとも誰かの前では冷静さを失ったことはなかったのに。
何で僕は有希の言葉にだけこんなに素直に反応してしまったのだろう。今まで溜め込んでいたいろいろなことが、有希の言葉に触発されて一気に迸り出てしまったみたいだった。
「奈緒人さんのこと、馬鹿になんてしてなんていないよ」
さっきまでの勢いはもうなかった。有希は途切れ途切れにようやく言葉を口からひねり出しているみたいだ。
「じゃあ何で」
「あたしね」
有希は少し寂しそうに笑った。
「明日香にばれちゃった」
「・・・・・・うん」
「だけど何で明日香にはわかっちゃったのかなあ」
「何がばれたの?」
「好きだから」
「え」
「あたし奈緒人さんのこと好きだから」
有希は僕を見てはっきりとした口調でそう言った。