yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第1部第9話

 冬休が終った最初の登校日の朝、僕はいつもよりだいぶ早い時間に起きて、普段より一時間以上早い電車に乗った。

 自分も近所の公立高校に登校しなければならない明日香は、僕を大学の途中まで送っていくと言い張った。それから登校しても自分の授業に間に合うからと言って。

 僕の決心が揺らいで、いつもの時間に奈緒と待ち合わせてしまうことを恐れたのだと思うけど、それは無駄な心配だ。

 今の僕は奈緒と顔を会わせるどころか、彼女の表情や声を思い出すことさえ自分に禁じていた。

 必死に努力し、他のことを考えて気を紛らわせ、奈緒のことを思考から遠ざけようとしていた。

 そうすることによってのみ、僕の世界はとりあえず崩れ去っていくことなく、その姿を保ち続けることができたのだ。

 今までだって幸せに新年を迎えたことなんかなかった僕だけど、それでも今年の正月はろくなことがなかった僕の人生の中でも、最悪の日々だった。

 パニック障害による吐き気やめまいが発現すると、普通に立っていることすらできなくなる。

 そうなってしまったら、頭を抱えて床にしゃがみこむか、横になってその辛い状態が終るのをひたすら耐えながら待つしかない。

 その症状の発現の引き金になるのは、やはり奈緒のことを考え出したときだった。だから僕は奈緒のことはなるべく考えないようにしていたのだけど、それでも彼女のことを全く考えないというのは不可能だった。

 これは悲劇的な偶然だった。本当にありえないほどの確率で起こった、神様の残酷な悪戯だ。そもそも僕には実の妹がいたことさえ、聞かされていなかったのだ。

 僕には過去の記憶があまりない。中学や高校時代の記憶はわりと残っているのだけど、それ以前の記憶はほとんどないか、あってもまだらな光景の断片が頭に浮かぶくらいで、まとまった記憶はないのだ。

 何よりも、自分が父親の連れ子で今の母親が実の母でないことすら、去年両親から聞かされるまで覚えていなかった。

 だから、自分には明日香ではない、血の繋がった本当の妹がいるなんて、全く考えたことがなかったのだ。 

「あたしだって全部知ってるわけじゃないんだけど」

 僕が比較的落ち着いている状態のときを見はからって、明日香は自分の知っていることを少しづつ話してくれた。

 父親が僕の本当の母親と離婚したあと、今の母親と再会し、明日香には突然兄ができた。

「前から知り合いだったんだって。パパとママって」

 後に明日香は僕のことを嫌いになるのだけど、両親が再婚して僕と一緒に住み始めた当初からそうだった訳ではないという。

「ママって忙しいじゃん? それは昔からで、あたしはママにじゃなくて叔母さんに育てられたようなものだった」

 今だに玲子叔母さんと明日香の仲がいいのは、そういう理由だそうだ。

「パパとママが再婚してからは、ママも結構早く帰ってくるようになってね。家族みんなで夕食とか、今までしたことがなかったから、あの頃はすごく楽しかった」

「よく覚えてないなあ」

「でも、一年くらい経ったら、またママの帰りは遅くなちゃったけどね」

「それでさ」

 僕は慎重にその名前を思い起こした。まだ大丈夫。 

「大丈夫なの?」

 僕の意図を察した明日香が先回りして言った。

「大丈夫だよ。話してくれる?」

「お兄ちゃんの前のお母さんが、お兄ちゃんの妹を引き取ったんだって」

「そうなんだ」

 兄妹を引き離すのってどうなんだろう。世間では良くある話なのだろうか。

「パパは、けっこうたびたび奈緒と会ってたみたいだよ。面会っていうの?」

「そうか」

 僕はそう聞いて二つのことを考えた。

 一つは、父さんは奈緒と面会しているのに、僕の実の母親は僕に面会しようと思いもしていなかったということ。

 二つ目は単純な疑問だけど、父さんはたびたび面会している自分の娘の演奏を、なんでわざわざ雑誌で批判的な批評をしたのか。

「あの子の住んでいるところ知ってる?」

 明日香は僕のパニック障害を心配したのか、注意深くその名前を避けているようだった。

「知ってるよ。一度家の近くまで送っていったことがある」

 そこでのキスが思い浮かんで慌てて記憶を遮ろうとしたが、どうも思い出しても大丈夫のようだった。

「明日香は奈緒と」

 僕は思いきってその名を口にした。

「会ったことがあるの? あの朝のときより前に」

「あるよ。ていうか奈緒って口にして言っても平気?」

「うん」

「うんと小さい頃会ったことがある。でも、最近は全然会ってなくて、この間がすごく久しぶり」

「それでよくわかったね」

「すぐにわかったよ。顔と名前が記憶の中の奈緒と一致したから」

「それでいろいろしてくれてたんだね」

 明日香は少し赤くなったけど、すぐ表情を引き締めた。

「お兄ちゃんはさ。引き離された実の兄と妹がさ、まるでラノベみたいに偶然に出会ってお互いに好きになるなんてことがあると思う?」

「でも本当に偶然なんだ。あの朝、たまたま早く出かけたのも、急に雨が降ってきて奈緒を傘に入れたのも」

 奈緒との最初の出会いに作為はなかったと思う。

「あたしは奈緒がわざとお兄ちゃんに近づいて、お兄ちゃんを誘惑したんだと思うな」

 明日香は奈緒の悪意を疑っているようだった。

 でも、僕に抱きついて僕の方を恥かしそうに見上げたていた奈緒を思うと、僕は明日香が間違っていると確信できた。

 彼女もまた実の兄妹であることを知らず、僕を好きになったのだ。

 でもそう考えたとき、またパニックになりそうな予感がして、僕はあわてて奈緒の表情を頭の中から拭い去った。

 奈緒の意図はともかく、明日香の言うとおり僕は奈緒とはもう二度と会うべきではない。

 奈緒が僕のことを、本当の兄だと知ったらどんなに衝撃を受けるだろう。

 それに比べれば、いきなり彼氏からの連絡が途絶えた方がまだましだろう。

 僕は明日香の勧めに従って奈緒のLINEをブロックした。

 だから休暇の間中、奈緒からのLINEのメッセージを僕が見ることはなかった。

 こうして辛い休暇を過ごしている間、ただ一つだけ心が暖まったのは、明日香の行動の謎が解けたことだった。

 僕と奈緒が付き合い出してから、明日香が取っていた不思議な行動の意味を初めて理解した僕は別の意味で涙を流した。

 明日香はずっとこんな僕を守ろうとしてくれていたのだ。

 多分、そのために彼氏と別れたり自分の友だちとの付き合いを切ったりしてまで。

 冬休みが終って登校日が来るまで、僕は明日香に依存することによって心の平穏を辛うじて保っていたようだった。

 うっかりと奈緒との幸せだった記憶を思い出してしまい、吐き気とめまいに襲われてのた打ち回っているときでさえ、明日香は僕を必死で抱きかかえていてくれた。長いときには三十分くらいの間ずっと。

「大丈夫だよお兄ちゃん。あたしがもうずっとお兄ちゃんと一緒にいるから」

 

 休み明け初日の講義は午前中で終った。

 今日は渋沢や志村さんに奈緒のことを聞かれることはなかったけど、いつかは他意のない会話の中で、そのことに触れられることがあるだろう。

 その時どう答えればいいのか今は見当もつかないけど、それも考えておかなければいけないことだった。

 正直に言えば、学校の友だちなんかにどう思われようが、そんなことを気にする段階は過ぎていたのだけど、友だちの会話に混乱したりすると、いつパニックが起こるかもしれない、

 ただ、今度のことに関しては、奈緒が自分の妹であるということ以外には、僕にだって何も理解できていないわけで、渋沢たちにどう説明するのかもわかっていなかった。

 明日香がいてくれる間は、僕は思考を停止していられた。僕が何をすべきかを明日香が考えて僕に伝えてくれる。

 わずか数日の間に、僕はすっかり明日香に依存するようになってしまっていた。まるで明日香がモルヒネのような強い痛み止めであるかのように。

 明日香は百パーセント僕の味方だった。このひどい出来事を通じて唯一、新たに信じることができたのは、明日香の気持ちだけだった。

 そう考え出すと、今この瞬間に一人で大学内にいることがすごく不安に感じられた。

 早く家に帰ろう。帰って明日香のそばにいよう。

 いつかは向き合わなければいけないことなのはわかっていたけど、今はまだ無理だ。

 急いで大学の校門を出ようとした。

「あ、来た」

 明日香が校門の前でたたずんでいた。

 前みたいに派手な格好をしなくなっていた明日香だけど、どういうわけか派手だった頃よりうちの大学の男たちの視線を集めてしまっていた。

 当の本人は、自分のほうをちらちら見ている男子大学生のことなど気にする様子もなく、僕の腕に片手をかけた。

「来てたのか」

 僕はもう明日香に会えた安堵心を隠さなくなっていた。

「お兄ちゃんが不安だろうと思ったし、それに行くところもあるから」

 明日香はあっさりと言って僕の手を握った。

「じゃあ、行こうか」

「行くって? 家に帰るんじゃないのか」

「うん」

 明日香が柔らかい声で何かを説明しようとしたとき、背後から渋沢の呑気な声が聞こえた。

奈緒人。今帰りか? って明日香ちゃんも来ていたんだ」

 渋沢と志村さんが僕たちの背後に並んで立っていた。

「珍しいじゃん。おまえが明日香ちゃんと一緒なんてよ」

 二人の視線が申し合わせたように握りあっている僕と明日香の手に向けられた。

「今日はずいぶん仲いいのな」

 渋沢が戸惑ったように言った。

「ま、まあ、兄妹だもんね。それよか明日香ちゃんって奈緒人君の妹だったのね。あたしたちこの間まで全然知らなかったよ」

 志村さんが取り繕うように笑ったけど、その笑いは不自然なものだった。

「・・・・・・どうも」

 明日香が言ったけど、その声にはついさっきの柔らかな様子は全く消え去っていた。

 むしろ明日香の声には、志村さんに対する敵意のような感情が感じ取れた。

「君たちも帰るところ?」

「ああ。カラオケでも行こうかって話してたんだけど。よかったら一緒に行かね?」

「悪い。僕たちこれから行くところがあるから」

「そうか。まあ急に誘ったって無理だよな。じゃあまた明日な」

「うん、また明日」

 相変わらず志村さんを敵意を持って睨んでいるような表情の明日香を促して、僕たちは歩き出した。

「どうしたんだよ」

「お兄ちゃん。そっちじゃないよ」

 明日香は僕の質問には答えずに僕の手を引いて、自宅方面への下りホームではなく反対側の上りホームへのエスカレーターの方に向かって行った。

「・・・・・・どこに行くんだ」

 僕は思わず震え声が出そうになるのを必死に抑えて言った。自宅と反対方向に向かうと知っただけでも動揺を感じる。

 それにこの方向だと一駅先には富士峰女学院がある。

 明日香が僕を振り返った。

「叔母さんのところに行こう。お兄ちゃんももうそろそろ過去のことを知らないといけないと思う」

 このときの明日香は僕の妹というより頼りになる姉のようだった。

「知るって何を」

「いろいいろと。このまま目をつぶって耳を塞いでいてもお兄ちゃんの不安はなくならないと思うの。ちょっと辛いかもしれないけど、そろそろ昔のことを思い出した方がいい」

「・・・・・・どういう意味? 昔のことなんか聞いたって今回のことは何も変わらないだろ」

「昔の奈緒のこと、お兄ちゃんの本当の妹のこと思い出せる?」

 思い出せるどころか、僕には妹がいたことさえ記憶になかったのだ。

「叔母さんももう知っておいた方が、そして思い出せるようなら思い出したほうがいいって言ってた」

 僕は再び得体の知れない不安におびえた。明日香が僕の手を握っている手に力を込めた。

「大丈夫。何があってもこの先ずっと、あたしはお兄ちゃんと一緒にいるから」

 僕は明日香を見た。少なくともこれは罠じゃない。明日香を信じよう。

「わかった」

 上りの急行電車がホームに滑り込んできた。

 車内にはうちの大学の学生もいたけど、知り合いの姿はなかった。そして幸いなことに富士峰の生徒の姿も見当たらない。

 昼下がりの車内は空いていたため、僕たちは並んで座ることができた。こうしていると土曜日の午後の電車の中で奈緒と並んで座ったときの記憶が自然に蘇ってきた。

 一度有希の件で仲違いしかけて、そして仲直りしたあの日もそうだった。

 あの時、奈緒は僕の胸に顔を押し付けるようにしながら「本当にあたしのこと嫌いになってない」って小さな声で言ったのだった。

 それは本当に短かった僕と奈緒の一番幸せだったときの記憶だった。

 僕は妹と一緒にいたせいで油断していたのかもしれない。今まで避けていた奈緒との記憶を反芻することをうっかりと自分に許してしまったのだ。そしてその記憶は一瞬の間だけはひどく甘美なものだった。

 でも次の瞬間、甘美な記憶は強制的に場面転換された。

 

奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の妹じゃないの』

 

 記憶の中で僕は振りかえる。

 賑わっているファミレスで真っ青な顔で立ちすくんでいた明日香。明日香の背後からいつもなら大好きな叔母の陽気な声が、このときは陰鬱なエコーがかかってひどく低い声で反響しながらあのセリフを繰り返す。

 

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹じゃないの』

 

 急にめまいが激しくなった。記憶から呼び戻された僕の視界には、ぐるぐると回転する電車の床と座席に座っている見知らぬ人の靴が映り込んだ。

 吐き気をもよおした僕は姿勢を保っていられずに、空いているロングシートにうつ伏せるように横になった。

 目をつぶっても、視界には電車の床がぐるぐる回っているままだった。そして耳には叔母さんの低い声が同じフレーズをループして延々と繰り返されている。

 何度も聞いているうちにそのフレーズは意味を失い、ただ不快なだけの雑音に変わっていった。

 とりあえず吐けば楽になるかもしれない。僕がそう思ったとき、突然視界が閉じ耳がふさがれたように感じた。

 不快な視覚と聴覚が消失した替わりに、唇を覆っている湿った感触が頭を占めた。吐き気もおさまっていく。僕は妹にキスされたままで妹の小柄な体に必死に抱きついた。明日香が僕の口から自分の口を離した。

「大丈夫?」

「・・・・・・うん」

 僕は覆いかぶさっている妹の体ごと自分の体を起こした。

「悪い」

「気にしなくていいよ。お兄ちゃんのことはあたしが守るから」

 さっきまでの不快感と痛みが嘘のようにおさまっていた。

 明日香は僕の額を濡らしている気味悪い汗をハンカチで拭いてくれた。明日香に拭かれている顔が気持ちよかった。

 ようやく周囲の視線を気にすることができた僕は、赤くなって妹から体を離そうとしたけど、明日香はそれを許さなかった。

「もう少しあたしのそばにいた方がいいよ」

 明日香は僕を自分の方に抱き寄せるような仕草をした。

「お二人とも大丈夫?」

 そのとき、向かいに座っていた老婦人が僕たちを心配そうに眺めて声をかけてくれた。

「はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」

 明日香が老婦人にお礼を言った。

「発作とかなの? 車掌さんを呼びましょうか」

 彼女は明日香のキスのことには触れずにそう言ってくれた」

 明日香が僕をうかがったので、僕は首を振った。

「いえ、次の駅で降りますし本当に平気ですから」

 電車が駅に着いた。この駅に来たのは初詣のとき以来だ。

「お兄ちゃん立てる?」

「大丈夫だと思う」

 僕は明日香に抱かれながら立ち上がって、開いたドアからホームに降り立った。

「気をつけてね」

 老婦人が声をかけてくれた。

「今日はやめておく?」

 ホームの固いベンチに僕を座らせた明日香が迷ったように言った。

「お兄ちゃん、ごめん。あたしちょっと急ぎすぎてたかも」

 冬の冷気が熱く火照っていた僕の顔を冷やして、それがすごく心地いい。僕は急速にさっきまでのパニックから回復していくように感じた。

「おまえのせいじゃないよ。助けてくれてありがとう、明日香」

「でも、まだちょっと早かったのかも」

「いや。明日香がいてくれれば平気だよ。今だっておまえが」

 明日香がどうやって僕を正気に戻したかを改めて思い出した僕は、そこで言いよどんだ。

「・・・・・・ごめん。でも何となくああした方がいいと思ったから」

「いや。今だって明日香がああしてくれたから僕は正気に戻れたんだし。叔母さんの話を聞くよ。それでパニックになったらまた僕のこと助けてくれるか」

 明日香はそれを聞いて赤くなったけど、その口調は真面目そのものだった。

「うん、安心していいよ。お兄ちゃんが楽になるならキスだって何だってするから」

「ありがとう」

「もう大丈夫?」

「ああ」

「じゃあ、お兄ちゃんがいいなら行こう」

 明日香はベンチで座っている僕に手を伸ばした。僕は迷わずに明日香の手を握って立ち上がった。

 

 叔母さんとはあの日のファミレスで待ち合わせなのかと思ったけど、明日香が言うには叔母さんは会社まで来てくれと言ったらしい。

 僕にしても、あの夜の現場のファミレスに行くのは気が進まなかったから、それは好都合だった。

「叔母さんも了解してくれてるのかな・・・・・・その・・・・・・、僕の過去を話してくれることを」

 叔母さんだって父さんや母さんに黙って、僕に全てを話してくれるのは気が重いのではないだろうか。

 初詣のことは、僕が実の妹と付き合っているなんてことを嬉々として報告したから、慌てて釘を刺そうとしただけなのだろう。

 叔母さんは僕が奈緒のことを実の妹だと認識しているのだと誤解していたのだ。

 僕は叔母さんを恨んではいなかった。むしろ叔母さんに迷惑をかけてしまうことの方を恐れていた。

「うん。叔母さんと相談して決めたの。だからお兄ちゃんは余計な心配しなくていいよ」

 明日香はあっさりとそう言った。

 駅から十分ほど坂を降りたところに叔母さんの勤めている会社のビルがあった。

 想像していたより随分こじんまりとした建物だ。

 叔母さんの勤務先は誰でも聞いたことがある出版社なので、僕は何となく高層ビルのようなイメージを持っていた。

 実際には十階建てくらいの茶色のビルで、その入り口に社名の表示板が掲げられていた。

 

「株式会社 集談社」

 

 それでもそのビルの中は、外見から想像できるより綺麗な建物だった。ビルの中に入ると、受付前にプレートが掛かっていて、その中に叔母さんが作っている雑誌の名前も表示されていた。

 

「5階 ヘブンティーン編集部」

 

 でも明日香はその表示を無視して受付の女性のところに真っ直ぐに歩いて行った。

「いらっしゃいませ」

 受付の綺麗な女性が頭を下げた。

「すいません。ヘブンティーン編集部の神山の家の者で結城と言います。神山と約束をしているんですけど」

 神山は母さんの前の前の姓だ。

 父さんと再婚してから、母さんと明日香は結城姓になった。叔母さんはずっと独身だったから未だに神山という名前だ。

 それにしてもたかが高校生のくせに明日香は随分と堂々と振る舞っている。

「そちらで少々お待ちください」

 受付の女性はロビーのソファを僕たちに勧めて内線電話を取り上げた。

「神山さん、そちらの方です」

 エレベーターから現われてきょろきょろしている叔母さんに受付の女性が声をかけた。

「ああいた。陽子ちゃんありがと」

 受付の女性に微笑んでお礼を言った叔母さんが僕たちに話しかけた。

「おう。二人ともよく来たね」

「ちょっと遅くなっちゃった」

「叔母さん今日は。今日は忙しいのにすみません」

「こら奈緒人。こないだ敬語はやめるって約束したじゃんか」

 叔母さんが笑った。

 僕たちは叔母さんに連れられて社内の喫茶店に座った。ここはよく打ち合わせに使われるほか軽食も取れるので便利なのだそうだ。

「あんたたち昼ごはんは?」

「食べてないよ」

 明日香が答えた。

「あたしもまだだから何か食べようか。つってもここは大したもんができないけどね」

 正直僕は食事ができるような状況ではなかったけど、ここで自分の体調の悪さをアピールするのも嫌だった。それは叔母さんを無駄に心配させることになる。

 さいわい明日香は僕の発作のことを考慮してくれたのか、あたしたちはあんまりおなかが空いていないからと言って食事を断ってくれた。明日香本人は空腹だったかもしれないのに。

「そう? じゃああたしだけ食っちゃおう」

 叔母さんはナポリタンとコーヒーを三つ注文してから改めて僕たちを眺めた。

「最初に言っておくよ。奈緒人にも明日香にもこの間は悪いことしちゃったね。ごめんなさい」

 叔母さんが僕に頭を下げるのは初めてだったのではないか。

 僕は驚いて叔母さんに言った。

「叔母さんが謝ることなんか何にもないよ。僕のことを考えて言ってくれたんでしょ」

「うん。それはそうだけど、明日香が一生懸命奈緒人を守ろうとしていたことを、考えなしに邪魔しちゃったから」

「もういいよ。振り返っていたって仕方ないし。それより大切なことはこの先のことでしょ」

 明日香も言った。

「うん。明日香の言うとおりだ。じゃあ、もうあたしはあんたたちに謝らないよ」

 僕と明日香は二人してうなずいた。

「じゃあ、本題に入るけど。あたしは全部を知っているわけじゃないけど、姉さんの妹だし結城さんとも古い知り合いだから、奈緒人に教えられることはあるんだ。

 でも、本当はあたしが勝手に教えちゃいけないんだと思う。結城さんや姉さんが奈緒人に話すべきだと思っているから」

「はい」

 僕は緊張しながら言った。

「こんなことになった以上、奈緒人が全部知るべきだという明日香の意見は正しいと思うけど」

 ここで少し叔母さんはためらった。

「でもね、そうは言っても、姉さんや結城さんに奈緒人と奈緒ちゃんが付き合ってたなんて言えないしね」

 それは叔母さんの言うとおりだった。これだけはとても両親に知られるわけにはいかないのだ。

「だから、姉さんや結城さんには聞けないだろうから、怒られちゃうかもしれないけど、あたしが知っていることは全部あんたたちに話すよ」

「ちょっと待って」

 明日香が不審そうに言った。

「あんたたちってどういう意味? あたしはママの離婚前の出来事とかは、お兄ちゃんと違って記憶に残ってるし、それにあたしは叔母さんに昔の話を聞いてるよ」

「明日香にだって全部話したわけじゃないのよ」

 叔母さんは僕を見つめた。

「今だって奈緒人は傷付いてると思うけど、昔の話を聞いても平気なの?」

「うん。明日香とも話したけど、僕は聞いておくべきだと思う。それに辛くても僕には明日香がそばにいてくれるし」

「そうか。いい兄妹になったね、あんたたち」

 こんなときなのに叔母さんは嬉しそうに言った。

「それから明日香」

「何よ」

「あんたにも話していないこともあるからさ。奈緒人だけじゃなくてあんたにだってショックな話もあるかもよ」

 一瞬、明日香は黙った。それから僕を見ながら叔母さんに答えた。

「うん。それでも聞かせて。お兄ちゃんにあたしがいるように、あたしにだってお兄ちゃんがついていてくれると思うから」

 僕は明日香の手を握った。

「わかった」

 僕たちが手を取り合ったのを見て、叔母さんの顔を一瞬微笑みが通り過ぎた。

「さてどこから話すかな。最初は明日香は知っている話になるな」

 明日香はうなずいた。

「最初から話して。お兄ちゃんは何も覚えてないと思うから」

「そうだね。じゃあ奈緒人の話からしようか。奈緒人、あんた自分の実のお母さんとか実の妹、まあ奈緒ちゃんなんだけど、この二人のこと今まで全く思い出したことないって本当?」

 奈緒の名前が叔母さんの口から出たとき、明日香は僕の手を握る自分の手に力を入れた。気をつかってくれているのだ。

 でも奈緒の名前を聞いても不思議と動揺はなかった。この先の話に気を取られていたせいかも知れない。

「うん。変なのかもしれないけど、父さんと今の母さんと明日香とみんなで、一緒に公園で遊んでいたときの記憶が、多分僕の一番昔の記憶なんだ。小学校に入る前だと思うけど」

 明日香が妙な表情をした。

「結城さんと姉さんから一応話は聞いたんでしょ?」

「うん。父さんと母さんは再婚同士で、僕は母さんの本当の子どもではなくて明日香も父さんとは血が繋がっていないって」

「再婚が何年前か聞かなかった?」

「どうだろう。それは聞いていないと思う」

「明日香は?」

 叔母さんが明日香を見た。

「あたしは知ってるよ。去年聞いたわけじゃなくて自分ではっきりと覚えてる」

 明日香は僕から視線を逸らした。

「ママが再婚して、今のパパとお兄ちゃんがあたしのうちに来たのは、あたしが保育園の最後の年だよ」

「うん。明日香の記憶は正しいな。奈緒人、あんたに新しい家族ができたのはあんたの小学生の頃だったよ、確か」

「そうなんだ。ごめん、やっぱり全然思い出せない。もっと前から今の家族と一緒に暮らしていたような気がするだけで」

 今の僕にはそうとしか言えなかった。

 僕に残っている一番古い記憶は、公園で明日香を遊ばせているひどく曖昧な思い出だけだった。

 あのとき、逃げ惑う鳩をよちよちと追い駆けていた明日香が転ばないように、僕ははらはらしながら追い駆けてたんじゃなかったか。

 そしてそのときの自分が、目の前をよちよちと危なげに歩いている女の子をどんなに大切に思っていたか、僕はその感情さえ思い浮かべることができた。

 それはまだ仲が悪くなる前の明日香と僕の貴重な記憶だった。

「だからさ。あんたも少なくとも奈緒ちゃんの記憶はあるってことだよ」

「どういうこと?」

 僕は混乱した。自分の中では奈緒の記憶なんて欠片も残っていないのに。

「お兄ちゃんが公園であたしと遊んだ記憶ってさ、それあたしじゃないと思うよ」

 明日香が目を伏せて言った。

「あんたが明日香と暮らし始めたのは、あんたはもう小学生で明日香が保育園の頃だからさ。あんたの記憶の中の幼い兄妹っていうのは、あんたと奈緒ちゃんだろうね」

 叔母さんがそう言った。

 では僕の思い出は勝手に脳内で補正され、かつての家族の記憶を今の家族の記憶に上書きしてたのだろうか。僕は少し混乱していた。

「まあ、それは今は深く考えなくていいよ。とりあえずあたしが知っている事実関係だけをこれから話すからね」

「わかった」

 僕は叔母さんに答えた。今はとにかく真実を知ろう。

 僕の脳内の記憶は辛い部分を勝手に補正して美化しているようだったから、とりあえず事実を認識するところから初めようと僕は思った。

「明日香には前に話したことだけど、奈緒人と奈緒ちゃんのご両親の離婚の原因は、直接的には奥さんの育児放棄が原因なの」

「・・・・・・うん」

 今度は僕は動じなかった。そう言われても自分事として感じられなかったから。

「その頃、結城さんはすごく忙しかったみたい。今でも忙しいんだろうけど、その頃は今どころじゃないくらい、本当に体を壊しかけたくらいに仕事に没頭していたのね」

「うん」

奈緒人のお母さんはその頃は専業主婦だったから、あんたと奈緒ちゃんが寂しい想いをすることはなかったはずだった。たとえ父親がいなくても母親は家にいるはずだったから」

 いるはずだったとはどういう意味なのだろう。僕は叔母さんを見た。

 叔母さんも僕の疑問を予期していたのか、少しだけ迷ってから話を再開してくれた。

「あとで児童相談所の担当の人から聞いたんだけど、その頃の奈緒人と奈緒ちゃんってひどい状況で放置されていたんっだって」

「ひどいって?」

 僕にはそんな記憶は全く残っていない。

「正確な原因はわからないんだけど、多忙な結城さんと会えなかったあんたのお母さんは、心の平穏を失っていったみたいなの」

「どういう意味?」

「あんたのお母さんは本当に結城さんのことが好きだったんだろうね。その結城さんがいなくなって一人で幼いあんたと奈緒ちゃんを育てることがプレッシャーになったのかもしれない」

「・・・・・・要するにどういうことなの?」

 僕は我慢しきれずに叔母さんに言った。問い詰めるような口調になってしまっていたかもしれない。

 再び不安そうな表情の明日香が僕の手を握り締めた。

「あんたと奈緒ちゃんのお母さんはあんたたちを家に二人きりで放置して、外出して男の人と遊んでいたの」

「遊ぶって」

「・・・・・・あたしはあんたのお母さんに会ったことがあるよ。離婚調停が始まったころだけど、すごく綺麗な人だった。とても既婚で二人の子どもがいるようには見えなかったな」

 そのとき、記憶が再び蘇った。それはあの時とは違って圧倒的なくらい鮮明なイメージを伴っていた。

 その日も朝から母親が家にいなくなっていた。

 普通なら幼稚園に行っていなければいけなかったはずの僕と妹が目を覚ましたときには、家には母親がいなかったし、幼稚園に行く支度もお弁当の用意もされていない。

 妹は大嫌いだった幼稚園をサボれることに満悦の笑みを浮べて僕にまとわりついてきた。

 僕はキッチンや冷蔵庫の中から冷たいハムやトーストされていないカビが生えかけたパンを取り出して、妹と一緒にむさぼるように食べた。

 そんな貧弱な食事でも僕と一緒に家にいられることを妹は喜んでいた。

 でもさすがに夜になると、妹も母親を恋しがってめそめそしだした。

 そんな夜が何晩も続くと、次第に自分にとって何が一番大切なのかを僕は思い知らされた。父のことは嫌いではない。

 でも、食べ物すら乏しい中、妹が泣きながら衰弱しているのを眺めて、誰もいない家に怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締めていた僕にとって、そのとき一番大切なのは妹だけだった。

 母親なんか論外だけど、これほどの危機に助けに来てくれない父親すら、そのときの僕の眼中にはなかったのだと思う。

 僕が自分の生命を賭けても助けなければいけないのは、あのとき僕の目の前で次第に衰弱していった妹だけなのだ。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 気がつくと明日香が僕を心配そうに見ていた。「思い出したみたいだね。大丈夫か? 奈緒人」

「うん。大丈夫だと思う・・・・・・でもこんなこと今までよく忘れていたって思うよ、自分でも」

「きっと辛かったから自分で記憶を封印していたのかもね。人の心って自分で思っているより自己防衛機能が発達しているって、前に取材で脳生理学者の人に聞いたことあるよ」

「うん」

「大丈夫? 続けてもいい?」

「続けて。こうなったら全部聞いて思い出せることは思い出したい」

 僕は叔母さんに言った。情けないことに僕は明日香の手にしがみついていたけれども。

「さすがに不審に思った幼稚園の関係者と近所の人たちが、児童相談所に通報したらしいの。児童相談所の人たちは、散らかった家で食事もせずお風呂にも入らないで、何日間も過ごしていた様子のあんたと奈緒ちゃんを一時保護して児童相談所に連れて行ったって」

「相談所から結城さんの会社を経由して、当時海外に出張していた結城さんに連絡が行って、結城さんは出張を切り上げて帰国して、結城さんの両親に元に引き取られていたあんたと奈緒ちゃんに再会したんだって」

「それから長い離婚調停が始まったのさ。結城さんも家庭を顧みなかったことに罪悪感を感じていた。でも、専業主婦だった自分の奥さんが、男と浮気してばかりか子どもたちを放棄していたことは許せなかった。浮気そのものより大切な子どもたちを放置したことが許せなかったみたいね」

「ここまでは理解できた? って奈緒人、続けても大丈夫?」

「大丈夫・・・・・・だと思う。正直、初めて聞く話だし戸惑いはあるけど」

「そう。やっぱり明日香がそばにいるとあんたも安心するんだね。もっと取り乱すかと思ったよ」

「取り乱す以前にただ混乱している段階だよ」

「本当に平気?」

 僕は心配そうに言った明日香に無理に笑いかけた。

「わかんない。でもおまえがいてくれなかったらパニックになってたな」

「言ったでしょ。もう前とは違う。あたしは、あたしだけは、絶対にお兄ちゃんを一人にしないから」

「うん。ありがと」

「礼なんて言わないでよ。こんな状況なのに」

「じゃあ続けよう。きつかったらいつでも言いなよ」

「わかった」

「この先はさ、明日香には話したことがあるんだけどね。いろいろ揉めはしたけど結局あんたの母親は、結城さんとの離婚の条件に同意したの。あんたと奈緒を放置した彼女が何を考えていたのかはわからない。でも、どういうわけか奈緒人の母親は、自分が見捨てた子どもたちの親権にこだわっていたのね」

「最初は子どもたちをネグレクトして、面倒を見なかったあんたの母親に不利な展開だった。でも奈緒人の母親側の弁護士は優秀なやり手で、結局浮気もネグレクト自体も、根本的な原因は家庭を省みずに仕事に熱中していた結城さんが原因だと主張したの」

「それに忙しい仕事を抱えた結城さんが子どもたちをちゃんと育てられる訳がないとも。結城さんの実家の両親、つまり奈緒人の祖父母も高齢で本人たち自身にも介護が必要で子育てなんてできる状況じゃなかったことも不利な要素だったのさ」

「離婚の話し合いは家庭裁判所では決着がつかず、裁判にまでもつれ込みそうなことになっていたその時」

 叔母さんが話を区切った。ウエイトレスが叔母さんのナポリタンを運んできたからだ。

「食べながらでもいい?」

 叔母さんが聞いた。

「どうぞ。お昼食べてないんでしょ」

「悪いね。それで」

 叔母さんがナポリタンを口に入れながらも話し続けた。

「そんな結城さんに不利な状況が一変したのよ。良くも悪くもだけどさ」

「明日香のお母さん、つまりあたしの姉と結城さんは幼稚園の頃からの幼馴染でね」

「・・・・・・うそ? 初耳だよ。二人は大学時代の知り合いじゃないの?」

 明日香が驚いたように言った。

「正確に言うと姉さんと結城さんは大学で再会したんだよね。幼馴染だった二人は、小学校に入る前に結城さんが引っ越して離れ離れになったけど、大学で偶然に再び出会ったってとこかな」

「聞いてないよそんなこと」

 明日香がぶつぶつ言った。

「結城さんと大学で再会した姉さんからよく恋の相談を受けたものだったよ、あの頃はあたしも」

 叔母さんがフォークに巻きつけたスパゲッティを口に押し込んだ。

「でもさ。その時結城さんには彼女がいたんだよね。同じ大学のサークルの子がね。だから姉さんは結城さんの恋を応援したみたい。自分の結城さんへの恋心は押し隠してさ・・・・・・もうわかるよね。結城さんの当時の彼女が誰だか」

「・・・・・・僕の実の母さんですか」

「そのとおり。そして時が流れて、結城さんとあんたの母親の離婚調停が長びいている最中に、結城さんと姉さんは大学卒業以来久しぶりに再会した。音楽関係の書籍の出版記念パーティーでのことだってさ」

「それでパパとママは恋に落ちたわけね」

「うん。結城さんは自分の陥っている状況を姉さんに相談した。そんで明日香は知っていると思うけど、当時の姉さんは旦那と死別して明日香を自分一人で仕事しながら育てていた。まあ、ぶっちゃけあたしもあの頃は明日香の面倒を見させられていたんだけどさ」

「でも結城さんにはそんな幼馴染の姉さんが眩しく見えたんだろうね。自分の専業主婦の奥さんが子どもたちをネグレクトしているのに、女親一人で仕事しながら明日香を立派に育てている姉さんのことが」

「離婚調停中だったけど、結城さんと姉さんはお互いに将来を約束した。そのことを結城さんの弁護士は有利な材料に使ったの。結城さんにも奥さん候補がいて子育ては十分にできるって」

「たださあ」

 叔母さんがケチャップで汚れた口を紙ナプキンで拭いた。

「あの結末だけは今だに理解できないんだけどさ。突然、結城さんの元奥さんは、その」

「何?」

 叔母さんは躊躇するように僕の方を見た。

「今さら、何を言われても多分大丈夫だと思う。僕には明日香がそばにいてくれるし」

 叔母さんは少しだけ微笑んだようだった。

「だったら話すけど。調停の途中で、あんたのお母さんは申し立て内容を変更したんだよ。あんたはの親権はいらないって。奈緒ちゃんの親権と監護権だけ確保できればいいって」

「そうですか」

 そのときは別に何の痛みも感じなかった。母親と言われても記憶すらないのだ。

「結局、家庭裁判所の調停員の出した調停内容は、お互いに一人づつ子どもを引き取るということだった。付帯条件としてお互いに引き取れなかった子どもには、無制限に面会できることっていうことにはなっていたけど」

 ここで叔母さんは今まで以上にためらいを見せた。

「ここから先は話していいのか正直迷ってる。明日香にも話したことないし」

「全部話して。ここまで来た以上」

 明日香がそう言い僕もうなずいた。

「わかった。でもこの先はつらい話だよ」

 叔母さんは僕と明日香を交互に眺めた。そしてフォークを置いてため息をそっと押し殺して話を続けた。

「結城さんと奥さんはその内容に同意した。調停が成立したということね。そして奈緒人を結城さんが、奈緒ちゃんを奥さんが引き取ることになった。結城さんにとっては不本意だったと思うけど、親権に関しては裁判を起こしても母親が有利になる傾向があるって弁護士に言われて最後には納得したみたい。姉さんと早く結婚したいっていう気持ちも手伝ったんじゃないかと思う」

「その結論を結城さんから聞かされた次の日、その日にはあんたの母親が奈緒ちゃんを引き取りに来る予定だったんだけど」

「あんたと奈緒ちゃんはその日の朝、預けられていた結城さんの実家から逃げ出したんだって。お互いに別れるのは嫌だって」

 今まで叔母さんの説明してくれた情報量に圧倒され何の感慨も抱く暇がなかった僕の脳裏に、このとき再び封印されていたらしい記憶が蘇った。

 

『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒

『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』

 

 泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。僕は奈緒の手を引いて祖父母の家から脱走したのだった。

 その結末はよく覚えていない。でも今にして思えば、どこかで大人たちに掴まって、僕は奈緒と引き剥がされたのだ。この間偶然に再会するまで。

「明日香、あんた奈緒人とのことで姉さんからいろいろけしかけられるようなこといわれただろ。あれも姉さんの切ない気持ちだったんだと思うよ。姉さんはせっかく築いたこの家庭を壊したくなかったのよ」

「・・・・・・どういう意味?」

「姉さんにとってはやっと手に入れた幸せな家庭だからね。血の繋がっていない奈緒人を含めて大切にしていたんだよ。それは結城さんの希望どおり奈緒ちゃんも引き取れたら、姉さんは奈緒ちゃんのことも可愛がったとおもうけど、そうはならなかった。そしてそうならなかった以上、姉さんだって奈緒ちゃんのことは警戒したんだろうさ」

「警戒って・・・・・・実の妹なのに」

「別に恋人的な意味じゃなくても、奈緒人君を奈緒ちゃんに取られるくらいなら、あんたとくっついてほしいと思ったんだろうね。明日香、あんた、奈緒人君とのこと、姉さんにけしかけられただろ?」

「・・・・・・うん。しょっちゅう言われた。『明日香はお兄ちゃんのこと好き? 大きくなったら奈緒人のお嫁さんになりたい? そうよ。お兄ちゃんがパパで明日香がママになったら楽しいでしょ』って」

「姉さんを悪く思わないでやって、奈緒人。姉さんは今の家庭を守りたいだけなの」

「うん。悪くは思わない」

「あたしだってさ」

 叔母さんがいつの間にか浮べていた涙をさりげなく拭いた。

「あたしだって、こないだのファミレスで奈緒人と明日香がイチャイチャ知っているところを見かけて本当に嬉しかったのよ」

 このときの僕は思考が麻痺していた。流れ込んできた情報量が多すぎて消化不良を起こしていたのだ。

 逆に言うと言葉の持つ意味に麻痺して感情を直接刺激しない分、パニックやフラッシュバックが起きそうな感じもしなかった。

 多分今日聞いた情報を整理するようになったとき、僕は辛い思いをすることになるのだう。

 かわいそうな奈緒。僕のただ一人の妹。僕の初恋の相手。

 僕は奈緒のことを思い出したけど、この時僕が思い出せた奈緒の姿は、僕の恋人になった富士峰の高校生の奈緒の姿ではなくて、僕が忘れてしまっていたはずの幼い姿で僕にしがみついていた奈緒の姿だった。

 叔母さんの長い話が終ったとき、長らく忘れていたはずの幼い奈緒の表情や声音が驚くほどリアルに目の前に浮かんだ。

 僕はそのとき、僕を心配してくれている明日香ではない女の子を思い浮かべたことに罪悪感を感じた。

「あんたと奈緒ちゃんが結城さんと元奥さんにそれぞれ引き取られてからも、結城さんは定期的に奈緒ちゃんと会っていたみたいなの」

 その話がどういう風に展開するかはだいたい予想がついていたけど、ここまで来たら教えてくれることなら何でも知りたい。

 目をつぶって耳を塞いでいても奈緒を失った痛みは消えないのだ。それなら今まで闇の中にかすんでいた記憶に灯りを当てたとしても、辛さにはたいして変りはないだろうと僕は考えたのだ。

 僕は明日香の心配そうな顔を見て笑いかけた。

「叔母さんの話を聞きたいんだ。いいかな」

「だって・・・・・・。お兄ちゃん大丈夫なの?」

「おまえがいてくれるなら。多分」

「わかったよ」

 明日香は諦めたように叔母さんを見た。

「続けてあげて」

「じゃあ話を続けるか」

 叔母さんはちらりと僕と明日香の握り合って手を眺めた。その顔には再びほんの少しの間だけ微笑みがよぎったようだった。

「何を言いたかったって言うとね、そろそろ奈緒ちゃんがどこまで知っていて、どういうつもりであんたと付き合いだしたのかということを考えてもいいんじゃないかな」

「絶対悪意があったに決まってるよ、あの子には」

 明日香が好戦的な口調で言い放った。

「まあ最初から決め付けないで少しづつ考えていこうよ」

「うん。今はまだ何にも決め付けたくない」

 僕は二人に言った。明日香がこれみよがしにため息をついてみせた。

「あんたと奈緒ちゃんのことは、あの後明日香から詳しく聞いたよ..。幼い頃に生き別れた実の兄妹が悲劇的な偶然でお互いに血が繋がっているとは知らずに出合い恋に落ちた。奈緒人、あんたそれを本気で信じられる?」

「・・・・・・よくわからないよ」

「あんたには家族に関する知識も昔の記憶もなかったけど、奈緒ちゃんは一年間に何度も、結城さんと会っている。結城さんに聞いたことはないけど、結城さんと奈緒ちゃんがいつもいつもお互いの近況や世間話ばかしてたわけじゃないでしょ」

奈緒ちゃんが自分の生き別れたお兄さんのことを知りたがったって、何にも不思議はないよね。ましてやあんなに慕っていたあんたから無理矢理引き裂かれるように別れさせられたのだし」

「まあ、奈緒は真っ先にお兄ちゃんのことを聞いたでしょうね」

 明日香が呟いた。

「うん。多分明日香の言うとおりだよ。奈緒人、たとえあんたと奈緒ちゃんの出会いが偶然の出来事だったとしても、その・・・・・・奈緒ちゃんと仲良くなったらお互いのことを質問しあったりしたんでしょ?」

「うん。それはそうしたよ」

「お互いに名前も名乗ったんでしょ。そして鈴木奈緒という名前にはあんたは聞き覚えはなかっただろうさ。でもあんたの名前を聞いた奈緒ちゃんはそのときどう思ったのかな」

 彼女はそのときいったい何を考えたのだろうか。僕と違って奈緒は僕の名前を忘れずにいた可能性もあるし、あるいはそれを忘れてしまっていたとしても叔母さんの言うとおり父さんから僕のことを聞きだして僕の名前を知った可能性もある。

 どちらにしてもお互いに名乗りあったその時には、奈緒は僕が実の兄である可能性に思い当たったはずだったのだ。

 僕は恐る恐るそのときの奈緒の反応を思い出してみた。明日香がぴったりと僕に密着していてくれるせいかパニックを起こすことはないようだ。

 

『ナオって漢字で書くとどうなるの?』

『奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?』

『わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に最後に人って加えただけなんだけど。奈緒人って書く』

奈緒人さん、運命って信じますか』

 

 こうしてあの時のことを思い出すと、やはり奈緒は僕の本名に特別に反応していた様子はなかった。

 彼女が僕の本当の妹であることがわかった今では、奈緒の悪意の有無なんて考えたってどうしようもないのだけど、それでも僕は少しだけほっとしていた。

「あの時の奈緒は別に驚いている様子はなかったよ。多分僕のことや本名とかも知らなかったんじゃないのかな」

 叔母さんが何か言おうとしてためらった。その間に明日香が喋りだした。

「あるいは最初から自分が誘惑した相手がお兄ちゃんだと知っていたのかもね。それならお兄ちゃんの本名なんて知っていたのだろうから驚いたりもしないでしょ」

 僕は不意打ちを食らい黙ってしまった。

 確かに奈緒に悪意がある前提で考えれば、奈緒の反応は全て合理的に解釈できるのかもしれないのだ。

 このあたりまでくると、僕もそろそろ自分を納得させなければいけない状況になってきていた。

「客観的に言うとさ。明日香の言うことの方に理があるかな」

 叔母さんが言った。

「でも、奈緒にとってどんな得があるんだよ。実の兄と知って僕を誘惑したって、叔母さんも明日香も言いたいみたいだけど、言ってみれば僕と奈緒は二人とも被害者でしょ。奈緒には僕に対してそんなことを仕掛ける理由がないよ。それとも僕が知らない何らかの理由で僕のことを恨んでいるとでも言うの?」

「さあね。それはあたしにはわからない。十年近い間あんたと引き剥がされた奈緒ちゃんが、いったいどんな生活を送っていて何を考えていたかもわからないんだからね」

「じゃあ奈緒の意図については、結局はわからないということになるよね」

「今はまだね。あともう一つ気になるのは、何であんたの本当の母親があんたと一度も面会しようとしなかったってことだね」

 叔母が突然奈緒の意図から話を変えたので僕は少し戸惑った。

「ただ会いたくなかったからじゃないの」

 平静を装ってそうは言ったけど、そのとき僕の胸は少し痛んだ。

「親権をめぐってあれだけ争っていたのよ? あの人は奈緒ちゃんだけじゃなくて、少なくても最初のうちはあんたにも執着していいたはぜでしょう」

「でも現に僕はその人と会うことはなかったし、去年両親から聞かされるまでは母さんと明日香が自分の本当の家族だって思っていたくらいだし」

「まあ、そもそもそれが不思議なんだけどね」

「それって?」

奈緒人。あんたは自分が思っているほど記憶力に乏しいとか忘れっぽいとかそんなことは絶対ないよ。あたしはあんたと付き合ってきているからよくわかるけど、むしろ記憶力がないのは明日香の方だね」

「叔母さんひどいよ」

 明日香がその場を茶化すように言った。その気持ちは嬉しかったけど、叔母さんも僕も少しも笑えなかった。

「それなのに明日香さえ覚えているようなことを忘れてしまっているでしょ。幼い子どもにとっては両親の離婚とか仲のよい妹との別離とか忘れるどころかトラウマになったって不思議じゃないのに」

「さっき叔母さんが言っていた自衛本能みたいなやつなのかな」

「さあ。それならまだいいんだけどね」

「僕って本当に何一つだって考えてなかったんだね」

「どういう意味?」

「こないだの夜、僕は父さんと叔母さんの会話を聞いてたんだよね。寝たふりをしてたけど」

「そうか」

「あの会話だけでも、奈緒が僕の別れた妹だって十分にわかったはずなのに」

「・・・・・・それはしかたないよ。そもそもあんたは自分に実の妹がいることさえ覚えてなかったんだから」

 叔母さんは大分食べ残したナポリタンの皿を押しやって左手の時計をちらりと眺めた。

「そろそろ行かないとね。あたしが話せることはこれくらいで全部だし」

「うん。忙しいのにありがとう叔母さん」

 叔母さんの話を聞いたことによって少しも楽になったりはしなかったし、むしろもやもやした感じが増幅していのだけど、それでも僕は叔母さに感謝していた。

「・・・・・・元気出せ、奈緒人。こんなことに負けるんじゃないよ。あたしも明日香もあんたの味方だからね」

 叔母さんはそう言った後に、最後に一言言って話を締めくくった。

「そろそろ結城さんと真面目に話し合った方がいいかもね。奈緒とのことを博人さんに言いづらいなら、彼女のことは伏せたっていいんだし」