yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第1部第9話

 冬休が終った最初の登校日の朝、僕はいつもよりだいぶ早い時間に起きて、普段より一時間以上早い電車に乗った。

 自分も近所の公立高校に登校しなければならない明日香は、僕を大学の途中まで送っていくと言い張った。それから登校しても自分の授業に間に合うからと言って。

 僕の決心が揺らいで、いつもの時間に奈緒と待ち合わせてしまうことを恐れたのだと思うけど、それは無駄な心配だ。

 今の僕は奈緒と顔を会わせるどころか、彼女の表情や声を思い出すことさえ自分に禁じていた。

 必死に努力し、他のことを考えて気を紛らわせ、奈緒のことを思考から遠ざけようとしていた。

 そうすることによってのみ、僕の世界はとりあえず崩れ去っていくことなく、その姿を保ち続けることができたのだ。

 今までだって幸せに新年を迎えたことなんかなかった僕だけど、それでも今年の正月はろくなことがなかった僕の人生の中でも、最悪の日々だった。

 パニック障害による吐き気やめまいが発現すると、普通に立っていることすらできなくなる。

 そうなってしまったら、頭を抱えて床にしゃがみこむか、横になってその辛い状態が終るのをひたすら耐えながら待つしかない。

 その症状の発現の引き金になるのは、やはり奈緒のことを考え出したときだった。だから僕は奈緒のことはなるべく考えないようにしていたのだけど、それでも彼女のことを全く考えないというのは不可能だった。

 これは悲劇的な偶然だった。本当にありえないほどの確率で起こった、神様の残酷な悪戯だ。そもそも僕には実の妹がいたことさえ、聞かされていなかったのだ。

 僕には過去の記憶があまりない。中学や高校時代の記憶はわりと残っているのだけど、それ以前の記憶はほとんどないか、あってもまだらな光景の断片が頭に浮かぶくらいで、まとまった記憶はないのだ。

 何よりも、自分が父親の連れ子で今の母親が実の母でないことすら、去年両親から聞かされるまで覚えていなかった。

 だから、自分には明日香ではない、血の繋がった本当の妹がいるなんて、全く考えたことがなかったのだ。 

「あたしだって全部知ってるわけじゃないんだけど」

 僕が比較的落ち着いている状態のときを見はからって、明日香は自分の知っていることを少しづつ話してくれた。

 父親が僕の本当の母親と離婚したあと、今の母親と再会し、明日香には突然兄ができた。

「前から知り合いだったんだって。パパとママって」

 後に明日香は僕のことを嫌いになるのだけど、両親が再婚して僕と一緒に住み始めた当初からそうだった訳ではないという。

「ママって忙しいじゃん? それは昔からで、あたしはママにじゃなくて叔母さんに育てられたようなものだった」

 今だに玲子叔母さんと明日香の仲がいいのは、そういう理由だそうだ。

「パパとママが再婚してからは、ママも結構早く帰ってくるようになってね。家族みんなで夕食とか、今までしたことがなかったから、あの頃はすごく楽しかった」

「よく覚えてないなあ」

「でも、一年くらい経ったら、またママの帰りは遅くなちゃったけどね」

「それでさ」

 僕は慎重にその名前を思い起こした。まだ大丈夫。 

「大丈夫なの?」

 僕の意図を察した明日香が先回りして言った。

「大丈夫だよ。話してくれる?」

「お兄ちゃんの前のお母さんが、お兄ちゃんの妹を引き取ったんだって」

「そうなんだ」

 兄妹を引き離すのってどうなんだろう。世間では良くある話なのだろうか。

「パパは、けっこうたびたび奈緒と会ってたみたいだよ。面会っていうの?」

「そうか」

 僕はそう聞いて二つのことを考えた。

 一つは、父さんは奈緒と面会しているのに、僕の実の母親は僕に面会しようと思いもしていなかったということ。

 二つ目は単純な疑問だけど、父さんはたびたび面会している自分の娘の演奏を、なんでわざわざ雑誌で批判的な批評をしたのか。

「あの子の住んでいるところ知ってる?」

 明日香は僕のパニック障害を心配したのか、注意深くその名前を避けているようだった。

「知ってるよ。一度家の近くまで送っていったことがある」

 そこでのキスが思い浮かんで慌てて記憶を遮ろうとしたが、どうも思い出しても大丈夫のようだった。

「明日香は奈緒と」

 僕は思いきってその名を口にした。

「会ったことがあるの? あの朝のときより前に」

「あるよ。ていうか奈緒って口にして言っても平気?」

「うん」

「うんと小さい頃会ったことがある。でも、最近は全然会ってなくて、この間がすごく久しぶり」

「それでよくわかったね」

「すぐにわかったよ。顔と名前が記憶の中の奈緒と一致したから」

「それでいろいろしてくれてたんだね」

 明日香は少し赤くなったけど、すぐ表情を引き締めた。

「お兄ちゃんはさ。引き離された実の兄と妹がさ、まるでラノベみたいに偶然に出会ってお互いに好きになるなんてことがあると思う?」

「でも本当に偶然なんだ。あの朝、たまたま早く出かけたのも、急に雨が降ってきて奈緒を傘に入れたのも」

 奈緒との最初の出会いに作為はなかったと思う。

「あたしは奈緒がわざとお兄ちゃんに近づいて、お兄ちゃんを誘惑したんだと思うな」

 明日香は奈緒の悪意を疑っているようだった。

 でも、僕に抱きついて僕の方を恥かしそうに見上げたていた奈緒を思うと、僕は明日香が間違っていると確信できた。

 彼女もまた実の兄妹であることを知らず、僕を好きになったのだ。

 でもそう考えたとき、またパニックになりそうな予感がして、僕はあわてて奈緒の表情を頭の中から拭い去った。

 奈緒の意図はともかく、明日香の言うとおり僕は奈緒とはもう二度と会うべきではない。

 奈緒が僕のことを、本当の兄だと知ったらどんなに衝撃を受けるだろう。

 それに比べれば、いきなり彼氏からの連絡が途絶えた方がまだましだろう。

 僕は明日香の勧めに従って奈緒のLINEをブロックした。

 だから休暇の間中、奈緒からのLINEのメッセージを僕が見ることはなかった。

 こうして辛い休暇を過ごしている間、ただ一つだけ心が暖まったのは、明日香の行動の謎が解けたことだった。

 僕と奈緒が付き合い出してから、明日香が取っていた不思議な行動の意味を初めて理解した僕は別の意味で涙を流した。

 明日香はずっとこんな僕を守ろうとしてくれていたのだ。

 多分、そのために彼氏と別れたり自分の友だちとの付き合いを切ったりしてまで。

 冬休みが終って登校日が来るまで、僕は明日香に依存することによって心の平穏を辛うじて保っていたようだった。

 うっかりと奈緒との幸せだった記憶を思い出してしまい、吐き気とめまいに襲われてのた打ち回っているときでさえ、明日香は僕を必死で抱きかかえていてくれた。長いときには三十分くらいの間ずっと。

「大丈夫だよお兄ちゃん。あたしがもうずっとお兄ちゃんと一緒にいるから」

 

 休み明け初日の講義は午前中で終った。

 今日は渋沢や志村さんに奈緒のことを聞かれることはなかったけど、いつかは他意のない会話の中で、そのことに触れられることがあるだろう。

 その時どう答えればいいのか今は見当もつかないけど、それも考えておかなければいけないことだった。

 正直に言えば、学校の友だちなんかにどう思われようが、そんなことを気にする段階は過ぎていたのだけど、友だちの会話に混乱したりすると、いつパニックが起こるかもしれない、

 ただ、今度のことに関しては、奈緒が自分の妹であるということ以外には、僕にだって何も理解できていないわけで、渋沢たちにどう説明するのかもわかっていなかった。

 明日香がいてくれる間は、僕は思考を停止していられた。僕が何をすべきかを明日香が考えて僕に伝えてくれる。

 わずか数日の間に、僕はすっかり明日香に依存するようになってしまっていた。まるで明日香がモルヒネのような強い痛み止めであるかのように。

 明日香は百パーセント僕の味方だった。このひどい出来事を通じて唯一、新たに信じることができたのは、明日香の気持ちだけだった。

 そう考え出すと、今この瞬間に一人で大学内にいることがすごく不安に感じられた。

 早く家に帰ろう。帰って明日香のそばにいよう。

 いつかは向き合わなければいけないことなのはわかっていたけど、今はまだ無理だ。

 急いで大学の校門を出ようとした。

「あ、来た」

 明日香が校門の前でたたずんでいた。

 前みたいに派手な格好をしなくなっていた明日香だけど、どういうわけか派手だった頃よりうちの大学の男たちの視線を集めてしまっていた。

 当の本人は、自分のほうをちらちら見ている男子大学生のことなど気にする様子もなく、僕の腕に片手をかけた。

「来てたのか」

 僕はもう明日香に会えた安堵心を隠さなくなっていた。

「お兄ちゃんが不安だろうと思ったし、それに行くところもあるから」

 明日香はあっさりと言って僕の手を握った。

「じゃあ、行こうか」

「行くって? 家に帰るんじゃないのか」

「うん」

 明日香が柔らかい声で何かを説明しようとしたとき、背後から渋沢の呑気な声が聞こえた。

奈緒人。今帰りか? って明日香ちゃんも来ていたんだ」

 渋沢と志村さんが僕たちの背後に並んで立っていた。

「珍しいじゃん。おまえが明日香ちゃんと一緒なんてよ」

 二人の視線が申し合わせたように握りあっている僕と明日香の手に向けられた。

「今日はずいぶん仲いいのな」

 渋沢が戸惑ったように言った。

「ま、まあ、兄妹だもんね。それよか明日香ちゃんって奈緒人君の妹だったのね。あたしたちこの間まで全然知らなかったよ」

 志村さんが取り繕うように笑ったけど、その笑いは不自然なものだった。

「・・・・・・どうも」

 明日香が言ったけど、その声にはついさっきの柔らかな様子は全く消え去っていた。

 むしろ明日香の声には、志村さんに対する敵意のような感情が感じ取れた。

「君たちも帰るところ?」

「ああ。カラオケでも行こうかって話してたんだけど。よかったら一緒に行かね?」

「悪い。僕たちこれから行くところがあるから」

「そうか。まあ急に誘ったって無理だよな。じゃあまた明日な」

「うん、また明日」

 相変わらず志村さんを敵意を持って睨んでいるような表情の明日香を促して、僕たちは歩き出した。

「どうしたんだよ」

「お兄ちゃん。そっちじゃないよ」

 明日香は僕の質問には答えずに僕の手を引いて、自宅方面への下りホームではなく反対側の上りホームへのエスカレーターの方に向かって行った。

「・・・・・・どこに行くんだ」

 僕は思わず震え声が出そうになるのを必死に抑えて言った。自宅と反対方向に向かうと知っただけでも動揺を感じる。

 それにこの方向だと一駅先には富士峰女学院がある。

 明日香が僕を振り返った。

「叔母さんのところに行こう。お兄ちゃんももうそろそろ過去のことを知らないといけないと思う」

 このときの明日香は僕の妹というより頼りになる姉のようだった。

「知るって何を」

「いろいいろと。このまま目をつぶって耳を塞いでいてもお兄ちゃんの不安はなくならないと思うの。ちょっと辛いかもしれないけど、そろそろ昔のことを思い出した方がいい」

「・・・・・・どういう意味? 昔のことなんか聞いたって今回のことは何も変わらないだろ」

「昔の奈緒のこと、お兄ちゃんの本当の妹のこと思い出せる?」

 思い出せるどころか、僕には妹がいたことさえ記憶になかったのだ。

「叔母さんももう知っておいた方が、そして思い出せるようなら思い出したほうがいいって言ってた」

 僕は再び得体の知れない不安におびえた。明日香が僕の手を握っている手に力を込めた。

「大丈夫。何があってもこの先ずっと、あたしはお兄ちゃんと一緒にいるから」

 僕は明日香を見た。少なくともこれは罠じゃない。明日香を信じよう。

「わかった」

 上りの急行電車がホームに滑り込んできた。

 車内にはうちの大学の学生もいたけど、知り合いの姿はなかった。そして幸いなことに富士峰の生徒の姿も見当たらない。

 昼下がりの車内は空いていたため、僕たちは並んで座ることができた。こうしていると土曜日の午後の電車の中で奈緒と並んで座ったときの記憶が自然に蘇ってきた。

 一度有希の件で仲違いしかけて、そして仲直りしたあの日もそうだった。

 あの時、奈緒は僕の胸に顔を押し付けるようにしながら「本当にあたしのこと嫌いになってない」って小さな声で言ったのだった。

 それは本当に短かった僕と奈緒の一番幸せだったときの記憶だった。

 僕は妹と一緒にいたせいで油断していたのかもしれない。今まで避けていた奈緒との記憶を反芻することをうっかりと自分に許してしまったのだ。そしてその記憶は一瞬の間だけはひどく甘美なものだった。

 でも次の瞬間、甘美な記憶は強制的に場面転換された。

 

奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の妹じゃないの』

 

 記憶の中で僕は振りかえる。

 賑わっているファミレスで真っ青な顔で立ちすくんでいた明日香。明日香の背後からいつもなら大好きな叔母の陽気な声が、このときは陰鬱なエコーがかかってひどく低い声で反響しながらあのセリフを繰り返す。

 

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹じゃないの』

 

 急にめまいが激しくなった。記憶から呼び戻された僕の視界には、ぐるぐると回転する電車の床と座席に座っている見知らぬ人の靴が映り込んだ。

 吐き気をもよおした僕は姿勢を保っていられずに、空いているロングシートにうつ伏せるように横になった。

 目をつぶっても、視界には電車の床がぐるぐる回っているままだった。そして耳には叔母さんの低い声が同じフレーズをループして延々と繰り返されている。

 何度も聞いているうちにそのフレーズは意味を失い、ただ不快なだけの雑音に変わっていった。

 とりあえず吐けば楽になるかもしれない。僕がそう思ったとき、突然視界が閉じ耳がふさがれたように感じた。

 不快な視覚と聴覚が消失した替わりに、唇を覆っている湿った感触が頭を占めた。吐き気もおさまっていく。僕は妹にキスされたままで妹の小柄な体に必死に抱きついた。明日香が僕の口から自分の口を離した。

「大丈夫?」

「・・・・・・うん」

 僕は覆いかぶさっている妹の体ごと自分の体を起こした。

「悪い」

「気にしなくていいよ。お兄ちゃんのことはあたしが守るから」

 さっきまでの不快感と痛みが嘘のようにおさまっていた。

 明日香は僕の額を濡らしている気味悪い汗をハンカチで拭いてくれた。明日香に拭かれている顔が気持ちよかった。

 ようやく周囲の視線を気にすることができた僕は、赤くなって妹から体を離そうとしたけど、明日香はそれを許さなかった。

「もう少しあたしのそばにいた方がいいよ」

 明日香は僕を自分の方に抱き寄せるような仕草をした。

「お二人とも大丈夫?」

 そのとき、向かいに座っていた老婦人が僕たちを心配そうに眺めて声をかけてくれた。

「はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」

 明日香が老婦人にお礼を言った。

「発作とかなの? 車掌さんを呼びましょうか」

 彼女は明日香のキスのことには触れずにそう言ってくれた」

 明日香が僕をうかがったので、僕は首を振った。

「いえ、次の駅で降りますし本当に平気ですから」

 電車が駅に着いた。この駅に来たのは初詣のとき以来だ。

「お兄ちゃん立てる?」

「大丈夫だと思う」

 僕は明日香に抱かれながら立ち上がって、開いたドアからホームに降り立った。

「気をつけてね」

 老婦人が声をかけてくれた。

「今日はやめておく?」

 ホームの固いベンチに僕を座らせた明日香が迷ったように言った。

「お兄ちゃん、ごめん。あたしちょっと急ぎすぎてたかも」

 冬の冷気が熱く火照っていた僕の顔を冷やして、それがすごく心地いい。僕は急速にさっきまでのパニックから回復していくように感じた。

「おまえのせいじゃないよ。助けてくれてありがとう、明日香」

「でも、まだちょっと早かったのかも」

「いや。明日香がいてくれれば平気だよ。今だっておまえが」

 明日香がどうやって僕を正気に戻したかを改めて思い出した僕は、そこで言いよどんだ。

「・・・・・・ごめん。でも何となくああした方がいいと思ったから」

「いや。今だって明日香がああしてくれたから僕は正気に戻れたんだし。叔母さんの話を聞くよ。それでパニックになったらまた僕のこと助けてくれるか」

 明日香はそれを聞いて赤くなったけど、その口調は真面目そのものだった。

「うん、安心していいよ。お兄ちゃんが楽になるならキスだって何だってするから」

「ありがとう」

「もう大丈夫?」

「ああ」

「じゃあ、お兄ちゃんがいいなら行こう」

 明日香はベンチで座っている僕に手を伸ばした。僕は迷わずに明日香の手を握って立ち上がった。

 

 叔母さんとはあの日のファミレスで待ち合わせなのかと思ったけど、明日香が言うには叔母さんは会社まで来てくれと言ったらしい。

 僕にしても、あの夜の現場のファミレスに行くのは気が進まなかったから、それは好都合だった。

「叔母さんも了解してくれてるのかな・・・・・・その・・・・・・、僕の過去を話してくれることを」

 叔母さんだって父さんや母さんに黙って、僕に全てを話してくれるのは気が重いのではないだろうか。

 初詣のことは、僕が実の妹と付き合っているなんてことを嬉々として報告したから、慌てて釘を刺そうとしただけなのだろう。

 叔母さんは僕が奈緒のことを実の妹だと認識しているのだと誤解していたのだ。

 僕は叔母さんを恨んではいなかった。むしろ叔母さんに迷惑をかけてしまうことの方を恐れていた。

「うん。叔母さんと相談して決めたの。だからお兄ちゃんは余計な心配しなくていいよ」

 明日香はあっさりとそう言った。

 駅から十分ほど坂を降りたところに叔母さんの勤めている会社のビルがあった。

 想像していたより随分こじんまりとした建物だ。

 叔母さんの勤務先は誰でも聞いたことがある出版社なので、僕は何となく高層ビルのようなイメージを持っていた。

 実際には十階建てくらいの茶色のビルで、その入り口に社名の表示板が掲げられていた。

 

「株式会社 集談社」

 

 それでもそのビルの中は、外見から想像できるより綺麗な建物だった。ビルの中に入ると、受付前にプレートが掛かっていて、その中に叔母さんが作っている雑誌の名前も表示されていた。

 

「5階 ヘブンティーン編集部」

 

 でも明日香はその表示を無視して受付の女性のところに真っ直ぐに歩いて行った。

「いらっしゃいませ」

 受付の綺麗な女性が頭を下げた。

「すいません。ヘブンティーン編集部の神山の家の者で結城と言います。神山と約束をしているんですけど」

 神山は母さんの前の前の姓だ。

 父さんと再婚してから、母さんと明日香は結城姓になった。叔母さんはずっと独身だったから未だに神山という名前だ。

 それにしてもたかが高校生のくせに明日香は随分と堂々と振る舞っている。

「そちらで少々お待ちください」

 受付の女性はロビーのソファを僕たちに勧めて内線電話を取り上げた。

「神山さん、そちらの方です」

 エレベーターから現われてきょろきょろしている叔母さんに受付の女性が声をかけた。

「ああいた。陽子ちゃんありがと」

 受付の女性に微笑んでお礼を言った叔母さんが僕たちに話しかけた。

「おう。二人ともよく来たね」

「ちょっと遅くなっちゃった」

「叔母さん今日は。今日は忙しいのにすみません」

「こら奈緒人。こないだ敬語はやめるって約束したじゃんか」

 叔母さんが笑った。

 僕たちは叔母さんに連れられて社内の喫茶店に座った。ここはよく打ち合わせに使われるほか軽食も取れるので便利なのだそうだ。

「あんたたち昼ごはんは?」

「食べてないよ」

 明日香が答えた。

「あたしもまだだから何か食べようか。つってもここは大したもんができないけどね」

 正直僕は食事ができるような状況ではなかったけど、ここで自分の体調の悪さをアピールするのも嫌だった。それは叔母さんを無駄に心配させることになる。

 さいわい明日香は僕の発作のことを考慮してくれたのか、あたしたちはあんまりおなかが空いていないからと言って食事を断ってくれた。明日香本人は空腹だったかもしれないのに。

「そう? じゃああたしだけ食っちゃおう」

 叔母さんはナポリタンとコーヒーを三つ注文してから改めて僕たちを眺めた。

「最初に言っておくよ。奈緒人にも明日香にもこの間は悪いことしちゃったね。ごめんなさい」

 叔母さんが僕に頭を下げるのは初めてだったのではないか。

 僕は驚いて叔母さんに言った。

「叔母さんが謝ることなんか何にもないよ。僕のことを考えて言ってくれたんでしょ」

「うん。それはそうだけど、明日香が一生懸命奈緒人を守ろうとしていたことを、考えなしに邪魔しちゃったから」

「もういいよ。振り返っていたって仕方ないし。それより大切なことはこの先のことでしょ」

 明日香も言った。

「うん。明日香の言うとおりだ。じゃあ、もうあたしはあんたたちに謝らないよ」

 僕と明日香は二人してうなずいた。

「じゃあ、本題に入るけど。あたしは全部を知っているわけじゃないけど、姉さんの妹だし結城さんとも古い知り合いだから、奈緒人に教えられることはあるんだ。

 でも、本当はあたしが勝手に教えちゃいけないんだと思う。結城さんや姉さんが奈緒人に話すべきだと思っているから」

「はい」

 僕は緊張しながら言った。

「こんなことになった以上、奈緒人が全部知るべきだという明日香の意見は正しいと思うけど」

 ここで少し叔母さんはためらった。

「でもね、そうは言っても、姉さんや結城さんに奈緒人と奈緒ちゃんが付き合ってたなんて言えないしね」

 それは叔母さんの言うとおりだった。これだけはとても両親に知られるわけにはいかないのだ。

「だから、姉さんや結城さんには聞けないだろうから、怒られちゃうかもしれないけど、あたしが知っていることは全部あんたたちに話すよ」

「ちょっと待って」

 明日香が不審そうに言った。

「あんたたちってどういう意味? あたしはママの離婚前の出来事とかは、お兄ちゃんと違って記憶に残ってるし、それにあたしは叔母さんに昔の話を聞いてるよ」

「明日香にだって全部話したわけじゃないのよ」

 叔母さんは僕を見つめた。

「今だって奈緒人は傷付いてると思うけど、昔の話を聞いても平気なの?」

「うん。明日香とも話したけど、僕は聞いておくべきだと思う。それに辛くても僕には明日香がそばにいてくれるし」

「そうか。いい兄妹になったね、あんたたち」

 こんなときなのに叔母さんは嬉しそうに言った。

「それから明日香」

「何よ」

「あんたにも話していないこともあるからさ。奈緒人だけじゃなくてあんたにだってショックな話もあるかもよ」

 一瞬、明日香は黙った。それから僕を見ながら叔母さんに答えた。

「うん。それでも聞かせて。お兄ちゃんにあたしがいるように、あたしにだってお兄ちゃんがついていてくれると思うから」

 僕は明日香の手を握った。

「わかった」

 僕たちが手を取り合ったのを見て、叔母さんの顔を一瞬微笑みが通り過ぎた。

「さてどこから話すかな。最初は明日香は知っている話になるな」

 明日香はうなずいた。

「最初から話して。お兄ちゃんは何も覚えてないと思うから」

「そうだね。じゃあ奈緒人の話からしようか。奈緒人、あんた自分の実のお母さんとか実の妹、まあ奈緒ちゃんなんだけど、この二人のこと今まで全く思い出したことないって本当?」

 奈緒の名前が叔母さんの口から出たとき、明日香は僕の手を握る自分の手に力を入れた。気をつかってくれているのだ。

 でも奈緒の名前を聞いても不思議と動揺はなかった。この先の話に気を取られていたせいかも知れない。

「うん。変なのかもしれないけど、父さんと今の母さんと明日香とみんなで、一緒に公園で遊んでいたときの記憶が、多分僕の一番昔の記憶なんだ。小学校に入る前だと思うけど」

 明日香が妙な表情をした。

「結城さんと姉さんから一応話は聞いたんでしょ?」

「うん。父さんと母さんは再婚同士で、僕は母さんの本当の子どもではなくて明日香も父さんとは血が繋がっていないって」

「再婚が何年前か聞かなかった?」

「どうだろう。それは聞いていないと思う」

「明日香は?」

 叔母さんが明日香を見た。

「あたしは知ってるよ。去年聞いたわけじゃなくて自分ではっきりと覚えてる」

 明日香は僕から視線を逸らした。

「ママが再婚して、今のパパとお兄ちゃんがあたしのうちに来たのは、あたしが保育園の最後の年だよ」

「うん。明日香の記憶は正しいな。奈緒人、あんたに新しい家族ができたのはあんたの小学生の頃だったよ、確か」

「そうなんだ。ごめん、やっぱり全然思い出せない。もっと前から今の家族と一緒に暮らしていたような気がするだけで」

 今の僕にはそうとしか言えなかった。

 僕に残っている一番古い記憶は、公園で明日香を遊ばせているひどく曖昧な思い出だけだった。

 あのとき、逃げ惑う鳩をよちよちと追い駆けていた明日香が転ばないように、僕ははらはらしながら追い駆けてたんじゃなかったか。

 そしてそのときの自分が、目の前をよちよちと危なげに歩いている女の子をどんなに大切に思っていたか、僕はその感情さえ思い浮かべることができた。

 それはまだ仲が悪くなる前の明日香と僕の貴重な記憶だった。

「だからさ。あんたも少なくとも奈緒ちゃんの記憶はあるってことだよ」

「どういうこと?」

 僕は混乱した。自分の中では奈緒の記憶なんて欠片も残っていないのに。

「お兄ちゃんが公園であたしと遊んだ記憶ってさ、それあたしじゃないと思うよ」

 明日香が目を伏せて言った。

「あんたが明日香と暮らし始めたのは、あんたはもう小学生で明日香が保育園の頃だからさ。あんたの記憶の中の幼い兄妹っていうのは、あんたと奈緒ちゃんだろうね」

 叔母さんがそう言った。

 では僕の思い出は勝手に脳内で補正され、かつての家族の記憶を今の家族の記憶に上書きしてたのだろうか。僕は少し混乱していた。

「まあ、それは今は深く考えなくていいよ。とりあえずあたしが知っている事実関係だけをこれから話すからね」

「わかった」

 僕は叔母さんに答えた。今はとにかく真実を知ろう。

 僕の脳内の記憶は辛い部分を勝手に補正して美化しているようだったから、とりあえず事実を認識するところから初めようと僕は思った。

「明日香には前に話したことだけど、奈緒人と奈緒ちゃんのご両親の離婚の原因は、直接的には奥さんの育児放棄が原因なの」

「・・・・・・うん」

 今度は僕は動じなかった。そう言われても自分事として感じられなかったから。

「その頃、結城さんはすごく忙しかったみたい。今でも忙しいんだろうけど、その頃は今どころじゃないくらい、本当に体を壊しかけたくらいに仕事に没頭していたのね」

「うん」

奈緒人のお母さんはその頃は専業主婦だったから、あんたと奈緒ちゃんが寂しい想いをすることはなかったはずだった。たとえ父親がいなくても母親は家にいるはずだったから」

 いるはずだったとはどういう意味なのだろう。僕は叔母さんを見た。

 叔母さんも僕の疑問を予期していたのか、少しだけ迷ってから話を再開してくれた。

「あとで児童相談所の担当の人から聞いたんだけど、その頃の奈緒人と奈緒ちゃんってひどい状況で放置されていたんっだって」

「ひどいって?」

 僕にはそんな記憶は全く残っていない。

「正確な原因はわからないんだけど、多忙な結城さんと会えなかったあんたのお母さんは、心の平穏を失っていったみたいなの」

「どういう意味?」

「あんたのお母さんは本当に結城さんのことが好きだったんだろうね。その結城さんがいなくなって一人で幼いあんたと奈緒ちゃんを育てることがプレッシャーになったのかもしれない」

「・・・・・・要するにどういうことなの?」

 僕は我慢しきれずに叔母さんに言った。問い詰めるような口調になってしまっていたかもしれない。

 再び不安そうな表情の明日香が僕の手を握り締めた。

「あんたと奈緒ちゃんのお母さんはあんたたちを家に二人きりで放置して、外出して男の人と遊んでいたの」

「遊ぶって」

「・・・・・・あたしはあんたのお母さんに会ったことがあるよ。離婚調停が始まったころだけど、すごく綺麗な人だった。とても既婚で二人の子どもがいるようには見えなかったな」

 そのとき、記憶が再び蘇った。それはあの時とは違って圧倒的なくらい鮮明なイメージを伴っていた。

 その日も朝から母親が家にいなくなっていた。

 普通なら幼稚園に行っていなければいけなかったはずの僕と妹が目を覚ましたときには、家には母親がいなかったし、幼稚園に行く支度もお弁当の用意もされていない。

 妹は大嫌いだった幼稚園をサボれることに満悦の笑みを浮べて僕にまとわりついてきた。

 僕はキッチンや冷蔵庫の中から冷たいハムやトーストされていないカビが生えかけたパンを取り出して、妹と一緒にむさぼるように食べた。

 そんな貧弱な食事でも僕と一緒に家にいられることを妹は喜んでいた。

 でもさすがに夜になると、妹も母親を恋しがってめそめそしだした。

 そんな夜が何晩も続くと、次第に自分にとって何が一番大切なのかを僕は思い知らされた。父のことは嫌いではない。

 でも、食べ物すら乏しい中、妹が泣きながら衰弱しているのを眺めて、誰もいない家に怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締めていた僕にとって、そのとき一番大切なのは妹だけだった。

 母親なんか論外だけど、これほどの危機に助けに来てくれない父親すら、そのときの僕の眼中にはなかったのだと思う。

 僕が自分の生命を賭けても助けなければいけないのは、あのとき僕の目の前で次第に衰弱していった妹だけなのだ。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 気がつくと明日香が僕を心配そうに見ていた。「思い出したみたいだね。大丈夫か? 奈緒人」

「うん。大丈夫だと思う・・・・・・でもこんなこと今までよく忘れていたって思うよ、自分でも」

「きっと辛かったから自分で記憶を封印していたのかもね。人の心って自分で思っているより自己防衛機能が発達しているって、前に取材で脳生理学者の人に聞いたことあるよ」

「うん」

「大丈夫? 続けてもいい?」

「続けて。こうなったら全部聞いて思い出せることは思い出したい」

 僕は叔母さんに言った。情けないことに僕は明日香の手にしがみついていたけれども。

「さすがに不審に思った幼稚園の関係者と近所の人たちが、児童相談所に通報したらしいの。児童相談所の人たちは、散らかった家で食事もせずお風呂にも入らないで、何日間も過ごしていた様子のあんたと奈緒ちゃんを一時保護して児童相談所に連れて行ったって」

「相談所から結城さんの会社を経由して、当時海外に出張していた結城さんに連絡が行って、結城さんは出張を切り上げて帰国して、結城さんの両親に元に引き取られていたあんたと奈緒ちゃんに再会したんだって」

「それから長い離婚調停が始まったのさ。結城さんも家庭を顧みなかったことに罪悪感を感じていた。でも、専業主婦だった自分の奥さんが、男と浮気してばかりか子どもたちを放棄していたことは許せなかった。浮気そのものより大切な子どもたちを放置したことが許せなかったみたいね」

「ここまでは理解できた? って奈緒人、続けても大丈夫?」

「大丈夫・・・・・・だと思う。正直、初めて聞く話だし戸惑いはあるけど」

「そう。やっぱり明日香がそばにいるとあんたも安心するんだね。もっと取り乱すかと思ったよ」

「取り乱す以前にただ混乱している段階だよ」

「本当に平気?」

 僕は心配そうに言った明日香に無理に笑いかけた。

「わかんない。でもおまえがいてくれなかったらパニックになってたな」

「言ったでしょ。もう前とは違う。あたしは、あたしだけは、絶対にお兄ちゃんを一人にしないから」

「うん。ありがと」

「礼なんて言わないでよ。こんな状況なのに」

「じゃあ続けよう。きつかったらいつでも言いなよ」

「わかった」

「この先はさ、明日香には話したことがあるんだけどね。いろいろ揉めはしたけど結局あんたの母親は、結城さんとの離婚の条件に同意したの。あんたと奈緒を放置した彼女が何を考えていたのかはわからない。でも、どういうわけか奈緒人の母親は、自分が見捨てた子どもたちの親権にこだわっていたのね」

「最初は子どもたちをネグレクトして、面倒を見なかったあんたの母親に不利な展開だった。でも奈緒人の母親側の弁護士は優秀なやり手で、結局浮気もネグレクト自体も、根本的な原因は家庭を省みずに仕事に熱中していた結城さんが原因だと主張したの」

「それに忙しい仕事を抱えた結城さんが子どもたちをちゃんと育てられる訳がないとも。結城さんの実家の両親、つまり奈緒人の祖父母も高齢で本人たち自身にも介護が必要で子育てなんてできる状況じゃなかったことも不利な要素だったのさ」

「離婚の話し合いは家庭裁判所では決着がつかず、裁判にまでもつれ込みそうなことになっていたその時」

 叔母さんが話を区切った。ウエイトレスが叔母さんのナポリタンを運んできたからだ。

「食べながらでもいい?」

 叔母さんが聞いた。

「どうぞ。お昼食べてないんでしょ」

「悪いね。それで」

 叔母さんがナポリタンを口に入れながらも話し続けた。

「そんな結城さんに不利な状況が一変したのよ。良くも悪くもだけどさ」

「明日香のお母さん、つまりあたしの姉と結城さんは幼稚園の頃からの幼馴染でね」

「・・・・・・うそ? 初耳だよ。二人は大学時代の知り合いじゃないの?」

 明日香が驚いたように言った。

「正確に言うと姉さんと結城さんは大学で再会したんだよね。幼馴染だった二人は、小学校に入る前に結城さんが引っ越して離れ離れになったけど、大学で偶然に再び出会ったってとこかな」

「聞いてないよそんなこと」

 明日香がぶつぶつ言った。

「結城さんと大学で再会した姉さんからよく恋の相談を受けたものだったよ、あの頃はあたしも」

 叔母さんがフォークに巻きつけたスパゲッティを口に押し込んだ。

「でもさ。その時結城さんには彼女がいたんだよね。同じ大学のサークルの子がね。だから姉さんは結城さんの恋を応援したみたい。自分の結城さんへの恋心は押し隠してさ・・・・・・もうわかるよね。結城さんの当時の彼女が誰だか」

「・・・・・・僕の実の母さんですか」

「そのとおり。そして時が流れて、結城さんとあんたの母親の離婚調停が長びいている最中に、結城さんと姉さんは大学卒業以来久しぶりに再会した。音楽関係の書籍の出版記念パーティーでのことだってさ」

「それでパパとママは恋に落ちたわけね」

「うん。結城さんは自分の陥っている状況を姉さんに相談した。そんで明日香は知っていると思うけど、当時の姉さんは旦那と死別して明日香を自分一人で仕事しながら育てていた。まあ、ぶっちゃけあたしもあの頃は明日香の面倒を見させられていたんだけどさ」

「でも結城さんにはそんな幼馴染の姉さんが眩しく見えたんだろうね。自分の専業主婦の奥さんが子どもたちをネグレクトしているのに、女親一人で仕事しながら明日香を立派に育てている姉さんのことが」

「離婚調停中だったけど、結城さんと姉さんはお互いに将来を約束した。そのことを結城さんの弁護士は有利な材料に使ったの。結城さんにも奥さん候補がいて子育ては十分にできるって」

「たださあ」

 叔母さんがケチャップで汚れた口を紙ナプキンで拭いた。

「あの結末だけは今だに理解できないんだけどさ。突然、結城さんの元奥さんは、その」

「何?」

 叔母さんは躊躇するように僕の方を見た。

「今さら、何を言われても多分大丈夫だと思う。僕には明日香がそばにいてくれるし」

 叔母さんは少しだけ微笑んだようだった。

「だったら話すけど。調停の途中で、あんたのお母さんは申し立て内容を変更したんだよ。あんたはの親権はいらないって。奈緒ちゃんの親権と監護権だけ確保できればいいって」

「そうですか」

 そのときは別に何の痛みも感じなかった。母親と言われても記憶すらないのだ。

「結局、家庭裁判所の調停員の出した調停内容は、お互いに一人づつ子どもを引き取るということだった。付帯条件としてお互いに引き取れなかった子どもには、無制限に面会できることっていうことにはなっていたけど」

 ここで叔母さんは今まで以上にためらいを見せた。

「ここから先は話していいのか正直迷ってる。明日香にも話したことないし」

「全部話して。ここまで来た以上」

 明日香がそう言い僕もうなずいた。

「わかった。でもこの先はつらい話だよ」

 叔母さんは僕と明日香を交互に眺めた。そしてフォークを置いてため息をそっと押し殺して話を続けた。

「結城さんと奥さんはその内容に同意した。調停が成立したということね。そして奈緒人を結城さんが、奈緒ちゃんを奥さんが引き取ることになった。結城さんにとっては不本意だったと思うけど、親権に関しては裁判を起こしても母親が有利になる傾向があるって弁護士に言われて最後には納得したみたい。姉さんと早く結婚したいっていう気持ちも手伝ったんじゃないかと思う」

「その結論を結城さんから聞かされた次の日、その日にはあんたの母親が奈緒ちゃんを引き取りに来る予定だったんだけど」

「あんたと奈緒ちゃんはその日の朝、預けられていた結城さんの実家から逃げ出したんだって。お互いに別れるのは嫌だって」

 今まで叔母さんの説明してくれた情報量に圧倒され何の感慨も抱く暇がなかった僕の脳裏に、このとき再び封印されていたらしい記憶が蘇った。

 

『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよな? 奈緒

『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』

 

 泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。僕は奈緒の手を引いて祖父母の家から脱走したのだった。

 その結末はよく覚えていない。でも今にして思えば、どこかで大人たちに掴まって、僕は奈緒と引き剥がされたのだ。この間偶然に再会するまで。

「明日香、あんた奈緒人とのことで姉さんからいろいろけしかけられるようなこといわれただろ。あれも姉さんの切ない気持ちだったんだと思うよ。姉さんはせっかく築いたこの家庭を壊したくなかったのよ」

「・・・・・・どういう意味?」

「姉さんにとってはやっと手に入れた幸せな家庭だからね。血の繋がっていない奈緒人を含めて大切にしていたんだよ。それは結城さんの希望どおり奈緒ちゃんも引き取れたら、姉さんは奈緒ちゃんのことも可愛がったとおもうけど、そうはならなかった。そしてそうならなかった以上、姉さんだって奈緒ちゃんのことは警戒したんだろうさ」

「警戒って・・・・・・実の妹なのに」

「別に恋人的な意味じゃなくても、奈緒人君を奈緒ちゃんに取られるくらいなら、あんたとくっついてほしいと思ったんだろうね。明日香、あんた、奈緒人君とのこと、姉さんにけしかけられただろ?」

「・・・・・・うん。しょっちゅう言われた。『明日香はお兄ちゃんのこと好き? 大きくなったら奈緒人のお嫁さんになりたい? そうよ。お兄ちゃんがパパで明日香がママになったら楽しいでしょ』って」

「姉さんを悪く思わないでやって、奈緒人。姉さんは今の家庭を守りたいだけなの」

「うん。悪くは思わない」

「あたしだってさ」

 叔母さんがいつの間にか浮べていた涙をさりげなく拭いた。

「あたしだって、こないだのファミレスで奈緒人と明日香がイチャイチャ知っているところを見かけて本当に嬉しかったのよ」

 このときの僕は思考が麻痺していた。流れ込んできた情報量が多すぎて消化不良を起こしていたのだ。

 逆に言うと言葉の持つ意味に麻痺して感情を直接刺激しない分、パニックやフラッシュバックが起きそうな感じもしなかった。

 多分今日聞いた情報を整理するようになったとき、僕は辛い思いをすることになるのだう。

 かわいそうな奈緒。僕のただ一人の妹。僕の初恋の相手。

 僕は奈緒のことを思い出したけど、この時僕が思い出せた奈緒の姿は、僕の恋人になった富士峰の高校生の奈緒の姿ではなくて、僕が忘れてしまっていたはずの幼い姿で僕にしがみついていた奈緒の姿だった。

 叔母さんの長い話が終ったとき、長らく忘れていたはずの幼い奈緒の表情や声音が驚くほどリアルに目の前に浮かんだ。

 僕はそのとき、僕を心配してくれている明日香ではない女の子を思い浮かべたことに罪悪感を感じた。

「あんたと奈緒ちゃんが結城さんと元奥さんにそれぞれ引き取られてからも、結城さんは定期的に奈緒ちゃんと会っていたみたいなの」

 その話がどういう風に展開するかはだいたい予想がついていたけど、ここまで来たら教えてくれることなら何でも知りたい。

 目をつぶって耳を塞いでいても奈緒を失った痛みは消えないのだ。それなら今まで闇の中にかすんでいた記憶に灯りを当てたとしても、辛さにはたいして変りはないだろうと僕は考えたのだ。

 僕は明日香の心配そうな顔を見て笑いかけた。

「叔母さんの話を聞きたいんだ。いいかな」

「だって・・・・・・。お兄ちゃん大丈夫なの?」

「おまえがいてくれるなら。多分」

「わかったよ」

 明日香は諦めたように叔母さんを見た。

「続けてあげて」

「じゃあ話を続けるか」

 叔母さんはちらりと僕と明日香の握り合って手を眺めた。その顔には再びほんの少しの間だけ微笑みがよぎったようだった。

「何を言いたかったって言うとね、そろそろ奈緒ちゃんがどこまで知っていて、どういうつもりであんたと付き合いだしたのかということを考えてもいいんじゃないかな」

「絶対悪意があったに決まってるよ、あの子には」

 明日香が好戦的な口調で言い放った。

「まあ最初から決め付けないで少しづつ考えていこうよ」

「うん。今はまだ何にも決め付けたくない」

 僕は二人に言った。明日香がこれみよがしにため息をついてみせた。

「あんたと奈緒ちゃんのことは、あの後明日香から詳しく聞いたよ..。幼い頃に生き別れた実の兄妹が悲劇的な偶然でお互いに血が繋がっているとは知らずに出合い恋に落ちた。奈緒人、あんたそれを本気で信じられる?」

「・・・・・・よくわからないよ」

「あんたには家族に関する知識も昔の記憶もなかったけど、奈緒ちゃんは一年間に何度も、結城さんと会っている。結城さんに聞いたことはないけど、結城さんと奈緒ちゃんがいつもいつもお互いの近況や世間話ばかしてたわけじゃないでしょ」

奈緒ちゃんが自分の生き別れたお兄さんのことを知りたがったって、何にも不思議はないよね。ましてやあんなに慕っていたあんたから無理矢理引き裂かれるように別れさせられたのだし」

「まあ、奈緒は真っ先にお兄ちゃんのことを聞いたでしょうね」

 明日香が呟いた。

「うん。多分明日香の言うとおりだよ。奈緒人、たとえあんたと奈緒ちゃんの出会いが偶然の出来事だったとしても、その・・・・・・奈緒ちゃんと仲良くなったらお互いのことを質問しあったりしたんでしょ?」

「うん。それはそうしたよ」

「お互いに名前も名乗ったんでしょ。そして鈴木奈緒という名前にはあんたは聞き覚えはなかっただろうさ。でもあんたの名前を聞いた奈緒ちゃんはそのときどう思ったのかな」

 彼女はそのときいったい何を考えたのだろうか。僕と違って奈緒は僕の名前を忘れずにいた可能性もあるし、あるいはそれを忘れてしまっていたとしても叔母さんの言うとおり父さんから僕のことを聞きだして僕の名前を知った可能性もある。

 どちらにしてもお互いに名乗りあったその時には、奈緒は僕が実の兄である可能性に思い当たったはずだったのだ。

 僕は恐る恐るそのときの奈緒の反応を思い出してみた。明日香がぴったりと僕に密着していてくれるせいかパニックを起こすことはないようだ。

 

『ナオって漢字で書くとどうなるの?』

『奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?』

『わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に最後に人って加えただけなんだけど。奈緒人って書く』

奈緒人さん、運命って信じますか』

 

 こうしてあの時のことを思い出すと、やはり奈緒は僕の本名に特別に反応していた様子はなかった。

 彼女が僕の本当の妹であることがわかった今では、奈緒の悪意の有無なんて考えたってどうしようもないのだけど、それでも僕は少しだけほっとしていた。

「あの時の奈緒は別に驚いている様子はなかったよ。多分僕のことや本名とかも知らなかったんじゃないのかな」

 叔母さんが何か言おうとしてためらった。その間に明日香が喋りだした。

「あるいは最初から自分が誘惑した相手がお兄ちゃんだと知っていたのかもね。それならお兄ちゃんの本名なんて知っていたのだろうから驚いたりもしないでしょ」

 僕は不意打ちを食らい黙ってしまった。

 確かに奈緒に悪意がある前提で考えれば、奈緒の反応は全て合理的に解釈できるのかもしれないのだ。

 このあたりまでくると、僕もそろそろ自分を納得させなければいけない状況になってきていた。

「客観的に言うとさ。明日香の言うことの方に理があるかな」

 叔母さんが言った。

「でも、奈緒にとってどんな得があるんだよ。実の兄と知って僕を誘惑したって、叔母さんも明日香も言いたいみたいだけど、言ってみれば僕と奈緒は二人とも被害者でしょ。奈緒には僕に対してそんなことを仕掛ける理由がないよ。それとも僕が知らない何らかの理由で僕のことを恨んでいるとでも言うの?」

「さあね。それはあたしにはわからない。十年近い間あんたと引き剥がされた奈緒ちゃんが、いったいどんな生活を送っていて何を考えていたかもわからないんだからね」

「じゃあ奈緒の意図については、結局はわからないということになるよね」

「今はまだね。あともう一つ気になるのは、何であんたの本当の母親があんたと一度も面会しようとしなかったってことだね」

 叔母が突然奈緒の意図から話を変えたので僕は少し戸惑った。

「ただ会いたくなかったからじゃないの」

 平静を装ってそうは言ったけど、そのとき僕の胸は少し痛んだ。

「親権をめぐってあれだけ争っていたのよ? あの人は奈緒ちゃんだけじゃなくて、少なくても最初のうちはあんたにも執着していいたはぜでしょう」

「でも現に僕はその人と会うことはなかったし、去年両親から聞かされるまでは母さんと明日香が自分の本当の家族だって思っていたくらいだし」

「まあ、そもそもそれが不思議なんだけどね」

「それって?」

奈緒人。あんたは自分が思っているほど記憶力に乏しいとか忘れっぽいとかそんなことは絶対ないよ。あたしはあんたと付き合ってきているからよくわかるけど、むしろ記憶力がないのは明日香の方だね」

「叔母さんひどいよ」

 明日香がその場を茶化すように言った。その気持ちは嬉しかったけど、叔母さんも僕も少しも笑えなかった。

「それなのに明日香さえ覚えているようなことを忘れてしまっているでしょ。幼い子どもにとっては両親の離婚とか仲のよい妹との別離とか忘れるどころかトラウマになったって不思議じゃないのに」

「さっき叔母さんが言っていた自衛本能みたいなやつなのかな」

「さあ。それならまだいいんだけどね」

「僕って本当に何一つだって考えてなかったんだね」

「どういう意味?」

「こないだの夜、僕は父さんと叔母さんの会話を聞いてたんだよね。寝たふりをしてたけど」

「そうか」

「あの会話だけでも、奈緒が僕の別れた妹だって十分にわかったはずなのに」

「・・・・・・それはしかたないよ。そもそもあんたは自分に実の妹がいることさえ覚えてなかったんだから」

 叔母さんは大分食べ残したナポリタンの皿を押しやって左手の時計をちらりと眺めた。

「そろそろ行かないとね。あたしが話せることはこれくらいで全部だし」

「うん。忙しいのにありがとう叔母さん」

 叔母さんの話を聞いたことによって少しも楽になったりはしなかったし、むしろもやもやした感じが増幅していのだけど、それでも僕は叔母さに感謝していた。

「・・・・・・元気出せ、奈緒人。こんなことに負けるんじゃないよ。あたしも明日香もあんたの味方だからね」

 叔母さんはそう言った後に、最後に一言言って話を締めくくった。

「そろそろ結城さんと真面目に話し合った方がいいかもね。奈緒とのことを博人さんに言いづらいなら、彼女のことは伏せたっていいんだし」

奈緒人と奈緒 第1部第8話

「お兄ちゃん、おせち買えた?」

 夜になってどこからか帰宅した明日香は、僕に会うとまずそれを聞いてきた。

「買えてない」

「え~、ちゃんとメモ書いたのに。お兄ちゃんは信用できないから、明日香にも一緒に行ってもらったのに」

「・・・・・・予約もなしにこの時期におせち料理なんて買えるわけないだろ。おまえには常識がないなのか」

「そうなの? じゃあお正月とかどうするよ」

「どうって・・・・・・コンビ二とかファミレスなら正月でも営業してるでしょ」

「本気で言ってるの? パパとママも帰ってくるのに。玲子叔母さんだって多分家に来るよ。そん時におせちもなかったら、叔母さんに何言われるかわからないじゃん」

「それは確かに」

 叔母さんのことだから、正月はうちを当てにしているに違いない。どうも叔母さんには彼氏もいないみたいだし。

「はあ。でも考えていても仕方ないか。あとでママ・・・・・・は無理か。おせちのことはパパか叔母さんに相談するよ」

「うん。そうして」

 突然、有希から告白された直後だというのに、僕は明日香と普通に会話できている。何だか僕が言うのも生意気なようだけど、これまでの人生で全く縁がなかった女の子の告白に対して、いつのまにか耐性ができたみたいだ。

 奈緒の告白。明日香の告白。そして今日、有希にまで告白された。明日香はともかく、奈緒と有希の場合は出会ってからたいして間がない時期の告白だった。

 でも、奈緒の告白は有希の場合とは違う。

 一見すると、ろくに知りもしない可愛い女の子に外見に惹かれて、奈緒の告白に応えたように思えるかもしれないけど、あのとき、わずかな時間だけしか話したことのない奈緒のすべてに心から惹かれたのだった。奈緒が告白してくれるより前から。

「何であたしを無視して考えごとしてるのよ」

 妹が不満そうに言った。

 

『あたしは奈緒ちゃんの友だちだから、奈緒人さんに振り向いて貰おうなんて考えてないし。というか生意気なようだけど、奈緒人さんがあたしのこと好きになってくれたとしても、あたしは奈緒人さんとは付き合えないもん』

『どういうこと? 君の言っていること、さっきからよくわからないんだけど』

 

「ねえ。ねえってば。お兄ちゃんあたしの話聞いてるの?」

 

『だって奈緒ちゃんに悪いじゃん。あたしはたとえ親友の彼氏だったとしても、本当にその人が好きになったのなら遠慮しない。そう思ったときも以前はあったのだけど』

『どういう意味?』

奈緒ちゃんってさ。多分奈緒人さんが考えているよりメンタルが弱い子なんだよ。さっき奈緒人さん、奈緒ちゃんのこと大変なんだなって言ったでしょ。あなたが奈緒ちゃんの行動に関して感じた感想はそれだけなんでしょ。でもね。あれだけ気持ちが弱い子が必死になってピアノに縋りついていることとか、奈緒人さんに依存している意味とか、奈緒人さん何にも気がついていないでしょ』

『あたしはピアノなんかに人生をかけるつもりはないけど。もし仮にあたしがどんな手段でも使ってピアノのコンテストで奈緒ちゃんに勝とうと決心したとしたら、必死にピアノの練習をするとかそういうことはしない』

『あたしなら奈緒人さんを誘惑して奈緒ちゃんを振らせるように仕向けると思う。多分それだけで、奈緒ちゃんぼろぼろになってろくな演奏もできなくなるから』

『・・・・・・変なこと言ってごめん。奈緒ちゃんは親友だから。あたしは奈緒人さんのことが好き。でもそれだけなの。奈緒人さんと付き合う気はないの。ただ自分の気持ちを知っておいてほしかっただけ。ごめんね、変な話しちゃって』

 

「明日も別に予定ないんでしょ? おせちは無理でも、せめてお正月っぽい食べ物を買い出しに行くからね。荷物持ちよろしく」

 妹の言葉がようやく耳に入って、意識の中で形になった。

 

 大晦日の深夜、僕は明日香と二人で初詣に出かけた。いわゆる二年参りというやつだ。明日香が言うには、大晦日の十時ごろ出かけて新年の早朝には家に戻る予定らしい。

 大晦日には家に戻って来る予定だった両親からは何の連絡もないし、まともな年越し蕎麦すら用意できず微妙に苛立っていた様子だった明日香は、大晦日の深夜に半ば無理矢理僕を家から連れ出したのだった。

 とりあえず、明日香がデパートの地下の食品売り場で何とか揃えてきたそれらしい料理とか、コンビニで買えたぱさぱさの蕎麦でも十分に満足だった僕としては、もう今日は自分の部屋でゲームをしていてもよかったのだけど、明日香にとっては大晦日は何かのイベントがないと納得できない、特別な日のようだった。

 行き先は、この日は早朝まで終電に関係なく運行している電車に乗って、三十分はかかる神社だった。

 僕たちは最寄の駅から深夜の電車に乗り込んだ。普段なら絶対に電車なんかに乗っていない時間に外出しようとしているだけでも、何か特別なことをしているような気になる。

 こんな時間なのに、大晦日の深夜の電車はまるで朝のラッシュ時のように混み合っていたけど、晴れ着を着た女の子たちの華やかな姿が見られたせいで、さっきまで気分が重かった僕まで、少し華やかな気分になっていった。

 この時間だけは、奈緒と会えないことや有希の不可解な告白を忘れて、明日香のことを考えてやらなければいけないのかもしれない。

 明日香は、今年も例年のように自分の友だちと外出するのだろうと僕は思っていた。

 でも明日香は、自分で宣言したとおり以前の派手な友人だちとは、全く会っていないようだった。

 考えてみれば、一人で過ごすことがあまり苦にならない僕と違って、明日香は誰かと一緒にいることが好きなたちだ。

 僕のために、いい妹になる宣言をしたせいで友だちを無くした明日香は、大晦日に寂しい思いをすることになってしまったのだ。

 紅白が終る頃になってもう両親から連絡はないだろうと思ったのか、明日香は突然、ソファに座って眠りそうになりながらテレビを見ている僕を外に連れ出した。

 明日香に気を遣った僕は、半ば無理矢理家の外に連れ出されながらも、明日香の気晴らしになるなら悪くないなと考え直したのだ。

 深夜の電車の中で楽しそうに笑いさざめく晴れ着姿の女の子たち。車窓を流れる高層ビル街のきらめく夜景。

 そして僕の隣には何となく不満そうな顔をした明日香がいる。明日香は以前のような派手な格好はしなくなっていた。そのせいもあって、周囲の華やかな晴れ着姿の少女たちに比べると、だいぶ地味な容姿に見える。

 でもそれは明日香のせいではない。振袖なんて、母さんが不在の家で明日香が一人で引っ張り出せるものではないし、着付けだって助けなく自分でできるものではないのだ。

 両親が不在では、周囲で笑いさざめいている少女たちが普通にできることも明日香にとっては望むべくもない。

 そう考えると僕は自分の妹が少しだけ不憫に思えてきた。奈緒や有希のように、幸せな家庭に育った少女たちなら与えられて当然なことさえ、両親が共働きで多忙な我が家では、明日香には期待することさえ許されていないのだから。

 それでも明日香は周囲の女の子たちを気にしている様子もなく、チャコール色のコートを着て僕の腕に掴まっていた。

 そして今日のこのときだけは、僕は妹の手を振り払う気はしなかった。今ごろはきっと奈緒だって、今日ばかりはハードなピアノのレッスンから開放され家族で団らんしているのだろう。多分有希も。

 有希に奈緒に対する愛情を疑われたり、有希の告白めいた言葉を聞かされた僕は混乱していたけど、それでも明日香と二人だけで大晦日をリビングで過ごしていると、僕なんかと二人きりで過ごすしかない明日香に対する憐憫のような気持ちが、まるで拭いきれない染料が白紙を染めていくように僕の心に広がっていった。

 去年の大晦日はどうだったっけ。

 確か去年も両親はいなかった。そして去年の大晦日は、僕たちが本当の家族でないということを両親から聞いた直後だったせいもあって、僕は自分の部屋で一人で過ごしたし、そのことにほっとしていたことを思いだした。

 その頃は、明日香もまだイケヤマとかいう男と付き合う前だったし、派手な格好で遊びだす前だったので、多分妹も一人で自分の部屋で過ごしていたはずだ。

 お祭りごとの好きな明日香が、両親不在の夜に一人で自室に閉じこもって何を考えていたのかはわからない。でもあの話の直後のことだ。明日香もきっと辛かっただろう。その時の僕には明日香を思いやるような余裕はなかったのだけど。

 そう思うと奈緒に会えない自分の悩みは消えていって、明日香の悩みに無関心だった自分に腹が立った。

 そのせいか、僕は思わず混み合った電車の中で僕にしがみついている妹を、心持ち自分の方に抱き寄せるようにした。

「お兄ちゃん?」

 僕突然肩を抱き寄せられた明日香が困惑したように言った。

「どうかした?」

「いや。どうもしていないけど」

「そうか」

 明日香は僕の腕に改めてしがみつくような仕草を見せた。

「結構混んでるよな」

 僕は照れ隠しにそう言った。

「毎年この時期の電車はこうなんだろうね。あたしたちが知らなかっただけで」

 明日香が車窓を眺めながら呟いた。

 目的の駅に降りた瞬間から行列が始まっていた。

 学生のアルバイトのような警備員のアナウンスの声ががあちこちで響いていて、周囲には着飾った集団が楽しそうに笑いさざめく声があふれている。

 家を出るときまではハイテンションで僕を引っ張っていた明日香は、周りの熱気に当てられたように大人しく僕の腕に掴まったままで、いつもよりだいぶ言葉数が少なかった。

 それだけ周囲は賑やかだったのだけど、一時間ほど並んで神社の鳥居をくぐると、周囲には何か賑わいの中でも尊厳な雰囲気が漂っていた。

 神社の中は、果てしなく続く提灯の列にぼんやりと照らされていて、それははしゃいでいる人々の声を飲み込んで、騒音の中にあっても不思議な静謐を感じさせた。

「初めて来たけど結構いい雰囲気だね」

 妹が幻想的な提灯の列に目を奪われながら呟いた。

「まあ、大晦日の夜にお参りする習慣なんてうちにはなかったしな」

「それはお兄ちゃんだけでしょ。あたしはパパやママと近所の神社に行ったことあるよ。朝早く美容院で着付けもしてもらって」

「僕はおまえの着物姿なんか見たことないぞ」

「あたしなんか見ようとしていなかったからでしょ」

「そうじゃなくて本当に見たことないんだって」

「あたしの着物姿に興味なんかないくせに」

 明日香が笑った。

「それにしてもこれって何時間くらい並んでれば参拝できるのかな」

「さあ。見当もつかないや」

 結局お賽銭を投げて参拝しおみくじを引くまでに、それから三時間くらいかかった。もう夜中の二時過ぎだ。

「帰る?」

 一応予定の行動を消化したので僕は明日香に聞いてみた。

「やだ」

 思ったとおりの答えが明日香から帰ってきた。明日香にとってはまだ物足りないらしい。

「今日はお店だって二十四時間営業してるよ、きっと。ファミレスとかに寄って行こう」

 僕もまだここの雰囲気に当てられていたし、こんな日に両親が不在で僕なんかと二人で一緒に過ごすしかなかった明日香のことを考えると、それを無下に退けるわけにもいかなかった。

「じゃあ、ファミレスに行くだけ行ってみるか?」

「うん」

 嬉しそうに明日香が言った。

「でも、また並ぶと思うけどな」

「いいよ。それでも」

 明日香は嬉しそうに僕の腕にしがみついた。

 

 結局、行列ができていたファミレスで席に案内された頃にはもう夜中の三時を過ぎていた。並んでいる間、立ったまま僕の肩に寄りかかってうとうとしていた明日香は、席に案内されると急に元気を取り戻したようだった。

「ねえ。何食べる? ケーキを食べようかと思っていたけど、考えたら今日は大した食事してないしさ。一緒にピザとか食べちゃう?」

 明日香はずいぶん楽しそうだ。

「おまえが決めていいよ。何が来ても文句は言わないからさ」

 明日香はそれを聞いて再び真剣な表情でメニューに目を落した。注文は明日香に任せよう。

 僕はメニューをテーブルに置いて、何となく周囲を見回した。

 そのとき僕は、神社の参拝帰りの客とは思えないスーツ姿のビジネスマンみたいな人が隣の席に案内されているのを、ぼんやりと見ていた。その人には女性の連れがいた。

「叔母さん?」

「え、何々?」

 僕の声に驚いた妹が目をメニューから上げた。

「何だ。明日香と奈緒人か。偶然じゃんか」

 そこには玲子叔母さんが立っていて、どういうわけか飽きれたように僕たちを眺めていた。

「あんたたち、こんなとこで何してるのよ。兄妹でデートでもしてたの?」

「叔母さんこそデート?」

 明日香が嬉しそうに叔母さんに聞いた。

 そう言えば叔母が男の人と一緒のところを見るのは初めてだ。

「・・・・・・こんな時間に外出とか結城さんや姉さんは知っているんでしょうね」

「だってパパもママも全然連絡してこないんだもん」

 明日香が口を尖らせた。

「何? 大晦日も二人きりだったの? あんたたち」

「そうだよ」

「姉さんも結城さんも子供たち放って何やってんの」

 叔母さんは驚いたようだった。そして叔母さんと僕たちの会話を聞いている人に言った。

「酒井さん悪い。打ち合わせはまた今度にならない?」

「え? 何で」

「家族の関係で用事ができちゃった。悪いけど」

「はあ。社内じゃちょっとって言うから、あんだけ並んでようやく店には入れたのに。まあいいですけど、でも打ち合わせしないなら大晦日に呼び出さないでよ。僕にだって家庭があるんですよ」

「ほんとにごめん。そのうち埋め合わせするから」

「まあ独身の人にはわからないでしょうけど、家族持ちには特別な日なのに」

 そうぶつぶつ言いながら、その男の人は去って行った。

 叔母さんは僕の隣に座って初めて見た細身の赤いフレームの眼鏡を外した。

 もしかしたら眼鏡を外すことで、仕事のオンとオフを別けているのかもしれない。

「叔母さん仕事いいの?」

 明日香が目の前に座った叔母さんに声をかけた。

「よくないけど・・・・・・。それよか姉さんたちは二人とも本当にこの間からずっと帰って来ないの?」

 この間とは叔母さんと父さんが偶然に家で鉢合わせした夜のことを言っているらしい。

「うん。年末には帰るって言ってたけど連絡もないよ」

 明日香が言った。

「それよかさ。まだ注文してないんだけど。叔母さんも何か食べるでしょ」

「明日香さあ。親が二人揃って大晦日に連絡もないっていうのに、寂しがり屋のあんたが何でそんなに平気なんだよ」

「だって今年は一人じゃなくてお兄ちゃんもいるし」

「・・・・・・なるほどね。そういうことか」

 叔母さんが再び眼鏡をかけた。思っていたより悩んでいる様子のない明日香に安心して、また仕事に戻る気なのだろうか。僕は一瞬そう思ったけど、叔母さんは明日香からメニューを取り上げただけだった。

「じゃあ何か食べるか。そういえばあたしも昼から何にも食べてないや」

「叔母さんご馳走してくれるの」

 どうせ親から預かったお金で支払う気だったくせに、明日香はここぞとばかりに目を輝かせて言った。

「相変わらず人の奢りだとあんたは容赦ないな」

 注文を終えた明日香に対して再び眼鏡を外した叔母さんが飽きれたように笑った。

「そういや年越し蕎麦とか食べたの?」

「うん。お兄ちゃんがコンビニのざる蕎麦も結構美味しいって言うから」

「どうだった?」

「お兄ちゃんに騙された」

「いや、あれはあれで美味いだろうが。それに別に手打ち蕎麦なみに美味しいなんて言ってないし」

 僕は反論した。

「だったら最初からそういう風に言ってよ。期待して損しちゃった」

「おまえに嘘は言ってないだろ」

「あんたたち、最近仲いいじゃん。まるで昔からの恋人同士みたいよ」

 叔母さんが笑った。

 僕と明日香のほかに叔母さんが一人加わるだけで、不思議なことにどういうわけか家族団らんという雰囲気が漂う。

 僕なんかでもいないよりは妹にとっては元気が出るだろうと思ってここまで付き合っていたのだけど、やはり叔母さんがいると妹のテンションは高くなるようだった。

 偶然に叔母さんに会えてよかったと僕は思った。よく考えてみれば、ここは叔母さんの勤務先の出版社の所在地からすごく近い場所だった。

「ちょっとトイレ。お兄ちゃんデザート持ってくるように頼んでおいて」

「うん」

 妹が席を立つと、叔母さんがにやにやしながら僕の方を見た。

「何で笑ってるんの」

奈緒人。あんたさあ、あの短い時間の間に急速に明日香と仲良しになったみたいんじゃん」

「ああ、まあ昔よりは仲良くなったかもね」

「何を冷静に言ってるんだか」

 叔母さんが笑ったまま言った。

「しかしわからんものだよねえ。仕事の打ち合わせでたまたま入ったファミレスにさ、妙にいい雰囲気の若いカップルがいるなってあって思ったら、あんたたちだったとは」

 叔母さんの話は、別に僕たちへの嫌がらせのようではなかった。

「まあでもよかったよ。あんたたちが仲が悪いとあたしも居心地が良くないし」

「ごめん」

 叔母さんは僕たち二人を可愛がってくれていただけに、明日香と僕の不和には心を痛めていたのだろう。

「まあ、別にいいさ。けどさあ、仲直りするのを通り越して、まるで恋人同士みたいにイチャイチャしだしてるのはちょっと急ぎ過ぎじゃない? 血が繋がっていないとはいえ一応兄妹なんだしさ」

「そんなんじゃないって」

「おう。奈緒人が珍しく照れてる」

 叔母さんが幸せそうな表情で笑った。

「心配するな。あんたたちの両親はあたしが責任を持って説得してやる。だから明日香を泣かせるんじゃないぞ」

 ここまで来ると、叔母さんの話はもはや本気なのか冗談なのかわからなかった。

 一応、本気で僕と明日香の仲を誤解しているといけない。僕は叔母さんに奈緒のことを話すことに決めた。両親にさえ話していないけど、叔母さんなら信用できた。

「確かに僕と明日香は仲直りしたといってもいいけど、叔母さんが想像しているような変な関係じゃないよ」

「変な関係なんて言ってないじゃん。でもほんと?」

 叔母さんは本気で驚いている様子だった。僕はそっとため息をついた。誤解を解いておくことにして本当によかった。

「本当だよ。それに、僕も最近は彼女ができたし」

「彼女って・・・・・・明日香じゃないの?」

「だから違うって。鈴木奈緒って子で」

 そこで僕は深夜の叔母さんと父さんの会話を思い出した。会ったことはなくても叔母さんは奈緒のことを知ってはいるのだ。父さんの書いたあの短い記事を読んでいたのだから。

「え。もっかい名前言って」

 どういうわけか叔母さんが青くなった。

「鈴木奈緒。東京都の中学生のピアノコンクールで優賞した子。父さんが記事を書いたの叔母さんも知っていたんでしょ」

「その子と付き合っているってどういうこと? あんたはさっきから自分が何を言っているのかわかってるの」

 叔母さんの様子がおかしい。何でだろう。叔母さんは本気で僕と明日香を付き合せたかったのだろうか。

「どうって。偶然出会って付き合うことになったんだけど・・・・・・というか僕に彼女がいることは明日香だって知っているよ」

奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」

「だから明日香とはそういう関係じゃないって」

「何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の妹じゃないの」

「言っちゃだめ! 今はまだだめ!」

 そのとき、トイレから戻ったらしい明日香の悲鳴に似た声が響いた。周囲の席を埋め尽くした客の喧騒が一瞬静まり返った。

「明日香?」

 僕は振りかえった。真っ青な顔の明日香の姿が目に入った。

「明日香? どした?」

 叔母さんが怪訝そうな声で明日香に問いかけた。

 少しして周囲の喧騒が戻って来たけど、叔母さんの言葉は僕の耳にはっきりと届いていた。

 

奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」

「鈴木奈緒はあんたの本当の妹じゃないの」

 

 最初は、明日香の悲鳴のような声に気を取られていたせいもあって、叔母が言った言葉の意味の重さにすぐには気がつかなかった。

 その瞬間はむしろ混み合った店内の客の視線をひき付けてしまっていることの方に意識を奪われていたから、僕は反射的に呆然と立ち尽くしている明日香の手を引いて向かいの席に座らせた。

「・・・・・・前にあたしの家であんたは奈緒ちゃんと奈緒人が一緒に歩いてたって言ってたね?」

 叔母さんが恐い表情で明日香に聞いた。たった今妹が見せた狼狽のことはわざと無視しているようだった。

「あんた奈緒人が奈緒ちゃんとそういう関係だって知ってたの? そもそも奈緒人と奈緒ちゃんはお互いのことを実の兄妹だってわかっているの?」

 そのあたりで僕はようやく叔母の言葉が持っていた意味に気がついた。胃の奥が痛み始めたと思った途端、何かが急速に喉からせり出してきそうな感覚があった。

「あたしは知ってたよ。奈緒が知っていたかどうかはわからない」

 明日香が低い声で言った。

奈緒人は・・・・・・って知ってたって感じじゃないね。でも。何でそのまま放っておいたのよ」

「お兄ちゃんが好きになった子が実は自分の妹だなんてわかったら、どんだけショックを受けるかを考えてみて」

「明日香・・・・・・」

「だからお兄ちゃんをあたしに振り向かせて、奈緒への好意を無くさせようとしていたの。好意がなくなった相手が後から実の妹だってわかった方がまだショックは少ないでしょ。自分が一番好きな子が実の妹だったことがわかったのと比べたら」

「・・・・・・あたしが邪魔しちゃったわけか。明日香ごめん」

「あたしに言われても」

 このあたりが限界だった。僕は立ち上がってトイレに駆け込んで胃の中のもの一気に吐き出した。

奈緒人と奈緒 第1部第7話

  翌日、僕は妹に起こされた。時計を見るともう十時近い。

「お兄ちゃん起きてよ。買物に一緒に行ってくれるって約束したじゃん」

 僕は眠気を振り払ってベッドに起き上がった。

 え?

「あのさ」

「どしたの?」

「どしたのって・・・・・・」

「ああ」

 明日香は同じベッドの中で僕の隣に横たわっていた。半ば半身を起こして僕の方に抱きつくようにしながら、僕に声をかけて起こそうとしたらしい。

「ああじゃなくてさ。何でここにいるの?」

「叔母さんと一緒にあたしの部屋で寝てたんだけどさ。叔母さんすごくお酒臭いし寝相も悪いのよ」

「・・・・・・おまえが叔母さんに一緒に寝ようって誘ったんだろうが」

「よく覚えてるね。お兄ちゃん寝てたんじゃなかったの」

 僕は一瞬どきっとした。

「何となく記憶があるだけだよ」

 僕は曖昧に言った。

「ふ~ん。それでさ八時になったら叔母さん、突然起き上がって会社に行っちゃった。パパと一緒に仲良く出かけたみたいだよ」

「そうか・・・・・・。っておまえなあ」

「何よ」

「それとおまえが僕のベッドに潜り込むのとどういう関係があるんだよ」

「何となく寂しくなってさ。祭りの後って言うの?」

 珍しく感傷的な妹の感想は、僕にも素直に共感できるものだった。昨日の夜が楽しかった分だけ、父さんと叔母さんがいなくなったこの家はいつにもまして寂しい感じがする。

 血の繋がっていない兄のベッドに潜り込むとは、深夜アニメに登場する妹じゃあるまいしどうかとは思うけど、明日香が人恋しいと思った気持ちには僕は素直に共感できた。

 今までは両親不在で兄妹別々に過ごしていても、寂しいなんて感じたことはなかったのに、たった一晩の幸せに僕と明日香は打ちのめされてしまったのだった。

「もう少しこのまま寝るか? それとももう起きて買物に行くか?」

 僕は傍らで毛布に潜り込もうとしている妹に聞いた。

「・・・・・・もうちょっとこうしていようかな」

 妹は顔を毛布の中に隠して呟くように言った。

「何だよ、人のこと起こしといて」

 僕は妹にそう言ったけど、妹が今感じている気持ちはよく理解できた。

「寝よう」

 妹はそう言って、再び体を横たえた僕の上に自分が被っていた毛布をかけてくれた。

 次に目を覚ましたのは、それから一時間後くらいだった。

 明日香は僕から少し離れた場所で、横向きになって寝入っていた。明日香のことだから、またいつかのように抱きついてくるんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかったようだ。

 少しお腹が空いていた。昨日は叔母さんに特上寿司をいっぱいご馳走になったとはいえ、もうお昼過ぎなのだ。

 よく寝ているので少しかわいそうだとは思ったけど、僕は妹に声をかけた。このまま寝ていたら一日が無駄になってしまう。それに今日は食材の買出しをするって、明日香も言っていたのだし。

 体に触れるのは気が引けたので、普通に声をかけると、さすがによく寝たせいか明日香はすぐに目を覚ました。

「今何時?」

 明日香が目をこすりながら言った。

「十一時くらい」

「そっか。よく寝た―――ってまずい」

 明日香は跳ね上がるように飛び起きてた。

「何で起こしてくれなかったのよ。十時には家を出たかったのに」

「何言ってるんだ。さっき十時ごろ自分で起きてたじゃん。それでまた寝るって言ったのおまえだろ」

 理不尽な言いがかりだったけど、以前のようなとげは感じられない。

 同じベッドで一緒に寝るとか、仲が悪かった兄妹の関係が、普通の関係を通り越して極端に逆側に振れてしまっている様な気もしたけど、それでもまだ昨夜感じた家族の安心感のような感覚は今でも続いていた。どうやら昨夜のことは夢ではなかったみたいだ。

「早く起きて仕度して。買物に出かけるよ」

 明日香は慌しく起き上がって僕を急かした。

「そんなに慌てなくてもまだ時間はあるのに・・・・・・」

「いいから。あ~あ、失敗しちゃったなあ」

「失敗って?」

「何でもないよ。ほら早く起きて着替えてよ」

「わかったよ」

 明日香が何で慌てているのかはわからない。それでも明日香と二人で買物に出かけることを楽しみに感じている自分に気がついて、僕は驚いた。

 奈緒に会えないのは寂しいけど、今日だけは奈緒と約束をしていなくてよかったのかもしれないと僕は思った。

 明日香と二人きりで外出するのは、多分初めてのことだったと思う。今までのことを考えると、明日香と並んで冬の曇り空の下を、喧嘩もせず刺々しい雰囲気もなく歩いていること自体が奇跡のようなものだ。

 僕たちは別に手を繋ぐでもなく寄り添うでもなく、でもお互いに疎遠というほどの距離感を感じることもなく並んで歩いた。今でも昨夜の魔法は解けていない。

 去年のあの夜以来、僕にすっぽりと覆いかぶさっていた暗く思いベールがはがれて、急に周囲が明るくなったような感覚はまだ続いている。

 これは明日香のおかけでもあるし、玲子叔母さんの助けもあったことは間違いない。

 僕は明日香の隣を黙って歩きながら、改めて考えた。それでも僕の生活が急に明るい方向に転回したのは、奈緒と知り合ったためだった。それと兄妹の関係の改善とは合理的な関係などないのかもしれないけど、僕は不思議にそう確信していた。

 明日香は駅ビルの中のスーパーマーケットで買物をしたいと言ったので、僕たちは近所のスーパーを素通りして駅前に向っていた。

 近所の店と何が違うのかはよくわからないけど、わからない以上は言うとおりにした方がいいのだろう。

 駅ビルについたとき、僕はすぐに買物をするのかと思ったのだけれど、明日香は僕の先に立ってビルの中のファミレスの中に入って行った。

 朝食も昼食もまだなのだから先に食事をする気なのだろうか。

 別にそれでもいいけど一言言ってくれればいいのに。明日香は店の中に入ると、寄ってきた店員には構わずにきょろきょろと店内を見回していた。

「あ、いた。あっちに行こう」

 僕はいきなり明日香に手を取られて窓際の席の方に連れて行かれた。

「有希ちゃん遅れてごめん」

 窓際のテーブルには可愛らしい少女が一人で座っていた。一瞬僕には何が起こっているのかわからなかったけど、よく見るとそれは奈緒の友人の有希だった。

「いえいえ。あたしも来たばっかだし」

 有希は明日香の方を見て笑った。

「本当にごめん。兄貴ったら男の癖に支度するのが遅くてさ」

「明日香ちゃん、ちゃんとメールくれたからわかってたよ。あ、奈緒人さんこんにちは」

「こんにちは・・・・・・って、君たち知り合いだったの?」

 僕は明日香と有希の顔を交互に眺めながら言った。

「お兄ちゃんこそ有希ちゃんと知り合いだってあたしに黙ってたくせに」

「いや、おまえと有希さんが知り合いだなんて知らなかったし。それに有希さんとは一度会っただけで」

「昨日はいきなり変なメッセージをしてごめんなさい」

 有希が話をややこしくした。明日香が疑わしげに僕を見たけど、妹の表情は柔らかかった。昨夜の久し振りの家族団らんからずっとそうなのだ。

 それにしても、僕が明日香と有希と一緒にファミレスのテーブルを囲む意味がわからない。

 有希とLINEを交換しただけで奈緒とは気まずくなったというのに、これを奈緒に見られたら今度こそ本当に僕は破滅だ。

 そう思うなら席を外せばいいのだけど、昨夜の父さんと玲子叔母さんの会話を思い起こすと、ここはもう少し有希と仲良くなった方がいい気もする。

 別に記憶にない自分の過去にそれほど執着があるわけではないけど、その過去の話に奈緒と有希の名前が出ているのなら話は別だ。

「お兄ちゃんはそっちに座って」

 明日香が有希の正面に腰をおろしながら、有希の隣を指差した。

「え? 何で」

「何よ、お兄ちゃんあたしの隣がいいの? あたしは別にそれでもいいけど有希ちゃんにシスコンだと思われちゃうよ」

 本当に何なんだ。

奈緒人さんさえよかったら隣にどうぞ」

 有希が飽きれたように笑いながら言った。

 僕は恐る恐る有希の隣に腰掛けた。今、僕の隣にいる小柄な女の子が奈緒の親友だと思うとなぜか少し混乱する。正面には明日香がいる。

 自分の家族と、僕の付き合い始めたばかりの彼女の友だちと一緒にいることは悪い気持はしないけれど、なぜ僕の知らないところでこの二人が親しくなったのかはどうしても気になる。

「有希ちゃん何頼んだの?」

「うん。モンブランと紅茶。先に注文しちゃってごめんなさい」

「全然OK。でもあたしもお兄ちゃんも朝から何も食べてないから食事してもいい?」

 有希は明日香の顔を不思議そうに見た。そして笑い出した。

「何よ」

「明日香ちゃんってさ。あたしと二人きりの時は奈緒人さんのこと『兄貴』って呼ぶのに、奈緒人さんと一緒にいる時は『お兄ちゃん』て呼ぶのね」

 何かよくわからないけどこれは恥かしいかもしれない。妹は赤くなって口ごもってしまった。

「ごめんなさい。変なこと言っちゃって」

 赤くなって狼狽している妹を見て少し後悔したように有希が言った。

「別に変な意味じゃなの。何か羨ましいなあって思って」

「うらやましいって・・・・・・何で?」

「よくわかんないけど、あたしって一人っ子だからかなあ。お兄さんがいるのってうらやましい」

「そんなにいいもんじゃないけどね、実際にお兄ちゃ・・・・・・兄貴がいても」

「それよかさ、何で二人は知り合いなの?」

 僕はさっきから気になっていることを質問してみた。

 有希は奈緒の親友のはずだ。その有希と明日香が知り合いということは、まさか明日香は奈緒とも知り合いなのだろうか。いや、あの朝の奈緒と明日香は知り合いのように見えなかった。

「何でって言われても。最近ちょっといろいろあって知り合ったんだよ」

 明日香が素っ気なく答えた。全く答えになっていない。

「そうなんです。でも知り合ったばかりの明日香ちゃんのお兄さんが、奈緒の彼氏だなんてびっくりです」

 そう言った有希は少しも驚いていないように見えた。

「それよか何食べる? お腹空いたよ」

 明日香が話を変えた。

「・・・・・・ピザとフライドチキン?」

「何でよ」

「食べたかったんだろ? 昨日は寿司に付き合ってもらったからな」

「・・・・・・よく覚えてたね」

「まあね」

「変なところだけ無駄に優しいんだから」

 明日香はまた少し赤くなって小さい声で言った。

「いいなあ。あたしもお兄さんが欲しい」

 有希が再び明日香をからかうような目で見た。

 さっきもそうだけど、明日香が同学年の女の子にこういう風にいじられていることが僕には少し新鮮に感じられた。

「こんなのでよかったらあげようか」

 まだ赤い顔をしたまま明日香が有希に言い返した。

 結局この二人の関係やなぜここで待ち合わせをしていたかということは、いつの間にか曖昧にされてしまった。

 二人は身を乗り出すようにして、テーブルに開いたメニューを眺めている。こんなことなら明日香が有希の隣に座ったらよかったのに。有希がケーキだけではなく、自分も食事しようかなって言ったのがきっかけだった。

「じゃあ二人で一緒にピザ食べない? ここのピザ大きいから一人では食べきれないし」

 結局ピザを頼むのか。明日香と有希がどのピザを注文するのか楽しそうに話しているのを聞きながら僕は考えた。

 そのとき、僕はふと昨晩の父さんと叔母さんの会話を思い出した。父さんの書いた記事の話だ。

 確か一位に入賞した奈緒より、二位入賞のオオタユキという子の演奏の方が感情表現が豊かだったとかいう内容の記事だったはずだ。

 そういえば以前、志村さんから貰った奈緒の入賞記事には二位以下の記載はなかっただろうか。奈緒のことしか気にしていなかったのでよく覚えていないけど。

 僕はポケットからその記事を取り出して眺めた。恥かしいけど僕はこのプリントをいつも持ち歩いては、時々奈緒の小さな顔写真を眺めていたのだ。

 僕は改めてその記事を眺めてみた。

 

『東京都ジュニアクラシック音楽コンクールピアノ部門高校生の部 受賞者発表』

『第一位 富士峰女学院高等部2年 鈴木奈緒

『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』

『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』

 

 ここまでは暗記するほど眺めている。問題はその次の部分だ。

 やはり載っていた。一位の奈緒の記事との違いは写真がないというだけだ。

 

『第二位 富士峰女学院高等部2年 太田有希』

『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』

『表彰状、トロフィー、記念品、賞金20,000円の贈呈』

 

 演目も一緒だ。まあでもこれは意外でも何でもないだろう。

 同級生で同じ先生についてピアノのレッスンを受けている二人は、ただの親友というだけでなくピアノでも競い合うライバル同士でもあるということだ。これで僕にはまた奈緒に関する知識が増えたのだ。

 注文したいピザが決まったのだろう。二人はメニューを閉じて何やらスマホの画面をお互いに見せあっている。

「有希さんって、太田有希っていう名前だっけ?」

 有希が僕の方を見た。

 並んで座っている有希との距離が近かったせいで、彼女の顔は一瞬どきっとしたほど僕のすぐそばに近寄っていた。

 僕は以前どこかで読んだことを思い出した。

 対人距離という概念があって、人によってその距離感は異なるそうだ。相手との距離がだいたい50センチ以下になる距離は密接距離と呼ばれている。それは格闘をしている場合などを除き、愛撫、慰め、保護の意識を持つ距離感であるそうだ。

 逆にそういう親密な関係にない他者を近づけたくない距離と捉えた場合、同じ距離であってもそれは排他域とも呼ばれる。

 多分僕はこの排他域が人より大きいのだと思う。ついこの間まで僕の持っている排他域に踏み込んでくる人は誰もいなかったし、僕はそのことに満足していた。

 でも最近は僕の排他域に入り込んでくる人が増えていた。いつの間にか抱きついたりベッドに潜り込んでくるようになった妹の明日香。僕の腕にしがみついて身を寄せてくれる奈緒

 奈緒は僕の恋人だからそれは密接距離だ。奈緒に対して愛撫・・・・・・はともかく慰めや保護欲は感じているし、彼女と密着していることは素直に嬉しい。

 明日香について言えば今までは妹の接近は居心地がいいとは言えなかった。僕はいつも明日香のことを警戒していたのだ。

 でも、今朝明日香が僕の隣に寝ていることを知っても、僕は別に居心地の悪い思いをしなかった。むしろ昨晩の楽しいひと時が終って寂しそうな妹を慰めたいとまで思ったくらいに。もちろん思っただけで口に出したりはしなかったけど。

 妹との距離も確実に縮まっているのだろう。別にそれは悪いことではない。まあ明日香が僕を好きだと言った言葉があまり重いものだとそれは問題ではあるけれど。

 その距離の中に突然踏み込んできた有希は、別に居心地が悪るそうな様子はなかった。

「そうですよ。奈緒人さん、それ奈緒ちゃんから聞いたの?」

 僕は有希に受賞者の一覧が掲載されたプリントを渡した。

「ああこれで見たのね。あたしいつも奈緒ちゃんより下なの。でも奈緒ちゃんは特別に上手だから」

 そのことをあまり気にしている様子もなく有希は笑った。

「本当に奈緒ちゃんと仲がいいんだね」

「うん。でも明日香ちゃんと奈緒人さんだって仲がいいじゃない。何度も言うけどうらやましいなあ」

 有希はいつの間にか敬語を使わなくなっていた。どうも人見知りしない子らしい。

 そして明るい笑顔と一緒にそういう言葉が出ているせいか、僕は年下の女の子にタメ口で話されても少しも不快感を感じなかった。

 明日香も同じことを考えているようだった。

「ちゃんはやめて。明日香でいいよ」

「そう? じゃあ明日香も有希って呼んでね」

 明日香は何かを期待しているかのように僕の方を見たけど、そういうわけにはいかない。少なくとも今はまだ。

 そのうち僕が奈緒を呼び捨てできるようになり、奈緒もそうしてくれるようになるといいのだけど、そうなる前に奈緒の親友とお互いを呼び捨てしあうような仲になるのはまずい。

 有希の件では地雷を踏んだばかりだし、こうして会っていることすら本当は心配なくらいなのだ。

「ピアノといえばさ」

 僕は明日香の視線から目を逸らした。

「『クラシック音楽之友』っていう音楽の専門誌を知ってる?」

「もちろん知ってますよ」

「先月号は読んだ?」

「あれって千五百円もするんだもん。高いから滅多に買わないの」

「そう」

 僕は自分のバッグからクラッシク音楽之友を取り出した。今朝、不用意にもソファの上にぽつんと置き去りにされていたのだ。

 父さんの書いたという記事をゆっくりと見たいと思った僕は、家を出がけに自分のバッグに入れてきていた。目次からコンテストの批評記事を探しあててそのページを開いた僕は、ざっとその内容に目を通してから開いたままのページを有希に見せた。

 

『鈴木奈緒の演奏は正確でミスタッチのない演奏だった。きわめて正確に作曲家の意図に忠実に演奏するテクニックは、非常に完成度が高い。ただ、同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコンクールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いないが、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人とも富士峰女学院の同級生だそうだ』

 

「専門の雑誌で誉めてもらえるなんて嬉しいけど」

 有希が記事に目を通してから言った。

「でもちょっと誉めすぎだよ。先生とかに将来を有望視されているのは奈緒ちゃんの方だもん」

「何の話してるのよ」

 話について来れない明日香が不思議そうに聞いた。

「父さんの記事が有希さんを誉めてるんだよ」

「パパの記事?」

「え? お父さんの記事?」

 二人が同時に驚いたように声を出した。

「うちの父親ってその雑誌の編集長してるんだ。その記事を書いたのも父親だよ」

「え~。それ早く言ってよ。あたし記事に文句つけちゃったじゃない」

 有希が恨めしそうに僕を見た。

奈緒人さんの意地悪」

「なになに、パパってその雑誌を作ってるの?」

「・・・・・・父親の職業くらい覚えておけよ」

 ピアノなんかに興味がないのか、明日香の感想は的外れなものだった。

「気にしなくていいよ。これ有希さんにあげるよ」

 後で考えたらその雑誌は玲子叔母さんの忘れ物だったのだけど。

「いいの?」

「うん。一応有希さんが良く書かれている記事だから記念にして。あ、でも奈緒ちゃんには・・・・・・」

「わかってる。見せないから安心して」

 有希は雑誌を抱きかかえるようにしてにっこりとした。

奈緒人さん、ありがとう。大事にするね」

 有希とは一緒に食事をして一時間ほどしてから別れた。明日香と有希は仲良くピザを半分こした挙句、有希が最初に注文していたケーキまで二人でシェアしていた。その様子は僕から見ても微笑ましかった。

 それに何より明日香が派手で高校生離れした女の子とではなく、有希のような子と仲良くしていることが僕には嬉しかった。

 それでも知り合ってから間がないらしい明日香と有希のおしゃべりに、僕が付き合わされた理由は最後までわからなかった。

「お兄ちゃん買物に行くよ」

 ぺこっと一礼して帰って行く有希の後姿をじっと眺めていた僕に明日香が声をかけた。

「何ぼけっと有希のこと見つめてるの? もしかして有希に惚れちゃった?」

「いや・・・・・・そんなことないけど」

「なに真面目に返事してんのよ。冗談だって」

 明日香が笑った。

「じゃあスーパーに行こう。今夜は何食べたい?」

 もちろんそんなことを妹から聞かれたことは初めてだった。

 

『さっきは本当にごめんなさい。そしてわたしのわがままを許してくれてありがとう。奈緒人さんに冬休みは一緒デートしようって言われたときは嬉しかった。それだけは本当です。でもわたしには自由な時間はないの。学校のないこの時期にすることは随分前から先生に決められていました。そもそも練習曲の進度が他のライバルの子とくらべてあまり進んでいないし、来年からは佐々木先生とは別な先生についてソルフェージュと聴音も勉強しなければいけないので、この休み中にある程度練習曲を進めておかなければならないのです』

『わたしもせっかくの休みは奈緒人さんと一緒に過ごしたかった。でもピアニストになる夢を捨てるのでなければやるべきことはやらなければいけません。これは誰に言われたわけでもなく自分から希望してしていることですから。さっき奈緒人さんは気にしなくていいよと言ってくれたけど、多分本心ではないと思います。わたしが奈緒人さんの立場だったらピアノとあたしとどっちを選ぶの? くらいのことは言っていたと思うから』

奈緒人さん大好きです。でもやっぱり冬休みは会えないと思います。本当にごめんなさい。あと、今までの土曜日のように毎日教室まで迎えに来てくれると言ってくれてありがとう。嫌われても仕方ないのに奈緒人さんはこんなことまで考えてくれたのですね。でもこれも無理です。ごめんなさい。休み中は夜の十時まで個人レッスンがあって、終る時間が遅いのでいつもママが車で迎えに来てくれるのです。一応、一人で帰るからお迎えはいらないとママに言ってみたらすごく怒られました。夜中に一人で電車に乗るなんて許さないそうです』

『だから奈緒とさんがわたしに提案してくれたことは全てお断りすることになってしまいました。嫌われても仕方ないですよね。それでも図々しいけど奈緒人さんに嫌われたくない。よかったらせめて毎日寝る前に電話かLINEでお話したいです。勝手なことばっか言ってごめんね。今日はまたこれから二時間くらい練習です。本当にごめんなさい』

 

 もう何度読んだかわからないくらい読み返した奈緒のメッセージを、僕は再び読み返していた。

 本文中にいったい何回ごめんなさいと書いてあるのか思わず数えたくなるくらい、ひたすら僕に対して謝罪している内容だ。

 確かにがっかりしたのは事実だけど、そんなことくらいで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてありえないのに。いったい何で彼女はこんなに狼狽し不安をさらけ出しているようなメールをよこしたのだろう。

 お互いに年内最後の登校日だった朝、冬休の予定を聞いた僕に対して奈緒は俯きながら休み中は会えないのだと言った。その時は時間がなかった。もうすぐ僕の大学の最寄り駅に電車が到着するタイミングだったから。確かに奈緒に会えないと言われたとき、一瞬僕は奈緒に振られたのかと思ったけれど、駅に着く前の短い時間でピアノのレッスンの過密な予定を説明された。

 それで僕は、奈緒と別れる直前に、気にしなくていいよと言うことができたのだ。あとピアノ教室に迎えに行ってもいいかとも。

 それでも奈緒は僕の誘いを断ったことを気にしていたのだろう。

 今日は午前中で授業が終ったので、最後までサークル活動がある渋沢を残して、志村さんと二人で学校を出ようとした時、奈緒からLINEのメッセージが届いた。

 朝の会話でもだいたい事情はわかっていたので、奈緒に対して含むところなんか何もなかったのだけど、僕の誘いを断ったことに対して奈緒は随分気にしていたようだった。

 志村さんの好奇の視線を無視して、帰りの電車内で僕はそのメッセージに目を通した。

 そして再びそんなに気にしなくていいこと、こんなことで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてあり得ないという返事をした。

 でも彼女からは返事はなかった。多分、もうあの教室でピアノのレッスンに集中していたのかもしれない。奈緒のメールは僕をますます彼女のことを好きにさせるだけの効果しかなかった。

 普段の土曜日の午後のように、ピアノ教室に迎えに行くことさえ断られたのは、正直少しショックだったけど。

 こうして冬休の間僕は奈緒に会えないことになった。

 奈緒のピアノに対する情熱と、そのために費やさなければならない時間を思い知った僕は奈緒を恨むどころか、それだけの過密な日程をこなさなければならない彼女が、それでも僕に対して気を遣ってくれていることに心温まるような気持ちを抱いた。

 僕とピアノとどっちを選ぶのかなんていう感想を僕が抱くわけがない。むしろこれほどまで情熱を傾けているピアノの練習を邪魔しようとした僕に対して、ここまで奈緒が気にしてくれていることが嬉しかった。

 ただ事実としては、長い休み期間中、僕は奈緒と会えないということだった。自分の勝手な妄想の中では、二人でクリスマスにデートをしたり初詣に行ったりする予定だったのだけど、それは全て実現しないことになったのだ。

 孤独な休暇期間なんて今に始まったことではない。

 一人でも僕にはすることはある。新学期に備えて勉強をしておくと後が楽だし、コンプしていないストラテジーゲームもパソコンの中に放置してある。

 要するにいつもと同じ冬休を過ごせばいいのだ。寂しいけど奈緒には寝る前にLINEをするようにしよう。

 でも、意外なことに僕の冬休は忙しいものとなった。明日香と有希が常に僕のそばにいるようになったのだ。

 

 冬休みの初日、僕は自分のベッドの中で、執拗に鳴らされ続けているチャイムの音を遠くに聞いていた。

 わけもわからず起き上がった僕は、それが自宅のドアのチャイムだと気がついた。宅配便だろうか。

 階下に降りてドアを開くと、女の子が立っていた。

「あ、やっと起きた」

 なんで彼女がいるのだろう。

「え? なになに。有希さん?」

「あ、はい」

 ドアの前に立っていた有希は、赤くなって僕から視線をそらした。

 まずい。古びてほころびだらけのTシャツとペラペラのショーパンしか身にまとっていない。

「有希さん、どうしたの」

 そこで僕は気がついた。

「ああ、明日香に会いに来たのか」

 有希は顔を赤くしたまま、ふるふると顔を振った。何かを必死で訴えようとしていたみたいだけど、結局何も言わずに僕にルーズリーフに何かを書きなぐったメモを渡してくれた。

 

『お兄ちゃんへ。明日は大晦日だからおせち料理を用意しなければいけません。でも今日はあたしは用事があるので買ってきて欲しい物をメモにしておくので、今日中に揃えておいてね。万一お兄ちゃんが夕方まで寝過ごすといけないので、有希にお兄ちゃんを起こしてくれるよう頼んでおいたから。あと、買物にも付き合ってくれるみたいだから、有希と一緒にメモに書いた物を買って来ておいてください。あたしは夕方には家に戻るからね。お兄ちゃんはあたしがいなくて寂しいかもしれないけど、いい子にしていてね』

『買っておいて欲しい物 おせち料理

 

 なんだこれは。

「明日香から奈緒人さんに渡してって頼まれたの。あとお昼ごろ家に行って奈緒人さんを起こしてって」

「うん、ありがと。目を覚ましたよ」

 僕は言った。ようやく意識がはっきりとしだすと、自宅の玄関にに明日香以外の女の子がいるという違和感が半端でなくすごい。

「明日香め。有希さんに無理言ったみたいだね。本当にごめん」

「ううん。どうせ暇だったから」

 有希が笑って言った。

 冬休に入ってから、明日香と有希が毎日のように会っている場所に、どういうわけか僕も同席させられていたのだけど、それは明日香に荷物持ちを強要されていたせいだった。

 有希も僕に対してはあくまでも親友の彼氏で、友だちの明日香の兄貴というスタンスで僕に接してくれていた。

 なので有希は、過度に馴れ馴れしい態度を僕に向けることはなかった。

「ちゃんと起きました?」

 有希が首をかしげるようにしながら僕を見上げて言った。

「うん。本当にごめん。明日香が無理なことお願いしちゃって」

「別にいいの。全然無理じゃないし」

 もともと誰とでも親しくなれる子だとは思っていたけど、今日の有希は何だかいつも以上に親し気だ。

 妹の友だちで奈緒の親友。僕にとっては有希はそれだけの存在なのに。僕が気にし過ぎているだけで、有希にとってはそれだけのことなのかもしれない。

 でも今、僕の家の前で部屋に僕と有希は二人きりだ。そのことを正直に奈緒に話せるかといったら、もちろんそんな勇気は僕になかった。

「あのさ」

「はい」

「じゃあ、買い物に付き合ってもらえるなら、すぐに着替えるから、上がってリビングで待っていてくれる?」

「あ、いえ。ここで待っています」

 うつむいてしまった有希を見て、僕はうろたえた。男一人しかいない家に富士峰の女子高校生が喜んで入るわけないじゃないか。

「そうだよね。なるべく早く支度するから」

「急がなくていいですよ」

 ようやく顔を上げた有希は、僕のうろたえた様子を見てくすりと笑った。

 

 その日は結局、明日香抜きで有希と二人で過ごすことになってしまった。

 明日香の指示は明確だった。あいつはもともとおせち料理なんて作る気はなかったのだ。

 要するに、出来合いのおせち料理を買っておけということだった。

 有希と僕は、明日香の指示にしたがってデパ地下とか名店街みたいなところを回ったのだけど、どの店に行っても予約なしではお売りできませんと断られた。

「まあ最初からわかっていたけど」

 有希が苦笑した。

「明日香って世間知らずだよね。おせち料理なんて予約なしで買えるわけないのに」

「そうなんだ」

 世間知らずという点では、僕も明日香と同類らしい。

「僕もこの時期なら普通に買えるもんだと思ってたよ」

「そんなわけないでしょ。高価な商品なんだから、売れ残りのクリスマスケーキみたいに売ってるわけないじゃん」

「有希さんさあ・・・・・・・知ってたなら最初からそう言ってくれればよかったのに」

 ここまで明日香の指示どおり出来合いのおせち料理を入手しようとして、僕たちは相当無駄な努力を強いられていたのだ。

「うん。最初から絶対無理だと思っていたんだけど、一応明日香に頼まれたんでさ」

「無理なら無理って、明日香に言ってくれればよかったのに」

「でもあたしにとっては無駄でもなかったから」

「どういうこと?」

「・・・・・・奈緒人さんといっぱいお店を回ったりできたでしょ? まるで二人でデートしてるみたいだったし嬉しかった」

 有希は何を言っているのだろう。明日香を通じて有希とも親しくなれた僕だったけど、有希に対して恋愛感情を抱いたことは一度もない。奈緒の親友である有希だって、僕が奈緒と相思相愛だということはよくわかっていたはずだ。

 何か今日の有希は様子がおかしい。どうおかしいかと言えば、僕のことが好きだと宣言した時の何か吹っ切れたようだった明日香とそっくりだ。

 僕は少し疲れたという有希を、いつもの駅前のファミレスに連れて行った。そこは明日香と有希がよく待ち合わせしている場所だったので、買物帰りに一休みする場所としては違和感はなかったのだけど、有希と二人でこの店に入るのは初めてだった。

「お昼食べてないからお腹空いちゃった」

 有希はそんな僕の感じている違和感なんか全く気が付いていないように言った。

 有希は平気なのだろうか。彼氏でもない男と二人きりで買物をして、ファミレスに入ることなど気にならないのだろうか。

「そういや起きてから何も食べてないね」

「中途半端な時間だけど食事しようか」

「うん」

「ピザ食べたいな。でもここのピザ大きくて食べきれないんだよね。いつもは明日香と二人で食べてるんだけど」

「うん」

「半分食べてもらってもいい?」

 ここまで有希をうちの大晦日の準備に付き合わせておいて、ここで断る理由はなかった。やがて注文したピザとかサラダが運ばれてきた。

「すいません。取り皿をください」

 有希は遠慮せずそう言った。彼女は自分が注文したサラダやピザを取り分けて僕の前の皿に入れてくれた。

「・・・・・・それ多すぎだよ。有希さんの分がほとんど無くなっちゃうじゃん」

奈緒人さんは男の人なんだからいっぱい食べてね」

 やっぱり今日の有希は何だか様子がおかしかった。

 有希にとって僕の彼女の奈緒や僕の妹の明日香とはどんな存在なのだろう。

 僕の勘違いでなければ、有希は僕に好意を抱いているとしか思えない。僕は決心した。明日香のことはともかく、奈緒のことを考えずに無自覚に有希と仲良くなるわけにはいかない。奈緒とは親友の有希にだってそのことは十分にわかっているはずだった。

「あのさあ」

「あの・・・・・・」

 僕と有希は同時に話し始めた。

「先にどうぞ」

 僕は有希に話を譲った。

「明日香の指示通りにおせち料理買えなかったわけだけど、どうするつもりなの?」

「どうするって・・・・・・予約なしでは買えないんだから仕方ないでしょ」

「いいの? 明日香に怒られますよ」

「両親が何か考えてくれるでしょ。それに叔母さんだって新年はうちに来てくれると思うし。大晦日は出前の蕎麦とかで過ごすよ」

「出前の蕎麦とかって・・・・・・それこそ予約した?」

「してないけど」

「じゃあ無理ね。奈緒人さんと明日香って本当に世間知らずなのね」

「そうかな」

「うん、そうだよ。わかった、あたしがおせちも年越し蕎麦も面倒みてあげる」

「いいよ、そんなの。カップ麺の天蕎麦だって全然大丈夫だし」

「あたしが嫌なの。そんなものを明日香と奈緒人さんに食べさせるのは」

 ここまでくると、いくら奈緒が明日香の友だちなのだとしてもいくらなんでも行き過ぎだ。

「そこまで君に迷惑かけられないし気にするなよ」

 そう言うと有希は目を伏せた。

奈緒人さん、もしかして迷惑?」

「そんなことないよ。でも有希さんだって忙しいのに」

「あたしは休み中は暇だから」

 僕は有希の返事にひどく違和感を感じた。

 有希はコンテストでは奈緒の後塵を拝したかもしれないけど、それでも都大会で二位に入賞するくらいの実力がある。そして、一位の奈緒があそこまで過酷な練習スケジュールを組んでいいる以上、有希だって状況はほとんど同じではないのか。

「有希さんだってピアノの練習とかで忙しいでしょ。音大を目指すなら休みなんかないらしいじゃん。君だってピアノで忙しいんじゃないの?」

 それを聞いた有希は驚いた様子だった。

「随分詳しいのね。奈緒に聞いたの?」

 有希が僕を見つめて言った。

「うん」

「そう」

 有希はもうおせち料理のことなどすっかり忘れたようだった。そして真面目な表情で言った。

奈緒人さんには納得できないかもしれないけど、彼女と付き合うってそういうことなんだよ」

「いや、それは理解しているつもり。納得できないなんてことはないよ。むしろ奈緒ちゃんって大変なんだなあって思っただけでさ」

「そう・・・・・・。大変だなあって思ったんだ」

「うん」

「それだけ?」

「それだけって・・・・・・どういう意味?」

 僕と奈緒は確かに付き合ってはいるけど、普通の恋人同士のように休暇の間に会うことすらできない。

 平日の方が登校時や土曜日に奈緒と会えるだけまだましだった。奈緒は学校のない休暇期間中はその全ての時間をピアノに専念すると自分で決めていたから。そして僕は奈緒のその決定を邪魔しようとは思わなかった。むしろ邪魔をしてはいけないとさえ決心したくらいだ。

 僕と付き合うことにより奈緒の夢の実現を阻害することになるのなら、僕は喜んで寂しい思いに耐えるつもりだった。それに奈緒は休み中僕に会えないことを、そこまで考えなくてもと思うほど悩んでくれていたのだ。僕にとってはそれだけでも十分だった。

奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」

 有希が顔を上げ僕を見た。

「好きだけど、でもそれそこどういう意味で聞いてるの?」

 有希が何を言いたいのかよくわからなかったのだ。明日香や僕のために、おせち料理や年越し蕎麦を何とかしてあげましょうかと言ってくれたさっきまでの柔らかな態度の有希とは、まるで別人のようだ。

「好きな子のことならさ、普通はもっと気になるんじゃないの?」

「え」

「休み中はピアノの練習が忙しいからって奈緒ちゃんに言われて、理解のある優しい彼氏として気にするなよって彼女に言ってあげてさ。そして優しい自分に自己満足してるってわけ?」

「そんなことはないよ」

「それで休みの日は明日香とか、あたしとかで適当に時間を潰してるのね」

 ・・・・・・いくらなんでもこれはひどい。僕だって奈緒に会いたい気持ちはあるのにそれを我慢しているのだ。でも有希の話はまだ終らなかった。

「何で奈緒ちゃんがそこまでピアノにこだわるか、奈緒ちゃんにとって奈緒人さんと一緒にいるのと、志望している音大を目指して彼氏とのデートを犠牲にして頑張るのと、どっちが幸せかとか考えないの?」

「だって奈緒ちゃんが自分で決めたことだろ? 僕はそれを応援したいと・・・・・・」

「・・・・・・奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」

 彼女は繰り返した。

「何でそんなこと君に言われなきゃいけないの」

 僕は我慢できずについにそう言ってしまった。でも有希は精一杯の僕の抗議をあっさりスルーした。

「じゃあさ。奈緒人さんは奈緒ちゃんのどういうところが好きになったの?」

 いつのまにか、僕の奈緒に対する愛情を疑われているような話の流れになってしまっている。

 奈緒のピアニスト志望への僕の理解が何でこんな話に繋がるのか、それが何でそんなに有希を興奮させたのかよくわからない。

 一見冷静に話しているようだけど、この時の有希は感情に任せて話しているようにしか見えなかった。

「どういうところって・・・・・・」

 今まで何度も考えたことではあったけど、改めて僕は考えた。

 本当に正直に言えば、大人しそうな美少女である奈緒の外見のせいも大きい。でもそれだけじゃない。

 彼女といるとすごく話がしやすい。何よりもこんなどうしようもない僕なんかを好きになってくれて告白してくれて、こんな僕なんかに嫉妬したり気を遣ってくれたりする。そういう奈緒が好きなのだ。

 僕はそれをたどたどしい口調で有希にわかってもらおうとした。こんな恥かしいことを口にしたのは、あの朝奈緒の告白に返事をして以来だった。

「・・・・・・奈緒人さんって、自分に都合のいい行動をしてくれるアニメとかゲームの中の女の子に夢中になっている男の子みたいね」

 これだけ恥かしい思いをしながら、ようやく有希の質問に答えた僕を待っていたのは、嘲笑にも似た言葉だった。

「本当に生身の奈緒ちゃんに恋してるの? じゃあさ。奈緒ちゃんが奈緒人さんのどういうところが好きになったか考えたことある?」

 それは厳しい質問だった。奈緒に告白されてから、僕はそのことをいつも考えていたような気がする。そしてその答えに回答を見出すことはできなかった。

 これで何度目になるのか覚えていないほど、悩んで考えた疑問に対する答えは結局見つからなかったのだ。

「それは自分ではよくわからないよ」

 きっと僕は情けない声を出していたと思う。奈緒のような子が、なぜ一度だけ雨の日に傘に入れてあげたくらいで、僕なんかを好きになってくれたのか。

 それは多分このまま奈緒と付き合えたとしても謎のままなのかもしれない。考えてみれば奈緒の僕に対する愛情は、彼女の態度からは疑う余地がなかった。それは自分に自信がない僕でさえ、奈緒の日頃の態度から納得できていたことだった。

 でも僕は、奈緒が僕のどんなところを好きになってくれたのかなんて、彼女に改まって聞いたことがないこともまた事実だった。 

 僕の混乱した情けない表情を見た有希は我に帰ったようだった。

「あ、ごめん。何かあたし奈緒人さんにひどいこと言ってる」

「ひどいとまでは思わないけど、正直結構きつかった」

「本当にごめん。あたし、これまでも奈緒ちゃんのこと好きになった男の子のこと今までよく見てきたから」

「うん」

「だいたいは奈緒ちゃんの方がその気にならないんだけどね」

 だいたいはと言うことは、奈緒の方も気になった男がいたことがあるのだろうか。でもそのことを口に出す前に有希が話を続けた。

「心配しなくていいよ。すごく不思議だけど、奈緒ちゃんがここまで入れ込んだ男の子って、奈緒人さんが初めてだと思うよ」

「別に心配とかしてないけど」

 有希の言葉は僕を傷つけもし、また安堵させもした。僕は年下の有希の言葉に一喜一憂するようになってしまったようだ

奈緒ちゃんはあのとおり見た目は可愛いし性格もいいし、彼女に惚れる男の子はいっぱいいたんだけど、奈緒ちゃんがちゃんと付き合った相手は奈緒人さんが最初だしね」

「うん。男と付き合うのは初めてだって奈緒ちゃんも言ってたよ」

「あたしさ。奈緒ちゃんとは小学校の頃からの友だちでね。あたしにとっては唯一の親友なの。だからさっきは奈緒人さんには言い過ぎたかもしれないけど」

「別にいいけど」

「だから奈緒人さんには、簡単に奈緒ちゃんの話しに納得してほしくないの。もう少し深くあの子のこと考えてあげて」

 正直、有希が何を言っているのか理解できたわけではなかったけど、僕は有希が奈緒を大切にしている気持ちは理解できた。

 それで有希に対して憤る気持ちはおさまってはいけれど、それでもこれ以上僕と奈緒との付き合いの意味を有希と話し合う気はなかった。それは僕と奈緒が二人で話し合うべきことだったから。

「話は変わるけどさ。有希さんだって奈緒と同じくらいピアノ関係で忙しいんじゃないの? 明日香と僕を気にしてくれるのは嬉しいけど、こんな無駄な買物に付き合ってくれる暇なんか本当はないんでしょ」

 僕は無理に話を逸らした。

「・・・・・・あたしは奈緒ちゃんとは違うよ」

 有希が言った。

「別に父さんが書いた記事だからってこだわる気はないけどさ。有希さんだって単なる趣味でピアノやってるわけじゃないんでしょ。都大会で二位入賞とか、感情表現では奈緒ちゃんより将来期待できるとまで言われてるんだし」

「あたしは別に・・・・・・ピアニストになろうなんて思っていないもの」

「じゃあ君は天才なんだ。奈緒ちゃんなんか問題にならないくらい」

 この時の僕は大人気なかったかもしれない。さっきから明るく清純で人懐こい女の子と思い込んでいた有希から厳しいことを言われていた僕は、こんなつまらないことで憂さ晴らしをする気になっていたのだった。

「君は天才なんでしょ。奈緒ちゃんみたいに必死に練習しなくても、僕と明日香なんかの相手をしていても本番では成績がいいみたいだしね」

「あたしのこと馬鹿にしてるの」

「馬鹿にしてるのは君の方だろ」

 僕も思わずとげとげしい口調で言い返した。こんなことは初めてだった。ひどい嫌がらせを明日香にされていた頃も、両親から出生の秘密を明かされた時でさえ、少なくとも誰かの前では冷静さを失ったことはなかったのに。

 何で僕は有希の言葉にだけこんなに素直に反応してしまったのだろう。今まで溜め込んでいたいろいろなことが、有希の言葉に触発されて一気に迸り出てしまったみたいだった。

奈緒人さんのこと、馬鹿になんてしてなんていないよ」

 さっきまでの勢いはもうなかった。有希は途切れ途切れにようやく言葉を口からひねり出しているみたいだ。

「じゃあ何で」

「あたしね」

 有希は少し寂しそうに笑った。

「明日香にばれちゃった」

「・・・・・・うん」

「だけど何で明日香にはわかっちゃったのかなあ」

「何がばれたの?」

「好きだから」

「え」

「あたし奈緒人さんのこと好きだから」

 有希は僕を見てはっきりとした口調でそう言った。

奈緒人と奈緒 第1部第6話

その晩僕が帰宅すると、珍しく玲子叔母さんがリビングのソファに座って、妹とお喋りしていた。

「叔母さん、お久しぶりです」

 どうしてこの時間に叔母さんがいるのかわからなかったけど、僕はとりえず叔母さんにあいさつした。叔母さんは今の母さんの妹だ。

「よ、奈緒人君。元気だった?」

 叔母さんはいつものように陽気に声をかけてくれた。

 僕はこの叔母さんが大好きだった。本当の叔母と甥の関係ではなかったことを知ってからも、その好意は変わらなかった。

 この人は、僕は自分の本当の甥ではないと昔から知っていたにも関らず、いつも僕の味方をしてくれた。

「元気ですよ。叔母さん、久しぶりですね」

「元気そうでよかった」

 叔母さんはそう言って笑った。でも叔母さんは少し疲れてもいるようだった。

「相変わらず忙しいんですか? 何か疲れてるみたい」

「まあね。ちょうど年末進行の時期でさ。今日なんかよく定時に帰れたと思うよ」

 仕事が仕事だから、叔母さんはいつもせわしない。

「今日は突然この近くの予定が無くなっちゃったんだって」

 叔母さんの隣に座っていた明日香が口を挟んだ。

 僕はさりげなく妹を観察した。やはり自分で宣言したとおり、真面目で清楚な女の子路線を守っているらしい。僕がここまで本気で奈緒に惚れていなければ、結構真面目に明日香に恋してしまっていたかもしれない。それくらいに僕好みの女の子が、その場に座って僕に笑いかけていた。

「何・・・・・・?」

 僕の呆けたような視線に照れたように、妹が顔を赤くして言った。なぜか叔母さんが笑い出した。

「笑わないでよ」

 明日香は僕の方を見ずに、顔を赤くしたまま叔母さんに文句を言った。

「ごめんごめん。あたしもまだまだ若い子の気持ちがわかるんだと思ってさ」

「叔母さん!」

 なぜか狼狽したように妹が大声をあげた。

「悪い」

 叔母さんが笑いを引っ込めた。

「父さんと母さんは今日は帰ってくるの」

 僕は何だかまだ少し慌てている様子の明日香に聞いた。

「今夜は帰れないって」

「そうか。せっかく叔母さんが来てくれたのにね」

「いいって。あたしは久しぶりに奈緒人君の顔を見に来ただけだからさ」

 叔母さんはそう言って笑った。

「でもどうしようか。あたしもさっき帰ったばかりで夕食の支度とか何にもしてないんだ」

 明日香が少しだけ困ったように言った。

 こいつが突然いい妹になる路線を宣言してから数日たっていたけど、やはり妹のこの手の発言には違和感を感じた。

 そもそも両親不在の夜に、明日香が食事の支度をすることなんて、もう何年もなかったのだし。

「叔母さんも夕食はまだなの?」

 明日香が聞いた。

「うん。ここに来れば何か食わせてもらえるかと思ってさ。まさか姉さんがいないとは思わなかったから当てがはずれちゃったよ」

「そんなこと言ったって電話とかで確認しない叔母さんが悪いよ。だいたい叔母さんほどじゃないかもしれないけど、毎年年末はほとんど家にいないよ。ママもパパも」

 明日香の言ったことは本当のことだった。

 父さんと母さんは、お互いに違う会社に勤めているけど業種は一緒だった。

 そしてあるとき、業界のパーティーで出会ったことが二人の馴れ初めだったということも、昨年のあの告白の際に聞かされていた。

「何で年末にそんな忙しいんだろうな。音楽雑誌の編集部なんて暇そうだけどな」

 叔母さんがのんびりとした声で言った。

「こう言っちゃ悪いけど、あたしのいる編集部みたいにメジャーな雑誌を製作しているわけじゃないしさ」

「まあ、業界なりの事情があるんじゃないの」

 明日香が訳知り顔で言った。

「それより叔母さん、夕食まだならどっかに連れて行ってよ。あたしおなか空いちゃった」

 明日香は昔から玲子叔母さんと仲が良く、お互いに遠慮せずに何でも言える仲なのだ。

 僕もあの夜の両親の告白までは、明日香同様、あまり叔母さんに遠慮しなかった気がする。叔母さんには、そういった遠慮を感じずに接することができるような大らかな雰囲気が備わっていたからだ。

 でも、実の叔母と甥の仲じゃないことを知った日以降、僕は叔母さんには心から感謝してはいたけど、前のように無遠慮に何でも話すことはできなくなってしまっていた。

「未成年のあんたたちを勝手に夜の街中に連れ出したら、あたしが姉さんに叱られるわ」

叔母さんがにべもなく言った。

「え~。黙ってればわからないじゃん」

 明日香が不平を言った。

「そうもいかないの。じゃあ、出前で寿司でも取るか。ご馳走してやるから」

「じゃあお寿司よりピザ取ろうよ。あとフライドチキンも」

 寿司と聞いて嫌な顔をした明日香が提案した。こいつの味覚はお子様なのだ。

「ピザねえ・・・・・・奈緒人君は寿司とピザ、どっちがいい?」

 どっちかと言えばもちろん寿司だった。

 さっきカラオケでピザとフライドチキンを食べたばかりだし。最初渋沢のリクエストをあさっりと却下した志村さんだったけど、実際に注文した食べ物が運ばれてくると、ピザとチキンバスケットもその中にちゃんとオーダーされていた。

 渋沢に厳しい様子の志村さんも結構気を遣ってあげてるんだと、僕はその様子をうかがって妙に納得したのだった。

 それはともかく、決してピザもチキンも嫌いではないけど、昼夜連続となると正直あまり食欲が沸かない。でもそれは僕だけの事情だから、ここでわがままをいう訳にもいかない。

「どっちでもいいですよ」

 僕がそう言うと、叔母さんは少しだけ僕の顔を眺めてから微笑んだ。

「相変わらずだね、君は。もう少しわがままに自己主張した方が結城さんも姉さんも喜ぶんじゃないの」

 時々この人はこっちがドキッとするようなことを真顔で言い出す。僕はどう反応していいのか戸惑った。

 こんなことはたいしたことではない。わがままな明日香に譲歩するなんていつものことだったし、両親不在の夕食は、今まではカップ麺とかで凌ぐのがデフォルトになっていたのだ。

「明日香さあ、あんたのお兄ちゃんはお寿司の方が食べたいって。どうする? あんたが決めていいよ」

 何を訳のわからないことを。僕はその時そう思った。

 当然、ピザがいいと騒ぎ出すだろうと思った僕は、明日香が少し考え込んでいる様子を見て戸惑った。

「お兄ちゃんってお寿司が好きなんだっけ」

 明日香の意外な反応に、僕は固まってしまいすぐには返事ができなかった。

「いや。別にピザでも」

「じゃあお寿司でいいや。特上にしてくれるよね、叔母さん」

「あいよ。あんたが電話しな。好きなもの頼んでいいから」

 叔母さんは明日香に言いながら、僕に向かってウィンクした。

 三十分くらいたってチャイムの音がした。

「やっと来た。叔母さんお金」

「ほれ。これで払っておいて」

「うん」

 明日香が玄関の方に向って行った。

「さて」

 叔母さんが僕に言った。

「・・・・・・どうしたんですか」

 僕の言葉を聞いて、叔母さんの表情が少し曇った。

「あのさあ。奈緒人君、何で去年くらいから突然あたしに敬語使うようになった?」

「ああ。そのことですか」

「ですかじゃない。君も昔は明日香と同じで遠慮なんかしないで、あたしに言いたい放題言いってくれてたじゃんか」

「・・・・・・ごめんなさい」

「あんた。あたしに喧嘩売ってる?」

「違いますよ」

「じゃあ何でよ。あんたがあたしに敬語を使うようになったのって、結城さんと姉さんからあの話を聞いたからでしょ」

「まあ、そうですね」

「水臭いじゃん。それにあんた姉さんには敬語で話してる訳じゃないんでしょ」

 僕は黙ってしまった。

「明日香にだって、普通におまえとかって呼べてるじゃん。何であたしにだけ敬語使うようになったの?」

 叔母さんは別に僕を責めている口調ではなかった。むしろ少し寂しそうな表情だった。

 余計なことを言わずに謝ってしまえばいい。最初僕はそう思ったけど、そうして流してしまうには、叔母さんの口調や表情はいつもと違って真面目なものだった。だから僕は思い切って言った。

「叔母さんって、僕が去年真相を知らされる前から僕のことは、奈緒人君って呼んでたでしょ。妹には明日香って呼び捨てなのに。何で妹と僕とで呼び方を分けるんだろうって昔は不思議に思ってたんです。でも、あの日両親から聞いてその理由がようやくわかりました」

 叔母さんは少し驚いた様子だった。多分無意識のうちに僕と明日香を呼び分けてしまっていたのだろう。

 この人は僕の父さんと僕が今の母さんや叔母さんとは他人だった時から、僕たちのことを知っていたのだろう。そして両親の再婚前から僕のことは君付けだったのだろう。

「そういやそうだったね」

 叔母さんが珍しく俯いていた。

「あたしとしたことが、無意識にやらかしてたか」

「よしわかった。あたしが悪かった。これからは奈緒人って呼び捨てにするから、あんたも敬語よせ」

 ・・・・・・何でだろう。僕はその時目に涙を浮べていた。

 きっと幸せなのだろう。

 去年の両親の告白以来初めて感じたこの感覚は、そう名付ける以外思いつかない。相変わらず家には不在気味だけど、以前と変わらない様子で僕を愛してくれている両親。

 その好きという言葉がどれだけ重いものなのかはまだわからないけど、これからは僕のいい妹になると宣言しそれを実行している明日香。

 僕に向かって敬語をよせと真面目に叱ってくれる玲子叔母さん。

 そして、何よりこんな僕に初めてできた理想的な恋人である奈緒

「叔母さんありがとう」

 僕は涙を気がつかれないように、さりげなく払いながら叔母さんに言った。

「ようやく敬語止めたか」

 叔母さんは笑ったけど、どういうわけか叔母さんの手もさりげなく目のあたりを拭いているようだった。

「明日香遅いな。たかが寿司受け取るくらいで何やってるんだろ」

「さあ」

「よし、奈緒人。おまえ玄関まで偵察して来な」

 さっそく叔母さんに呼び捨てされたけど、僕にはそれが嬉しかった。

「じゃあ、見てくるよ」

 そう言って僕がソファから立ち上がろうとしたとき、明日香が手ぶらで戻って来た。

「お寿司屋さんじゃなかったよ」

 ぶつぶつ言いながら戻って来た明日香に続いて父さんがリビングに入って来た。

「あら結城さん。お帰りなさい」

「何だ、玲子ちゃん来てたのか」

 父さんはそう言ってブリーフケースを椅子に置いた。

「久しぶりだね。でもよくこの時期に会社を離れられたね」

 父さんは叔母さんに笑いかけた。

「うちみたいな専門誌だって、この時期は年末進行なのに」

「たまたまだよ。たまたま。それよか結城さんご飯食べた?」

 何だか叔母さんがうきうきとした様子で言った。

「まだだけど」

「じゃあ、特上の寿司の出前も頼んだことだし今夜は宴会だ。鬼の・・・・・・じゃなかった、姉さんのいない間に息抜きしましょ」

「やった。宴会だ」

 明日香が楽しそうに言った。僕はそんな妹の無邪気で嬉しそうな顔をしばらくぶりに見た気がした。

「ほら、結城さん。とっととシャワー浴びたらお酒用意してよ。さすがに勝手に酒をあさるのは悪いと思って今まで我慢してたんだから」

 父さんが苦笑した。でも僕にはすぐわかった。仕事帰りで疲れた顔はしているけど、父さんの表情は機嫌がいい時のものだ。

「じゃあ久しぶりに子どもたちにも会えたし宴会するか」

「あたしに会うのだって久しぶりじゃない」

 叔母さんが笑って父さんに言った。

 父さんがシャワーを浴びている間に寿司屋が出前を届けに来た。

 明日香が珍しくつまみを用意すると言い張ってキッチンに閉じこもってしまっていたので、僕が寿司桶を受け取りに行った。

奈緒人、あんたが受け取っておいで」

 もうすっかり呼び捨てに慣れたらしい叔母さんからお金を受け取った僕は、玄関でいつものお寿司屋さんから寿司桶を受け取ってびっくりした。

 これっていったい何人前なんだ。

 明日香は叔母さんに対しては好きなだけ甘えられるのだろう。

 叔母さんから預かった二万円を出して小銭のお釣りを受け取った僕はそう思ったけど、今では僕もその仲間なのだ。

 僕はリビングのテーブルの上に寿司を置いた。

「お~。相変わらず人の奢りだと明日香は遠慮しないな」

「父さんが帰ってこなければ絶対余ってたよね、これ」

「うん。ちょうどよかったじゃん。たまには明日香もいいことをするな」

 明日香がサラミとかチーズとかクラッカーとかを乗せた大きな皿をキッチンから運んできた。こういう甲斐甲斐しい妹を見るのは初めてだったけど、それよりも明日香が運んできたオードブルらしきものは母さんがよく用意していたものと同じだった。

 母さんの真似をしているだけといえばそれだけのことだけど、高校生のくせにどうしようもないビッチだと思っていた妹を、僕は少し見直した。意外とこいつって家庭的だったんだ。

「お兄ちゃん、何見てるのよ」

 明日香が不思議そうに聞いた。

「あんたのこと見直してるんでしょ。意外と僕の妹って家庭的だったんだなあって」

「叔母さん・・・・・・」

「よしてよ。気持悪いから」

 明日香は赤くなって、でも僕の方は見ずに叔母さんに向かって文句を言った。それは決して機嫌の悪そうな口調ではなかった。

「さっぱりしたよ。お、豪華な寿司だな。つまみまでちゃんとあるし」

 父さんがシャワーから出て着替えてリビングに入ってきた。

「そのオードブル、明日香が作ったんだって」

 叔母さんがからかうように言った。

「パパ、どう? ママが作ったみたいでしょ」

 そう言えば明日香は、昔から実の親である母さんより父さんの方が好きみたいだった。

 さっき感じた幸福感はまだ僕の中に留まっていた。

 母さんがいないのは残念だけどこれは久しぶりの家族団らんだった。今度会った時に奈緒にもこの話をしよう。

「それ結城さんに作ってあげたの? それとも奈緒人に?」

 叔母さんがからかった。

「うるさいなあ。酔っ払いの叔母さん用に作ったんだよ」

「よくできてるよ。ありがとう明日香」

「どういたしましてパパ・・・・・・お兄ちゃん?」

奈緒人」

 父さんが僕の方を見て笑った。

「うん。うまそう」

 とりあえず僕は当たり障りなく誉めた。

 明日香はまた赤くなった。そんな明日香を見て父さんと叔母さんが笑った。

 リビングの片方のソファには父さんと叔母さんが並んで座っていて、叔母さんは楽しそうに僕をからかっている。

 僕と並んで座っている明日香は、さっきから何か考えごとをしているようだった。

「しかし明日香が料理をねえ。あたしも人のことは言えないけど、明日香の料理じゃおままごとしているみたいなもだよなあ。正直に言ってごらん奈緒人。美味しくないでしょ?」

 結構きついことをおばさんが言ったけど、こればかりは明日香と叔母さんの関係を知らないと理解できないかもしれない。

 二人の仲のよさはこの程度の悪口で破綻するような関係じゃない。両親が再婚して僕と明日香には血縁がないのだと聞かされたとき、母さんから聞いたことがある。

 前の夫を交通事故で亡くした後、そのショックで抜け殻のようになってしまった母さんに代わって明日香の面倒を一手に引き受けたのは、当時まだ音大生だった玲子叔母さんだったと。

 明日香にとっては、叔母さんは母さん以上に母親なのだ。

「明日香のご飯って僕は好きだよ。残さず食べてるし。な、明日香」

「ごめん。お兄ちゃん今何って言ったの」

 明日香が物思いから冷めたように聞いた。

「いや。叔母さんがさ。最近よく作ってくれるおまえの料理なんて美味しくないでしょって言うからさ。僕は全部食べてるよなっておまえに聞いただけ」

「無理してるんだろ奈緒人。いいから正直に明日香の料理の感想を言ってごらん・・・・・・あ、結城さんありがと」

 玲子叔母さんが言った。後半は自分のグラスにお酒を注いだ父さんへのお礼だった。

「いや玲子ちゃん。明日香はやればできる子だからね。このつまみだってママと同じくらい上手にできてるよ」

 父さんが明日香に微笑んだ。

「上手にできてるって、それ出来合いのチーズとかサラミとか盛り合わせただけじゃん」

 叔母さんが言った。どうも酔ってきているらしい。でも叔母さんの皮肉っぽい言葉には、明日香への悪意なんて少しもないことを僕はよく知っていた。

「いや盛り付けだって才能だしな。な、奈緒人」

「うん。最近明日香が作ってくれる夕食は美味しいよ。少なくともカップ麺とかコンビニ弁当よりは全然いいよ」

「またまた、奈緒人は昔から如才ないよな。あんたいい社会人になれるよ。あはは」

 叔母さんは豪快に笑って空いたグラスを父さんに突き出した。

「パパ?」

 明日香が父さんにに話しかけた。

「うん? どうした明日香」

「パパとママって今度はいつ帰ってくるの」

 父さんの表情が少し曇った。そして申し訳なさそうに言った。

「大晦日の夜まではパパもママも帰れないと思う。今日だってよく帰れたなって感じだしね」

「うん。じゃあ夕食の支度頑張らないと」

「・・・・・・本当にどうしちゃったの? 明日香。最近気まぐれで奈緒人に飯を作ってたのは知ってたけどさ。これからずっと姉さんの代役をするつもり?」

 叔母さんが嫌がらせのように言った。

「気まぐれじゃないもん。もうちょっとで学校休みだし、それくらいはね」

「明日香は偉いな」

 父さんが微笑んだ。

「じゃあ明日は食材とか買い込んでおかないとね」

 明日香が父さんの言葉に顔を赤くしながら言った。

「ママからお金貰ってるか」

「うん。お金は大丈夫だけど、いっぱい買い込むからあたし一人で持てるかなあ」

「どんだけ買うつもりだよ」

 叔母さんが明日香をからかった。

「そうだ。叔母さん一緒に買物に行ってよ。明日は日曜日じゃん」

「アホ。あたしは明日から会社に泊まりこみで校正地獄だわ」

「どうしようかなあ」

 明日香は呟いた。

「明日は予定ないし荷物持ちくらいなら僕でもできるかも」

 そう口に出したとき、僕は明日香にキモイとか罵倒されることを覚悟していた。

「じゃあ手伝ってよ。お兄ちゃんだって食べるんだから」

 でも、明日香はあっさりとそう言っただけだった。

 明日香と僕の会話を聞いていた父さんとと玲子叔母さんは、どういうわけか目を合わせて微笑みあった。

 

 その夜の騒ぎは日付を越えるまで続いた。母さんがいたら間違いなく十時過ぎには子どもたちは退場を言い渡されていたと思うけど、この夜は父さんも叔母さんも心底楽しそうにしていて、僕と明日香を早く寝かせようとは考えつかなかったみたいだった。

 そのことをいいことに、僕も明日香もこの場に居座って父さんと玲子叔母さんの会話を聞いたり、時折話に混じったりしていた。

 僕にとっては本当に久しぶりに貴重な時間だった。そして僕の隣に座っていた明日香も、以前のようにひねれることなく父さんや叔母さんに素直に笑いかけていた。

 多分この場に母さんがいなかったせいだろう。明日香は父さんや叔母さんに対しては、いつもというわけではないけど、だいたいは素直に振る舞っていたのだから。

 それより僕を驚かせそして本当にくつろがせてくれたのは、明日香が僕の話に噛み付いたりせず普通に反応してくれたことだった。

 最近の明日香は本人が宣言したとおりいい妹になろうとしてくれていたみたいだけど、僕はその態度を心底から信用したわけではなかった。いい妹になるとか僕が好きだという明日香の宣言は二重三重の罠かもしれない。僕は戸惑いながらも密かに警戒していたのだった。

 でもこの夜の団欒の席の明日香の楽しそうな態度は、すごく自然でリラックスしていたものだった。

 父さんや叔母さんに対してだけではなく、僕に対しても普通に楽しそうに笑って受け答えしてくれている。僕はいつのまにか明日香に対する警戒を忘れ、僕たちは仲のいい兄妹の会話ができていたみたいだった。

 僕と明日香が穏やかな会話を交わすたびに、父さんと叔母さんは嬉しそうに目を合わせて微笑みあっていた。

 心穏やかな時間はまだ続いていたのだけど、僕にとっては今日はいろいろ忙しく疲れた一日だった。

 奈緒を迎えに行きはじめて彼女と心がすれ違ったり、仲直りしたり。

 叔母さんともまた昔のように仲良くなったり。楽しかったけどいろいろ疲れてもいたのだろう。僕は父さんたちの会話を聞きながら、うっかりうとうとしてしまったようだった。

 一瞬、うたたねした自分の体が、揺れて倒れかかったことに気がついて、僕は目を覚まして体を起こそうとした。

「いいよ。そのままで」

 明日香の湿ったような、でも優しい声が僕の耳元で響いた。

「お兄ちゃん疲れたんでしょ。そのままあたしに寄りかかっていいから」

 僕は妹の肩に体重を預けながら寝てしまっていたみたいだった。体を起こそうとした僕の肩を手で押さえながら明日香が続けた。

「このまま少し休んでなよ」

 僕はその時何とか起きようとはしたけれど、結局、疲労と眠気には勝てずにそのまま目を閉じた。

 しばらくして僕は目を覚ました。

 寝ている間中、夢の中で柔らかな会話が音楽のように意識の底に響いていたようだった。僕は体を動かさないようにして、何とか視線だけを明日香の方に向けた。

 明日香は軽い寝息をたてて目をつぶっている。僕と明日香はお互いに寄りかかりながら、ソファに腰かけたままで眠ってしまっていたのだった。

 そろそろ明日香を起こして自分も起きた方がいい。そして静かに会話を続けている父さんと叔母さんにお休みを言おう。

 そう思ったけど、明日香の柔らかい肩の感触が心地よく居心地がよかったため、僕は再び目を閉じて、しばらくの間半分寝ているような状態のままじっとしていた。

 そうしているとさっきまで心地よい音楽のようだった会話が、意味を持って意識の中に割り込んできた。僕は半分寝ながらもその会話に耳を傾けた。

「二人とも寝ちゃったか」

「起こして部屋に行かせた方がいいかな」

「よく寝てるしもう少しこのままにしてあげたら? 明日香と奈緒人のこんな仲のいい姿を見るなんて何年ぶりだろ」

「そうだな。最近二人の仲が昔のように戻ったみたいなんだ。玲子ちゃんのおかげかな」

「あたしは関係ないですよ。でもこうして見ると本当に仲のいい兄妹だよね」

「うん。最近、明日香は妙に素直なんだよな」

「明日香は昔から結城さんには素直だったじゃない。本当の父親のように結城さんに懐いているし」

「そんなこともないよ。それに最近母親にも素直だからあいつも喜んでる」

「姉さんはちょっと気にし過ぎなんだよね」

「それだけ気を遣ってるんだよ、子どもたちに」

「・・・・・・全く。結城さんは姉さんに甘過ぎだよ。それは一度はお互いに諦めた幼馴染同士で、奇跡的に結ばれたんだから、結城さんの気持ちはわかるけどさ」

「おい・・・・・・玲子ちゃん」

「大丈夫。二人ともよく寝てるみたいだから。よほど楽しかったんだろうね」

「子どもたちには悪いと思っているよ」

「最近どうなの? ナオちゃんとは会ってるの?」

「うん。マキも面会させるっていう約束は守ってくれているよ」

「大きくなったでしょ。マキさんと似ているならきっと可愛い子になってるんでしょうね」

「だから、子どもたちが」

「寝てるって。でもさ。真面目な話だけどさ、結城さん編集長なんだからもう少し部下に仕事任せて家に帰るようにしなよ。うちのキャップなんてあたしの半分も社にいないよ」

「うちもあいつの社も零細な出版社だからね。玲子ちゃんとこみたいな大手みたいにはいかないよ」

「勝手なこと言ってごめん。でも奈緒人と明日香を見ていると二人とも無理してるなあって、たまに思うの」

「君がフォローしてくれて助かっているよ。玲子ちゃんだって忙しいのにね」

「あたしはこの子たちが大好きだから。好きでやってるだけだよ」

 僕は今では完全に目が覚めていたけど、父さんと玲子叔母さんの会話を聞きたくて、寝た振りをしていた。

 罪悪感はあったけど、父さんが僕たちのことをどう考えているかなんて直接聞いたことがなかったので、僕の中で好奇心が罪悪感に打ち勝ったのだった。

 それにナオって誰だ。もちろん奈緒のはずはないけど、このタイミングでその名前を聞かされるとびっくりする。マキっていう人も知らない人だし。

「だいたい結城さんとこの雑誌ってクラシックの専門誌でしょ? 本当にこの時期そんなに忙しいの?」

「また馬鹿にしたな。零細誌は零細誌なりにいろいろあるんだよ」

「あ・・・・・・」

「どうした?」

「そういや結城さんの『クラシック音楽之友』の先月号読んだんだけどさ」

「どうかした?」

「ジュニクラの都大会の記事書いたのって結城さん? 署名記事じゃなかったけど」

「そうだよ。ピアノ部門だけだけど」

「高校生の部の優勝者の批評って・・・・・・」

「おい。ちょっと、それは今はまずいよ」

「・・・・・・大丈夫。二人ともよく寝てるから。あの記事ちょっと恣意的って言うか酷評し過ぎてない?」

「どういうこと?」

「カバンに入ってたな、確か・・・・・・ああこれだ」

 

『鈴木奈緒の演奏は正確でミスタッチのない演奏だった。きわめて正確に作曲者の意図に忠実に演奏するテクニックは、非常に完成度が高い。ただ、同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコンクールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いないが、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人とも富士峰女学院の同級生だそうだ』

 

「・・・・・・これって酷すぎない?」

「感じたままを書いたんだけどな」

「別に無理にナオちゃんを酷評する必要なんかないのに」

「別に無理にとかじゃないよ。こういう仕事をしている以上、身びいきじゃなく正確に感じたことを書かないとね。あの時の一位と二位の受賞の結果は正しい。でも将来性に関しては太田の感情表現の方が将来楽しみだというのがあの記事の趣旨だよ」

「何かさあ。昔姉さんから聞いたんだけどさ」

「何?」

「大学時代に先代の佐々木の婆さんがさ」

「・・・・・・ああ」

「結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なくて感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ」

「・・・・・・ああ」

「あれと同じじゃん。結城さんの批評ってさ」

 もうすっかり目が覚めていた僕は、寝た振りをしながら、志村さんからもらったWEBのコピーを思い出した。

 

『東京都ジュニアクラシック音楽コンクールピアノ部門高校生の部 受賞者発表』

『第一位 富士峰女学院高等部2年 鈴木奈緒

『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』

『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』

 

 父さんの雑誌の批評は、この時の奈緒の演奏に関するものらしかった。やはりこの会話は僕の彼女に関する話題だったのだ。二人の話にあがっているナオとはどうも奈緒のことらしい。

 このとき優賞した奈緒が今では僕の彼女だということを、父さんと叔母さんは当然知らない。

 それでも、仕事柄父さんは奈緒のことを批評記事の対象としてよく知っているようだった。でもそれだけではないかもしれない。奈緒と会うとかマキさんとかいったい何のことなのか。

 父さんの仕事がクラシック音楽の雑誌の編集である以上、こういうことがあっても不思議はないのだけど、それにしても父さんのような職業で音楽を聞いている人に注目されるほど奈緒は有名だったのだ。

 僕は、二人の会話の中で面会のこと以外にも気になることがあることに気がついた。

 

『別に無理に奈緒ちゃんを酷評する必要なんかないのに』

 

 叔母さんのこの言葉はどういう意味なのだろう。どうして父さんが無理に奈緒のことを酷評する必要があるのだろうか。

 父さんは職業の必要上から都大会のピアノ部門高校生の部の優勝者の批評記事を書いただけではないのか。

 それから僕は初めて自分の実の母親の情報も耳にしたことになる。

 

『結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なくて感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ』

 

 父さんと僕の本当の母さん、それに話からすると玲子叔母さんも同じ大学に通っていたのだろうか。

 そして実の母さんも奈緒と同じでピアノの演奏をしていたのだろうか。僕はこのとき、閑静な住宅街にあるピアノ教室の玄関を思い出した。今までは気にしたこともなかったけど、あの教室には一枚の看板が控え目に掲示されていた。

 

『佐々木ピアノ教室』

 

「それはだな」

 父さんが何かを話し出そうとしたとき、明日香が身じろぎして目を覚まして起き上がった。

 結局、楽しかったひと時の集まりが解散したのは夜中の一時前だった。起き上がった明日香に対して、父さんはもう寝た方がいいよと声をかけた。

「うん。もう寝る。叔母さん一緒に寝よ」

 明日香は叔母さんに言った。叔母さんは笑い出した。

「明日香が珍しくあたしに甘えてるからそうするか。結城さん、いい?」

「うん。そうしてやって。さて、じゃあもう寝るか。おい奈緒人も起きなさい」

 もともと起きていた僕だけど、父さんに声をかけられて目を覚ました振りをした。

奈緒人もちゃんと起きたか? 歯磨いてさっさと寝た方がいいよ」

 叔母さんが笑って言った。

 こうしてこの夜の小宴会は解散になった。叔母さんは洗い物をすると言ったけど、明日も仕事があるんだからと父さんは叔母さんを止めて明日香の方を見た。

「明日あたしがやっておくよ。叔母さん行こ」

「明日香も大人になったなあ。じゃあ明日香に甘えるか。結城さん、奈緒人。お休み」

「お休み玲子ちゃん」

「お休み叔母さん」

 父さんと僕が同時に言った。二人が出て行くと父さんが伸びをして眠そうにあくびをした。歯磨きを済ませて自分の部屋に戻った僕は、誰かからLINEでメッセージ来ていることに気がついた。

 有希さんからだ。

 

『こんばんわ。いきなりごめんなさい。そこで引かないでくださいね。奈緒に彼氏ができたって聞いてびっくりです。昔からピアノ一筋だと思っていたのに裏切られた~(笑)でもよかったと思います。奈緒って昔からもてたけど、その割には男の子に興味がないみたいだったから少し心配だったんです。本当は今まで奈緒の方が気に入る男の子があらわれなかっただけなんでしょうね。奈緒人さんは初めて奈緒が付き合いたいと思った男の子だったのね。奈緒のことよろしくお願いします。あと奈緒に対する十分の一くらいでいいからあたしのことも相手してね』

奈緒人と奈緒 第1部第5話

 それから二週間くらい経った土曜日の午後、僕は奈緒のピアノ教室の前で彼女を待っていた。

 それはクリスマス明けの二十六日のことだった。クリスマスには陰鬱な曇り空だった天気は、今になってちらほらと降る雪に変わっていた。

 臆病な僕は、付き合いだしたばかりの奈緒に対して、イブを一緒に過ごそうと持ちかけることはできなかった。でも誘わなくて正解だったようだ。

 富士峰では、イブの日とその翌朝は校内の礼拝堂で礼拝と集会があるのと彼女は僕に言った。

 イブの日のデートに勇気を出して奈緒を誘っていたら、結局僕は彼女に断られることになっていたはずだ。

 でもその話を聞いた渋沢と志村さんは笑い出した。

「何だよ。そんなのおまえに誘ってもらいたかったに決まってるだろ」

「だって学校の行事があるからって」

「そこで、じゃあ何時になったら会える? って聞けよアホ」

「そう聞いたらどうなってたんだよ。勝手なこと言うな」

 僕は二人の嘲笑するような視線に耐え切れなくなって言った。

「まあまあ、落ち着きないさいよ」

 志村さんが会話に割って入った。

「落ち着いているって」

「でもあたしも明の言うとおりだと思うな」

「どういうこと?」

奈緒人君が彼女を誘っていれば、学校行事はサボるとかさ。そこまでしなくても、夕方には時間がありますとか絶対言ってたよ、奈緒ちゃんは。むしろ期待してたんじゃない? 可愛そうに」

 志村さんにまでそう言われてしまうと、この手の話題には疎い僕にはもう反論できなかった。

「じゃあ二十六日とかに、俺たちと一緒に遊びに行くか?」

 渋沢が僕と志村さんを見た。

「それでも何もしないよりましかもね」

 渋沢と志村さんが目を合わせて笑った。

 そういうわけで、僕はクリスマスの日の夜、勇気を振り絞って奈緒に電話した。ピアノ教室が終った後に、渋沢と志村さんと四人で遊びに行かないかと。

 あいつらが言うように、奈緒が僕にクリスマスに誘われなくてがっかりしたのかどうかはわからないけど、そのときの僕の誘いに奈緒は電話からでもわかるくらい弾んだ声で了解してくれた。

「はい。大丈夫です。絶対に行きます」

「じゃあ明日の土曜日、君の教室が終わる頃にまたあそこで待ってるね」

「お迎えに来るのが面倒だったら、どこかで待ち合わせてもいいですけど」

 奈緒が僕に気を遣ったのかそう言った。

「わざわざ来ていただくもの申し訳ないですし」

 渋沢や志村さんに言われなくても、さすがにこのくらいの問題には僕だって正しく回答することはできた。

奈緒ちゃんさえよかったら迎えに行くよ。その方が、渋沢たちに会うまで君と二人で一緒にいられるし」

「・・・・・・うん」

 やはりあいつらの言っていることにも一理あるのだろうか。奈緒の声がやわらく響くのを聞きながら僕は思った。

「すごく嬉しいです。奈緒人さん」

 誘えばここまで直接的に愛情表現をしてくれる奈緒に対して、僕は臆病すぎるのかもしれない。

「じゃあ待ってます」

「うん」

「・・・・・・あの」

「どうしたの」

「明日は教室の前で待っていてくださいね。前みたいに離れたところで待っていたらだめですよ」

 僕は面食らった。

「どうして? というか堂々と教室の前で待つのは何か恥かしい」

「恥かしがらないでください」

 奈緒が真面目な口調になって言った。

「わたしたち、お付き合いしているんですよね?」

「う、うん」

「じゃあ教室の目の前で堂々と待っていてください。わたしも教室のお友だちに、わたしの彼氏だよって紹介できますから」

「うん・・・・・・」

「それに・・・・・・いつも一緒に帰ろうって誘われる先輩がいるんですけど、奈緒人さんが教室の前で待っていてくれればその人にもちゃんと断れますし」

「わかった」

 僕は戸惑ったけど奈緒がここまできっぱりと言葉にしてくれているのだ。恥かしいとか言っている場合ではなかった。

「そうするよ」

 そういうわけで、僕はちょうどピアノ教室が終る時間に教室の前に立っていた。その建物の正面で待つのは目立ちすぎだと思ったけど、奈緒との約束は守らなければいけない。

 落ち着かない気持ちが、次第につのって行った。胃が痛い感じもする。

 そうやって待っていると、ほかにもそこで誰かを待っている人がいることに気がついた。

 金髪とピアス。強面そうな顔。

 彼は明らかにこの閑静な住宅街の中では不自然な存在だった。彼のことを僕は以前に見かけたことがあった。

 間違いない。こいつは僕の妹の前の彼氏のイケヤマとかいうやつに違いない。

 でも、どうして彼がここにいるのだ。もしかして、僕と一緒でここに通っている女の子を迎えに来たのだろうか。

 いくら女に対して手が早そうな外見だからといって、明日香と別れたばかりで、こんなに早く次の彼女ができているということも信じがたいし、偏見かもしれないけど、ここに通っているような真面目な女の子と彼が付き合うというのも考えづらい。

 その時イケヤマが不意に振り向いたので、僕たちの視線が合った。イケヤマに強い目で睨まれ僕は一瞬ひるんだ。イケヤマとは前に一度出くわしたことがあるし、僕が明日香の兄であることを知っているのかもしれなかった。

 妹も前に僕の視線にそいつが傷付いたみたいなことを言っていたし。でもイケヤマの睨みつけるような視線が絡んだのは一瞬だけだった。

 すぐに彼は視線を逸らし、早足でピアノ教室から遠ざかって行った。僕はイケヤマの背中を眺めながら、いったいこいつはここで何をしたかったのだろうかと考えていた。

 角を曲がって姿が消えたイケヤマの背中から目を離すと、ちょうど教室のドアが開いて奈緒が少しだけ急いでいる様子で外に出てきた。

 一番先に出てくるとは思わなかったけど、さっき恥かしいからと言った僕を気にして、他の子より早くで出てきてくれたのかもしれない。

 約束どおり今日は隅の方に隠れていないで、ドアの正面に立っている僕の方に向かって、奈緒は小さく手を振って小走りに近寄ってきた。そのまま奈緒は僕の腕に抱きついた。こんなどうしようもない劣等感の塊の僕の上に、天使が降ってきたみたいだ。そういう今までも何度となく考えていた感想が、再び僕の胸を締め付けた。

 僕は柄にもなく抱きついてくる奈緒に向って微笑んだ。

 僕が奈緒に声をかけようとしたとき、それまで奈緒の背後に隠れていた小柄な女の子が目に入った。僕と目が合ったその女の子はにっこりと笑った。

「こんにちは」

「有希ちゃん、何でいるの?」

 奈緒も少し戸惑ったようにユキという子に言った。

「何でって、帰り道だもん。それよか紹介して」

「まあ・・・・・・いいけど。前にも話したと思うけど、あたしの彼氏の奈緒人さん。奈緒人さん、この子は富士峰の同級生で有希ちゃんっていうの」

「はじめまして奈緒人さん」

 有希ちゃんは好奇心で溢れているという様子で、それでも礼儀正しく僕にあいさつしてくれた。

「あ、どうも」

 もともと女の子と話すことが苦手な僕にはこれでも上出来な方だった。とにかく今まで奈緒とここまで普通に会話できていることの方が奇跡に近いのだ。

 僕と奈緒の出会いが、彼女の言うように運命的な出来事だったせいなのかもしれないけど。

奈緒人さん。有希ちゃんは親友なんです。学校もピアノのレッスンも一緒なんですよ」

「そうそう。それなのに最近土曜日のレッスン後は一緒に帰ってくれないし、何でだろうと思ってたら彼氏が出来てたとは」

「ごめん。でも前にも話したでしょ」

奈緒人さん、奈緒ちゃんは奥手だけどいい子なんでよろしくお願いしますね」

 有希が笑って僕に言った。

「何言ってるの」

「そうだ、奈緒人さん。親友の彼氏なんだしLINE交換してもらってもいいですか」

 え? 僕は一瞬ためらった。

 奈緒の親友には冷たくするわけにはいかないし、かといって会ったばかりの有希とLINEを交換することに対して、奈緒がどう考えるのか僕にはよくわからなかった。

 僕は一瞬、有希に返事ができず奈緒の顔色を覗った。奈緒は心なしか少しだけ不機嫌そうな気がする。そんなにあからさまな様子ではなかったし、僕の思い過ごしかもしれないど。

 それでも彼女の親友にLINE交換を申し込まれたくらいで、気を廻してそれを断る勇気は僕にはなかった。

 奈緒が有希に何か言ってくれればいいのだけど、奈緒は相変わらず微妙に不機嫌そうな雰囲気を漂わせたままのすまし顔だ。

「うん、いいよ」

 僕はそれ以上考えるのを諦めて、有希に返事をした。

「やった」

 有希が可愛らしく言った。別に彼女に興味を持ったわけではないけど、やはりこの子も奈緒と同じくらい可愛らしい子だった。

 有希にさよならを言って駅の方に歩き出した僕たちだったけど、いつのまにか奈緒の手は抱き付いていた僕の腕から離れ、僕たちは手を握り合うこともなく、微妙な距離を保ったまま歩いていた。

 少し遅れ気味に僕の後からついてくる奈緒を思いやって、僕は後ろを振り向いて声をかけた。

「ごめん。歩くの速かったかな」

 奈緒はそれには答えずに僕から目を逸らした。

 何だと言うのだろう。仕方なく僕はまた歩き出して少しして、奈緒の方を振り返った。

 奈緒は俯いたままでその場に立ちすくんでいた。

 ・・・・・・いったい何なんだろう。

 もちろん僕にだって思いつく理由として、有希とのLINE交換が思い浮んだけど、あれは僕のせいでも何でもないだろう。

 有希を紹介したのは奈緒だったし、有希がLINEの交換を言い出したときだって、別に奈緒はそれを制止したわけでもない。

 正直に言えば、奈緒しか目に入っていない僕が有希とLINEを交換したのだって、奈緒の友だちだということで気をつかったからだ。

 それなのに多分奈緒はそのことに拗ねている。僕は少し理不尽な彼女の態度に対する怒りが沸いてくるのを感じた。

 僕は、生まれて初めてこんなに女の子を好きになったことはないといってもいいほど、奈緒に惹かれている。彼女のためなら、多少の理不尽はなかったことにしてもいいくらいに。

 でも罪悪感を感じていないことに対して謝罪してはいけない。

 奈緒がついてくるかどうかわからないけど、僕は再び駅の方に歩き始めた。

 僕は今まで明日香に謝ったことがない。両親の再婚と母さんの愛情が半分だけ僕に向けられたことによって、妹が傷付いたことは間違いない。

 そのせいで僕は明日香に散々嫌がらせをされた。多分その張本人の妹だって期待していないくらいに傷付きストレスを感じた。

 でも僕はそのことで本気で明日香を責めたことはなかった。それは妹の痛みを、幼かった妹にはどうしようもなかった出来事で、彼女が傷付いた痛みを理解できたからだった。

 同時に辛い思いをさせた明日香に対して、謝ろうと思ったこともなかった。確かに明日香は、父さんと母さんの再婚の結果、母さんの愛情と関心を僕に奪われたと感じ、そのせいで傷付いているかもしれない。

 でも、去年両親に真相を知らされてから考えていたことだったけど、そのことに関して僕は明日香に対して罪悪感を感じる理由はないのだ。

 そのこととこれとを一緒にする気はないけど、いくら奈緒がさっきのできごとで怒ろうと拗ねようと、そしそのせいで僕のことを嫌いになろうと、自分の今までの考え方を曲げる気はなかった。

 僕は足を早めた。これで終るなら終わるだけのことだ。僕は確かに奈緒に惹かれていたし、彼女と付き合えて嬉しかったけど、自分のポリシーを曲げてまで彼女の機嫌を取る気はなかった。

 僕はもう後ろを振り向かず、寒々とした曇り空の下を歩いて行った。やはり見慣れない街のはずだけど迷う気は全くしなかった。もう駅がその姿を見せていた。

 考えてみれば奈緒には、渋沢と志村さんと一緒に遊ぼうと誘っただけで、待ち合わせ場所も待ち合わせ時間も話していない。このまま奈緒がついてこないままで、改札を通ってしまえば今日はもう奈緒とは会えないのだ。

 渋沢と志村さんが僕を責める言葉が聞こえてくるようだった。渋沢なら僕のポリシーなんてどうでもいい、一言奈緒に謝るだけじゃないかと僕を責めるだろう。そして志村さんは、取り残された奈緒ちゃんが可哀そうとか言うに違いない。

 僕は息を呑んだ。これが初めてできた僕の彼女との別れになるかもしれない。

 今からでも遅くない。振り返って奈緒のところまで行ってごめんといえば、僕には二度とできないかもしれない可愛い彼女と仲直りできるかもしれない。

 でも僕はそうしなかった。僕が改札口から駅の中に入ろうとしたその時、背後に軽い駆け足の音が響いて、それが何かを確かめるよリ前に僕は後ろから思い切り抱きつかれた。

「ごめんなさい」

 泣き声交じりの奈緒の声が僕の顔の間近で響いた。

奈緒人さん本当にごめんなさい」

 僕は抱きつかれた瞬間に力を込めてしまった全身を弛緩させた。

「・・・・・・どうしたの」

 僕の背中に抱きついた奈緒が泣きじゃくっている。

「ごめんなさい。怒らないで・・・・・・お願いだからあたしのこと嫌いにならないで」

「どうしたの」

 さすがに僕も驚いて繰り返して奈緒に聞いた。

「嫌な態度しちゃってごめんなさい。あたしが悪いのに」

 僕はこの時ほっとした。それまで僕を縛っていた頑な思いが解きほぐされていくようだった。

 僕はどうして自分のほうから奈緒に手を差し伸べてあげられなかったのだろう。僕の方こそこんなにも奈緒に執着しているのに。

 僕は振り向いて奈緒を正面から見た。

「・・・・・・怒ってないよ。僕の方こそ辛く当たってごめん」

 明日香に対する僕の態度と比べると、ダブルスタンダードもいいところだった。でも気がついてみると、僕もピアノ教室から駅までの短い距離を歩く間に相当緊張し悩んでいたのだ。

 僕は改めてそのことに気がつかされた。

 奈緒は正面に向き直った僕にしっかりと抱きついた。

「有希ちゃんは親友だし、わたしの方から奈緒人さんに紹介したのに」

 やっぱり地雷はそこだったようだ。

「有希ちゃんとLINE交換している奈緒人さんを見てたら嫉妬しちゃって。そしたら何か素直に振る舞えなくなって。こんなこと初めだったからどうしていいかわからなくて」

「もういいよ。わかったから」

 奈緒は涙目で僕の方を見上げた。

「僕こそごめん。有希さんとLINE交換していいのかわからなかったけど、奈緒ちゃんの友だちだし断ったら悪いと思ってさ」

「・・・・・・本当にごめんなさい」

「いや。僕こそ無神経でごめん。あとさっきは先に行っちゃてごめんね」

「そんな・・・・・・奈緒人さんは悪くない。わたしが悪いの」

 週末のせいか、その時間には駅前には人がたくさんいた。そんな中で抱きあっていた僕と奈緒の姿は相当目立っていたに違いない。

 僕は奈緒の肩に両手を置いた。

 周囲の人混みが視界からフェードアウトし、意識から消えた。

 奈緒がまだ涙がうっすらと残っていた目を閉じた。

 

 渋沢と志村さんとの待ち合わせ場所は、隣駅の駅前のカラオケだった。いろいろと揉めたせいで、余裕があったはずの待ち合わせ時間にぎりぎりなタイミングになってしまった。

 仲直りしてからの奈緒は電車の中でいつもより僕に密着しているようだった。

「本当にわたしのこと嫌いになってない?」

 僕に抱きついたまま席に座った奈緒が小さな声で言った。

「なってない」

 僕はそう言って奈緒の肩を抱く手に力を込めた。いつもの僕と違って、周囲の人たちの好奇心に溢れた視線は気にならなかった。

 そのとき、僕が唯一気にしていたのは、どうしたら僕がもう気にしていないということを奈緒に信じてもらえるかだけだった。

「・・・・・うん」

 奈緒が僕の胸に顔をうずめるようにしながら小さくうなずいた。彼女も周りの視線を気にする余裕はないようだった。

 でもこれで奈緒と仲直りできたのだ。

「もう泣かないで」

「うん」

 やっと奈緒は顔を上げて泣き笑いのような表情を見せた。

 数駅先の繁華街にあるカラオケに着く頃には、奈緒は元気を取り戻していた。

「ここで遊ぼうって言われてるんだけどカラオケとか平気?」

 何せ富士峰の高校生なのだから僕は念のために聞いた。

「大丈夫です。お友だちと何度か入ったこともありますし」

「よかった。じゃあ行こう」

「はい」

 渋沢と志村さんはもうカラオケのフロントで僕たちを待っていた。

「よう奈緒人」

奈緒人君こっちだよ」

「やあ」

「こんにちは」

奈緒ちゃんも今日は~」

「じゃあ行こうぜ。俺が受け付けしてくるよ。とりあえず二時間でいいな」

 渋沢はチェックインするために受付のカウンターの方に向かって言った。

 クリスマスの後の昼間のせいか、すぐに待たずに個室に案内された僕たちは、十人以上は座れそうなボックスを見て戸惑った。

「どう座ろうか」

 やたら広い室内を見ながら志村さんが言った。

「これは広すぎるよね」

「まあ狭いよりいいじゃん。適当に座ろうぜ」

奈緒ちゃん一緒に座ろう」

 志村さんは奈緒の手を引いてモニターの正面のソファの方に彼女を連れて行った。奈緒は手を引かれながら、何か言いたげにちらりと僕の方を見た。

「じゃあ俺たちはこっちに座ろうぜ」

 渋沢が言った。僕の方を見ていた奈緒の視線が脳裏に浮かんだ。僕はもう迷わず奈緒の隣に腰掛けた。奈緒は微笑んで僕の手を握ってくれたけど、もちろんそれは渋沢や志村さんにも気がつかれていただろう。

「何だよ。こっち側に座るの俺だけかよ」

 渋沢がぶつぶつ言った。

「何でお前ら三人だけ並んで座ってるんだよ」

「じゃあ、あんたもこっち座れば」

 志村さんが自分の隣の席を叩いて見せた。

「ここおいでよ」

「何でこんなに広いのに片側にくっついて座らなきゃいけないんだよ」

 渋沢は文句を言いながらも志村さんの隣に納まった。確かに広い部屋の片隅で身を寄せ合っている姿は傍から見て滑稽だったろう。

 でも僕は多分奈緒の期待に応えたのだ。僕は隣に座っている奈緒を見た。奈緒もすぐに僕の視線に気が付いたのかこちらを見上げて笑ってくれた。

 これなら今日は奈緒と色々話せそうだった。ところがしばらくするとそれは甘い考えだったことがわかった。曲が入っているときは話などまともにできなかったし、曲の合間は渋沢と志村さんが好奇心に溢れた様子で、ひっきりなしに奈緒に話しかけていたからだ。

 最初は戸惑っていた奈緒も、志村さんや渋沢に親しげに話しかけられているうちに、次第に二人に心を許していったようだった。

 学校のこと、ピアノのこと、趣味のこと。そして僕との馴れ初めや、いったい僕のどこが気に入ったかという質問が二人から奈緒に向けられ、最初はたどたどしく答えていた奈緒も、最後の方では笑顔で志村さんと渋沢に返事をするまでになっていた。

 彼女が僕の友だちと仲良くなるのは嬉しかったけど、僕抜きで盛り上がっている三人を見ていると少しだけ気分が重くなってきた。

「そういや昼飯食ってなかったじゃん。ここで何か食おうぜ」

 渋沢が言った。

「そうだね。ここなら安いしね」

「ピザとチキンバスケット頼んでくれよ」

「あんた一人で食べるんじゃないっつうの」

 志村さんはそう言ってメニューを広げた。「奈緒ちゃん、二人で選んじゃおう」

「はい」

 奈緒は楽しそうに志村さんに答えた。二人はしばらくメニューを見てからにぎやかに注文している。

「おい奈緒人。おまえさっきから何も歌ってねえじゃん。奈緒ちゃんだって歌ってるのによ」

「僕はいいよ、歌苦手だし」

「何だよ、うまいとか下手とかどうでもいいじゃんかよ」

 僕が言い返そうとしたとき、客が少ないせいか早くも注文した食べ物や飲み物を持った店員が部屋に入ってきた。

 「何か話してばっかで全然歌えなかったね」

 結局二回時間を延長したために、外に出たときはもう薄暗くなっていた。あちこちのビルの店舗から洩れる灯りが路面をぼんやりとにじませている。

 話してばかりと言うけど、僕は全然奈緒と話をしていない。それでも奈緒は志村さんたちと盛り上がっていた様子だった。

「おまえが奈緒ちゃんにペラペラ話かけていたせいだろうが」

 渋沢が笑って言った。

「何よ。あんただって奈緒ちゃんに興味深々にいろいろ質問してたくせに」

「そりゃまそうだけどさ。奈緒ちゃん」

「はい?」

奈緒ちゃん歌上手だね。あと君は本当にいい子だな」

「え」

奈緒人をよろしく。こいつ口下手だし根暗だし真面目なくらいしか取り得がないけどさ」

 ちょっとだけ改まった口調で渋沢が言った。

「あんたそれ言いすぎ」

 志村さんが真面目な口調になって、渋沢に注意したけど渋沢は気にせず言葉を続けた。

「でもいいやつなんでよろしくね」

 奈緒は少し驚いたようだったけど、顔を赤くして渋沢に答えた。

「ええ。よくわかってます。心配しないでくださいね」

「うん。じゃあまたな。奈緒人、おまえ奈緒ちゃんを送って行くんだろ」

「あ、あたしは大丈夫です」

「送っていくよ」

 僕は奈緒の顔から目を逸らして言った。

 電車を降りて奈緒の家の方に向かっている間中、僕は黙って奈緒の先に立って歩いていた。

 これではさっき奈緒をピアノ教室に迎えに行ったときと同じだ。そしてさっきは奈緒の理不尽な怒りに頭がいっぱいだったのだけど、今の僕のこの感情に対して奈緒に責任がないことはわかっていた。ただ形容しがたい寂しさが僕の中にあるだけだった。

 これは理不尽な怒りだ。

 奈緒には何も責任はない。奈緒は僕に誘われて渋沢たちと会い、社交的に彼らと話しただけだ。これでは怒りと言うよりも相手にされなかった子どもが拗ねているのと同じだ。

 僕の脳裏に今まで思い出すこともなかった記憶が蘇った。

 母親がいない夜。

 自分も半泣きになりながら、僕は誰もいない家で怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締めた。

 この記憶の中にいるのは今の母親と明日香ではない。僕には両親の離婚前の記憶はないはずだった。何でこんなにリアルにこんな情景が浮かぶのだろう。

 それに僕には義理の妹の明日香がいるだけだ。実の妹がいるなんて聞いたこともない。

 突然脳裏に押しかけてきた圧倒的にリアルな悪夢を頭を振って追い払った時、奈緒が僕の背後から不安そうな声で僕に声をかけた。

「あの。奈緒人さん、何か怒ってますか」

 おどおどとした奈緒の震え声を聞いた途端、突然僕の心が氷解した。

 僕は振り返って奈緒に手を差し伸べた。この子がいとおしくてしかたがない。一瞬、幻想の中で怯えて僕に抱きついていた幻の妹の姿が奈緒と重なった。

 奈緒は差し伸べられた僕の手をそっと握った。「ごめん。奈緒ちゃんがあいつらとずっと楽しそうに話していたし、僕は君とあまり話せなかったんで少しだけ嫉妬しちゃったかも。僕が悪いんだよ」

 そのとき奈緒は少しだけ怒ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな複雑な表情を見せた。

「あたし、奈緒人さんのお友だちと仲良くしてもらって嬉しくて」

「うん、わかってる。僕が勝手に君に嫉妬したんだ。本当にごめん」

「でも、さっきあたしも有希ちゃんと奈緒人さんに嫉妬しちゃったし、おあいこなのかもしれないですね」

「いや。今のは僕が悪いんだよ」

 奈緒は僕を見つめた。

「わたし、渋沢さんと志村さんとお話できて嬉しかったですけど、やっぱり奈緒人さんと二人きりでいたいです」

「そうだね。今後は二人でカラオケ行こうか」

「はい。今度は奈緒人さんの歌も聞かせてくださいね」

 奈緒はようやく安心したように僕の腕に抱きついて笑った。

奈緒人と奈緒 第1部第4話

「おはようございます。奈緒人さん」

 奈緒はいつもの場所で僕を待っていてくれた。今日は彼女より早く来たつもりだったのだけど、結局奈緒に先を越されてしまった。

「おはよう、奈緒ちゃん。待たせてごめん」

「いえ。わたしが早く来すぎちゃったから。まだ約束の時間の前ですし」

 奈緒が笑った。

 やっぱり綺麗だな。僕は彼女の顔に見入った。

「どうしました?」

 不思議そうに僕の方を見上げる奈緒の表情を見ると、胸が締め付けられるような感覚に捕らわれた。

 いったいどんな奇跡が起こって、彼女は僕のことなんかを好きになったのだろう。

「何でもないよ。じゃあ行こうか」

「はい」

 奈緒は自然に僕の手を取った。

「行きましょう。昨日と違ってゆっくりできる時間じゃないですよね」

「そうだね」

 僕たちは電車の中で、初めて付き合い出した恋人同士がするであろうことを忠実に行った。

 つまり、付き合い出した今でもお互いのことはほとんどわかっていなかったので、まずそのギャップを埋めることにしたのだ。

 奈緒の腕はその間も僕の腕に絡み付いていた。

 とりあえず奈緒についてわかったことは、彼女が富士峰女学院の高校二年生であること、一人っ子で両親と三人で暮らしていること、同じクラスに親友がいて、下校は彼女と一緒なこと、ピアノを習っていて将来は音大に進みたいと思っていること。

 何より僕が驚いたのは、彼女の家の場所だった。これまでいつも自宅最寄り駅の前で待ち合わせをしていたし、最初の出会いもそこだったから、僕は今まで奈緒は僕と同じ駅を利用しているのだと思い込んでいたのだ。

 でも、奈緒の自宅は僕の最寄り駅から三駅ほど学校と反対の方にある駅だった。

「え? じゃあなんでいつもあそこで待ち合わせしてたの?」

「何となく・・・・・・最初にあったのもあそこでしたし」

「じゃあさ。昨日とか相当早く家を出たでしょ?」

「はい。ママに不審がられて問い詰められました」

 奈緒はいたずらっぽく笑った。

「最初に出会った日にもあそこにいたじゃん?」

「あれは課外活動の日で、親友とあそこで待ち合わせしたんです。彼女は奈緒人さんと同じ駅だから」

 ちゃんと確認すればよかった。彼女はわざわざ、僕の駅で途中下車していたのだ。

「ごめん。無理させちゃって」

「無理じゃないです。わたしがそうしたかったからそうしただけですし」

「あのさ」

 僕はいい考えを思いついた。

「明日からは電車の中で待ち合わせしない?」

「え?」

「ここを出る時間の電車を決めておいてさ。その一番後ろの車両の・・・・・・そうだな。真ん中のドアのところにいてくれれば僕もそこに乗るから」

「はい。奈緒人さんがそれでよければ」

 彼女の家の場所を聞いてみてよかった。これで余計な負担を彼女にかけずに済む。

 僕自身のこともあらかた彼女に説明し終っても、大学の最寄り駅まではまだ少し時間があった。

 僕はさっきから聞きたくて仕方がないけど、聞けなかったことが気になってしようがなかった。

 でもそんなことを聞くと、自分に自信のない女々しい男だと奈緒に思われてしまうかもしれない。

 奈緒は楽しそうに自分の通っているピアノのレッスン教室の出来事を話していたけど、気になって悶々としていた僕はあまり身を入れて聞いてあげることができなかった。

 そしてその様子は奈緒にもばれてしまったようだ。

「あの・・・・・・。奈緒人さん、どうかしましたか?」

 奈緒は話を中断して僕の方を見た。

「いや」

 駄目だ。やっぱり気になる。僕は思い切って彼女に聞いた。

奈緒ちゃんってさ」

「はい」

 話を途中で中断された彼女は、不思議そうな顔で僕の方を見た。

「あの、つまりすごい可愛いと思うんだけど、やっぱり今まで彼氏とかいたんだよね?」

 奈緒は戸惑ったように僕を見たけど、すぐに笑い出した。

「あたし可愛くなんてないし。それにずっと女子校だから男の人とお付き合いするのってこれが初めてです」

「そうなんだ・・・・・・」

「ひょっとして奈緒人さん、あたしが男の人と付き合ったことあるか気にしてたんですか?」

「違うよ・・・・・・・いやそれはちょっとは気になってたかもしれないけど」

 僕は混乱して自分でも何を言ってるのかわからなかった。

 でも奈緒のその言葉だけはきちんと胸の奥に届き、僕はその言葉を何度も繰り返して頭の中で再生した。

「男の人とお付き合いするのってこれが初めてです」

奈緒人さん。顔がにやにやしてますよ」

 奈緒が笑った。

「そうかな」

 僕はなんとなく誤魔化したけど、実際にそういう表情だったに違いない。

 不意に奈緒がこれまでよりもう少し僕に密着するように、僕の腕に抱き付いている自分の手に力を入れた。

「でも気にしてくれてるなら嬉しい。奈緒人さんは今まで彼女とかいたんですか?」

「いないよ。僕も奈緒ちゃんが初めての彼女だよ」

 それが奈緒にどんな印象を与えたのかはわからなかった。自分が初めての彼女で嬉しいと思ってくれるのか、もてない男だと思って失望されるのか。

 でも何となくこの子には正直でいたいと思っている僕がそこにいた。そしてそれは決して嫌な感覚ではなかった。

「嬉しい」

 奈緒が上目遣いに僕を見上げた。

「お互いに初めて好きになった相手で、しかも名前も似てるんですよ」

「うん」

「本当に運命の人っているのかも」

 僕と奈緒は改めて見つめ合った。

「お、奈緒人じゃん」

 僕たちはそのとき、大きな声で僕に話しかけてきた渋沢に邪魔された。

「あ、奈緒人君だ。って富士峰の制服の子だ」

 これは志村さんだった。

奈緒人君の彼女って人でしょ? もう一緒に登校してるんだ」

「おはよう」

 僕はしぶしぶ二人にあいさつした。

 僕は二人に奈緒を紹介した。

 二人でいるところを邪魔されたわけだけど、奈緒は僕の友人たちに僕の彼女として紹介されることが嬉しかったのか、高校の最寄り駅で別れるまでずっと機嫌が良かった。

 正直に言うと僕の方は、もっと奈緒と二人きりで話をしていたかったのだけど。

「じゃあ、奈緒人さん。また明日ね」

 奈緒が控え目な声で言った。

「明日は電車の中で待ち合わせだから忘れないでくださいね」

「うん、大丈夫だよ」

「渋沢さん、志村さん。これで失礼します」

「またね~」

「気をつけてね」

 僕は渋沢と志村さんのせいで何か消化不良のような気分になりながら奈緒に別れを告げ、邪魔をしてきた二人と連れ立って電車から降りた。「奈緒ちゃんってさ」

 志村さんが大学の校門に向って連れ立って歩いているとき に言った。

「どっかで見たような気がするんだよね」

「前からいつもあの電車みたいだから登校中に見かけたんじゃない?」

「いや、そういうのじゃなくて。何だっけなあ。ここまで出かかってるんだけど」

 彼女は首をかしげて考え込んだ。こうなると僕も志村さんがどこで奈緒を見かけたのか気になってきた。

「おまえの記憶力は怪しいからな」

 渋沢がそこで茶々を入れた。

奈緒人もあまりマジになって受け止めない方がいいぞ」

「本当だって・・・・・・でも、ああだめだ。思い出せない」

「しかし綺麗な子だったなあ。しかも富士峰の生徒だし、深窓の美少女って言うのは奈緒ちゃんみたいな子のことを言うのかな」

 渋沢が感心したように言った。

「本当にそうね」

 志村さんも同意した。

「本当にそうだよなあ」

 思わず僕もそれに同意してしまった。自分の彼女なのだから、ひょっとしたらもっと謙遜しなきゃいけなかったかもしれないのだけど。

「おまえが言うな」

 案の上渋沢に突っ込まれた。

「彼女の自慢かよ」

「そうじゃないよ。でも自分でも、何で彼女みないな子と付き合えることになったのか、いまいち理解できてなくて」

「そういうことか」

 渋沢が笑った。

「まあ、あんまり考えすぎなくてもいいんじゃね? さっきの奈緒ちゃんを見ていても、おまえのことを好きなのは間違いないと思うな」

「そうかな」

「そうだよ。奈緒人君はもっと自分に自信を持った方がいい」

 志村さんも言った。

 渋沢と志村さんの言葉は嬉しかった。

 やはり奈緒は本当に僕のことが好きになってくれたのだ。何でああいう子が僕なんかをという疑問は残るけど、今は奈緒が僕のことを本気で好きになったということだけで十分だと思うべきなのだろう。

「よかったね、奈緒人君。君ならきっとああいう、感じのいい女の子に好かれるんじゃないかと思ってた」

 志村さんが少し真面目な顔で言った。

「何だよ。奈緒人にだけそういうこと言っちゃうわけ? 俺は?」

「・・・・・・あんたにはあたしがいるでしょ? 何か不満でも?」

「ないけどさ」

 かつて志村さんに告白して振られた僕としては複雑な気持ちだった。

 彼女が今の言葉を真面目に言っているのだとしたら、あの時僕が振られた理由は何なのだろう。そのことがちょっとだけ気になったけど、もうそれは今では過去の話だった。

 それに志村さんは彼氏である渋沢には、僕から告られたことを黙っていてくれている。その彼女の気持ちを蒸し返す余地はなかった。

 僕には今では奈緒がいる。そう考えただけでも心が軽くなった。

 明日は奈緒と会ってから車両の位置を変えようか。そうすれば通学中に渋沢たちと出くわさないで済む。

 決して渋沢たちと四人で過ごすが嫌だったわけではない。でも僕たちはまだ出合って恋人同士になったばかりだった。四人で楽しく過ごすより今は二人きりで話をしたい。

 奈緒は気を遣ったのか本心からかわからないけど、渋沢たちと一緒にいることを楽しんでくれたようだった。でも彼女だって最初は二人きりがいいに違いない。僕たちはまだお互いのことを知り始めたばかりだったのだ。

 

 授業が終り部活に行く渋沢と別れて下校しようとした時、志村さんが僕に話しかけてきた。

奈緒人君もう帰るの?」

「うん。君は渋沢がサークルを終わるのを待つの?」

「まさか。何であたしがそこまでしなきゃいけないのよ」

「・・・・・・何でって言われても」

奈緒人君、帰りも彼女と一緒なの?」

「帰りは別々だよ。前から親友と一緒に帰ってるんだって。あとピアノのレッスンとかあるみたいだし」

「ああ、やっぱりそうか」

「え?」

「一緒に帰らない? あ、言っとくけど、明はあんたとあたしが一緒に帰ったって嫉妬なんかしないからね」

「まあいいけど」

 それで僕たちは並んで校門を出て駅の方に向かって坂を下って行った。

「あたしさ。思い出したのよ」

 電車に乗るといきなり志村さんが言った。

「思い出したって何を?」

「ほら、今朝話したじゃん。奈緒ちゃんってどっかで見たことあるってさ」

 それは僕にも気になっていた話題だった。思ったより早く志村さんは記憶を取り戻してくれたようだった。

「はい、これ」

 彼女から渡されたのはどっかのWEBのページをプリントした数枚のA4の紙だった。

「何これ」

「さっきIT教室のパソコンからプリントしたんだよ。奈緒ちゃんってさ名前、鈴木奈緒でいいんでしょ?」

 奈緒の苗字や名前の漢字まで志村さんは知らないはずだったのに。

「・・・・・・そうだけど」

「じゃあ、もう間違いないや」

 彼女は僕の手からプリントを取り返してそのページを上にして僕に渡した。

「ここ見て」

 

『東京都ジュニアクラシック音楽コンクールピアノ部門高校生の部 受賞者発表』

『第一位 富士峰女学院高等部2年 鈴木奈緒

『演目:カプースチン 8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』

『表彰状、トロフィー、記念品、賞金三万円の贈呈』

 

 プリントに印刷されているのはそれだけだったけど、奈緒の名前の横に小さく顔写真が掲載されていた。荒い画像だったけど、その制服と何よりその顔は奈緒のものだった。

「これさ、あたし生で見てたんだよね」

 志村さんが言った。

「従姉妹のお姉ちゃんがこの大学生部門に出場したんで応援しに行ったの」

「その時にさ、あたしピアノの演奏の善し悪しとかわからないんだけど、何か中学生の部に出てた子がやたら可愛かった記憶があってさ。それで奈緒ちゃんのこと覚えてたみたい」

 思い出せてすっきりした。そう言って志村さんは笑った。

 

 僕は駅から自宅に歩きながら、再び気持ちが落ち込んでいくのを感じた。

 奈緒が僕のことを好きなことは今となっては疑いようがない。だから、なんで奈緒のような子が僕のことなんか好きになったのだろうと、うじうじと考えることは止めにしようと思っていた。

 でもピアノコンクールで一位とかっていう話を聞くとまた別な不安が沸いてきた。

 今現在、奈緒は付き合い出したばかりの僕のことが好きかもしれない。でもあれだけ容姿に恵まれていて、それだけではなくピアノの方も少なくとも地方コンクールで受賞するレベルとなると、この先も彼女が僕のことを好きでいてくれる保証は何もない。

 ここまでくると世界が違うというほかはない。奈緒からピアノのレッスンの話とか音大志望のことは聞いてはいたけど、ここまで本格的に取り組んでいるとは考えてていなかった。

 単なるお嬢様学校に通う生徒の嗜みくらいならともかく、入賞レベルだとすると中高は彼氏どころじゃないのが普通じゃないのか。

 僕はこの世界のことはよく知らないけど、ここまで来るには相当厳しいレッスンに耐えてきたはずだった。

 それにその世界にだっていい男なんていっぱいいるかもしれない。僕ではピアノの話には付き合えないけど、彼女と同じくこの世界を目指している男にとっても、奈緒の容姿は好ましく映るだろう。そういう奴らと比較された時に奈緒は僕を選んでくれるのだろうか。

 どう考えても将来は不安だらけだった。

 

 帰宅して自分の部屋に上がる前にリビングを覗くと、僕に気がついた妹がソファから立ち上がった。

「おかえりなさい」

 妹は相変わらずいい妹路線を続けているようだった。

 髪が黒いままなのは当然として、化粧もしていないし、異様に長かったまつげも普通になり爪も自然な桜色のままだ。

 こいつが昔からこうだったらあるいは僕は明日香に惚れていたかもしれない。一瞬そんなどうしようもないことを考え出すほど、前と違ってこいつの顔は少し幼い感じで、その印象は可愛らしい少女のそれだった。

「ただいま」

「今日もお父さんたち帰り遅いって」

「そう」

「お風呂沸いてるよ」

 僕は少し驚いた。

 風呂の水を入れ替えてスイッチを入れるのはいつも僕だった。妹は僕の沸かした風呂に入るか、シャワーだけかいつもはそんな感じだったのだ。

「先に入っていいよ。ご飯用意できてるから」

 え? こいつが夕食を用意するなんて初めてのことじゃないのか。

 妹は僕の好みに合わせて服装を変えるとは言ったけど、生活習慣全般を見直すとは思わなかった。

「先に入っていいの?」

「何で聞き返すのよ。変なお兄ちゃん」

 妹は笑って言った。

 僕が風呂から上がってリビングに戻ると、妹は相変わらずソファに座って何かを読みふけっていた。

「おい・・・・・・勝手に読むなよ」

 それは風呂に入る前に、うっかりカバンと一緒にリビングに放置してしまった奈緒のコンクールのプリントだった。

「ああ、ごめん。片付けようとしたらお兄ちゃんの彼女が載ってたからつい」

 僕は一瞬苛々したけどこれは放置しておいた僕の方が悪い。

 それに奈緒と付き合っていることは妹にはばれているのだし、今さらコンクールのことなんか知られても別に不都合はないだろう。

「コンクールで優勝とかお兄ちゃんの彼女ってすごいんだね」

 妹が無邪気そうに言った。

「そんな子をいきなり彼女にできちゃうなんて、お兄ちゃんのことをなめすぎてたか」

 妹は笑った。

 嫉妬とか嫌がらせとかの感情抜きで、明日香が奈緒のことを話してくれるようになったことはありがたい。でも奈緒のことをすごいんだねと無邪気に言われると、改めて自分の奈緒の恋人としての位置の危うさを指摘されているようで、少し気分が落ち込んだ。

「ほら、これ返すよ。ご飯食べる?」

 驚いた僕の様子に、帰宅して初めて妹は少し気を悪くしたようだった。

「さっきから何なの? 妹がお兄ちゃんにお風呂沸かしたり食事を用意するのがそんなに不思議なの?」

「うん。不思議だ。だっておまえこれまでそんなこと全然しなかったじゃん。むしろ僕の方が家事の手伝いはしてただろ」

 僕は思わず本音を言ってしまった。

「ふふ。これからは違うから」

 でも妹は怒り出しもせず微笑んだだけだった。 テーブルについて妹が用意してくれた簡単な夕食を二人きりで食べた。何か不思議な感覚だったけど。別にそれは不快な感じではなかった。

「そういえばさ」

 機嫌は悪くなさそうだったけど、明日香がずっと沈黙していることに気まずくなった僕は、気になっていたことを尋ねた。

「何」

「おまえさ、僕の友だちと知り合いだったんだってな」

「お兄ちゃんの友だちって誰?」

「渋沢と志村さんっていうカップル。おまえの彼氏だったイケヤマとかというやつと、おまえと四人で遊んだことがあるっていってた」

「渋沢さんが? お兄ちゃんの知り合いとかって言ってなかったけど」

「知らなかったみたい。この前、偶然おまえの名前で気づいたみたいだな」

「ふ~ん」

 妹は関心がなさそうだった。

「お兄ちゃんが二人から何を聞いたのか知らないけど、それ全部過去のあたしだから」

「はい?」

「あたしはもう彼氏とも別れたし、遊ぶのも止めたの・・・・・・それは今さらピアノを習うわけには行かないけど」

「おまえ、何言ってるの」

 明日香は立ち上がって僕の隣に腰掛けた。

「いい加減に気づけよ。あたしはあんたのことが、お兄ちゃんのことが好きだってアピールしてるんじゃん」

 僕が避けるより早く妹は僕に抱きついてキスした。

 

 次の日は週末で学校は休みだった。このまま両親不在の自宅で妹と過ごすのは気まずいと思った僕は、まだ妹が起きる前に朝早くから外出することにした。

 別に目的はなかったので、どこかで時間を潰せればよかった。そう思って駅前まで行ってはみたものの、十時前ではろくに店も開いていなかった。

 とりあえず電車に乗ろうと僕は思った。休日の電車なら空いているし確実に座れるだろう。

 図書館とか店とかが開くまで車内で座って居眠りでもしていよう。よく考えれば最近はあまり睡眠が取れていなくて寝不足気味だった。

 僕はとりあえず学校と反対方向に向う電車に乗り込んだ。どうせならいつもと違う景色の方がいい。

 昨日の妹のキスは今までの悪ふざけとは少し違った感じだった。

 僕はすぐに妹を押し放して「もう寝るから」と言い放って自分の部屋に退散したのだけれど、僕に突き放されたときの妹の傷付いたような目が、昨晩からずっと脳裏を離れなかった。

 でもやはりそれは正しい行動だった。今では僕には彼女がいるのだから。

 それに、たとえ奈緒と付き合っていなくたって、妹と付き合うなんて考えられなかった。いくら血が繋がっていないとはいえ家族なのだ。妹と恋人同士になったなんて両親や渋沢たちに言えるわけがない。

 そう考えると昨日の明日香のキスはとてもまずい。というか、明日香は違うかもしれないけど僕にとってはそれは初めてのキスだった。

 もう考えることに疲れた僕は席について目をつぶった。すぐに眠気がおそって来てきた。電車の心地よい振動と車内の暖房に誘われて僕は眠りについた。

「・・・・・・さん」

 心地よい声が耳をくすぐった。

奈緒人さん」

 え? 僕は目を覚ました。

 さっきまで誰もいなかった隣に座っている女の子がいる。それは私服姿の奈緒だった。

 その時ようやく意識が覚醒した僕は、密着して話しかけている奈緒の顔の近さに狼狽した。

奈緒人さん、休みの日にどこに行くんですか」

 奈緒はそんな僕を見てくすくすと笑った。

「確かに偶然だけどそんなに驚かなくてもいいじゃないですか」

 突然現われた奈緒の姿に驚いて固まっている僕に、彼女は親しげな口調で言った。

「・・・・・・いつからいたの?」

「一つ前の駅から乗ったら奈緒人さんが目の前で寝てるんですもん。びっくりしちゃった」

 奈緒は笑った。

奈緒ちゃんはどこかに行くところ?」

 ようやく頭がはっきりした僕は、相変わらず密着している奈緒に聞いた。

「ピアノのレッスンなんです」

 奈緒は言った。

「こんなに早くから?」

 僕は驚いた。僕にとっては土曜日の朝なんて十時ごろまで寝坊するのが普通だっただけに。

「毎週土曜日の午前中は、お昼までレッスンなんです」

「大変なんだね」

 僕はそう言ったけど同時にコンクールの入賞のことを思い出して、それなら無理はないなと思った。

「好きでやっていることですから」

 奈緒はあっさりと答えた。

「それよりも偶然ですよね。奈緒人さんはどこにお出かけなんですか。学校とは逆方向ですよね」

 僕にぴったりと寄り添うように座っている奈緒と会話をしていると、さっきまで悩んでいた明日香とのことも、奈緒に対して感じていたコンプレックスも忘れられるようだった。

 でも、妹と一緒に家にいたくないから目的もなく外出しているとは言えない。

「いや、特に何でって訳じゃないよ。本とか探したくてぶらぶらと」

「本屋なら奈緒人さんの最寄り駅に大きなお店があるのに」

「たまにはあまり降りたことのない駅に降りてみたくてさ」

 苦しい言い訳だったけど、どういうわけかその言葉は奈緒の共感を呼んだようだった。

「ああ、何となくわかります。わたしもたまにそういう気分になるときがありますよ」

「そうなの」

奈緒人さんと初めて会った時ね、あの駅で初めて降りたんですよ。駅前の景色とかも新鮮で、何かいいことが起こりそうでドキドキしてました・・・・・・そしたら本当にいいことが起こったんですけどね」

 奈緒は少しだけ顔を赤くして笑った。

「でも週末は奈緒人さんと会えないと思ってたから今日は得しちゃったな」

 それは僕も同じだった。妹のことで胃が痛くなって自宅から逃げ出した僕だったけ、ど期せずして奈緒に会えたことが嬉しかった。

奈緒ちゃんのピアノのレッスンってどこでしているの」

「ここから、えーとここから四つ目くらいの駅を降りたとこです」

 僕は車内に掲示してある路線図を眺めた。

「降りたことない駅だなあ。あのさ」

「はい」

奈緒ちゃんさえ迷惑じゃなかったら、ピアノの教室まで一緒に行ってもいい?」

「本当ですか」

 奈緒は目を輝かせた。

「嬉しい。偶然電車で会えただけでも嬉しかったのに」

「そんな大袈裟な」

 そのときもっといい考えが思い浮んだ。もっとも奈緒に午後予定がなければだけど。一瞬だけためらったあと、僕は勇気を出して奈緒に言った。

「それとよかったらだけど。奈緒ちゃんのレッスンの終った後、一緒にどこかで食事とかしない?」

「え?」

 調子に乗りすぎたか。びっくりしているような奈緒の表情を見て僕は後悔した。奈緒の好意的な言動に調子に乗って、また志村さんの時のようにやらかしてしまったか。

 でもそれは杞憂だったようだ。

「でも・・・・・・いいんですか? レッスンが終るまで三時間くらいかかりますよ」

「うん。本屋とかカフェとかで時間つぶしてるから大丈夫」

「じゃあ、はい。奈緒人さんがいいんだったら」

「じゃあ決まりね」

 僕はそのとき財布の中身のことを思い出した。一瞬どきっとしたけど、よく考えれば大丈夫だった。

 今月はお小遣いを貰ったばかりで全然使っていないし、先月の残りも一緒に財布に入っている。食事どころか一緒に遊園地に行ったって平気なくらいだった。

「じゃあ、あたし後で家に電話して、お昼は要らないって言っておきます」

「家は大丈夫?」

「大丈夫・・・・・・と思います。大丈夫じゃなくても大丈夫にします」

「何それ」

 僕は笑った。

「本当に今日はラッキーだったなあ。一本電車がずれてたら、乗る車両があと一両ずれてたら会えなかったんですものね」

 奈緒は嬉しそうに言った。

 

 僕と奈緒は並んでその駅から外に出た。奈緒にとっては毎週通っている町並みだったのだろうけど、僕はこの駅に降りたのは初めてだった。

 駅から出ると冬の重苦しい曇り空が広がっていた。そのせいで初めて来た町並みはやや陰鬱に映ったけれど、よく眺めると静かで清潔な駅前だ。

 駅前には、開店準備中の本屋と既に開店しているチェーンのカフェがあった。これで奈緒を待っている間時間を潰すことができる。

 僕は奈緒に言われるとおり、駅から閑静な住宅地への続く道を歩いて行った。いつのまにか奈緒が僕の手を握っていた。

 曇り空の下を奈緒と手を繋ぎ合って知らない街を歩く。何か奇妙なほど感傷的な想いが僕の胸を締め付けた。

 初めて訪れた街だけど、奈緒と二人なせいか、どこか静かな住宅地が身近な場所のように感じられる。

 前に奈緒は僕に運命を信じるかと聞いたことがあった。正直運命なんて信じたことはなかった。それでも今この住宅地を奈緒と二人で並んで歩いていると、その様子に既視感を覚えた。しかもその感覚はだんだんと強くなっていく。

奈緒人さん?」

 奈緒が奇妙な表情で僕に言った。

「うん」

「笑わないでもらえますか」

「もちろん」

「わたしね。この道は幼い頃から何百回って往復した道なんです」

「うん」

「幼い頃からずっとここの先生に教えてもらってたから」

「そうなんだ」

「でも今日は初めてちょっと変な感じがして」

「変って?」

「わたし、前にも奈緒人さんと一緒にこの道を歩いたことがあるんじゃないかなあ」

 それは僕の感じた既視感と同じようなことなのだろうか。僕自身のその感覚は強くなりすぎていて、今では夕焼けに照らされたこの道を、奈緒と並んで歩いてるイメージが鮮明に頭に浮かんでいた。

「わたし、奈緒人さんと手を繋いでここを歩いたことあると思う」

 奈緒が戸惑ったように、でも真面目な表情で言った。

奈緒人さん、運命って信じますか」

 そう奈緒に聞かれたのは二度目だった。最初のときは曖昧な笑いで誤魔化したのだけど。

 僕は超常現象とかそういうことは一切受け付けない体質だ。世の中に生じることには、全て何らかの合理的な説明がつくはずだと信じている。

 でも、前にもこの場所で奈緒と一緒にいたことがあるというこの圧倒的な感覚には、合理的な説明がつくのものなのだろうか。

「よくわかんないや」

 僕は再びあやふやに答えた。

「そうですか。ひょっとしたらわたしと奈緒人さんって前世でも恋人同士か夫婦同士だったんじゃないかって思いました」

 奈緒は真面目な顔で言った。

奈緒人さんと一緒にここを歩いていた記憶って前世のものなんじゃないかなあ」

「どうだろうね」

 僕にはよくわからなかった。でも奈緒が感じたというその記憶は、その時僕も確かに感じていたのだ。

「運命とか前世とかはよくわからないけど・・・・・・昔、奈緒ちゃんと一緒にこの道を歩いたことがあるんじゃないかとは僕も思ったよ。その時は夏だった感じだけど」

「それも夕方だった思います」

 奈緒が言った。

「うん。僕も同じだ。まあ前世とかはわからないけど、僕と奈緒ちゃんって結ばれる運命なのかな」

 僕は真顔で相当恥かしいことを言った。

「それです、わたしが言いたかったのも。きっと運命的な出会いをしたんですね、わたしたち」

 奈緒が考え込んでいた表情を一変させて嬉しそうに言った。

 こんな話を聞いたら渋沢や志村さん、それに妹だって腹の底から笑うだろうな。

 僕はそのときそう思った。まるでバカップルそのものの会話じゃないか。

 でも僕にはそのことはまるで気にならなかった。僕は奈緒の小さな手を握っている自分の手に少しだけ力を込めた。

 奈緒の手もすぐにそれに応えてくれた。

 閑静な住宅地の中にそのピアノ教室はあった。外見は普通のお洒落な家のようだった。

「本当にいいんですか? 待っていただいて」

 奈緒が言った。

「うん。駅前に戻って時間を潰して十二時半くらいにここへ戻って待ってるから」

「じゃあお言葉に甘えちゃいますね。わたし男の人に迎えに来てもらうのって初めてです」

 僕は笑った。

「僕だって女の子を迎えに来るなんて初めてだよ。待っている間に食事できるお店を探しとくね」

「あ、はい。何だか楽しみです。今日は練習にならないかも」

 奈緒が赤くなって微笑んだ。

「それはまずいでしょ。都大会の高校生の部で優勝した奈緒ちゃんとしては」

「何で知ってるんですか?」

 奈緒は驚いたように言った。

「まあちょっとね」

「何か・・・・・・ずるい」

 奈緒がすねたように僕を見た。

「ずるいって」

「わたしは奈緒人さんのこと何も知らないのに。何でわたしのことだけ奈緒人さんが知ってるの?」

 僕は思わず笑ってしまった。知っているのはこれだけで、しかもそれは志村さんの情報だった。あとでそれを奈緒に説明しよう。

「話は後でいいでしょ。ほら早く入らないと遅刻しちゃうよ」

「・・・・・・奈緒人さんの意地悪」

 奈緒はそう言って恨めしそうな顔をしたけど、結局笑い出してしまったので、彼女の恨みは全然切実には伝わらなかった。

「後で全部話してもらいますからね」

 奈緒はその家のドアを開けて中に姿を消した。ドアを閉める前に、奈緒は僕に向かってひらひらと手を振った。

 奈緒が入っていった家のドアを僕はしばらく放心しながら眺めていた。

 奈緒が言っていたような前世とかを信じていたわけではなかったけど、運命の恋人とか言われることは気分が良かったので僕は特にそのことに反論しなかった。

 でも、確かなことは一つだけだ。僕が好きなのは、僕にとって一番大切な子はわずか数日前に付き合い出した奈緒だけだ。

 そろそろ明日香のアプローチに鈍感な振りをしているのも限界かもしれなかった。もし本当に妹が僕のことを好きなのだとしたら。

 結局妹を傷つけるなら、少しでも早いうちに自分の本心を明日香に告げたほうが、まだしもあいつの傷は浅いかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕は時間を潰すために駅前の方に向った。無事に駅前に着いたとき再び僕は違和感を感じた。

 僕は昔から方向音痴だった。方位的な感覚が鈍く地図を見るのも苦手なので、初めて来た土地でこんなにスムースに駅前に戻れるなんてあり得ない。まして行きは奈緒の案内のままに何も考えずに着いて行ったのだし。

 やはりここには来たことがあるのだ。そして体がそれを覚えていたのだろう。奈緒の言うような前世とかではなく、この世に生まれてから僕はこの駅とあのピアノ教室の間を歩いたことがあるのではないだろうか。

 でもそれがいつのことで、いったい何のためにピアノ教室になんか行ったことがあるのかまるでわからない。僕はピアノなんて習ったことはないのだ。

 駅前に戻ったときにはもう本屋が開店していた。本屋で適当に時間つぶしのための雑誌を買った僕は、カフェに行こうとしてふと気づいた。

 そういえば一緒に食事をする約束ができたのはいいけど、いったいどこに行けばいいのだろう。

 奈緒には偉そうにお店を探しておくよと言ったけど、本当は当てなんか何もない。女の子がどんな店を好むのかさえよくわからなかった。

 そういえば、渋沢と志村さんに誘われて放課後三人でファミレスに入ったことがあった。ドリンクバーだけで二時間くらい粘ったっけ。ああいう店なら無難なのかもしれない。

 僕はカフェに行くのを止めて駅前を探索することにした。お店の当てすらないけど、幸い時間だけは十分にあった。確か駅の自由通路を抜けた反対側が少し繁華街のようになっていたはずだ。

 僕はそちらの方に向かって駅の中を抜け、繁華街の方に行ってみた。

 幸いなことに西口の方はお店だらけだった。駅前広場に沿ってファミレスが数軒。その他にもちょっとお洒落そうなパスタ屋とかカフェとかも結構ある。そのほとんどが営業中だった。

 これなら大丈夫だ。この中のどこかのファミレスに入ればいいのだ。ようやく重荷を下ろした僕はほっとして東口のカフェに入った。

 カフェで窓際の席に落ち着いた僕は、さっき買った雑誌をめくる気がおきないまま、ぼんやりとさっきレストランを探していたときのことを思い出していた。

 ピアノ教室までの道もそうだけど、初めて降りたこの駅の西口が繁華街だなんて、僕はどうして何の疑問も持たずに思いついたのだろう。

 早く店を決めたくて焦っていた僕は、あのときは何も考えずに心の声に従って行動した。その結果、思ったとおり西口は繁華街で僕は探していた店を見つけることができた。覚えていないだけで、やはりこの街に来たことがあるのか。それが一番妥当な回答だった。

 まあいいや。今はそんなことを考えるよりもっと考えなきゃいけないことがある。

 雑誌なんて買う必要はなかったのだ。今日は期せずして奈緒とデートできることになったのだから、食事の後どうするのかも決めておかなければならない。よく考えれば時間をつぶすとか言っている場合じゃなかった。

 とりあえずファミレスで食事をする。ドリンクバーも頼んで少し長居したいものだ。それで奈緒とずっとお喋りするのだ。

 いつもなら僕の学校の最寄り駅まで三十分くらしか一緒にいられない。感覚的にはあっという間に別れのときが来ているような感じだった。だから、今日は奈緒さえよければずっと一緒に話をしていよう。その後は。

 奈緒は何時までに家に帰らなければならないのだろうか。

 とりあえず遊園地とか動物園とか水族館とかそういうのは時間的に無理だから、ファミレスを出た後はもう帰るしかないかもしれない。

 でも奈緒さえよければ彼女を家の途中まで送っていくことはできるだろう。さすがに家まで送るのは僕には敷居が高かったけど、駅までとかなら。

 そんなことを考えているうちにすぐに時間が経ってしまい、そろそろ奈緒をピアノ教室まで迎えに行く時間になっていた。

 思ったとおり奈緒が案内してくれなくても心の中の指示に従って歩くだけで、住宅街の複雑な道筋に迷うこともなく、さっき彼女と別れたピアノ教室の前まで来ることができた。その建物のドアの真ん前で待つほど度胸がない僕は、少し離れたところで教室のドアを見守った。もう少しで十二時半になる。

 やがて教室のドアが開いて中から女の子たちが連れ立って外に出てきた。

 華やかというとちょっと違う。でも決して地味ではない。その子たちは何か育ちのいいお嬢様という感じの女の子たちだった。彼女たちは笑いさざめきながら教室を出て駅の方に向かって行った。

 そういう女の子たちに混ざって女の子ほどじゃないけど男もそれなりに混じっているようだった。こちらは少し真面目そうで、女の子に比べると地味な連中ばかりだった。少なくとも渋沢みたいなタイプは一人もいない。

 でもよく考えれば僕だって外見はこの男たちの仲間なのだ。しかも彼らは外見はともかく音楽の才能には恵まれているんだろうけど、僕はそうじゃない。それなりに成績が良かったせいでこれまであまり人に劣等感を抱いたことがなかった僕だけど、それを考えると少し落ち込んでいくのを感じた。

 奈緒にふさわしいのはこの教室に通っているような男なんじゃないのか。ついにはそんな卑屈な考えまで僕の心に浮かんできた。

 そのとき唐突に頭の中に妹の姿が目に浮かんだ。明日香はビッチな格好を卒業したみたいだけど、中身はいったいどうなんだろう。

 少なくともこの教室に通っている女の子たちとは全く共通点がない。どういうわけか僕はこのとき明日香のことが気の毒になった。あいつだって色々悩んだ結果、大人しい外見に戻ることを選んだのだろうに、やっぱり僕の目の前を楽しそうに通り過ぎて行く華やかで上品な女の子たちには追いつけないのだろうか。

 やがて奈緒が姿を現した。彼女はドアから外に出て周りを見回している。僕を探してくれているのだ。少し離れたところで半ば身を隠すようにしているせいで、奈緒はすぐには僕が見つからなかったようだ。

 僕が奈緒の方に寄って行こうとした時、誰かが彼女に話しかけるのが見えた。

 それは黒ぶちの眼鏡をかけた大学生か高校生くらいの男だった。彼は馴れ馴れしく奈緒の肩に片手をかけて彼女を呼び止めた。奈緒もその男に気づいたのか振り向いて笑顔を見せた。その男が奈緒に何か差し出している。どうもピアノの譜面のようだ。譜面を受け取りながら奈緒は彼に何か話しかけた。彼にお礼を言っているみたいだった。

 奈緒の方に行こうとした僕はとっさに足をとめ、隣の家の車の陰に半ば身を隠すようにした。

 何でこんな卑屈なことをしているのだろう。僕は自分のしたつまらない行動を後悔した。奈緒はさっき僕のことを運命の人とまで言ってくれたんじゃないか。

 奈緒は笑顔で譜面を渡した彼に話しかけていたけど、目の方は相変わらずきょろきょろと周囲を見回しているようだった。僕を探してくれているのか。その時奈緒と目が会った。

 奈緒はその彼に一言何かを告げると嬉しそうに真っ直ぐに僕の方に向かって来た。その場に取り残された男は未練がましく何かを奈緒に話しかけたけど、彼女はもう彼の方を振り向かなかった。

「お待たせしちゃってごめんなさい」

 奈緒はそう言っていきなり僕の手を取った。

奈緒人さん、待っている間退屈だったでしょ」

 僕が心底から自分の卑屈な心の動きを後悔したのはその瞬間だった。こんなに素直に僕を慕ってくれている奈緒に対して、僕は卑屈で醜い劣等感を抱いていたのだから。

「いや、お店とか探してたら時間なんかあっという間に過ぎちゃった」

「そう? それなら良かったけど」

 僕たちの話を聞き取れる範囲には、その男のほかにも同じピアノ教室に通っているらしい女の子たちがまだいっぱいいたけれど、奈緒はその子たちの方を見ようとはしなかった。上目遣いに僕の顔を見ているだけで。

 さっきまでの卑屈な考えを後悔した僕だったけど、新たな試練も僕を待ち受けていた。周囲の女の子たちの視線が突き刺さるのを僕は感じた。ここまで周りを気にせずに僕に駆け寄っていきなり男の手を握る奈緒の姿は、周囲の女の子たちの注目を集めてしまったようだった。

 案の定そのうちの一人が奈緒に話しかけてきた。

奈緒ちゃんバイバイ」

 奈緒も僕から目を離して笑顔でそれに答えた。

「ユキちゃん、さよなら」

「・・・・・・奈緒ちゃん、その人って彼氏?」

 ユキという子は別れの挨拶だけでこの会話を終らせるつもりはないようだった。彼女の周りの女の子たちも、さっきから僕の手を握る奈緒をじっと見つめている、奈緒に話しかけた男も聞き耳を立てているようだ。

 奈緒はちらっと僕の顔を見た。それから彼女は少し紅潮した表情でユキという子に答えた。

「そうだよ」

 周囲の女の子たちがそれを聞いて小さくざわめいたけど、もう奈緒はそちらを見なかった。

「じゃあねユキちゃん。行きましょ、奈緒人さん」

 僕は奈緒に手を引かれるようにして駅前の方に向った。

「ごめんね」

 奈緒が言った。

「ごめんって何で」

「みんな噂好きだからすぐにああいうこと聞いてくるんですよ」

「別に気にならないよ。君の方こそ僕なんかが待っていて迷惑だったんじゃないの」

 僕は思わずそう言ってしまってすぐにそのことに後悔した。奈緒が珍しく僕の方を睨んだからだ。

「何でそんなこと言うんですか? わたしは嬉しかったのに。奈緒人さんが待っていてくれるって思うとレッスンに集中できないくらいに嬉しくて、集中しなさいって先生に怒られたけどそれでも嬉しかったのに」

「ごめん」

 僕は繰り返した。またやらかしてしまったようだ。でも奈緒はすぐに機嫌を直した。

「ううん。わたしこそ恥かしいこと言っちゃった」

 奈緒は照れたように笑った。

 この頃になると周りにはピアノ教室の生徒たちの姿はなくなっていた。

「一緒に食事して行ける?」

 僕は奈緒に聞いた。

「はい。さっきママに電話しましたし今日は大丈夫です」

「じゃあファミレスでもいいかな」

 ファミレスでもいいかなも何もファミレス以外には思いつかなかったのだけど、とりあえず僕は奈緒に聞いた。

「はい」

 奈緒は嬉しそうに返事した。

 相変わらず空模様はどんよりとした曇り空だったけど、その頃になると駅の西口もかなり人出で賑わいを増していた。そう言えばもうすぐクリスマスだ。

 目当てのファミレスで席に着くまで十五分くらい待たされたけど、その頃になると再び僕は気軽な気分になっていたせいで、奈緒と話をしているだけで、席に案内されるまでの時間が長いとは少しも思わずにすんだ。

「ご馳走するから好きなもの頼んで」

 僕は余計な念を押した。渋沢とかならこんな余計な念押しはしないだろう。一瞬僕は余計なことを言ったかなと後悔したけど、奈緒は素直にお礼を言っただけだった。

 とりあえず料理が来るまで僕は、自分が待っている間にこの駅前を探索したこと、不思議なことに初めて来たはずのこの街で少しも迷わなかったことを話した。

「う~ん。わたしと一緒に教室までの道を歩いた記憶があるというだけなら、前世の記憶だって主張したいところですけど」

 奈緒は少し残念そうだった。

奈緒人さん一人でもこの辺の地理に明るかったとしたら、奈緒人さんは昔この街に来たことがあるんでしょうね。忘れているだけで」

「何で残念そうなの」

 僕は思わず笑ってしまった。

「だって、前世でも恋人同士だった、わたしたちの記憶が残っていると思った方がロマンティックじゃないですか」

「それはそうだね」

「まあ、でも。よく思い出したら昔何かの用でここに来たことがあるんじゃないですか」

 奈緒は言った。

「さあ。記憶力はよくない方だからなあ。全然思い出せない。逆に言うとここに来たのが初めてだと言い切るほどの自信もない」

「それじゃわからないですね」

 奈緒は笑った。その時注文した料理が運ばれてきた。

 食事をしながら奈緒と他愛ない話を続けていたのだけど、だんだん僕はあの男が気になって仕方なくなってきた。変な劣等感とか嫉妬とかはもうやめようと思ったのだけど、これだけはどうしても聞いておきたかった。

「あの・・・・・・気を悪くしないでくれるかな」

 奈緒がパスタの皿から顔を上げた。

「何ですか」

「さっきの―――さっき君の肩に手を置いた男がいたでしょ? 随分馴れ馴れしいというか、結構親しそうだったんだけど彼は奈緒ちゃんの友だちなの?」

 奈緒はまた不機嫌になるかなと僕は覚悟した。でも彼女はにっこりと笑った。

「嫉妬してくれてるんですか?」

 その言葉と奈緒の笑顔を見ただけで、既に半ば僕は安心することができたのだ。

 その日、僕たちはそのファミレスで二時間以上も粘っていた。

 さっき奈緒の肩に手をかけて呼び止めた男がただのピアノ教室での知り合いで、奈緒にはその男に対する特別な感情は何もないと知って胸を撫で下ろした僕は、いつもよりリラックスして奈緒と会話することができた。

「何で奈緒人さんがコンクールのこと知ってるんですか?」

 いろいろとお互いのことを質問しあう時間が一段落したときに、奈緒が思い出したように尋ねた。そこで僕は種明かしをした。志村さんの情報だということを知った奈緒は、自分が載っているWEBページのプリントを見せられて驚いていた。

「写真まで載ってたんですね。初めて見ました」

 そう言って奈緒は自分の記事をしげしげと眺めていた。

 偶然に出会って始まった土曜日の午後のデートだったけど、この出会いで僕は奈緒のことが大分わかってきたし、奈緒にも自分のことを教えることができた。

 奈緒も僕も離婚家庭で育った。幸いなことに奈緒は再婚した両親のもとで幸せに普通の暮らしをしているみたいだし、明日香のことを除けば僕だってそうだった。

 でもここまで境遇が似ていると、奈緒が言う運命の人っていうのもあながちばかにできないのかもしれなかった。

 話はいつまでたっても尽きないし、ここでもっと奈緒とこうしていたいという気持ちもあったけど、そろそろ帰宅する時間が近づいてきていた。曇った冬の夕暮れは暗くなるのが早い。窓の外はもう完全に暗くなっている。

「そろそろ帰ろうか。結構暗くなって来ちゃったし」

 僕の言葉に奈緒は顔を伏せた。

「そうですね。もっと時間が遅く過ぎればいいのに」

「また月曜日に会えるじゃん。あと、よかったら今日家の近くまで送っていくよ」

 奈緒が顔を上げた。少しだけ表情が明るくなったようだった。

「本当ですか?」

「うん。君さえよかったら」

「はい・・・・・・うれしいです」

「じゃあ、そろそろ出ようか」

 僕は伝票を取って立ち上がった。

 

 僕たちは寄り添って帰路に着いた。さっきファミレスではあれほど話が盛り上がって、僕のくだらない冗談に涙を流すほど笑ってくれた奈緒だったけど、駅に向う途中でも、そして電車が動き出した後も彼女はもう自らは何も話そうとしなかった。

 奈緒はただひたすら僕の腕に抱きついて身を寄せているだけだった。

 週末の車内は空いていたので、僕たちは寄り添ったまま座席に着くことができた。奈緒は黙って僕の腕に抱きついているだけだったけど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。

「・・・・・・この駅です」

 途中の駅に着いた時奈緒が言った。

「じゃあ、途中まで送って行くね」

 奈緒はこくりと頷いた。

 さっきのピアノ教室があった駅と同じで、駅前は完全に住宅地の入り口だった。何系統もあるバスがひっきりなしに忙しく駅前広場を出入りしている。

「こっちです。歩くと十分くらいですけど」

「うん」

「もっと家が遠かったら一緒にいられる時間も増えるのに」

 奈緒がぽつんと言った。

 僕の腕に抱きついて顔を伏せているこの子のことがいとおしくて仕方がなかった。僕にできることなら何でもしてあげたい。僕は奈緒に笑顔でいて欲しかったのだ。

 閑静な住宅街であることはさっきのピアノ教室と同じで、奈緒の家がある街は綺麗な街並みだった。

 道の両側に立ち並ぶ瀟洒な家々からは、暖かそうな灯りが洩れて通りに反射している。

「あの角を曲がったところです」

 奈緒が言った。

「じゃあ、僕はこの辺で帰るよ」

 奈緒は僕の腕から手を離した。そして再び黙ってしまった。

 僕は奈緒の両肩に手をかけた。彼女は目を閉じて顔を上げた。僕は奈緒にキスした。

奈緒人と奈緒 第1部第3話

 それから、僕とナオは並んで駅の方に向かって歩き出した。歩き出してからもナオは僕の手を離そうとしなかった。

 妹が昨日酔ってたせいで僕は辛い思いをしたのだけれど、結果的に考えると、そのおかげで大切な告白の時間を妹に邪魔されずに済んだのだ。あの酔い具合では、あいつは僕の後をつけて僕の邪魔することなんかできなかっただろうから。

 そう思いついたからか、無事にナオと付き合えたせいか、僕は急にさっきまでのストレスから解放されて、身も心も軽くなっていった。

 こんな綺麗な子と手を繋いで歩いているのだ。普段の僕なら緊張のあまり震えていたとしても不思議はなかったけど、さっきまであり得ないほどのストレスを感じていたせいか、今の僕の心中は不思議と穏やかだった。

「僕の降りる駅までは一緒にいられるね」

 何でこんなに落ち着いて話せるのか、自分でも可笑しくなってしまうくらいだ。

「そうですね。三十分くらいは一緒にいられますね」

 ナオが微笑んだ。もうその顔には涙の跡はなかった。

「ナオトさんっていつもこの時間に登校してるんですか」

「普段はもう少し遅いんだ。この間はちょっと事情があってさ」

「そうですか。じゃあ明日からは」

 彼女はそこで照れたように言葉を切った。考えるまでもなく、これは僕の方から言わなきゃいけないことだった。

「よかったら明日から一緒に通学しない? 時間はもっと遅くてもいいし、ナオちゃんに合わせるけど」

 彼女は再びにっこり笑った。

「今あたしもそう言おうと思ってました。でもいきなり図々しいかなって考えちゃって」

「そんなことないよ。同じこと考えていてくれて嬉しい」

 僕は、僕らしくもなく口ごもったりもせず、普通に彼女と会話ができていることに驚いていた。緊張から開放され身も心も軽くなったとはいえ、何度も聞き返されながら、ようやく告白の意図が伝わった志村さんのときとはえらい違いだ。

 そこで僕は気がついたのだけど、きっとこれはナオの会話のリードが上手だからだ。

 照れているような遠慮がちな彼女の言葉は、実はいつもタイミングよく区切りがついていて、そのため、その後に続けて喋りやすいのだ。

 このとき一瞬だけ、僕はナオのことを不思議に思った。

 わずか数分だけ、それもろくに口も聞かなかった僕のことを好きになってくれた綺麗な女の子。まだ高校二年なのに上手に会話をリードしてくれるナオ。

 何で僕はこんな子と付き合えたのだろう。

 それでも手を繋いだままちょっと上目遣いに僕の方を見上げて微笑みかけてくれるナオを見ると、もうそんなことはどうでもよくなってしまった。

 渋沢も言っていたけど、僕には昔から考えすぎる癖がある。今はささいな疑問なんかどうだっていいじゃないか。付き合い出した初日だし、今は甘い時間を楽しんだっていいはずだ。

 やがてホームに滑り込んできた電車に並んで乗り込んだ後も、ナオは僕の手を離そうとしなかった。僕の手を握っていない方の手で吊り輪に掴まるのかと思ったけど、彼女はそうせずに空いている方の手を僕の腕に絡ませた。つまり揺れる電車の車内でナオを支えるのが、僕の役目になったのだ。

 そういう彼女の姿を見ると、最初に彼女を見かけたときの、儚げな美少女という印象は修正せざるを得なかった。むしろ出会った翌日に僕に会いに来たりメールで告白したり、彼女はどちらかというとむしろ積極的な女の子だったのだ。

 でもその発見は僕を困惑させたり幻滅させたりはしなかった。むしろ逆だった。

 僕は積極的なナオの様子を好ましく感じていた。何となく大人しい印象の女の子が自分の好みなのだと、今まで僕は考えていたけど、よく考えれば初めて告白して振られた志村さんだって大人しいというよりはむしろ活発な女の子だった。

 まあそんなことは今はどうでもいい。僕の腕に初めてできた僕の彼女が抱きついていてくれているのだから。

「ナオちゃんってさ」

 僕はもうあまり緊張もせず、僕の腕に抱き付いている彼女に話しかけた。

「そう言えば名前って・・・・・・」

「あ、あたしもそれ今考えていました。ナオトさんとナオって一字違いですよね」

「ほんと偶然だよね」

「偶然ですか・・・・・・運命だったりして」

 そう言ってナオは照れたように笑った。

「運命って。あ、でもさ。ナオって漢字で書くとどうなるの?」

 そう言えば僕とナオはお互いの学校と学年を教えあっただけだった。これからはそういう疑問もお互いに答えあって、少しづつ相手への理解を深めて行けるだろう。

「奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?」

 え。偶然もここまで来ると出来すぎだった。

「わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に、最後に人って加えただけなんだけど。奈緒人って書く」

 奈緒も驚いたようだった。

奈緒人さん、運命って信じますか」

 彼女は真面目な顔になって僕の方を見た。

 奈緒と一緒にいると、三十分なんてあっという間に過ぎていってしまった。

 学校がある駅に着いた時、僕は自分の腕に抱き付いている奈緒の手をどうしたらいいのかわからなくて一瞬戸惑った。

 このまま乗り過ごしてしまってもいいか。そう思ったとき、そこで彼女は僕の大学の場所を思い出したようだった。

「あ、ごめんなさい。明徳ってこの駅でしたね」

 奈緒は慌てたように僕の腕と手から自分の両手を離した。彼女の手の感触が失われると何だかすごく寂しい気がした。

「ここでお別れですね」

「うん・・・・・・明日は時間どうしようか」

「あたしは奈緒人さんに合わせますけど」

「じゃあ今日より三十分くらい遅い時間でいい?」

「はい。また明日あそこで待ってます」

 ここで降りるなら、もう乗り込んできている乗客をかき分けないと、降車に間に合わないタイミングだった。

 僕は彼女に別れを告げて、乗り込んできている人たちにすいませんと声をかけながら、何とかのホームに降り立つことができた。

 

「何の話してるの?」

 昼休みの学食のテーブルで僕と渋沢が昼食を取っていると、志村さんが渋沢の隣に腰掛けた。

「おお、遅かったな。いやさ、奈緒人にもついに彼女ができたって話をさ」

「うそ!」

 志村さんは彼の話を遮って目を輝かせて叫んだ。

「マジで? ねえマジ?」

「おう。マジだぞ。しかも富士峰の高校二年の子だってさ」

「え~。富士峰ってお嬢様学校じゃん。いったいどこで知り合ったの?」

 以前の僕なら、一度は本気で惚れて告白しそして振られた女さんのその言葉に傷付いていたかもしれなかったけど、実際にこういう場面に出くわしてみると、不思議なほど動揺を感じなかった。

「通学途中で偶然出会って一目ぼれされた挙句、メアドを聞かれて次の日メールで告られたんだと」

 渋沢が少しからかうように彼女に説明した。

 確かに事実だけを並べるとそのとおりだけど、何だか薄っぺらい感じがする。でもそれが志村さんにどういう印象を与えたとしても、今の僕にはさほど気にならなかった。

奈緒人君にもついに春が来たか。その子との付き合いに悩んだらお姉さんに相談しなよ」

 志村さんが笑って言った。

「誰がお姉さんだよ」

 僕も気軽に返事をすることができた。

奈緒人さあ。今度その子紹介しろよ。ダブルデートしようぜ」

「ああ、いいね。最近、明と二人で出かけるも飽きちゃったしね」

 志村さんも渋沢の提案に乗り気なようだった。

「おい。飽きたは言い過ぎじゃねえの」

 渋沢が言ったけど、その口調は決して不快そうなものではなかった。

「そうだよ。四人で遊びに行こうぜ。昨日イケヤマと彼女が別れちゃってさ。それまでは結構四人で遊びに行ったりしてたんだけどな」

「イケヤマって君の中学時代の友だちだっけ?」

「おう。何か年下の高校生の子と付き合ってたんだけど、昨日いきなり振られたんだって」

「イケヤマ君、あの子と別れちゃったの?」

 志村さんが驚いたようだった。

「昨日イケヤマからメールが来てさ。振られたって言ってた」

「ふ~ん。でもイケヤマ君の彼女って、結構遊んでいるみたいなケバイ子だったし、他に好きな子ができたのかもね」

「まあそうなんだけどさ。イケヤマって遊んでいるように見えて意外と真面目だからさ。彼女に突然振られて悩んでるみたいでな。ちょっと心配なんだ」

「イケヤマ君の彼女って明日香ちゃんって言ったっけ?」

「そうだよ。ていうか名前も覚えてねえのかよ。結城明日香だって・・・・・・ってあれ?」

 渋沢はそこで何か気づいたようで、少し戸惑った表情を見せた。

奈緒人の高二の妹ってアスカちゃんって名前だったよな?」

「え? 結城って、まさか・・・・・・」

「そのイケヤマってやつ、髪が金髪だったりする?」

 僕は聞いてみたけど、どうもこれは妹で間違いないようだった。でもどうしてあいつは突然彼氏と別れたのだろう。

 渋沢はイケヤマとかいう妹の彼氏のことを結構真面目な奴と言っていたけど、僕にはそうは見えなかった。むしろ先々を考えず、刹那的に遊び呆けているどうしようもないやつにしか見えなかった。きっと妹の飲酒だってそいつの影響に違いない。

「多分それ、うちの妹の明日香のことだ」

 僕は淡々と言った。

「何か・・・・・・悪かったな、奈緒人」

奈緒人君ごめん。あたし妹さんのこと、結構遊んでいるみたいなケバイ子とか、酷いこと言っちゃった」

 志村さんは僕に謝ってくれたけど、別に彼女は間違ったことは言っていない。

「いや。志村さんの言ってることは別に間違ってないよ」

 僕は彼女に微笑みかけた。

「本当に妹の生活ってすごく乱れてるんだ。妹は僕の一番の悩みの種だよ」

「でも・・・・・・」

 志村さんは相変わらず、申し分けそうな表情で俯いていた。

 放課後になって、僕がサークル棟に行く渋沢と別れて校門を出ようとしたとき、そこにたたずんでいる志村さんに気がついた。

「誰かと待ち合わせ?」

 僕は彼女に話しかけた。

「渋沢はサークルだよね?」

「・・・・・・そうじゃないの。もう一度ちゃんと奈緒人君に謝っておこうと思って」

「あのさあ・・・・・・」

「うん」

「僕は全然気にしてないって。それにさっきだって言ったでしょ? 君の言ったことは本当のことだよ」

 彼女は俯いていた顔を上げた。

「それでも。誰かに家族のことを変な風に言われたら嫌な気分になるでしょ? あたしだって自分の兄貴のことをあんなふうに馬鹿にした言い方されたら嫌だもん。だから・・・・・・ごめんなさい。君の妹とは知らなかったけど、明日香ちゃんのこと酷い言い方しちゃっててごめん」

 明日香のことをビッチ呼ばわりされた僕だったけど、正直に言うとあの時はそのことについてそんなに不快感を感じなかった。

 志村さんに言われるまでもなく、かなり控え目に言っても、実際の妹はビッチというほかにないような女だと僕は思っていた。

 それでもあいつは僕の家族だった。志村さんが、他人の家族のことを悪く言ったことを思い悩む気持ちもよくわかった。

 渋沢たちはああいう風に言ったけど、妹がビッチと呼ばれても仕方がないことは事実だった。僕だって妹のビッチな行動の直接的な被害者だったのだ。

 それでもやはり、家族というのは特別なのかもしれない。それが全く血がつながっていない義理の妹であっても。

 今までだって本当は、誰かの口から妹の悪口を聞くと、僕はすごく落ち着かない、いたたまれないような気分になったものだ。指摘されていることは、普段から僕が思っていた感想と全く同じものだったとしても。

「もういいって」

 それでも僕は志村さんに微笑んだ。

「本当に気にしてないよ」

「ごめん」

「途中まで一緒に帰る?」

「いいの?」

「渋沢が嫉妬しないならね」

「それはないって」

 不器用な僕の冗談にようやく志村さんは笑ってくれた。

「でも何で妹はそのイケヤマってやつと別れたのかなあ」

 ようやく僕はそっちの方が気になってきた。

「遊び人同士うまく行ってそうなものだけど」

 志村さんは少しためらった。でも結局僕にイケヤマと妹の印象を話してくれた。

「あたしも何度か四人でカラオケ行ったりゲーセンに行ったくらいなんだけど、さっき明が言ってたのは嘘じゃないよ。イケヤマ君って見かけは酷いけど中身は結構常識的な男の子だった」

 その真偽は僕にはわからないけど、一度外で妹と妹の彼氏を見かけたことがある僕としては、素直には信じられない話だった。

「それでね・・・・・・ああ、だめだ。また奈緒人君の妹さんの悪口になっちゃうかも」

 僕は笑った。

「だから気にしなくていいって」

「うん。明日香ちゃんって別にイケヤマ君じゃなくても誰でもいい感じだった。妹さんって、別に本気で彼氏なんか欲しくないんじゃないかな」

「まあ、そういうこともあるかもね。背伸びしたい年頃っていうか、自分にだけ彼氏がいないのが嫌っていうことかもね」

「それとはちょっと違うかも。何て言うのかなあ、彼氏を作って遊びまくって何か嫌なことから逃げてる感じ?」

「そうなの?」

 そうだとしたら妹はいったい何から逃げていたのだろう? 再婚家庭の中で唯一気に入らない僕からか。

「まあ、あんまりマジに受け取らないで。実際に明日香さんと会ったのって、そんなに多くはないし、それほど親しくなったわけでもないから」

「うん」

「そんなことよりさ」

 ようやく元気を取り戻した志村さんが、突然からかうような笑みを浮べた。

「富士峰の彼女ってどんな子?」

「どんな子って」

「どういう感じの子かって聞いてるの。大分年下だけどどういうところが好きになったの?」

 僕が奈緒にマジぼれしていなければ、それはトラウマ物のセリフじゃんか。僕は志村さんに振られたことがあるのだし。

 でもこの時の僕は彼女のからかいには動じなかった。多分それだけナオに惹かれていたからだったろう。

 志村さんと別れて帰宅し自分の部屋に戻る前にリビングのドアを開けると、妹がソファに座ってテレビを見ていた。

 僕に気がついた妹は僕の方を見た。

 どうせ無視されるか嫌がらせの言葉をかけられるのだろう。僕はそう思った。

 昨日のこいつの醜態に文句を言いたいけど、そんなことをしたって泥仕合になるだけだ。そのことを僕は長年のこいつとの付き合いで学んでいた。

「お兄ちゃん、お帰りなさい」

 妹が言った。

 え? 何だこの普通の兄妹の間のあいさつは。無視するか悪態をつくかが今までの妹のデフォだったのに。

 そのとき僕は奇妙な違和感を感じた。そしてその違和感の原因はすぐにわかった。

 どうしたことか、妹の濃い目の茶髪が黒髪に変わっているのだった。そして帰宅したばかりなのか、いつものスウェットの上下に着替える前の妹の服装は、いつもの派手目なものではなかった。

 平日に制服ではなく私服を着ていること自体も問題だと思うけど、そのことを考えるよりも僕は今は妹が着ている服装から目が離せなかった。

 どういうことなんだろう?

 妹は薄いブルーのワンピースの上に、ピンクっぽいフェミニンなカーデガンを羽織っていた。

 僕は奈緒の制服姿しか見たことがなかったけど、きっと清純な彼女ならこういう服装だろうなって妄想していたそのままの姿で、妹がソファに座っていたのだ。

「どしたの? お兄ちゃん。あたしの格好そんなに変かな?」

 僕はやっと我に帰った。

「いや変って言うか、何でおまえがそんな格好してるんだよ?」

「そんな格好って何よ。失礼だなあお兄ちゃんは」

 妹は落ち着いてそう言って、ソファから立ち上がるなりくるっと一回転して見せた。

「そんなに似合わない? お兄ちゃんにそんな目で見られちゃうとあたし傷ついちゃうなあ」

「いや、似合ってる・・・・・・と思うけどさ。それよりその髪はどうした? 何で色が変わってるんだよ」

「何でって、美容院で黒く染め直しただけだし」

 僕は妹の姿を改めて真面目に見た。

 その姿は正直に言うと心を奪われそうなほど可愛らしかった。その外見が内面と一致しているようなら、僕は自分の妹に恋をしていたかもしれない。

 でもそうじゃない。僕は昨日の妹の醜態を思い出した。こいつが珍しくワンピースを着ていることなんかどうでもいいんだ。

 僕は昨日のこいつの酔った醜態のことで文句でも言おうと思ったのだけど、こいつだって彼氏と別れたばかりだったことを思い出した。

 昨日や一昨日のこいつの嫌がらせのことは少し忘れよう。

「おまえさ、何かあったの?」

 妹は僕を見て笑った。そしてどういうわけか、その笑いにはいつものような憎しみの混じった嘲笑は混じっていないようだった。

「何にもないよ。お兄ちゃん、今日は何か変だよ」

 変なのはおまえだ。僕は心の中で妹に言った。それにしても妹の黒髪ワンピ、そしてお兄ちゃん呼称の威力は凄まじかった。これまでが酷すぎたせいかもしれないけど。

 それからしばらく、僕は呆然として清楚な美少女のような妹、明日香の姿を見つめ続けていた。

「お兄ちゃん?」

 明日香がそう言って僕の隣に寄り添った。

「何だよ」

 僕は無愛想に言って、近寄ってくる妹から体を離そうとした。ただ僕の視線の方は、突然清楚な美少女に変身した妹の容姿に釘付けになっていた。

「お兄ちゃん・・・・・・何であたしから逃げるのよ」

「何でって・・・・・・。おまえこそ何でくっついて来るんだよ」

「ふふ」

 妹が笑みを浮べた。それは複雑な微笑みだった。僕にはその意味がまるで理解できなかった。

「何でだと思う? お兄ちゃん」

 そう言って妹は僕の腕を引っ張った。いきなりだったために僕は抵抗できず、妹に引き摺られるままソファに座り込んだ、妹が僕に密着するように隣に座った。

「いや、マジでわかんないから。僕は自分の部屋に行くからおまえももう僕から離れろよ」

「そんなに慌てなくてもいいでしょ。あたしが近くにいると意識してドキドキしちゃうの?」

「そうじゃないって。つうかいつも僕に突っかかるくせに、何で今日はそんなに僕にくっつくんだよ」

 その時妹の細い両腕が僕の首に巻きついた。

「何でだと思う? お兄ちゃん」

 再び妹がさっきと同じ言葉を口にした。

 僕は妹の体を自分から引き離そうとしたけど、妹は僕に抱きついたままだった。

「何でだと思う?」

 妹は繰り返した。

「そう言えば、この間お兄ちゃんと一緒にいた子って高校生でしょ? 何年生?」

 僕は明日香の突然の抱擁から逃れようともがいたけど、彼女の腕は僕の首にしっかりと巻きついていて簡単には解けそうになかった。

「二年だけど」

 仕方なく僕は妹に答えた。本当にいったい何なのだろう。

「お兄ちゃん・・・・・・本当にあの子と付き合ってるの? あの子何って名前?」

「・・・・・・おまえには関係ないだろ」

「いいから教えて。教えてくれるまでお兄ちゃんから離れないからね」

 ここまで来たら全て妹に明かすしかなさそうだ。妹を振り放すには今はそれしか手がなかった。

「付き合ってるよ。つうか今日から付き合い出した」

「え? じゃあ相合傘してたのとか昨日待ち合わせしてたのは?」

「あの時はまだ付き合い出す前だよ」

「いったい、いつ知り合ったのよ」

「だから傘に入れてあげた時からだけど」

「じゃあ知り合ったばっかじゃん。お兄ちゃんってヘタレだと思ってけどそんなに手が早かったのか」

 それには答える必要はないと僕は思った。

「で、あの子の名前は?」

「鈴木奈緒

「ふーん。で、その奈緒って子のこと好きなの?」

「・・・・・・好きじゃなきゃ付き合うわけないだろ」

 妹は僕に抱きついていた手を放して俯いた。僕はほっとして自分の部屋に戻ろうとした。その時ふと覗き込んだ妹の目に涙が浮かんでいることに気がついた。

 立ち上がりかけていた僕は、再びソファに腰を下ろした。

「泣いてるの? おまえ」

「・・・・・・泣いてない」

 僕は最初、明日香が僕に彼女ができて寂しくて泣いているんじゃないかと考えた。

 でもそんなはずはなかった。長年、明日香は僕のことを嫌ってきた。しかも嫌って無視するだけでななく、直接的な嫌がらせまでされてきたのだ。それほどに憎悪の対象である僕に彼女ができたからといって、寂しがったり嫉妬したりするはずはないのだ。

 その時、ようやく僕は思いついた。

 妹にとって彼氏と別れたのはかなりの衝撃だったのではないか。

 渋沢の話では妹の方からイケヤマとか言う彼氏を振ったということだったけど、妹にはそいつを振らざるを得ないような事情があったのだろう。

 渋沢と志村さんは、イケヤマのことを外見と違って真面目な奴だと考えているようだったけど、一度見かけたそいつの様子からは、真面目なんて言葉はそいつには似合わないとしか言いようがなかった。

 そうだ。妹はイケヤマの何らかの行為、それもおそらく粗野な態度に嫌気が差してそいつのことを振ったのだろう。それでもそれは、心底そいつを嫌いになっての別れではなかったのかもしれない。

 だからこいつも今は辛いのだ。

「おまえ無理するなよ」

 今度は僕の方から妹の肩を抱き寄せた。こんな行為を妹にするのは生まれて初めてだった。でも、どんなに仲の悪い兄妹だとしても、妹が悩み傷付いているならそれを慰めるのが兄貴の役割だろう。

 自分だけ部屋にこもって、奈緒のことを思い浮かべて幸福感に浸っているわけにもいかないのだ。

 突然、僕に肩を抱き寄せられた妹は、一瞬驚いたように凍りついた。それからどういうわけか妹の顔は真っ赤に染まった。僕は妹の肩を抱いたままで話を続けた。

「彼氏と別れたんだろ? それで辛くて悩んで、気分転換に髪を黒くしたり服を変えたんだろ?」

 僕は話しながら妹の顔を覗き込んだ。そのときは自分では、親身になって妹の相談に乗ろうとしているいい兄貴のつもりになっていた。

「悩んでいるなら聞いてやるから、ふざけてないでちゃんと話せよ。おまえが僕のことを嫌っているのは知ってるけど、こんな辛い時くらいは僕を頼ったっていいじゃないか」

 妹は僕の言葉を聞くと突然僕の手を振り払って、自分の体を僕から引き剥がした。

 妹はもはや照れたような紅潮した表情ではなかった。そしてその清楚な格好には似合わない怒ったような表情で言った。

「あんた、バカ?」

「え?」

「あんたが珍しくあたしを抱いてくれるから期待しちゃったのに、あんたが考えてたのはそっちかよ」

 妹の話し方には、今まで取り繕っていた仮面が剥がれて地が表れていた。

 僕はそのとき、いつものように罵詈雑言を浴びせられることを覚悟した。結局いつもと同じ夜になるのだろうか。

 でも妹は気を取り直したようだった。喋り方もさっきまでの普通の妹のようなものに戻っている。

「まあお兄ちゃんなんかに最初からあんまり期待していなかったからいいか」

 突然機嫌を直したように妹は笑顔になった。

「まあそんな勘違いでも、一応あたしのことを慰めようとしてくれたんだもんね。ありがとお兄ちゃん」

「いや。でも彼氏と別れたのが原因じゃないなら、いったい何で髪の色とかファッションとか今までがらりと変えたんだよ」

奈緒って子を見てこの方がお兄ちゃんの好みだとわかったから」

 明日香は僕の方を見つめて真面目な顔で答えた。

「明日からはもうギャルっぽい格好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっとこの路線で行くから」

 妹は照れもせずに平然とそう言い放った。

 僕のため? 僕は僕のことを大嫌いなはずの妹の顔を呆然として眺めた。

 

 自分の部屋でベッドに入ってからも、僕は妹の言葉が気になって眠ることができなかった。付き合い出した初日だし、奈緒のこと以外は頭に浮かばないのが普通だろうけれども。

 でもこの瞬間にベッドの中で僕の脳裏に思い浮ぶのは妹の言葉だった。

 明日香は僕と奈緒が一緒にいるところを目撃し、奈緒が僕の好きな人だということを知った。そして彼氏と別れた。その後、美容院に行って髪を黒く染め、服装も大人し目で清楚っぽい服に着替えた。

 思い出してみれば、明日香の爪もいつもの原色とかラメとかの派手なマニュキアではなく、普通に何も手を加えられていないほんのりとした桜色のままだった。

 その全ては僕の好みに合わせたのだと明日香は言った。

 いったいそれは何を意味しているのか。

 本当は明日香は昔から僕のことを好きだったのだろうか。

 彼女の言動からは、さすがにそれ以外の回答は導き出すことはできなかった。

 少なくとも明日香の変化に対して唯一僕が思いついた理由、つまり彼氏と別れたから妹はイメチェンをしたのだということは、明日香に一瞬で否定されてしまったのだし。

 今さらながら気になるのは、何で妹が彼氏を振ったのかということだった。もちろん彼氏のどこかが許せなくて別れたということなのだろうけど。

 それにしても明日香が僕のことを好きなのかもしれないという前提でそれを考えると、僕が奈緒に出会ったことを知ってすぐに彼氏を振った妹の行動には、僕のことが気になるからということ以外の理由は考えづらかった。

 僕と奈緒のことを気にして自分もフリーになったということか。

 そうなると、もうこいつが僕のことを好きななのではないかということ以外に僕には思いつくことはなかった。

 血がつながっていないと言っても、明日香は妹なのだ。好きになられてもその先はないじゃないか。

 いや、それ以前に僕が好きなのは付き合い始めてばかりの奈緒なのだ。

 

 翌朝、登校の支度を済ませて僕が階下に下りていくと、珍しく父さんと母さん、それに明日香までが、既にキッチンのテーブルについて朝食を取っていた。

 昨日、僕が眠ってしまった後の遅い時間に両親は帰宅したのだろう。この様子だと両親はあまり眠れなかったではないかと僕は二人を見て思った。

「おはよう奈緒人」

「おはよう奈緒人君、何か久しぶりね」

 両親が同時に僕に微笑んで挨拶してくれた。久しぶりに両親に会って笑って声をかけてくれるのは嬉しいのだけど、こういう時いつも僕は明日香の反応が気になった。

 父さんはともかく、母さんは常に僕に優しかった。母さんが自分の本当の母親ではないと知らされたとき、僕は母さんが途中で自分の息子になった僕に気を遣って優しく振る舞っているのだろうと、ひねくれたことを考えたこともあった。

 でもそういう偽りならどこかでぼろが出ていただろう。それに気に入らない義理の息子に気を遣っているにしては、母さんの笑顔はあまりに自然だった。

 それでいつの間にか僕はそういうひねくれた感情を捨てて、素直に母さんと笑顔で話ができるようになったのだった。今の僕は父さんと同じくらい母さんのことを信頼している。

 ただ唯一の問題は妹の明日香だった。

 無理もないけど、明日香は自分の母親を僕に取られたように感じていたらしい。僕が母さんが義理の母親だと知ってからも、母さんを信頼し、むしろ前よりも母さんと仲良くなったあたりから、明日香は僕のことをひどく嫌って、反抗的になった。

 挙句に服装が派手になり、髪を染めて遊び歩くようになったのだった。僕とは違う自分を演出するつもりだったのだろうけど、もちろん母さんと明日香の関係においてもそれは良い影響なんて何も及ぼさなかった。

 やがて母さんは明日香の生活態度をきつく注意するようになった。母さんに「何でお兄ちゃんはちゃんと出来てるのにあんたはできないの」と言われた後の明日香の切れっぷりは凄まじかった。

 その頃の明日香は、やり場のない怒りを全て僕に向けたのだった。

 こういう両親と過ごす朝のひと時は、妹さえいなければ僕の大切な時間だったのだけど、両親の僕に向けた柔らかな態度に明日香はまた一悶着起こすのだろうと僕は覚悟してテーブルについた。

「おはよう」

 僕は誰にともなく言った。明日香がそう思うなら、自分に向けられた挨拶だと思ってくれてもよかった。

「おはよお兄ちゃん」

 明日香が柔らかい声で言った。

「今日は早く出かけなくていいの?」

 え? 一は自分の耳を疑った。

 朝、こいつから普通に挨拶されたのは初めてかもしれない。僕は一瞬言葉に詰まった。それでも僕はようやく平静に返事をすることができた。

「うん。別に早く出かける用事はないし」

「ないって・・・・・・待ち合わせはいいの?」

 そういえば明日香は、僕と奈緒が待ち合わせの時間を変更したことを知らないのだった。

 きっといつもと同じ時間に待ち合わせするものだと思っているのだろう。でも何で明日香が僕と奈緒の待ち合わせの時間を心配するのだろう。

 一瞬、僕の脳裏に昨日の明日香の言葉が思い浮んだ。

「明日からはもうギャルっぽい格好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっとこの路線で行くから」

 その言葉を思い浮かべながら改めて妹を眺めると、昨日の今日だから髪がまだ黒いのは当然として、中学校の制服まで心なしか大人しく着こなしているように見えた。とりあえずスカート丈はいつもより大分長い。

「別に・・・・・・それよりおまえ、その格好」

「昨日言ったでしょ? お兄ちゃんがこっちの方がいいみたいだから、これからは大人しい格好するって」

 明日香は両親の前で堂々と言い放った。

 僕が妹に返事をするより先に母さんが妹に嬉しそうに話しかけた。

「あら。明日香、今朝はずいぶんお兄ちゃんと仲良しなのね」

「そうかな」

 照れもせずに明日香が冷静に答えた。

「そうよ。いつもは喧嘩ばかりしてるのに。それに明日香、今日のあなたすごく可愛いよ。いつもより全然いい」

「そう?」

 明日香はここで初めて少し顔を赤くした。

「お兄ちゃんはどう思う?」

 とりあえず、僕は口に入っていたトーストをコーヒーで流し込みながら思った。明日香が僕のことを好きなのかどうかはともかく、彼女のこの変化は良いことだと。

「うん、似合ってる。と言うか前の格好はおまえに全然似合ってなかった」

 言ってしまってから気がついたけど、これは明らかに失言だった。似合っているで止めておけばよかった。

 何も前のこいつのファッションまで貶すことはなかった。僕は今度こそ妹の怒りを覚悟した。

 でも、明日香は赤くなって俯いて「ありがとう、お兄ちゃん」と言っただけだった。

「本当に仲良しになったのね。あなたたち」

 母さんが僕たちを見て再び微笑んだ。