yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第1部第6話

その晩僕が帰宅すると、珍しく玲子叔母さんがリビングのソファに座って、妹とお喋りしていた。

「叔母さん、お久しぶりです」

 どうしてこの時間に叔母さんがいるのかわからなかったけど、僕はとりえず叔母さんにあいさつした。叔母さんは今の母さんの妹だ。

「よ、奈緒人君。元気だった?」

 叔母さんはいつものように陽気に声をかけてくれた。

 僕はこの叔母さんが大好きだった。本当の叔母と甥の関係ではなかったことを知ってからも、その好意は変わらなかった。

 この人は、僕は自分の本当の甥ではないと昔から知っていたにも関らず、いつも僕の味方をしてくれた。

「元気ですよ。叔母さん、久しぶりですね」

「元気そうでよかった」

 叔母さんはそう言って笑った。でも叔母さんは少し疲れてもいるようだった。

「相変わらず忙しいんですか? 何か疲れてるみたい」

「まあね。ちょうど年末進行の時期でさ。今日なんかよく定時に帰れたと思うよ」

 仕事が仕事だから、叔母さんはいつもせわしない。

「今日は突然この近くの予定が無くなっちゃったんだって」

 叔母さんの隣に座っていた明日香が口を挟んだ。

 僕はさりげなく妹を観察した。やはり自分で宣言したとおり、真面目で清楚な女の子路線を守っているらしい。僕がここまで本気で奈緒に惚れていなければ、結構真面目に明日香に恋してしまっていたかもしれない。それくらいに僕好みの女の子が、その場に座って僕に笑いかけていた。

「何・・・・・・?」

 僕の呆けたような視線に照れたように、妹が顔を赤くして言った。なぜか叔母さんが笑い出した。

「笑わないでよ」

 明日香は僕の方を見ずに、顔を赤くしたまま叔母さんに文句を言った。

「ごめんごめん。あたしもまだまだ若い子の気持ちがわかるんだと思ってさ」

「叔母さん!」

 なぜか狼狽したように妹が大声をあげた。

「悪い」

 叔母さんが笑いを引っ込めた。

「父さんと母さんは今日は帰ってくるの」

 僕は何だかまだ少し慌てている様子の明日香に聞いた。

「今夜は帰れないって」

「そうか。せっかく叔母さんが来てくれたのにね」

「いいって。あたしは久しぶりに奈緒人君の顔を見に来ただけだからさ」

 叔母さんはそう言って笑った。

「でもどうしようか。あたしもさっき帰ったばかりで夕食の支度とか何にもしてないんだ」

 明日香が少しだけ困ったように言った。

 こいつが突然いい妹になる路線を宣言してから数日たっていたけど、やはり妹のこの手の発言には違和感を感じた。

 そもそも両親不在の夜に、明日香が食事の支度をすることなんて、もう何年もなかったのだし。

「叔母さんも夕食はまだなの?」

 明日香が聞いた。

「うん。ここに来れば何か食わせてもらえるかと思ってさ。まさか姉さんがいないとは思わなかったから当てがはずれちゃったよ」

「そんなこと言ったって電話とかで確認しない叔母さんが悪いよ。だいたい叔母さんほどじゃないかもしれないけど、毎年年末はほとんど家にいないよ。ママもパパも」

 明日香の言ったことは本当のことだった。

 父さんと母さんは、お互いに違う会社に勤めているけど業種は一緒だった。

 そしてあるとき、業界のパーティーで出会ったことが二人の馴れ初めだったということも、昨年のあの告白の際に聞かされていた。

「何で年末にそんな忙しいんだろうな。音楽雑誌の編集部なんて暇そうだけどな」

 叔母さんがのんびりとした声で言った。

「こう言っちゃ悪いけど、あたしのいる編集部みたいにメジャーな雑誌を製作しているわけじゃないしさ」

「まあ、業界なりの事情があるんじゃないの」

 明日香が訳知り顔で言った。

「それより叔母さん、夕食まだならどっかに連れて行ってよ。あたしおなか空いちゃった」

 明日香は昔から玲子叔母さんと仲が良く、お互いに遠慮せずに何でも言える仲なのだ。

 僕もあの夜の両親の告白までは、明日香同様、あまり叔母さんに遠慮しなかった気がする。叔母さんには、そういった遠慮を感じずに接することができるような大らかな雰囲気が備わっていたからだ。

 でも、実の叔母と甥の仲じゃないことを知った日以降、僕は叔母さんには心から感謝してはいたけど、前のように無遠慮に何でも話すことはできなくなってしまっていた。

「未成年のあんたたちを勝手に夜の街中に連れ出したら、あたしが姉さんに叱られるわ」

叔母さんがにべもなく言った。

「え~。黙ってればわからないじゃん」

 明日香が不平を言った。

「そうもいかないの。じゃあ、出前で寿司でも取るか。ご馳走してやるから」

「じゃあお寿司よりピザ取ろうよ。あとフライドチキンも」

 寿司と聞いて嫌な顔をした明日香が提案した。こいつの味覚はお子様なのだ。

「ピザねえ・・・・・・奈緒人君は寿司とピザ、どっちがいい?」

 どっちかと言えばもちろん寿司だった。

 さっきカラオケでピザとフライドチキンを食べたばかりだし。最初渋沢のリクエストをあさっりと却下した志村さんだったけど、実際に注文した食べ物が運ばれてくると、ピザとチキンバスケットもその中にちゃんとオーダーされていた。

 渋沢に厳しい様子の志村さんも結構気を遣ってあげてるんだと、僕はその様子をうかがって妙に納得したのだった。

 それはともかく、決してピザもチキンも嫌いではないけど、昼夜連続となると正直あまり食欲が沸かない。でもそれは僕だけの事情だから、ここでわがままをいう訳にもいかない。

「どっちでもいいですよ」

 僕がそう言うと、叔母さんは少しだけ僕の顔を眺めてから微笑んだ。

「相変わらずだね、君は。もう少しわがままに自己主張した方が結城さんも姉さんも喜ぶんじゃないの」

 時々この人はこっちがドキッとするようなことを真顔で言い出す。僕はどう反応していいのか戸惑った。

 こんなことはたいしたことではない。わがままな明日香に譲歩するなんていつものことだったし、両親不在の夕食は、今まではカップ麺とかで凌ぐのがデフォルトになっていたのだ。

「明日香さあ、あんたのお兄ちゃんはお寿司の方が食べたいって。どうする? あんたが決めていいよ」

 何を訳のわからないことを。僕はその時そう思った。

 当然、ピザがいいと騒ぎ出すだろうと思った僕は、明日香が少し考え込んでいる様子を見て戸惑った。

「お兄ちゃんってお寿司が好きなんだっけ」

 明日香の意外な反応に、僕は固まってしまいすぐには返事ができなかった。

「いや。別にピザでも」

「じゃあお寿司でいいや。特上にしてくれるよね、叔母さん」

「あいよ。あんたが電話しな。好きなもの頼んでいいから」

 叔母さんは明日香に言いながら、僕に向かってウィンクした。

 三十分くらいたってチャイムの音がした。

「やっと来た。叔母さんお金」

「ほれ。これで払っておいて」

「うん」

 明日香が玄関の方に向って行った。

「さて」

 叔母さんが僕に言った。

「・・・・・・どうしたんですか」

 僕の言葉を聞いて、叔母さんの表情が少し曇った。

「あのさあ。奈緒人君、何で去年くらいから突然あたしに敬語使うようになった?」

「ああ。そのことですか」

「ですかじゃない。君も昔は明日香と同じで遠慮なんかしないで、あたしに言いたい放題言いってくれてたじゃんか」

「・・・・・・ごめんなさい」

「あんた。あたしに喧嘩売ってる?」

「違いますよ」

「じゃあ何でよ。あんたがあたしに敬語を使うようになったのって、結城さんと姉さんからあの話を聞いたからでしょ」

「まあ、そうですね」

「水臭いじゃん。それにあんた姉さんには敬語で話してる訳じゃないんでしょ」

 僕は黙ってしまった。

「明日香にだって、普通におまえとかって呼べてるじゃん。何であたしにだけ敬語使うようになったの?」

 叔母さんは別に僕を責めている口調ではなかった。むしろ少し寂しそうな表情だった。

 余計なことを言わずに謝ってしまえばいい。最初僕はそう思ったけど、そうして流してしまうには、叔母さんの口調や表情はいつもと違って真面目なものだった。だから僕は思い切って言った。

「叔母さんって、僕が去年真相を知らされる前から僕のことは、奈緒人君って呼んでたでしょ。妹には明日香って呼び捨てなのに。何で妹と僕とで呼び方を分けるんだろうって昔は不思議に思ってたんです。でも、あの日両親から聞いてその理由がようやくわかりました」

 叔母さんは少し驚いた様子だった。多分無意識のうちに僕と明日香を呼び分けてしまっていたのだろう。

 この人は僕の父さんと僕が今の母さんや叔母さんとは他人だった時から、僕たちのことを知っていたのだろう。そして両親の再婚前から僕のことは君付けだったのだろう。

「そういやそうだったね」

 叔母さんが珍しく俯いていた。

「あたしとしたことが、無意識にやらかしてたか」

「よしわかった。あたしが悪かった。これからは奈緒人って呼び捨てにするから、あんたも敬語よせ」

 ・・・・・・何でだろう。僕はその時目に涙を浮べていた。

 きっと幸せなのだろう。

 去年の両親の告白以来初めて感じたこの感覚は、そう名付ける以外思いつかない。相変わらず家には不在気味だけど、以前と変わらない様子で僕を愛してくれている両親。

 その好きという言葉がどれだけ重いものなのかはまだわからないけど、これからは僕のいい妹になると宣言しそれを実行している明日香。

 僕に向かって敬語をよせと真面目に叱ってくれる玲子叔母さん。

 そして、何よりこんな僕に初めてできた理想的な恋人である奈緒

「叔母さんありがとう」

 僕は涙を気がつかれないように、さりげなく払いながら叔母さんに言った。

「ようやく敬語止めたか」

 叔母さんは笑ったけど、どういうわけか叔母さんの手もさりげなく目のあたりを拭いているようだった。

「明日香遅いな。たかが寿司受け取るくらいで何やってるんだろ」

「さあ」

「よし、奈緒人。おまえ玄関まで偵察して来な」

 さっそく叔母さんに呼び捨てされたけど、僕にはそれが嬉しかった。

「じゃあ、見てくるよ」

 そう言って僕がソファから立ち上がろうとしたとき、明日香が手ぶらで戻って来た。

「お寿司屋さんじゃなかったよ」

 ぶつぶつ言いながら戻って来た明日香に続いて父さんがリビングに入って来た。

「あら結城さん。お帰りなさい」

「何だ、玲子ちゃん来てたのか」

 父さんはそう言ってブリーフケースを椅子に置いた。

「久しぶりだね。でもよくこの時期に会社を離れられたね」

 父さんは叔母さんに笑いかけた。

「うちみたいな専門誌だって、この時期は年末進行なのに」

「たまたまだよ。たまたま。それよか結城さんご飯食べた?」

 何だか叔母さんがうきうきとした様子で言った。

「まだだけど」

「じゃあ、特上の寿司の出前も頼んだことだし今夜は宴会だ。鬼の・・・・・・じゃなかった、姉さんのいない間に息抜きしましょ」

「やった。宴会だ」

 明日香が楽しそうに言った。僕はそんな妹の無邪気で嬉しそうな顔をしばらくぶりに見た気がした。

「ほら、結城さん。とっととシャワー浴びたらお酒用意してよ。さすがに勝手に酒をあさるのは悪いと思って今まで我慢してたんだから」

 父さんが苦笑した。でも僕にはすぐわかった。仕事帰りで疲れた顔はしているけど、父さんの表情は機嫌がいい時のものだ。

「じゃあ久しぶりに子どもたちにも会えたし宴会するか」

「あたしに会うのだって久しぶりじゃない」

 叔母さんが笑って父さんに言った。

 父さんがシャワーを浴びている間に寿司屋が出前を届けに来た。

 明日香が珍しくつまみを用意すると言い張ってキッチンに閉じこもってしまっていたので、僕が寿司桶を受け取りに行った。

奈緒人、あんたが受け取っておいで」

 もうすっかり呼び捨てに慣れたらしい叔母さんからお金を受け取った僕は、玄関でいつものお寿司屋さんから寿司桶を受け取ってびっくりした。

 これっていったい何人前なんだ。

 明日香は叔母さんに対しては好きなだけ甘えられるのだろう。

 叔母さんから預かった二万円を出して小銭のお釣りを受け取った僕はそう思ったけど、今では僕もその仲間なのだ。

 僕はリビングのテーブルの上に寿司を置いた。

「お~。相変わらず人の奢りだと明日香は遠慮しないな」

「父さんが帰ってこなければ絶対余ってたよね、これ」

「うん。ちょうどよかったじゃん。たまには明日香もいいことをするな」

 明日香がサラミとかチーズとかクラッカーとかを乗せた大きな皿をキッチンから運んできた。こういう甲斐甲斐しい妹を見るのは初めてだったけど、それよりも明日香が運んできたオードブルらしきものは母さんがよく用意していたものと同じだった。

 母さんの真似をしているだけといえばそれだけのことだけど、高校生のくせにどうしようもないビッチだと思っていた妹を、僕は少し見直した。意外とこいつって家庭的だったんだ。

「お兄ちゃん、何見てるのよ」

 明日香が不思議そうに聞いた。

「あんたのこと見直してるんでしょ。意外と僕の妹って家庭的だったんだなあって」

「叔母さん・・・・・・」

「よしてよ。気持悪いから」

 明日香は赤くなって、でも僕の方は見ずに叔母さんに向かって文句を言った。それは決して機嫌の悪そうな口調ではなかった。

「さっぱりしたよ。お、豪華な寿司だな。つまみまでちゃんとあるし」

 父さんがシャワーから出て着替えてリビングに入ってきた。

「そのオードブル、明日香が作ったんだって」

 叔母さんがからかうように言った。

「パパ、どう? ママが作ったみたいでしょ」

 そう言えば明日香は、昔から実の親である母さんより父さんの方が好きみたいだった。

 さっき感じた幸福感はまだ僕の中に留まっていた。

 母さんがいないのは残念だけどこれは久しぶりの家族団らんだった。今度会った時に奈緒にもこの話をしよう。

「それ結城さんに作ってあげたの? それとも奈緒人に?」

 叔母さんがからかった。

「うるさいなあ。酔っ払いの叔母さん用に作ったんだよ」

「よくできてるよ。ありがとう明日香」

「どういたしましてパパ・・・・・・お兄ちゃん?」

奈緒人」

 父さんが僕の方を見て笑った。

「うん。うまそう」

 とりあえず僕は当たり障りなく誉めた。

 明日香はまた赤くなった。そんな明日香を見て父さんと叔母さんが笑った。

 リビングの片方のソファには父さんと叔母さんが並んで座っていて、叔母さんは楽しそうに僕をからかっている。

 僕と並んで座っている明日香は、さっきから何か考えごとをしているようだった。

「しかし明日香が料理をねえ。あたしも人のことは言えないけど、明日香の料理じゃおままごとしているみたいなもだよなあ。正直に言ってごらん奈緒人。美味しくないでしょ?」

 結構きついことをおばさんが言ったけど、こればかりは明日香と叔母さんの関係を知らないと理解できないかもしれない。

 二人の仲のよさはこの程度の悪口で破綻するような関係じゃない。両親が再婚して僕と明日香には血縁がないのだと聞かされたとき、母さんから聞いたことがある。

 前の夫を交通事故で亡くした後、そのショックで抜け殻のようになってしまった母さんに代わって明日香の面倒を一手に引き受けたのは、当時まだ音大生だった玲子叔母さんだったと。

 明日香にとっては、叔母さんは母さん以上に母親なのだ。

「明日香のご飯って僕は好きだよ。残さず食べてるし。な、明日香」

「ごめん。お兄ちゃん今何って言ったの」

 明日香が物思いから冷めたように聞いた。

「いや。叔母さんがさ。最近よく作ってくれるおまえの料理なんて美味しくないでしょって言うからさ。僕は全部食べてるよなっておまえに聞いただけ」

「無理してるんだろ奈緒人。いいから正直に明日香の料理の感想を言ってごらん・・・・・・あ、結城さんありがと」

 玲子叔母さんが言った。後半は自分のグラスにお酒を注いだ父さんへのお礼だった。

「いや玲子ちゃん。明日香はやればできる子だからね。このつまみだってママと同じくらい上手にできてるよ」

 父さんが明日香に微笑んだ。

「上手にできてるって、それ出来合いのチーズとかサラミとか盛り合わせただけじゃん」

 叔母さんが言った。どうも酔ってきているらしい。でも叔母さんの皮肉っぽい言葉には、明日香への悪意なんて少しもないことを僕はよく知っていた。

「いや盛り付けだって才能だしな。な、奈緒人」

「うん。最近明日香が作ってくれる夕食は美味しいよ。少なくともカップ麺とかコンビニ弁当よりは全然いいよ」

「またまた、奈緒人は昔から如才ないよな。あんたいい社会人になれるよ。あはは」

 叔母さんは豪快に笑って空いたグラスを父さんに突き出した。

「パパ?」

 明日香が父さんにに話しかけた。

「うん? どうした明日香」

「パパとママって今度はいつ帰ってくるの」

 父さんの表情が少し曇った。そして申し訳なさそうに言った。

「大晦日の夜まではパパもママも帰れないと思う。今日だってよく帰れたなって感じだしね」

「うん。じゃあ夕食の支度頑張らないと」

「・・・・・・本当にどうしちゃったの? 明日香。最近気まぐれで奈緒人に飯を作ってたのは知ってたけどさ。これからずっと姉さんの代役をするつもり?」

 叔母さんが嫌がらせのように言った。

「気まぐれじゃないもん。もうちょっとで学校休みだし、それくらいはね」

「明日香は偉いな」

 父さんが微笑んだ。

「じゃあ明日は食材とか買い込んでおかないとね」

 明日香が父さんの言葉に顔を赤くしながら言った。

「ママからお金貰ってるか」

「うん。お金は大丈夫だけど、いっぱい買い込むからあたし一人で持てるかなあ」

「どんだけ買うつもりだよ」

 叔母さんが明日香をからかった。

「そうだ。叔母さん一緒に買物に行ってよ。明日は日曜日じゃん」

「アホ。あたしは明日から会社に泊まりこみで校正地獄だわ」

「どうしようかなあ」

 明日香は呟いた。

「明日は予定ないし荷物持ちくらいなら僕でもできるかも」

 そう口に出したとき、僕は明日香にキモイとか罵倒されることを覚悟していた。

「じゃあ手伝ってよ。お兄ちゃんだって食べるんだから」

 でも、明日香はあっさりとそう言っただけだった。

 明日香と僕の会話を聞いていた父さんとと玲子叔母さんは、どういうわけか目を合わせて微笑みあった。

 

 その夜の騒ぎは日付を越えるまで続いた。母さんがいたら間違いなく十時過ぎには子どもたちは退場を言い渡されていたと思うけど、この夜は父さんも叔母さんも心底楽しそうにしていて、僕と明日香を早く寝かせようとは考えつかなかったみたいだった。

 そのことをいいことに、僕も明日香もこの場に居座って父さんと玲子叔母さんの会話を聞いたり、時折話に混じったりしていた。

 僕にとっては本当に久しぶりに貴重な時間だった。そして僕の隣に座っていた明日香も、以前のようにひねれることなく父さんや叔母さんに素直に笑いかけていた。

 多分この場に母さんがいなかったせいだろう。明日香は父さんや叔母さんに対しては、いつもというわけではないけど、だいたいは素直に振る舞っていたのだから。

 それより僕を驚かせそして本当にくつろがせてくれたのは、明日香が僕の話に噛み付いたりせず普通に反応してくれたことだった。

 最近の明日香は本人が宣言したとおりいい妹になろうとしてくれていたみたいだけど、僕はその態度を心底から信用したわけではなかった。いい妹になるとか僕が好きだという明日香の宣言は二重三重の罠かもしれない。僕は戸惑いながらも密かに警戒していたのだった。

 でもこの夜の団欒の席の明日香の楽しそうな態度は、すごく自然でリラックスしていたものだった。

 父さんや叔母さんに対してだけではなく、僕に対しても普通に楽しそうに笑って受け答えしてくれている。僕はいつのまにか明日香に対する警戒を忘れ、僕たちは仲のいい兄妹の会話ができていたみたいだった。

 僕と明日香が穏やかな会話を交わすたびに、父さんと叔母さんは嬉しそうに目を合わせて微笑みあっていた。

 心穏やかな時間はまだ続いていたのだけど、僕にとっては今日はいろいろ忙しく疲れた一日だった。

 奈緒を迎えに行きはじめて彼女と心がすれ違ったり、仲直りしたり。

 叔母さんともまた昔のように仲良くなったり。楽しかったけどいろいろ疲れてもいたのだろう。僕は父さんたちの会話を聞きながら、うっかりうとうとしてしまったようだった。

 一瞬、うたたねした自分の体が、揺れて倒れかかったことに気がついて、僕は目を覚まして体を起こそうとした。

「いいよ。そのままで」

 明日香の湿ったような、でも優しい声が僕の耳元で響いた。

「お兄ちゃん疲れたんでしょ。そのままあたしに寄りかかっていいから」

 僕は妹の肩に体重を預けながら寝てしまっていたみたいだった。体を起こそうとした僕の肩を手で押さえながら明日香が続けた。

「このまま少し休んでなよ」

 僕はその時何とか起きようとはしたけれど、結局、疲労と眠気には勝てずにそのまま目を閉じた。

 しばらくして僕は目を覚ました。

 寝ている間中、夢の中で柔らかな会話が音楽のように意識の底に響いていたようだった。僕は体を動かさないようにして、何とか視線だけを明日香の方に向けた。

 明日香は軽い寝息をたてて目をつぶっている。僕と明日香はお互いに寄りかかりながら、ソファに腰かけたままで眠ってしまっていたのだった。

 そろそろ明日香を起こして自分も起きた方がいい。そして静かに会話を続けている父さんと叔母さんにお休みを言おう。

 そう思ったけど、明日香の柔らかい肩の感触が心地よく居心地がよかったため、僕は再び目を閉じて、しばらくの間半分寝ているような状態のままじっとしていた。

 そうしているとさっきまで心地よい音楽のようだった会話が、意味を持って意識の中に割り込んできた。僕は半分寝ながらもその会話に耳を傾けた。

「二人とも寝ちゃったか」

「起こして部屋に行かせた方がいいかな」

「よく寝てるしもう少しこのままにしてあげたら? 明日香と奈緒人のこんな仲のいい姿を見るなんて何年ぶりだろ」

「そうだな。最近二人の仲が昔のように戻ったみたいなんだ。玲子ちゃんのおかげかな」

「あたしは関係ないですよ。でもこうして見ると本当に仲のいい兄妹だよね」

「うん。最近、明日香は妙に素直なんだよな」

「明日香は昔から結城さんには素直だったじゃない。本当の父親のように結城さんに懐いているし」

「そんなこともないよ。それに最近母親にも素直だからあいつも喜んでる」

「姉さんはちょっと気にし過ぎなんだよね」

「それだけ気を遣ってるんだよ、子どもたちに」

「・・・・・・全く。結城さんは姉さんに甘過ぎだよ。それは一度はお互いに諦めた幼馴染同士で、奇跡的に結ばれたんだから、結城さんの気持ちはわかるけどさ」

「おい・・・・・・玲子ちゃん」

「大丈夫。二人ともよく寝てるみたいだから。よほど楽しかったんだろうね」

「子どもたちには悪いと思っているよ」

「最近どうなの? ナオちゃんとは会ってるの?」

「うん。マキも面会させるっていう約束は守ってくれているよ」

「大きくなったでしょ。マキさんと似ているならきっと可愛い子になってるんでしょうね」

「だから、子どもたちが」

「寝てるって。でもさ。真面目な話だけどさ、結城さん編集長なんだからもう少し部下に仕事任せて家に帰るようにしなよ。うちのキャップなんてあたしの半分も社にいないよ」

「うちもあいつの社も零細な出版社だからね。玲子ちゃんとこみたいな大手みたいにはいかないよ」

「勝手なこと言ってごめん。でも奈緒人と明日香を見ていると二人とも無理してるなあって、たまに思うの」

「君がフォローしてくれて助かっているよ。玲子ちゃんだって忙しいのにね」

「あたしはこの子たちが大好きだから。好きでやってるだけだよ」

 僕は今では完全に目が覚めていたけど、父さんと玲子叔母さんの会話を聞きたくて、寝た振りをしていた。

 罪悪感はあったけど、父さんが僕たちのことをどう考えているかなんて直接聞いたことがなかったので、僕の中で好奇心が罪悪感に打ち勝ったのだった。

 それにナオって誰だ。もちろん奈緒のはずはないけど、このタイミングでその名前を聞かされるとびっくりする。マキっていう人も知らない人だし。

「だいたい結城さんとこの雑誌ってクラシックの専門誌でしょ? 本当にこの時期そんなに忙しいの?」

「また馬鹿にしたな。零細誌は零細誌なりにいろいろあるんだよ」

「あ・・・・・・」

「どうした?」

「そういや結城さんの『クラシック音楽之友』の先月号読んだんだけどさ」

「どうかした?」

「ジュニクラの都大会の記事書いたのって結城さん? 署名記事じゃなかったけど」

「そうだよ。ピアノ部門だけだけど」

「高校生の部の優勝者の批評って・・・・・・」

「おい。ちょっと、それは今はまずいよ」

「・・・・・・大丈夫。二人ともよく寝てるから。あの記事ちょっと恣意的って言うか酷評し過ぎてない?」

「どういうこと?」

「カバンに入ってたな、確か・・・・・・ああこれだ」

 

『鈴木奈緒の演奏は正確でミスタッチのない演奏だった。きわめて正確に作曲者の意図に忠実に演奏するテクニックは、非常に完成度が高い。ただ、同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコンクールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いないが、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人とも富士峰女学院の同級生だそうだ』

 

「・・・・・・これって酷すぎない?」

「感じたままを書いたんだけどな」

「別に無理にナオちゃんを酷評する必要なんかないのに」

「別に無理にとかじゃないよ。こういう仕事をしている以上、身びいきじゃなく正確に感じたことを書かないとね。あの時の一位と二位の受賞の結果は正しい。でも将来性に関しては太田の感情表現の方が将来楽しみだというのがあの記事の趣旨だよ」

「何かさあ。昔姉さんから聞いたんだけどさ」

「何?」

「大学時代に先代の佐々木の婆さんがさ」

「・・・・・・ああ」

「結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なくて感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ」

「・・・・・・ああ」

「あれと同じじゃん。結城さんの批評ってさ」

 もうすっかり目が覚めていた僕は、寝た振りをしながら、志村さんからもらったWEBのコピーを思い出した。

 

『東京都ジュニアクラシック音楽コンクールピアノ部門高校生の部 受賞者発表』

『第一位 富士峰女学院高等部2年 鈴木奈緒

『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』

『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』

 

 父さんの雑誌の批評は、この時の奈緒の演奏に関するものらしかった。やはりこの会話は僕の彼女に関する話題だったのだ。二人の話にあがっているナオとはどうも奈緒のことらしい。

 このとき優賞した奈緒が今では僕の彼女だということを、父さんと叔母さんは当然知らない。

 それでも、仕事柄父さんは奈緒のことを批評記事の対象としてよく知っているようだった。でもそれだけではないかもしれない。奈緒と会うとかマキさんとかいったい何のことなのか。

 父さんの仕事がクラシック音楽の雑誌の編集である以上、こういうことがあっても不思議はないのだけど、それにしても父さんのような職業で音楽を聞いている人に注目されるほど奈緒は有名だったのだ。

 僕は、二人の会話の中で面会のこと以外にも気になることがあることに気がついた。

 

『別に無理に奈緒ちゃんを酷評する必要なんかないのに』

 

 叔母さんのこの言葉はどういう意味なのだろう。どうして父さんが無理に奈緒のことを酷評する必要があるのだろうか。

 父さんは職業の必要上から都大会のピアノ部門高校生の部の優勝者の批評記事を書いただけではないのか。

 それから僕は初めて自分の実の母親の情報も耳にしたことになる。

 

『結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なくて感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ』

 

 父さんと僕の本当の母さん、それに話からすると玲子叔母さんも同じ大学に通っていたのだろうか。

 そして実の母さんも奈緒と同じでピアノの演奏をしていたのだろうか。僕はこのとき、閑静な住宅街にあるピアノ教室の玄関を思い出した。今までは気にしたこともなかったけど、あの教室には一枚の看板が控え目に掲示されていた。

 

『佐々木ピアノ教室』

 

「それはだな」

 父さんが何かを話し出そうとしたとき、明日香が身じろぎして目を覚まして起き上がった。

 結局、楽しかったひと時の集まりが解散したのは夜中の一時前だった。起き上がった明日香に対して、父さんはもう寝た方がいいよと声をかけた。

「うん。もう寝る。叔母さん一緒に寝よ」

 明日香は叔母さんに言った。叔母さんは笑い出した。

「明日香が珍しくあたしに甘えてるからそうするか。結城さん、いい?」

「うん。そうしてやって。さて、じゃあもう寝るか。おい奈緒人も起きなさい」

 もともと起きていた僕だけど、父さんに声をかけられて目を覚ました振りをした。

奈緒人もちゃんと起きたか? 歯磨いてさっさと寝た方がいいよ」

 叔母さんが笑って言った。

 こうしてこの夜の小宴会は解散になった。叔母さんは洗い物をすると言ったけど、明日も仕事があるんだからと父さんは叔母さんを止めて明日香の方を見た。

「明日あたしがやっておくよ。叔母さん行こ」

「明日香も大人になったなあ。じゃあ明日香に甘えるか。結城さん、奈緒人。お休み」

「お休み玲子ちゃん」

「お休み叔母さん」

 父さんと僕が同時に言った。二人が出て行くと父さんが伸びをして眠そうにあくびをした。歯磨きを済ませて自分の部屋に戻った僕は、誰かからLINEでメッセージ来ていることに気がついた。

 有希さんからだ。

 

『こんばんわ。いきなりごめんなさい。そこで引かないでくださいね。奈緒に彼氏ができたって聞いてびっくりです。昔からピアノ一筋だと思っていたのに裏切られた~(笑)でもよかったと思います。奈緒って昔からもてたけど、その割には男の子に興味がないみたいだったから少し心配だったんです。本当は今まで奈緒の方が気に入る男の子があらわれなかっただけなんでしょうね。奈緒人さんは初めて奈緒が付き合いたいと思った男の子だったのね。奈緒のことよろしくお願いします。あと奈緒に対する十分の一くらいでいいからあたしのことも相手してね』