yojitaurog’s blog

自作小説を掲載しています。

奈緒人と奈緒 第1部第3話

 それから、僕とナオは並んで駅の方に向かって歩き出した。歩き出してからもナオは僕の手を離そうとしなかった。

 妹が昨日酔ってたせいで僕は辛い思いをしたのだけれど、結果的に考えると、そのおかげで大切な告白の時間を妹に邪魔されずに済んだのだ。あの酔い具合では、あいつは僕の後をつけて僕の邪魔することなんかできなかっただろうから。

 そう思いついたからか、無事にナオと付き合えたせいか、僕は急にさっきまでのストレスから解放されて、身も心も軽くなっていった。

 こんな綺麗な子と手を繋いで歩いているのだ。普段の僕なら緊張のあまり震えていたとしても不思議はなかったけど、さっきまであり得ないほどのストレスを感じていたせいか、今の僕の心中は不思議と穏やかだった。

「僕の降りる駅までは一緒にいられるね」

 何でこんなに落ち着いて話せるのか、自分でも可笑しくなってしまうくらいだ。

「そうですね。三十分くらいは一緒にいられますね」

 ナオが微笑んだ。もうその顔には涙の跡はなかった。

「ナオトさんっていつもこの時間に登校してるんですか」

「普段はもう少し遅いんだ。この間はちょっと事情があってさ」

「そうですか。じゃあ明日からは」

 彼女はそこで照れたように言葉を切った。考えるまでもなく、これは僕の方から言わなきゃいけないことだった。

「よかったら明日から一緒に通学しない? 時間はもっと遅くてもいいし、ナオちゃんに合わせるけど」

 彼女は再びにっこり笑った。

「今あたしもそう言おうと思ってました。でもいきなり図々しいかなって考えちゃって」

「そんなことないよ。同じこと考えていてくれて嬉しい」

 僕は、僕らしくもなく口ごもったりもせず、普通に彼女と会話ができていることに驚いていた。緊張から開放され身も心も軽くなったとはいえ、何度も聞き返されながら、ようやく告白の意図が伝わった志村さんのときとはえらい違いだ。

 そこで僕は気がついたのだけど、きっとこれはナオの会話のリードが上手だからだ。

 照れているような遠慮がちな彼女の言葉は、実はいつもタイミングよく区切りがついていて、そのため、その後に続けて喋りやすいのだ。

 このとき一瞬だけ、僕はナオのことを不思議に思った。

 わずか数分だけ、それもろくに口も聞かなかった僕のことを好きになってくれた綺麗な女の子。まだ高校二年なのに上手に会話をリードしてくれるナオ。

 何で僕はこんな子と付き合えたのだろう。

 それでも手を繋いだままちょっと上目遣いに僕の方を見上げて微笑みかけてくれるナオを見ると、もうそんなことはどうでもよくなってしまった。

 渋沢も言っていたけど、僕には昔から考えすぎる癖がある。今はささいな疑問なんかどうだっていいじゃないか。付き合い出した初日だし、今は甘い時間を楽しんだっていいはずだ。

 やがてホームに滑り込んできた電車に並んで乗り込んだ後も、ナオは僕の手を離そうとしなかった。僕の手を握っていない方の手で吊り輪に掴まるのかと思ったけど、彼女はそうせずに空いている方の手を僕の腕に絡ませた。つまり揺れる電車の車内でナオを支えるのが、僕の役目になったのだ。

 そういう彼女の姿を見ると、最初に彼女を見かけたときの、儚げな美少女という印象は修正せざるを得なかった。むしろ出会った翌日に僕に会いに来たりメールで告白したり、彼女はどちらかというとむしろ積極的な女の子だったのだ。

 でもその発見は僕を困惑させたり幻滅させたりはしなかった。むしろ逆だった。

 僕は積極的なナオの様子を好ましく感じていた。何となく大人しい印象の女の子が自分の好みなのだと、今まで僕は考えていたけど、よく考えれば初めて告白して振られた志村さんだって大人しいというよりはむしろ活発な女の子だった。

 まあそんなことは今はどうでもいい。僕の腕に初めてできた僕の彼女が抱きついていてくれているのだから。

「ナオちゃんってさ」

 僕はもうあまり緊張もせず、僕の腕に抱き付いている彼女に話しかけた。

「そう言えば名前って・・・・・・」

「あ、あたしもそれ今考えていました。ナオトさんとナオって一字違いですよね」

「ほんと偶然だよね」

「偶然ですか・・・・・・運命だったりして」

 そう言ってナオは照れたように笑った。

「運命って。あ、でもさ。ナオって漢字で書くとどうなるの?」

 そう言えば僕とナオはお互いの学校と学年を教えあっただけだった。これからはそういう疑問もお互いに答えあって、少しづつ相手への理解を深めて行けるだろう。

「奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?」

 え。偶然もここまで来ると出来すぎだった。

「わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に、最後に人って加えただけなんだけど。奈緒人って書く」

 奈緒も驚いたようだった。

奈緒人さん、運命って信じますか」

 彼女は真面目な顔になって僕の方を見た。

 奈緒と一緒にいると、三十分なんてあっという間に過ぎていってしまった。

 学校がある駅に着いた時、僕は自分の腕に抱き付いている奈緒の手をどうしたらいいのかわからなくて一瞬戸惑った。

 このまま乗り過ごしてしまってもいいか。そう思ったとき、そこで彼女は僕の大学の場所を思い出したようだった。

「あ、ごめんなさい。明徳ってこの駅でしたね」

 奈緒は慌てたように僕の腕と手から自分の両手を離した。彼女の手の感触が失われると何だかすごく寂しい気がした。

「ここでお別れですね」

「うん・・・・・・明日は時間どうしようか」

「あたしは奈緒人さんに合わせますけど」

「じゃあ今日より三十分くらい遅い時間でいい?」

「はい。また明日あそこで待ってます」

 ここで降りるなら、もう乗り込んできている乗客をかき分けないと、降車に間に合わないタイミングだった。

 僕は彼女に別れを告げて、乗り込んできている人たちにすいませんと声をかけながら、何とかのホームに降り立つことができた。

 

「何の話してるの?」

 昼休みの学食のテーブルで僕と渋沢が昼食を取っていると、志村さんが渋沢の隣に腰掛けた。

「おお、遅かったな。いやさ、奈緒人にもついに彼女ができたって話をさ」

「うそ!」

 志村さんは彼の話を遮って目を輝かせて叫んだ。

「マジで? ねえマジ?」

「おう。マジだぞ。しかも富士峰の高校二年の子だってさ」

「え~。富士峰ってお嬢様学校じゃん。いったいどこで知り合ったの?」

 以前の僕なら、一度は本気で惚れて告白しそして振られた女さんのその言葉に傷付いていたかもしれなかったけど、実際にこういう場面に出くわしてみると、不思議なほど動揺を感じなかった。

「通学途中で偶然出会って一目ぼれされた挙句、メアドを聞かれて次の日メールで告られたんだと」

 渋沢が少しからかうように彼女に説明した。

 確かに事実だけを並べるとそのとおりだけど、何だか薄っぺらい感じがする。でもそれが志村さんにどういう印象を与えたとしても、今の僕にはさほど気にならなかった。

奈緒人君にもついに春が来たか。その子との付き合いに悩んだらお姉さんに相談しなよ」

 志村さんが笑って言った。

「誰がお姉さんだよ」

 僕も気軽に返事をすることができた。

奈緒人さあ。今度その子紹介しろよ。ダブルデートしようぜ」

「ああ、いいね。最近、明と二人で出かけるも飽きちゃったしね」

 志村さんも渋沢の提案に乗り気なようだった。

「おい。飽きたは言い過ぎじゃねえの」

 渋沢が言ったけど、その口調は決して不快そうなものではなかった。

「そうだよ。四人で遊びに行こうぜ。昨日イケヤマと彼女が別れちゃってさ。それまでは結構四人で遊びに行ったりしてたんだけどな」

「イケヤマって君の中学時代の友だちだっけ?」

「おう。何か年下の高校生の子と付き合ってたんだけど、昨日いきなり振られたんだって」

「イケヤマ君、あの子と別れちゃったの?」

 志村さんが驚いたようだった。

「昨日イケヤマからメールが来てさ。振られたって言ってた」

「ふ~ん。でもイケヤマ君の彼女って、結構遊んでいるみたいなケバイ子だったし、他に好きな子ができたのかもね」

「まあそうなんだけどさ。イケヤマって遊んでいるように見えて意外と真面目だからさ。彼女に突然振られて悩んでるみたいでな。ちょっと心配なんだ」

「イケヤマ君の彼女って明日香ちゃんって言ったっけ?」

「そうだよ。ていうか名前も覚えてねえのかよ。結城明日香だって・・・・・・ってあれ?」

 渋沢はそこで何か気づいたようで、少し戸惑った表情を見せた。

奈緒人の高二の妹ってアスカちゃんって名前だったよな?」

「え? 結城って、まさか・・・・・・」

「そのイケヤマってやつ、髪が金髪だったりする?」

 僕は聞いてみたけど、どうもこれは妹で間違いないようだった。でもどうしてあいつは突然彼氏と別れたのだろう。

 渋沢はイケヤマとかいう妹の彼氏のことを結構真面目な奴と言っていたけど、僕にはそうは見えなかった。むしろ先々を考えず、刹那的に遊び呆けているどうしようもないやつにしか見えなかった。きっと妹の飲酒だってそいつの影響に違いない。

「多分それ、うちの妹の明日香のことだ」

 僕は淡々と言った。

「何か・・・・・・悪かったな、奈緒人」

奈緒人君ごめん。あたし妹さんのこと、結構遊んでいるみたいなケバイ子とか、酷いこと言っちゃった」

 志村さんは僕に謝ってくれたけど、別に彼女は間違ったことは言っていない。

「いや。志村さんの言ってることは別に間違ってないよ」

 僕は彼女に微笑みかけた。

「本当に妹の生活ってすごく乱れてるんだ。妹は僕の一番の悩みの種だよ」

「でも・・・・・・」

 志村さんは相変わらず、申し分けそうな表情で俯いていた。

 放課後になって、僕がサークル棟に行く渋沢と別れて校門を出ようとしたとき、そこにたたずんでいる志村さんに気がついた。

「誰かと待ち合わせ?」

 僕は彼女に話しかけた。

「渋沢はサークルだよね?」

「・・・・・・そうじゃないの。もう一度ちゃんと奈緒人君に謝っておこうと思って」

「あのさあ・・・・・・」

「うん」

「僕は全然気にしてないって。それにさっきだって言ったでしょ? 君の言ったことは本当のことだよ」

 彼女は俯いていた顔を上げた。

「それでも。誰かに家族のことを変な風に言われたら嫌な気分になるでしょ? あたしだって自分の兄貴のことをあんなふうに馬鹿にした言い方されたら嫌だもん。だから・・・・・・ごめんなさい。君の妹とは知らなかったけど、明日香ちゃんのこと酷い言い方しちゃっててごめん」

 明日香のことをビッチ呼ばわりされた僕だったけど、正直に言うとあの時はそのことについてそんなに不快感を感じなかった。

 志村さんに言われるまでもなく、かなり控え目に言っても、実際の妹はビッチというほかにないような女だと僕は思っていた。

 それでもあいつは僕の家族だった。志村さんが、他人の家族のことを悪く言ったことを思い悩む気持ちもよくわかった。

 渋沢たちはああいう風に言ったけど、妹がビッチと呼ばれても仕方がないことは事実だった。僕だって妹のビッチな行動の直接的な被害者だったのだ。

 それでもやはり、家族というのは特別なのかもしれない。それが全く血がつながっていない義理の妹であっても。

 今までだって本当は、誰かの口から妹の悪口を聞くと、僕はすごく落ち着かない、いたたまれないような気分になったものだ。指摘されていることは、普段から僕が思っていた感想と全く同じものだったとしても。

「もういいって」

 それでも僕は志村さんに微笑んだ。

「本当に気にしてないよ」

「ごめん」

「途中まで一緒に帰る?」

「いいの?」

「渋沢が嫉妬しないならね」

「それはないって」

 不器用な僕の冗談にようやく志村さんは笑ってくれた。

「でも何で妹はそのイケヤマってやつと別れたのかなあ」

 ようやく僕はそっちの方が気になってきた。

「遊び人同士うまく行ってそうなものだけど」

 志村さんは少しためらった。でも結局僕にイケヤマと妹の印象を話してくれた。

「あたしも何度か四人でカラオケ行ったりゲーセンに行ったくらいなんだけど、さっき明が言ってたのは嘘じゃないよ。イケヤマ君って見かけは酷いけど中身は結構常識的な男の子だった」

 その真偽は僕にはわからないけど、一度外で妹と妹の彼氏を見かけたことがある僕としては、素直には信じられない話だった。

「それでね・・・・・・ああ、だめだ。また奈緒人君の妹さんの悪口になっちゃうかも」

 僕は笑った。

「だから気にしなくていいって」

「うん。明日香ちゃんって別にイケヤマ君じゃなくても誰でもいい感じだった。妹さんって、別に本気で彼氏なんか欲しくないんじゃないかな」

「まあ、そういうこともあるかもね。背伸びしたい年頃っていうか、自分にだけ彼氏がいないのが嫌っていうことかもね」

「それとはちょっと違うかも。何て言うのかなあ、彼氏を作って遊びまくって何か嫌なことから逃げてる感じ?」

「そうなの?」

 そうだとしたら妹はいったい何から逃げていたのだろう? 再婚家庭の中で唯一気に入らない僕からか。

「まあ、あんまりマジに受け取らないで。実際に明日香さんと会ったのって、そんなに多くはないし、それほど親しくなったわけでもないから」

「うん」

「そんなことよりさ」

 ようやく元気を取り戻した志村さんが、突然からかうような笑みを浮べた。

「富士峰の彼女ってどんな子?」

「どんな子って」

「どういう感じの子かって聞いてるの。大分年下だけどどういうところが好きになったの?」

 僕が奈緒にマジぼれしていなければ、それはトラウマ物のセリフじゃんか。僕は志村さんに振られたことがあるのだし。

 でもこの時の僕は彼女のからかいには動じなかった。多分それだけナオに惹かれていたからだったろう。

 志村さんと別れて帰宅し自分の部屋に戻る前にリビングのドアを開けると、妹がソファに座ってテレビを見ていた。

 僕に気がついた妹は僕の方を見た。

 どうせ無視されるか嫌がらせの言葉をかけられるのだろう。僕はそう思った。

 昨日のこいつの醜態に文句を言いたいけど、そんなことをしたって泥仕合になるだけだ。そのことを僕は長年のこいつとの付き合いで学んでいた。

「お兄ちゃん、お帰りなさい」

 妹が言った。

 え? 何だこの普通の兄妹の間のあいさつは。無視するか悪態をつくかが今までの妹のデフォだったのに。

 そのとき僕は奇妙な違和感を感じた。そしてその違和感の原因はすぐにわかった。

 どうしたことか、妹の濃い目の茶髪が黒髪に変わっているのだった。そして帰宅したばかりなのか、いつものスウェットの上下に着替える前の妹の服装は、いつもの派手目なものではなかった。

 平日に制服ではなく私服を着ていること自体も問題だと思うけど、そのことを考えるよりも僕は今は妹が着ている服装から目が離せなかった。

 どういうことなんだろう?

 妹は薄いブルーのワンピースの上に、ピンクっぽいフェミニンなカーデガンを羽織っていた。

 僕は奈緒の制服姿しか見たことがなかったけど、きっと清純な彼女ならこういう服装だろうなって妄想していたそのままの姿で、妹がソファに座っていたのだ。

「どしたの? お兄ちゃん。あたしの格好そんなに変かな?」

 僕はやっと我に帰った。

「いや変って言うか、何でおまえがそんな格好してるんだよ?」

「そんな格好って何よ。失礼だなあお兄ちゃんは」

 妹は落ち着いてそう言って、ソファから立ち上がるなりくるっと一回転して見せた。

「そんなに似合わない? お兄ちゃんにそんな目で見られちゃうとあたし傷ついちゃうなあ」

「いや、似合ってる・・・・・・と思うけどさ。それよりその髪はどうした? 何で色が変わってるんだよ」

「何でって、美容院で黒く染め直しただけだし」

 僕は妹の姿を改めて真面目に見た。

 その姿は正直に言うと心を奪われそうなほど可愛らしかった。その外見が内面と一致しているようなら、僕は自分の妹に恋をしていたかもしれない。

 でもそうじゃない。僕は昨日の妹の醜態を思い出した。こいつが珍しくワンピースを着ていることなんかどうでもいいんだ。

 僕は昨日のこいつの酔った醜態のことで文句でも言おうと思ったのだけど、こいつだって彼氏と別れたばかりだったことを思い出した。

 昨日や一昨日のこいつの嫌がらせのことは少し忘れよう。

「おまえさ、何かあったの?」

 妹は僕を見て笑った。そしてどういうわけか、その笑いにはいつものような憎しみの混じった嘲笑は混じっていないようだった。

「何にもないよ。お兄ちゃん、今日は何か変だよ」

 変なのはおまえだ。僕は心の中で妹に言った。それにしても妹の黒髪ワンピ、そしてお兄ちゃん呼称の威力は凄まじかった。これまでが酷すぎたせいかもしれないけど。

 それからしばらく、僕は呆然として清楚な美少女のような妹、明日香の姿を見つめ続けていた。

「お兄ちゃん?」

 明日香がそう言って僕の隣に寄り添った。

「何だよ」

 僕は無愛想に言って、近寄ってくる妹から体を離そうとした。ただ僕の視線の方は、突然清楚な美少女に変身した妹の容姿に釘付けになっていた。

「お兄ちゃん・・・・・・何であたしから逃げるのよ」

「何でって・・・・・・。おまえこそ何でくっついて来るんだよ」

「ふふ」

 妹が笑みを浮べた。それは複雑な微笑みだった。僕にはその意味がまるで理解できなかった。

「何でだと思う? お兄ちゃん」

 そう言って妹は僕の腕を引っ張った。いきなりだったために僕は抵抗できず、妹に引き摺られるままソファに座り込んだ、妹が僕に密着するように隣に座った。

「いや、マジでわかんないから。僕は自分の部屋に行くからおまえももう僕から離れろよ」

「そんなに慌てなくてもいいでしょ。あたしが近くにいると意識してドキドキしちゃうの?」

「そうじゃないって。つうかいつも僕に突っかかるくせに、何で今日はそんなに僕にくっつくんだよ」

 その時妹の細い両腕が僕の首に巻きついた。

「何でだと思う? お兄ちゃん」

 再び妹がさっきと同じ言葉を口にした。

 僕は妹の体を自分から引き離そうとしたけど、妹は僕に抱きついたままだった。

「何でだと思う?」

 妹は繰り返した。

「そう言えば、この間お兄ちゃんと一緒にいた子って高校生でしょ? 何年生?」

 僕は明日香の突然の抱擁から逃れようともがいたけど、彼女の腕は僕の首にしっかりと巻きついていて簡単には解けそうになかった。

「二年だけど」

 仕方なく僕は妹に答えた。本当にいったい何なのだろう。

「お兄ちゃん・・・・・・本当にあの子と付き合ってるの? あの子何って名前?」

「・・・・・・おまえには関係ないだろ」

「いいから教えて。教えてくれるまでお兄ちゃんから離れないからね」

 ここまで来たら全て妹に明かすしかなさそうだ。妹を振り放すには今はそれしか手がなかった。

「付き合ってるよ。つうか今日から付き合い出した」

「え? じゃあ相合傘してたのとか昨日待ち合わせしてたのは?」

「あの時はまだ付き合い出す前だよ」

「いったい、いつ知り合ったのよ」

「だから傘に入れてあげた時からだけど」

「じゃあ知り合ったばっかじゃん。お兄ちゃんってヘタレだと思ってけどそんなに手が早かったのか」

 それには答える必要はないと僕は思った。

「で、あの子の名前は?」

「鈴木奈緒

「ふーん。で、その奈緒って子のこと好きなの?」

「・・・・・・好きじゃなきゃ付き合うわけないだろ」

 妹は僕に抱きついていた手を放して俯いた。僕はほっとして自分の部屋に戻ろうとした。その時ふと覗き込んだ妹の目に涙が浮かんでいることに気がついた。

 立ち上がりかけていた僕は、再びソファに腰を下ろした。

「泣いてるの? おまえ」

「・・・・・・泣いてない」

 僕は最初、明日香が僕に彼女ができて寂しくて泣いているんじゃないかと考えた。

 でもそんなはずはなかった。長年、明日香は僕のことを嫌ってきた。しかも嫌って無視するだけでななく、直接的な嫌がらせまでされてきたのだ。それほどに憎悪の対象である僕に彼女ができたからといって、寂しがったり嫉妬したりするはずはないのだ。

 その時、ようやく僕は思いついた。

 妹にとって彼氏と別れたのはかなりの衝撃だったのではないか。

 渋沢の話では妹の方からイケヤマとか言う彼氏を振ったということだったけど、妹にはそいつを振らざるを得ないような事情があったのだろう。

 渋沢と志村さんは、イケヤマのことを外見と違って真面目な奴だと考えているようだったけど、一度見かけたそいつの様子からは、真面目なんて言葉はそいつには似合わないとしか言いようがなかった。

 そうだ。妹はイケヤマの何らかの行為、それもおそらく粗野な態度に嫌気が差してそいつのことを振ったのだろう。それでもそれは、心底そいつを嫌いになっての別れではなかったのかもしれない。

 だからこいつも今は辛いのだ。

「おまえ無理するなよ」

 今度は僕の方から妹の肩を抱き寄せた。こんな行為を妹にするのは生まれて初めてだった。でも、どんなに仲の悪い兄妹だとしても、妹が悩み傷付いているならそれを慰めるのが兄貴の役割だろう。

 自分だけ部屋にこもって、奈緒のことを思い浮かべて幸福感に浸っているわけにもいかないのだ。

 突然、僕に肩を抱き寄せられた妹は、一瞬驚いたように凍りついた。それからどういうわけか妹の顔は真っ赤に染まった。僕は妹の肩を抱いたままで話を続けた。

「彼氏と別れたんだろ? それで辛くて悩んで、気分転換に髪を黒くしたり服を変えたんだろ?」

 僕は話しながら妹の顔を覗き込んだ。そのときは自分では、親身になって妹の相談に乗ろうとしているいい兄貴のつもりになっていた。

「悩んでいるなら聞いてやるから、ふざけてないでちゃんと話せよ。おまえが僕のことを嫌っているのは知ってるけど、こんな辛い時くらいは僕を頼ったっていいじゃないか」

 妹は僕の言葉を聞くと突然僕の手を振り払って、自分の体を僕から引き剥がした。

 妹はもはや照れたような紅潮した表情ではなかった。そしてその清楚な格好には似合わない怒ったような表情で言った。

「あんた、バカ?」

「え?」

「あんたが珍しくあたしを抱いてくれるから期待しちゃったのに、あんたが考えてたのはそっちかよ」

 妹の話し方には、今まで取り繕っていた仮面が剥がれて地が表れていた。

 僕はそのとき、いつものように罵詈雑言を浴びせられることを覚悟した。結局いつもと同じ夜になるのだろうか。

 でも妹は気を取り直したようだった。喋り方もさっきまでの普通の妹のようなものに戻っている。

「まあお兄ちゃんなんかに最初からあんまり期待していなかったからいいか」

 突然機嫌を直したように妹は笑顔になった。

「まあそんな勘違いでも、一応あたしのことを慰めようとしてくれたんだもんね。ありがとお兄ちゃん」

「いや。でも彼氏と別れたのが原因じゃないなら、いったい何で髪の色とかファッションとか今までがらりと変えたんだよ」

奈緒って子を見てこの方がお兄ちゃんの好みだとわかったから」

 明日香は僕の方を見つめて真面目な顔で答えた。

「明日からはもうギャルっぽい格好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっとこの路線で行くから」

 妹は照れもせずに平然とそう言い放った。

 僕のため? 僕は僕のことを大嫌いなはずの妹の顔を呆然として眺めた。

 

 自分の部屋でベッドに入ってからも、僕は妹の言葉が気になって眠ることができなかった。付き合い出した初日だし、奈緒のこと以外は頭に浮かばないのが普通だろうけれども。

 でもこの瞬間にベッドの中で僕の脳裏に思い浮ぶのは妹の言葉だった。

 明日香は僕と奈緒が一緒にいるところを目撃し、奈緒が僕の好きな人だということを知った。そして彼氏と別れた。その後、美容院に行って髪を黒く染め、服装も大人し目で清楚っぽい服に着替えた。

 思い出してみれば、明日香の爪もいつもの原色とかラメとかの派手なマニュキアではなく、普通に何も手を加えられていないほんのりとした桜色のままだった。

 その全ては僕の好みに合わせたのだと明日香は言った。

 いったいそれは何を意味しているのか。

 本当は明日香は昔から僕のことを好きだったのだろうか。

 彼女の言動からは、さすがにそれ以外の回答は導き出すことはできなかった。

 少なくとも明日香の変化に対して唯一僕が思いついた理由、つまり彼氏と別れたから妹はイメチェンをしたのだということは、明日香に一瞬で否定されてしまったのだし。

 今さらながら気になるのは、何で妹が彼氏を振ったのかということだった。もちろん彼氏のどこかが許せなくて別れたということなのだろうけど。

 それにしても明日香が僕のことを好きなのかもしれないという前提でそれを考えると、僕が奈緒に出会ったことを知ってすぐに彼氏を振った妹の行動には、僕のことが気になるからということ以外の理由は考えづらかった。

 僕と奈緒のことを気にして自分もフリーになったということか。

 そうなると、もうこいつが僕のことを好きななのではないかということ以外に僕には思いつくことはなかった。

 血がつながっていないと言っても、明日香は妹なのだ。好きになられてもその先はないじゃないか。

 いや、それ以前に僕が好きなのは付き合い始めてばかりの奈緒なのだ。

 

 翌朝、登校の支度を済ませて僕が階下に下りていくと、珍しく父さんと母さん、それに明日香までが、既にキッチンのテーブルについて朝食を取っていた。

 昨日、僕が眠ってしまった後の遅い時間に両親は帰宅したのだろう。この様子だと両親はあまり眠れなかったではないかと僕は二人を見て思った。

「おはよう奈緒人」

「おはよう奈緒人君、何か久しぶりね」

 両親が同時に僕に微笑んで挨拶してくれた。久しぶりに両親に会って笑って声をかけてくれるのは嬉しいのだけど、こういう時いつも僕は明日香の反応が気になった。

 父さんはともかく、母さんは常に僕に優しかった。母さんが自分の本当の母親ではないと知らされたとき、僕は母さんが途中で自分の息子になった僕に気を遣って優しく振る舞っているのだろうと、ひねくれたことを考えたこともあった。

 でもそういう偽りならどこかでぼろが出ていただろう。それに気に入らない義理の息子に気を遣っているにしては、母さんの笑顔はあまりに自然だった。

 それでいつの間にか僕はそういうひねくれた感情を捨てて、素直に母さんと笑顔で話ができるようになったのだった。今の僕は父さんと同じくらい母さんのことを信頼している。

 ただ唯一の問題は妹の明日香だった。

 無理もないけど、明日香は自分の母親を僕に取られたように感じていたらしい。僕が母さんが義理の母親だと知ってからも、母さんを信頼し、むしろ前よりも母さんと仲良くなったあたりから、明日香は僕のことをひどく嫌って、反抗的になった。

 挙句に服装が派手になり、髪を染めて遊び歩くようになったのだった。僕とは違う自分を演出するつもりだったのだろうけど、もちろん母さんと明日香の関係においてもそれは良い影響なんて何も及ぼさなかった。

 やがて母さんは明日香の生活態度をきつく注意するようになった。母さんに「何でお兄ちゃんはちゃんと出来てるのにあんたはできないの」と言われた後の明日香の切れっぷりは凄まじかった。

 その頃の明日香は、やり場のない怒りを全て僕に向けたのだった。

 こういう両親と過ごす朝のひと時は、妹さえいなければ僕の大切な時間だったのだけど、両親の僕に向けた柔らかな態度に明日香はまた一悶着起こすのだろうと僕は覚悟してテーブルについた。

「おはよう」

 僕は誰にともなく言った。明日香がそう思うなら、自分に向けられた挨拶だと思ってくれてもよかった。

「おはよお兄ちゃん」

 明日香が柔らかい声で言った。

「今日は早く出かけなくていいの?」

 え? 一は自分の耳を疑った。

 朝、こいつから普通に挨拶されたのは初めてかもしれない。僕は一瞬言葉に詰まった。それでも僕はようやく平静に返事をすることができた。

「うん。別に早く出かける用事はないし」

「ないって・・・・・・待ち合わせはいいの?」

 そういえば明日香は、僕と奈緒が待ち合わせの時間を変更したことを知らないのだった。

 きっといつもと同じ時間に待ち合わせするものだと思っているのだろう。でも何で明日香が僕と奈緒の待ち合わせの時間を心配するのだろう。

 一瞬、僕の脳裏に昨日の明日香の言葉が思い浮んだ。

「明日からはもうギャルっぽい格好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっとこの路線で行くから」

 その言葉を思い浮かべながら改めて妹を眺めると、昨日の今日だから髪がまだ黒いのは当然として、中学校の制服まで心なしか大人しく着こなしているように見えた。とりあえずスカート丈はいつもより大分長い。

「別に・・・・・・それよりおまえ、その格好」

「昨日言ったでしょ? お兄ちゃんがこっちの方がいいみたいだから、これからは大人しい格好するって」

 明日香は両親の前で堂々と言い放った。

 僕が妹に返事をするより先に母さんが妹に嬉しそうに話しかけた。

「あら。明日香、今朝はずいぶんお兄ちゃんと仲良しなのね」

「そうかな」

 照れもせずに明日香が冷静に答えた。

「そうよ。いつもは喧嘩ばかりしてるのに。それに明日香、今日のあなたすごく可愛いよ。いつもより全然いい」

「そう?」

 明日香はここで初めて少し顔を赤くした。

「お兄ちゃんはどう思う?」

 とりあえず、僕は口に入っていたトーストをコーヒーで流し込みながら思った。明日香が僕のことを好きなのかどうかはともかく、彼女のこの変化は良いことだと。

「うん、似合ってる。と言うか前の格好はおまえに全然似合ってなかった」

 言ってしまってから気がついたけど、これは明らかに失言だった。似合っているで止めておけばよかった。

 何も前のこいつのファッションまで貶すことはなかった。僕は今度こそ妹の怒りを覚悟した。

 でも、明日香は赤くなって俯いて「ありがとう、お兄ちゃん」と言っただけだった。

「本当に仲良しになったのね。あなたたち」

 母さんが僕たちを見て再び微笑んだ。