yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第2部第3話

 怜菜が交通事故で亡くなる前、僕は怜菜からメールを受け取った。

 怜菜が鈴木先輩と離婚してから半年近い月日が経過した頃だった。

 それは職場のPCのメーラーに届いていた。

 口には出さなかったけど、鈴木先輩と麻季と同じことをすることが気になって、僕は怜菜と携帯電話の番号やメールのアドレスを交換しなかった。

 だから怜菜は、名刺に記されていた職場のアドレスにそのメールを送信したのだろう。

 

from:太田怜菜

to:結城先輩

sub:ご無沙汰しています

『先輩お久し振りです。お元気に過ごしていらっしゃいますか。突然会社にメールしてしまってすみません。先日は見本誌を送付していただいてありがとうございました。そしてお礼が送れてすみませんでした。あたしが言うのも失礼ですけど、いいインタビュー記事でした。さすがは先輩ですね。うちの上司も喜んでいました』

『現在あたしは育児休業中です。先輩にはお知らせしていませんでしたけど、無事に女の子を出産いたしました。育児では大先輩の結城先輩に言うことではないですけど、この子があたしの支えになってくれています。以前お会いしたとき、あたしは先輩に失礼なことを言いました。「子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」って』

『でも今になってみると先輩の気持ちがわかります。今では本当にこの子のためなら何でもできると考えているあたしがいます。正直一人で育てていますので、辛いことはいっぱいあります。でもこの子の寝顔を見ていると、頑張らなきゃって思い直す日々を送っています』

『どうでもいいことを長々とすいません。最近、偶然に学生時代の友人に会いました。彼女は今は都内の公立高校の音楽の先生をしているのですけど、先日麻季に会ったことを話してくれました。休日のショッピングモールで偶然に出会ったみたいですね。先輩もご記憶かもしれません。休日出勤の途上の彼女は、麻季と立ち話で近況を報告しあっただけで別れたそうですけど、「麻季のご主人がお子さんの手を引いていたよ」と、そして「麻季はあたしと立ち話をしている間もご主人のもう片方の手にずっと抱きついていたよ」って言っていました。いいご夫婦で麻季がうらやましいって言ってましたね。彼女も未だに独身なんで(笑)』

『おめでとう先輩。元の旦那と離婚したこと自体には後悔はないのですけど、あたしなんかが余計なメールを先輩に見せたことで、先輩と麻季の人生が狂わないかとそれだけが心配でした。先輩なら麻季の気持ちを取り戻せるんじゃないかとは信じていましたけど』

『もう結城先輩とお話する機会はないでしょうし、ご迷惑でしょうからメールもこれで終わりにします』

『最後だから言わせてください。あたしは学生時代から結城先輩に片想いしていました。麻季が先輩と付き合い出したと教えてくれたとき、あたしは本当に目の前が暗くなる思いでした。でも麻季は親友でした。麻季は昔から綺麗でしたけど、性格に少し理解されにくいところがあったので友人は少なかった。でもあたしはその数少ない友人、いえ親友でした。だから先輩と麻季の結婚には素直に祝福したのです』

『その後、あたしは業界の繋がりで元の旦那に再会しました。しばらくして彼に口説かれて結婚したことをあたしはすぐに後悔しました。今までははっきりとは言いませんでしたけど、彼は結婚直後から女の出入りが激しかった。浮気がばれたことなんて片手では収まらないほどでした』

『でもそれは元の旦那が自分が既婚者であることを明かした上での付き合いでした。ところがある日、嫉妬と不安に駆られたあたしが彼の携帯のメールをチェックすると、彼は自分が独身であると言って麻季を口説いていたことを知りました。麻季があたしの親友であることを彼は知っていたのに。その後のことは先輩もご存知ですね』

『先輩はあたしのことを強い女だと言ってくれました。でもそれは誤解です。あたしは弱く卑怯な女でした。先輩から取材の依頼メールが来たとき、あたしの胸は高鳴りました。本当はあのインタビューの件はあたしの上司の係長が担当することになっていたのですけど、あたしはこの人は音大時代の親しい先輩だからと嘘を言って、自分が担当になることを納得してもらったのです』

『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなことをあたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はあたしが旦那と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩あたしに好意があるからではないことは理解していました』

『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちに、あたしは目が覚めました。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は、自分の娘を出産したときに感じた思いを通じて、間違っていなかったんだなって再確認させられたのです』

『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理なんて先輩にはないのに。でもあたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季とやり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう心境に導いてくれました』

『先輩のことだから麻季の携帯のチェックなんて卑怯な真似はしていないと思います。あたしから先輩への最後のプレゼントです。昨日噂を耳にしました。最近荒れていた元旦那に彼女ができたみたいです。あたしが元旦那に離婚を切り出したときも彼は平然として、君が僕のことを信じられないならしかたないねと言っていました。その旦那が最近ふさぎこんでいることをあたしは知り合いから聞いていました。最初はあたしと別れたからかなって思っていたんですけど、そうではないようです。やはり麻季が元旦那にきっぱりと別れを告げたみたい。結局麻季は結城先輩を選んだのです』

『そして元旦那も麻季のことを諦めて、次のお相手をオケ内で調達したらしいです。いつまでも独身で麻季を待つと言ったあのセリフはどこに行ったんでしょうね(笑)』

『これであたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こんどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってます』

 

 怜菜の離婚後も、結局なし崩しに麻季とのやり直しを選択した僕は、その辛いメールを読み終わった。

 それから数日後に、混乱した想いを乗せたメールを返信したのだけど、それは送信先不明で戻ってきてしまった。

 そのとき僕は、業務上の用件を装って首都圏フィルに電話した。知らない女性の声が応対してくれた。

『首都フィル事務局です』

『・・・・・・音楽之友社の結城と申しますけど鈴木さん、いや太田さんをお願いします』

 鈴木さんか太田さんわからない人からわけのわからない電話が僕にあったことが、つい昨日のようだった。

『鈴木は退職いたしました。後任の加藤と申します。どんなご用件でしょう』

『いえ、すみません。ちょっと個人的な用件で電話しました。失礼いたしました』

 電話口の加藤さんと名乗る女性は、僕の慌てている様子に少し同情してくれたらしかった。音楽之友社の肩書きも多少は有利に働いたのかもしれない。

『鈴木に何かご用でしたか』

『はい。連絡先を教えていただけないでしょうか』

 無理を承知でそう言った僕に加藤さんは答えた。

『それはお教えできません。業務上のご連絡でないならこれで失礼させていただきます』

『すみません。ありがとうございました』

 これで本当に怜菜と僕の繋がりは断ち切られた。

 

 怜菜のメールにあるとおり、怜菜と先輩が離婚したあとも僕は麻季と別れなかった。

 怜菜の決断に従って自分の行動を決めようと思っていたのだけど、この頃から奈緒人が急速に成長していたこともあり、僕はそんな奈緒人を大切に育てようとしている麻季と別れることができなかった。

 麻季と先輩の仲とか、最後に会ったときの怜菜の寂しそうな表情とかが僕を苦しめたけど、息子の成長を見守ることがそのときの僕にとって最優先事項になっていたのだった。

 怜菜の最後のメールで怜菜の心境を始めて知った僕は心を揺り動かれたのだけど、同時に麻季が先輩と本当に縁を切ったらしいという話にもほっとしていた。

 麻季が本当に僕のところに戻ってきてくれた。怜菜の告白に動揺していたし、心が動いたことも事実だったのだけど、やはり僕は心底から奈緒人を、そして奈緒人の母親、麻季を愛しているようだった。

 それから数週間後、怜菜への同情と未練を断ち切った僕は、珍しく早い時間に帰宅できた。自宅の近所での取材の帰りに直帰することができたのだ。まだ明るい時間に帰宅するのは久し振りだった。

 これなら奈緒人がおねむになる前に、息子と一緒に過ごすことができる。僕はそう思って自宅のマンションのドアを開けた。そこには黒づくめの喪服姿の麻季が立っていた。

「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだもん」

「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよりその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」

奈緒人は実家に預けようかと思ったんだけど、博人君が帰ってくれてよかった。大学時代の友だちが交通事故で亡くなったの。これからお通夜に行きたいだけど」

「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」

「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」

「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」

「博人君は知らないと思う。わたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子で太田怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」

「・・・・・・」

「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」

「・・・・・・やっぱり送って行く」

「わたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」

「連れて行く。君が帰ってくるまで、車の中で奈緒人に食事させて待ってるから」

 麻季はいつもと違う雰囲気の僕に不審を感じたようだった。麻季の勘は時として鋭い。

「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」

「とにかく一緒に行こう。僕も外で手を合わせたいから」

 自然と涙が溢れてきた。麻季の目の前で泣いてはいけないことはわかっていたし、怜菜だってそれは望んでいなかっただろう。

 でもこれはあんまりだ。鈴木先輩と麻季の不倫に悩んだ挙句、彼女は自分の娘だけを生きがいに生きて行こうとしていたのに。

「あとで全部話すよ。とにかく出かけよう」

 麻季はもう逆らわずに奈緒人を抱いて車に乗った。

 僕には今でも自宅から斎場まで運転したときの記憶がない。麻季によれば僕はいつものとおり安全運転で、斎場まで麻季を連れていったそうだ。

 僕の記憶は、通夜の弔いを済ませた麻季が青い顔で車のドアを開けたところまで飛んでいる。

 そこから先の記憶はある。

 麻季がいつもは奈緒人と並んで座る後部座席ではなく、助手席のドアを開けて車内に入ってきた。

「何で?」

「何でって?」

 僕はそのとき冷たく答えた。

 怜菜の死には先輩にも麻季にも関わりがないことだった。でもそのとき意識を覚醒した僕は、怜菜の淋しそうな微笑みを思い出した。

 怜菜の死に責任はないかもしれないけど、その短い生涯を閉じる直前に、怜菜を追い詰めた責任は彼らにある。

「何で親族席に鈴木先輩がいたの。何で鈴木先輩が泣いていたの」

 離婚して間がないことから、親族の誰かが気をきかせたのだろうか。もう離婚していたあいつには、親族席で怜菜の死を悼む権利なんてないのに。

「とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」

「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の怜菜のことなのに」

 助手席におさまったまま、麻季は本格的に泣き出した。

 

 その日も陰鬱な雨が降りしきっていた。

 午前中に僕の実家に奈緒人を預けた僕と麻季は、僕の運転する車で都下にある乳児院を併設した児童養護施設に向っていた。

 本来ならもう桜が咲いていてもいい季節だったけど、その日は冬が後戻りしたような肌寒い日だった。

 やがて海辺の崖に面している施設の入り口の前に立ったとき、僕は隣に立っている麻季の手を握って問いかけた。

「本当にいいのか」

「うん。もう決めたの。博人君はわたしを許してくれた。そして怜菜もわたしを許してくれていたとあなたから聞いた。信じてくれないかもしれないけど、わたしはあなたと奈緒人が好き。一番好き。もう迷わない。あなたはそんなわたしのことを信じているって言ってくれた。本当に感謝しているの」

「それはわかったよ。でも血が繋がっていない子を引き取るとか・・・・・・本当に大丈夫なのか」

 麻季は僕の手を強く握った。

「大丈夫だよ。わたしは怜菜の子どもを立派に育ててみせる。怜菜はわたしのせいで離婚したんでしょ。本当なら両親に祝福されて生まれて大切に育てられていたはずなのに」

「そう簡単なことかな。奈緒人だってまだ手がかかるのに」

「博人君は君の好きなようにすればいいって言ってくれたでしょ。今になって心配になったの?」

「違うよ。君が決めたんなら僕も協力する」

 僕はそのとき怜菜のことを思い出した。

 怜菜。わずか数回しか顔を会わせなかった怜菜。旦那の浮気に対してひとり毅然として立ち向かった怜菜。腰砕けでだらしない僕をさりげなく慰めてくれた怜菜。こんな僕のことを好きだったって、最後のメールで告白してくれた怜菜。

 彼女はもういない。

 熱を出した娘を病院に連れて行った帰りに、暴走して歩道に乗り上げた車にひかれて彼女は死んだ。

 麻季の話では怜菜は即死ではなかった。自分が抱きしめて守った娘のことを最後まで気にしながら、救急車の到着前に現場で息絶えたそうだ。

「行こう、博人君」

「うん」

 僕たちは手を繋いだまま施設の中に入った。施設の中に入ると、大勢の子どもの声が耳に入った。

 僕たちの考えは相当甘かったようだ。施設の職員は親切に対応してくれたけど、彼女が説明してくれた要件は厳しいものだった。児童虐待が普通にありえるこの世の中では、当然の措置なのだろう。

 養子縁組には、民法で定められたルールがある。養子となる子が未成年者の場合、家庭裁判所の許可が必要だ。

 さらに養子となる子が十五歳未満の場合は、法定代理人の同意が必要となる。

 もちろん今回のケースでは、法定代理人は実の父親だった。怜菜の死後、鈴木先輩は怜菜の遺児を認知していた。

 つまり、麻季の希望どおり玲奈の遺児を養子として引き取るためには、鈴木先輩の同意が必要なのだ。

 それは鈴木先輩と怜菜の関係を知った麻季にはかなりハードルが高いことだったと思う。

 僕は怜菜の通夜から帰宅して奈緒人を寝かせたあと、怜菜とのやり取りを全て麻季に話した。当然、麻季は錯乱した。夫である僕に嘘をついて、鈴木先輩とメールを交わしていたことを僕に知られたことや、先輩が実は独身ではなかったことを知った以上に、怜菜が鈴木先輩と麻季との関係を知りながら、麻季を責めずに黙って僕と会っていたことがショックだったようだ。

 麻季の受けたショックが僕と怜菜が密かに会っていたせいか、怜菜が自分を責めずに最後まで恨むことがなかったことを知ったせいか、どちらが原因なのかはわからない。

 怜菜の死には僕も相当ショックを受けていた。そして僕はもう何も麻季に隠し事をしなかった。

 怜菜が、僕が自分の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後に怜菜から会社に届いたメールのことも話した。自分も一瞬、怜菜が僕の妻だったら幸せだったろうと考えたことも麻季に告白した。

 それでどうなろうと、もう僕にはどうでもよかった。

 怜菜を救ってあげられなかった絶望に、僕は打ちひしがれていた。

 奈緒人のことは大切だけど、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のことを考えると、僕は先輩と麻季のことなどどうでもよかった。

 麻季が先輩との関係を誤魔化したり、怜菜のことを悪く言うならそれまでのことだ。

 そうなったら僕は奈緒人の親権だけを争おう。今の仕事では奈緒人を育てられないというのなら転職だって辞さない。道路工事のアルバイトをしたって奈緒人を育てて見せる。

 でも怜菜とのやりとりを聞かされた麻季は泣き出した。それは先輩に騙されたことへの涙ではなく、先輩と離婚した怜菜が最後まで麻季を責めずに、僕との復縁を応援してくれたことを知ったときのことだった。

 怜菜の名前を叫びながら泣きじゃくる麻季の姿を見て、僕はもう一度彼女とやり直してみようと思ったのだ。

「わたし、鈴木先輩と話す」

 養護施設の職員から制度の説明を受けたあと、施設を後にした麻季は僕にきっぱりと言った。

「絶対に了解させるから」

 そのとき、自分の言葉の勢いに気がついた麻季は一瞬うろたえた様子で僕を見た。

「別にわたしが言えば先輩が言うことを聞くとかそういうことじゃなくて」

 最後の方は聞き取れないくらいに小さい声で麻季は言った。

「もういいよ。僕たちはお互いに全部さらけ出した上で、やり直すことを選んだんだ。今さらそんなことを気にしなくていいよ」

「・・・・・・だって」

「決めた以上はお互いに気を遣ったりするのやめようよ。僕も正直に君への気持とか、怜菜さんに惹かれたことがあることも話したんだ。もうお互い様じゃないか」

「それはそうだけど・・・・・・。博人君の話を聞いていると、あなたは本当は怜菜みたないな子の方が似合っていたんじゃないかと思ってしまって。あなたが怜菜の気持に応えていたら、今頃怜菜も死なずに幸せに暮らしてたのかな。そんなことを考える資格はあたしにはないのにね」

「もうよせよ。それより本当に先輩に話すの? 勝算はあるんだろうな」

「大丈夫だと思う」

「僕が先輩に話した方がいいんじゃないか」

「・・・・・・ううん。わたしにさせて。もう先輩と何とかなるとか絶対ないから。先輩が独身だってわたしに嘘を言ったことよりも、離婚したとはいえ自分の子ども引き取らずに施設に預けるような人だと知って、もう彼には嫌悪感しか感じない。友だちがほとんどいないわたしにとって怜菜はようやくできた親友だったの。散々裏切っておいてこんなことを言えた義理じゃないけど、お願い。わたしを信じて」

 僕は彼女を信じて施設からの帰り道、先輩がいるだろう横浜市内にある横フィルのリーサルスタジオに麻季を送り届けた。

「待っていてくれる?」

「もちろん」

 一時間後に横フィルのスタジオから麻季が早足で出てきた。

 車のドアを開けて助手席に乗り込んだ麻季は、僕に法廷同意人である鈴木先輩の署名捺印がある用紙を見せた。

「お疲れ」

「うん。わたし頑張ったよ」

 麻季が僕に抱きついて僕の唇を塞いだ。周囲の通行者たちからは丸見えだったろう。

 

 その後は、児童擁護施設の研修や施設職員の家庭訪問と面接があった。最終的に家庭裁判所の許可を経て、僕たちは養子縁組届を区役所に提出した。

 こうして亡き怜菜の忘れ形見である女の子、奈緒が僕たちの家庭にやって来たのだった。

 奈緒人と奈緒は初顔合わせの瞬間からお互いにうまが合うようだった。

 まだ奈緒は幼いけれど、奈緒人の方はもう自我が出来上がり出す頃だったので、僕と麻季はそのことが一番心配だったから、奈緒人と奈緒が仲がいいことに心底からほっとした。

 僕たちの心配をよそに二人はすぐにいつも一緒に生活することに慣れたようだった。

 麻季も育児自体は奈緒人で慣れていたから、奈緒を育てることに戸惑いはないようだった。

 この頃の僕は相変わらず仕事は忙しかったけど、それでもいろいろやりくりしてなるべく早く帰宅し、週末も家にいるようにしていた。

 そのせいで昼休も休まずに仕事をする羽目にはなったのだけど。

 毎日帰宅すると、僕は迎えてくれる麻季に軽くキスしてから子どもたちを構いに行った。

 奈緒人はだいたい起きていて、僕に抱きついてきた。

 奈緒はまだ幼いので眠っていることも多かったけど、たまに起きている時は僕の方によちよちとはいはいしてきて抱っこをねだった。

 そんな僕と子どもたちの様子を、僕から受け取ったカバンを胸に抱いたまま、麻季は微笑んで眺めていた。

 概ね順調な生活を送っていた僕たちだけど、やはりあれだけのことがあった以上何もなかったようにはいかなかった。

 麻季と鈴木先輩の関係に関しては、僕はもう別れて何の連絡もないという麻季を信じていた。

 だから、以前のようにそのことが夫婦間のしこりになることはなかったはずだったのだ。麻季は真実を知った瞬間、自分の行いを心底後悔したと思う。

 先輩に独身だと騙されていたとはいえ、自分の親友の怜菜を裏切ってつらい思いをさせていたこと。それでも怜菜は麻季を恨むことなく、僕と麻季の幸せを祈ったまま先輩と離婚したこと。

 そして一人で出産し奈緒を育てる道を選んだ怜菜が、娘の奈緒を庇いながら事故死したこと。

 全てを知って奈緒を引き取って育てる道を選択した麻季だけど、それだけで過去を割り切るわけにはいかなかったようだ。

 順調に子育てをしているように見えた麻季だけど、しばらくするとやたらに麻季が僕に突っかかってくるようになった。

 麻季が一番こだわっていたのは奈緒という怜菜の遺児の名前のことだった。

 怜菜はなぜ娘に奈緒という名前を付けたのか。

 怜菜は僕や麻季への嫌がらせで自分の最愛の娘にその名前を付けるような女ではない。

 怜菜は最後のメール以降、首都フィルを黙って退職して僕との連絡を絶った。

 怜菜が事故に遭わずに存命していたら、僕も麻季も怜菜の娘の名前を知ることはなかったろう。だからこれは嫌がらせではなかった。

 第一、怜菜が麻季への嫌がらせのためだけに、生命をかけて自分が守った娘の名前を命名するなんて考えられなかった。

 その点では僕と麻季の意見は一致していた。

 それでも、自分のお腹を痛めた息子の名前にちなんだとしか思えない奈緒という名前を娘に付けた怜菜の意図を考え出すと、麻季は冷静ではいられなかったようだ。

 怜菜がもう亡くなっているので、その意図は永遠に不明のままだ。だからそれは考えてもしようがないことなのだ。僕はそう麻季に言った。

 最初のうちは麻季は僕の言葉に納得していた。

 育児もうまく行っていたし、そのことだけで家庭を不和にするつもりは麻季にもなかった。先輩とのメールのやり取りで僕に嘘をついていたことを僕に知られていたことに対して、麻季が負い目を感じていたということもあったからかもしれない。

 それでもしばらくすると、麻季は奈緒の名前について文句を言うようになった。

 確かに兄妹に奈緒人と奈緒という名前は普通は命名しないだろう。別にはっきりとどこが変というわけではないけど、常識的には男と女の兄妹に一時違いの名前はつけないだろう。

 麻季は最初は柔らかくそういうことを寝る前に僕に話しかけてきた。この先そのことに周囲が不審に思い出すと、子どもたちがつらい思いをするかもしれないと。

 それは強い口調ではなかったので、子どもたちをあやすのに夢中になっていた僕はあまり深くは考えなかった。それがいけなかったのかもしれない。

 怜菜に対して罪悪感を感じていたはずの麻季は次第に怜菜のことを悪く言うようになった。

 ある夜、子どもたちを寝かしつけたあと、リビングのソファに僕と麻季は並んでくつろいでいた。

 翌日が休日だから、僕たちは麻季が用意してくれたワインとチーズを楽しもうと思ったのだった。

 結構いいワインに少し酔った僕は、久し振りに麻季を誘ってみようかと考えていた。麻季と和解してからずいぶん経つけど、怜菜の死や奈緒を引き取るといった事態が重なったこともあって、僕たちは相変わらずレスのままだった。

 今なら麻季を抱けるかもしれない。久し振りの夫婦の時間に僕は少し期待していたのだ。

 でも麻季は自分で用意したワインには一口も口をつけず暗く沈み込んだ顔で言った。

「怜菜を裏切ったわたしが言えることじゃないとは思うよ」

「でも、何で奈緒人の名前をもじって、奈緒なんて命名したんだろ。怜菜は博人君にはわたしのことを恨んでいないと言ったらしいけど、本当はすごく恨んでたんじゃないかな」

「いや。怜菜さんは本当に君を恨んだりはしていなかったよ」

「それなら何でわざとらしく奈緒なんて名前を付けるのよ。怜菜のわたしへの復讐か、あなたへの愛のメッセージとしか考えられないじゃない。そんな気持で命名された奈緒だって可哀そうだよ。あの子には何の罪もないのに」

 罪があるとしたら先輩とおまえだろ。僕はそう言いそうになった自分を抑えた。

「怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわった。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら、先輩のことすら恨んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな」

 僕はそのとき浮気の証拠を先輩に突きつけることもなく、ただ先輩が自分に帰ってくるのを耐えながら待っていた怜菜を思い出した。

 僕が君は強いなと言った言葉を怜菜は否定した。自分だって旦那に隠れて泣いているのだと。

 でも、今思い返しても怜菜はやはり強い女性だった。結局最後まで自分の意思を貫いて先輩と別れ一人出産したのだから。

 あえてつらいことを思い出すなら、怜菜が自分の弱さを見せたのは、最後に怜菜と会った時だろう。

 あの時は、怜菜は僕に惹かれていたとはっきり言った。そのとき僕は麻季と鈴木先輩のような隠れてこそこそするような卑怯な関係になりたくなくて、はっきりした返事をしなかった。

 でもそれが愛かどうかはともかく、僕がそんな怜菜に惹かれていたこともまぎれもない事実だった。

「そうね。聖女か。怜菜は真っ直ぐな子だったよ。大学時代からそうだったもん。わたしみたいに既婚者なのに浮気するような女じゃなかった」

「もうよそうよ」

「博人君は本当は怜菜と結婚した方が絶対に幸せだったよね。わたしみたいに平気で旦那を裏切って浮気するようなメンヘラとじゃなく」

「・・・・・・どういう意味だ」

「怜菜はあなたが好きだったんでしょ」

「・・・・・・多分ね」

「あなたも怜菜が気になったんだよね?」

「あのときはそう思ったかもしれないね」

「ほら。わたしは先輩に抱かれて、その後もあなたに嘘をついて先輩とメールを交わしてあなたを裏切ったけど。あなたと怜菜だって浮気してるのと同じじゃない。違うのわたしたちが一回だけセックスしちゃったってことだけでしょ」

「そのことはもう散々話し合っただろ。そのうえでお互いに反省してやり直そうとしたんじゃないか」

 麻季は俯いた。

「もうよそうよ。明日は休みだし子どもたちを連れて公園にでも行こう」

「・・・・・・わたしと違って博人くんは嘘を言わないよね。先輩との仲を誤魔化したわたしと違って、あなたは正直に怜菜に惹かれていたと言ってくれた」

「僕は君には嘘を言いたくないからね。というか君と付き合ってから君には一度も嘘をついことはないよ」

「・・・・・・ごめんね。自分でもわかってるのよ。先輩とわたしと違って、あなたと怜菜は本当は浮気とか不倫したわけじゃないし、それにもう怜菜はいないんだから、将来を不安に思う必要はないって」

 麻季はとうとう泣き出した。いろいろと納得できないことはあったけど、心の上では僕が怜菜に惹かれていたのは事実だったから僕は麻季に謝った。

「ごめん。僕と怜菜さんはお互いに情報交換しあっているつもりだったけど、確かにそうするうちに彼女に惹かれていたことは事実だ。君を裏切ったのかもしれない。それを君の浮気のせいにする気はないよ」

 麻季は何か言おうとしたけど僕は構わず話を続けた。

「でも奈緒人のために、それから怜菜の子どもの奈緒のためにも僕たちはやり直そうとしているんでしょ? 君には悪いと思うけどこんな話を蒸し返してどんなメリットがあるんだ」

 麻季が再び泣き出した。

「ごめんなさい」

「いや」

「わたし最低だ。自分が浮気したのにそれを許してくれた博人君に嫌なことを言っちゃって」

「もういいよ。明日は子どもたちを連れて外出しようよ」

 僕は麻季を抱きしめた。麻季も僕に寄りかかって目をつぶった。僕は数ヶ月ぶりに麻季に自分からキスした。麻季がこれまでしてくれてたような軽いキスではなく。

 麻季の体を撫でると、彼女も泣きながら喘ぎだした。僕は麻季の細い体を愛撫しながら彼女の服を脱がした。

 その晩、麻季の浮気以来初めて僕たちは体を重ねた。独身や新婚の時だってそんなことはなかったくらい麻季は乱れた。

 こうして僕は再び麻季を抱くことができた。それからしばらくは麻季の感情も落ち浮いていたし、僕が帰ると機嫌よく迎えてもくれた。

 奈緒人と奈緒も順調に育っていたし、僕たちは夫婦生活最大の危機を何とか乗り越えたかに思えた。

 そのまま過去のことを引きずらない生活が数年続いた。

 奈緒人も奈緒も幼稚園に入ったし、麻季も昼間は育児から開放されたせいか、奈緒の名前や怜菜のことに悩むことも無くなったようだった。

 奈緒人と奈緒は少し心配になるくらいに仲が良かった。

 これまでは奈緒人や奈緒の愛情は僕と麻季に向けられていたと思っていたのだけど、この頃になると二人は少しでもお互いが目に入る距離にいないとパニックになるくらいに泣き出すようになっていた。

 例えば外出中に僕と麻季が別行動を取ることもあった。

 そんなとき僕が奈緒人を、麻季が奈緒を連れてほんの三十分くらい別々に過ごそうとしたとき、まず奈緒が火がついたように泣き出し、「お兄ちゃんがいいよ」と叫び出した。

 泣き叫びはしなかったものの、奈緒人の方も反応は同じようなものだった。「奈緒はどこにいるの」と繰り返し泣きそうな顔で僕に訴えていたから。

 それで懲りた僕たちは極力二人を一緒にいさせるようにした。そしてこのこと自体は僕も麻季も嬉しかった。これまで頑張って奈緒人と、怜菜の忘れ形見である奈緒を育ててきた甲斐があったと思った。

 そのまま推移すれば、普通に仲のいい家族として歳月を重ねられたのかもしれない。

 この頃は僕と麻季が怜菜や先輩のことを話題に出すことすらなかった。僕も、そして麻季もそんな今の生活に満足していたのだから。

 

 編集長に海外出張を打診されたとき、僕は最初戸惑ってすぐに言葉が出てこなかった。

 その出張はヨーロッパの音楽祭を連続で三つ取材するのが目的だった。

 取材費に限りがある専門誌だったこともあり、出張させるのは記事作成兼写真撮影で一人だけ、あとは現地のコーディネーターと二人でやれとのことだった。音楽祭の日程が微妙に近いせいで、出張期間は約三ヶ月だった。

 家庭はうまく行っていた。

 麻季との仲もそれなりに円滑になっていたし、何よりも子どもたちについて何の心配もない状態だった。

 この頃の僕の帰宅は相変わらず遅かったけど、麻季がそのことに文句を言ったり悩んだりする様子もなかった。それでも僕は内心麻季や子どもたちに会えなくなるのは寂しかった。

 わがままは言えないことはわかっていたし、編集部の中から選ばれたことも理解していた。

 今までは、こういう取材は自ら音楽祭に赴く評論家に任せていたのだから、自社取材に踏みきった意味とそれを任された意味は十分に理解していた。

 この頃の家庭が円満だったせいで僕は編集長に出張をOKした。業務命令だったので了解するのが当然とは言えば当然だったのだけど。

 その晩、麻季に出張のことを伝えたとき、どういうわけか麻季はすごく不安そうな表情をした。

「麻季、どうしたの? 大丈夫か」

「うん。ごめんなさい。大丈夫だよ」

 麻季が取り付くろったような笑顔を見せた。

「博人君に三ヶ月も会えないと思って少し慌てちゃった。でもそんなに長い間じゃないし、博人君が会社で認められたんだもんね」

「ごめんな。でも仕事だから断れないしね」

「わかってる。奈緒人と奈緒のことはあたしに任せて。奈緒は三ヶ月もすると相当成長しているかもね」

「それを見られないのが残念だけど。でもたった三ケ月だし辛抱するよ」

 僕は奈緒を抱きながら麻季に言った。

奈緒人は?」

「珍しく奈緒より先に寝ちゃった。いつもは奈緒が隣にいないと文句言うのにね」

 奈緒の方も僕に抱かれらがらうとうとし始めていた。

 この頃になると、奈緒の顔立ちははっきりとしてきていた。

 奈緒は将来美人になるなと僕は考えた。怜菜の可愛らしい表情と、認めたくはないけど鈴木先輩の整った容姿を受け継いだ奈緒は、当然ながら奈緒人とは全く似ていなかったのだ。

奈緒をちょうだい」

 麻季はうとうとし始めた奈緒を僕から受け取って、奈緒人が寝ている寝室の方に連れて行った。

 やがて戻ってきた麻季が僕に抱きついた。麻季は不安そうな表情だった。僕は麻季を抱きしめた。

「博人君好きよ。あなたがいなくなって寂しい・・・・・・早く帰って来てね」

 そのとき麻季が何を考えていたかは今でもわからない。

 それから二月後、取材を後えてホテルで休んでいた僕の携帯が鳴った。日本の知らない番号からだった。僕が電話に出ると女性の声がした。

「突然すみません。こちらは明徳児童相談所の者ですが」

 その女性は僕が奈緒人と奈緒の父親だと言うことを確認するとこう言った。

奈緒人君と奈緒ちゃんは児童相談所で一時保護しています。奥様が養育放棄したためですけど」

 僕は携帯を握ったまま凍りついた。

奈緒人と奈緒 第2部第2話

 奈緒人への愛情から麻季の浮気を許した僕だったけど、麻季の改悛の情を無条件で信じたわけではなかった。

 正直に言えば、彼女の僕に対する愛情への疑いは残っていた。あのときの麻季の言葉を何度脳内で再生したかわからない。

「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?』

『それは・・・・・・うん』

『僕とはエッチするのは嫌だったのに?』

『・・・・・・」

「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したんだろ』

『うん』

 僕が麻季を許したのは、奈緒人のことが大切だからだった。

 麻季の僕への愛情については疑わしかったけど、麻季の奈緒人への愛情についてだけは疑いの余地はなかったのだ。

 浮気をした妻と、浮気された夫のやり直しというのは思ったより大変だった。

 この頃の僕はひどく卑屈になっていた。もともと僕たちの付き合いは、鈴木先輩に殴られた麻季を僕が救ったことから始まっていた。その先輩のことを麻季が一瞬でも好きだと思ったのなら、僕たち夫婦の成り立ちそのものが否定されてしまう。

 そういうとき、僕は付き合い出した頃や、同棲し始めた頃の麻季を思い起こした。あの頃の麻季の僕の愛情は疑いようがない。

 あの頃、何気なく過ごしてしまった日々、そして付き合い出してから、浮気するまでの彼女の僕への献身的ともいっていい態度は、麻季を信じようとする僕の力になってくれた。

 それでも、それは未だに引きずっていた麻季に対する僕の疑念や嫌悪を振り払うには十分ではなかったのだけど、僕は自分の意思の力でそれを補おうとした。

 麻季は先輩とは完全に別れたと言った。もともと気が進まない関係だったのだと。

 僕に浮気を告白したその晩に先輩に対して、「もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない」とメールしたそうだ。

 別に疑う理由もないので、僕は麻季の携帯の送信ボックスを確認することもなくその言い訳を受け入れた。

 こうして僕と麻季の最初の危機は、何とか破滅を回避できたように思えた。

 危機を回避したあと、僕たちは麻季が自分の浮気を告白する前の生活習慣に忠実に過ごすようになった。何もかもが以前のとおりだった。

 麻季は先輩に出会う前にしてくれていたように、相変わらず会社で多忙に過ごしている僕に再び奈緒人の写メや一言コメントをメールで送ってくれるようになった。

 それは麻季が先輩と浮気してからはおろそかになっていた行事だった。

 麻季の浮気以降で大きく変わったことはまだあった。

 夫婦の危機があったからといって、業務の多忙さは少しも遠慮してくれなかった。

 むしろその頃の僕は、昇進して小さなユニットの部下を指揮して企画記事を製作する立場に立たされるようになったのだ。

 もちろんその昇進には昇給がついてきていたから、僕は家庭にかまけて仕事をおろそかにするわけにはいかなかった。

 なので麻季とやり直すと決めた日からしばらくして、僕は前以上に帰宅する頻度が減った。

 それでも一度過ちを犯して僕に許された麻季は何も不満を言わなかった。

 たまの休暇の日にへとへとになって帰宅した僕を、麻季は笑顔で迎えてくれた。

 問題はその後だった。

 麻季が妊娠してから長年レスだったのに、この頃、僕が迫っても拒否していた彼女が、どういうわけか逆に積極的になったのだ。

 最初のうちはこれまで僕を拒否していた麻季が、自分から僕に抱かれようとしていることが嬉しかった。たとえ罪の意識からにせよ、麻季が本心で僕とやり直そうと努力している証拠だと思ったから。

 でも実際に行為に及ぼうとすると、以前は執着していた麻季の、子どもを生んだとは思えない綺麗な裸身に対して、僕は得体の知れない嫌悪を抱いたのだ。

 僕も努力はした。意思の力を結集して僕に迫ってくる麻季の裸身を愛撫した。喘ぎ出した麻季にキスもした。

 でも駄目なのだ。いざ事に及ぼうとすると僕は全くその気になれなくなるのだった。一時はあれだけ拒絶する麻季を抱こうとして足掻いていたというのに。

 自分が抱いている麻季の美しい身体は、少なくとも一度は鈴木先輩に抱かれて悶えていたのだ。

 そう考えた瞬間、僕は萎えてしまい麻季を抱けなくなってしまう。でも麻季はそういう僕を責めなかった。

 そういうときの麻季は「気にしないで」って言って微笑んだ。

 それはきっと自分のした行為が僕にどんな影響を及ぼしたかを慮り、そしていい妻であろうと努めようとしたからだろう。だから勘ぐれば麻季だって義務感から僕を誘っているだけかもしれなかった。

 そして僕がその気にならず、僕の相手をしなくてすんだことにほっとしていたのかもしれない。自分の方から僕を誘っただけで、麻季の義務は終了しているのだから。

 それでも僕は麻季を信じた。奈緒人が始めて自分の足で歩いたときの麻季の姿と、大学時代に僕に声をかけてきた麻季の様子を思い浮かべて。

 麻季と僕は奈緒人にとってはいい両親だったと思うけど、夫婦としての肉体的な関係はレスのままだった。以前は麻季に拒否されたからだ。でも今ではその責任と原因は僕にあった。

 その日も僕は編集部で、目の回るような多忙な日常を過ごしていた。印刷会社に入稿する記事の締切日は近づいてきているのに、原稿は手元にない。

 遅筆で有名な評論家の自宅に催促に行こうとしていた僕は、自分のデスクで鳴り出した電話を取った。

「結城さんに鈴木様という方からお電話です」

 交換にはいと答えてすぐに受話器の向こうで声がした。

「はい。結城です」

「突然すいません。えと、覚えていますか? あたしは太田と言いますけど」

「はい? 鈴木さんじゃないんですか」

 受話器の向こうで慌てたような感じがする。

「あ、いえ。鈴木なんですけど、結婚前は太田でした。というか大学時代は太田だったんで、結城先輩には太田と言ったほうがいいかなって」

 先輩ってなんだろう。ゼミの後輩に太田なんていたっけ。

「すいません。よくわからないんですけど、失礼ですけどどちらさまでしょうか」

 万一作家さんだったらまずいので、僕はていねいに聞き返した。

「旧姓は太田れいなといいます。結婚して鈴木になりましたけど」

「はあ」

「ごめんなさい。わかりまえせんよね。首都圏フィルの渉外担当の鈴木と申します。来月の取材の件でご連絡させていただきました」

 それでようやく彼女の用件がわかった。

 首都圏フィルハーモニー管弦楽団は、自治体が援助している地方オケの中では実力のあるオーケストラだった。

 全国レベルの有名なオーケストラほど知名度は高くないけど、知る人ぞ知るという感じで固定のファンも結構ついていた。

 特に最近、地方オケでは有り得ないほど知名度の高いコンダクターが常任指揮者に就任することも話題となっていた。

 僕はその指揮者へのインタビューをメールで事務局に申し込んでいた。メールを読んだ担当者が連絡をくれたのだろう。そこまでは別に不審な点はなかった。

 だけどこの担当者は鈴木なのか太田なのか。それにいきなり人のことを先輩と呼ぶのはどういうわけなのだろう。

「あの、先輩ってどういうことですか?」

 電話の向こうで少し考え込む気配がした。それからようやく落ち着いた声で返事が帰ってきた。

「ごめんなさい。混乱させちゃって。というかあたしの方が混乱しているんですけど」

 何だかさっぱり要領を得ない。

「うちの金井へのインタビューは喜んでお受けします。金井にも了解は得ています」

 ようやく本題に入ったようだ。

「ありがとうございます。それで取材の日時なんですけど」

「これから会えませんか?」

「はい?」

「直接会って打ち合わせさせてください」

 彼女は一方的に時間と場所を指定して、僕が返事をする間もなくいきなり電話を切った。僕のサラリーマン生活を通じて、ここまでひどいビジネストークは初めてだった。

 鈴木さんだか太田さんだかの指定した時間は一時間後で、場所は編集部のすぐ近くの喫茶店だった。

 幸か不幸か一時間後には何も予定は入っていない。

 僕は首を傾げた。非常識な話しだし何が何だかわからないけど、とりあえず行って話しを聞けば疑問も晴れるだろう。

 金井氏へのインタビューは次号の目玉記事になる。先方の担当者の奇妙な言動のせいで、なかったことにされるわけにはいかなかった。

 僕は立ち上がって、椅子に掛けていた上着を羽織った。

「お出かけですか、デスク」

 部下の一人が僕に声をかけた。

「何かよくわかんないんだけど、首都フィルの担当者が会って打ち合わせしたいって言うからちょっと出てくる」

「はあ? インタビューの日時や場所を決めるだけでしょ? 直接会う必要あるんですかね」

「僕に聞かれてもわからんよ。とにかくこっちからお願いしておいて断るわけにもいかんだろ」

「まあ、そうですね」

「山脇先生に電話で締め切り過ぎてますよって言っておいてくれるか」

「わかりました」

 彼は一瞬いやそうな顔をしたが、仕方なさそうにうなずいた。

 山脇先生に原稿の催促をするのがいやでない編集者などいない。彼はきっと、十五分以上先生から原稿が遅れた言い訳を聞かされることになるのだ。

「じゃあ行ってくる」

 徒歩で十五分ほどで指定の喫茶店に着いた。待ち合わせ時間まではまだ四十五分もある。こんなに早く来る必要はなかったのだけど、せっかく外出の機会が転がり込んできたので僕は少しゆっくりしようと思ったのだ。

 席に収まって注文を終えると、僕は携帯を見た。今朝から午後二時十五分の現在に至るまで、麻季からのメールが十通近く届いていた。

 僕は時間を掛けて麻季のメールの全てに目を通した。

 別に今日も何の変わりもないようだけど、それでもこれだけのメールを遅れるのだから、麻季にとって今日は比較的余裕のある一日なのだろう。

 奈緒人は順調に歩行距離と時間を伸ばしているようだ。離乳食も食べてはいるものの、どういうわけか麻季の浮気が発覚して以降、奈緒人は再び麻季のおっぱいを求めるようになってしまった。離乳は早かった方だったのに。

 僕は麻季あてに返信した。奈緒人の今日の出来事への感想と、今日も帰宅は十一時くらいになるという短い内容だった。

 そして少し迷ったけどメールの最後に「麻季と奈緒人のこと、心から愛しているよ」と付け加えた。

 麻季へのメールを送信し終わったとき、人の気配を感じた僕は顔を上げた。

音楽之友社の結城せん、結城さんですか」

 その女性が僕にあいさつした。

 名刺交換を済ませると、僕は彼女にもらった名刺にちらりと目を落とした。

『財団法人首都圏フィルハーモニー管弦楽団 事務局広報渉外課 鈴木怜菜』

「首都フィルの鈴木です。よろしくお願いします」

「音楽之友の結城です。初めまして」

 彼女は何かほんわかした雰囲気の優しそうな女性だった。ちゃんと仕事の話ができるのか、一瞬心配になったくらいに天然の女性に見えた。

 仕事をしているよりも、専業主婦で育児とかしている方が似合いそうな感じだ。

 外見だけ見れば麻季の方がよほどビジネスウーマンに見えるだろう。あくまでも外見だけの話だけど。

「あのインタビューの件ですけど」

 彼女が手帳を見ながら言い出した。

「はい」

「よろしければ三月十四日の定演終了後にグリーンホールでいかがでしょう」

 グリーンホールは首都フィルの本拠地だった。都下にあるけどそれほど遠いわけでもない。僕は手帳でスケジュールをチェックした。その日には今のところ予定がない。

「わかりました。何時にお伺いしましょうか」

「十四時開演ですのでインタビューは十六時くらいからでいいですか」

「結構です」

「もしお時間があるなら十四時にいらして定演を見ていってください」

 その方がインタビューする側としては好都合だった。彼女はしばらく自分のバッグをごそごそと探っていた。

「あ、あった。これをどうぞ」

「ありがとうございます」

 僕は招待券を受け取って言った。

 それで打ち合わせはあっけなく終ってしまった。

 しばらく沈黙が続いた。

 こんな内容なら電話かメールで十分だろう。なぜ彼女はわざわざ会って打ち合わせをしようと言ったのだろう。でも初対面の、しかもこちら側からお願い事をしている身でそんなことを聞くわけにいかなかった。

「結城さんって音楽雑誌の編集者をされてたんですね」

 突然彼女が言った。

「はい?」

「ごめんなさい。あたし、結婚前は旧姓が太田なんですけど、結城先輩と同じ大学で一つ下の学年にいたんです」

 何だそういうことか。

「ああ、それで」

「はい」

 彼女は微笑んだ。

「先輩はあたしのこと知らないと思いますけど、あたしは先輩のことよく知っています」

「うん? 同じサークルでしたっけ」

「違います。あたし麻季の親友でしたから」

「そうなの? ごめん。全然わからなかった」

 実際にはわからなったというより知らなかったという方が正しかった。

 大学の頃の麻季には、僕の知る限りでは本当に親しい友人は男女共にいなかったはずだ。

 何しろその頃の彼女は、筋金入りのコミュ障だった。外見の美しさや一見落ち着いて見える容姿や態度のせいで、取り巻きのような友人はいっぱいいたらしいけど。

「いえ。先輩とは直接お話したこともありませんし。でも麻季からはよく惚気られてました。あの麻季がこれほど夢中になっている男の人ってどんな人かなあってよく考えてましたよ」

「そうだったんだ。ごめん、あいつはあまり自分のこと喋らないから」

「結城先輩と麻季の結婚式にも参列させていただきました。麻季、綺麗だったなあ」

 そのとき僕は、帰宅して麻季に話してやれる話題ができてラッキーくらいに考えていた。

 でも、どういうわけか彼女は俯いた。そして静かに泣き出した。

「鈴木さん、どうしたの」

 僕は驚いて彼女に声をかけた。周囲の客の視線が刺さるようだった。これでは別れ話を持ちかけている浮気男と、振られた女のカップルのようじゃないか。

「・・・・・・ごめんなさい」

「いや、いいけど。大丈夫?」

 それには答えずに彼女が話し出した。

「音楽之友からの取材メールを見たとき、あたしびっくりしました。最後に結城博人って書いてあったし。あたしそれが麻季の旦那さんのことだってすぐに気がついたんです。こんな偶然があるんだなあって」

「そうなんだ」

 よくわからないまま僕は相づちを打った」

「あたし、ずっと先輩に連絡を取ろうとしてたんです。麻季の携帯の番号しか知らなくて、でも麻季には連絡できないし」

「うん」

「だから仕事で先輩から連絡を受けたときチャンスだと思いました。これで先輩とお話できるって」

 彼女はコミュ障の麻季には似合いの親友なのかもしれない。さっきから随分彼女の話を聞いているのだけど、彼女が何を言いたいのか少しも理解できない。

「あたし、結婚してるんです」

 それはそうだろう。旧姓太田と言っていたし、それに左手の薬指には細いリングが光っている。

「あたし、いけないとは思ったんですけど。でも最近旦那の様子が変だし不安だったんで、旦那の携帯を見ちゃったんです。そしたら旦那と麻季が浮気していて」

 僕は凍りついた。

 麻季の浮気の話なんてとうに知っている。今はそれを克服しようと夫婦ともに努力している最中だった。

 でも鈴木先輩は独身ではなかったのか。

「君・・・・・・横フィルの鈴木先輩の奥さんなのか」

「・・・・・・はい」

 彼女は俯いてそう答えた。

 麻季の告白のあと僕は鈴木先輩について調べていた。

 ネットでも情報は手に入ったし、社の演奏家のデータベースにも情報はあった。新人であればネットの方はともかく、社のDBには音楽雑誌に紹介されているような有望な若手しか登録はない。

 鈴木先輩は社のDBにも情報が登録されていた。 鈴木雄二。

 横フィルの次席チェリスト。東洋音楽大学の一年上の先輩。横フィルの有望な新人。

「麻季とうちの旦那が浮気してたって聞いても驚かないんですね」

 怜菜が顔を上げて僕に聞いた。

「・・・・・・うん。麻季から聞いているからね」

「そうか。先輩は麻季のこと許したんですか」

「許したっていうか、やり直すことにした」

「何で麻季と旦那の浮気を知ったんですか。先輩が麻季を疑って問い詰めたんですか」

「いや。麻季の方から告白した」

「そうなんですか」

 怜菜は寂しそうに笑った。

「先輩がうらやましい」

「どういうこと?」

「自分から告白したなら、麻季は罪の意識を感じていたからでしょうし、先輩に嘘をつきたくなかったんでしょうね。うちの旦那と違って」

 どう答えればいのかわからない。僕は黙っていた。

「それにうちの旦那は、まだ自分の浮気があたしにばれていないと思ってますよ」

「鈴木先輩は独身だって聞いたんだけど」

 彼女には気の毒だけど、僕にとっては気になることだったので、僕はまずそれを確認しようと思った。

「麻季にそう言われたんですか」

「・・・・・・うん」

「じゃあ、きっとうちの旦那が麻季に自分は独身だって言ったんでしょうね。麻季がそのことで先輩に嘘をつく理由はないでしょうし」

「君と麻季の親友でしょ。麻季は君と鈴木先輩が結婚したことを知らなかったの?」

「ええ。麻季とは先輩の結婚式以来会ってませんし、あたしたちの結婚は大学卒業後だし結婚式も挙げなかったんで、あたしと旦那のことを知っている人は大学時代の知り合いはほとんどいないと思います」

「あのさ」

「はい」

「僕も麻季に裏切られたと知ったときは自殺したいような心境だったよ。でも僕たちには子どもがいるし、何よりも麻季は本当に先輩との過ちを後悔していると僕は信じている」

「・・・・・・そうですか」

「麻季と鈴木先輩の仲はもう終っている。君の気が楽になるならそれだけは保証するよ」

「結城先輩にとっては、かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをしているのは許容範囲内なんですか」

 怜菜が顔を上げて僕を真っ直ぐ見た。

「そんな訳ないでしょ。でも麻季はもう君の旦那と縁を切っているんだし」

 怜菜がバッグからプリントを何枚か取り出した。

「やり直そうとしている先輩と麻季を邪魔する気はないんです。でも、事実を知らないで判断するのは、先輩と麻季にとってもよくないと思います。余計なお世話かもしれませんけど」

「・・・・・・どういう意味?」

「さっきも言ったように、旦那の様子が最近変だったんで悪いことだとは思ったんですけど、旦那の携帯をチェックしたんです。そしたら麻季と旦那がメールを交換し合ってて。転送すると旦那にばれそうなんで、旦那が携帯をリビングに置いたまま自宅のスタジオで練習している間に関係あるメールを見ながら全部パソコンに入力し直したんです」

 怜菜に渡されたプリントは、先輩の携帯の送受信メールのやりとりを印刷したものだった。

「よかったら読んでください」

 僕は怜菜に渡された書類に目を通した。

 最初のうちは久し振りの再会を懐かしがったり、大学時代の知り合いの話題を交換したりしている内容のメールが、麻季と先輩の間に交わされていた。

 メールでのやりとりが重ねられて行くうちに、二人のメールは随分親密な様子に変わっていった。

 僕は胸の痛みを感じながらプリントを読み進めた。

 メールから理解できた範囲では、その内容は麻季に告白されたものと事実としては全く同じ内容だったので、少なくとも浮気を告白した麻季が嘘をついていないことだけは確認できた。

 それでも実際に男女の親密そうなやりとりを読むことは、僕の精神にかなりの打撃となった。

 メールを読むことによって、僕は麻季の告白したできごとを追体験させられていたのだ。

 段々と親密さを増していく二人。そのうちメールはもっとも辛い部分に差し掛かった。

 この辺りになると、少なくともメールの文面上は麻季は先輩に対して敬語ではなく、もっと親しみを込めた口調になっていた。

 そして先輩も麻季のことを呼び捨てするよう

『ごめんさい。わたしも久し振りにコンサートに行きたいし先輩の演奏も聞きたい。でも小さな子どもがいるから家を留守にできないの。ごめんね先輩』

『それは残念。お子さん、昼間は保育園とか幼稚園とかに行ってるんじゃないの』

『何言ってるの。専業主婦だから保育園には入れません。それに奈緒人はまだ幼稚園に入園できる年齢じゃありません。先輩って音楽以外のことでは常識ないのね(笑)』

『そっかあ。実家とかに預かってもらえないの? 今度の演奏はぜひ麻季に聞いて欲しかったなあ。実は演奏のイメージは大学時代の清楚だった麻季をイメージして作ったんだ。水の妖精だから麻季にぴったりでしょ(笑)』

『清楚な水の妖精って、子持ちの主婦に何言ってるの(笑)。でもわかったよ。実家に預けられるかどうか聞いてみる』

『ほんと? やった』

 コンサート当時の日付のメールはなかった。それはそうだろう。この日、麻季は結局奈緒人を自分の実家に預けてコンサートに出かけたのだから。多分、精一杯着飾って。

 そしてその夜、麻季は先輩に抱かれた。二人は直接会って二人きりで過ごしていたのでメールを交換していないのは当然だった。

 僕は麻季の必死の謝罪と奈緒人への愛情表現によって、その過去を克服していたつもりだったけど、直接二人のやりとりを見るのはやはりきつかった。

 ここまで読んでもまだ、未読のプリントが残っていた。麻季の釈明によればその夜の過ちに後悔した彼女は、もうこれで最後にしようと先輩に言ったはずだった。

 その後も先輩からは言い寄られたり、メールが来たりしたとは言っていたけど、麻季は返事をしなかったと泣きながら僕に言っていた。

 証拠として自分の携帯を僕に差し出しながら。 僕はプリントの続きを読んだ。もう黙って僕を見守っている怜菜のことは、意識から消えていた。

『僕は本気だよ。学生時代から麻季のことが大好きだった。旦那と別れて僕と一緒になってくれないか。君のことも奈緒人君のことも責任を持って一生大切にすると約束する』

『ごめんなさい先輩。もう連絡しないで。わたしはやっぱり奈緒人が大事。だから奈緒人の父親である主人を裏切れません』

奈緒人君のことは大切にするって言ってるじゃないか。それに君だって専業主婦で子育てと旦那の面倒だけみている人生を送るなんて、君を家庭に閉じ込めるなんて君の旦那は絶対間違っているよ。昔からあいつは嫉妬深かったけど。麻季はあれだけ佐々木先生に認められていた自分のピアノを本気で捨てるのか? 僕なら君と一緒に音楽の道を歩んで、お互いを高めあうような関係になれると思う。麻季を本気で愛している。もう一度自分の人生をよく考えて』

『先輩、何か誤解してるよ。博人君はわたしに専業主婦になれなんて一言も言っていないの。妊娠したときにあたしが自分で先生の手伝いを止めたの。奈緒人のために育児に専念したかったから。間違っても博人君の悪口は言わないで』

『ご主人のことを悪く言ったのはごめん。でもこれだけは撤回しない。僕は君のご主人より君のことを理解しているし君にふさわしいと思う』

『もうやめようよ。わたしは博人君と奈緒人を愛してるの。先輩とはもうメールしません。これまでありがとう、先輩。もうわたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない。何度メールしてきても決心は変わりません』

 僕はプリントを全部読み終わった。その生々しいやりとりに動揺もしたし、僕に対する鈴木先輩の誹謗めいた言葉に憤りもした。でも結局麻季は先輩を拒絶したのだ。少なくとも先輩と別れたという麻季の言葉は嘘ではなかった。

「見せてくれてありがとう」

 僕はプリントの束を怜菜に返そうとした。

「先輩、まだ二、三枚読み残しがあるみたい」

 怜菜が言った。

 最後と思っていたページの下に、数枚最後のページに折曲がってくっつくようにして残っていることに僕は気づいた。

「先輩には申し訳ないですけど、その最後の方を読んだ方がいいと思います」

 怜菜はさっきまで泣いていたとは思えないくらい冷静な口調で言った。

「・・・・・・わかった」

 僕は紙をめくって未読のプリントを読み始めた。

 最初に麻季から鈴木先輩に当てたメールがあった。日付を見ると二~三ヶ月前だ。

 それを見て僕は目の前が暗くなった。僕が必死で彼女を信じてやり直そうとしている間に、麻季は再び先輩とメールを再会していたのだ。

『もう電話もメールもしないで。わたしのことを本当に大切に思っていると言う先輩の言葉が本心ならもう放っておいて』

『ごめん。君のことが心配でいてもたってもいられなくなって。今日も定演のリハだったんだけど散々な出来だったし』

『説明するからこれで最後にして。わたしは先輩との過ちを博人君に告白しました。博人君はわたしのことを許してやり直そうと言ってくれたの。もちろん完全に彼に許してもらえたなんて思っていない。彼は奈緒人のためにわたしのことを許そうと考えてくれたんだと思う。もうわたしには奈緒人と博人君のためだけを考えて一生過ごすほかに選択肢はないの。先輩のこと嫌いじゃなかった。でももうわたしの中に先輩の居場所はありません』

 麻季は先輩のことは嫌いではないと言っていた。それは本当に辛かったけど、そこだけを問題にして、せっかくやり直している僕たちの関係を無にする気はなかった。

「もう少しだけだから全部読んでみてください」

 怜菜が言った。

 続きを読むと先輩と縁を切ったはずの麻季のメールがまず目に入った。

奈緒人が今日初めて「おなかすいちゃ」って言ったの。ちょっと言葉は遅かったからすごく嬉しかった』

『よかったね。安心した?』

『うん。旦那にメールしたら彼もすごく喜んでた。少し興奮しすぎなくらい(笑) 博人君も仕事中なのにね』

『そうか』

『あ、惚気話でごめん、先輩』

『いや。麻季が旦那とやり直そうと決めたんだから別に構わないよ。何か悩みでもあったらいつでも連絡して』

 次のメールは数か月後だった。それは麻季の方から先輩に出したメールだった。

『突然ごめん。先輩元気でしたか。定演の評判聞きました。もうこれで人気演奏者の仲間入りだね』

 先輩はそれに対してお礼を言う程度の当たり障りのない返信をしていた。

『またメールしちゃってごめんなさい。うまくやり直せてると思っていたんだけど、博人君内心ではわたしのことを許してないみたい。彼に迫っても全然抱いてくれないの。やっぱりわたしが先輩と寝たこと気にしてるのかな』

『僕が言うのもなんだけど、男ならそんなに簡単に妻の浮気を許せないかもね』

『どうしよう。わたしにはもう博人君と奈緒人しかいないのに』

『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のところにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分の罰だと思ってる』

『そんなこと言わないで。先輩はわたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』

 麻季は夫婦生活の不満のような微妙な話題まで先輩に相談していた。そして先輩の方もは全く麻季を諦めていないような返信をしていた。

「これって・・・・・・」

「結城先輩、ごめんなさい。先輩を苦しめる気はないの。でも事実は事実だから」

 怜菜は僕に向かってすまなそうに謝った。

「君が謝ることはないよ。ただ、麻季は先輩とはもう縁が切れていると思っていたから、こういうやりとりをしているとは思わなかった」

「本当にごめんなさい。先輩だって被害者なのに」

「君はこのことを先輩に言ったの?」

 僕は無理して怜菜のことを心配して言った。

 でも心中は穏かではなかった。

 僕は不貞を働いた麻季を許したつもりだった。でもこのメールを見る限り、麻季が僕の態度に不満、あるいよく言って不安を感じていることは明らかだった。

 麻季は僕には口では僕に謝罪し一番愛しているのは僕だと言った。

 でもこのメールのニュアンスでは、息子のために僕とやり直すような気持ちが感じられた。

 そして何よりも夫である僕に対して何も言わないでいる自分の考えを、先輩に対しては隠すことなく伝えていたのだ。

 僕は吐き気を感じた。

「彼には何も話していません。メールのことも麻季のことも。今は様子見ですね。このまま彼と麻季がフェードアウトするならなかったことにしようと思ってます。でも、これ以上二人の仲が縮まったら彼とは離婚します」

 怜菜は冷静にそう言った。でも彼女の手は震えていた。

「できれば離婚はしたくないんです。妊娠しているので」

 僕は絶句した。思わず視線が怜菜の腹部に向かってしまった。

「・・・・・・先輩はそのことを知っているのか」

 自分の妻が妊娠しているのに、他人の妻に独身を装っていつまでも待っていると言うようなクズなら、もうすることは一つしかない。

「いえ。まだ彼には伝えていません」

 怜菜が寂しそうに笑った。

「先輩はやっぱり麻季を許すんですか」

「わからない」

 本当にわからなかった。

 やり直すと宣言した以上、普通の夫婦生活を送ることは僕の義務だった。だから誘ってくる麻季を抱けなかったことは、僕の責任かもしれない。

 でも、そのことを不倫の相手に、僕をこういう風にした原因者にしれっと相談している麻季の心理は、僕の想像の範囲を超えていた。

「麻季のこと恨んでるだろ」

 自分のことで精一杯だったはずの僕は、このとき半ば逃避気味に、怜菜と先輩の仲を考えようとした。

 麻季とのことは考えたくなかったので、これは完全に逃避だった。

「麻季は彼を独身だと思っているみたいだし、あたしが妻だとは知らないでしょうし」

 怜菜が再び寂し気に微笑んだ。

 どういうわけか怜菜のその表情に、僕は自分が麻季に再び裏切られたと知ったとき以上の痛みを感じた。

「先輩に妊娠しているって言ってみたら?」

「結城先輩には怒られちゃうかもしれないけど、旦那は本当は優しい人なんです。だからあたしが彼の子どもを妊娠していると知ったら、それで目が覚めるとは思います」

「だったら」

「ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼に戻って欲しいんです。子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」

 その言葉に僕は言葉を失った。それは僕のしようとしたことへの明確な否定だった。

 怜菜はすぐに僕の様子に気がついた。自分だって辛いだろうに、彼女は人の気持ちを思いやれる人間のようだった。

「ごめんなさい。結城先輩がお子さんのことを考えて麻季を許したことを批判してるんじゃないんです」

 僕が間違っているのだろうか。

 奈緒人のことを、心底から一緒に考えてくれるのは麻季しかいないと考えて、僕は麻季の不倫を許した。でもその結果がこのメールだ。

「あたし、決めたんです」

「・・・・・・うん」

「もう一月だけは旦那のことを責めないで我慢します。でも、一月たってもまだ旦那が麻季にいつまでも待っているみたいなメールをしていたら、彼とは離婚します」

「そうか」

「結城先輩には事前に話しておきたかったんです。ご迷惑だったでしょうけど」

「いや。君に恨みはないよ。どうするにしても真実を知れて良かった」

 僕は相当無理して言った。実際、怜菜には何の非もないばかりか、一番の被害者は彼女だったかもしれない。

「じゃあ、これで失礼します。インタビューの件はよろしくお願いします」

「あ、ちょっと」

「はい」

「大きなお世話かもしれないけど。君が鈴木先輩と別れたとして、お腹の子どもは・・・・・・」

「育てますよ、もちろん。一人になってもあたしには仕事もあるし、育児休業も取れますから」

 最後に怜菜は強がっているような泣き笑いの表情を見せた。

 怜菜の話を聞いて以来、僕はずっと考えていた。

 鈴木先輩が独身じゃなくて、怜菜が先輩の奥さんであったこと、麻季が先輩とはもう連絡していないと言いながら、親密な相談メールを送っていたこととか。

 その事実は僕を苦しめた。

 でも、辛い思いをを必死で我慢してじっと自分の心の奥底を探ってみると、僕が本当に悩んでいるのは麻季の心理や行動とかではなくて、僕が麻季を許した動機の部分であることが段々と理解できるようになった。

『ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼にあたしのところに戻って欲しいんです。子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません』

 怜菜は彼女と鈴木先輩との仲をシビアに見つめていた。麻季と先輩の関係に目を背け、奈緒人を言い訳に、なし崩しに麻季とやり直そうとしている僕とは対照的に。

 なりふり構わないのなら怜菜にだってできることはあるはずだった。メールのことを鈴木先輩に話して麻季との仲を清算するように詰め寄ってもいいはずだし、自分が妊娠していることだって武器になる。怜菜本人も、自分の妊娠を知れば先輩は麻季を諦めて自分のところに戻ってくるだろうと言っていた。

 でも彼女はそれをせず、黙って先輩と麻季の仲を見守っている。

 自分の浮気を知られ、怜菜に責められ彼女の妊娠を知った上で、先輩が自分を選ぶことを拒否しているのだ。

 怜菜は強い女性だった。自分の行動や悩みを振り返るとますますそう思い、僕は自己嫌悪に陥った。

 僕がしたことは判断停止に近い。麻季と先輩の仲を深く探ろうともせず、麻季の本当の気持ちを知ることさえ拒否し、麻季が謝っていることに安住して奈緒人を言い訳に彼女を許した。

 麻季には当然非がある。先輩とはもう何も関係がないと言いつつ、夫婦間の悩みを先輩にしていたのだから。

 でも、きちんとした言い訳や謝罪すらさせてもらえず、僕に対する罪の意識を抱えたままにさせられた彼女が、先輩にメールした動機は少しだけ僕にも理解できた。

 それなら一度、存分に浮気をした麻季を責め立て自分の気持をぶつけてから今後のことを決めればいいのだけど、今の僕にはそれすら恐かった。

 麻季を問い詰めようとは思ったときだってあった。怜菜に見せられたメールのやり取りを思い浮かべて。

『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のところにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分の罰だと思ってる』

『そんなこと言わないで。先輩はあたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』

 少なくともこのことだけは麻季に指摘しておくべきだったろう。彼女は僕に嘘をついて先輩とメールを交わしていたのだから。

 それでもそれを実行しようとすると、僕は情けないことに奈緒人の無邪気な様子を思い浮かべて躊躇してしまうのだった。

 これを言ったら麻季は本当に家を出て行ってしまうかもしれない。そうなればもう二度と麻季とも奈緒人とも会えなくなるかもしれない。

 そう思うと僕には何もできなかった。本当に情けない。怜菜は自分と自分のお腹の子のために、一人で必死で耐えているというのに。

 帰宅してマンションのドアを開けたとき、偶然に目の前には奈緒人がいた。

 奈緒人はいきなりドアを開けて入ってきた僕を見て凍りついたように固まった。

 でもそれが僕とわかると、満面に笑みを浮べて僕の方に手を伸ばしてきた。

 僕はしがみついてくる奈緒人を抱き上げた。

「お帰りなさい、博人君」

 奈緒人を追いかけてきたらしい麻季が微笑んだ。

『かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをしているのは許容範囲内なんですか』

 そう怜菜は言った。もちろん答えはノーだったはずだった。

 でも帰宅した僕に抱きつく息子や、その様子を微笑んで見ている麻季を見ると、怜菜に会って考え直したことはどこかに失われてしまい、メール程度は許容するべきじゃないかとも思えてくる。

 怜菜は辛い立場だったろう。自分の夫が親友の麻季に対して自分は独身だと、いつまでも麻季を待っていると言っているのだから。

 確かに麻季は嘘をついていた。もう連絡しないと言っていたのに、実際は先輩に身の上相談までしていた。

 でも怜菜と違って、僕には奈緒人と麻季が微笑んで僕の帰宅を待っていてくれる家庭がある。

 メールのことはショックだったし、麻季の本心はわからなくなったけど、少なくともあのメールでは麻季は僕を選んでくれていた。

 妻の存在を隠して、麻季を口説いている先輩をただ待っているだけの怜菜よりも、僕の方がまだましな状態なのかもしれない。

 潔く、浮気した麻季と別れるか、曖昧に今の関係を続けるのか。このときの僕は本当に揺れていた。

 結局、僕は怜菜に会ったことも、怜菜から麻季と先輩が未だにメールをやりとりしていることを聞いたことも麻季には話さなかった。奈緒人を抱いた僕に微笑んだ麻季に対して、あらためて愛情を感じたせいかもしれない。

 愛情というか、それはむしろ執着といってもいいかもしれないけど。

 怜菜は、メールで証拠を押さえていることや、自分の妊娠を武器にして先輩を引きとめようとはしていない。先輩が自ら目を覚ますことを願ってじっと待っているのだ。

 そんな怜菜の意思を無視して勝手に麻季にメールの話をするわけにはいかなかった。

 怜菜に見せられたメールは僕を悩ませた。先輩との関係を泣きながら謝罪した麻季が僕に嘘を言っていたのだ。

 麻季が嘘をついたことと、自分の悩みを打ち明ける相手として僕ではなく先輩を選んだことは、麻季が先輩に抱かれたことよりも僕を苦しめた。

 怜菜は一月だけ待つと言った。別に僕が怜菜に義理立てする必要はない。

 でも僕は怜菜の判断に自分を委ねようと考えた。合理的な思考ではないかもしれないけど、あれだけ追い詰められている怜菜が鈴木先輩を許すなら、僕も麻季を許そう。

 でも麻季が先輩と別れるなら僕も麻季との離婚をを考えよう。

 悩んだ結果、ようやくそこまで僕は自分の思考を整理することができた。

 このときの僕には正常な判断能力は失われていたのかもしれない。情けないけど僕は怜菜の判断に全てを委ねる気になっていた。

「ご飯食べたの」

 麻季が微笑んだまま聞いた。

「連絡しなくて悪い。食べてきちゃった」

 実際は怜菜との会談で食欲を失っていた僕は何も食べていなかった。でも今麻季の用意した食事を食べられるほど僕のメンタルは強くない。

「気にしないでいいよ。それよりそろそろ奈緒人を寝かせなきゃ」

「ああ。悪い」

 僕の手から奈緒人を受け取った麻季は、奈緒人を寝室に連れて行った。

 こうして僕は、自分の判断を保留して怜菜の審判を受け入れる道を選んだ。

 怜菜の言う一月を待つ間、僕は麻季にできる限り優しくした。別に陰険な思いからではない。これが麻季との生活が最後になるかもしれないのだ。

 浮気までされて情けないという気持ちもあったけど、麻季と付き合って結婚した生活は、彼女の不倫の発覚までは幸せだった。

 だから僕は麻季と別れるにせよ、最後までその思い出を綺麗なままにしたかった。

 麻季も僕に対して優しく接してくれた。彼女が本心で何を考えていたかまではわからない。でもこの奇妙なモラトリアムの間、僕たちは理想的な夫婦を演じたのだ。

 僕は怜菜と会ったことを麻季には話さなかった。怜菜は僕に対して何も口止めしなかった。

 でも、彼女が何もせずに先輩の行動を見守っている以上、そして僕も怜菜の判断に追随しようと考えたからには、麻季に怜菜のことを話すわけにはいかなかった。

 それでもいろいろ考えることはあった。

 怜菜が鈴木先輩を許した場合、僕は麻季と本気でこの先やり直せるのか。

 そして怜菜が先輩を見限ったとしたら僕と麻季は離婚することになるのだろうか。

 先輩と麻季は結ばれるのか。その場合の奈緒人の親権はどうなるのか。

 それはいくら考えても現状では何の結論も出なかった。

 再び怜菜と会ったのは、横フィルの新しい常任指揮者へのインタビュー終了後だった。

 笑顔であいさつする怜菜に、僕は少し話せないかと誘ってみた。怜菜が決断するために区切った期限まで、あと一週間とちょっとしか残っていない頃だった。

「いいですよ」

 屈託のない笑顔で怜菜は答えた。

 定演のあったホールの近くは知り合いだらけでまずいので、僕は彼女をタクシーに乗せて、ホールから三駅ほど離れているファミレスまで連れ出した。

 人目を避けて行動しているいることに対して、何となく不倫をしているような妙な緊張感を感じる。

 でもホール周辺は怜菜や僕の知り合いだらけだったから、そうするしかなかったのだ。

 タクシーの中の彼女は、インタビューの様子や何月号にそれが掲載されるかといった仕事繋がりの話をしていたと思う。

 適当に見つけたファミレスに入って向かい合わせに座った僕は、時間を取らせたことを彼女に詫びた。

「いえ。あたしも先輩とお話したかったから」

 怜菜は笑って言った。

「君は強いな」

 そんなことを言うつもりはなかったけのだけど、僕は思わず口に出してしまった。

 表面上は、いい家族を必死で演じていた僕は、この頃になるともう精神的に限界だった。

 家庭でストレスを感じながらも麻季に優しく接している分、仕事中の僕の態度は最悪だった。部下にも些細なことで当り散らしたりもした。

「強くなんかないですよ。旦那の目を盗んで毎日泣いてます。お互い辛いですよね」

 そんな僕の心境を知ってかどうかはわからないけど、彼女は僕にそう言って微笑んだ。

 その微笑んだ顔はすごく綺麗だった。

 ・・・・・・大学時代に知り合ったのが麻季ではなく怜菜だったら、僕は今頃どういう人生を送っていたのだろう。大学で知り合って愛し合って結婚したのが、麻季ではなく怜菜だったとしたら。

 仕事から帰宅した僕を、奈緒人を抱いた怜菜がおかえりなさいと迎えてくれる姿が思い浮かんだ。

 彼女なら麻季と違って浮気も不倫もしないだろうし、きっと何の悩み事もない夫婦生活を送れていたかもしれない。

 それはどうしようもない幻想だった。怜菜が僕を好きになる理由はない。そして僕にとって、何よりも大切な奈緒人を産んでくれたのは麻季であって、怜菜ではない。

「どうしました?」

 怜菜が微笑んで言った。

 僕は慌てて無益な幻想を頭から振り払った。こんな妄想で現実逃避している場合ではなかった。あと一週間と数日で結果が出るのだ。

「もう少しで一月になるけど、君の決心が固まったのかどうか聞きたくて」

「まだ決めてません。一月たっていないし」

 それから、彼女はハンドバッグの中から数枚のプリントを取り出した。読むまでもなく麻季と先輩のメールのやり取りだろう。未だに麻季は先輩と接触があるのだ。

「多分このことが気になっているんですよね。どうぞご覧になってください」

 そう言われると、僕は麻季のメールが気になっていたような気がしてきた。

 さっきまで先行きのことばかり気にしていて、今現在の麻季と先輩の様子を気にすることは失念していたのだ。

奈緒人君は順調に成長しているようで何よりです。よかったね』

『ありがとう先輩。この子はわたしにべったりなのでトイレに行くのも大変』

『麻季みたいな人がママならそうなるだろうね』

『この子を幼稚園に盗られちゃったらあたしはすることが無くなっちゃうな。そう思うとちょっと恐い』

『そしたら君はそれだけ旦那さんに愛情を注げるんじゃない? やり直すんだからいいことだと思うけどな』

『先輩は何でそんな意地悪なこと言うの?』

『ごめん。意地悪したつもりはないんだ。でも君が彼を愛していると言っていたから』

『わたしの方こそごめんなさい。先輩が心配してくれているのに』

『彼とうまくいってないの?』

『博人君はわたしに優しいよ。でも何か彼の目が遠くて恐いの。わたしを見てくれているときでもわたしを通り越してもっと遠くの方を見ているようで』

『こんなこと聞いて悪いけど、旦那は君を抱いてくれた?』

『レスのままです。でもそういうこと先輩には聞かれたくないよ』

『ごめん。でもしつこいようだけど言わせてもらうよ。僕には麻季を誘惑して抱いてしまった責任がある。麻季が旦那と幸せなら僕はもう何も言わないしメールだってしない。でも麻季が彼との生活に辛い思いをしているなら、僕のところに来て欲しい。僕は麻季がどうするか決めるまでは独身のままで待っている。それが僕の贖罪だと思うから』

『ありがとう先輩。今は決められないけど気持ちは嬉しい。わたしのしたことは過ちだし博人君を裏切ったのだけど、それでも先輩との一夜が単なる遊びじゃなかったってわかった。それだけでも先輩には感謝している』

『お礼を言うのは僕の方だ。例え僕が麻季と結ばれても僕は一生君の旦那さんへ罪悪感を感じて生きて行くんだろうな。それでも後悔はしてないよ』

 前に読ませてもらたメールよりも二人の距離が近づいていることが覗われた。

 もうこれは駄目かもしれない。

 このときになってようやく僕にも、怜菜が先輩に対して不貞行為の証拠を提示して、彼を責めなかった理由が理解できた。

 実際にこの二人が僕や怜菜を捨てて一緒になる決断をするかは結果論であって、今はそんなことはどうでもいい。

 先輩と麻季が、自分たちの不倫の関係に価値を見出し、そのことをお互いに確認しあっていることが問題なのだ。

 怜菜は最初からそのことだけを追求していた。だから先輩を責めなかったし、麻季に対して先輩には自分という妻がいることを話したりもせず、ずっと耐えて待つことにしたのだ。

 そして僕にもようやく理解できた。麻季が奈緒人を愛していて、それゆえに麻季が先輩と縁を切ることを、僕は勝利条件だと考えていた。でもそうではないのだ。

 麻季と先輩がお互いに求め合いながらも、お互いの配偶者や子どもへの未練のために、もう連絡も取らず会わないと決めたとしても、それは何の解決にもなっていないことを。

 そのことを僕はか弱い外見の怜菜に教わったのだ。

「また結城先輩につらい思いをさせたちゃてごめんなさい。まだ期限は来ていないと言ったけど、でも正直もう駄目かなって思ってます」

 それまで微笑んでいた怜菜が泣き出した。

「・・・・・・僕もそう思う。これは互いに求め合っている悲劇の恋人同士の会話だもんね」

「あたしもそう思います。こういうことになるかなって思ってはいたけど、それが現実になるとすごく悲しくて寂しい。むしろ旦那のことを憎みたいのに、まだ未練が残っている自分がとてもいや」

「先輩と離婚する?」

「はい。期限前だけどもう無理でしょう。旦那とは別れます。そして一人でお腹の子を育てます。先輩は・・・・・・どうされるんですか」

 僕は息を飲んだ。優柔不断な僕だけどもう逃げているわけにはいかないことは理解できていた。

「君が先輩と別れるなら僕もそうするよ」

「え?」

 怜菜が一瞬理解できないというよううな表情を見せた。

「何言ってるんです? あたしと旦那が離婚したからといって、先輩が同じことをする必要なんてないですよ。先輩がお子さんのために麻季と頑張ろうとしているなら、それは立派なことじゃないですか」

「僕もこの間君に会ってから考えたんだ。謝ってくれて、奈緒人を大切にしてくれる麻季とやり直そうとした決心は正しかったのかって。麻季が僕のことを好きなことは間違いないと思っているけど、少なくとも麻季の心の半分は先輩に取られているようだ。それなら毎日僕に微笑んでくれる麻季は多少なりとも演技をしているわけで、麻季の気持ちに目をつぶってそんな生活を維持することが本当に奈緒人の幸せになるのかって」

「先輩の気持ちはわかりますけど、麻季は現実逃避しているだけですよ。たまたまその相手のうちの旦那が優しくしてくれるから自分の気持を勘違いしているんだと思いますけど」

「君だって辛いのに麻季のことなんか庇わなくていいよ」

「そうじゃないです。麻季と旦那との関係は恨んでいますけど、麻季本人のことは恨んでません。親友だし彼女のことはよくわかっています。麻季は本心では結城先輩のことしか愛していないと思います。今はうちの旦那との偽りの関係に酔っているだけですよ」

「もういいよ。今はお互いに自分のことだけを考えようよ」

「・・・・・・はい。もう少ししたら結論を出します。そうしたら旦那に別れを言いだす前に先輩には連絡させてください」

「うん。わかった」

 その数日後に僕は再び怜菜と会った。最初に彼女と会った社の近くの喫茶店で。

 怜菜に呼び出されて、緊張しながら店内に入った僕に気がついた彼女は、立ち上がり僕に深々と頭を下げた。

「お呼び立てしてごめんなさい」

「いや」

 僕たちは向かい合って座った。

 注文したコーヒーが運ばれてからあらためて怜菜が頭を下げた。

「いろいろとご迷惑をおかけましたけど決心しました。今までお付き合いいただいてありがとうございました」

「・・・・・・決めたんだね」

「はい。結城先輩には感謝しています」

 怜菜が言った。

「いや。僕の方こそありがとう」

「先輩さえよかったら、今日この後帰宅したとき旦那に離婚を求めようと思います」

「いいも悪いもないよ。僕や麻季のことは気にしないで自分の思ったとおりにしてください」

「ありがとう」

 怜菜はもう泣かずに僕に向かって微笑んでくれた。

「このあと先輩はどうされるんですか?」

「もう少し考えるよ。君にはいろいろ教わったし、そういうことも含めて最初から考えてみようと思う」

「それがいいかもしれませんね」

「お子さんは順調なの? 体調は平気?」

「・・・・・・しないでください」

 怜菜にしては珍しく乱れた声だった。

「うん?」

「そんなに優しくしないでください。あたし、これから一人で頑張らないといけないのに」

 怜菜が俯いた。

「最近、先輩があたしの旦那だったらなって考えちゃって。ここまで麻季のことを思いやる先輩みたいな人が、あたしの旦那さんだったらどんなに幸せだったろうなって、あたし先輩とお会いするようになってから考えちゃって」

 後にそのことをで後悔することになるのだけど、このときの僕は黙ったままだった。

 心の浮気も僕にとっては有責なのだ。

 怜菜の毅然とした様子や、それでもたまみ見せる弱さに、きっと僕も惹かれていたのだと思うけど、それを言葉にしてしまえばしていることが麻季や先輩と一緒になってしまう。

「麻季がうらやましい・・・・・・。ごめんね先輩。お互いに配偶者の浮気に悩んでいるのに、一番言ってはいけないこと言っちゃった。忘れてください」

 怜菜が立ち上がった。

「今までありがとうございました。誰にも言えずに悩んでいたんで、先輩とお会いしてずいぶん助けてもらいました」

「僕は何もしていないよ」

 僕はようやくそれだけ言った。

 怜菜が微笑んだ。

「そんなことないですよ、結城先輩。麻季とやり直せるように祈ってます。じゃあさよなら、先輩」

「さよなら」

 結局これが、生前の怜菜と直接会って交わした最後の会話となった。

奈緒人と奈緒 第2部第1話

 僕が初めて彼女に出会ったのは、大学のサークルの新歓コンパの席上だった。
 その年、サークルに入会した新入生たちは男も女もどちらも子どもっぽい感じがした。多分一年生のときは僕も同じように見えたのだろうけど。
 その中で、彼女だけはひどく大人びていて、冷静な印象を受けた。見た目が綺麗だったせいか、彼女は上級生の男たちに入れ替わり話しかけられていた。
 その年の新入生の女の子の中では、彼女は一番人気だった。その子が気になった僕は、しばらく彼女の方をじっと見て観察していた。
 彼女は笑顔で先輩たちに応えていたけど、その態度は非常に落ち着いたものだった。
 どうにかすると、年下の男たちを年上の女性がいなしているような印象すら受けた。
 彼女が綺麗だったことは確かだったから、僕も彼女に自己紹介したいなと、ぼんやりと会場の隅の席で一人で酒を飲みながら考えていた。
 そういう意味では、僕も新入生の彼女に群がる上級生たちと考えていることは一緒だった。
 でも彼女の周囲からは話しかける連中が一向にいなくならないし、その群れに割り込むには自分のプライドが邪魔していたので、僕は諦めて同じ二回生の知り合いの女の子と世間話をする方を選んだ。
「結城君も彼女のこと気になるの?」
 僕は知り合いの子の隣で、その子から彼氏の愚痴を聞かされていたのだけど、そのうち僕が自分の話をいい加減に聞き流していることに気がついた彼女がからかうように言った。
「別にそうじゃないけど。彼女、大人気だなって思って」
「あの子、綺麗だもんね。夏目さんって言うんだって」
 気になっていた子の話題になったせいか、僕は再び離れたテーブルにいる彼女の方を眺めた。
 そのとき、顔を上げて周囲を見回した彼女と目が合った。彼女は戸惑う様子もなく、落ち着いた様子で僕に軽く会釈した。
 新入生が誰に向かってあいさつしているのか気になったのだろう。彼女を取り巻いていた男たちの視線も僕の方に向けられたため、僕は慌てて彼女から目を逸らして、何もなかったように隣の子の方に視線を戻した。
 それで、僕は新入生の彼女のあいさつを無視した形になった。
「結城君らしくないじゃん。新入生にあいさつされて照れて慌てるなんて」
 彼女が僕をからかった。
「放っておいてくれ」
 僕はふざけているような軽い調子で答えたけど、心の中では自分の不様な態度が気になっていた。
 あれでは彼女の僕への印象は最悪だったろう。まあでもそれでいいのかもしれない。あんなやつらみたいに、新入生の女の子に媚を売るようにしながら彼女の隣にへばりつくよりも。
 みっともない真似をしなくてよかった。負け惜しみかもしれないけど、僕はそう思うことにした。
 次に僕が彼女に出合ったのは、階段教室で一般教養の東洋美術史の講義に出席していたときだった。
 その講義は出席票に名前を書いて提出し、課題のレポートさえ提出してさえいれば、その出来や講義時の態度に関わらず単位が取れると評判だったので、広い階段教室は一、二年の学生で溢れていた。
 東洋美術史なんかに興味はない僕は、さっさと出席票を書いて教室の後ろの出口から姿を消そうと考えていた。
 講義が始まってしばらくすると、出席票が僕の座っている列に回ってきた。
 自分の名前を出席票に書いて隣に座っている女の子に回して、僕はそのまま席を立とうとした。
 そのとき、僕は彼女に声をかけられた。
「こんにちは結城先輩」
 出席票を受け取った隣の女の子はサークルの新入生の夏目さんだった。
 驚いて大声を出すところだったけど、今は講義中だった。僕はとりあえず席に座りなおした。
「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一年の夏目といいます」
 講義中なので声をひそめるように彼女が言った。
「知ってるよ。あそこで見たし・・・・・・でも何で僕の名前を?」
「先輩に教えてもらいました」
 彼女は出席票に女性らしい綺麗な字で自分の名前を記入しながらあっさりと言った。
 僕はその署名を眺めた。夏目麻季というのが彼女の名前だった。彼女は出席票を隣の学生に渡すと、もう話は終ったとでもいうように美術史のテキストに目を落としてしまった。
「じゃあ」
 彼女に無視された形となった僕は、つぶやくような小さな声で講義に集中しだした彼女に声をかけて席を立った。もう返事はないだろうと思っていた僕にとって意外なことに、夏目さんがテキストから顔を上げて怪訝そうに僕を見上げた。
「講義聞かないんですか?」
「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」
 夏目さんはそれを聞いて小さく笑った。
「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」
「そんなことないよ」
 僕は中途半端に立ったままで、思わず夏目さんの笑顔に見とれてしまった。
「でも先輩って格好いいですよね。年上の男の人の余裕を感じます」
 彼女がどこまで真面目に言っているのか僕にはわからなかったけど、彼女の言葉は何かを僕に期待させ、そしてひどく落ち着かない気分にさせた。
「じゃあ、失礼します」
 くすっと笑って再び夏目さんはテキストに視線を落としてしまった。
 気になる新入生から話しかけられる。それも僕の名前を知っていたというサプライズのせいで、それからしばらくは僕の脳裏から彼女のことが離れなかった。
 何で僕の名前を聞いたのか、何で僕に話しかけたのか、何で僕のことを格好いいと言ったのか。
 彼女の謎の行動はそれからしばらく僕を悩ませた。多分僕は彼女のことが気になっていたのだ。

 彼女への思いが次第に募っていくことは感じてはいたけれど、それからしばらく彼女と話をする機会はなかった。
 キャンパス内で友人たちと一緒にいる彼女を見かけることは何度かあったけど、彼女が僕にあいさつしたり話しかけたりすることはなかった。
 東洋美術史の講義で、僕は何度か夏目さんと近くの席になったこともあったけど、もう彼女は僕のことなど気にする素振りさえ見せなかった。それどころか知らない男子と、仲良すぎだろと思う距離感で笑い合ったりしていた。
 僕の名前を先輩に聞いたり、その後は僕のことなど全く眼中にない様子だったり。彼女の行動はいちいちちぐはぐだった。
 ひょっとしたらもう二度と夏目さんと会話することはないかもしれない。そう思うと残念なような寂しいような感慨が胸に浮かんだけど、僕はすぐにその思いを心の中で打ち消した。
 僕と彼女では釣りあわないし、きっと縁もなかったのだろう。そう考えれば夏目さんに対する未練のような感情は薄れていった。
 彼女の人生の中で、僕はほんの一瞬だけ触れ合った大学の先輩というだけなのだろう。
 これ以上夏目さんのことを深く考えるのはやめようと僕は思った。
 それにこの頃、僕は偶然に幼馴染の女の子とキャンパス内で再会していた。同じ大学の同じ学年だったのに、今までお互いに一向に気がつかなかったのだ。
「結城君」
 自分の名前を背後で呼ばれた僕が振り返ると、懐かしい女の子が泣いているような笑っているような表情で立ちすくんでいた。
「・・・・・・もしかして理恵ちゃん? 神山さんちの」
「うん。博人君でしょ。わぁー、すごい偶然だね。同じ大学だったんだ」
「久し振りだね」
 中学二年生のときに僕は引っ越しをした。それで、それまで幼稚園の頃からずっとお互いに近所に住んでいて、同じピアノ教室にも通っていた理恵とはお別れだったのだ。
 あのとき涙さえ見せずに強がって笑っていた彼女との再会は、いったい何年ぶりだっただろう。
 僕に声をかけたとき、理恵はびっくりしたような表情だった。そして僕がほんとうにかつての幼馴染だとわかったとき、どういうわけか理恵は少しだけ目を潤ませたのだった。
 久し振りに会った理恵に対して、懐かしいという思いは確かにあった。でもそれ以上に理恵については、自分好みの女の子にようやく出会ったという気持ちの方が大きかったかもしれない。
 気が多い男の典型のようだけど、理恵と再会した僕は、夏目さんのことを忘れ、理恵のことを思わずじっと見つめてしまった。
「な、何」
 僕の無遠慮な視線に気がついた利恵が顔を赤くして口ごもった。
 そのときは僕たちはお互いの家族の消息を交換して別れただけだったけど、僕の脳裏には夏目さんの表情が薄れていって、代わりに理恵の姿が占めるようになっていった。
 その後、再会してからの理恵は僕と出会うと一緒にいた友だちを放って僕の方に駆け寄って来るようになった。そして僕の腕に片手を掛けて僕に笑いかけた。
「博人君」
「な、何」
 突然片腕を掴まれた僕は驚いて理恵の顔を見る。周囲にいた学生たちがからかうような羨望のような視線を僕に向ける。
「別に何でもない・・・・・・呼んだだけだよ」
 理恵は笑って僕の腕を離して友だちの方に戻って行く。僕に向かって片手をひらひらと胸の前で振りながら。
 この頃になると、僕は密かに理恵に恋するようになっていた。
 理恵の僕に対する態度も積極的としか思えなかったので、僕は久し振りに再会した幼馴染に対する自分の恋は、ひょっとしたら近いうちに報われるのではないかと思い始めていた。
 つまり一言で言うと僕は理恵に夢中になっていたのだ。なので、一瞬だけ気になった夏目さんと疎遠になったことを思い出すことは、だんだんと無くなっていった。
 僕と理恵はお互いに愛を告白したわけではなかったけど、次第にキャンパス内で一緒に過ごす時間が増えてきた。
 理恵は学内で僕を見かけると、一緒にいる友だちを放って駆け寄って来る。
 置き去りにされた友だちの女の子たちは、僕たちの方を見てくすくす笑って眺める。
 そんな状態がしばらく続いた頃、そろそろ勇気を出して理恵に告白しようと僕は心に決めた。
 その日も僕は理恵と並んで歩いていた。理恵はさっきから自分の妹が最近生意気だという話を楽しそうにしていた。
 玲子ちゃんというのが理恵の妹の名前だった。僕たちが昔隣同士に住んでいた頃には理恵には妹はいなかったから、僕が引っ越した後で生まれたのだろう。
 今では小学生になったという玲子ちゃんは、理恵にとってはひどく相手にしづらい気難しい女の子らしい。理恵のふくれた顔を眺めながら僕は彼女の話にあいづちを打っていた。
 でも正直会ったことすらない小学生の女の子に興味を抱けという方が無理だった。たとえそれが気になっている女の子の妹の話だとしても。
 そのとき視線の端に麻季の姿が見えた。彼女は誰か知らない上級生の男と一緒だった。
 一瞬、何か心に痛みが走った。麻季が他の男と寄り添って一緒に歩いている。それだけのことに僕はこんなに動揺したのだった。
 これまで理恵のことばかりを考え、麻季のことなど忘れていたのに。
 隣で話している理恵の声が消え、僕は自分の心が傷付くだろうことを承知のうえで麻季の方を見つめた。
 でも何か様子がおかしかった。僕が見つめている先に一緒にいる男女は、何かいさかいを起こしているようだった。自分の肩を押さえた男の手を麻季は振り払っていた。
「それでね、玲子ったら結局あたしの買ったバッグを勝手に学校に持って行っちゃってね」
「・・・・・・うん」
 手を振り払われた男は麻季のその行為に唖然とした様子だったけど、すぐに憤ったように麻季の顔を平手打ちした。麻季の華奢な体が地面に崩れた。
「でね、あいつったら勝手に友だちに貸して」
「悪い」
 僕は驚いたように話を途中で中断した理恵を放って、麻季と男の方に駆け出した。このときはよくわからないけど何だか夢中だった。
 とにかくあの麻季が暴力を振るわれていることに我慢できなかったのだ。
 僕は中庭のベンチの横にいる二人のそばまで走った。麻季は地面に崩れ落ちたままだで、激昂した男が何か彼女に向かって言い募っている。
 再び男が手を上げたとき、僕は二人の近くに到着した。
 先輩らしい男はけわしい表情で僕を見た。それでもその先輩は、か弱い女には手をあげたのだけど、まともに男相手に喧嘩する気はないようだった。
 きっと手を痛めつけられないのだろう。ピアノ科とか器楽科にいる連中なら無理もなかった。
 普通音大には演奏系、作曲・指揮系、音楽教育系の学科がある。
 演奏系の学生にとっては手は喧嘩ごときで傷めるわけにはいかない。逆に言うとこの先輩は、自分の大切な手を女を殴るためなんかによくも使えたものだ。
 僕は音楽学を選考していたから実際の器楽の演奏にはそれほど執着がない。
 先輩が麻季を虐めるのを止めないのなら、それなりに考えがあった。でも駆けつけてきた僕を見て先輩は急に冷静になったようで、人を馬鹿にするものいい加減にしろと、倒れている麻季に言い捨ててその場をそそくさと去って行った。
「君、大丈夫?」
 僕は倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情で僕を見上げた。
「怪我とかしてない?」
「……先輩、神山先輩と別れたの?」
 僕が麻季を地面から立たせると、それが僕であることを認識した彼女は場違いの言葉を口にした。
「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ」
 僕は呆れて言った。
「君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」
「彼氏って誰のことですか?」
 相変わらずマイペースな様子で麻季が首をかしげた。男にいきなり平手打ちされて地面に倒されたというのに、そのことに対する動揺は微塵も見られなかった。
 彼女はいろいろおかしい。僕はそう思ったけど、同時に首をかしげてきょとんとしている麻季の様子はすごく可愛らしかった。
 綺麗だとか大人びているとか思ったことはあったけど、守ってあげたいような可愛らしいさを彼女に対して感じたのはこのときが初めてだった。
 とりあえず麻季は怪我はしていない様子だったけど、そのまま別れるのは何となく気が引けていた僕は、彼女を学内のラウンジに連れて行った。
 ラウンジは時間を潰している学生で溢れていた。そのせいかどうか学内で目立っている麻季を連れていても、僕たちはそれほど人目を引くことなく窓際のテーブルに付くことができた。
「ほら、コーヒー」
「ありがとう。先輩」
 麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっきの先輩のことを話し始めた。
「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義があるからって断ったら突然怒り出して」
 それが本当なら悪いのは自分の意向を押し付けようとして、それが断られた突端に麻季に手を出した先輩の方だ。でも、あのとき先輩は馬鹿にするなと言っていた。
「付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。わたしは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」
 やはり内心そうではないかと思っていたとおりだったようだ。
 最初に新歓コンパで麻季を見かけたときはひどく大人びた女の子だと思った。
 群がる先輩たちへの冷静な受け答えを見ていて、彼女は単に男にちやほやされることに慣れているというだけではなく、しっかりと自分を律することができるんだろうなと。
 新入生にとっては、いくら男慣れしている子でも初めてのコンパで先輩たちに取り囲まれれば多少は狼狽してしまうはずだけど、彼女には一向にそういう様子が無かったから。
 でもそういうことだけでもないらしい。実はこの子は他人とコミュニケーションを取るのが苦手な子なのではないだろうか。
 今現在だってそうだけど、僕には麻季が何を考えているのかさっぱりわからない。でも麻季の中では自分の態度とそれに至る思考過程はきっと一貫しているのだろう。
 先輩はきっと麻季が自分のことを好きなのだと解釈したのだ。そしてその考えに沿って麻季に対して馴れ馴れしい態度を取ったに違いない。
 そして麻季も先輩の行動の意味を深く考えることもせず、自分の意に染まないことを強要されるまではなすがままに付き合っていたのだろう。
 僕が麻季について思いついたのはこういうことだった。
 突然に表面に現われる麻季の突飛な態度も、その過程の説明がないから驚くような行動に思えてしまうのであって、彼女の中ではその行動原理は一貫しているのではないか。
麻季の舌足らずの言葉の背後を探ってやればきっと彼女が何を考えているのかわかるのだろう。
「神山先輩と別れたの?」
 麻季が言った。
「なんで彼女のこと知ってるの」
「サークルの友だちに聞いたの」
 またそれか。僕のことが気になるのだろうか。そして、そうだとするとなんでこれまで僕のことを無視していたのか。ほかの男と一緒に過ごしてはいたのに。
「別れるも何も付き合ってさえいないよ」
「先輩、本当?」
 そのとき気がついた。きっと先輩に殴られて倒れた時に付いたのだろう。麻季の髪に枯葉の欠片が乗っていた。
 僕は急におかしくなって声を出して笑った。麻季は思ったとおり急に笑い出した僕の様子を変だとも思わなかったようだった。
 僕は手を伸ばして麻季のストレートの綺麗な髪から枯葉を取った。その間、麻季はじっとされるがままになっていた。麻季の髪の滑らかな感触を僕は感じ取ってどきどきした。
「結城先輩、わたしのこと好きでしょ」
 麻季が静かに笑って言った。

 それは思っていたより普通の恋愛関係だった。僕は麻季と付き合い出す前にも数人の女の子と付き合ったことがあった。そのどれもがどういうわけか長続きしなかった。
 結果として麻季との付き合いが一番長く続くことになった。
 あのとき麻季と付き合い出すことがなかったら、きっと僕は理恵に告白していただろう。そして多分その想いは拒否されなかったのではないか。
 でも麻季と付き合い出してからは、自然と理恵と会うこともなくなっていった。理恵の方も遠慮していたのだと思うし、僕はいつも麻季と一緒だったから、理恵に限らず他の女の子とは、わずかな時間にしろ二人きりで過ごすような機会は無くなったのだった。
 勢いで付き合い出したようなものだったけど、いざ自分の彼女にしてみると麻季は思っていたほど難しい女ではなかった。
 こうしてべったりと一緒に過ごしていると、麻季の思考は以前考えていたような難しいものではなかったのだ。付き合い出す前は少しメンヘラじゃないかとか彼女に失礼な考えが浮かんだことも確かだったけど、いざ恋人同士になり麻季と親しくなっていくと意外と彼女は付き合いやすい恋人だった。
 多分、四六時中側にいるようになって、僕が彼女が何を考えているのかをわかるようになったからだろう。
 それに思っていたほど麻季はコミュ障ではなくて、相変わらず言葉足らずではあったけど、僕は彼女の考えがある程度掴めるようになっていった。
 彼女には嫉妬深いという一面もあったし、ひどく情が深いという一面もあった。そういうこれまで知らなかった麻季のことを少しづつ理解して行くことも、僕にとっては彼女と付き合う上での楽しみになっていた。
 僕が三回生になったとき、麻季はお互いのアパートを行き来するのも面倒だからと微笑んで、ある日僕が帰宅すると僕のアパートに自分の家財道具と一緒に彼女がちょこんと座っていた。合鍵は渡してあったのだけどこのときは随分驚いたものだ。
 同棲を始めて以来、僕たちはあまり外出しなくなった。食事の用意も麻季が整えてくれる。意外と言っては彼女に失礼だったけど、麻季は家事が上手だった。そんな様子は同棲を始める前は素振りにさえ見せなかったのに。
 僕がインフルエンザに罹って高熱を出して寝込んだとき、僕は初めて真剣に狼狽する麻季の姿を見た。
「ねえ大丈夫? 救急車呼ぼうよ」
 僕は高熱でぼうっとしながらも思わず微笑んで麻季の頭を撫でた。麻季は僕に抱きついてきた。
「インフルエンザが移るって。離れてろよ」
「やだ」
 僕は麻季にキスされた。
 結局、僕の回復後に麻季が寝込むことになり、逆に僕が彼女を介抱する羽目になったのだ。
 この頃になるとサークルでも学内でも僕たちの付き合いは公認の様相を呈していた。
 麻季は相変わらず目立っていた。やっかみ半分の噂さえ当時の僕には嬉しかったものだ。
 これだけ人気のある麻季が心を許すのは僕だけなのだ。麻季の心の動きを知っているのは僕だけだ。
 それに麻季自身が関心を持ち、一心に愛している対象も僕だけなのだ。
 麻季と肉体的に結ばれたとき彼女は処女だった。
 別に僕は付き合う相手の処女性を求めたりはしないし、僕が今まで経験した相手は、最初の女の子を除けばみな体験者だったけど、それでも麻季の初めての相手になれたことは素直に嬉しかった。
 僕が四回生で麻季が三回生のとき、僕は就職先から内定をもらった。
 この大学では亜流だった僕は、別に演奏家を目指しているわけでも音楽の先生を目指しているわけでもなかったので、普通に企業への就職活動をしていた。
 音楽史音楽学のゼミの教授は、このまま院に進んで研究室に残ったらどうかと勧めてくれたけど、僕は早く就職したかった。
 麻季との結婚も視野に入れていたのだ。
 結局、ゼミの教授の推薦もあって、老舗の音楽雑誌の出版社から内定が出たときは本当に嬉しかったものだ。
 内定の連絡を受けた僕は迷わずに麻季にプロポーズした。
 僕の申し出に、麻季は信じられないという表情で凍りついた。感情表現に乏しい彼女だけどこのときの彼女の言葉に誤解の余地はなかったのだ。
「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」
 このときの麻季の涙を僕は生涯忘れることはないだろう。
 一年半の婚約期間を経て僕と麻季は結婚した。僕と麻季の実家の双方も祝福してくれたし、サークルのみんなも披露宴に駆けつけてくれた。
「麻季きれい」
 麻季のウエディングドレス姿に麻季の女友達が祝福してくれた。僕の側の招待客は親族を除けば大学や高校時代の男友達だけだった。幼馴染の理恵を招待するわけにはいかなかった。
 でもずいぶん後になって、知り合い経由で理恵が僕たちを祝福してくれていたという話を聞いた。
 結婚後しばらくは麻季も働いていた。それは彼女の希望でもあった。ピアノ専攻の彼女は演奏家としてプロでやっていけるほどの才能はなかったけど、ピアノ科の恩師の佐々木先生の個人教室のレッスンを手伝うことになったのだ。でもそれもわずかな期間だけだった。
 やがて麻季は、彼女の希望どおり妊娠して男の子を産んでくれた。僕たちは息子の奈緒人に夢中だった。
 麻季は佐々木教授の手伝いをやめて育児に専念してくれた。
 奇妙なきっかけで始まった僕たちの夫婦生活は順調だった。麻季は理想的な妻だった。かつて彼女のことを精神的な病気じゃないかと疑った自分を殴り倒してやりたいほど。
 僕は本当に幸せだった。
 仕事が多忙であまり麻季を構ってやれなかったけど、できるだけ早く帰宅して奈緒人をあやすようにしていた。
 僕が奈緒人を風呂に入れるとき、麻季は心配そうに僕の手つきを眺めていたのだ。これでは麻季の育児負担を軽減するために奈緒人の入浴を引き受けた意味がないのに。
 僕たちの生活は順調だった。少なくともこのときの僕には何の不満もなかったのだ。
 麻紀と奈緒人と共に歩んでいく人生に何の不満もないと思っていたのは本当だったけど、あえて物足りないことあげるとしたら、奈緒人が誕生してから麻季との夜の営みが途絶えてしまったことくらいだろうか。
 ある夜、奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、僕は出産以来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。
 少しだけ麻季は僕の手に身を委ねていたけど、すぐに僕の腕の中から抜け出した。
「・・・・・・麻季?」
 これまでになかった麻季の拒絶に僕は内心少しだけ傷付いた。
「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」
 子育ては僕たちにとって始めての経験だったし、疲れてその気になれないことだってあるだろう。
 僕は育児で疲労している麻季のことを思いやりもせずに、自分勝手に性欲をぶつけようとしたことを反省した。
 こんなことで育児もろくに手伝わない僕が傷付くなんて自分勝手な考えだ。何だか自分がすごく汚らしい男になった気がした。
「いや。僕の方こそごめん」
 僕は麻季に謝った。
「ううん。博人君のせいじゃないの。ごめんね」
 一度僕の腕から逃げ出した麻季は再び僕に抱きついて軽くキスしてくれた。
「もう寝るね」
「うん。おやすみ」
 これが僕たち夫婦のセックスレスの始まりだった。
 この頃はまだ奈緒人には手がかかっていた頃だった。
 実際、育児雑誌で注意されている病気という病気の全てに奈緒人は罹患した。
 そのたびに麻季は狼狽しながら僕に電話してきて助けを求めたり、病院に駆け込んだりして大騒ぎをした。
 麻季は真剣に誠実に育児に取り組んでいた。
 それは確かだったしそんな妻に僕は感謝していたけれど、それにしてももう少し肩の力を抜いた方がいいのではないかと僕は考えた。そしてそのそのせいで、何度か麻季と言い争いになったこともあった。
 麻季は奈緒人を大切に育てようとしていた。僕たち夫婦の子どもなのだからそれは僕にとっても嬉しいことではあったけど、麻季の場合はそれが行き過ぎているように思えた。
 市販の粉ミルクで赤ちゃんが死亡したニュースを見てからは、麻季は粉ミルクを使うことを一切やめて、母乳だけで奈緒人を育てようとした。
 ちなみに危険な粉ミルクのニュースは外国の出来事だ。
 それから大手製紙会社の製品管理の不具合のニュースを見て以来、麻季は市販の紙おむつを使用することをやめ、自作の布おむつを使用するようになった。
 製紙会社の不祥事は紙おむつではなくティッシュ製造過程のできごとだったのだけど。
 麻季との同棲生活や結婚生活を通じて、これまで彼女がここまで脅迫的な潔癖症だと感じるようなことはなかった。
 結局、麻季は僕と彼女との間に生まれた奈緒人のことが何よりも大事なのだろう。
 そういう彼女の動機を非難することはできないし、息子の母親としてはむしろ理想的な在り方だった。
 最初の頃少し揉めてからは、行き過ぎだと思いつつも僕は黙って麻季のすることを容認することにした。
 若干不安は残ってはいたけど、そもそも仕事が多忙でろくに育児参加すらできていない僕には、麻季の育児方法について口を出せるのにも限度があった。
 こんなに一生懸命になって奈緒人を育てている麻季に対して、これ以上自分勝手な性欲を押し付ける気はしなかったので、僕は当面はそういうことに麻季を誘うことを止めることにした。内心では少し寂しく感じてはいたけど。
 この頃の僕は、ちょうど仕事を覚えてそれが面白くなっていた時期でもあったし、少しづつ企画を任されて必然的に多忙になっていった時期でもあった。
 だから育児に協力したいという気持ちはあったけど、実際には二、三日家に帰れないなんてざらだった。
 なので、出産直後のように奈緒人をお風呂に入れるのは僕の役目という麻季との約束も、単に象徴的な夫婦間の約束になってしまっていて、たまの休日に「パパ、奈緒人のお風呂お願い」と麻季に言われて入浴させる程度になっていた。
 それすら、麻季は育児に協力できないで悩んでいる僕に気を遣って言ってくれたのだと思う。ろくに育児に協力できない僕の気晴らしのために、わざと奈緒人を風呂に入れるように頼んでくれていたのだろう。
 どんなに育児に疲れていても僕に対するこういう気遣いを忘れない彼女のことが好きだった。
 僕は麻季と結婚してからどんどん彼女のことが好きになっていくようだ。
 そして麻季も夫婦間のセックスレスを除けば、そんな僕の想いに応えてくれていた。
 この頃は僕も忙しかったけど、麻季だって育児に追われていたはずだ。
 それでも彼女は一日に何回も仕事中の僕にメールしてくれた。
 奈緒人が初めて寝返りをうったとき。奈緒人が初めて「ママ」と呼んだとき。奈緒人が初めてはいはいしたとき。
 その全てのイベントを、僕は仕事のせいで見逃したのだけど、麻季はいちいちその様子を自宅からメールしてくれた。
 そのおかげで僕は息子の成長をリアルタイムで感じることができた。
 当時は今ほど気軽に画像や動画を添付して送信できなかった時代だったので、麻季からのメールの画像は画質が低かったけど、それを補って余りあるほどの愛情に満ちた文章が送られてきたのだ。
 麻季は昔から感情表現が苦手な女だった。それは結婚してからも同じだった。
 それでも僕たちが幸せにやってこれたのは、僕が彼女の言外の意図を読むことに慣れたからだった。
 でも仕事のせいで麻季と奈緒人にあまり会えない日々が続いていたせいで、麻季は僕とのコミュニケーションにメールを多用するようになった。
 そして、目の前にいる彼女の思考は読み取りづらくても、メールの文章は麻季の考えを明瞭に伝えてくれることが僕にもわかってきた。
 文章の方がわかりやすいなんて変わった嫁だな。僕は微笑ましく思った。
 そういうわけで麻季の関心が育児に移ってからも、彼女の僕への愛情を疑ったことはなかった。
 それは疲れきって自宅に帰ったときに食事の支度がないとか、風呂のスイッチも切られていたとか、そういう次元の不満がないことはなかったけど、僕が帰宅すると奈緒人と添い寝していた麻季は寝床から起き出して、疲れているだろうに僕に微笑んで「おかえりなさい」と言って僕の腕に手を置いて軽くキスしてくれる。
 それだけで僕の仕事のストレスは解消されるようだった。
 この頃の麻季の僕に対する愛情は疑う余地はなかったけど、やはり夜の夫婦生活の方はレスのままだった。奈緒人が一歳の誕生日を迎えた頃になると、育児にも慣れてきたのか麻季の表情や態度にもだいぶ余裕が出てきていた。
 以前反省して自分と約束したとおり、僕は麻季に拒否されてから今に至るまで彼女を求めようとはしなかったけど、そろそろいいのではないかという考えが浮かんでくるようになった。
 まさかこのまま一生レスで過ごすつもりは麻季にだってないだろうし、いずれは二人目の子どもだって欲しかったということもあった。
 そんなある夜、久し振りに早目の時間に帰宅した僕は、甘えて僕に寄り添ってくる麻季に当惑した。
 奈緒人はもう寝たそうだ。その夜の麻季はまるで恋人同士だった頃に時間が戻ったみたいに僕に甘えた。
 これは麻季のサインかもしれない。ようやく彼女にもそういうことを考える余裕ができたのだろう。そして表現やコミュニケーションが苦手な彼女らしく態度で僕を誘おうとしているのだろう。
 長かったレスが終ることにほっとした僕は麻季を抱こうとした。
「やだ・・・・・・。駄目だよ」
 肩を抱かれて胸を触られた途端に柔らかかった麻季の体が硬直した。
 でも僕はその言葉を誘いだと解釈して行為を続行した。このとき麻季がもう少し強く抵抗していればきっと彼女も相変わらず疲れているのだと思って諦めたかもしれない。
 でもこのときの麻季は、可愛らしく僕の腕のなかでもがいたので、僕はそれを了承の合図と履き違えた。しつこく体を愛撫しようとする僕に麻季は笑いながら抵抗していたから。
 でもいい気になって麻季の服を脱がそうとしたとき、僕は突然彼女に突き飛ばすように手で押しのけられた。
「あ」
 麻季は一瞬狼狽してその場に凍りついたけどそれは僕の方も同じだった。
 僕は再び麻季に拒絶されたのだ。
「ごめん」
「ごめんなさい」
 僕と麻季は同時にお互いへの謝罪を口にした。
「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよね。悪かった」
 いつまで麻季に拒否されるんだろうという寂しさを僕は再び感じたけど、ろくに家に帰ってこない亭主の代わりに家を守って奈緒人を育ててくれている麻季に対してそんなことを聞く権利は僕にはない。
「わたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」
「いや」
「・・・・・・口でしてあげようか」
 麻季が言った。
 それは僕のことを考えてくれた発言だったのだろうけど、その言葉に僕は凍りつき、そしてひどく屈辱を感じた。
「もう寝ようか」
 麻季の拒絶とそれに続いた言葉にショックを受けたせいで、僕のそのときの口調はだいぶ冷たいものだったに違いない。
 そのとき麻季が突然泣き始めた。
「悪かったよ」
 僕はすぐに麻季を傷つけた自分の口調に後悔し、謝罪したけど彼女は泣き止まなかった。
「ごめんなさい」
「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあんなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」
 それでも麻季は俯いたままだった。そして突然彼女は混乱した声で話し始めた。
「ごめんなさい。謝るから許して。わたしのこと嫌いにならないで」
 僕は自責の念に駆られて麻季を抱きしめた。こんなに家庭に尽くしてくれている彼女に、こんなにも暗い顔をさせて謝らせるなんて。
「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れてるってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」
 僕の方も少し涙声になっていたかもしれない。麻季は僕の腕の中で身を固くしたままだった。
 かつて彼女が、まるで言葉が通じなかった状態のメンヘラだった麻季の姿が目に浮かんだ。ここまで麻季と分かり合えるようになったのに、一時の無分別な性欲のせいで、これまでの二人の積み重ねを台無しにしてしまったのだろうか。
 そのとき麻季が濡れた瞳を潤ませたままで言った。
「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」
 何を言っているのだ。僕は本格的に混乱した。もともとコミュ障気味の麻季だったけど、このときは本気で彼女が何を言っているのかわからなかった。
「わかってるよ。落ち着けよ」
「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」
「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理ならもう二度と迫ったりしないから」
「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」
「・・・・・・え」
 僕はその告白に凍りついた。
「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから許して」
 混乱する思考の中で僕は麻季に抱きつかれた。僕の唇を麻季がふさいだ。そのまま麻季は僕を押し倒して覆いかぶさってきた。
「おい、よせよ」
「ごめんね・・・・・・しようよ」
 彼女はソファに横になった僕の上に乗ったままで服を脱ぎ始めた。
 僕は混乱して麻季を跳ね除けるように立ち上がったのだけど、その拍子に彼女は上着を中途半端に脱ぎかけたまま床に倒れた。
 麻季が泣き始めた。
 深夜になってようやく落ち着いた麻季から聞き出した話は僕を混乱させた。
 麻季は浮気をしていたのだ。それも奈緒人を放置したままで。
 その相手との再会は保健所の三ヶ月健診から帰り道でのできごとだった。
 麻季は奈緒人を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。
 駐車場の段差で、ベビーカーを持て余していた麻季に手を差し伸べて助けてくれた男の人がいた。
 お礼を言おうと彼の顔を見たとき、二人はお互いに相手のことを思い出したそうだ。
 彼は大学時代に麻季を殴った先輩だったのだ。麻季は最初先輩のことを警戒した。でも先輩は何事もなかったように懐かしそうに麻季にあいさつした。
 当時近所にママ友もいないし僕も滅多に帰宅できない状況下で孤独だった麻季は、先輩に誘われるまま近くのファミレスで昔話をした。サークルや学科の友人たちの消息を先輩はたくさん話してくれた。
 当時の友人たちはそれぞれ自分の夢に向かって頑張っているようだった。中には夢を実現した友人もいた。
 僕との結婚式で「麻季、きれい」と感嘆し羨望の眼差しをかけてくれた友人たちに対して、当時の麻季は優越感を抱いていたのだけど、その友人たちは今では華やかな世界で活躍し始めていた。
 国際コンクールでの入賞。国内どころか海外の伝統のあるオケに入団している友だちもいた。
 それに比べて自分は旦那も滅多に帰宅しない家で一人で子育てをしている。麻季の世界は奈緒人の周囲だけに限定されていた。
 結婚式で感じた優越感は劣等感に変わった。麻季の複雑な感情に気づいてか気が付かないでか、先輩は自分のことも話し出した。
 国内では有名な地方オーケストラに入団した先輩は、まだ新人ながら次の定期演奏会ではチェロのソリストとして指名されたそうだ。
「みんなすごいんですね」
「君だって立派に子育てしてるじゃん。誰にひけ目を感じることはないさ。それにとても幸せそうだよ」
「そんなことないです」
「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家庭に入るなんて意外だったけどね」
「わたしには才能なんてなかったし」
「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃうなんてもったいないって」
 そのときは先輩と麻季はメアドを交換しただけで別れた。
 それ以来先輩からはメールが頻繁に来るようになった。その内容も家に引きこもっていた麻季には眩しい内容だった。
 そのうちに麻季は先輩とのメールのやり取りを楽しみにするようになった。
 そしてその日。
 先輩のオケの定期演奏会のチケットが送られてきた。それは先輩がソリストとしてデビューするコンサートのチケットだった。
 麻季は自分の実家に奈緒人を預けて、花束を持ってコンサートに出かけた。知り合いのコンサートを聴きに行くのは久し振りで、彼女は少しだけ大学時代に戻った気がしてわくわくしていた。
 終演時に観客の喝采を浴びた先輩は、客席から花束を渡す麻季を見つめて微笑んだ。
 実家に預けた奈緒人のことが気になった麻季がコンサートホールを出たところで、人目を浴びながらも、それを気にする様子もなく先輩がタキシード姿で堂々と彼女を待ち受けていた。
 その晩、誘われるままに先輩と食事をした麻季は、ホテルで先輩に抱かれた。
 話し終えた麻季がリビングの床にうずくまっていた。
 さっき脱ごうとした上着の隙間から白い肌を覗かせたままだ。それがひどく汚いもののように見える。
 情けないことに僕は一言も声を出すことができなかった。麻季が浮気をした。こともあろうに大学時代に僕が麻季を救ったその相手の先輩と。
 麻季との恋愛や結婚、そして奈緒人の誕生は全てそこが出発点だったのに、その基盤が今や音を立てて崩壊したのだ。
「・・・・・・先輩のこと好きなの?」
 僕はようやく言葉を振り絞った。
「本当に好きなのは博人君だけ。でも信じてもらえないよね」
 俯いたまま掠れた声で麻季が言った。
「先輩と何回くらい会ったの」
「最初の一度だけ。そのときだって先輩に抱かれながら、奈緒人とあなたの顔が浮かんじゃって。もうこれで最後にしようって彼に言ったの。それから会ってないよ」
 回数の問題じゃない。
 確かに慣れない子育てに悩んでいる麻季を仕事にかまけて一人にしたのは僕だった。でも心はいつも麻季と奈緒人のもとを離れたことなんてなかった。
 麻季だって寂しかったのだ。仕事中に頻繁に送られてくるメールだって今から思えば寂しさからだったのだろう。
 でも僕はそこで気がついた。あれだけ頻繁に僕に送信されていたメールがあるときを境にその回数が減ったのだ。
 それは麻季が先輩と再会してメールでやり取りを始めた頃と合致する。
「先輩って鈴木って言ったっけ」
「・・・・・・うん」
「鈴木先輩って独身?」
「うん。でも彼とはもう別れたんだよ。一度だけしかそういうことはしてないよ」
 そのとき僕はもっと辛いことに気がついてしまった。
 麻季が先輩に抱かれた時期は、麻季に拒否された僕がもう麻季に迫るのはやめようとしていた時期と同じだった。つまり麻季は僕に対しては関係を拒否しながらも、先輩に対しては体を開いていたことになる。
 僕の中にどす黒い感情が満ちてきた。できることならこの場で暴れたかった。あのとき鈴木先輩がしたように麻季の頬を平手で殴りたかった。
「先輩のこと好きなのか?」
 僕は再び麻季に問いかけた。
「何でそんなこと言うの」
 麻季は不安そうに僕を眺めた。
「僕は君のこと愛しているから。君が僕と離婚して先輩と一緒になりたいなら・・・・・・」
「違う!」
 麻季がまた泣き出した。
「先輩は君たちの関係のことを何か言ってたんでしょ」
「それは」
「泣いてちゃわからないよ。ここまできて隠し事するなよ」
 この頃になってだんだん僕の言葉も荒くなってきた。自分を律することが難しくなってきていたのだ。
「・・・・・・あなたと別れて一緒になってくれって。奈緒人のこともきっと幸せにするからって」
「そう」
 本当に今日はこのあたりが限度だった。このまま話していると本当に麻季に手を上げかねない。奈緒人の名前が先輩の口から出たと言うだけで自分の息子が彼に汚されたような気さえする。
「でも断ったよ、わたし。最初のときからすごく後悔したから。あの後先輩からメールがいっぱい来たけど返事しないようにしたんだよ」
 麻季は泣きながら震える手で自分の携帯を僕に見せようとした。
 誰がそんなもの見るか。
「今日はもう寝よう。明日は休みだし明日また話そう」
 僕は立ち上がった。僕の足に麻季がまとわりついた。
「お願い、許して。何でもするから。わたしあなたと別れたくない」
「・・・・・・今日はここで寝るよ。君は奈緒人の側にいてあげて」
 絶望に満ちた表情で床に座り込んだ麻季が僕を見上げた。
 麻季の悲しい表情を見ることが今まで僕にとって一番悲しく嫌なことだったはずのに、このときは僕は麻季の絶望に対して、何も感じなくなってしまっていたようだった。
 翌朝、ほとんど眠れなかった僕はソファで強張った体を起こした。体に掛けられていた毛布が体から滑り落ちて床に広がった。麻季が僕に毛布を掛けたのだろう。
 その記憶がないところを見ると、僕は少しは眠ったのかもしれない。
 家の中は妙に静かだった。もう朝の九時近い。
 ソファで無理のある姿勢で一晩を過ごしたせいで体の節々が痛かった。
 僕は起き上がって寝室の様子を覗った。寝室からは何の気配もしない。麻季のことはともかく、奈緒人がどうしているか気になった僕は寝室のドアをそっと開けて中を覗き込んだ。
 ドアを開けた僕の目に麻季がベッドの上で奈緒人に授乳している光景が目に入った。
 麻季も昨晩の告白に悩んでいたはずだけど、このときだけは自分の白い胸に夢中になってしゃぶりついている我が子のことを慈愛に満ちた表情で見つめていたのだ。
 麻季は寝室のドアが開いたことにも気がついていない様子だった。
 このとき僕が我を忘れて見入ったのは麻季ではなく奈緒人だった。もう離乳食を始めていたはずなのだけど、このときの奈緒人は母親の乳房に夢中になって吸い付いていたのだ。
 自分の妻と自分の息子なのだけど、このときの母子の姿は何というか神々しいという感じがした。
「おはよう」
 麻季はさぞかし僕に言い訳したかっただろう。でも彼女は僕の方を振り返ることをせず、「しっ」と僕を優しくたしなめた。
「・・・・・・ごめんなさい。久し振りに奈緒人がおっぱいを欲しがってるの」
「うん、そうだね。ごめん」
 僕は寝室のドアを閉じた。
 やがて麻季が寝室から出てきて、リビングのソファでぼんやりとテレビを見ている僕の向かいに座った。いつもなら迷わず僕の隣に座るのに。
「ごめんね。もう離乳できてたはずなんだけど、今日は奈緒人はおっぱいが欲しかったみたい」
奈緒人は?」
「お腹いっぱいになったら寝ちゃった。ベビーベッドに寝かせてきた」
「そうか」
「ごめん」
 何で麻季は謝るのだ。
 奈緒人のことで彼女が謝る理由なんて一つもない。むしろ謝るのは他のことじゃないのか。
 さっき見かけた母子の美しい様子が僕の脳裏に現われた。そして昨晩の麻季の告白が思い浮んだ。
 麻季の謝罪は浮気についてなのだろうか。僕は混乱していた。これでは冷静な判断ができない。
奈緒人は離乳が早いよな」
 僕は何となくそう言った。
「そうね。長い子だと卒乳するのが四歳とか五歳の子もいるみたいだよ」
「そうか」
「・・・・・この子も感じていたのかもね。自分の母親が、自分だけの物を父親でもない男に触らせてたって」
 彼女は暗い表情でそう言った。僕は麻季の言葉に凍りついた。考えてみれば、麻季は母乳が出る状態で浮気していたのだ。
「昨日は慌ててみっともない姿を見せちゃったけど、わたしのしたことが博人君にとって、それに奈緒人にとってもどんなにひどいことだったのかがよくわかった」
「うん」
 僕にはうんという以外の言葉が思いつかなかった。
「本当にごめんなさい。今でも愛しているのはあなたと奈緒人だけ。でも自分がしたことが許されないことだということもわかってる」
「僕は・・・・・・。奈緒人の世話もろくにしなかったし、君を一人で家に放置していたことも認めるよ。仕事が忙しかったとはいえ反省はしている。でもだからといって他の男に抱かれることはなかったんじゃないか」
「うん」
「うんじゃねえよ」
 僕は思わず声を荒げた。
「不満があるなら何で僕に話さないんだよ。僕にセックスを迫られるのが嫌なら、何でもっとはっき言りわないんだよ。僕が悪いことはわかってるよ。だからと言っていきなり浮気することはないだろ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいから理由を話してくれよ。もう一度聞く。今度は本気で答えろよ」
「・・・・・・はい」
「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?」
「それは・・・・・・うん」
「僕とはエッチするのは嫌だったのに?」
「・・・・・・」
「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したんだろ」
「うん」
 それを静かに肯定した麻季に僕は逆上した。
「もう離婚だな。先輩が好きなら何で大学時代に先輩のとこに行かなかったんだよ。何で僕のことを誘惑した? 何で僕と理恵の仲に嫉妬したりした?」
 麻季は俯いて黙ってしまった。麻季の目に涙が浮かんだ。
 その場を嫌な沈黙が支配した。
 そのとき寝室から奈緒人の泣き声が聞こえた。僕と麻季は同時に立ち上がり、競うようにして寝室に殺到した。
 奈緒人はベビーベッドの柵を乗り越えて床に落下したのだった。
 これまでの麻季とのいさかいを忘れ、僕は心臓が止まる思いをした。
 でも奈緒人はそんな僕の心配には無頓着に起き上がってたちあがり、よたよたと二、三歩歩いた。
奈緒人が歩いたよ、おい」
「うん。少しだけだったけどしっかり歩いたよ」
 その瞬間僕たちはいさかいを忘れ、瞬時に夫婦、いや父母に戻ったのだ。
 麻季が再び床に倒れた奈緒人を抱き上げた。麻季に抱き上げられた奈緒人はもう泣き止んでいて、麻季の腕から逃れたいようにじたばたしていた。
「フロアに立たせてみて」
 僕は麻季にそっと言った。
 麻季はもう僕のことは忘れたように返事せずに、奈緒人を見つめながら大切な壊れ物を置くように寝室のカーペットの上に立たせて、そっと手を離した。
 もう間違いではない。奈緒人は再び自力で歩行して、すぐに倒れ掛かった。
 危ういところで僕は奈緒人を抱き上げることができた。
「やった」
「やったね」
 僕と麻季は目を合わせて微笑みあった。そして申し合わせたように奈緒人の表情を眺めた。
 奈緒人はもう歩くことに飽きてしまったようで、僕に抱かれたまま僕の胸に顔を押し付けて再びうとうとし始めていた。
 僕は自分の腕の中にいる奈緒人を見つめた。
 奈緒人を実家に預け、僕以外の男に抱かれた麻季。僕の誘いを拒否して一度だけとはいえ鈴木先輩に抱かれた麻季。
 そんな彼女を許す理由としては、傍から見れば非常にあやふやだったかもしれない。
 でも奈緒人の初めての歩行を実際に見届けて感動していた僕は、その思いを共有できるのは麻季だけだとあらためて気がついたのだ。
 僕と麻季はそれまでのいさかいを忘れ、狭い寝室の中初めて歩行した奈緒人のことを見つめていたのだ。このときはもう言葉は必要なかったみたいだった。
 結局このときは僕は麻季を許してやり直す道を選んだ。先輩とは二度と連絡もしないし会わないという条件で。
「僕たち、最初からやりなおそうか。奈緒人のためにも」
 僕の許容に最初は呆然として戸惑っていた様子の麻季は、泣きながら僕に抱きつこうとして僕に抱かれている奈緒人に気がついて自重した。
 その代わりに彼女は奈緒人を抱いている僕の手を強く握った。麻季の手は少し湿っていて冷たかった。

奈緒人と奈緒 第1部第13話

 翌日も僕は大学を休んだ。

 僕のことをからかったり、叔母さんの父さんへの恋心を語ったりしている明日香は、もうあまり思いつめていないように見えた。

 でも、僕がトイレに行ったり食事の支度をしたりして、リビングのソファに寝ている明日香のところに戻る際、僕は明日香が普段はあまり見せない暗い表情をしていることに気がついた。

 奈緒に会えないことは正直寂しかったし、講義に遅れてしまうことへの危惧もあったけど、僕が悩んでいた時期にそっと寄り添って一緒にいてくれた明日香を、一人で自宅に放置するなんて論外だった。

 なのでリビングのソファで横になっている明日香の隣で僕はじっと腰かけて、スマホでゲームをしていた。明日香がテレビを見ているので、イヤホンをして邪魔にならないようにしていたのだけど、それでも明日香は僕のしていることが気に入らないようだった

「リビングで一緒にいるのに、何でお兄ちゃんは自分ひとりでニヤニヤしながらゲームしているのよ」

 明日香が僕の耳からイヤホンを取り上げた。ニヤニヤなんかしていない。

「よせよ。壊れちゃうだろ」

「一緒にテレビ見ながら話しようよ」

 明日香が僕の手からスマホを取り上げて言った。

「テレビって」

 平日の午前中だから仕方ないのだろうけど、明日香がさっきから興味深々に見入っているのは主婦向けの情報番組だった。

「・・・・・・これ見るの?」

 僕は一応明日香に抗議したけれど、実はそんなにプレイしていたゲームに未練はなかった。

 最近はリアルの生活でいろいろ進展があるせいか、これまではあれほど熱中していたゲームが、なんだかそんなに面白いとは思わなくなっていた。

「・・・・・・嫌なの? じゃあチャンネル変えようか」

 明日香がリモコンを弄ったけど、結局はどれも似たような番組だ。

「いいよ。最初におまえが見ていたやつで」

 窓からはちらほらと舞い降ってくる粉雪が見える。このまま降り続けば、今日は積もりそうな勢いだ。

「・・・・・・この人おかしいよね」

 番組の中で芸人のコメンテーターが何か気の利いたことを言ったのだろう。明日香が笑って僕の方を見た。

 今頃は奈緒はどうしているのだろう。僕はふと考えた。

 まだ午前中の授業時間だから、授業に熱中しているのだろうか。それともピアノのことでも考えてるのか。

 ・・・・・・それとも。ひょっとしたら僕のことを考えているのかもしれない。

 つらかった別れを経て久しぶりに再会できた兄のことを。

 奈緒が自分の実の妹であることを知った日以来、僕は精神的には本当にまいっていたのだけど、奈緒にとってはそれはそういう受け止め方をするような事実ではなかったようだ。

 奈緒はすぐに僕が自分の兄であることを受け入れたばかりか、僕を抱きしめながら本当に幸せそうな微笑みを浮べたのだ。

 僕は奈緒が真実を知らされることを恐れていた。出来立ての自分の彼氏が、恋愛対象として考えてはいけない相手だと知らされたとき、奈緒がショックを受けて傷付くことを恐れたからだ。

 奈緒は傷付くどころか喜んだ。僕だって妹との再会は嬉しくないはずはなかった。

 でも、これほどまでに入れ込ん最初の恋人が、付き合ってはいけない女の子だったと知ったときの絶望感は、僕の心に深く沈潜してなくなることはなかった。

 僕ほどにショックを受けていないのは、僕が兄だと知る前の僕のことを、奈緒がそれほど愛してくれていたわけではないからなのだろうか。その考えは僕を混乱させた。

 奈緒を傷つけたくないと思っていたはずの僕は、あろうことか、奈緒が僕と恋人同士ではいられなくなるという事実を知っても動揺しなかったことに対してショックを受けたのだ。

 いったい僕は何がしたいのだろう。過去に自分の記憶を封じ込めるほどにつらい過去があった。その話は玲子叔母さんが僕に話してくれたから、今ではよく理解できていた。そのつらかった過去の一部は、奈緒との再会によって癒されることになった。

 それなのに僕はこれ以上いったい何を求め、何を期待していたのだろう。

 つらい別れをした兄と偶然に再会できて喜んでいる実の妹の態度に、僕は何が不満なのだろう。

 これは突き詰めると簡単な話なのだろう。僕はあれだけ大切にしていた妹が、再び僕のそばにいてくれることだけでは満足できないのだ。要するに僕は、奈緒のことを今でも妹としてではなく女としてしか見ていないのだ。

 無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒の態度に、僕は飽き足らない想いを感じているのだ。

 本音を言えば、奈緒を傷つけたくない混乱させたくないと思いながらも、奈緒が彼氏である僕にもう少し執心な姿を見せて欲しかったのだ。

 僕が奈緒に対して感じているのと同じ感情で。奈緒と出合った日。奈緒と初めてキスした日。

 僕はその思い出を今でも大切にしていた。そして僕は奈緒にもその想いを共有して欲しかった。

 奈緒は血の繋がった実の妹だった。それが理解できた今でもなお、僕は奈緒に自分のことを異性として意識していて欲しいと願っていたのだ。ちょうど今の僕が奈緒に対してそう考えているように。

「また黙っちゃった。お兄ちゃんってこういうときはいつも何考えてるの」

 明日香は物思いにふけっていて自分を無視している僕の態度に不満そうだった。

「ただぼんやりとしてただけだけど」

「そんなにあたしと二人きりでいるとつまらない?」

 明日香が不満そうに言った。

「そんなことないって」

「だってお兄ちゃん、さっきから全然あたしの話聞いてないじゃん」

「だからぼんやりしてたから」

 明日香がソファから半分身を起こした。

「あたし以外の女のことを考えてたんでしょ」

 一瞬僕はどきっとした。明日香の言うとおりだったから。

「いったい誰のこと考えてたのよ」

 明日香がテレビの音量を下げて僕を睨んだ。

 テレビの音量が下ったせいで、部屋の中は静かだった。

 相変わらず窓の外には粉雪が降りしきり、庭の樹木を白く装っている。叔母さんは嫌がっていたけどこの分だと積もるかもしれない。

「正直に言うとさ、さっきまで奈緒のことを考えてた」

「・・・・・・最悪だよ」

 明日香が低い声で言った。

「お兄ちゃん言ったよね? 奈緒とは再会したいい兄妹の関係だって」

「うん」

「あたしと二人きりでも奈緒の方が気になるの? 実の妹なんでしょ? お兄ちゃんは実の妹のことでいつも頭がいっぱいなわけ?」

「いや、違うって」

「どう違うのよ。お兄ちゃんはあたしの気持ちを知ったんでしょ。あたしはお兄ちゃんのことが好き。お兄ちゃんにあたしに彼氏になって欲しい。血も繋がっていないし、ママだってそれを望んでいるのに」

 穏やかな午前中の時間はこれで終ったみたいだった。

 明日香は今では涙を浮べていた。こいつは昨日は僕に返事は急がないと言ったばかりだったはずなのに。

「お兄ちゃんが大学の友だちの女の子が好きであたしが振られるなら仕方ないよ。でも、何でそれが奈緒なの? 奈緒だってお兄ちゃんが彼氏じゃなくて実の兄だってことを受け入れたんでしょ? お兄ちゃんだってそう言ってたじゃない。それなのに何でおあたしと一緒のときにいつもいつも奈緒のことばかり考えてるのよ」

 明日香はいい兄妹として仲直りする以前のような興奮した口調で話し出した。

 奈緒のことを考えていたと正直に明日香に話したのは失敗だったようだ。

 やはり明日香の一番気に障る存在は奈緒のようだった。

 奈緒が悪意をもって僕を陥れるために近づいたのだという誤解は解けたはずだった。あれは偶然の出会いだったのだ。それを理解してもなお、明日香の奈緒に対する敵愾心はちっとも薄れていないようだ。

 こうなってしまったら仕方がない。明日香が僕に対して敵愾心を持っていた頃、明日香が切れたときは僕は反論せず怒りが収まるまでじっと耐えたものだった。

 それがどんなにひどい言いがかりであったとしても。

 久しぶりに今日もそうするしかないだろう。それに今回は明日香の言っていることは単なる言いがかりではなかった。

 奈緒と兄妹として名乗りあったときの安堵感は消えていき、さっきから悩んでいるように、僕が奈緒に対して再び恋愛感情を抱き出したことは事実なのだ。

 でもそれだけは明日香にも誰にも言ってはいけないことだ。

 昔はよくあったことだった。ひたすら罵声に耐えているうちに明日香の声は記号と化し意味を失う。

 そこまでいけば騒音に耐えているだけの状態になり、意味を聞き取って心が傷付くこともない。

 久しぶりにあの頃は頻繁にあった我慢の時間を過ごせばいい。そう思っていた僕だけど、どういうわけか明日香の言葉はいつまで耐えていてもその意味を失わなかった。

「まさかお兄ちゃんは血の繋がった妹を自分の彼女にしたいの?」

 以前と違って明日香の言葉は鮮明に僕の耳に届き僕の心に突き刺さった。

「実の妹とエッチしたいとかって考えているの?」

 もうやめろ。やめてくれ。

 以前と違った反応が僕の中で起きた。僕はまたパニック症候群の症状の発作を起こしたのだ。

 視界が歪んでぐるぐる回りだす。叔母さんや奈緒の声が無秩序にでも鮮明に聞こえてきた。

 

奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに』

 

 叔母さんの驚愕したような声。

 

『わたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そうしたらわたしのこと嫌いにならないでいてくれますか』

『それで奈緒人さんがわたしと別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾きません』

『わたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて奈緒人さんと冬休みに会わなかったからじゃないんですか』

 

 僕を見上げる奈緒の縋りつくような涙混まじりの目。

 

「お兄ちゃんごめん」

 気がつくと僕はソファで横になっていた。明日香の顔が間近に感じる。

「・・・・・・まったやっちゃったか。ごめん明日香」

 明日香が僕を抱いている手に力を込めた。

「あたしが悪いの。自分でもよくわからないけど、奈緒のことを考えたらすごく悲しくなって、でも頭には血が上ってかっとなっちゃった。本当にごめんなさい」

 代償は大きかったけど、でもこれでようやく明日香の気持ちはおさまったようだった。

 僕は安堵したけど、もちろん事実としては何も解決していないことは理解できていた。

 明日香はもう何も喋らずに僕に覆いかぶさるように横になった。思ってたより重いな、こいつ。僕は何となくそう思った。

 全身が汗びっしょりで体が体温を失って冷えていくのを感じる。明日香の包帯を巻いた手が僕の額の汗を拭うようにした。明日香の手に僕の汗がついてしまうのに。

 そのまま明日香は僕の頭を撫でるように手を動かした。それはずいぶんと僕の心を安定させてくれた。

 やはり奈緒への恋心、つまり自分の実の妹への恋愛感情は無益なだけでなく有害ですらある。世間的にどうこう以前に自分の心理ですらその禁忌に耐えることすらできていない。

 再び発作に襲われた僕は、やっと冷静に考えられるようになった。

 きっと明日香の言うとおりなのだろう。もうこれは本当に終らせなければならないのだ。それに僕の恋は、無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒をも戸惑わせ、傷つけることになるかもしれない。

 兄としての僕への奈緒の想いの深さは、恋人が実は兄だったという事実をも圧倒したため、奈緒は僕のように傷付かずに済んだのだろう。

 それを蒸し返せば今度こそ奈緒を深く傷つけることになるかもしれない。

 奈緒が僕のように胃液を吐きながら発作を起こし、のたうちまわって苦しんでいる姿が浮かんだ。

 だめだ。自分の大切な妹にそんな仕打ちをするわけにはいかない。奈緒への無益な恋心に惑わされていた僕がそれに気がつけたのは、明日香のおかげだった。

 確かにきつく苦しい荒療治だったけど、そのおかげで僕は目が覚めたのだろう。

 僕は大きく息を吸った。この決心によって傷付く人は誰もいない。明日香の望みをかなえられるし、僕のことを実の兄として改めて別な次元で慕い出した奈緒だってもはや傷付くことはない。

 叔母さんだって僕たちの味方をしてくれるはずだった。

「明日香」

 明日香は僕の髪を撫でる手を止めて僕の方を見た。

「・・・・・・まだ苦しい?」

「いや。そうじゃないんだ」

 僕は体を起こし、半ば僕に覆いかぶさるようにしていた明日香を抱き起こすようにして自分の隣に座らせた。

「おまえが言ってたことがあるじゃん。僕のことが好きだって」

 明日香が怪訝そうな表情をした。

「言ったよ。それがどうしたの・・・・・・あ」

 そのとき明日香の表情が何かに怯えるような影を宿した。

「よく考えてって言ったのに。あたし、お兄ちゃんにもう振られるの?」

 本心で明日香のことを奈緒以上に愛しているかと聞かれたらそれは違う。でも少なくとも明日香が大切で心配な存在であることは確かだった。

 僕が一番つらい時期に僕を支えてくれたのは明日香だった。

 明日香の怯えた表情を見たとき、僕は心底から明日香をいとおしく感じたのだ。

「僕たち付き合ってみようか」

 一瞬、驚いたように目を大きく見開いた明日香の表情を僕は可愛いと思った。

「お兄ちゃん、それってどういう意味」

「どういうってそのままの意味だよ。っていうか僕に告白してきたのはおまえの方だろう」

 次の瞬間、僕は明日香に飛びつかれ、ソファの背もたれに押し付けられた。

「だめだと思ってたのに・・・・・・絶対に断られるって諦めてたのに」

「・・・・・・・泣くなよ」

「嬉しいからいいの。お兄ちゃん大好きだよ」

 僕も明日香の体に手を廻して彼女を抱き寄せた。

 そのとき、一瞬だけ記憶に残っていた幼い奈緒の声が頭の中で響いた。

『お兄ちゃん大好き』

 

 夜半過ぎに雪は雨に変わっていたようだ。結局、明日香の望みどおり朝の景色が一面雪景色となることはなかったのだ。

 その晩、僕と明日香は深夜までソファで寄り添っていた。初めて心が通じ合った直後の甘い会話や甘い沈黙は僕たちの間には起こらなかった。

 アンチクライマックスもいいところだけど、僕と明日香が恋人同士になっても、今までの関係やお互いに対する想いが劇的に変化することはなかったようだった。

 僕が明日香を受け入れたとき、明日香は涙を浮べながら僕に抱きついてきた。僕もそのときは感極まって明日香を抱き寄せたのだけど、しばらくしてお互いの気持ちが落ち着いてくると、初めて彼女が出来たときのようなどきどきして興奮したような気持ちはすぐにおさまっていった。

 そして残ったのは、限りなく落ち着いて居心地のいい時間だった。

 思うに僕と明日香の関係は長年の仲違いを解消して、明日香が僕のいい妹になると宣言したときの方が、今回よりはるかにドラスティックな変化を迎えていたのだと思う。

 結局、明日香の気持ちに応えて付き合うようになっても、その前までの彼女との関係とあまり変化がなかった。多分それは明日香も同じように感じていたんじゃないかと思う。

 僕が真実を知りパニック障害を発症するようになってから、明日香は常に僕に寄り添っていてくれた。

 改めて付き合い出したとはいえ、これ以上べったりするのも難しい。

 そういわけで深夜まで抱き合いながら寄り添っていた僕たちの会話は、今までとあまり変わらなかった。

 ただ、お互いが恋人同士になったことを、両親や玲子叔母さんに話すタイミングとかを、少し真面目に話したことくらいが今までと違った点だ。

 その会話も、寄り添いあった恋人同士が近い距離で囁きあっているわりには、きわめて事務的な会話といってもよかった。

「まあ急ぐことないよ」

 明日香が僕の肩に自分の顔をちょこんと乗せながら言った。

「でもいつかは言わないとね」

「多分、あたしがお兄ちゃんのことを好きなのはもうパパやママにもばれてるし」

「そうなの」

「うん。ママには前からけしかけられるようなことも言われていたしね」

 その話は叔母さんからも聞いていた。母さんは、僕と明日香が結ばれることを密かに期待していたのだという。そうしていつまでも家族四人で暮らしていくことを望んでいたらしい。

「それに確実に叔母さんにはばれてるし」

「そらそうだ。叔母さんがいる前でおまえは告白したんだから」

「叔母さんには隠し事したくなかったし」

 明日香が言った。

 それからしばらく、僕たちは黙ったまま寄り添っていた。居心地は悪くない。お互いに長年身近にいたせいか、こういう時間も全く気まずくはなかった。

「あのさ」

 明日香が僕の手を両手で包んで撫でるようにしながら言った。

 こういう動作は今までにはなかったもので、僕の動悸は少し早くなったようだ。

「うん」

「今日一緒に寝てもいい?」

「一緒って、どういうこと?」

「一緒は一緒だよ。お兄ちゃんのベッドでいいや」

 僕たちはその晩随分遅くなってから、結局僕の部屋のベッドで一緒に寝ることにした。考えてみれば、これまでも嫌がらせで明日香が僕のベッドに潜り込んでくることがあったので、別にそれは敷居が高いことではなかった。

 ただこれまでと違って明日香は最初から僕に密着して抱きついたので、僕は少し混乱した。

 長年一緒に連れ添った夫婦みたいに、こいつとの間には新たな発見はないと思っていたのだけど、一緒にベッドに入って抱き付かれると、これまで明日香に対しては感じなかったような感覚が湧き上がってきた。

 ここは自制すべきところだった。

 飯田に襲われかかった明日香に対して、そういうことを求めるわけにはいかない。

 でも体の反応の方は素直だったので僕は、明日香がすやすやと寝息を立てた後も、しばらくは天井を見上げて自分の興奮を収めようと無駄な努力を重ねていたのだ。

 それでもいつのまにか僕は寝入ってしまったようだった。

「ねえ起きてよ」

 僕が目を覚ますと、昨夜カーテンを閉め忘れたのか、外の景色が目に入った。

 雪は小雨に変わっているようだった。僕は隣で横になっている明日香の柔らかな肢体を再び意識しながら目を覚ました。

「・・・・・・なんでお兄ちゃんが赤くなるのよ」

「別に」

 明日香の身体に反応したからとは言えない。

「まだ十時前だけどもう起きる?」

 今週いっぱいは明日香は医師から自宅療養を指示されている。その間は僕も大学の講義を休むつもりだったから、特に早く起きる必要はなかった。

 自堕落にいつまでも寝ているつもりはないけど、明日香はまだ怪我だって癒えていないのだから、何も急いでベッドから出なくてもいい。

「誰か来たみたい」

 明日香が僕を覗き込んで言った。

「聞こえなかった? さっきチャイムが鳴ってた」

 僕は起き上がった。特に気が付かなかったと言おうとしたとき再びチャイムが響いた。

「どうする?」

「とりあえず見て来る。おまえはこのまま寝てろよ」

「うん」

 明日香は再び毛布を引き寄せた。

「はい」

 僕がリビングに降りてインターフォンを取ると女性の声がした。

「突然申し訳ありません。警察の者ですけど」

「・・・・・・はい」

 何となく用件は想像が付く。でも僕はてっきり平井さんたちが来るものだと思っていたのだ。

 僕がドアを開けるとそこには私服姿の若い女性が二人立っていた。一人が僕に手帳を見せた。

「明日香さんの具合が悪くなければ、三十分ほどですみますので事情をお伺いしたいんですけど」

 その人はそう言った。

「平井さんじゃないんですね」

 いきなり見知らぬ警官が現われたことに不信感を覚えた僕は聞いてみた。

 女の人は動じずに微笑んだ。

「性犯罪の被害者の方への聴取は、女性警官がすることになっています。明日香さんへの聴取はあたしたちがさせていただいた方がいいでしょう」

 女の警官は話を続けた。

「それに自分の上司を悪く言うようだけど、平井さんは高校生くらいの女の子の扱いには慣れてませんしね」

 彼女は笑ってそう言った。

 確かにあの平井さんに明日香が事情聴取されるよりは、目の前で柔らかな微笑みを浮べている女性の警官に事情聴取された方が明日香も緊張しないだろう。

 二人の女性警官は制服も着ていないのでそういう意味でも明日香には答えやすいかもしれない。それにしてもこの人が何気なく言った性犯罪という言葉は、改めて明日香が被害を受けそうになった飯田の凶行を否応なしに思い浮かべさせられた。

 明日香は僕との仲が進展して多少は気分転換できたかもしれないけど、やはり明日香があのとき経験したことは高校生にとっては過酷な出来事だったのだ。

「ちょっと妹の様子を見てきますから、少し待ってもらえますか」

 僕は言った。

 明日香に心の準備ができているかを確認しないで、勝手にこの人たちを家に入れるわけにはいかない。

「あら。あなたは明日香さんのお兄さんなのね」

「はい。ちょっとだけ待ってください」

「ごゆっくりどうぞ。明日香さんの気が進まないならまた明日とかに出直してもいいのよ」

 私服の女性警官が気を遣ったように言ってくれた。

 僕は自分の部屋の戻って毛布を被っている明日香に声をかけた。

「明日香?」

「誰だった?」

 毛布から顔だけちょこんと出した明日香が聞いた。

「それが・・・・・・警察の人なんだ。おまえから事情を聞きたいって」

 明日香の顔が一瞬曇った。でもすぐに明日香は気を取り直したようだった。

「そう。早く済ましちゃった方がいいんだろうね」

 明日香が殊勝に微笑んだ。

「気を遣って女性の警官が来てくれてるし三十分くらいで終るって」

「そうか」

 明日香が起き上がった。

「じゃあ着替えるね」

「リビングで待っていてもらうな」

「うん。お兄ちゃん?」

 僕は部屋のドアのところで立ち止まった。

「一緒にいてくれる?」

「もちろん」

 

 やがて着替えてリビングに入ってきた明日香に対して、警察の人たちは一生懸命に微笑みかけ、できるだけ明日香を刺激しないようにしながら、事情聴取を終えて引き上げていった後、明日香は大きく息を吐いてソファに横になった。

「痛っ」

 明日香は顔をしかめて言った。どうやら傷になっているところをソファにぶつけたらしい。

「大丈夫?」

 明日香は体をもぞもぞと動かして、ようやく具合のいい位置を見つけたらしかった。

「平気。ちょっとぶつけただけだから」

 ソファに居心地良さそうに横になると明日香は再び大きくため息をついた。

「やっと終ったのね」

「うん。もうおまえから話を聞くことはないでしょうって言ってたし」

「自業自得なんだから図々しいかもしれないけど。あたし、もうあいつらとは関りになりたくない」

 明日香が言った。

 警察の女の人たちはあの晩に起きた出来事を優しく同情しながらも、明日香の記憶に残っていることは一欠けらも取りこぼさずに聞き取っていった。

 今日家に来た警官は、性犯罪の被害者の聞き取りは女性警官の方が当たることになっていると言っていた。自分の上司の平井さんは若い女の子の扱いには慣れていないとも。

 その言葉に嘘はないだろうけど、彼女の聞き取りだって笑顔やていねいな口調を取り去ってしまえば容赦のないものだったと言える。

 これでは明日香が再び言葉と記憶のうえで再びレイプされているようなものだ。

 何度か僕は女性の警官の尋問をとどめようとした。そのたびに警官は柔らかい口調で謝りながらも、知りたいことを知ろうとする執念を諦めはしなかった。

 そして明日香は顔色も変えずに、淡々とその夜自分に起きたことを話し続けた。

 そうして飯田に押し倒され、服を破かれ、両手を縛られたあたりで、明日香の話に池山が登場した。

 この間まで自分の彼氏だった池山のことを、明日香は庇うような説明をした。

 どういうわけか明日香を庇った池山の行為には警官にはあまり関心がないようで、彼女は飯田と池山の会話の内容を覚えている限り全て話すように明日香に求めたのだけど、女性警官にとってはその内容は期待はずれだったらしい。

 でも、縛られて身の危険を感じていた明日香が二人のやり取りを逐一覚えていることなんて不可能だったろう。

「まあ仕方ないですね。明日香ちゃんだってそれどころじゃなかっただろうし」

 残念そうに彼女が言った。

「ごめんなさい」

 明日香は一応警官に謝ったけど本気で悪いとは思っていないらしかった。何と言っても、明日香は参考人かもしれないけどそれ以前に被害者なのだ。

「じゃあこれで終ります。明日香さんご協力ありがとう。飯田と池山がどうなったかは平井警部がお知らせにあがると思いますから」

 ソファに座った明日香がほっとしたように少しだけ力を抜いた。

 明日香から事情聴取した警官と、もう一人の何も喋らずひたすらメモを取っていた警官が立ち上がった。

「じゃあお邪魔しました。もう明日香さんにお話を伺うことはないからね」

 僕と明日香も立ち上がり二人を玄関まで送った。明日香は相変わらず僕の手を離そうとしなかった。

「ずいぶん仲のいい兄妹なのね。まるで恋人同士みたい」

 今までずっと黙ったまま喋らなかった方の警官が言った。

「うらやましいわ」

「二人きりの兄妹なんです」

 微塵も動揺せずに明日香がしれっと答えた。

 

「これで全部おしまい。もうあいつらとは二度と関りになりたくない」

 警官たちを見送ってから具合よくソファに横になった明日香が繰り返した。

「お兄ちゃん、隣に来て」

 明日香が僕に言った。

 僕は明日香の横たわった体の顔の隣のあたりに腰かけた。明日香が片手を上げて僕の腕に触れた。

「ごめんね」

 明日香がぽつんと言った。

「何が?」

「あたしがバカやってたからこんなことになっちゃったんだよね」

 さっきまで顔色一つ変えず気丈に警官の質問に答えていた明日香が、今では曇った表情を見せている。

「おまえのせいじゃない。悪いのは飯田だろ」

「あたしはもう、お兄ちゃんが恥かしいと思うような友だちとは付き合わないからね」

「うん」

「・・・・・・奈緒や有希みたいに誰が見てもお兄ちゃんにとって恥かしくない女の子になるから」

 奈緒はそうかもしれないけど有希は少し違う気がする。でもそれは今明日香に言うことじゃない。

「別に今だって恥かしくなんかないだろ」

「優しくしなくていいよ。それよりこんなことしてたらお兄ちゃんに嫌われちゃう方が恐い。せっかくお兄ちゃんの彼女になれたのに」

 明日香が言った。

「こんなことで嫌いになんてなるか」

「だって・・・・・・お兄ちゃん、僕たち付き合ってみようかって言った」

 明日香がいったい何を言っているのか僕には理解できなかった。

「言ったけど・・・・・・嫌だった?」

「ううん、嬉しかった」

 明日香が話を続けた。

 どういうことだ。

「でもどうせなら、おまえのことが好きだとか、付き合ってみようかじゃなくて、僕と付き合ってくれって言われたかったな。付き合ってみようかじゃお試しみたいで不安じゃん」

「考えすぎだよ。お試しとかそんなこと考えて言ったわけじゃない」

「ごめん、そうだよね。さっきまでは何の不安も感じなかったけど、警察の人の質問に答えていたら不安になっちゃった。あたしってお兄ちゃんにふさわしくないのかもって」

 明日香が苦労してソファから身を起こして僕を見た。

「確かにあたしは池山に助けられたし飯田たちとも遊んでたけど、もう二度とそんなことはしないの」

「うん」

「だから・・・・・・お兄ちゃん、ずっとあたしと一緒にいて。パパとママとあたしとお兄ちゃんでみんなでずっと一緒に暮らそうよ。あたしのこと捨てないで。もう誰もいらないよ。お兄ちゃんがずっとあたしの彼氏でいてくれたら」

 僕さえいたら誰もいらないと、一番最初に言ってくれたのは、まだ幼かった奈緒だった。

 今改めてそれと同じ言葉を明日香から聞かされた僕は、自分では決断したつもりだったことを自分の中では曖昧に済ませていたことに気がついた。

 わかってはいたことだ。今まで曖昧にして突き詰めて考えなかっただけで。

 僕は明日香の顔を見たかったけど、俯いて涙を流しているので目を合わせることもできない。少し乱暴だったけど、僕は明日香の顎に手をかけて少しだけ手に力を込めた。たいした抵抗もなしに明日香が顔を上げた。僕は明日香の目を見た。

「そうだね、明日香。ずっと一緒にいようか」

 実の妹にはこんな言葉はかけられない。明日香は妹であって妹ではない。だから僕は奈緒にはこの先一生言ってはいけないことだって、明日香には言える。

 もう手を離しても明日香は俯かなかった。それどころか今までで一番激しく彼女が僕に抱きついてきた。

 僕もそんな明日香に応え、両手を明日香の体に回した

「・・・・・・今日も一緒に寝てくれる?」

 しばらく抱き合っていたあと明日香が言った。

「警察の人にいろいろ聞かれたりとかしたし、落ち着かないの」

「今日も同じベッドで寝るの?」

「ずっと一緒にいてくれるんでしょ?」

 明日香が立ち上がって涙を拭いて僕を見た。

「リビングの電気消しておいて。テレビも」

「わかったよ」

 ここは明日香の言うとおりにしよう。

「シャワー浴びてくる。今日もパパとママは帰ってこないから。お兄ちゃんは部屋に行って待ってて」

 明日香がバスルームの方に歩いて行った。ちょうどお昼ごろの時間だった。

 外の雨は激しさを増し、雨音がはっきりとリビングまで届いている。

 僕が立ち上がって二階に上がろうとしたとき、再びチャイムが鳴ってインターホンから玲子叔母さんの声が聞こえた。

「おーい。いないのかな、まだ寝てるんじゃないだろうな」

 残念なようなほっとしたような心境だったけど、とりあえず僕は玄関に行って鍵を開け叔母さんを家に招じ入れた。

「寒かったあ。びしょ濡れだよ」

 叔母さんがそう言いながら家に上がって来た。

「叔母さん車じゃなかったの」

 僕は家に上がるといつものようにさっさとリビングに向かう叔母さんの後に続きながら聞いた。

「打ち合わせ先が駐車できないんでさ。傘なんか全然役に立たないしびしょ濡れになっちゃったよ」

「そんなに降ってたんだ」

「うん。いきなり雨が強くなってさ。こんなんじゃ社に戻れないからここで雨宿りしようかと思ってさ」

 叔母さんが高そうな、でも雨にぐっしょり濡れたコートとスーツの上着を一度に脱いだ。リビングのフローリングに雨滴が落ちた。

 白いブラウスとスカートだけの姿になった叔母さんは、何かぶつぶつ言いながら濡れた髪を拭こうと無駄な努力をしていた。

 薄い生地の濡れたブラウスから叔母さんの白い肌が透けて見えた。僕は叔母さんから目を逸らそうとしたのだけど、無防備な仕草で髪を気にしている叔母さんの全身から目が離せなかった。

 濡れて肌にくっついている感じの白いブラウス越しに、黒いブラジャーが浮かんでいる。

 胸だけではなく上半身全体がほの白く浮かび上がっていた。

 これまで奈緒や明日香よりはるかに大人だと思っていたし、そういう目で見たことのなかった叔母さんの体は思っていたより華奢で細身だった。

「・・・・・・バスタオル持って来ようか」

 僕はそう言ったけど、このときは玲子叔母さんの体から目が離せないままだった。

「ああ悪い。でもそれよかシャワー浴びようかな」

 そう言って僕を見た叔母さんが僕の視線に気がついた。

「・・・・・・あ」

 叔母さんは狼狽したように小さく呟いて、床から拾い上げた服を胸に抱えて僕の視線から自分の肢体を隠す仕草をした。

「叔母さんごめん。って言うか見てないから」

 今まで玲子叔母さんの上半身をガン見していた僕が言っても全然説得力がなかったろう。

「見るって何を。奈緒人、あんた何言ってるの・・・・・・」

 叔母さんがいつもと違って小さな声で呟いた。

「包帯だらけでシャワー浴びられないんだけど」

 そのとき明日香がリビングに戻って来て言った。僕はその瞬間救われた思いだった。

「そういやそうか。って、おまえその格好」

「服を脱いでいる途中で気がついたんだもん。今日はシャワーもお風呂も無理だわ。お兄ちゃん、体拭いてくれる?」

「あんた、何て格好してるのよ」

 叔母さんが明日香の半裸を見て言った。明日香もそんな叔母さんの姿を驚いたように見た。

「玲子叔母さん、いつ来たの? っていうか叔母さんこそ何でそんな格好してるのよ」

 奇妙な状況だった。肌を露出しているとしか言いようのない叔母と姪がお互いに驚いたように見詰め合っている。僕はこの場をどう収めればいいのだろうか。

「お兄ちゃん」

 ・・・・・・シャワーから戻って来た明日香はさっきまでの甘い口調を引っ込めて、並んで突っ立っている僕と叔母さんを不機嫌そうに交互に睨んだ。

 結局、明日香は不貞腐れて自分の部屋にこもってしまった。叔母さんも濡れた服を抱えて、タクシーを捕まえるからとだけ小さな声で言って家から出て行ってしまった。

 何がなんだかわからないけど、今僕はリビングに一人取り残されていた。明日香には少し可愛そうだったかもしれない。初めて結ばれようとしているそのとき、悪気はないとはいえ突然の叔母さんの来訪に邪魔されたのだから。

 今日は僕と明日香が一生一緒にいようと誓い合った日だ。一度決めたことなのだから最後までその決心は貫こうと僕は思った。

 とりあえず明日香の誤解を解いて仲直りしよう。ちゃんと話せばきっとあいつだってわかってくれるはずだ。それに明日香は高校生の女の子としては考えられないような辛い目にあったばかりだった。多少は僕の方から譲歩してあげる場合なのは間違いない。

 僕はそう決心すると、リビングを後にして二階に続く階段を上っていった。明日香の部屋はドアが閉まっていて中からは何の物音もしない。僕は思いきってそのドアをノックした。

「明日香?」

 返事はない。

「明日香・・・・・・入るよ」

 ドアを開けて部屋に入ると明日香はベッドに入って頭から毛布を被っていた。相変わらず返事はしてくれない。

「叔母さん、帰ったよ」

 とりあえず何を喋ればいいかわからず僕はそう言った。明日香は僕を振り向きもせずうつ伏せ気味に毛布の下に潜り込んでいるままだ。

「・・・・・・」

「風呂に入れなかったんだろ。体拭いてやろうか?」

「なあ、返事してくれよ。僕は明日香の彼氏なんでしょ? 何で返事してくれないの」

 彼氏という言葉に反応したのか、ようやく明日香が毛布の下から顔を覗かせた。

「もう忘れちゃった? 僕はおまえとずっと一緒にいようって決めたばかりなんだけど」

 再び、明日香が僕の方に視線を戻した。どうやら少しだけ明日香は僕の言うことを聞く気になったようだった。

「明日香、好きだよ」

 僕は真顔で言った。

「・・・・・・わかった」

 ようやく明日香がベッドから上半身を起こして言ってくれた。

 毛布から這い出した明日香は、寒いのに白いタンクトップの短いシャツだけを身にまとっていた。シャツの隙間から覗く肌に巻かれた包帯が痛々しい。

「叔母さんのことをいやらしい目で見ていたお兄ちゃんのことは忘れてあげるよ」

 そっちか。明日香の不機嫌の原因は。

「叔母さんがいきなり脱ぎ出すからびっくりしただけだよ。嫌らしい目でなんか見てないって」

「・・・・・・」

「本当だって」 

 明日香がようやく表情を緩めてくれた。

「信じるよ。てか、忘れてあげるよ。あたしだってお兄ちゃんと喧嘩するのは嫌だし」

「本当だぞ」

「わかった。じゃあ、お詫びにぎゅっとして、お兄ちゃん」

 明日香の態度がさらに柔らかになった。

 僕は明日香の甘い声に従ったけど、言葉どおり抱きしめたら、きっと明日香の傷が痛むだろう。だから僕はベッドの端に腰かけてそっと彼女の体に手を廻した。

「もっと強くしてくれてもいいのに」

 明日香が僕の首に両手を回しながら言った。

 この先は明日香の指示を待っていたのでは駄目なのだろう。

 僕は自分から明日香にキスした。

「疑ってごめんね」

 明日香が言った。

 僕も明日香を抱きしめた。

 慣れというのは恐いものかもしれない。もう僕には、明日香の体を抱くことに対する違和感がなくなっていた。

 実の妹である奈緒を除けば、明日香と僕はいろいろな意味で一番相性がいいのかもしれない。

 一緒にいて安心するとか気を遣わなくていいとかという意味では、ひょっとしたら明日香は僕にとって奈緒以上に隣にいるのが自然な存在なのだろうか。

 

 次の土曜日の午後、僕は明日香の了解をもらって奈緒をピアノ教室まで迎えに行った。

 奈緒に僕が明日香と付き合い出したことを伝えるためということもあったけど、最後に話したときに、奈緒からピアノ教室に迎えに来るように言われていたということもあった。

 平日、明日香に付き添って学校を休んでいる間、僕は何回か奈緒にLINEしたり電話したりしたのだけど、LINEの方は既読にならず、何度もかけた電話の方は通じない。

 結局、金曜日の夜になるまで奈緒からは何の連絡もなかった。

 それで僕はとりあえず土曜日は約束どおり奈緒を迎えに行くことに決めた。

 明日香は僕が自分を置いて奈緒に会いに行くことには反対しなかった。

 あれだけ嫉妬深かった明日香は、僕が彼女の告白を受け入れて以来、もうあまり奈緒に対して嫉妬めいたことを口にしなくなった。

 その代わり、明日香は今まで以上にいつも僕の側にいるようになった。

 これまでだって大概ベタベタしていた方だと思うけど、そんなものでは済まないくらいに。極端な話トイレと風呂以外はいつも一緒にいる感じだ。

 その風呂だって昨日までは僕が体を拭いていたのだったから、実質的には常に隣に明日香がいたことになる。

 同時に明日香はやたら甲斐甲斐しくもなった。食事の用意から何から何まで自分でしようとする。僕が休んで家にいたのは明日香の世話を見るためだったからさすがにこれには困った。体調だって完全に回復しているわけではないのだ。

「おまえは座ってろよ。食事なんか僕が作るから」

 僕は彼女にそう言ったのだけど、明日香は妙に女っぽい表情ではにかむように笑って言った。

「いいからお兄ちゃんこそ座ってて。全部あたしがするんだから」

 こういう言葉を明日香の口から聞くとは思わなかったけど、それは決して不快な感じではなかった。

「でもおまえ体は・・・・・・」

「もう全然平気だよ。でも良くなったってママに言ったら学校に行かなきゃいけないし、お兄ちゃんと一緒にいられないから」

「ちょっと・・・・・・包丁持ってるのに」

 明日香は文句を言いながらも後ろから抱きしめた僕の手を振り払わずに、包丁を置いて振り向いた。

 出がけに明日香の行ってらっしゃいのキスが思わず長びいたこともあって、到着してそれほど待つことなく、ピアノ教室の建物から生徒たちが次々と出てきた。

 妹を迎えに来ているんだから恥かしがることはないと思った僕は、比較的入り口に近いところで奈緒が出てくるのを待っていた。これだけ近ければ見落とす心配はない。

 このときの僕は全くの平常心というわけでもなかったけど、それほど緊張しているわけでもなかった。

 奈緒の兄貴だということを知られてしまった今では、僕に彼女ができたということを奈緒に話すことに対してはあまり抵抗感を感じないようになっていた。

 奈緒はあのとき僕が離れ離れになっていた兄貴であることを自然に受け入れた。

 初めての彼氏を失う辛さが、大好きだった兄と再会することで帳消しになる奈緒なのだから、そういうこともあるだろう。

 その後の奈緒は、僕と恋人同士であった頃よりも自然な態度と言葉遣いで僕を慕ってくれた。

 むしろ悩んで混乱していたのは僕の方だった。

 奈緒が僕のことを兄であると認めてくれた事実にさえ嫉妬した挙句、自分の妹に欲情する気持まで持て余していた。

 でもそれももう終わりだった。今の僕には明日香しか見えていない。明日香の言うとおり、僕と明日香は結ばれる運命だったのかもしれない。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、血の繋がっていない男女としてはお互い他の誰よりも長い間身近に暮らしてきた仲なのだ。

 行き違いや誤解もあったけどそれを克服して結ばれた間柄のだから、僕はもう明日香を自分から手放す気はなかった。

 明日香のいうとおりこのまま付き合って将来は結婚しよう。

 そして父さんと母さんがいる家で共に過ごすのだ。子どもだってできるだろうし。

 そんな物思いに耽っていても、目の方は奈緒が通り過ぎてしまわないか入り口の方を眺めていたのだけど、なかなか奈緒は出てこなかった。

 いつもより遅いなと思った僕が、奈緒のことを見落としたんじゃないかと考えて少し慌てだしたとき、見知った顔の少女が教室から出てきた。

 その子は外に出るとすぐに僕のことに気が付いたようだった。

 それは有希だった。有希は慌てた様子もなくにっこり笑って僕の方に駆け寄ってきた。

奈緒人さん、こんにちは」

「有希さん・・・・・・どうも」

 有希は最後に会ったときのことを気にしていない様子だった。

「もしかして奈緒ちゃんのお迎え?」

「うん」

 ここで嘘を言う理由はなかったから僕は正直にうなづいた。

「聞いてないんですか? 奈緒ちゃんは今週はずっとインフルエンザで自宅療養してますよ。今日もピアノのレッスンは休んでるし」

 それこそ初耳だった。

「知らなかった」

「電話とかLINEとかしてないの?」

「したけど返事がなくて」

 有希が少し真面目な顔になって僕に言った。

奈緒人さん、これから少し時間あります?」

「あまり遅くはなれないけど」

「軽くランチでも一緒にどうですか」

「うん、わかった」

 駅前のファミレスは、以前僕と奈緒が初めて一緒に食事をしたときの場所だった。

 僕たちはボックス席に納まってオーダーを済ませた。昼食をして行こうということになったのだけど、冬休みのときのように一枚のピザを僕と有希で分け合うということはなかった。僕たちは言葉少なくそれぞれに注文を済ませた。

 今日は昼食を食べながら奈緒と話をするつもりだったから、多少は遅くなっても明日香が心配することもない。

「ごめんなさい」

 オーダーが済むとすぐに有希がしおらしい声で僕に頭を下げた。

 一瞬僕は有希が明日香が襲われたことを謝ろうとしているのかと思って身構えた。でもそういうことではないらしい。

奈緒ちゃんから全部聞きました。奈緒人さんは昔離れ離れになった奈緒ちゃんのお兄さんだったって」

 では奈緒はそれを有希に話したのだ。

「あたし、家庭の複雑な事情とか考えずに奈緒人さんのこと一方的に責めちゃって。本当にごめんなさい」

「いや。奈緒のことを心配してくれて言ってくれたんだろうし謝るようなことじゃないよ」

奈緒人さんは奈緒ちゃんが妹だって気づいていたんですね。それで奈緒ちゃんがそのことで傷付かないように距離を置こうとしていたのね」

 有希がずいぶんと感激したように目を潤ませて僕を見つめていた。

「・・・・・・奈緒にはつらい想いをさせたかもしれないけど。まだしも振ってあげた方がいいかと思って」

奈緒人さんの気持ちはわかるし、妹思いのいいお兄さんだと思う」

 有希が言った。

「でも結果としてはそんな心配はいらなかったようですね」

「うんそうなんだ。でも奈緒はそこまで君に話したの?」

「あたしと奈緒ちゃんは親友ですから」

 有希は少しだけ笑った。

奈緒ちゃんはすごく喜んでました。昔からずっと再会したかったお兄ちゃんとやっと会えたって。別れてからも毎日ずっと奈緒人さんのことを考えてたんだって」

「そうだね。僕もああいう別れ方をした妹と再会できて嬉しかったよ」

「だからごめんなさい。何も知らずにあんな偉そうで嫌な態度を奈緒人さんにしてしまって」

 有希はそう言ったけど、その後再び体勢を整えるように深く息を吸った。

「でも明日香には謝りません」

 やはりそうなるのか。

「あたしは奈緒人さんのことが好きなわけじゃないから、結果としてはノーダメージでしたけど、明日香はあたしが奈緒人さんを好きだと思っていたにも関わらず、自分の恋愛のためにそれを利用したんです」

「ちょっと待って。そうじゃないんだ」

「実の兄妹だと思ってたから完全に油断してました。あのときは明日香は自分が奈緒人さんと血が繋がっていないことを知っていて、そして奈緒ちゃんが奈緒人さんの本当の妹であることを知ってたんでしょ?」

「それは・・・・・・そうだけど」

「じゃあ明日香は奈緒ちゃんから奈緒人さんの気持ちを覚めさせるために、あたしの気持ちを利用したのね」

 それは違うと言いたかったけど、そこだけ切り抜くと、困ったことに有希の推理は間違っていないのだ。

 明日香の本当の目的は僕を救うことだった。でもそのためにいろいろと本来なら取るべきでない手段を明日香が取ってしまったも事実だった。

 それでも僕は明日香を、自分の彼女を弁護しようと試みた。

 僕はもう全部を有希にさらけ出すことにした。そうしたって、有希が明日香に都合よく利用されたという事実は変わらないということはわかっていたのだけど。

「明日香は僕が、奈緒が自分の妹だって気がついて悩み傷付くことを恐れて、奈緒から僕の気持ちを引き離そうとしたんだ。決して奈緒と別れさせた僕を自分の彼氏にしたかったからじゃないよ」

 有希は少し考え込んだけどそれでも納得した様子はなかった。

「それが事実だとしても二つ疑問があるよね」

「・・・・・・うん」

「まず一つ目は、奈緒人さんを傷つけないためならあたしを傷つけても、奈緒ちゃんが悩んで苦しんでも構わないのかということ。目的が正しければどんな犠牲を払っても、どんな手段を取ってもいいの?」

 僕は答えられなかった。明日香がしたことはまさにそういうことだったから。

 まともな答えなんか期待していないのか、黙り込んだ僕には構わず有希は冷静な表情で続けた。

「もう一つは・・・・・・。あのとき明日香は明らかに奈緒人さんに告白してたよね? あたしは奈緒人さんと明日香が本当の兄妹だと思っていたから、自分が明日香に利用されたんだって思って悲しかった気持ち以上に、実の兄を異性として愛するなんて気持悪いって思ったのだけど」

 この話の行き先がだんだんと見えてきた。行き着く先は芳しくないところなのだけど、もともと有希にはそのことをいずれは話すつもりだったのだ。僕は覚悟した。

奈緒人さんが明日香の本当の兄じゃないなら、お二人は付き合おうと思えば付き合えるんだよね」

「うん」

「明日香の気持ちに応えたの?」

 僕はゆっくりとうなずいた。

「うん。明日香と付き合うことになった」

「ほらね」

 有希が小さく笑って言った。

「兄貴思いの妹の行動だったって言いたいみたいだけど、結局明日香は望んでいたものを手に入れてるんじゃない」

 結果としてはそうなる。それは否定できない事実だった。

「あのときあたし、明日香にとって都合のいい話だねって言ったけど、結局そのとおりだったわけね」

「でも、明日香だって最初は純粋に僕を救うつもりだったんだ。途中で僕のことを好きになったのは事実だと思うけど・・・・・・」

 僕の言葉は途中で途切れた。さっきまで笑っていた有希の目に涙が浮かんでいることに気がついたからだ。

奈緒人さんのことは恨んでないよ。逆にあたしが謝らなければいけないの。でも明日香は・・・・・・」

「有希さん」

 有希は俯いた。彼女が明日香を許す気がないことは明白だった。やがて彼女は顔を上げた。

「今日はもう帰る」

「うん」

 僕には他にかける言葉が思いつかなかった。最後に有希は涙をそっと片手で払いながら意味深なことを言った。

「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといいね」

 どういう意味かを聞き返す暇もなく彼女はもう後ろを振り向かず、僕を残してファミレスを出て行ってしまった。

 有希が去っていった後、目の前には手をつけてさえいない料理がテーブルの上に並んでいた。もったいないし店の人にも変に思われるかもしれない。僕は自分の目の前に置かれた冷めたパスタを一口だけ口にしたけどすぐに諦めた。

 有希の言うとおりだった。

 明日香は有希の恋心を、僕と奈緒を離すために利用したのだ。そのときの明日香は僕に対して恋心なんて感じていなかったはずだから、有希を利用したといっても、結果として有希が僕と付き合うようになってもいいと考えての行動だったろう。

 つまりある意味では有希を応援したとも言える。でも結果がこうなってしまえば今さら何を言っても有希は納得しないだろう。

 僕と明日香は付き合い出したのだ。決して明日香の仕掛けた手段によって成就した関係ではない。それでも有希の視点から見れば明日香の一人勝だというふうに思われても無理はない。

 僕はもう半ば有希と明日香を仲直りさせることは諦めていた。明日香のしたことを考えると、有希が明日香と仲直りせずこのまま疎遠になっても仕方がないのかもしれなかった。

 そう考えると奈緒に会いに来た僕は当初の目的を果たせなかったのだけど、有希に対しては期せずしてできることはしたような気がしてきた。

 有希としては利用されたのは面白くないだろうけど、彼女は僕のことが好きだったわけではないので、そう言う意味では実害は少なかったと言える。

 そのとき有希が最後に言い捨てて言った言葉が胸に浮かんだ。

 

「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといいね」

 

 僕は席を立って勘定を済ませた。インフルエンザになったという奈緒のことも心配だけどさすがに命に別状はないだろう。

 それよりも明日香のところに帰ろう。きっと明日香も僕の戻りが遅いと心配するだろう。僕はファミレスを出ると足を早めてできたての恋人の元に急いで戻ろうとした。

 自宅のドアを開けると目の前に明日香が立っていたので僕は驚いた。

「明日香、おまえこんなとこで何やってんだよ」

 明日香はそれには答えずに僕に抱きついた。

「おい」

「最近のあたしの勘って結構当たるんだよ」

 明日香が僕の胸に自分の顔を押し付けるようにしながら言った。

「・・・・・・ひょっとしてずっと待ってたの?」

「だから勘だって。お兄ちゃんのことなんかこんなとこでずっと待ってるはずないじゃん・・・・・・って、あ」

 僕に抱き寄せられた明日香が真っ赤になった。

 僕は明日香と抱き合いながらもつれ合うようにソファに倒れこんだ。

「やめてよ、お兄ちゃん乱暴だよ。こら無理矢理はよせ」

 明日香が少しだけ笑って言った。僕はこのとき明日香をソファに押し倒したままの姿勢で言った。

「有希さんと話をしてきた」

「・・・・・・え?」

 明日香がふざけながら僕に抵抗していた体を凍らせた。

奈緒ちゃんにじゃなくて?」

奈緒はレッスンを休んでたんだ。それで有希さんと話をした」

「そうか」

 明日香が僕の体から離れて身を起こした。

「有希、怒ってた?」

「うん」

 有希の反応は疑問の余地のないものだった。あれでは誤魔化しようがない。

「そうか・・・・・・」

「おまえと僕が付き合い出したことを聞いてさ。有希さんは自分がおまえに利用されたって思っている。つまりおまえが僕と奈緒を別れさせるために自分の気持を利用したんだって」

「・・・・・・あたし、あのときは本当に有希がお兄ちゃんと付き合ってくれればって思って」

「うん。おまえが僕のことを心配して奈緒と別れさせようとしていたことはわかってる。でも結果的におまえと僕は付き合っちゃったから、有希さんは素直にはそのことを受け取れなくなってるんだよ」

「・・・・・・うん」

 明日香はさっきまでの元気を失って俯いてしまった。

「気にするなとは言えないけど」

 僕は明日香の肩を引き寄せて言った。

「でももう仕方ないよ。おまえはやっぱり有希さんには悪いことしたんだよ」

 僕は明日香の涙を指で払った。明日香が僕の方を見た。

「それでも僕だけはわかってるから。ずっと一緒にいるんだろ? 有希さんの怒りも何もかも僕が引き受けるよ」

「お兄ちゃん」

「だからおまえはもう悩むな。僕が全部引き受けるから」

「いいの? あたし本当にお兄ちゃんに全部頼っていいの」

「うん。僕はおまえの兄貴で彼氏なんだからさ・・・・・・って、え?」

 明日香が僕に抱きついて僕の唇を塞いだのだ。

 口を離しても明日香は僕から離れようとしなかった。

 もうこれでいいのだ。これでもう何度目かわからないけど明日香を大切に思う気持ちが僕の中に溢れた。明日香の取った行動は間違っているにせよその動機は僕のためだ。

「前にも言ったけど、おまえはもっと僕を頼れって。まああまり頼りにならないかもしれないけどさ」

 明日香は何も言わずに子どものように僕に頭を擦り付けているだけだった。僕は黙って明日香の華奢な体を抱きしめた。

 

第1部了 次回から第2部

奈緒人と奈緒 第1部第12話

「明日香、明日退院だって」

 連れ立って病院から出たところで、叔母さんが言った。

「そんなに早く退院できるの」

「治療は終わってるからね。退院後は自宅療養になるみたい」

「そうなんだ」

「結城さんと姉さんから頼まれたんで、明日はあたしが明日香を迎えに行くんだけど」

「うん」

「あんたは大学だね」

 叔母さんが言いたいことくらいすぐにわかった。

「明日は休んで僕も一緒に行っていい?」

「その方が明日香も喜ぶだろうな」

 叔母さんが言った。

「まさか目の前で、明日香の一世一代のあんたへの告白を見せつけられるとは思わなかったけど。あの子も今度ばかりは本気みたいだね」

「叔母さんもそう思う?」

「うん思う。あんたはどうなのよ。最近明日香とはすごく仲いいみたいだけど」

「仲はいいよ」

 叔母さんは少しためらってからそっと言った。

「やっぱり奈緒ちゃんのことが忘れられない?」

 僕は兄妹として奈緒とやり直していることを、明日香にも叔母さんにも話していなかったことに気がついた。

「それはないんだ。叔母さんにはまだ言ってなかったけど、今朝登校中に奈緒待ち伏せされんだ」

「え? 奈緒ちゃんに会ったの?」

 叔母さんは驚いたように言った。多分僕のパニック障害のことを気にしてくれていたのだろう。

「うん。何で会ってくれないの、嫌いになったのって」

「それだけ聞くとさ、奈緒ちゃんはやっぱりあんたが実の兄貴であることを知らないのか」

「正確に言うと知らなかった、になるんだけど」

「どういう意味よ。こんな場合なのにもったいつけるな」

「いろいろあって、奈緒に僕が実の兄貴であることがばれちゃったんだ」

「マジで?」

 叔母さんが驚いた様子だった。

「うん。無意識のうちに、僕が気がつかせるようなことを口にしちゃったらしいんだけど」

「それで? 奈緒ちゃんはショックだった?」

「それがそうでもない。むしろずっと引き離されて会えなかった兄と再会したことを喜んでいたよ。もう二度と僕とは別れないって」

 突然の明日香の事件のことで緊張していた僕だけど、その時の奈緒の表情や言葉を思い出すと胸が温かくなっていった。

 恋人同士としての関係は消滅したけど、二度と会えないと思っていた兄妹として、奇跡的に再会できたのだ。

「そうか」

 叔母さんが言った。

「じゃあ、あんたはこれまで会えなかった実の妹の奈緒ちゃんと、これまで妹だったけど彼女に立候補した明日香と、二人を同時にゲットしたわけか」

「そんなんじゃないし」

 僕は赤くなって叔母さんに言った。

 

 叔母さんと別れて帰宅しても、やはり家には両親はいなかった。

僕はその日のうちに奈緒に電話した。奈緒はワンコールで電話に出た。

「妹さん大丈夫だった?」

「けがはしてるけど、幸い大きなけがじゃないって。ありがとう」

 僕は明日、明日香の退院の付き添いがあるので、奈緒と約束した朝一緒の登校ができないことを伝えた。

「そうなんだ。よかったね」

「ありがとう。ごめんね」

「全然大丈夫だよ」

「あとさ、明日は退院の付き添いだけど、明後日以降、妹が自宅療養になったら、大学を休んで面倒を見なきゃいけないかもしれないんだ」

 それはさっきから考えていたことだった。

 平日の昼間は間違いなく自宅には母さんはいない。明日香の外傷は大したことがないと言っても、けがをした明日香を一人にしておくのもかわいそうだ。

「お母様は?」

 少しだけ遠慮したように奈緒が聞いた。そういえばまだお互いの家族の近況について、奈緒との間ではほとんど話題に出ていなかった。

「母さんも父さんも音楽雑誌の編集をしているんだ」

 僕は家の事情を奈緒に話した。

「だから普段は昼間はもちろん、夜だって滅多に家にいないよ」

「そうか。じゃあしばらくは朝お兄ちゃんと会えないね」

 奈緒が言った。

「ごめんね」

 僕は再び謝った。

「ううん、今は妹さんのことを考えてあげないとね」

 奈緒には申し訳ないけど、この状況では明日香のことを優先する以外には選択肢はなかった。

「朝来られるようになったら、いつもの電車に来てね。わたしは毎朝あの電車に乗っているから」

「行けそうになったらLINEか電話するよ」

「うん。お兄ちゃんありがとう」

 そのとき、電話の背後で何かを注意する女性の声が聞こえた。何を話しているかはよく聞こえなかったけど、少しイライラしているような感じの声だった。

「いけない。ママが怒ってる」

 奈緒が少し慌てたように言った。

「ピアノの練習時間だったんだけど、弾いていないの気がつかれちゃった」

「練習を邪魔しちゃってたのか。悪い」

「いいの。お兄ちゃんと話しているほうが楽しいし」

「じゃあもう切るね」

「うん。妹さん、お大事にね」

 電話が切れてから僕は少し考え込んだ。

 ママ。よく考えれば、その人は僕の本当の母親だ。そこに気がついた僕は、自分の心に何らかの影響が生じるだろうと思ったけど、そういうことは起きなかった。まるで無感動なのだ。

 僕は奈緒が妹と知ってパニック障害を発症したけど、実の母親のことを考えても何の影響も感慨も起きなかった。

 それから僕はさっきの明日香の告白のことを考えた。

 奈緒と恋人同士だった頃の僕なら、どうしたら明日香を傷つけずに告白を断ればいいか考えるだけだっただろう。

 奈緒を振って明日香と付き合い出すなんて考えたことすらなかった。

 でも、僕にはもう彼女はいないし、これまでの明日香の献身に対しては感謝しかない。それなら僕は明日香の気持ちに応えるべきなんだろうか。

 奈緒とは違って明日香は義理の妹だ。一滴たりとも同じ血は流れていない。だからさっき明日香が言っていたように、付き合うことにも結婚することにも法的な制約はないのだ。

 一方で、ついこの間まで奈緒と付き合っていた僕が、奈緒とは付き合えないとわかったとたん明日香と付き合い出すというのは節操がなさ過ぎるのではないかという気もした。

 少なくとも、奈緒と恋人同士ではなくなった経緯を知らない人には、そう思われてもしかたがない。

 僕は試しに、僕と明日香が付き合い出したときの周囲の反応を想像してみた。

 渋沢は明日香が僕の義理の妹であることを知っているから、驚きはするだろうけどそれが禁じられた恋とか、社会的なタブーだとは考えないだろう。

 でも他の人たちはどう思うだろう。考えてみれば僕と明日香が実の兄妹ではないことを知っているのは、両親や親戚を除けばほとんどいない。

 当たり前のことだけど、父さんや母さんだってわざわざ周囲に再婚家庭であることをアピールしてなんかいない。

 それに何といっても去年までは、僕自身だって明日香が自分の本当の妹ではないなんて想像したことすらなかったのだ。

 そう考えると、仮に僕と明日香が恋人同士になったときの周囲の反応は、考えるだけでも面倒くさそうだった。

 渋沢以外の僕の友人たちや明日香の友だちは、僕と明日香が兄妹なのに禁断の恋人関係になったと思い込むだろうし、そういう噂だって流れるだろう。

 そういう人たちに向かって、一人一人に我が家の家庭事情を最初から話していくなんて不可能だ。

 僕と奈緒が付き合い出したときはそういう問題は生じなかった。

 誰も僕と奈緒が実の兄妹だなんて知らなかった。というか当事者である僕たちだってそれを知らなかったのだから。

 そう考えると、明日香と付き合い出すのは大変そうなのに比べて、奈緒とこのまま付き合っていた方がはるかに自然で楽そうだった。

 そのとき僕は胸に鋭い痛みを感じた。今、僕は何を考えた?

 奈緒とこのまま付き合うなんてありえない。お互いに生き別れた兄妹だとわかった今となっては。

 奈緒は僕の妹なのだ。奈緒と感動的な再会をはたした今朝は、つらい別れをした妹と再会できたことに喜びを感じて、それ以外に余計なことを考える余裕なんてなかった。

 でも、改めてこの先の僕たちの関係を考えてみると、僕は自分の汚い心の動きに気がついた。

 最初に奈緒とキスをしたあの夕暮れの日、正直に考えれば僕の下半身は奈緒の華奢で柔らかくいい匂いのする身体に反応していなかったか。

 奈緒とキスを重ねるたびに、次は奈緒に対して何をしようかと、わくわくしながら考えている自分はいなかったか。

 そうだ。僕は奈緒の体を愛撫し、そして奈緒と身体的に結ばれたいと思っていたのだ。

 その気持ちは、実は今になってもまだ清算すらできていなかった。

 奈緒は妹だ。そして僕のことを兄だと気がついた以上、彼女は僕が自分に対してこんな破廉恥な気持ちを抱いているなんて夢にも思っていないだろう。

 つらい別れをして以来、再会を夢見続けていた奈緒は、自分の兄を取り戻せたことに満足しているのだ。彼氏としての奈緒人が消滅してしまっても気にならないくらいに。

 それなのに僕はそんな妹に対して汚らしい欲情をまだ捨てきれていない。

 こんなことを考えていたら、またパニック障害を発症そうだった。僕はとりあえず無理に考えを違う方向に捻じ曲げた。

 明日香は急がないと言ってくれた。

 奈緒との関係の整理とか、明日香との付き合い方とかを今日一日で決めろと言われてもそれは無理だ。奈緒に対して抱いている性欲のような衝動を、思い起こすだけでもつらい今では絶対に無理だった。

 もう寝よう。そう決めて支度してベッドに入ると、自分がすごく眠いことに気がついた。

 眠りにつく前に、ふと疑問が湧いた。

 明日香が飯田のアパートに無防備について行ったのは、飯田に奈緒の話をほのめかされたからだと言っていた。

 奈緒のような子と、警察にマークされている飯田との間にはいったいどんな接点があるのだろう。

 

 翌朝、叔母さんは家まで車で僕を迎えに来てくれた。

 周囲に響くような重低音を伴っているため、叔母さんの車はすぐにわかる。

 明らかに近所迷惑としか思えないのだけど、叔母さんはそのシルバーの古い国産のクーペを大切にしていたし自慢もしていた。

「おはよう叔母さん」

 僕は玄関から外に出た。

「おはよう奈緒人。何か雪でも降りそうな天気だね」

 叔母さんが車の中でハンドルを握りながら言った。

「叔母さん、ここは住宅地だし朝なんだからあまりエンジンの空吹かししないでよ」

「悪い。ちょっと調子が悪くてさ。じゃあ行こうか」

 僕は叔母さんの車の助手席に乗り込んだ。スポーツカーらしくひどく腰がシートに沈み込み、フロントウィンドウから見る景色がとても低いように感じる。

「明日香の保険証持ってきた?」

「うん。持ってきたよ」

「じゃあ行こう。あ、帰りは明日香が助手席な。後ろの席は狭いし怪我人にはつらいからね」

 叔母さんの車はツーシーターではないものの、後席は飾りみたいなものだった。やたらに狭いし天井も低い。とても長く人が乗っていられるような空間ではない。

「叔母さんも普通の車に買い換えたら?」

「普通の車じゃん」

 叔母さんがアクセルを踏んだ。車は急発進して坂を下りだした。

「叔母さん、ここスクールゾーンだからスピード出しちゃ駄目だよ」

「お、いけね」

 やがて叔母さんの運転する車は環状線に入った。

 妹の入院している病院はうちからはそんなに遠くないのだけど、平日の朝は病院までの国道は通勤の車で渋滞していて、なかなか目的地の近くに辿り着く様子がない。

「叔母さんさ」

 僕は、信号待ちでも工事でもないのに一向に動かない車の中で、ハンドルを握っている叔母さんに言った。

「うん」

「明日香はいつから学校に行けるのかな」

「それはわからないよ。今日主治医に聞いてみるけど、少なくとも今週いっぱいくらいは自宅療養なんじゃないかなあ」

 僕は即座に決心した。奈緒には申し訳ないことになるけど。

「じゃあ僕が学校を休んで奈緒の面倒をみるよ」

「悪いね」

 本当に申し訳なさそうに玲子叔母さんが言った。

「あたしも今日の午前中休むだけで精一杯でさ」

「叔母さんのせいじゃないよ」

「結城さんと姉さんも仕事を何とかやりくりするって言ってたけど」

「無理しなくていいって言っておいて。僕が明日香の面倒を見るから」

「・・・・・・わかった」

 玲子叔母さんは最近すぐに涙を見せるようになったらしい。

 ようやく叔母さんは病院の駐車場に車を入れた。自宅を出てから一時間以上はかかっていた。

 それから明日香が退院するまでも長かった。

 叔母さんが会計で治療費や入院費用を支払うだけで一時間弱は要しただろう。

 突然の入院だったので荷物なんか全くないのはよかったけど、それからが大変だった。

 明日香が着替えることになって僕は叔母さんに病室から追い出された。でもすぐにまた病室のスライドドアが開いて、叔母さんが困惑した顔を見せた。

「明日香の着替えがないや」

叔母さんが言った。

「そう言えば着替え持ってくるの忘れてたね。とりあえず昨日着ていた服じゃだめなの?」

「・・・・・・飯田って男に破かれちゃったみたいね。病院の人が畳たんで置いといてくれたんだけど、とても着られる状態じゃないな」

 よく考えれば不思議なことではなかった。奈緒のこととか明日香の告白のこととか、そういう自分にとっての悩みばかり考えていたせいで、僕は本当に必要なことなんか何も考えていなかったのだ

「悪い。あたしがうっかりしてた」

 叔母さんはそう言ったけど叔母さんのせいじゃない。

 むしろ昨日病院を後にしてすぐに仕事に戻るほど忙しかったのに、明日香の保険証を持ってくることを注意してくれたのだって叔母さんだった。

 学校を休んで明日香の退院に付き添うくらいで、僕はいい兄貴になったつもりでいたのだけど、それだけでは何もしていないのと同じだ。

「叔母さんのせいじゃないよ」

 僕は叔母さんに言った。

「でも破かれた服とか見たら明日香も思い出しちゃっうかなあ」

「・・・・・・気にしていない様子だけど、多分相当無理していると思うな」

「そうだよね」

「家に戻るわけにも行かないからさ、あたしちょっと明日香の服を適当に買ってくるわ。だからあんたは明日香の相手してやってて。できる?」

 叔母さんがわざわざできるかと念を押したわけはよくわかった。

「うん、大丈夫」

「じゃあちょっと行ってくる」

 叔母さんが明日香の服を買いに行っている間、僕は明日香と二人で病室で叔母さんの帰りを待っていた。

「結局、学校は何日くらい休めばいいんだって?」

 僕は明日香のベッドの横の丸椅子に座って聞いた。

「今週いっぱいは自宅で療養してた方がいいって先生が言ってた」

 明日香が答えた。

「お兄ちゃんと違って勉強とか好きじゃないし、学校休めるのは嬉しいな」

「そんなのん気なこと言ってる場合か」

 僕は明日香に笑いかけた。

「だって正々堂々と休めるなんて滅多にないじゃん」

 明日香も笑ってくれたけど、何かその表情は痛々しかった。

「とりあえず今朝母さんが会社から、おまえの中学の担任に具合悪いから休ませますって連絡しているはずなんだけどさ」

「うん」

「明日からはどうしようか。いっそインフルエンザになったことにする? 今流行っているし」

「別に・・・・・・怪我したからでいいじゃん」

「だってそしたら」

 そうしたら担任の先生には理由を聞かれるだろう。明日香が不良に乱暴されそうになって怪我をしたなんて他人には話したくない。

「あまり気にしなくていいよ。お兄ちゃんも叔母さんも」

 明日香が不意に言った。

「おまえ」

「自業自得だもん。あたしがあんなバカやって、飯田たちみたいなやつらと付き合ってなかったらこんなことも起きなかっただろうし」

「おまえのせいじゃないよ。女の子を力づくで何とかしようなんて、男の方が悪いに決まってる。おまえが変な連中と付き合ったのは感心しないけど、だからといってこれにはおまえに全く責任はないよ」

「うん。お兄ちゃんありがと」

 病院で会ってから初めて僕は明日香の涙を見た。

「だからおまえが気にすることなんて何もないんだ」

「うん」

 明日香の泣き笑いのような表情が、そのとき僕の印象に残った。

「それにしてもさ、あたしはか弱くなんかないって。奈緒とか有希みたいなお嬢様じゃないんだしさ」

「・・・・・・僕にとってはおまえはいつもか弱い危なっかしい妹だよ」

「え」

「前にさ、公園で鳩を追い駆けていた幼いおまえの記憶が残っているって話したことあるだろ」

「だからそれ、きっと奈緒の記憶だよ。年齢が違うもん。あたしたちが初めて出会ったのはそんなに幼い年じゃないし」

「うん。多分それは僕の思い違いなんだろうけどさ。でもそのときの女の子をすごく大切に感じたことや、僕が守ってやらなきゃって思ってその子を追い駆けていた記憶はすごく鮮明なんだよね」

「お兄ちゃんは奈緒のことをそれだけ大切に思ってたんでしょうね」

「いや、僕はその子をおまえだとこの間まで信じていたしさ。それでもその幼いおまえのことが心配な気持ちは確かに感じてたんだ。事実としては勘違いかもしれないけど、おまえのことを大切に思った想いだけは本当の感情だと思うよ」

「お兄ちゃん・・・・・・」

「おまえが夜遅く帰ってきたときとか、家に朝まで帰ってこなかったときとか、正直関りたくないと思ったことはあったけど、それでも結局気になって眠れなかったんだよね。僕も」

 病室のベッドに腰かけていた明日香が涙の残った目で僕を見上げた。

「それくらいにしなよ。それ以上言うともう本気でお兄ちゃんを誰にも渡したくなくなっちゃうよ」

「うん。おまえと恋人同士になれるかどうかはともかく、少なくともおまえは僕の妹だよ、一生」

 僕はだいぶ恥かしいことを真顔で言ったのだけど、そのときはそれはあまり考えずに自然と口から出た言葉だったのだ。

「・・・・・・まあとりあえずそれで満足しておこうかな」

 泣きやんだ明日香が微笑んで言った。

「ヘタレなお兄ちゃんにこれ以上迫ったら、逃げ出しちゃうかもしれないし、それはそれで嫌だから」

「ヘタレって」

「とりあえずあたしはこれで奈緒と同じスタートラインに立てたってことだね」

 明日香が言った。

 僕は黙ってしまった。まだ明日香の気持ちに応えられるほど気持ちの整理はついていない。僕は昨晩感じた奈緒への性欲のような衝動を思い出した。

「血が繋がっていないだけ有利だしね」

 明日香が僕に止めをさした。

 

 それでも叔母さんが帰ってくるまで、病室内の雰囲気は穏やかだったと思う。

 お互いに意識して微妙なラインの会話を続けながらも、僕と明日香はお互いを理解し合おうとしていたのだ。

 僕が奈緒のことで悩んでいたときに、明日香は僕を黙って支えてくれたし、今は僕は同じことを明日香にしようとしている。それは明日香の僕への想いとはかかわりなく、ようやく僕たちが自然な兄妹の関係に復帰できたということだった。

「パパやママもそうだけど、また玲子叔母さんに迷惑かけちゃったな」

 明日香の担任にどう話そうかという話を蒸し返していたときに、明日香がぽつんと言った。

 確かにそのとおりだった。僕と奈緒のことでいろいろ迷惑をかけただけでは足りずに、今回は叔母さんにはお礼の言いようもないほど世話になったのだ。

 真っ先に病院に駆けつけたのも、すぐに僕に連絡をくれたのも叔母さんだ。

 そして今日は半日だけとはいえ、多忙な仕事をよそに病院の支払いから明日香の着替えの購入まで面倒を見てくれている。

「昔から姉さんにはあんたたちの世話を押し付けられてたからね」

 僕が叔母さんにお礼を言おうとしても叔母さんはそう言って笑うだけだった。

 叔母さんにだって自分の仕事やプライベートな時間だってあるのだろうに、僕たちも両親も叔母さんに頼ってばかりだ。

「叔母さんって彼氏いないのかなあ」

 明日香がそう言った。

「さあ? 聞いたことないよね」

「あんなに綺麗なんだから絶対いると思うな」

「確かにそうだ」

 そのとき僕は叔母さんのすらりとした細身の容姿を思い浮かべた。確かにあれで彼氏がいない方が不自然だ。もっとも性格の方はだいぶ男っぽいので、大概の男では叔母さんを満足させられないのかもしれない。

「玲子叔母さんってパパのこと好きだったんじゃないかな」

 突然、明日香がびっくりするようなことを言い出した。

「え? パパって今の父さんのこと?」

「うん。あたしたちのパパのこと」

 女の子の想像というのも随分突飛な方向に暴走するものだと、そのとき僕は思った。それはまじめに取り合う気もしないほど、斜め上の発想だった。

「何でそうなるの」

「叔母さんがパパに話しかけるときの雰囲気とかで感じない? 何か甘えているような感じ」

「どうかなあ。特には気がつかないな」

「ママがいる時は普通の態度なのよ。でもさ、この間の夜みたいに、ママがいなくてパパとかあたしたちと一緒にいる時の叔母さんって、すごくはしゃいでててさ。パパに話しかけるときの様子とか何か可愛い女の子って感じじゃん」

「それは思いすぎだと思うけどなあ。叔母さんにだけじゃなくて、母さんにだって失礼だろ、そんな想像は」

「でもそう感じるんだもん」

 明日香が頑固に言い張った。

「ママとパパって幼馴染で、大学のときに再会して、それで社会人になってからパパの離婚を経てようやく結ばれたんでしょ」

「叔母さんはそう言っていたね」

 僕はそのときに初めて、父さんと母さんの馴れ初めを聞いたのだった。僕の本当の母さんと父さんとの別れの原因を聞くのと一緒に。

「ママと叔母さんは十三歳年が違うの。すごく年の離れた姉妹なんだって」

 その辺の事情を詳しく聞いたことはなかったけど、叔母さんと母さんが年齢が離れていることだけは、前から何となく感じていたことだった。

「ママが今度四十三歳でしょ?」

「そういや母さんの誕生日って来月じゃん。今年は一緒にプレゼント買おうか」

 これまで仲が悪かった僕たちは、母さんへのプレゼントをそれぞれ別々に用意していたのだ。母さんは平等にそれを喜んでくれたのだけど。

「いいけど。って今はそういう話じゃなくて。パパとママが大学時代に再会したとき、叔母さんは小学生にはなっていたわけだし、そのときパパに淡い初恋をしたっておかしくないじゃん」

「どうでもいいけど、それ全部状況証拠、っていうか思い込みだろう」

「可能性の話だよ。あと再婚の頃は叔母さんだって二十歳を過ぎていたんだから、あらためてパパに対する禁じられた、報われない恋に泣いていたとしても不思議はないでしょ。顔には祝福の笑みを浮べながら。叔母さんかわいそう」

 叔母さんにこれまで世話になったと言いながら明日香はさっそくこれだ。

 でも叔母さんには悪いけど、こういう話で明日香が重苦しい気持ちを忘れられるならむしろ大歓迎だった。

 もっとも叔母さんの前では、こういう話をしないように釘はさしておかなければならないけど。

「叔母さん、もてそうだし彼氏とか作って結婚しようと思えばすぐにでもできそうなのにね」

 僕は言った。それは本音だった。

 むしろ僕たちの世話を焼いているとが、叔母さんの交際や結婚の邪魔になっているのかもしれない。

 それに加えて、殺人的に多忙な仕事のせいも大きいと思うけど。

 そのとき、叔母さんがどこかのショップのブランドロゴが記された紙のバッグを提げて病室に入ってきた。

「ちょうど先月号で見本を提供してもらったショップを思い出してさ、考えたらこの病院のすぐそばにあるんだったよ」

 叔母さんが持ってきたショップのロゴは僕は初めて見かけるものだったけど、明日香はそれを見て顔を輝かせた。

「え、これJASPERじゃん。こんなの貰っていいの?」

「たまには明日香にプレゼントしてもいいかなって。高いんだぞ大事にしろよ」

「はーい。着替えるからお兄ちゃんは出て行ってよ」

「あ、うん」

 僕は病室の外で少なくともニ、三十分は待たされたんじゃないかと思う。

 その間に室内からは楽しそうな話し声が聞こえてきた。つらい目にあった明日香がはしゃいでいる様子を聞くと正直ほっとした。

 病室の外の廊下で待たされている間、室内から聞こえてくる明日香と叔母さんの会話は、主にファッション関係の話らしかった。

「お待たせ」

 明日香と叔母さんが並んで病室から出て来た。顔や腕にまだ包帯が巻かれているので、痛々しい感じは残っているけど、新しい服に着替えたせいか明日香はだいぶ元気な様子に見えた。

「ほら、この服ちょっと大人っぽいでしょ」

 明日香が僕に言った。

「こないだまでの明日香のファッションはケバ過ぎて見ていられなかったからね」

 叔母さんが笑って言った。

「これくらいシックな方がいいよ」

 こうして明日香と叔母さんが並んで立っていると、まるで少し年の離れたお洒落な姉妹のようだ。とても叔母と姪には見えない。

「じゃあ帰ろうか。さすがに少し急がないと午後の約束に遅れそうだよ」

 叔母さんが言った。

 叔母さんが車を病院の入り口にまわしてきたので、まず僕が狭い後部座席に乗り込んだ。明日香が無事に助手席に座ったのを確認してから、叔母さんは車を発進させた。

「雪が降ってる」

 明日香が走り出した車の中から外を見て言った。

 朝、病院に向かっているときは陰鬱な曇り空だったのだけど、病院を出る頃には細かい雪がちらほらと空から舞い落ちてきていた。

「こんなんじゃ積もらないだろうね」

「積もらなくて助かるよ。明日香は今週は登校しないからいいだろうけど、毎日出勤する方の身になれよ」

 叔母さんが笑った。

「だって叔母さんは好きで今の仕事してるんだからいいじゃん」

「それはそうだけど・・・・・・ってそんなこと誰から聞いたの」

「パパが言ってた。玲子ちゃんは好きな仕事しているだけで幸せだからなって」

 叔母さんが顔をしかめた。

「何で結城さんがそんなこと言ったんだろ」

「叔母さんって何で結婚しないのってあたしがパパに聞いたの。そしたらパパがそう言った」

「何であんたはそう余計なことを結城さんに聞くのよ」

「何でって言われてもなあ。ねえねえ、叔母さんってパパのこと好きだったの?」

「な、何言ってんのよ明日香」

 叔母さんが狼狽したように口ごもった。

「叔母さん、前! 前の信号、赤だって」

 僕の警告に気が付いた叔母さんは、横断歩道の手前でタイヤを軋ませて車を急停止させた。

 叔母さんは真っ赤な顔で、じっと目の前の革張りの高価そうなステアリングを見つめていた。

「ちょっとやりすぎちゃったかなあ」

 叔母さんはあの後あまり喋らなくなった。

 そして明日香と僕を自宅に送り届けると、そそくさと車を出して仕事に戻ってしまった。

 明日香はリビングのソファで、怪我をした部分を当てないように上手に横になってくつろいでいた。

 手元にはテレビのリモコンまで引き寄せているところを見ると、こいつは今日は自分の部屋ではなくリビングで過ごす気になっているようだ。

「ちょっとなんてもんじゃないだろ。叔母さん、あれからあまり話してくれなくなっちゃったじゃないか」

「だって気になるんだもん」

 年上の叔母さんのそういう感情面みたいな部分を話すことに、僕は違和感のようなものを感じた。

 だけど、今は明日香が襲われた話ととかをするよりも、こういう話をしていた方が明日香にとっては気が楽なのだろう。だから僕は無理に話を遮らずその話に付き合うことにした。

「叔母さんだってもう三十じゃない? あんだけお洒落で綺麗なのに、いつまで独身でいるつもりだろ。男なんていくらでも捕まえられそうじゃん」

「確かに綺麗だけどさ。叔母さんって性格は男っぽいからなあ」

「お兄ちゃんってやっぱりキモオタ童貞だけあって、女のこととかわかってないのね」

 随分な言われようだけど、明日香の言葉には以前のようなとげはなかった。

「それは反論できないけど」

「叔母さんのしっかりとした態度なんて、職場とかあたしたち向きの演技だよ、きっと」

 明日香が随分うがったことを言った。

「そうかなあ」

 車の趣味とかきびきびした決断の早い行動とかがあいまって叔母さんを男っぽく見せているのだろうけど、その全部が演技だというのはさすがに素直には受け取り難い。

「男と同じに扱われる職場だってまえに叔母さんも言っていたし。それに叔母さんが両親があまりそばにいてくれないあたしたちと一緒に過ごしてくれるときってさ」

「うん」

「多分必要以上に頼りになる叔母さんを演出してくれてたんだよ、今まで」

 それはあまり考えたことのない視点だった。たしかにそういうことはあるかもしれない。

 叔母さんは以前から好んで僕たちの世話を焼いてくれていたし、まだ幼かった頃の僕たちに対して安心感を与えようとしてくれていたのかもしれなかった。

 小さい頃から叔母さんにべったりだった明日香も、今までただ甘えていただけではないらしい。明日香は叔母さんの心の動きまで察していたようだった。

「本当は叔母さんだって普通の女の子だと思うよ。まあ三十歳になるんだから女の子ってことはないんだけど」

「女の子ってことはないだろ・・・・・・。そういや叔母さんって誕生日いつだっけ?」

 僕はふと思いついて言った。

「八月でしょ」

「叔母さんの誕生日に一緒にプレゼントしようか。お世話になってるんだし」

 明日香はそんな僕の提案を瞬時に却下した。

「叔母さんに喧嘩売るつもりならお兄ちゃんが一人でプレゼントしたら? ケーキに三十本ろうそくを立てて渡しなよ・・・・・・そんな勇気がお兄ちゃんにあるならね」

 三十になる女の人は誕生日なんて喜ばないのだろうか。

「あたしさ、パパとママの仲が壊れるなんて絶対に嫌なんだけど、それでもどういうわけか、ママがいないときの叔母さんとパパの会話とかは大好きなんだ」

 そういえば年末にもそういうことがあった。明日香の言うように叔母さんが父さんのことを好きなのかどうかはわからないけど、確かにあのときの二人は親密な感じだった。

「それはわかる。この間の夜とか楽しかったよな」

「お兄ちゃんは玲子叔母さんのこと大好きだもんね」

「明日香だってそうじゃん」

「マジで言うんだけどさ。お兄ちゃんって本当のママの記憶ってあまりないんでしょ」

「うん。ほとんどない」

「うちのママだってあまり家にいないしさ。お兄ちゃんにとってのママの役って、玲子叔母さんが引き受けてたんじゃないかなあ」

 僕は不意をつかれた。確かにそういうことはあるかもしれない。

 僕は昔から叔母さんには懐いていた。去年母さんと明日香とは血が繋がっていないことを知らされたとき、しばらくして僕は叔母さんとも血縁関係がなかったことに気がついた。それからの僕の叔母さんへの態度は不自由で不自然なものになってしまった。

 でもこの間の夜、叔母さんは僕に敬語を使うのはよせと言ってくれたのだ。僕が叔母さんの言葉に従ったとき、叔母さんは目に涙を浮べてくれていた。

 明日香のことや奈緒のことで、僕が自分でも気が付かずにどんなに叔母さんを頼っていたか。

「叔母さんだってお兄ちゃんのことすごく大切にしているしね」

 明日香が言った。

「そうだね」 

 僕は軽く言ったけど、明日香だけではなく僕もこれまで相当叔母さんに助けられてきたことを、改めて実感したのだった。

 そこで僕は大事なことを明日香に言っていなかったことに気がついた。

「それよりさ。奈緒と会ったんだ」

「え」

 明日香は驚き、そして憤ったように僕をにらんだ。

「何でよ? もう会わないって約束したじゃない」

 僕は昨日叔母さんに話したことを繰り返した。

 奈緒待ち伏せされ詰られたこと。その後フラッシュバックを起こした僕が口走ったセリフによって、奈緒は僕が引き離された実の兄だと気づいたこと。

 明日香は驚いたように口も挟まずに話を聞いていたけど、僕と奈緒がこれからは再会した兄妹としてずっと一緒にいようと言い交わしたと話しているあたりで不服そうな顔をした。

「それって結局、奈緒とお兄ちゃんはこれまでどおり朝一緒に登校するし、お兄ちゃんは毎週土曜日にはピアノ教室に奈緒を迎えに行くってこと?」

「まあ、そうだね」

「・・・・・・なんか別れた恋人同士がよりを戻したみたいに聞こえるんだけど」

「そんなわけあるか。これから兄妹として仲良くしていこうってことだよ」

「兄妹ってそんなにいつもベタベタ一緒にいるものだっけ」

「最近は僕だっておまえといつも一緒じゃん」

「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないし」

 正しい日本語にはなってないけど、明日香の言うことも理解できた。

 同時に、いい兄妹になるはずの兄の方が、今でもまだ、妹になったはずの奈緒に対して抱いている性的な情欲のことも心に浮かんだのだけど、それは胸のうちに仕舞っておいた。

「お兄ちゃん?」

 明日香が静かな声で言った。今までとは違う真剣な声を聞き、僕は妹の顔を見た。

「お兄ちゃんは本当にそれでつらくならない?」

「え」

「好きになった、とっても好きになった女の子が自分の実の妹だってわかって、それでもお兄ちゃんは平気なの」

 それは僕の悩みを的確に指摘した言葉だった。もともと明日香はこういう事態を防ごうとしてくれていたのだ。

 記憶のない僕が妹の奈緒と再会して、自分の初めてできた大好きな彼女を失って、それでもなお何で奈緒と一緒に登校したり、奈緒をピアノ教室に送迎したりしようと思えるのか。

「お兄ちゃんがそれでも平気ならあたしは何も言わない。言う権利もないと思うし」

「権利ならあるって。おまえは僕のことを助けようとしてくれたんだし」

「それでもね」

 男たちにひどい目に合わされ、入院して退院した今まで、気丈だった明日香の声が初めて気弱な響きを帯びた。

「勝手なことを言うね。できるなら、お兄ちゃんは奈緒に会うべきじゃないと思う」

「妹なんだぞ。それに奈緒が妹だということにもすぐに慣れると思う」

「そういうことじゃないの」

 明日香は嫉妬心からそう言っているようには見えず、何かを心配してるように見えた。

奈緒が何か考えがあってお兄ちゃんに近づいてきたのなら、お兄ちゃんはもう奈緒のことは忘れた方がいいよ」

「それはない。奈緒は何も知らずに僕と出ったんだ」

 僕は確信を持って反論したけど、明日香の態度も揺るがなかった。

「本当にそうならいいけど。本当にそれならあたしも安心だけど」

 明日香が笑いもせずにそっと言った。

奈緒人と奈緒 第1部第11話

 やがて少し落ち着いた僕たちは、いつものように駅に向かって歩き出した。

 僕は、今日は大学には行かないつもりだったのだけど、なんとなく奈緒と一緒に駅から電車に乗り込んだ。

 時間的にはもう奈緒は遅刻だったけど、彼女は僕の腕につかまって、僕の方を見て微笑んだり視線をはずしたりを繰り返していて、始業時間に遅れたことを気にしている様子はなかった。

 やがて、電車は僕の大学の最寄り駅に着いた。今日は行かない予定だったから、そこで降りる必要はなかった。

 ただ、奈緒が僕の腕から手を離したので、僕は奈緒に手を振って、その駅で電車を降りた。

 奈緒は僕が大学の講義を休む気でいるとは思ってもいなかったようだった、

 キャンパスに向かって歩きながら、遅刻した奈緒がその日学校でどういう言い訳をするのか考えると、自然と頬が緩んできた。

 富士峰に入ってからは一度も遅刻や休んだことがないと、前に彼女から聞いていたことを思い出したからだ。

 きっと奈緒は先生に言い訳するのに苦労したに違いない。

 

 その日の講義中、僕は大晦日以来初めて心底くつろいだ気分になれた。

 午後の講義の終了後、渋沢は志村さんの買物に付き合うとかで早々に二人揃って帰ってしまってので、教室の中はもう数人の学生が帰り支度をしているだけだった。

 自分も帰り支度をしながら、奈緒のことを考えた。

 僕が奈緒に関して心配していたことは全て杞憂だった。

 あれだけ悩んだ挙句、奈緒に本当に深刻な傷をつけないために、彼女に失恋という、より小さな傷を与える方を選んだ僕だったけど、奈緒は僕が兄であると知って傷付くどころかすごく喜んだのだ。

 同じ事実を知ったときの僕が受けた衝撃なんか、彼女は少しも受けなかったようだった。そしてその理由を考えてみると思い浮ぶことがあった。

 僕が自分の記憶を封印して、妹や母親のことを全く覚えていなかったのと対照的に、奈緒は過去の記憶を失ってはいなかったようだ。

 僕にとっては、思い起こされた過去の断片的な記憶ですら、あれだけ切なく悲しかった。両親によって奈緒と引き離された喪失感が、今再び恋人である奈緒を失おうとしている感情とあいまって、精神に深刻な打撃を受けたくらいに。

 それに比べて、奈緒は過去の記憶を失っていなかった。

 そして兄である僕から無理矢理引き離された奈緒は、僕のことを無理に忘れようと努力しながらこれまで生きてきた。

 それでも奈緒は僕のことが忘れられなかった。彼氏すら作る気がしないほどに。

 奈緒は兄と知らずに僕と付き合い出してからも、幼い頃引き離された兄に対して罪悪感を感じていたのだという。

 それほど「兄」に対して愛着とこだわりを持っていた奈緒のことだから、自分の彼氏が兄だと知ったとき、兄と再会できたことが、彼氏を失ったことによる悲しみをしのぐほど、嬉しかったであろうことについては僕にも納得できた。

 確かに、依然として僕が初めての彼女を失った事実には変りはない。

 でも僕はその代わりに、妹を失った記憶を取り戻し、そして今その妹を取り戻した。

何よりも恐れていたように、奈緒も傷付かずにもすんでいる。

 この先僕たちは恋人同士としてはやり直しはできないけど、兄妹としてはずっと一緒にいることはできる。

 奈緒に習って、もうそれでいいと思えばいいのだ。

 久しぶりにゆったりとした気持ちで僕はキャンパス出た。

 これから奈緒を富士峰の校門前まで迎えに行かなければならない。奈緒は僕が兄だと知ったときから、かつて僕が彼氏だったときのような遠慮をしないことにしたらしい。

 さっき別れ際に、遠慮のない口調で、放課後富士峰の校門まで奈緒に迎えに来るように言われた僕は、二つ返事でそれを受け入れたのだ。

 そして、僕も妙に心が満ち足りていたせいで、奈緒についてもあまり深く物事を考えずにいた。

 何を思い出してもパニック障害の症状の発現を心配しなくていい。僕は久しぶりに症状の心配から解放されたのだ。

 このとき、奈緒に会ってからいろいろあったせいで、僕は明日香の失踪についても心配するのをやめていた。

 今までと同様、ひょっこりと家に戻ってくるだろうと自分に言い聞かせたのだ。

 この失態はこの後、僕をひどく後悔させることとなった。

 

 富士峰の校門の前で、こうして奈緒を待っているのは初めてだった。

 以前の僕なら、さっきから校門の中からひっきりなしに吐き出されるように出てくる女子中学生や高校生の視線を意識して萎縮してしまっていただろう。

 いかにも彼女を迎えに来ている彼氏のように見えているだろうし、何よりも格好よければともかく僕なんかでは・・・・・・。

 でも待っている相手が自分の家族だというだけで、これだけ心に余裕ができるとは思わなかった。

 僕は富士峰の歴史がありそうな石造りの門に寄りかかって、マフラーを巻きなおした。

 今日は大分冷え込んでいる。さっきから僕の横を通り過ぎて行く富士峰の女の子たちも、みな同じような紺色のコートを着て同じ色のマフラーを巻いている。学校指定なんだろうけど、これでは僕なんかには誰が誰だかぱっと見には識別できない。

 奈緒のことを見逃してはいないと思うし、迎えに来いといった以上奈緒だって僕のことを探すだろうから、すれ違ってはいないと思うけど、これでは僕のほうから奈緒に気がつくのは難しいかもしれない。

 そろそろここに来てから三十分は経つ。奈緒に伝えられた時間を間違えたのだろうかと考え出したときだった。

「お待たせ」

 奈緒が突然現われて僕の腕に抱きついた。

 突然とは言ったけど、さっきから途切れることなく僕のそばを通り過ぎていた女の子たちの中に彼女も紛れていたのだ。

「お疲れ」

 僕は腕に抱き付いている奈緒に声をかけた。

「うん。今日は疲れた」

 奈緒は笑顔で僕に言った。

「登校したとき大変だった」

「どうしたの」

「遅刻したの初めてだったから。先生に問い詰められちゃった」

「登校中に気分が悪くなって駅で休んでたって言い訳するつもりだったんだろ」

「そうなんだけど担任に嘘言うのってきついね。わたし挙動不審に見えてたと思う」

 僕は抱き付いている奈緒に微笑んだ。

「お疲れ奈緒。じゃあ帰るか」

「うん」

 僕は奈緒に抱きつかれたままで歩き出した。恋人同士として付き合っていたときと、奈緒の態度はあまり変わらない。

 というか会話だけ取り上げて見れば、奈緒が敬語で話すのやめた分、以前より距離が縮まっている気がする。

「お兄ちゃん、歩くの早いって」

 奈緒が半ば僕に引き摺られるようになりながら笑って文句を言った。

 周囲に溢れている富士峰の女の子たちの好奇心に溢れた視線が集まっているのがわかったけど、奈緒はそれを全く気にしていないようだった。

「そう言えば普段は有希さんと一緒に帰ってるんじゃなかったっけ」

 僕は最後に見かけたときの、有希の冷静で冷酷な印象すら受けた横顔を思い出した。

「今日は用事があるから一緒に帰れないって言ってきたんだけど・・・・・・」

 奈緒は少し戸惑っているようだった。

「うん? どうした」

「うん。何か今日はあの子、様子が変だった。妙にそわそわしてて、落ち着きがなくて。わたしが先に帰るねって言ってもちゃんと聞いてないみたいだったし」

「何かあったのかな」

「う~ん。昨夜電話をくれたときはすごく怒っていたけど」

「・・・・・・そうだろうな」

「そうだよ。親友が浮気性の彼氏に冷たく振られそうになっていたんだしね」

「おい」

「冗談だよ」

 奈緒は笑った。それはやっぱりすごく可愛らしい表情だった。

「わたしさっきはお兄ちゃんに再会して浮かれちゃったけど、あれから考えてみたの。何でお兄ちゃんがわたしを振ろうとしていたのか」

「うん」

「自分の彼氏が本当のお兄ちゃんだと知って、わたしが驚かないように、そして傷付かないように自分が悪者になろうとしてくれたんでしょ?」

奈緒

「ありがとうお兄ちゃん」

 何か顔が熱い。まぶたの奥もむずむずする感じだ。

「お兄ちゃん?」

「うん」

「パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒

 奈緒があのときの僕の言葉を繰り返した。

「覚えてる? わたしがそのときに何て答えたか」

「ああ。覚えているよ」

 正確に言うと思い出したというのが正しいのだけれど。

「うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ」

 奈緒が記憶の中にあるのと正確に同じ言葉を繰り返した。

 あのときの絶望感と、その後の喪失感とつらかった日々。もう我慢も限界だった。

 僕は声を出さずに泣き始めた。

「わたしの気持ちはあれから十年間経っても全然変わっていないの。今でもお兄ちゃんだけでいいって、自信を持って言えるもの」

 泣いている僕を抱きかかえるようにしながら奈緒は柔らかい声で言ったけど、奈緒の声の方も雲行きが怪しくなっているようだった。

「・・・・・・今は泣いてもいいのかも。わたしたち、十年もたってあれから初めて会えたんだもんね」

 奈緒と僕は、富士峰の女生徒たちの好奇の視線に晒されながらお互いに手を回しあって、まるであの頃の小さな兄妹に戻ってしまったかのように泣いたのだった。

「有希さんの話だけどさ、僕たちが本当は兄妹だったこと彼女に話したの?」

 お互いに抱きしめあいながら大泣きした後、妙に恥かしくなった僕たちはとりあえず駅前のスタバに避難した。

 僕にとってはここは敷居が高い店なのだけど、そんなことを言っている場合ではないし奈緒は気後れする様子もなく店に入って行った。

 奈緒ちゃん大丈夫? とか奈緒ちゃんこの人に変なことされてない? とか周囲の生徒たちは失礼なことを聞いてきた。

 でも奈緒はまだ涙の残る顔で笑顔を僕に見せた。

「お兄ちゃん走ろう」

 奈緒はそう言って僕の手を引いて走り出したのだ。こうして僕たちはスタバの奥まった席で向かい合って座っていた。

 だいぶ落ち着いたところで僕は有希のことを思い出して聞いてみた。

「ううん、まだ話してない。説明すると長くなりそうだし」

 それはそうだろうなと僕は思った。

 まず自分の家の事情を話して、それから僕との偶然の出会いを話してと考えると、学校の休み時間に気軽に話せることではない。

 それに僕と奈緒自身だって兄妹としては再会したばかりで、お互いのことを話し合うのだって、まだこれからなのだ。

 最後に別れたときの有希の冷たい表情が脳裏に浮かんだ。有希の誤解がこれで解けるのではないかと期待しないではなかったけど、これは奈緒に任せておくしかないようだ。

「それにしても有希ちゃん、やっぱり今日は様子がおかしかったなあ。何か心配事でもあるのかな」

「やっぱり彼女は僕のこと怒ってたか?」

「うん。でも感情的にはならずにあたしを慰めてくれた感じ。『あんないい加減な男なんて奈緒ちゃんの方から振っちゃいなよ。周りにいくらでも奈緒ちゃんのことを好きな人がいるんだし』って言ってたよ」

「おまえそんなにもてるの?」

 奈緒がいたずらっぽく笑った。

「なあに? 気になるのお兄ちゃん。妹のことなのに」

「そういうわけじゃないけど」

「冗談だよ。気にしてくれて嬉しいよお兄ちゃん。でもあたしを好きな人がいるなんて話は聞いたことないよ」

「そうなんだ」

「わたしの目には今のところ、お兄ちゃん以外の男の子は全く映っていないから」

「それはそれでまずい気がする」

「何よ。嬉しいくせに」

「あのなあ・・・・・」

「シスコン」

「今日は冗談ばっかだな。この間まで奈緒ちゃんは真面目な女の子だと思ってたよ」

「彼氏に見せる顔とお兄ちゃんに見せる顔は違うんだよ。女の子ならみんなそうだと思うよ」

「ちゃんはいいよ。妹なんだし奈緒って呼んで。わたしだって奈緒人さんじゃなくて、お兄ちゃんって呼んでいるんだし」

「それもそうか」

 じゃあ、これからは奈緒って呼ぶよって答えようとしたとき、スマホの着信音が鳴った。ディスプレイを見ると、玲子叔母さんからだ。

「ごめん。ちょっと電話出てくるね」

「行ってらっしゃい」

 僕は席を立って、一度店の外に出てから電話を取った。 

 

 清潔で無機質な白い廊下を歩いて行くと、やけに足音が大きく響いた。廊下の窓からは、冬の午後の陰鬱な曇り空が四角く切り取られて見えている。

 救急病棟の待合室で僕は叔母さんの姿を見つけて思わず駆け寄った。

「ああ奈緒人。来たのか」

 叔母さんはいつもどおりに僕を呼んでくれたけど、その表情は固かった。

「明日香は、明日香の具合はどうなの」

「外傷とそれに伴う精神的なショックだって」

 叔母はそこで少しためらった。

「命に別状はないよ。今は寝てるから会えないけど」

「・・・・・・いったい明日香に何があったの?」

奈緒人には教えないわけにはいかないか。明日香はね」

 叔母が俯いた。叔母の目に涙が浮かんだ。

「昨日の夜、知り合いの男の部屋に連れ込まれて乱暴されそうになったんだって」

 目の前が暗くなった。

 奈緒との、本当の妹との再会に浮かれて明日香のことを僕は忘れていたのだ。

 つらかった時期に、あんなに明日香に頼りきっていた僕なのに。

 僕に黙って自分の友人関係を壊してまで、僕のことを救おうとしてくれた明日香が夜の街に飛び出して行ったのに、僕はさっき叔母さんから電話をもらうまで、明日香のことを思い出しすらしなかったのだ。

「明日香が抵抗したんで犯人の男は明日香に言うことを聞かそうと手をあげたらしい。偶然、別の明日香の知り合いの男がそのアパートを訪ねてきて、明日香を襲った相手を止めたんだって」

「・・・・・・明日香の容態はどうなの?」

「外傷はたいしたことはないみたい。抵抗したのと知り合いの男が間に入ってくれたんで、その・・・・・・性的な暴行は受けなくて済んだんだけど、精神的なショックの方が大きいみたいだ。明日香が目を覚ませばもっと詳しくわかると思う」

「明日香に乱暴しようとした奴はどうなったの」

 そいつを殺してやる。精神的に不安定になっていたせいかもしれないけど、僕はそのときは本気でそう思った。

 きっとあの金髪ピアスの男だ。確かイケヤマとかっていう名前の。

「助けてくれた子が警察と救急車を呼んでくれてね。警察が来るまで犯人の男が逃げないよう取り押さえてくれてたの。犯人は現行犯逮捕。助けた子も参考人として警察に呼ばれてるよ」

 何で夜中に飛び出して行った明日香をすぐに追い駆けなかったのだろう。あのときの僕は確かに混乱していた。

 明日香からは泣き顔で告白のようなことをされ、その直後に冷たい表情の有希に奈緒のことで責められもした。

 そのこともあって、有希が帰ったあとは奈緒のことで頭が一杯で明日香のことまで気が回らなかったのだ。

 それに明日香が夜出歩いていることに慣れてしまっていたこともある。

 僕は明日香が夜遊びをしていることを当然ながら知っていた。そして明日香が夜遅くなるのは、両親が不在か帰宅が遅くなるとわかっている夜に限られていた。

 だから僕たちの両親は、明日香の外見や成績を憂うことはあっても、高校生の明日香の夜遊びには気がついてはいなかったのだ。

 そのこと自体だって僕の責任なのだ。

 僕は明日香とトラブルを起こすのが嫌だったから、明日香の夜遊びを注意することも、それを両親に言いつけることもしなかった。

 両親が明日香の夜遊びを知ったら、いくら子どもたちには寛容な父さんも母さんも明日香に注意していただろう。

「父さんたちは?」

「こちらに向かってる。もう来るでしょ」

 そのとき救急治療室の引き戸が開いて中から白衣の一団が姿を現した。

 ちょうどタイミングを合わせたように、両親が真っ青な顔で救急病棟に飛び込んで来た。

 子どもたちの前ではいつも呑気そうな父さんと母さんのこんな必死な様子を僕は初めて見た。

 それでも父さんは動転している様子の母さんの手をしっかりと握って、その身体を支えるようにしている。

 叔母さんは父さんと母さんを、ちょうど救急治療室から出て来た医師のところに連れて行った。

 医師が手早く父さんたちに明日香の容態を説明した。その話はさっき僕が叔母さんから聞かされたことと同じ内容だったけど、医師はこう言った。

「お嬢さんは少し精神的にショックを受けておられますけど、幸いなことに外傷は軽微なものでした。もちろん命に別状もないし外傷も後には残らないでしょう。もう処置も終っていますので、念のために一晩入院して容態に変化がないようでしたら明日には退院してもらって大丈夫ですよ」

 叔母さんの説明と順序を逆にしただけだけど、その医師の説明を受けて両親は少し安心したようだった。

 外傷は大したことはないけど精神的にはショックを受けているというのと、精神的なショックはあるものの外傷は大したことはないという説明では受ける印象がまるで異なる。

 救急病棟に努めていると悲嘆にくれ動転している家族の扱いも上手になるのだろうか。

 医師は少しだけ両親を安心させると、明日香が目を覚ましたら面会していいと言い残して去って行った。

 医師が去って行くと今度は地味なスーツを着た体格のいい男が二人、両親に近づいて来た。

 僕はその人たちがこの場にいることにこれまで気がついていなかった。

「結城明日香さんのご両親ですね」

 片方の男が言った。

「所轄の警察署の者です。この事件のことをお話しさせてもらいますので、その後で何か事情をご存知でしたらお話ししていただけますか」

 その人は何かやたらていねいな言葉遣いだったけど、それはその人の外見には全く似合っていなかった。

 話しかけてきた男の人ももう一人の黙って立っている方の人も、体格がいいだけではなく目つきや表情も鋭い。

 高校生の不良のトラブルなんかを相手にしているよりは、暴力団とかを相手にしている方が似合っている感じの男たちだった。

 僕たちは救急病棟の待合室の隅でソファーに座った。

 自己紹介した男は明徳警察署の生活安全課の平井と名乗った。

「先にいらっしゃったご親戚の、ええと・・・・・・そう、神山さんにはお話ししたんですが、娘さんは昨日の夕方から夜にかけて、繁華街をあっちこっちある行きまわっていたみたいですね。その途中で知り合いの高校生の男に出合って、自分のアパートに来ないかと誘われてついて行ったみたいです」

 両親は身じろぎもせず警察の平井さんの話に聞き入っていた。医者の話で一瞬安心したようだった二人の表情はまた緊張してきたようだ。

「そいつはそこで一人暮らしをしいるんですがその部屋でお嬢さんは、その・・・・・・」

 平井さんは気を遣ったのか少し言いよどんだ。

「つまりそいつに乱暴されそうになって大声を出して抵抗したところ、黙らせようとした犯人から殴られたらしいです」

「・・・・・・大丈夫ですか」

 一応の礼儀としてか平井さんは青い顔の両親を気遣うように言った。

 もしかしたら警察のマニュアルにこういうときはそうしろと書いてあるのかもしれないけど、いずれにせよ平井さんには心から両親を気遣っているような感じはしなかった。

「大丈夫です。続けてください」

 父さんがそう言って母さんの手を握りしめた。

「犯人は飯田聡。都立工業高校の二年生ですが、お心当たりはありますか」

 父さんと母さんは顔を見合わせた。

「いえ。聞いたことがありません」

 そこで父さんは思い出したように叔母さんと僕の顔を見た。

「君たちは聞いたことあるかな?」

「ないよ」

 僕と叔母さんが同時に言った。それでは犯人は明日香の前の彼氏のイケヤマではなかったのだ。

「幸いなことに飯田がお嬢さんにさらに暴力を振るおうとしたときに、お嬢さんと飯田の知り合いが偶然に尋ねてきたらしいのです。大方そいつも飯田の同類だと睨んでいるんですけどね。でも、どういうわけかそいつは飯田を力ずくで止めて警察に通報してきたんですよ。だからそいつがお嬢さんを救ったということになるんでしょうね」

「そうですか。その方にお礼を言わないといけませんね」

 父さんが言った。

「いや。とりあえずそれは待ってください。結果的にお嬢さんを救った男は、そいつの名前は池山博之というんですけど、警察では池山と飯田に対しては前から目をつけてたんですよ」

 平井さんはあっさりと明日香の恩人である池山のことを切り捨てた。

「まあ不良というと聞こえはいいけど、こいつらはもっと悪質なこともしていたらしいんでね」

 では池山は不良どころか本当の犯罪者だったのだ。

 明日香がどうして池山なんかと付き合い出したのかはわからないけど、明日香をそういう方向に追いやった責任の一端は僕にもある。

「今、飯田は現行犯逮捕されていますし、池山の方は参考人と言うことで署で任意で事情聴取しているところです。ですから飯田と池山の聴取が済むまでは池山に接触したりお礼とかしない方がいいですよ」

「でもその方は娘を助けてくれたんでしょう」

 父さんが不思議そうに聞いた。

「結果的にはそうなります。でも、池山の動機だって善意かどうかなんてわからんのです。もしかしたら池山と飯田はお嬢さんを取り合っているライバルだったかもしれないですしね」

 父さんと母さんはもう話についていけなくなっていたようだ。

 無理もない。確かに明日香は服装を派手にしていたし、僕に対しては反抗的な態度だったけど両親とはそれなりに真面目に向き合っていたのだ。

 仕事が多忙な両親は、結果的に明日香を放置している状態だったので明日香の行動はここまでエスカレートしてしまったのだけど。だから明日香が警察から目を付けられているような連中と知り合いだということは、両親にとっては青天の霹靂のようなものなのだろう。

「飯田や池山は不良というよりはギャングに近い。それだけのことはしてきていると我々は思っています。だから今回のことはお嬢さんには気の毒でしたけど、飯田たちの犯罪を洗い出すいいチャンスなんですよ」

「そして叩けば決して池山だって真っ白というはずはありませんしね」

「あとお嬢さんが何であんな不良たちと知り合いだったんですかね。普通の家庭の真面目な高校生の女の子が知り合いになるような連中じゃないんですけどね」

 平山さんは少し探るように両親を見たけど、途方にくれているように両親も叔母さんもも黙りこくっていた。

「結城さんですか?」

 そのとき若い看護師さんが僕たちの方に向かって声をかけた。

「はい」

 刑事の話にショックを受けたのか返事すらできなかった両親に代わって叔母さんが返事した。

「明日香さんが目を覚ましました。先生の許可が下りたので面会できますよ」

「はい。奈緒人行こう」

 叔母さんが言った。父さんたちも目を覚ましたかのように立ち上がった。

「ああ、結城さん。いずれお嬢さんにも事情を詳しくお聞きすることになりますから」

 言葉はていねいだけど、そのときは平井という刑事の言葉はまるで嫌がらせのように聞こえた

 

 明日香は病室の個室のベッドに横たわっていた。外傷は大した怪我ではないと聞いていたのだけど、目の当たりにする明日香の顔には包帯やガーゼが痛々しいくらいに巻かれていた。

 明日香は僕たちに気づいた。

「ママ。ごめんなさい」

 明日香が最初に言った言葉がそれだった。

 母さんは黙ってそっと明日香の体を抱きしめるようにした。

 母さんの目には涙が浮かんでいた。それからこれまで医師や刑事の話には一切反応しなかった母さんは初めて声を出した。

「明日香、そばにいてあげられなくてごめんね。あたなを守ってあげられなくてごめんね」

「ママ」

 明日香も包帯が巻かれた片腕を母さんに回した。もう片方の腕は点滴を受けていたので動かせなかったのだろう。

「ママ。今までいろいろごめんなさい。でもママのこと大好きだよ」

 母さんも泣きながら明日香を抱きしめて声にならない言葉を発しているようだった。

 これから明日香の危うい交友関係が明らかになるのだろうけど、でも明日香と母さんはもう大丈夫だと僕はそのとき思った。

「パパにも心配させてごめん」

 明日香は父さんの方を見た。

「うん。明日香が無事ならそれでいいんだ」

 父さんも明日香の自由になるほうの手に自分の手を重ねて言った。

 そのときノックとほぼ同時にスライドするドアが開き、看護師と事務の職員らしい女性が顔を出した。

「すみません。面会が終わったらでいいですけど、入院の手続きをお願いできますか」

「あたしが行くよ」

 両親が何か言う前に叔母さんが言った。

「玲子、悪いけどよろしく」

 母さんが奈緒を見つめたままそう言った。

奈緒人も一緒に来て」

 僕が行ったって役には立たないと思うけど、叔母さんに促されて僕は一緒に病室を出て、病院の広いロビーに移動した。

「三人にしてあげた方が、奈緒も素直にいろいろ話せるでしょ」

 叔母さんが僕の耳元でささやいた。

 そういうことか。

 叔母さんがいろいろと手続きをしている間、僕は叔母さんからお金を渡され、病院の売店に行くように言われた。テレビを見るのに必要なカードやイヤホン、箱に入ったティッシュやプラスティックのカップなどを買う必要があるのだった。

 売店の人の助言に従って入院に必要な一式を買いそろえてロビーに戻ると、入院に必要な手続きをしていたはずの叔母さんの姿はなかった。

 しばらくきょろきょろと周囲を見回してみたが、見つからない。手続きを終えて明日香の病室に戻ったのだろう。

 明日香の病室の前に立って、しばらく中の様子をうかがっていると、スライドするドアが開いた。

「全部買えた?」

「うん。これおつり」

「ご苦労さん。それより奈緒人、明日香があんたと話したいって」

「うん。父さんたちは?」

「仕事に戻ったよ。今日はずっと明日香に付いてるって言ったんだけど、明日香が自分は大丈夫だから仕事に戻ってって」

 こんな状況なのに明日香は両親の仕事を気遣ったようだった。

 これに関しては他の人にはわからないかもしれない。でも僕と明日香には両親の仕事を優先することは当然のことだった。

 我が家の生活が成り立っていたのは、両親が昼夜なく仕事をしているせいなのだ。

 もちろん寂しく感じないなんてことはない。でも寂しくたってやることはやらないと僕も明日香もここまで生き抜くことすらできなかっただろう。

 だから普段の家事や身辺の雑事にしても、他の同級生たちと比べたら遊びまくっていた明日香ははるかによくやっていた方だと思う。

 明日香は自分がこんな仕打ちにあった時ですら両親の仕事を心配している。

 半分くらいは自業自得と思わないでもないけれども、その動機には疑いの余地はない。明日香の行動は全て僕のことを思いやってのことだったのだ。

「とにかく病室に戻ろう」

 叔母さんが僕を急かした。

 病室に入ると僕に気がついた包帯だらけの明日香が、点滴を受けていない方の手を僕に向かって伸ばした。

 僕は差し出された明日香の手を握りながらベッドの脇の椅子に腰掛けた。

「ごめん」

 最初に明日香はそう言った。さっき明日香が母さんに話しかけたときと同じ言葉だけど、言葉に込められた意味はきっとそれとは違っていたのだろう。

「いや。おまえが無事ならそれでいいよ」

 明日香が僕の手を握っている自分の手に力を込めたけど、それはずいぶん弱々しい感じだった。

「あたしね、いきなり飯田に話しかけられたの。奈緒のことで話しておきたいことがあるから俺の部屋に行こうって」

 奈緒のこと? 

 何で飯田とかいうやつが奈緒のことを、僕の妹のことを知っているんだ。

 明日香の男友だちには、直接奈緒との接点はないはずだ。

「何で飯田がそんなことを知っているのか気になったから、あたしつい飯田の部屋について行って」

「うん。そこはもう詳しく言わないでいいよ」

 僕は明日香を気遣ったけど、明日香はかすかに顔を横に振って話を続けた。

「それで、部屋に入ったらいきなりベッドにうつ伏せに押し倒されて、手を縛られて、あたしが抵抗したらすごく恐い目で睨まれて何度も顔を叩かれたの」

 明日香は低い声で続けた。

「・・・・・・もういいよ」

「うん。そしたらいきなりドアが開いて池山が入ってきて飯田に殴りかかって、あっという間に飯田のこと殴り倒しちゃったの」

 それでは池山が明日香を助けたというのは嘘ではないのだ。

「池山はあたしの手を解いてくれて、すぐに家に帰れって言ったの。これから警察に電話するし巻き込まれたくなければすぐにここから出て行けって」

「そうか」

 自分の別れた女を飯田から救うことくらいは理解できる話ではある。でも警察に電話するなんていったいどういうつもりだったのだろう。

 個人的に飯田のことをぼこぼこにするくらいはあの金髪ピアスの男ならやりそうだ。でも警察にチクルなんて池山らしくない。

「あたし、本当にもう池山のことなんて何とも思っていないんだよ。あたしが今好きな人はお兄ちゃんだけだし」

 突然の明日香の告白に僕は狼狽した。背後で立っているはずの玲子叔母さんのことも気になった。

「でもね、あたしが逃げちゃったら池山が飯田を一方的に殴った犯人にされるかもしれない。あたしは池山に助けられたんだから、そこにいて証言しなくちゃって思ったの」

 明日香が言うには池山は何度も早く家に帰れと言ったらしい。自分のことは構わないから、おまえはこんなことに関わりになるような女じゃないからと必死な表情で。

「・・・・・・前から池山はあたしのことを過大評価していたから。あたしが清純で穢れのない女の子だと思い込みたかったみたい」

「もういい。わかったから。今はもう思い出すな。辛いだろ」

 明日香僕の手を一端離した。

「もっと近くに来て。お兄ちゃん」

 僕が言われたとおりにすると、明日香は片手で僕の腕に抱きつくようにした。明日香の顔が僕の顔のすぐ横に来た。

「お兄ちゃん聞いて」

「・・・・・・席外そうか」

 叔母さんが聞いた。

「いい。叔母さんも聞いてて」

「いいのかよ」

 叔母さんが戸惑ったようにぶつぶつ言った。

「お兄ちゃん、今度こそ真剣に言うね。あたしお兄ちゃんにはいろいろ辛く当たってきたけど、本当はお兄ちゃんのことが好き」

 僕の頬に触れている明日香から湿った感触がする。

「あたし、奈緒のこと大嫌いだった。昔、お兄ちゃんの愛情を独占していて、今またお兄ちゃんを惑して傷つけようとしているあのビッチのことが」

奈緒はそんな子じゃないよ」

 僕は辛うじて反論した。

「うん。今にして思えばそうかもしれないね。あたしは多分、奈緒に嫉妬していたのかもしれない」

「どういうこと」

「十年以上も会っていないのに、久しぶりに一度だけ会っただけでお兄ちゃんを夢中にさせた奈緒に、あたしは嫉妬していたんだと思う。あたしが素直になって自分の気持ちに気がついたのは、お兄ちゃんと奈緒が付き合い出してからだったし」

「明日香」

「返事は急がない。でもあたしはお兄ちゃんとは血が繋がっていないし、奈緒と違ってお兄ちゃんとは付き合えるし結婚だってできるはず」

「結婚って」

「例え話だよ。あたし飯田に乱暴されそうになったとき、お兄ちゃんのことが頭に浮かんだの。池山でもなくママでもなく」

 明日香は僕から顔を離して僕の顔を見た。顔には痛々しく包帯が巻かれていたけど、それは何かの重荷を降ろしたような幸せそうな表情だった。こんな明日香は初めてだった。

「あたしが好きなのはお兄ちゃんだけ。でも返事は急がないからよく考えてね」

「・・・・・・明日香」

「そろそろ検診の時間ですから、面会時間はここまでですよ」

 そのときさっきの看護師が部屋に入って来て言った。

奈緒人と奈緒 第1部第10話

今日は僕にとってはとても長い一日になってしまった。

 さっき渋沢と志村さんに、明日香と手をつないでいるところ不思議そうに見られて、戸惑いを感じたことが、随分昔のことのように思えてくる。

 明日香は、叔母さんと別れて集談社のビルから出た途端、どういうわけか僕の手を離した。

 そのとき僕は、すごく心細く感じたのだけどそれは一瞬だけだった。僕の手を離した明日香は再び手を握りなおした。今度は指をからめる恋人つなぎだった。僕は奈緒とだってこんな風に手をつないだことはない。

「おい」

「いいから」

 明日香が思わず引っ込めようとした僕の手を捕まえた。

 今こうして、帰りの電車の中で並んで座っている僕と明日香を渋沢たちに見られたとしたら、さっきのように見過ごしてくれることすらないかもしれない。

「お兄ちゃん、無理しないでいいよ。いろいろこないだから展開も急だったし不安なんでしょ?」

「確かにきついことはきついけどさ」

「じゃあ遠慮しないであたしに頼りなよ」

 電車を降りて夕暮れの住宅街を自宅に向かって歩いているときも、明日香は僕にぴったりと寄り添ったままだった。

 僕は安堵感と同時に罪悪感が膨れ上がっていくのを感じた。

 やがて僕たちは真っ暗な自宅の前に帰ってきた。

「あのさあ」

 僕は今まで以上に僕のそばに寄り添ってきた明日香に言った。

 今、明日香を失ったら僕はどういう状態になるのかわからない。その恐れは僕の中に確かにあったのだけど、いつまでも妹を僕の犠牲にするわけにはいかない。

「おまえもあんまり無理するなよ」

 明日香が僕の言葉に凍りついたようだった。僕の手を握る明日香の手に込められた力が弱々しくなっていった。

「確かに今の僕は情けない兄貴だし、明日香に頼って何とか心の平穏を保っている状態なのはわかっているんだけどさ」

「だ、だったらもっとあたしに頼っていいよ。言ったじゃん? あたしはもう二度とお兄ちゃんを一人にはしないって」

「おまえには無理をして欲しくないんだよ。父さんのためにも母さんのためにも」

「・・・・・・何言ってるの」

「おまえはずっと僕を守ろうとしてくれてたんだろ? 僕が奈緒と付き合い出したのを知ったときから」

「そのためにおまえ、彼氏とも別れて友だちとも縁を切ったりしたんだろ」

「お兄ちゃん」

「・・・・・・おかしいとは思っていたんだ。あれだけ僕を嫌っていたおまえが、僕のことを好きだって言ったりいきなりその・・・・・・キスしたりとかさ」

「それは」

「・・・・・・僕の気持ちを奈緒からおまえに向けさせようとしてくれていたんだね。真実を知ったときに僕があまり傷つかないように」

 明日香が驚いたように目を見開いた。

「お兄ちゃん、すごく具合悪そうだったのに、ファミレスであたしと叔母さんが話していたこと、覚えてたんだ」

「おまえの気持ちはよくわかったよ。ありがとな」

「お兄ちゃん・・・・・・」

「もう大丈夫だから。もう僕のことなんをか好きな振りをしてくれなくても平気だからさ」

「何言ってるの?」

「何って。おまえは僕が奈緒のことを忘れられるように、僕のことが好きな振りをしたりそのために彼氏と別れたりとかしてくれたんだろ?」

 明日香が僕の手を離した。そして泣き笑いのような複雑な表情を見せた。

「・・・・・・・鈍いお兄ちゃんにしてはよく見抜いていたんだね」

「まあね」

「あたしさ、お兄ちゃんにまだ謝っていないの」

「謝るって?」

「今までお兄ちゃんのことを一方的に嫌ったり辛く当たったりしてごめんなさい」

「・・・・・・うん」

「あたしさ。何かママとパパが、お兄ちゃんのことばっかり大切にしているように思えて面白くなくて」

「うん。わかってる」

「でもね。でも・・・・・・そうじゃないんだ」

 明日香はやがて涙を浮かべた。

「・・・・・・どういうこと?」

「あたし気がついたんだ・・・・・・奈緒がお兄ちゃんのことを誘惑してるってわかったときに」

「気がついたって?」

「あたし以外の女にお兄ちゃんが傷つけられるのがすごく嫌だって。本当にお兄ちゃんのこと嫌いだったら、誰がお兄ちゃんを傷つかせたって関係ないはずなのにね」

「・・・・・・うん」

「お兄ちゃんの言うとおり、あたしは最初は自分だけがお兄ちゃんの味方をしなきゃと思った。これまで辛く当たったってこともあるけど、お兄ちゃんにはあたししか味方がいない。少なくとも奈緒とのことを知っていて、お兄ちゃんを守れるのはあたしだけだって思ったから」

「それはわかったよ。でも、もういいんだ。僕のことでおまえが彼氏と別れたり、無理してずっと僕の隣にいてくれなくてもいいんだ。そんなことをされると僕のほうが辛く感じるよ」

「そうじゃないの!」

「そうじゃないって?」

「確かに最初は、お兄ちゃんが言うように義務感からだった。お兄ちゃんを守れるのはあたしだけだと思っていたし、あたしはお兄ちゃんを奈緒から守るためなら、お兄ちゃん好みの女にもなるし、イケヤマとだって別れてもいいと考えた」

「うん」

「でも今は違うの」

 明日香は必死な声で言った。

「違うって何が?」

「あたし、お兄ちゃんをあたしの方に振り向かせようとしているうちに気がついちゃったの。奈緒のこととか関係なくても、あたしはお兄ちゃんが好きなんだって。あたしにとってお兄ちゃんは運命の人なんだって」

 裸で抱きついてきたり、僕のベッドに潜り込んできたりした明日香だけど、ここまで真剣な顔で彼女に見つめられたのは初めてだった。

 ひょっとしたら以前の嫌がらせも含めて、最初から明日香は僕のことを異性として愛していたのだろうか。

「それは明日香に都合がよすぎる話だよね」

 そのとき、自宅の玄関前の暗がりから声がした。

 声に続いて有希が暗がりから道の方に出てきて、街灯に照らされた彼女の白い顔がぼんやりと浮かび上がった。

「明日香、それに奈緒人さんも今晩は」

 有希が笑顔で僕たちにあいさつした。

「どうしたの? 明日香、大丈夫?」

「有希、いつからいたの」

 明日香は震えた声で言った。動揺をを隠せない様子だった。

「三十分くらい前からいたよ。ちょっと用があって待ってたんだけど」

 穏かな様子で有希が答えた。

「あの・・・・・・あのさ。あたしたちが喋ってた話、聞こえてた?」

「ううん。誰かが来たなあって思ってぼうっとしてたら明日香と奈緒人さんだった。帰ろうかと思っていたところだから、都合がよかったって言ったんだけどさ。ちょっと時間ある?」

「えと、ごめん。ちょっと家族の悩みの話とかあってさ。また電話で話すんでもいいかな」

「すぐに済むと思うよ。奈緒人さんに聞きたいことがあるだけだから」

 有希が僕の方を見た。僕はどういうわけか緊張して有希の顔を見た。

奈緒人さん」

「うん」

「お二人は家族の問題とやらで忙しいみたいだから、時間を取らせちゃ悪いよね。だからはっきりと言うけど、奈緒人さんは奈緒ちゃんの彼氏だっていう自覚はあるの?」

「有希には関係ないでしょう。そんなのはお兄ちゃんと奈緒の間の話じゃない。何で有希がそんなことを聞くのよ」

 明日香は有希の話を聞くうちに動揺から脱したようで、逆に有希に対して不機嫌をむき出しにした。

奈緒ちゃんに頼まれたの。今の彼女、ぼろぼろで正直に言って見ていられなかったし。奈緒人さんに突然会えなくなって、LINEも既読にならなくなってさ。奈緒ちゃんが今どういう状態なのか、奈緒人さんはわかってる?」

「・・・・・・有希にはわからない事情だってあるんだよ。何も知らずに口出すのやめてよ。お兄ちゃんにだって事情があるの」

「ちょっと黙っていてくれるかな。あたしは今は奈緒人さんに聞いているんだけど」

 有希は奈緒のことを本気で心配しているのかもしれない。それなら、ここは適当に誤魔化すわけにはいかないだろう。僕はそう思った。

「君には詳しくは言えないけど、もう僕は奈緒と付き合わない方がいいんだ。その方が奈緒のためでもあると思う」

「確認するけど、奈緒人さんはもう奈緒ちゃんと付き合い続ける気はないのね」

「うん。そうだよ」

「それでその理由を奈緒ちゃんに話す気すらないと」

「その方が彼女のためだから」

「何言っているのかわからないけど。そっちがそういう態度なら、あたしにも言いたいことがあるんだけど」

 有希は、ついに友好的な態度で振舞うことを放棄して、僕を真っ直ぐに睨んだ。

奈緒ちゃんを振った理由って、まさか明日香と付き合うからじゃないでしょうね」

 明日香の告白を聞く前なら即座に否定できただろうけど、さっきの話のあとなので、一瞬なんと答えていいのかわからなくなってしまった。

 僕が黙っているのを見て有希は、

「やっぱりね。あたしは兄妹の禁断の告白タイムを邪魔しちゃったのか」

と、僕と明日香をあざ笑うように言った。

 その様子は、僕が知っている有希の姿とは全く違う。

「ちょっと有希、いい加減にしなよ」

 明日香が割って入った。

「ねえ明日香ちゃん」

 有希は猫なで声を出した。ちゃんづけまでして。「明日香ちゃんはあたしに言ってくれたこと覚えてる? 多分、奈緒人さんには秘密だったんだろうけど」

 明日香が怯んだように黙った。

「あたしの方が奈緒ちゃんより奈緒人さんの彼女にふさわしいって、しつこいくらいあたしに言ってくれたよね? あと奈緒人さんに電話しろとかおせち料理の買出しにかこつけて奈緒人さんとデートしろとかさ」

 もう有希は僕の方を見なかった。

「あたしを利用してまで、奈緒人さんと奈緒ちゃんを別れさせた理由って何? あたしは別に怒ってはいないよ。あたしには話せない事情があるみたいだし、明日香ちゃんが奈緒人さんと奈緒ちゃんのためなら、あたしが傷付いてもしかたないと判断したんだったら、あたしは辛いけど明日香ちゃんを恨んだりはしない」

 もちろんこれは有希の嫌がらせだったのだろう。恨んだりしないわけがない。その憎しみが、冷静を装った有希の声色に溢れていると僕は思った。

 明日香は、うつむいたまま一言も反論しなかった。

「でも、これだけは聞かせて。まさかとは思うけど、奈緒ちゃんを奈緒人さんから別れさせようとした理由って、明日香ちゃんが奈緒人さんのことを好きだったからじゃないよね?」

 明日香は追い詰められた小動物のように僕の方を見た。

 次の瞬間、明日香は突然身を翻して駆け去って行った。

 有希は別に驚く様子もなかった。

「安心してね。この間、あたしが奈緒人さんが好きですって言ったのは嘘だから。何でって顔してますね。明日香ちゃんにけしかけられたからだよ。うちのお兄ちゃんを奈緒から盗っちゃいなよって。面白そうだから途中までその話に乗ってみたけど、あたしが本当に親友を裏切るって明日香は思ったのかしらね」

 有希は身をひるがえして歩き始めた。そして一瞬だけ立ち止まって僕の方を振り返って見た。

「じゃあ、あたしは帰るね。さよなら奈緒人さん」

 

 その晩、結局明日香は帰って来なかった。

 明日香の帰宅が深夜になること自体は、今までだって珍しいことではない。特に両親が泊まりで帰宅できないとわかっていたときには、頻繁にあったことだった。

 でも、明日香が深夜に帰宅しないのは、いい妹になると僕に宣言してからは初めてのことだった。

 どこにいるのかを問いかけるLINEを明日香にいくら送っても既読にならない。

 得体の知れない不安を感じた僕は、以前と違ってさっさと一人で就寝することもせず、リビングでひたすら妹の帰りを待った。

 ただ待っているよりは外に出て探しに行こうかと思ったけど、探すにしても当てがなさ過ぎる。明日香が立ち寄りそうなところなんか、それこそ有希の家以外には考えつかない。

 だからやはり僕にできることは自宅で明日香の帰りを待つことくらいだった。

 さっき有希が曝露した話、明日香が有希に対して僕と仲良くなるようけしかけていたというのは初耳だった。

 有希は、僕が奈緒に連絡しない原因が明日香にあると思い込んでいるようだ。明日香が奈緒から僕を取り上げようとしているとも思っているのかもしれない。

 有希の話が事実だとすると、明日香は有希に対して、僕に告白するようにけしかけていたということになる。

 それについては、有希に対して申し訳ないとは思うけど、仕掛けた明日香に対して、僕が怒りや嫌悪を感じることはなかった。

 なぜなら、明日香の行動の動機は、僕が実の妹と恋人同士になったことを知ってショックを受ける前に、僕の気持ちを奈緒から離すことにあったのだから。

 そのためには、僕が好きになる女の子が自分でも有希でも、どちらでもいいと彼女は考えたのだろう。

 それでも明日香は有希の言葉にショックを受けた。だから、明日香に利用された有希の腹いせというか復讐は、少なくとも明日香に対しては功を奏したようだった。

 明日香は、自分が有希を利用しようとしたことを、僕に聞かれたくなかったのだろう。

 それに加えて、自分の一連の行動が僕を好きになったからという利己的な動機で行われたと、僕に思われたと思いこんでパニックに陥ったのではないか。

 僕は明日香の行動は僕のことを思いやってのことであって、利己的な動機ではないと信じているのに。明日香は結果として僕を好きになったかもしれないけど、自分の恋愛の成就のために行動したわけではないのだ、

 リビングでうろうろしながら、ずっと彼女の帰りを待っていた僕は、日が変わる頃になってついに明日香の帰宅を待つことを諦め、夜中に一人眠りについた。

 

 翌朝になって、開け放されたドア越しに明日香の部屋を見ても、階下に降りても明日香の姿は見当たらなかった。

 以前ならよくあることだけど、事情が事情なので、さすがに不安になった僕は立ちすくんで考えた。探す場所に有希の家以外で心当たりがあるとすると、叔母さんのマンションだったが、昨日別れ際に、叔母さんは今夜は徹夜で仕事だと言っていたので、叔母さんの家にいるはずはない。そうするともう心当たりは思いつかなかった。普段の明日香の生活に無関心だったからだ。

 とりあえず、駅の方へ行ってみようと僕は思った。

 明日香の通っている学校は、家から歩いて行ける距離の公立高校で、駅の近くにある。明日香は通学時間だけでその高校を選んだらしい。

 制服を着ていないので、学校には行っていないだろうけど、駅前を探せばひょっとするといるかもしれない。

 今日は自分の大学に講義を受けに行く気にはなれなかった。

 

 駅に向かう途中の高架下に奈緒が待っていた。僕が彼女の姿を認めた瞬間、奈緒も近づいてくる僕を見つけたようだった。僕たちの視線が交錯した。

 奈緒を見るのは久しぶりだった。冬休みが始まる前の最後の登校日以来だ。

 このとき、僕の胸からは明日香のことを心配する気持ちが消え去り、頭の中にはそこに立っている奈緒への想いだけが満ちていった。

 やっぱり奈緒は可愛い。外見だけで判断するなら、明日香よりも有希よりもはるかに可憐な容姿だ。

 登校前なのだろう、彼女は富士峰のセーラー服に身を包んでいた。

 逃げるわけにもいかず、僕は麻痺したような機械的な足取りで奈緒の方に近づいていった。

「おはようございます」

 奈緒が僕を真っ直ぐに見つめて言った。緊張している様子だったけど、それでも彼女は僕から目を逸らそうとはしなかった。

「・・・・・・おはよう」

 僕はなんとか彼女に返事をすることができた。感情は乱れているけれど、今のところパニックの症状が襲ってくる様子はなかった。

「・・・・・・途中まで一緒に登校してもいいですか」

 奈緒の言葉に僕は黙ってその場にたちすくんだ。

「それとも、それすら今では奈緒人さんには迷惑ですか」

 奈緒が言った。震えそう声、付き合い出したばかりの頃のような敬語。

 それは僕の中に、奈緒のことが可愛そうでどうしようもないような、切ない感情を呼び起こした。でもここで気を緩めるとかえって奈緒を不幸にするのだ。

 ・・・・・・こういう心理的な傷を心に負うのは僕だけでいいのだ。

「何か用かな」

 僕は感情を極力抑えて奈緒に答えた。

「昨日の夜、有希ちゃんから電話がありました。奈緒人さんは、もうわたしとは付き合う気がないって有希ちゃんは言ってました」

「そう」

「本当なんですか」

 奈緒の真っ直ぐな視線が僕を捉えた。

「うん。本当だよ」

 どんなに辛くてもここで誤魔化してしまったら意味がない。

 明日香や叔母さんは、僕はもう奈緒とは会わない方がいいと言った。

 僕は二人の言葉に従ったけど、僕が大晦日の夜以来これまで奈緒に連絡しなかったのは、二人が心配してくれたように、僕自身がこれ以上傷付くことを恐れたからではない。

 このまま奈緒と付き合っていたら、いつか傷付くことになるのは奈緒だった。

 好きになって、初めて付き合った相手が実の兄だということを知ったら、奈緒は僕と同じく精神を病むほどのショックを受けるだろう。

「わたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そうしたらわたしのこと嫌いにならないでいてくれますか」

 奈緒が装っていた平静さは既に崩れてしまっていた。両目に涙が浮かんでいる。

「そんなことできるわけないでしょ。将来を期待されている君が突然ピアノを止めるなんて」

「できますよ。それで奈緒人さんが別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾きません」

「・・・・・・もうこういう話はやめよう」

 奈緒だけではない。僕ももう泣きそうな気持ちだった。

「わたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて、奈緒人さんと冬休みに会わなかったからなんでしょ」

 奈緒が縋りつくような目で僕を見上げた。

「そんなんじゃないよ」

「じゃあせめて何でわたしのことを嫌いになったのか教えてください。このままではわたし、どうしていいのかわからない。もう何も考えられない」

 ついに奈緒は泣き出した。

 結局こうなるのだ。

 でも自分が僕の妹だとわかるよりも、不誠実な初恋の相手に、訳もわからないで振られた方が奈緒にとってはまだましだろう。

 失恋の痛みはいつかは癒える。それに僕とは違って彼女には、次の恋の相手にはこと欠かないだろうし。

 僕はそう考えようとしたけど、目の前で泣いている奈緒の姿を見ていると、だんだん息苦しい気分になった。

 目の前がぼやけてくる。今目の前で泣いている奈緒の姿が、最近思い出した過去の奈緒のイメージに重なっていった。

 

『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒

『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』

 

 泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。目の前で泣いているのは、母親に放置されて辛い思いをした挙句、大人たちの都合で僕と二度と会えないかもしれないことを知った、あの悲しそうな表情の奈緒だった。そして僕はそのとき奈緒を救えなかった。

 その僕が、再び奈緒を傷つけることになったのだ。

 動悸が速くなりめまいがする。それだけでなく、初めての症状だが呼吸するのが難しくなっている。

 今までで一番症状が激しいパニック障害が訪れたことに気がついて僕は狼狽した。

 目の前が真っ白に光って何も見えなくなる。続いて僕の方を見て泣き叫びながら母親に抱かれ、BMWに乗せられ、遠ざかっていく奈緒の幼い姿が目に映る。

 次に僕は明日香の姿を見た。裸で僕に抱き付こうとしている僕の妹の明日香。

 

『ねえ。これでもあたしってガキなの?』

『あたしを見てどう思った? 何言ってるのよ。本当の兄妹じゃないじゃん。それにそんなことは今関係ないでしょ』

 

 叔母さんの狼狽したような声。

 

奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なの』

 

 そして最後に有希の冷たい表情が目に浮かぶ。

 

『確認するけど、奈緒人さんはもう奈緒ちゃんと付き合い続ける気はないのね。それでその理由を奈緒ちゃんに話す気すらないと』

 

 その場に屈んで頭を抱えながら、必死で辛い連想に耐えていた僕にとって、この辺が限界だったようだ。

 僕は意識が遠ざかっていくのを感じた。それはそのときの僕にとっては、むしろ福音であり救いでもあった。

 気がつくと、僕は高架下のコンクリートの路面に横になっていた。体はコンクリートの冷たさで冷え切っているようだけど、僕の顔は路面ではなく、奈緒の柔らかい膝の上に乗っていた。

 奈緒の両手が僕の体に回されていた。

 冷たい路面に座り込んで膝枕しながら、上半身を屈めるようにしっかりと僕を抱きかかえている奈緒の顔は、驚くほど僕から近い距離にあった。

「大丈夫?」

 奈緒が僕を抱く手。明日香が同じことをしてくれた時よりも心が安らいだ。

「気持悪くない?」

「僕はどのくらい気を失ってたの?」

「ニ、三分かな」

 では僕が気を失っていたのは、ほんのわずかの間だけだったらしい。

 僕は体を起こそうとしたけど、奈緒が僕を抱く手に力を込めたので、僕は再び体から力を抜いて横たわった。

「さっき自分が何て言ったか覚えてる?」

 どういうわけか先ほど見せた涙の欠片もなく、穏やかな表情で奈緒が話し出した。僕は奈緒に抱かれたまま考えた。

「全然思い出せない。いろんなことが頭には浮かんだんだけど」

「そうか」

 奈緒の様子がおかしかった。

 それは別に不安になるような変化ではない。でもさっき僕に振られたと思って泣いていた奈緒とは全く違う表情だった。

「わたし、びっくりした。さっきお兄ちゃんはこう言ったんだよ。『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ』って」

「そんなこと言ったのか・・・・・・」

「うん。わたし今まで気がつかなかったの。でもそれを聞いてすぐにわかった。わたしはようやくお兄ちゃんに会えたんだね」

奈緒

「お兄ちゃん会いたかった」

 奈緒が僕を抱く手に再び力を込めて幸せそうに微笑んだ。

 僕はまるで夢を見ているようだ。それは覚めることのない夢だ。

「ずっとつらかったの。お兄ちゃんと二人で逃げ出して、でもママに見つかってお兄ちゃんと引き離されたあの日からずっと」

「・・・・・・うん」

「もう忘れなきゃといつもいつも思っていた。お兄ちゃんの話をするとママはいつも泣き出すし、今のパパもつらそうな顔をするし」

「前のパパも嫌いじゃない。あまり会えないけど、会うたびにわたしの言うことは何でも聞いてくれたし」

「でも。お兄ちゃんのことだけは何度聞いても何も教えてくれなかった」

「わたしね。これまで男の子には告白されたことは何度もあったけど、自分から誰かを好きになったことはなかったの」

「そういうときにね、いつもお兄ちゃんの顔が思い浮んでそれで悲しくなって、告白してくれた男の子のことを断っちゃうの」

「それでいいと思った。二度と会えないかもしれないけど、昔わたしのことを守ってくれたお兄ちゃんがどこかにいるんだから。わたしは誰とも付き合わないで、ピアノだけに夢中になろうと思った」

「でも。去年、奈緒人さんと出合って一目見て好きになって・・・・・・。すごく悩んだんだよ。わたしはもうお兄ちゃんのことを忘れちゃったのかなって。お兄ちゃん以外の男の子にこんなに惹かれるなんて」

奈緒人さんのこと、好きで好きで仕方なくて、告白して付き合ってもらえてすごく舞い上がったけど、夜になるとつらくてね。わたしにはお兄ちゃんしかいなかったはずなのに、奈緒人さんにこんなに夢中になっていいのかなって」

「それでも奈緒人さんのこと大好きだった。お兄ちゃんを裏切ることになっても仕方ないと思ったの。これだけ好きな男の子はもう二度と現れないだろうから」

 ここまで一気に自分の胸のうちを吐露し続けた奈緒がようやく一息ついた。

「でも奈緒人さんはお兄ちゃんだったのね。わたしがこれだけ好きになった男の人は、やっぱりお兄ちゃんだったんだ」

 男女間の愛情とかを超越するほど、ネグレクトされていた僕と奈緒の関係は強いものだったのだろうか。

 僕はその時混乱していた。パニック障害の症状だって治まったばかっりだった。

 でも僕がようやく思い出したシーンにはいつも、幼い大切な妹の奈緒がいたのだ。

「・・・・・・奈緒

「お兄ちゃん」

 奈緒が僕の顔すぐ近くで微笑んだ。

「やっと会えたね、奈緒

「うん、お兄ちゃんにようやく会えたよ」

「・・・・・・奈緒

「もう離さないよ、お兄ちゃん。何でお兄ちゃんがわたしを振ったのかわからないけど、もうそんなことはどうでもいいの。わたしはお兄ちゃんの妹だし、もう二度と昔みたいなあんなつらい別れ方はしないの」

奈緒

 僕は両手を奈緒の華奢な体に回した。

「お兄ちゃん」

 奈緒は僕に逆らわずに引き寄せられた。

 僕と奈緒はそうして周囲を通り過ぎて行く人々を気にせず、抱き合ったままでいた。